2012年01月12日

時代劇衰退の原因 (大衆商業主義、大衆迎合の時代は終わる)


時代劇衰退の原因

(大衆商業主義、大衆迎合の時代は終わる)

江戸時代に興味あるから時代劇が衰退するのは残念である。戦後まもなくの映画館の時代があった。どこにも映画館がありニュ-スまで映画館で放映していたことがあった。その時ラジオの時代で映像はめずらしいからそうなった。その鞍馬天狗の嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)とかは誰でも知っている名前だった。映画もその頃白黒であり動く絵を見れるというだけで観客が来たともいえる。テレビがないのだから庶民の娯楽として人が集った。テレビの初期もこれも自宅で動く絵が見れるということで爆発的に広がった。内容より動画が見れるということだけで新鮮だったのである。そういう時代は長くつづいた。内容よりやはり動画が見れるということがテレビ時代を作ったのである。
NHKの大河テレビなどで時代劇が映画から引き継がれた。テレビの時代劇が水戸黄門に象徴されるように長くつづいた。それも遂に終わりとなった。時代劇は今やその伝統芸が若い人に受け継がれないという危機に瀕するようになった。時代劇も日本の伝統であり文化だからそれを失うことは惜しいとなる。ではどうして衰退したとなるかはいろいろな時代背景がありいちがいには言えない。


「(東映)時代劇のアタリ・ショック」であります。
当たるからというので、娯楽作品ばかり濫発した東映。
内容のマンネリ化、決してほめられない内容の作品も配給せざるをえませんでした。
http://www.c-able.ne.jp/~bantsuma/s/saiken_12.htm


作る側にも見る側にも問題があった。最初は映画でも内容より動く絵を見るということでそれだけで面白かったのである。テレビでもそうだった。それが当たり前となったときただ動くだけではつまらないとなる。内容を求めるようになった。それに作る側が答えられないとい面があった。これは見る側にも問題があった。見る方にしてもわかりやすいものを望む。芸術的な手のこんだものを望まない。それで勧善懲悪の水戸黄門が受けたのである。でも江戸時代でも善と悪が簡単なものではない、世の中は複雑でありそんな簡単に悪を懲罰できたりしない、でもわかりやすいから考える必要もないから大衆に受けたのである。大衆に受けることばかかり視聴率をとることばかり考えたら娯楽作品ですら内容もないものとなり見る人もいなくなる。そこに矛盾があった。この矛盾は現代の大衆社会を象徴している。大衆にあわせようと視聴率をとるばかりの放送するときかえって番組がつまらないものとなり大衆にすら見捨てられる、テレビを見ないという現象がでてきた。


大衆に迎合しすぎるとき時代劇のようなものでも文化をになっていたからそういうものまで衰退して滅びる。現代の問題はあらゆるところが大衆迎合主義になったことである。政治から宗教から情報産業から芸術から芸能から娯楽まであらゆる分野で大衆迎合主義になりそもそも文化であったもの伝統すら失われた。文化は大衆によって破壊される。大衆という言葉、その存在自体が近代になって現れたものであり江戸時代には大衆という言葉もない、民衆という言葉がありこのフォ-クロアと大衆は違ったものである。民衆はフォ-クロアのように民俗学の対象となる民話や民謡などの文化を残している。大衆とは何物も創造しない、ただ消費するだけの大衆であり商業主義のなかで新たに創造された人々である。ただ消費するだけの多数の存在である。ただ多数であるが故に社会を支配するという現象が起きた。そのことは様々な人が言ってきたことである。劇場民主主義と大衆民主主義とか扇動される主体なき大多数というのが大衆である。その大衆が伝統も文化も破壊してきたというのが近代だった。


文化というときいろいろなレベルがある。民衆レベルの文化も郷土料理とかにもあり民謡もありと別に高度なものだけが文化ではない、でもヨ-ロッパなどでは貴族が芸術家のパトロンとなり芸術が興隆した。貴族はやはり見る眼があり鑑賞力があるからこそ芸術家を育てることができた。ただ金があるだけでは芸術家だって育てられないのである。ヨ-ロッパの音楽でも絵画でもやはり高等なものになるとそれを鑑賞できる人達がいないと芸術も発展しない。商業主義で生まれ大衆向きにすると文化は生まれないし映画の娯楽ですら衰退する。映画が娯楽としてもその底辺が広くなれば黒沢映画のように世界に認められた映画が作れたのである。ただ大衆主義や商業主義は文化を破壊する。そもそも文学とかなると理解する人が少ない、詩などになると本当に理解する人はさらに少数者になってしまうからである。だから詩でもくだらなくても大衆向きにすれば売れる。小説でもそうである。商業主義と大衆主義は一体である。ブヘストセラ-なんかメデアの力で売るために作り出されたが出て半年くらいで使い捨てのように見捨てられ誰もかえりみない、だからすでにベストセラ-というのはなくなった。百万部単位の本など売れないだろう。


これからの時代はそういう大衆主義とかなものは衰退してゆく。メデアでいくら虚構を作り上げても受けない、みんながテレビに釘付けになるようなものはできない、個々の関心が別々になりそれぞれが細部にこだわるようになる。それは確かに中世の時代に帰るということは言える。信長とか秀吉のドラマなどもう見たくない、それはわかりきっているからである。もっと江戸時代でも庶民のこととかその生活を細部について知りたい、そういうドラマでもあったら興味深いとなる。ただそうなると視聴率がとれないから時代劇の技を伝統を受け継ぐことがむずかしいとなる。例えば「蠟燭(ろうろく)と原発」ということで書いたけど


江戸時代には、ろうそくの流れ買いという職業がありました。ろうそくの流れとは、燃やしたろうそくの滴が落ちて固まったものです。ろうそくの流れ買いとは、家々を回ってこれを買い集める仕事です


ええ、こんなことがあったのかと庶民の生活を原発を使うような時代と比べると興味深い。そういう細部にこだわり追求すると別な風に江戸時代が見えてくる。ただこうしたことは視聴率はとれないからやらない、でも誰かがインタ-ネットなどで追求して出せば少数でも見る人はいる。インタ-ネットはこうした興味の分散化でありテレビ時代やマスコミ時代から変わるメデアとして生まれたのである。時代によってメデアも変わってくる。大衆商業主義やマスコミなど何かまさに大勢を大衆を標的とした商売は成り立たなくなっている。個々の興味に対応しないと娯楽すら衰退する。そういう個々の興味や細部にこだわる時代の変化がある。それはいろんな分野に適応される。ともかく大衆商業主義はどこでも衰退することはまちがいない、時代が変わってしまったのである。

 
posted by 老鶯 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層