2012年01月17日

寒椿(電車で相馬市の病院へ行く)


寒椿(電車で相馬市の病院へ行く)

寒の朝汽笛の鳴りて電車ゆく

久々や冬田に電車のひびきかな


冬の暮二両の電車の行き来かな


冬の朝竹の林に鳥の鳴く


侍や誠生き抜く寒椿


病院に三本の枯木今日も見つ変わらざりにし先生の診る


病院に治療を終えて小泉橋渡りて帰る冬のくれかな


この道の路次を幾度曲がりつつ老舗の菓子屋冬のくれかな



昨日は相馬市の病院に行った。電車が通うようになったので便利である。一時間おきにはでていない、二時間おきくらいである。それでも相馬市に行くには便利である。電車とバスとでは感覚的相当違っている。ただ相馬市までしか行かないからあとはまたバスになるから交通としては正常化しないしいつ仙台まで通じるのか、5年先とかなるとその頃死んでいるということもないとはいえない。それだけ先のことになっているのだ。二両の電車だからなんか淋しいとなる。過疎地帯を走る電車である。常磐線は別に過疎地帯のものではなかった。仙台まで通じていれば普通の路線だったのである。

医者も行くたびに変わると困った。年取ると何か人間で何でも変わることに弱くなるのだ。だから特に技術的なことには新しい技術にはついていけなくなる。現代は老人には住みにくいのだ。いろいろなものが機械化しているときその操作だけで大変になる。軽い認知症の介護をしているけどエアコンすらボタン一つすら押すことができない、認知症の人はテレビのリモコンも操作できないのだ。江戸時代のような機械に頼らない生活だったら認知症でもそれなりに適応できていたかしれない、見慣れた所でいつも知っている人とつきあっていればそれなりに受け入れられれは適応できていたのかもしれない、ボケたからとかで病気と認識されていなかったのかもしれない、認知症などという病気は記録されていないからだ。ともかく老人は変化に弱い、だから今回原発事故で仮設に避難した高齢者は悲劇だった。人間は長く一カ所に住んでいると自然とも一体化してゆく、その土地の樹や石のようになってしまう。人間もやはり自然の生物だからそうなってしまう。人間は機械ではないからそうなるのが自然なのである。


城下町というき相馬藩辺りでは郷士であり侍は農民をして暮らしていた。農民と侍が一体化していたのが覆い。相馬藩の城勤めの侍は少なかった。だから野馬追いというとほとんど農家から出るのが多い。街からは出ないのである。そして相馬野馬追いで外の人が錯覚しているのは500騎出場したとしてかなり多いとみるし壮観になるが実際は500所帯であり相馬藩内で15万を越える人口があるとすると極めて野馬追いに出れるのは少ないのである。江戸時代は所帯が少ないにしろそうである。野馬追いは民衆の祭りではない、選ばれた侍の祭りである。だから他の祭りとは違っている。選ばれた人しか参加できない祭りなのである。そもそも江戸時代に侍をどう見ていたのか?侍とは特別であったこと、庶民とは別な行動や立ち振る舞いをする人達であり区別されていた。ただ特別豊かな生活をしていたわけではない、相馬藩ではほとんど農民だったとすると農民の生活と同じである。ただ侍だったらこうしなければならないとか庶民とは違ったモラルの下で生きていたことは確かである。侍としての筋を通す何か強いモラルがあった。それがわかるのが切腹という行為だったのである。それほどまでして制裁を自らに課するのが侍だったのだ。そこが庶民とは根本的に違っていた。今はそうして自ら制裁するなどない、戦争でも原発事故でも指導者は自ら制裁しない、責任をとらない、日本から侍はいなくなったということである。


城下町というとき必ず歩くと路次を曲がることになる。そこで一軒一軒の店を見ることになる。店屋は見せるであるから店を見るのである。その見ることから買うということになる。それが車社会になったとき街を歩かないのだから店も見ない、どんな店があるかもわからない、そこで商店街はどこでも衰退したのである。歩く社会だったら一軒一軒の店を見るし買うということに結びついていたのである。ともかく今回はなんとか12時ころ電車で帰ることができた。2時以降まで確実にかかっていたから便利にはなった。どうしても緊急で病院に行くときがあり困ったのである。タクシ-だと5千円かかっていた。今度はなんとか電車で行けるからなんとかなるということで安心は安心である。