2012年01月28日

南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた? 仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された)

 
南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた?
 
仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された
 

  鯨引き
<由来・沿革>
  烏崎の津神社の丑(うし)年4月第1日曜日の浜下りには、2つの山車(だし)が伴います。1つは小舟の上に張り子の鯨を乗せたもの、もう1つは直径1.5m程のやはり張り子の蕪(かぶ)で、いずれもリヤカーなどに乗せます。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/bunkazai/minzokugeinou.jsp

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鯨の碑があったのはこの神社の裏だった?津神社とは津波と関係している。松川浦の津(つのみや)神社もそうである。そこは高台にありそこに逃げて助かった人がいた。でもそれが津波を記念して建てられたものと明確に自覚して伝えられたとも思えない。烏崎の津神社も松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。400年前の慶長津波は今回の津波とにて大きなものだった。相馬藩政記に700人死んだと記録されている。当時にしたら700人は多い。でも記述はそれだけなので記録としては余りにもインパクトがなさすぎたのである。慶長津波から一か月して相馬市に小高にあった城を移した。それは津波の被害の復興のための事業としても同時に行われたと津波の経験で推測している。
そもそもいつ神社が祭られたのかわかりにくい、津神社あるところは港に近く家が密集していた所とは違っている。ただこの津神社は松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。なぜ鯨引きとかの
祭りが行われているのか?鯨の碑や金比羅の碑があるが明治に建てられたものである。江戸時代からあったものではない、でも津神社自体は慶長津波の後に建てられたとすると古い。それでもそうした大きな津波の後に人が住むのかという疑問がある。


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


名取りの方に慶長津波の後に開拓に入った相馬藩の侍がいたということはその被害があったからこそ開拓に入った。人手が必要としたから開拓に入った。とすると烏崎辺りも漁業というより開拓して米を作り住むことだった。仙台辺りまでの海岸は漁業はそんなに盛んではない、むしろ津波の後にも開拓する人が必要だったように稲作をすることが第一と考えられていたのだ。だから烏崎でも大内村との間に袋村があり田を作るために開拓して海岸線に住むようになった。それは慶長津波の後である。烏崎の町のあった近くに水葵が咲きだしたのもそのためである。この花は水田に咲くからである。表土が流されて咲きだしたという不思議がある。


津波の被害があってもその頃は稲作中心の社会だったのでやめるわけにはいかなかった。だから津波の後にもかえって人手が必要となり名取とかで開拓したのである。だから烏崎も津波の後でも開拓して水田を作ることが優先された。それが今の常識とは違っていた。たとえ大きな被害があっても米を作らねば食べていけないからそうなった。
江戸で消費される米の三分の一を仙台藩がまかなっていた。その米は石巻港から運ばれていた。この米の量は多い。仙台藩にとって米は輸出品でありどうしても生産を止めることができないし増量することが強いられていたのである。

一方今回の津波の被害は現代的なものだった。
仙台でも名取でも山元町でも住宅地が被害にあった。仙台の若林区とかは仙台市街から住宅地を求めて住んだ人なのである。新興の住宅地でありそこは別に米をとるために開拓するようなものとは違っていた。山元町の被害も大きかったのは新興の住宅地として海側に開発された地帯だったからである。山元町だけで700人が死んだのは多すぎるからだ。そして20年前に学者が津波が前にもここには来ているから住宅地にするのは危険だと警告していた。最近を地下の土壌検査で津波がかなり奥まで来ていたことが実証されていたのである。その貞観津波のことで東電にも福島原発が危険だと警告していた。確かにこれは最近わかったことでもやはり科学的に実証されたということが信憑性が高いものとなっていたのだ。しかし警告した学者は住宅を開発する人々により脅迫電話とか受けてその後はあまり言えなくなったという。

20年前にそういう事実があった。これも原発事故とにている。人々は高度成長時代にただひたすらた利益を求めて突っ走っていった。福島の原発でもコストカッタ-と異名をとった社長がいたのと同じである。ただひたすら利益だけを求めなりふりかまわない、それに歯止めをかけるようなことを言わせないという全体の雰囲気があった、空気があったのだ。原発でも地元でもそうである。利益があればいい、危険のことなどあとまわしにされた。だから天罰だったということも原発と同じ様に津波の被害にあった仙台から名取などの海岸地帯の人にも言われる。


『仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う』(1995年。絶版)という著書を出し、地震による大津波に警鐘を鳴らし、対策を構築するよう提案してきた在野の歴史研究者がいます


これも15年前であり警告する人がいた。ただ相馬の浜通り辺りでは津波の伝説すら聞いたことがない、そういうのも残っていなかった。貞観津波が相馬の奥まで来ていたということは学者によって地下の土を検査して実証されていた。でもそのことを真剣に考える人はいなかった。ただあれだけ海の近くに住んでいると不安になる。津波が来たらどうなるんだろうとか常識的に心配になる。ただ400年も津波がこの辺では来ないから安心していた。やはり400年という歳月が津波の被害を全く風化させて忘却させられたのである。自分は。海から離れた町に住んでいるから直接的恐怖は感じないにしろ小学校辺りまで津波でないにしろ夢で波にのまれる夢を何度も見た。あの前に家は少なく見通しがよく海に通じていたからである。その小学校の前まで津波が来たことに驚いた。夢が事実になった。夢も何かを語っているのだ。ともかく松川浦でも烏崎でも津神社があり津波を記念して神社が建てられたとしたらそのことをもっと語られていれば警告にはなっていた。でも実際は神社というのは何のいわれなのかいつ建てられたのかわからないのが多いのである。400年も過ぎると謂われさえ不明になる。


津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)
http://musubu2.sblo.jp/article/48005137.html

津波で消失した風景の不思議 (北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)



津波で消失した風景の不思議

(北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)

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流された家を配置 クリック拡大!
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クリック拡大!

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磯部の船溜-バス停には船溜とあった


蔵二つ津波に残り冬の暮


御堂一つ部落に残り冬の暮


津波跡残れる樹々や山脈を望めば雪に北風鳴りぬ


思ほえず死にしものかな庭の石残りて一つ寒さ身にしむ



あの辺は家は少ないけどまばらにあった。公会堂もあり一つの集落ではあった。でも残ったのが蔵と御堂だった。家も残っていたがコンクリ-トの家をのぞいて壊したのだろう。蔵はそっくり残っていた。やはり蔵は頑丈なのか?火事でも蔵は残る。防火用として蔵は建てられた。ただ蔵でも蔵のあった家は流された。多少海に近い方だったからか、あの蔵は頑丈でない蔵だった。写真が残っていたので元あった所に写真を配置した。実際は道に沿ってあった。それにしても残った二つの樹がまるで門のようであり御堂が残っている風景も不思議である。今日は部落の人がみんなでかたずけをしていた。まだまだかたずけるものがあるのだ。土に埋もれているからだ。それにしても御堂が残ったりしたけどあそこの集落は前のように復興できるのだろうか?もともと家が少ないからどうなるのか、何か残された風景を見ると不思議である。蔵が残り御堂が残り樹が残った。何か集落の骨格だけが残ったような不思議さがある。烏崎村では大きな庭の巨岩が一つ残った。あれも不思議な光景である。

今年は寒い、その寒さが荒寥とした風景の中で身に沁みる。人間も相当数死んでいるから余計に荒寥としているのだ。

松川浦の磯部の方の船溜も壊滅した。写真は鮮明ではないがあの辺の家は全滅して一軒も残っていない。土台しか残っていない、磯部は一番悲惨だった。写真は鮮明ではないが貴重になった。磯部には家が多かった。その家が跡形もなく土台だけを残して壊滅したのである。松川浦の原釜とか旅館のあるところはまだ家が残っているが磯部は一軒も残らないから悲惨だった

津波で残った烏崎の庭の大石
http://musubu2.sblo.jp/article/50543018.html


1月27日


津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)

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車輪梅で有名だった海老と右田の松原
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岩沼の海岸から仙台の方を望む
この辺は松原がつづいていた

これは2010年にとっていた写真である。時系列に並べて調べてみたらでてきた。津波で失われた風景はかなりある。警戒区域で立ち入れできない所の風景も今は見れない、原発事故でも風景自体が失ったわけではないから高瀬川渓谷などは別に警戒区域が解除されれば見れる、放射能を度外視すれば風景自体が失われてはいない、津波では風景自体が失われた。陸前高田市では7万本の松が流され一本残った松もかれてゆく、この辺ではまだ多少松は残っている。それでも右田の松原とか松原自体はどこもなくなり景観は失われたしもはやもどってこない、松原がなくなると思っていなかったから写真もとっていなかった。ただこの時松原に雪がふりその雪景色がめずらしいので写真にとっていたのである。


海老浜の車輪梅は南限の生息地として有名だった。海老村はほぼ壊滅したし防波堤も破壊された。
烏崎村も壊滅した。残ったのは庭の大きな岩だけだった。その破壊の跡はあまりにもすさまじい。
阿武隈川を下り仙台の方に行ったところの松原もなくなったろう。亘理でも岩沼辺りでも破壊がすさまじかった。あの松原から雪の蔵王が見えた。あの松原もなくなった。岩手県までの海岸沿いの風景はかなりの部分喪失した。特に松の破壊はすさまじかった。ただ記録として貴重となったのでここにのせておく。他にもまだあったので探してだしておこう。

posted by 老鶯 at 12:43| Com

 
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