2012年01月21日

雪の俳句十句-(会津→新潟) (凌雲閣)(フランス-リヨンのことなど)


雪の俳句十句-(会津→新潟)

(凌雲閣)(フランス-リヨンのことなど)



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会津なれ墓所も深くも雪埋もる


雪ふぶき城は要や会津かな


喜多方の蔵の梁黒く積る雪


檜枝岐雪に閉ざさるかなたかな


線交じる小出を発つや雪の朝


機織れる昔やあわれ雪埋もる


足軽の長屋残るや屋根に雪


雪埋もる石垣もなき高田城


雪埋もる凌雲閣の一間かな


皓々と月に氷柱や凌雲閣


雪埋もる駅舎やあわれ飯山線


雪降らぬ街に住めども心にし雪はふるかなみちのくに棲む


雪の嶺に夕日の映えてみちのくの奥に入りにき電車のすすむ

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魚野川


凌雲閣のプログ
http://blog.ryounkaku.net/page/3



会津から只見線で小出に出てそれから飯山線で十日町に出た。十日町は通りすぎただけだからわからない。今日テレビで見て十日町のことを写していた。十日町絣とかがあった。東北でも海に面した所は雪深く埋もれる冬の長い時期を過ごす感覚が肌で感じにくい。雪かきで人が死んでいる。仮設住宅で浜通りの人が雪かきしている姿も不思議である。雪とも一つの戦いである。海も実際は海との戦いであり漁師は楽なものじゃない、自然との戦いが人間の暮らしであり歴史でもあった。しんしんと雪がふりつもる世界はただ詩的にイメ-ジすると美しいとなるが現実そこで暮らすとなると日々雪との戦いの暮らしになる。特に高齢者にとっては厳しい生活環境となる。限界集落では雪かきする若い人がいないとか生死にかかわる。十日市の近くの新潟の栄村では地震でかなりの家が崩壊して仮設住宅に入ったがその雪かきで四十代の人が死んでいる。雪深い中で昔はどういう暮らしがあったのか興味深い。囲炉裏に薪を燃やして暖をとりそこで寝ていた。雪の中に野菜を貯蔵していた。機織りもしていた。一方でそういう豪雪地帯では江戸時代は江戸に出稼ぎに出た人も多かった。そういう雪国の暮らしに思いをはせるのだがもう一つ現代は便利になりイメ-ジできなくなった。雪の季節も旅は趣深いものとなる。旅もその土地のことを良くしらないとただ通りすぎるだけになる。


外国の旅などは特にそうだった。日本のように建物一つをとっても何を意味しているのかわからなかった。あとでいろいろ情報に接すると見えてくるものがあった。フランスのカレ-は石炭の産地で有名であそこにゴッホが牧師として赴任して炭鉱夫と一緒になり働いたこともあると知ったとき興味を覚えた。フランスでは余り石炭はとれずイギリスの方がとれていた。ということは蒸気機関車がイギリスで発明され発展したのも燃料があったためなのかとも思う。


モンス・シャールロワ間のソントウル運河とブラッセル・シャールロワ運河を使って船でブラッセルに運ばれていました。船といっても現在のようにエンジン付の船ではありません。運河の両側に設けられた小道で、人や馬が石炭や貨物を満載した船にロープを付けて引っ張って行ったのです。そしてブラッセルの運河には、この作業道に沿って様々な工場や会社が並び、多くの労働者が肉体労働に従事していました。
http://blogs.yahoo.co.jp/prof_japonais/3946797.html


こんな時代だったということも想像しないだろう。船を引いていたのは日本でも引き船があったからにている。ただ外国の川はそもそも運河になっているから違っている。石炭はその頃貴重な燃料となっていたことは日本と同じである。

またフランスのリヨンは絹織物で栄えた。そのためにその刺繍のデザインをする人がたりずそういう仕事をする人が必要だった。リヨンは京都の着倒れの街だというのもにている。リヨンも立ち寄ったけどそうした歴史を全く知らなかった。そういう所から画家が生まれたりするのも必然だった。それは西陣織りとかでもデザインする人が必要になる。そういう素地があって画家も生まれてくる。芸術も日常的な生活のあるところから生まれてくる。
ミケランジェロのような彫刻家にしてもあれだけ石の教会とか石の加工技術、職人がいたからこそ生まれたのである。織物とデザインは絵画的なセンスが不可欠に結びついている。そしてその土地土地の織物があった、それは八丈島とか与那国島にもあったからその土地から育まれたものが江戸時代にはあった。

雪というときyoutubeでハイデルベルグの塔に雪が降って積もっているのを見た時は感動的だった。ドイツは相当に寒い地域であるから雪がふるのは当たり前だが現実として実感できないのが外国だった。実際雪質は日本でも違っているように外国だったらまた違っている。


心から 信濃の雪に 降られけり


外は雪内は煤ふる栖かな 


これがまあこれがまあついの栖(すみか)か雪五尺


一茶


信濃の雪は暗い感じだった。煤(すす)けるというときいかにも一茶らしい。黒い梁があり蔵の棲家で一茶は最後に死んだ。喜多方では蔵が喫茶店になっていて外には雪が積もっていた。蔵に冬籠もりしている雪国の姿がある。


ともかく現代は世界が同時間でリアルタイムで一体化している。日本だったら確かに時間的一体感はあった。でも雪の時に旅することはできない、だから芭蕉でも雪の俳句にいいものはないのは当然である。雪のときでも旅できることが現代の幸福になるといえばなる。雪で苦しめられる人にとっては旅をするのは贅沢だとなるが観光地だったら客として来てもらいたいとなる。凌雲閣は一回泊まってみたい宿である。自分は安宿しか泊まっていないし駅から離れると泊まりにくいから泊まっていない。でも旅館でも歴史的なもの謂われがあるところはそれでけで価値がでてくる。あの建築は相当に価値がある。やっぱり時間をかけて職人の技術をいかしたものは違っている。職人も言っていたが最近は金持ちが庄屋などがいなくなり時間をかけてゆっくり技を磨けないといっていた。最近の住宅は建て売りでありこれも安いから一様化して昔のような重厚な建物が建てられないのである。


そのことは文化の衰退につながっている。金持ちも実際は文化的な面などで必要なのである。しかし現代はあまりにも平等化を推進した結果、大衆化した結果、文化すら喪失した。不思議に貧乏でも江戸時代には各地に織物が発達したように郷土料理も貧しい所から工夫して作っていたように文化を作っていたのである。いづれにしろこれから中世的江戸時代への回帰が起こるからそうした新しい地方の文化、隠居文化も生まれかもしれない、それは大衆的マスメデアからは生まれない、インタ-ネットのような個々のメデアから生まれかもしれないしそういう過渡期になっている。隠居文化というとき茶道が見直されるということがありうる。茶道は茶室とか茶道具とか茶碗とか四季を感じるセンスとか日本の総合的文化として作られた日本独自の奥深い文化なのである。だから凌雲閣の一間一間がみな違っていて茶室になっていた。そういう旅館はまれであるから一回泊まる価値があるだろう。ただ料金が高いから泊まりにくい、でも写真でも見てイメ-ジして泊まるということもできる。そういう感覚でここに書いたのである。

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  同時間の世界


今人は極東の日本にあれど

パリの灯を思いパリは身近なり

今ハイデルベルグに雪はふり

その雪の我が心にも積もりぬ

今人は同じ時を共有して

世界の一体感をますます深めぬ



パリの冬路次行く人の交じりつつセ-ヌ河畔に我もありしも


ノ-トルダム嵐のあとに月さやかパリの街行くその一人かな

 

このペ-ジに関連したリンク

リヨン刺繍博物館について
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/backnumber/0409/museum_0409.html


雪国のトンネル
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#saigai


虞美人草から地方の産物を読む
http://www.musubu.jp/jijimondai13.htm#gu


 

2012年01月23日

寒椿(津波で消えた家の写真)

 

寒椿(津波で消えた家の写真)

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寒椿雪に映えつつ朝散りぬ

松支ゆ雪の重さや家の蔵


我が一人母の介護や冬深む


鹿島区に小高の人と冬深む


冬しらず我が庭に植え石に向く


蕪村死す鍵隠町誰が訪ぬ京都の冬の暮れにけるかな

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     松支ゆ雪の重さや家の蔵


この家が津波で流され消えた、土台しか残っていない。



今頃は寒椿になる。冬椿はまだそんなに寒くないときである。この辺は雪もふらないし寒いというほどでないから冬椿があっていた。今年は雪がふったし多少積もった。でも雨で消えたりしたが残っている。雪の中に咲いている寒椿はやはり雪国でないと見れないだろう。雪に映えてちってゆく寒椿のように人もありたいとなる。美の追求でもそれは人生全体が美の追求であり美と一致した生き方がなければ美にはならない。芸術家で推理小説などで犯罪者になっているがそういう人はほとんどない。華道であれ陶芸であれ画家であれそういうものは心が汚れたら致命的でありいいものは作れない。
悪徳や官能の芸術もあるがそれはまた別なものだろう。芸術家でも金儲けばかり考えていたらいいものは作れない。芸術も修行であり禁欲がないといいものはできないだろう。ただ天才というのは別なのだろう。普通の人はやはり芸術だって俳句だって精進であり修行であるから禁欲が必要なのである。才能がなくてもそういう禁欲的に修行しているといいものが生まれてくる。


俳句とか短歌の問題はちょっと俳句を作っただけですぐに賞がどうのこうのとなっている。俳句短歌の問題はあまりにもデレンタントが多すぎるのだ。相手にするのもそういうちょっと俳句を作って自分も芸術家だと思ってしまう、そういう人が本当に俳句短歌には多いのである。それは絵などとは違って誰でも簡単に一応作れるということにある。小学生でも私も五七五と並べて俳句作ったよとなるような俳句を作ってもそれで自分も芸術家になった思っている人が多いしそれでそういう人は今度はすぐに賞をもらいたくなる。そういう人があまりにも多すぎるのである。そういう心の態度からはいいものは生まれない、だから日頃の生活が芸術の基盤にあるということは確かである。芸術だけの生活はありえない。
普通に真面目に生きていない人がとてもいいものが作れるとは思えないのだ。才能の問題にする前にそういう当たり前のことができていないなら芸術もありえない、そういう点は自分にも責められる点があった。その辺のかねあいがむずかしい。才能あってもあまりにも労働に酷使されたら才能は伸ばすことはできない、そうしてどれだけの才能がつぶされたか、ただ環境が悪いためにそうなったのである。


今日の教育論では成長社会から成熟社会へ正解社会から修正社会へ情報は情報編集社会へと変化しているというのは本当だろう。高度成長時代から成熟社会は高齢化の新しい隠居文化を創造する時代になる。その主役が団塊の世代となる。つまり成熟社会と高齢化社会は一体なのである。成熟するのはまさにいろいろ経験を積んだ六十代以上の人だからである。ただ六十代でも旅にしても旅行会社に消費されるように仕組まれる旅では創造的になれない、創造的消費が生産が必要になってくる。消費といっても本を消費するとなるとそれはすでに知的生産なのである。本を読むことは腹を充たす行為とは根本的に違っている。それは自分の知的創造のために本を読んでいるからだ。食べることは単に消費につながり生産につながらない、インタ-ネットでも情報編集にならないと活かされない、成熟社会は一方通行ではない、編集することは料理することともにている。そういう能力は今の学校教育から生まれない、画一的であり情報の一方的消費だけだった。成熟社会になったとき明治以来のそうした画一的教育はあわなくなったのである。


雪の松の写真は津波で流された家の写真だった。多少海から離れた地域だったけど流されて土台しか残っていない。津波に流される前の写真は貴重になった。あそこに確かに松があり蔵があり家があった。それが今になるとないから不思議である。家がなくなるなど想像もしなかったからだ。
確かにあの家が残っていればこんな状態になっていた。もう何もないから写真だけが残ったのである。津波で流された家は家族の写真とかだけが思い出となったことは確かである。小高の人が鹿島の仮設住宅に住んですでに半年以上になった。これも不思議といえば不思議である。会津の方の仮設住宅に移り住んだ人は雪に埋もれて会津を肌で知ることになる。ともかく今年は寒いけどまだ自分の部屋は石油スト-ブもエアコンも使っていない、使えないということもある。でも別にそれほど寒いと感じない、何日かは寒かったがこの辺は別に石油スト-ブがなくても耐えられる寒さなのだろう。

2012年01月24日

途中下車の旅(会津の塔寺駅)


途中下車の旅(会津の塔寺駅)

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千手観音が守っているのは子供だったのだろうか?
確かに下に子供の観音が見える。
ここは気づかない人がいるだろう。



 秋の塔寺駅



塔寺に下りたちあわれ秋の暮

午後の日さして家の前の筵に座り

豆叩く人に道を聞く

一木造り千手観音も古りにしや

子供を守る観音にもありしや

柳津の道ここより通じぬ

その道標も残りけるかな

一時おりたつ塔寺の駅




電車の旅は長い。旅に費やされた人生だった。北海道でも他でも無人駅におりて夏だったら一日寝ていたりぶらりとおりてぶらぶら歩く。そういう旅が旅なのだ。現代では旅することは相当にぜいたくである。時間をかけられないから旅になっていないのだ。それにしても北海道辺りでのんびりといつ来るかわからない電車を待っていた。その電車を待つことが人生だった?ふりかえるとそういうこともありうる。人生にはいろいろある。そんな人生は無駄だと言えば無駄だった。それでも無駄な人生は山ほどあるのではないか?戦争自体無駄だったと言えば無駄になってしまう。それで四百万死んだとなれば誰も無駄だといえないだけである。カルト宗教団体で一生終わる人もいるしパチンコや賭博で一生終わる人もいる。現実そういう人が近くにいて妻が世話しているからそれも恵まれている。もう75になってもそうである。

ともかく人間はいろいろなのである。一般的には会社勤めしてそれが一生になっている。それがすべて有益かとなるとそうともいえない。有益だとか価値あるだとかはなかなか決められない、高度成長時代そんなに働いていいのかという疑問もあったのだ。エコノミックアニマルと世界から言われた時代がなつかしいという時代にさえなった。高度成長時代は終わり斜陽国家となる良く言えば成熟社会になる。成熟社会には若い人より老人が向いている。老人の知恵や経験が生きる社会なのだが一面技術的な面では老人は今や役に立たないとか社会で活かされない無用化してくるから活かせる場がないということで成熟社会になっても老人が活かされないというミスマッチの社会である。でも高齢化社会というのは六十代でも六十代以上の人を相手とする客とする商売がふえる。コンビニでも六十代くらいの人が働いていたけど話ができた。若い人とは話しにくくても同世代だと社交的でなくても話ししやすいことがあるのだ。だから客商売は六十代くらいの働く人が必要になる。ただきつい肉体労働はできない、介護でも話し相手になるとかは向いているのだ。


途中下車してしいい場所とそうでない場所がある。現代はロ-カル線では途中下車しにくい。一旦途中下車したらあとあと半日電車が来ないとか帰れないとかの恐怖がある。二時間おきくらいに電車出ていれば大丈夫だがそうでない地方の路線もある。そうするとどうしても不安になるからだ。その点今は電車で自由な旅がしにくいとなる。車の時代だからそうなってしまった。旅が成功したかどうかはあとでわかる。旅がもし回想して蘇ったら活きた旅をしていたのである。旅でも全く忘れてしまうことが多すぎるのだ。記録に残らない旅は失敗した旅である。そもそも記憶にないということは人間何も存在しないと同じになるのだ。何らかの記憶があって過去をたどることができる。歴史でも何ら記憶になるものが残らなければしりえようがないということである。だから塔寺が途中下車して記憶に残ったから詩にも書けた。塔寺の駅は変わっていた。塔寺を記憶していたのは塔寺から名所の一刀彫の木彫りの仏がある寺が駅から近いことだった。電車の旅では駅から近いところは記憶しやすいのである。駅からおりると筵をしいて家の前で豆がらをたたく人がいた。そこで道を聞いたりしてすぐ近くが木彫りの立木観音のある寺だった。


清水八幡神社は会津の五大社の一つである。
源頼義とその子八幡太郎義家が安倍氏と戦ったとき、義家は眼病を患い、ある夜夢枕に立った神が「お前の弓矢をもって巽(東南)の方に向かって矢を射よ。その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」とのお告げがあり、矢を放って落ちた所に行くと泉の辺りで矢を発見した。その清水で目を洗ったところ、日ましによくなったという言い伝えがある。

http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/
akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm#a1


源義家の伝説は東北の各地にある。その数も実に多い。なぜこんなところにあるのかというほど山奥にもある。なぜそれほど伝説として残ったのか?義経はわかるが源義家についてはもう一つ現実味がないのだ。それでもこれだけ伝説を残したということはみちのくに多大な影響力があった人だったことはまちがいない。ここで眼が悪い人が直ったという清水のことを言っていたが昔から眼を患う人は多かった。だからなんとか眼を直したいという人が多かった。栄養不足が関係していた。いい医者にかかりたくて関所を越えてゆく人の話しとか眼を患い苦しんでいた人が多かった。だからこの伝説は眼が悪い人が直りたいという一心でそういう伝説を作ったのであり別に眼が直ったわけではない、こうした病気が治るという伝説は大半は病気が治りたいという願望が作った伝説なのである。これはヨ-ロッパでも同じだった。病気を直す泉があったり聖人にお祈りしたりしている。病気というのは今でもなんとか直したいということで切実なのである。だから癌になった人が薬がきかないのに効くと言われてだまされたりする。そういうことが今でもつづいているのだ。本当に病気になると人間は弱い、なんとか直したいと藁にもすがる思いになり宗教心ない人も神仏に祈るのである。自分もそうだった。そういう人間の心理は変わっていないのだ。


「その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」・・まさにこのことが如実に語っている。なんとか眼を直したい人がいてどうししてもその泉で直るのかという疑問があるのは当然である。だからこそ疑うなということになる。しかし結局昔は病気は治らない人の方が多数だった。そういう伝説が多いのは人々の切実な願望だからこそ残された。ただそれがどうして源義家伝説と結びつくのか?遠い都から来た人だから何か技術をもっているとか何か霊験をもっているとかそう思われたのだろうか?みちのくという都から遠い地域で暮らす人は当時そう思ったのかもしれない、医者でもない武家でも何か都という所は別世界であり病気も直せるものをもっているとか憧れの気持ちがありそうした伝説が残ったのかもしれない、みちのくにあまりにも源義家の伝説が多すぎるからだ。


ここから越後と柳津の方に道が別れている。柳津は西会津になる。会津は広いから方角がわからなくなる。塔寺辺りも西会津になる。柳津は電車が通っているからまだ行きやすい。でも一回仙台からバスで西会津を通り新潟に出た。その時は電車で行けない温泉地帯を通った。盤越高速道路で行くとやはり西会津町となるからその辺だったのか?その時芒の原が見えた。


西会津芒の原や日の落ちる


奥深く西会津町やその町に行くことなきや命短し


会津は本当に広いから地理を理解することは容易ではない、特に山が多いから余計山にさえぎられて地理がわかりにくいのだ。西会津町というとき相当に奥まった所である。電車で行けないとしたらそこはなかなか行けない場所である。会津は自転車の旅ではきつい、山が多い坂が多いから自転車旅行ではきつい。それでも二回くらい行った。途中でダウンして帰ってきたこともあった。その記憶もあいまいになってしまった。自転車旅行でも旅は記憶されるとは限らない、自転車旅行の弱点は疲れすぎるということだった。疲れるから余裕をもって見れない、ぐったりしてし死ぬように寝るほかない、するとただ運動しているだけの旅にもなる。そういう弱点があった。ただ車がないとしたら自転車で行く他なかったのである。


ともかく途中下車は相当したがただ記憶から消えたのが多い。旅は本当に記憶が大事なのだ。外国旅行は特に記憶から消えやすい。どこに行ったかもわからなくなる。だから写真が貴重であり写真家ら思い出す他なくなることがある。ええ、こんな所に行ったのかと今でも写真見て不思議である。全く記憶していないからである。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。写真がでているから回想してこんな所だったとか思い出すのである。


カッコウやここはどこやら途中下車


結局旅は死ぬまで終わらない、途中下車の旅は今度は外国でつづくだろう。特にヨ-ロッパは電車の旅にはいい、でも日本のような途中下車の旅する余裕はなかった。今なら若い人はいくらでもできる。旅は時代ともに変わってゆく、ヨ-ロッパでもこれからはいくらでもそうした旅ができるからそれでいろいろ詩を書いたり物語を書いたりいろいろなことでコミットが深くなってゆく、現代の幸福は冬でも旅できることや外国を旅できることである。外国を旅することは本当にぜいたくである。なぜなら戦前の人や戦後でも団塊の世代でも海外を自由に旅した人は少ない、金がかかりすぎた。だから海外旅行はこれからのテ-マである。若い人が最近海外に旅しないというのは納得がいかない、外国は百聞は一見にしかずという言葉がこれほどあてはまることはなかった。一回ともかく外国の土地を踏んだものと踏まないものとの差は大きすぎるのだ。これはテレビだろうが本だろうが人の話しを直接聞いても実感がもてないから外国は一回でもその地を踏まなければ何もわからない。駆け足でも一回踏んだ所は実感として心に残るからあとで外国について理解が深まるのである。

 


 

雪かき(ブリ大根を食べた)


雪かき(ブリ大根を食べた)

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朝の風竹にさやぎて雪野かな

長生きやぶり大根の味を知る


会津にて雪かきするや老いにしも人の運命(さだめ)を誰かしるらむ


ここは雪野とまではなっていない、雪はきけたが山蔭には雪が残っていた。雪かきなどこの辺では何回かするくらいでほとんどしない、会津では仮設住宅で浜通りの人が雪かきしていた。あの姿を見ていると不思議である。外から見ていても不思議なのだから本人はそれ以上になぜこうなったのかと思っているだろう。人間の運命は一体誰が作るのだろうか?そのことが本当に不思議である。人間の運命は死ぬまでわからない、90以上でもこのような運命の変化にさらされることがありうる。


原町の高見食堂のランチでブリ大根を食べた。旬のものでうまかった。冬らしい味であった。ブリというと日本海であり冬になればブリを食べブリ大根も食べる。郷土料理はほとんど食べていない、食堂で郷土料理を出しているところはめずらしいから食べてみた。やはり季節感があってうまかった。この辺では魚がとれなくなったので淋しい。魚はとれていたのだからそれなりに魚の郷土料理もあったのだろう。ブリ大根はまた食べてみたい、日本ではやはり旬なものが何でもうまいのだ。

料理はめんどうだからしていない、食堂でうまいものを食べる他ない、料理は手間がかかりすぎるのだ。

まあ、長生きすれば人間は今まで知らないことを知り知らない味わいを知ることになる。そういう喜びがある。どれだけいろいろなものを食べるようになったか?それだけは昔とは違っているし大正生まれの人でも遊ぶことには金を使わなかったが食べることだけはぜいたくだった。でも病気になり年取ると食欲がなくなるから味もなくなる。この点東京だと郷土料理店など金を出せばいくらでもあるだろう。食のぜいたくは限りなくできる、外国の料理も東京ならいくらでも食べられるからいい。
ただ金のない奴はそれできないから東京にいてもつまらないのである。

 


 

2012年01月25日

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

 

福島県の奥の細道

(芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

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みちのくへ木蔭の深き
境の明神守りけり
暗き細道たどりつつ
白河の関に卯の花かざし
郡山を過ぎ須賀川へ
花かつみといかなる花や
幻の花を探しつつ
その花の見いだされじや
幽邃なる花にしあれや
隠されし花にしあれや
須賀川に世の人の見つけぬ花
栗の花やゆかしき庵の主
初に聞く奥の田植唄
信夫もちずりの謂われ
一すじ奥の細道つづきけり
曾良と二人の旅人の影
さらに奥へと移りゆくかな
芭蕉の知らじや三春城下
その奥の葛尾村に元禄の碑
時を同じくしても埋もれけり
山深く人の生業のありぬ
安達太良山に粟蒔入道の雪形
民の暮らしのあわれかな


●芭蕉は城を避けていた、忍者説の由来

芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。


芭蕉のみちのくへの旅は 62万5000石 外様大名
伊達家 仙台藩の動向を探るのが 幕府から与えられた任務であった。 仙台
伊達家は 外様大名であった。


芭蕉のみちのくの旅は 芭蕉十哲の一人 河合曾良( かわいそら)が同行した。
河合曾良( かわいそら)は 情報収集の専門家であった。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/bashoh_ninja_ni.html


芭蕉の俳句でも謎が深い、芭蕉のような俳句はその時代が生んだものだとするとき絶対今の時代では作れないから価値が衰えないのである。だから芭蕉の存在や俳句そのものが神秘的なものとなっているのだ。蕪村は現代にも通じる俳句を作っているしわかりやすい。だからこそ子規は写生俳句として蕪村を手本にしたのである。芭蕉はある意味で誰も手本にできない特別の存在である。信長が誰もまねできない天才だったというときそれとにている。誰もまねできないのが芭蕉の芸術だったのである。だからその俳句の価値は衰えないのである。


ここで前から不思議だと思っていたのはなぜ芭蕉には城を俳句にしたものがないのかということである。今だったら常に江戸時代のことなら城に注目する。城が中心になるとして過去を振り返るしその当時も城が中心的存在としてあった。だからこそ「絶頂の城たのもしき若葉かな」ができたし蕪村は現代にも通じている。ところが奥の細道でも白河の小峰城でも二本松の城があったのに注目していないし一言も書いていない。そもそも城の俳句がない、あたかも城を避けて旅した感じなのだ。そこから芭蕉忍者説密偵説が生まれた。現実に仙台だったら伊達政宗の青葉城を意識するはずだが城のことは何も書いていないし松島にも実際は寄っていないという、松島には瑞巌寺がありここは政宗の一つの城の役割を果たしていた。何か伊達政宗を城を避けている感じで符号するのである。報告するために書かなかった、詳しい情報は伝えていたととれるのである。


元禄時代というとき何か華やかな感覚になるのだが芭蕉はそうした華やかなものとは縁がない、江戸時代でもそれなりに栄えて華やかな所はあった。だが芭蕉は隅田川の辺に住んで江戸の華やかさとは縁がない、わび住まいだった。むしろそうした華美なものを嫌ったのかもしれない、ある意味で僧のような禁欲生活をしていたのである。蕪村は花街に出入りするような粋な風流人であるが芭蕉にはそういうことはまるでない、修行者なのである。忍者だったというとき何か忍者とか密偵とかそういうのがあっているからそういう説が出てきた。人目を偲ぶ生活である。旅でも須賀川は実は郡山よりも明治20年までは栄えていたとか商人の街であり栗の花が咲く隠者を訪ねるような所でもない、そもそも隠者でありえるにはのんびり隠居するには商人のように金に余裕がないとできないのである。貧乏人の農民は日夜あくせく働いているのが江戸時代である。須賀川にそうした隠者のような人がいたことは須賀川は商人の街として栄えていたからでありみちのくの貧しい農村地帯ではそういうことはできなかったのである。風流に生きることができるのは贅沢だからという逆説もあったのだ。

いづれにしろなぜまた花かつみのような幻の花を求めるようなことをしていたのか?おそらく江戸より寒い地域には見れない花が咲いていたということがあった。みちのくはまだ未知の世界だった。
北海道には高山に咲いているハクサンチドリが平地に咲いている。檜扇菖蒲も咲いている。宗谷岬への旅ではそのハクサンイチドリが雨にぬれて咲いていた。そういう北へのまだ見ぬ地域での発見があると思っていたのかもしれない、芭蕉が求めたのは本当にわび、さびの世界である。一方蕪村は華やかな美の世界があった。元禄時代というとき奥の細道からはずれているけど三春藩の境に近い葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦と元禄と記された碑は謎である。元禄というとき何か華やかな時代を連想する。あんな山の中にも元禄の碑があったということでめずらしかったのである。


まず今は奥の細道の面影が残っているところは極めて少ない、ただ境の明神のある所は杉木立で道も細く奥の細道に入る面影を残している。あとは白河市から須賀川とかは新幹線の世界であり新幹線が山をロケットのように突き抜けて行く世界では旅情など全く感じないのである。あの辺は歩いても旅情を感じない、車の量も多いし疲れるだけである。

 

2012年01月26日

黒茶碗(日本人なら茶道はわかる)


黒茶碗(日本人なら茶道はわかる)

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松風や抹茶を飲みぬ冬の朝


黒茶碗二つや茶室冬の暮

黒茶碗通販で買い冬籠る


通販で一つ黒茶碗を買った。最近本でもアマゾンでかなり買った。DVDの映画も買った。輸送量で300円くらいとられるとなかなか買いにくいが無料だと買うようになった。そもそも通販で買うものは近くでは売っていないものである。田舎では通販とかインタ-ネットは便利なのである。都会だったらいろいろ品物があるにしても田舎ではない、ただここは原発事故で一時通販もできなかった。今でも一部はできない、古本でもアマゾンから直接配達されるのは配送されるがその他は配達されない、六号線などが通じないからそうなっている。今日も寒かった。石油スト-ブなど危険なものは使えないので寒い。エアコンも自分は使っていない、このくらい寒いとやはり辛い。

雪に埋もれるよりはいいが家の中で過ごす時間がふえるとテレビとか本とか読むことが多くなる。テレビもデジタル化して番組がふえた。映画も一度だ見ても忘れているのだ。本もそうである。本は書斎に整然として並べると意外とそのままになってしまう。本を書店のようにばらばらにして一つ一つを手にとって中味を立ち読みする感覚だと本にかえって親しめる。それも全部読もうとすると読めない、要点だけ大雑把に読もうとすると読めたりする。本もいくらあっても全部は読めないから要点だけを読み記憶することが大事である。あの本にはあんなことが書いてあってあそこは文章を書くとき必要だから覚えておこうとかなる。そういう点でインタ-ネットは橋に興味をもって書いていたら「道行名残の橋づくし」という文楽が地図を利用して作っていた。あれは面白い。一つの番組として作ったのだろう。

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc13/map/index.html


大阪市長の橋本市長が文楽の協会の予算を減らすとか言っていたが市費で文楽の文化を維持しているからここもその予算で作った。文楽には興味がないけど文楽の物語は全国に伝わった。東北でもその関係の物語が残っている。


江戸時代の中頃に、四国阿波や、淡路島、大阪浪速の人形遣いから伝えられたと言われています。


これは相模とかではあるが他でも伝えられた。


茶の湯も東北ではあまり盛んではないしなかなか庶民まで茶を楽しむというのは今でもししていないだろう。そういう文化の背景がまだまだないためだろう。それなりに暇と金がないと文化は発達しないという面はある。自分も茶道がなにかなどほとんどわからない、ただやはり日本人だから茶道とかは別に勉強しなくてもその風土と一体化してできたものだから理解しやすいとなる。数寄屋作りは外国はシメントリ-を重んじるが数寄屋はそのシメントリ-建築とは対称的なもとして作られた。石が素材でないから木や竹や壁でも土を素材にするとやはり煉瓦などとも違い自然の素材そのものを活かすものとなるから日本的な生の文化となる。新潟の凌雲閣が一室一室が別々の装いで茶室になっているのは面白い。茶室でも同じではないそれぞれ個性がある。ただ茶室は空間だからそこに入ってみないとわかりにくい、実感がもてないのだ。写真で見てもだからその茶室がどういうものかわかりにくいのである。建築でもやはり空間的なものだから写真だけではわからないのだ。外国でもガウディの建築は曲線にこだわるようになったから茶室の数寄屋とにている。直線とシメントリ-の世界だけだと疲れるということもあり新鮮味がなくなったからあのような曲線を志向する建築も生まれたのである。


茶道といってもやはり日常的にそれを楽しむ生活に活かさないと活きてこない、茶碗にしても飾っていただけでは活きてこない、使うことによってその価値がでてくるのだ。何事使われないものは廃れる。言葉だって古語でも使われないと廃れるのだ。茶道にしてもそれは生活と分離した特別なものとしてあると活かされない、華道にしても別に花を活かすことであり理屈など必要ない。それは日常的に行われてこそ活きてくるのである。芸術は芸術だけがあるのではなくその背景に基盤に日常的な生活があって成り立つのである。それがなくなれば芸術はありえない、だからこの辺では日常的な生活、農民が土を耕すなどがなくなっているからそういう基盤が喪失したから芸術は宙に浮いたようなものになってしまうしありえないとなった。芸術だけではないそもそもコミニュティのつながりやら自然とのつながりや時間で作られた歴史などが断たれるという危機になった。様々なアイディンティティが喪失するという危機になったから深刻なのである。


合成写真もパソコンの芸術である。合成とか加工に向いているからだ。ARTは技術だった。技術を駆使するとア-トになってゆく、それはまさに技術だから技術を習得すればできるとなる。印象派でも技術として習得してはじめて印象派の作品ができた。絵が描けなくてもア-ト(技術)だから素人でもその技術を駆使してア-トを楽しめる。ただあまりやりすぎると著作権違反になるから気をつけろとなる。

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2012年01月28日

津波で消失した風景の不思議 (北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)



津波で消失した風景の不思議

(北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)

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流された家を配置 クリック拡大!
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クリック拡大!

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磯部の船溜-バス停には船溜とあった


蔵二つ津波に残り冬の暮


御堂一つ部落に残り冬の暮


津波跡残れる樹々や山脈を望めば雪に北風鳴りぬ


思ほえず死にしものかな庭の石残りて一つ寒さ身にしむ



あの辺は家は少ないけどまばらにあった。公会堂もあり一つの集落ではあった。でも残ったのが蔵と御堂だった。家も残っていたがコンクリ-トの家をのぞいて壊したのだろう。蔵はそっくり残っていた。やはり蔵は頑丈なのか?火事でも蔵は残る。防火用として蔵は建てられた。ただ蔵でも蔵のあった家は流された。多少海に近い方だったからか、あの蔵は頑丈でない蔵だった。写真が残っていたので元あった所に写真を配置した。実際は道に沿ってあった。それにしても残った二つの樹がまるで門のようであり御堂が残っている風景も不思議である。今日は部落の人がみんなでかたずけをしていた。まだまだかたずけるものがあるのだ。土に埋もれているからだ。それにしても御堂が残ったりしたけどあそこの集落は前のように復興できるのだろうか?もともと家が少ないからどうなるのか、何か残された風景を見ると不思議である。蔵が残り御堂が残り樹が残った。何か集落の骨格だけが残ったような不思議さがある。烏崎村では大きな庭の巨岩が一つ残った。あれも不思議な光景である。

今年は寒い、その寒さが荒寥とした風景の中で身に沁みる。人間も相当数死んでいるから余計に荒寥としているのだ。

松川浦の磯部の方の船溜も壊滅した。写真は鮮明ではないがあの辺の家は全滅して一軒も残っていない。土台しか残っていない、磯部は一番悲惨だった。写真は鮮明ではないが貴重になった。磯部には家が多かった。その家が跡形もなく土台だけを残して壊滅したのである。松川浦の原釜とか旅館のあるところはまだ家が残っているが磯部は一軒も残らないから悲惨だった

津波で残った烏崎の庭の大石
http://musubu2.sblo.jp/article/50543018.html


1月27日


津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)

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車輪梅で有名だった海老と右田の松原
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岩沼の海岸から仙台の方を望む
この辺は松原がつづいていた

これは2010年にとっていた写真である。時系列に並べて調べてみたらでてきた。津波で失われた風景はかなりある。警戒区域で立ち入れできない所の風景も今は見れない、原発事故でも風景自体が失ったわけではないから高瀬川渓谷などは別に警戒区域が解除されれば見れる、放射能を度外視すれば風景自体が失われてはいない、津波では風景自体が失われた。陸前高田市では7万本の松が流され一本残った松もかれてゆく、この辺ではまだ多少松は残っている。それでも右田の松原とか松原自体はどこもなくなり景観は失われたしもはやもどってこない、松原がなくなると思っていなかったから写真もとっていなかった。ただこの時松原に雪がふりその雪景色がめずらしいので写真にとっていたのである。


海老浜の車輪梅は南限の生息地として有名だった。海老村はほぼ壊滅したし防波堤も破壊された。
烏崎村も壊滅した。残ったのは庭の大きな岩だけだった。その破壊の跡はあまりにもすさまじい。
阿武隈川を下り仙台の方に行ったところの松原もなくなったろう。亘理でも岩沼辺りでも破壊がすさまじかった。あの松原から雪の蔵王が見えた。あの松原もなくなった。岩手県までの海岸沿いの風景はかなりの部分喪失した。特に松の破壊はすさまじかった。ただ記録として貴重となったのでここにのせておく。他にもまだあったので探してだしておこう。

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南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた? 仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された)

 
南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた?
 
仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された
 

  鯨引き
<由来・沿革>
  烏崎の津神社の丑(うし)年4月第1日曜日の浜下りには、2つの山車(だし)が伴います。1つは小舟の上に張り子の鯨を乗せたもの、もう1つは直径1.5m程のやはり張り子の蕪(かぶ)で、いずれもリヤカーなどに乗せます。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/bunkazai/minzokugeinou.jsp

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鯨の碑があったのはこの神社の裏だった?津神社とは津波と関係している。松川浦の津(つのみや)神社もそうである。そこは高台にありそこに逃げて助かった人がいた。でもそれが津波を記念して建てられたものと明確に自覚して伝えられたとも思えない。烏崎の津神社も松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。400年前の慶長津波は今回の津波とにて大きなものだった。相馬藩政記に700人死んだと記録されている。当時にしたら700人は多い。でも記述はそれだけなので記録としては余りにもインパクトがなさすぎたのである。慶長津波から一か月して相馬市に小高にあった城を移した。それは津波の被害の復興のための事業としても同時に行われたと津波の経験で推測している。
そもそもいつ神社が祭られたのかわかりにくい、津神社あるところは港に近く家が密集していた所とは違っている。ただこの津神社は松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。なぜ鯨引きとかの
祭りが行われているのか?鯨の碑や金比羅の碑があるが明治に建てられたものである。江戸時代からあったものではない、でも津神社自体は慶長津波の後に建てられたとすると古い。それでもそうした大きな津波の後に人が住むのかという疑問がある。


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


名取りの方に慶長津波の後に開拓に入った相馬藩の侍がいたということはその被害があったからこそ開拓に入った。人手が必要としたから開拓に入った。とすると烏崎辺りも漁業というより開拓して米を作り住むことだった。仙台辺りまでの海岸は漁業はそんなに盛んではない、むしろ津波の後にも開拓する人が必要だったように稲作をすることが第一と考えられていたのだ。だから烏崎でも大内村との間に袋村があり田を作るために開拓して海岸線に住むようになった。それは慶長津波の後である。烏崎の町のあった近くに水葵が咲きだしたのもそのためである。この花は水田に咲くからである。表土が流されて咲きだしたという不思議がある。


津波の被害があってもその頃は稲作中心の社会だったのでやめるわけにはいかなかった。だから津波の後にもかえって人手が必要となり名取とかで開拓したのである。だから烏崎も津波の後でも開拓して水田を作ることが優先された。それが今の常識とは違っていた。たとえ大きな被害があっても米を作らねば食べていけないからそうなった。
江戸で消費される米の三分の一を仙台藩がまかなっていた。その米は石巻港から運ばれていた。この米の量は多い。仙台藩にとって米は輸出品でありどうしても生産を止めることができないし増量することが強いられていたのである。

一方今回の津波の被害は現代的なものだった。
仙台でも名取でも山元町でも住宅地が被害にあった。仙台の若林区とかは仙台市街から住宅地を求めて住んだ人なのである。新興の住宅地でありそこは別に米をとるために開拓するようなものとは違っていた。山元町の被害も大きかったのは新興の住宅地として海側に開発された地帯だったからである。山元町だけで700人が死んだのは多すぎるからだ。そして20年前に学者が津波が前にもここには来ているから住宅地にするのは危険だと警告していた。最近を地下の土壌検査で津波がかなり奥まで来ていたことが実証されていたのである。その貞観津波のことで東電にも福島原発が危険だと警告していた。確かにこれは最近わかったことでもやはり科学的に実証されたということが信憑性が高いものとなっていたのだ。しかし警告した学者は住宅を開発する人々により脅迫電話とか受けてその後はあまり言えなくなったという。

20年前にそういう事実があった。これも原発事故とにている。人々は高度成長時代にただひたすらた利益を求めて突っ走っていった。福島の原発でもコストカッタ-と異名をとった社長がいたのと同じである。ただひたすら利益だけを求めなりふりかまわない、それに歯止めをかけるようなことを言わせないという全体の雰囲気があった、空気があったのだ。原発でも地元でもそうである。利益があればいい、危険のことなどあとまわしにされた。だから天罰だったということも原発と同じ様に津波の被害にあった仙台から名取などの海岸地帯の人にも言われる。


『仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う』(1995年。絶版)という著書を出し、地震による大津波に警鐘を鳴らし、対策を構築するよう提案してきた在野の歴史研究者がいます


これも15年前であり警告する人がいた。ただ相馬の浜通り辺りでは津波の伝説すら聞いたことがない、そういうのも残っていなかった。貞観津波が相馬の奥まで来ていたということは学者によって地下の土を検査して実証されていた。でもそのことを真剣に考える人はいなかった。ただあれだけ海の近くに住んでいると不安になる。津波が来たらどうなるんだろうとか常識的に心配になる。ただ400年も津波がこの辺では来ないから安心していた。やはり400年という歳月が津波の被害を全く風化させて忘却させられたのである。自分は。海から離れた町に住んでいるから直接的恐怖は感じないにしろ小学校辺りまで津波でないにしろ夢で波にのまれる夢を何度も見た。あの前に家は少なく見通しがよく海に通じていたからである。その小学校の前まで津波が来たことに驚いた。夢が事実になった。夢も何かを語っているのだ。ともかく松川浦でも烏崎でも津神社があり津波を記念して神社が建てられたとしたらそのことをもっと語られていれば警告にはなっていた。でも実際は神社というのは何のいわれなのかいつ建てられたのかわからないのが多いのである。400年も過ぎると謂われさえ不明になる。


津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)
http://musubu2.sblo.jp/article/48005137.html

2012年01月29日

慶長時代は連続して大地震が起きた時代 (会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

 

慶長時代は連続して大地震が起きた時代

(会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

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慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する(ココ)。



・慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線における地震。
・慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾・日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震である。
・慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。六甲・淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
・慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少なかったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
・慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
・慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。


この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられ、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる慶長地震があった


『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年間経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる。



慶長会津地震

慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。この地震のときには盆地の真ん中に湖ができ、柳津の虚空地蔵様をまつったお堂は只見川に転がり落ちまた鶴ヶ城の七層の天守も大きな被害を受けた。鶴ヶ城の天守は慶長の大地震で大きく傾き石垣はすべて崩れ落ちた。明成は領民に大動員をかけて七層の天守を今の五層に改めほぼ現在の鶴ヶ城の規模を作り上げた。


慶長時代にこれだけ地震が起きていた恐怖である。地震は連続して起こる。巨大な地震が起きるとき大規模な地殻変動が起きているためなのだろう。こんなに連続して地震が起きる。この辺は今でも地震が起きつづけているし関東でも地震が多いから4年内に大地震が来ると警告を出した。


相馬市と南相馬市の烏崎の津神社について書いたが津波と表記されるようになったのは慶長三陸津波からである。だから津(津の宮)神社となった。津波神社を約したのが津神社なのだろう。なぜならそれまでは津波という表記はなく海嘯とか別な表記だったからである。津というのは日本独自の地形であり津に入ると波が急激に高くなるから津波となった。津々浦々というように日本にはそういう地形が多いためでありそれが津波の被害を増大させたためである。

慶長時代に慶長会津地震があったというのも驚きである。これは慶長三陸地震の津波の起きた地震ではない、慶長会津地は慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日であり同じ年でも三ケ月後だった。でも三ケ月後というのは短い。4-5年おきに大地震があった年であり関東地方に4年後に大地震が起きるという推測はこうした過去の記録も参考にしているのだろう。
 


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
             京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総               沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な             かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地                                   震でM8.1。


(1596)年9月1日-(1596年)9月4日-(1596)年9月5日-(1605)年2月3日-(1611)年9月27日-(1611)年12月2日



3日後に大地震が連続して起こった。10年後にまた起きた。地震はやはり連動しているのか、地下で地殻がつながり影響しあっている。地殻変動が活発化するときは全国に及ぶ。会津でも大きな地震があり地形が変わり湖までできたことには驚く。七層の黒川城も五層に改築された。それは地震の影響だったのである。城でも日本は耐震構造にしないともたない、石垣がすべて崩れ落ちたというのも凄い衝撃だった。今の五層の会津城が地震の影響でそうなったということをふりかえればまた別な見方がでてくる。会津でもこれだけの地震の被害がありその三か月後に大津波で仙台でも相馬藩でも大被害を受けた。十年間塩害の影響があったというのも十年間くらい塩害をとりのぞき元にもどすのにかかる。ただ現代は技術が発達しているからそれよりは短くなるだろう。ともかくそういう一時代のことが今やよみがえってきているのかもしれない、だから全国的に地震の警戒状態に入る。ここ十年間でまちがいなく巨大地震が起きる。。過去の記録をないがしろにしていた結果として今回の津波の大被害があった。この辺でも四百年前に大津波の被害を受けていた。そういうことはほとんど語られなかった。しかし慶長時代は全国的に大きな地震が連続して起きた時代だった。たからこそこの時から津波という言葉が定着したのである。


   七層の黒川城の崩れたり五層に直して今にあるかな

七層の黒川城
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0aizu/0byako/oshiro/oshiro00.htm

posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年01月30日

鴨 (蔵書を手に冬籠もり) (本とインタ-ネットの相違)


(蔵書を手に冬籠もり)


(本とインタ-ネットの相違)


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冬日さし蔵書を一冊手にとりぬ


冬日さしペ-ジをめくる厚き本


冬籠もる部屋を埋めたる本の山


蔵書の整理に追われている。地震で本が散乱したが未だに整理できない、それだけ本が多くなっていた。家すら傾く重さだった。本は読むより積んどくでありただためる方が多かった。本を買うと知識を身につけたような錯覚に陥っていた。知識も金がいくらあっても買えない、知識はむしろ時間の蓄積が必要であり時間の方が大事である。時間がないから読書もできなかったことが老人になればわかる。会社勤めの人などは忙しくてまともに本など読めないだろう。忙しいということで人生の貴重な時間が失われるのだ。人生はいかに貴重な時間を失わせられるものか老人になればわかる。くだらないことで時間はまさ飛んでゆく。Times flyである。様々な欲望に追われいつのまにかに時間は飛んでゆき時間は消失してなくなる。若いとき時間などいくらでもあると思っている。時間が一番貴重なものであることがわからないのである。時間は有限であり死ぬということはその有限の与えられた人生の時間が消失することである。

本というのはやはりパソコンで読む電子文字とは違っている。冬の日が古い厚い本にさしてペ-ジをおもむろにめくる、そういうことでなつかしく記憶が蘇ったりする。本は一つの物であり知識として集積した財産なのである。だからこそアレキサンドリアでは世界中の本を集めた図書館を作った。

図書館が知識を集めていたのである。マルクスもイギリスの大図書館に毎日通っていた。それが仕事だった。ロ-マ帝国の都市ではでもすでに立派な図書館が街の中央にあった。あのうよな立派なものがすでに二千年前ほどにあったということに驚く。ロ-マは現代からかえりみてもさほど変わらないから人間的に理解できる。ともかく図書館はそれだけ重要なものだったのである。本はそれだけ重要なものだった。本はものだから何かその本に愛着する、手触りとかあり冬の日がペ-ジにさしてめくるときパソコンの画面に向かっているのとはかなり違ったものでありそこで頭に入るということがある。


そもそも本は選ばれたもの書いたものだから内容が濃いのが多い。インタ-ネットは無駄なものが雑音が多すぎるのだ。ただインタ-ネットは他者のものを読むというより自分で書いて発信することが余りにも簡単であり便利だからこうして書いている。本にしようとしたらすでに何もできない、本を出せる人は限られているのだ。書店でも売れない自費出版などおかない、だから今になるとかえって書店にいい本はなくなっている。昔の方がいい本がでていた。本の弱点は何か調べるとき不便である。インタ-ネットは素人が出していても例えば郷土史でも市町村が一ペ-ジ紹介しただけで他の人に役立つことがある。それを本にしていたら読むことさえできない、だから地方の図書館にいい資料がいくらあっても役たたないのだ。そういう点ではインタ-ネットは優れている。例え近くに図書館があっても調べようとするとめんどうなのである。暇人でないとできない、前はできたけど今はできない、だからここでも近くに立派な図書館できたけど今は行っていないし福島市に巨大な図書館があっても利用できないのである。そして本でも資料でも手元にないと役立たない、文章を書きながら調べるという点ではインタ-ネットが便利なのである。ただその内容は貧弱でも役に立っている。
要するに将来的にグ-グルが目指しているのはアレキサンドリアの図書館なのである。世界中の本を電子化してインタ-ネットで読めることを目指しているのだ。



橋の下の鴨



いつも買い物に行く橋の下

鴨は里の川に群れぬ

波紋もたたず群れて憩いぬ

自然なるものは悪を知らず

それ故に乱れず幸いなり

北風は樹々に唸り冬籠もる

蔵書を手にとりペ-ジをめくる

冬の日がその古びた本にさす

我が家もすでに建てしより四〇年過ぎ

この家を建てた姉は死に

我が母は寝ながらひなたぼこ

時節の流れは早く無常迅速

津波事故の被害の後遺症は癒されぬ

鴨は世の人の移りを知らじや

穏やかな光に群れてむつみあう

いつも買い物に行く橋の下に・・・



ほとんど毎日買い物に行き仕事は家事である。最近退職した人で料理をする団塊の世代がふえたということがわかる。その団塊の世代は男だから道具にこだわり特別の鍋とか包丁にこだわるというのもわかる。女性と違った感性を男はもっているからだ。退職してからの人生も現代は長いかもしれない、ただこれはそれぞれである。介護していたりしたら意外と時間に追われる。妻がいて三食用意されたりしていたら暇だとなる。自分は前はそうだった。三食用意することが結構手間なのである。
料理は時間がかかるからしていないけどインスタントで結構今はいいものがある。だからそういうものを買っているだけでなんとか料理になる。老後はやはり落ち着いて暮らしたい。それがこの辺では津波原発事故で阻害された。 毎日同じ道を行っているけど群れている鴨を見ているだけで心がなごむ。自然は常に癒すものをもっている。それか放射能騒ぎでその自然すら汚されたことは余りにもショックだった。田舎から自然をとったら何もなくなるのではないか?自然があるから不便でも田舎がいいはいう人はいた。特に老後はのんびりと自然の中で過ごしたいという人が退職者にいたしそういう人がこの辺でもいたのである。それが放射能騒ぎでだいなしになったことが許せないのである。