2012年01月11日

原発とロウソク(蠟燭) (蠟燭(ロウソク)も高価だった江戸時代)


 原発とロウソク(蠟燭)

(蠟燭(ロウソク)も高価だった江戸時代)


ロウソクの油にはいわしやさんまの油を使っていましたが、けむりが多くてたいへんでした。 ろうそく1本で6時間ともせました。でも、ろうそく1本2,800円もしたので、庶民は簡単に買えませんでした。ろうそくのしずくを買い集める。江戸時代、ろうそくはたいへん貴重な物だったから、燃えた後に残るしずくも貴重な物だった。


江戸時代には、ろうそくの流れ買いという職業がありました。ろうそくの流れとは、燃やしたろうそくの滴が落ちて固まったものです。ろうそくの流れ買いとは、家々を回ってこれを買い集める仕事です。
現在一般家庭で使われているろうそくはパラフィンなどを使った西洋ろうそくです。しかし日本古来の和ろうそくとは、はぜや漆などの実からとったロウが原料で、それを取り出すのは専門の技術が必要でした。
和ろうそくを作るためのロウの取り出しにはかなり手間がかかったため、ろうそくの滴は貴重であり、買い集めることで一つの職業として成り立っていたのです。
買い占められたロウは再びろうそくを精製するための材料として、再び溶かして型に流して利用されました。


現代の日本では、石油に代表される化石燃料だけでも、毎日一人当たり10万キロカロリー、石油換算で約10リットル分も使っています。ところが江戸時代の先祖は、今と同じ基準で計算するならゼロ・エネルギーで暮らしていました。ゼロと10万の差



昔をふりかえることはやはりいつの時代でも必要である。今がどうしてこうなったのかわからなくなっている。すると今のこの豊かな生活のありがたみがわからなくなる。電気なんかあって当然じゃないか、停電になればもう大騒ぎになる。今や現代人はあまりにぜいたくになれすぎてしまった。あって当たり前でありでありこのようになにもない時代のことを忘れてしまった。いかにロウソクですられほど貴重なものだったか?今は電気を使いどれだけ贅沢をしているのか、電気くらいみんな少しは節約できるだろう。これは極端にしても現実そういう時代があった。ロウソクの雫さら買い集める、そんな時代だった。こうした生活を忘れたとき、原発などという超危険なものに手をだした。双葉町辺りでも貧しい貧しいというけど高度成長時代は別に原発なしでもやれた、それなりに高度成長の波にのって豊になれる時代だった。原発なしで何もなりたたないということありえなかった。全国的にも別に双葉町が特別ではなかった。会津の奥地などもっとひどかったろう。江戸時代に帰れというのは無理にしても江戸時代がどういう生活をしていたか、それを知る必要がある。 ロウソクは相当に贅沢なものでありロウソクは今の電気とするとどこでも大きな産業だった。会津などでの絵蠟燭などがそうだった。だから会津藩領域以外に販売されていた。それでもロウソクが高価なものであり絵ロウソクになればもっと高価であった。


原発の南西約12キロに位置。富岡町内の残留者は一人だけという。震災から約1カ月後、松村さんも同県郡山市内に一時避難した。だが、すし詰め状態で避難所に横たわる被災者を見て「自分には無理だ」と思い、3日ほどで自宅に戻った。「『自分勝手だ』と非難があることも分かっている。罰金ならいくらでも払う。でも自宅に帰ることが犯罪なのか。おれたちは被害者なのに」


 自宅は電気、水道などライフラインが寸断されたままだ。だが、自家用車に使うガソリンなどの燃料は火災を心配する町民が「使って」と提供してくれた。食料は備蓄のコメや缶詰。風呂は井戸水をまきで沸かし、夜はろうそくをともす

双葉町で離散した家族の人がロウソクでもいい、原発はこりごりだと言っていたのが印象的だった。自分の住む場所すら奪われてはじめてそのことに気づいた。便利な生活も大きな代償があった。

原発などなくても石炭とか石油は簡単に枯渇しないという学者もいる。本当はそうだったが原子力をはじめたのはそういうことではない、別な意図が政府にもあった。現実に未だにベトナムに原発を売るとかトルコに売るとか決めているからだ。原発を輸出してもうけられるという思惑もあった。
そのために原発をやめるわけにはいかないとか石炭でも石油でもあるのだが原発をはじめた意図は別なところにありだから危険でもやめられない、技術立国である日本を維持するためにはやめられないとかの裏の事情があった。現代人は余りにも贅沢になれすぎてそれが過去のことを忘れてしまった。それは津波にも言えた。過去に津波は何度もありどこでも危険なのが日本だった。しかし忘れていた。だから忘れたころに災害が来るということに日本ではなっていたのだ。


戦前でも自転車は貴重で一生修理して使っていたとか、なんでももったない時代だった。それが消費こそ美徳と何でも使い捨てで新しいものにするのがいいのだということが高度成長時代から急速に始まった。そのことが原発でも危険でもいい、便利ものを危険を度外視して作られた原因でもあった。豊になればなんでもいい、危険は見逃されたのである。現代は絶えず捨てるものが多すぎる。ゴミが大量に暇なしでてくるのだ。リサイクルした江戸時代とは正反対なのである。そういう生活が必然的に原発という危険なものでも便利な生活を選んだ背景にあった。江戸時代をいろいろな点で見直すというとき江戸時代が最大のエコの生活だったからそうなる。日本にはその手本があったからこそそう言われる。意外と江戸時代は平和な時代であり歴史的に注目されない、戦国時代が歴史のすべてのようになっている。そこにも歴史を知る問題があった。ほとんど戦国時代とか戦争とかそういう面白いことだけを歴史としてとりあげるからそうなる。それだけが歴史ではない、゛日常的に生活に密着したのも歴史でありそういうことが語られなさ過ぎている。津波のことなどもそうだった。戦国時代の目立つことばかりが語られていた。津波も大惨事なのだからもっと語られてもいいはずだが語られていなかった。人間の興味がそういうところに向かないということもあったから大事なことでも忘れられてしまう。信長や秀吉のことはあくことなく語られてもそうした庶民の日常的生活は語られないのである。

posted by 老鶯 at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

焼畑時代の名残りの万葉集の歌 (安達太良の雪形-粟蒔入道)

 

焼畑時代の名残りの万葉集の歌

(安達太良の雪形-粟蒔入道)

●春日野は焼畑だった


ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを


梨棗黍に粟次ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く


あしがらの箱根山はこねのやま粟蒔きて実とは成れるを逢無くも怪し


よみ: 春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿(しか)待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


この歌が何を意味してるのかわかりにくい、神の社とは何の社なのか?焼畑から稲作に移る過程でできた社なのか?稲作の神が祭られたのか?粟と鹿というとき焼畑時代のものだろう。鹿の血を畑に蒔くとか田んぼに蒔いて豊作を祈るという風習も焼畑時代のものである。月見の行事に芋や団子を供えるのも焼き畑時代のものである。太陽より月が信仰になっていたのが焼き畑時代だった。天照神になったのは太陽神になったのは稲作になってからである。ここに何か春日野辺りに大きな時代の変化が稲作への変化が起きてこの歌が生まれた。大仏殿ができたところだかちら社からさらにあれだけ巨大なものができたのだからあの辺は変化が激しかったのである。鹿待ちにということ鹿を待ち伏せるとは鹿を刈りしていた狩猟時代の感覚である。万葉集時代はまだ狩猟時代が継続されていた所がある。だから狩りの歌も残っている。生々してものとして残っている。稲作がはじまると焼畑は否定的に見られる傾向になりその神や風習も軽んじられる。天照神が第一位の神となった。ただ焼畑時代のものはその後も祭りとかでいろいろ残されているのだ。その一つは月見の行事である。焼畑の地名も全国的に多い。焼畑は稲作のように余り技術を擁しない粗放な原始的農業だった?だからいたるところで最初に焼畑が行われた。燃やして灰が肥料になるからだ。海辺の村でも漁港の後ろが焼畑地名になっいる。牡鹿半島辺りでも山が佐須とか焼畑地名があり飯館村にも佐須がありいかにも焼畑が行われていたという奥地なのでてある。


宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/2543033/


日本では米を重点に語られるけ実際はこのように海の産物から粟とか雑穀から多様な食があった。それは戦前までつづいてきたのである。戦後十年後くらいから白米だけになった。雑穀は忘れられていったのである。


●安達太良山の雪形、「粟蒔入道」


これも何のことかと思った。山の中に分け入り粟をまいている姿が雪形として残る。それを目安として農作業をはじめた。
http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/19417639.html


「種まき」「豆まき」「粟まき」「代掻き」「田打ち」などをしている人物や馬、牛、鳥など身近な動植物、文字、農具類等がある


雪形は農民の生活と密着していた。普通だったらこんなふうには見ない、日頃こういう仕事をしているから実感として自然になったのである。農民の命名の仕方は美的なもなどない、地名も便利なものとして生活に密着してつけられていたのだ。そこが勘違いしやすいのである。


 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳


これなども狩猟時代を彷彿とさせるものである。鹿や猪の寝床になっている所を知っているというのは山を相当に知っていないとこのような歌は生まれない、熊を狩猟するのも春でありその冬眠している穴を知っているからできるし危険なことである。安達太良というとき飯館村との境の水鏡神社を越えると川俣に入ると安達太良山が見える。あそこを境にして中通りであり安達太良の見える領域になる。だから農作業をしながら安達太良山が見える。安達太良の大きな影が消えるのは川俣から水鏡神社を越えて飯館の方に入った時なのである。山というとき蔵王は南相馬市の鹿島区の八沢浦とか岩沼の海岸線とかからも見えた。阿武隈川が海に出る辺りにも残雪の蔵王が見えて美しかった。安達太良は浜通りからは飯館からも見えないのである。だから水鏡神社を越えたとき二本松を意識する。日本は山で峠で境界を意識するのである。


吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮


農作業しながら安達太良が見えるのが川俣だった。川俣は二本松の領域なのである。

 
 
posted by 老鶯 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)