2012年01月24日

雪かき(ブリ大根を食べた)


雪かき(ブリ大根を食べた)

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朝の風竹にさやぎて雪野かな

長生きやぶり大根の味を知る


会津にて雪かきするや老いにしも人の運命(さだめ)を誰かしるらむ


ここは雪野とまではなっていない、雪はきけたが山蔭には雪が残っていた。雪かきなどこの辺では何回かするくらいでほとんどしない、会津では仮設住宅で浜通りの人が雪かきしていた。あの姿を見ていると不思議である。外から見ていても不思議なのだから本人はそれ以上になぜこうなったのかと思っているだろう。人間の運命は一体誰が作るのだろうか?そのことが本当に不思議である。人間の運命は死ぬまでわからない、90以上でもこのような運命の変化にさらされることがありうる。


原町の高見食堂のランチでブリ大根を食べた。旬のものでうまかった。冬らしい味であった。ブリというと日本海であり冬になればブリを食べブリ大根も食べる。郷土料理はほとんど食べていない、食堂で郷土料理を出しているところはめずらしいから食べてみた。やはり季節感があってうまかった。この辺では魚がとれなくなったので淋しい。魚はとれていたのだからそれなりに魚の郷土料理もあったのだろう。ブリ大根はまた食べてみたい、日本ではやはり旬なものが何でもうまいのだ。

料理はめんどうだからしていない、食堂でうまいものを食べる他ない、料理は手間がかかりすぎるのだ。

まあ、長生きすれば人間は今まで知らないことを知り知らない味わいを知ることになる。そういう喜びがある。どれだけいろいろなものを食べるようになったか?それだけは昔とは違っているし大正生まれの人でも遊ぶことには金を使わなかったが食べることだけはぜいたくだった。でも病気になり年取ると食欲がなくなるから味もなくなる。この点東京だと郷土料理店など金を出せばいくらでもあるだろう。食のぜいたくは限りなくできる、外国の料理も東京ならいくらでも食べられるからいい。
ただ金のない奴はそれできないから東京にいてもつまらないのである。

 


 

途中下車の旅(会津の塔寺駅)


途中下車の旅(会津の塔寺駅)

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千手観音が守っているのは子供だったのだろうか?
確かに下に子供の観音が見える。
ここは気づかない人がいるだろう。



 秋の塔寺駅



塔寺に下りたちあわれ秋の暮

午後の日さして家の前の筵に座り

豆叩く人に道を聞く

一木造り千手観音も古りにしや

子供を守る観音にもありしや

柳津の道ここより通じぬ

その道標も残りけるかな

一時おりたつ塔寺の駅




電車の旅は長い。旅に費やされた人生だった。北海道でも他でも無人駅におりて夏だったら一日寝ていたりぶらりとおりてぶらぶら歩く。そういう旅が旅なのだ。現代では旅することは相当にぜいたくである。時間をかけられないから旅になっていないのだ。それにしても北海道辺りでのんびりといつ来るかわからない電車を待っていた。その電車を待つことが人生だった?ふりかえるとそういうこともありうる。人生にはいろいろある。そんな人生は無駄だと言えば無駄だった。それでも無駄な人生は山ほどあるのではないか?戦争自体無駄だったと言えば無駄になってしまう。それで四百万死んだとなれば誰も無駄だといえないだけである。カルト宗教団体で一生終わる人もいるしパチンコや賭博で一生終わる人もいる。現実そういう人が近くにいて妻が世話しているからそれも恵まれている。もう75になってもそうである。

ともかく人間はいろいろなのである。一般的には会社勤めしてそれが一生になっている。それがすべて有益かとなるとそうともいえない。有益だとか価値あるだとかはなかなか決められない、高度成長時代そんなに働いていいのかという疑問もあったのだ。エコノミックアニマルと世界から言われた時代がなつかしいという時代にさえなった。高度成長時代は終わり斜陽国家となる良く言えば成熟社会になる。成熟社会には若い人より老人が向いている。老人の知恵や経験が生きる社会なのだが一面技術的な面では老人は今や役に立たないとか社会で活かされない無用化してくるから活かせる場がないということで成熟社会になっても老人が活かされないというミスマッチの社会である。でも高齢化社会というのは六十代でも六十代以上の人を相手とする客とする商売がふえる。コンビニでも六十代くらいの人が働いていたけど話ができた。若い人とは話しにくくても同世代だと社交的でなくても話ししやすいことがあるのだ。だから客商売は六十代くらいの働く人が必要になる。ただきつい肉体労働はできない、介護でも話し相手になるとかは向いているのだ。


途中下車してしいい場所とそうでない場所がある。現代はロ-カル線では途中下車しにくい。一旦途中下車したらあとあと半日電車が来ないとか帰れないとかの恐怖がある。二時間おきくらいに電車出ていれば大丈夫だがそうでない地方の路線もある。そうするとどうしても不安になるからだ。その点今は電車で自由な旅がしにくいとなる。車の時代だからそうなってしまった。旅が成功したかどうかはあとでわかる。旅がもし回想して蘇ったら活きた旅をしていたのである。旅でも全く忘れてしまうことが多すぎるのだ。記録に残らない旅は失敗した旅である。そもそも記憶にないということは人間何も存在しないと同じになるのだ。何らかの記憶があって過去をたどることができる。歴史でも何ら記憶になるものが残らなければしりえようがないということである。だから塔寺が途中下車して記憶に残ったから詩にも書けた。塔寺の駅は変わっていた。塔寺を記憶していたのは塔寺から名所の一刀彫の木彫りの仏がある寺が駅から近いことだった。電車の旅では駅から近いところは記憶しやすいのである。駅からおりると筵をしいて家の前で豆がらをたたく人がいた。そこで道を聞いたりしてすぐ近くが木彫りの立木観音のある寺だった。


清水八幡神社は会津の五大社の一つである。
源頼義とその子八幡太郎義家が安倍氏と戦ったとき、義家は眼病を患い、ある夜夢枕に立った神が「お前の弓矢をもって巽(東南)の方に向かって矢を射よ。その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」とのお告げがあり、矢を放って落ちた所に行くと泉の辺りで矢を発見した。その清水で目を洗ったところ、日ましによくなったという言い伝えがある。

http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/
akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm#a1


源義家の伝説は東北の各地にある。その数も実に多い。なぜこんなところにあるのかというほど山奥にもある。なぜそれほど伝説として残ったのか?義経はわかるが源義家についてはもう一つ現実味がないのだ。それでもこれだけ伝説を残したということはみちのくに多大な影響力があった人だったことはまちがいない。ここで眼が悪い人が直ったという清水のことを言っていたが昔から眼を患う人は多かった。だからなんとか眼を直したいという人が多かった。栄養不足が関係していた。いい医者にかかりたくて関所を越えてゆく人の話しとか眼を患い苦しんでいた人が多かった。だからこの伝説は眼が悪い人が直りたいという一心でそういう伝説を作ったのであり別に眼が直ったわけではない、こうした病気が治るという伝説は大半は病気が治りたいという願望が作った伝説なのである。これはヨ-ロッパでも同じだった。病気を直す泉があったり聖人にお祈りしたりしている。病気というのは今でもなんとか直したいということで切実なのである。だから癌になった人が薬がきかないのに効くと言われてだまされたりする。そういうことが今でもつづいているのだ。本当に病気になると人間は弱い、なんとか直したいと藁にもすがる思いになり宗教心ない人も神仏に祈るのである。自分もそうだった。そういう人間の心理は変わっていないのだ。


「その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」・・まさにこのことが如実に語っている。なんとか眼を直したい人がいてどうししてもその泉で直るのかという疑問があるのは当然である。だからこそ疑うなということになる。しかし結局昔は病気は治らない人の方が多数だった。そういう伝説が多いのは人々の切実な願望だからこそ残された。ただそれがどうして源義家伝説と結びつくのか?遠い都から来た人だから何か技術をもっているとか何か霊験をもっているとかそう思われたのだろうか?みちのくという都から遠い地域で暮らす人は当時そう思ったのかもしれない、医者でもない武家でも何か都という所は別世界であり病気も直せるものをもっているとか憧れの気持ちがありそうした伝説が残ったのかもしれない、みちのくにあまりにも源義家の伝説が多すぎるからだ。


ここから越後と柳津の方に道が別れている。柳津は西会津になる。会津は広いから方角がわからなくなる。塔寺辺りも西会津になる。柳津は電車が通っているからまだ行きやすい。でも一回仙台からバスで西会津を通り新潟に出た。その時は電車で行けない温泉地帯を通った。盤越高速道路で行くとやはり西会津町となるからその辺だったのか?その時芒の原が見えた。


西会津芒の原や日の落ちる


奥深く西会津町やその町に行くことなきや命短し


会津は本当に広いから地理を理解することは容易ではない、特に山が多いから余計山にさえぎられて地理がわかりにくいのだ。西会津町というとき相当に奥まった所である。電車で行けないとしたらそこはなかなか行けない場所である。会津は自転車の旅ではきつい、山が多い坂が多いから自転車旅行ではきつい。それでも二回くらい行った。途中でダウンして帰ってきたこともあった。その記憶もあいまいになってしまった。自転車旅行でも旅は記憶されるとは限らない、自転車旅行の弱点は疲れすぎるということだった。疲れるから余裕をもって見れない、ぐったりしてし死ぬように寝るほかない、するとただ運動しているだけの旅にもなる。そういう弱点があった。ただ車がないとしたら自転車で行く他なかったのである。


ともかく途中下車は相当したがただ記憶から消えたのが多い。旅は本当に記憶が大事なのだ。外国旅行は特に記憶から消えやすい。どこに行ったかもわからなくなる。だから写真が貴重であり写真家ら思い出す他なくなることがある。ええ、こんな所に行ったのかと今でも写真見て不思議である。全く記憶していないからである。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。写真がでているから回想してこんな所だったとか思い出すのである。


カッコウやここはどこやら途中下車


結局旅は死ぬまで終わらない、途中下車の旅は今度は外国でつづくだろう。特にヨ-ロッパは電車の旅にはいい、でも日本のような途中下車の旅する余裕はなかった。今なら若い人はいくらでもできる。旅は時代ともに変わってゆく、ヨ-ロッパでもこれからはいくらでもそうした旅ができるからそれでいろいろ詩を書いたり物語を書いたりいろいろなことでコミットが深くなってゆく、現代の幸福は冬でも旅できることや外国を旅できることである。外国を旅することは本当にぜいたくである。なぜなら戦前の人や戦後でも団塊の世代でも海外を自由に旅した人は少ない、金がかかりすぎた。だから海外旅行はこれからのテ-マである。若い人が最近海外に旅しないというのは納得がいかない、外国は百聞は一見にしかずという言葉がこれほどあてはまることはなかった。一回ともかく外国の土地を踏んだものと踏まないものとの差は大きすぎるのだ。これはテレビだろうが本だろうが人の話しを直接聞いても実感がもてないから外国は一回でもその地を踏まなければ何もわからない。駆け足でも一回踏んだ所は実感として心に残るからあとで外国について理解が深まるのである。