2012年01月11日

焼畑時代の名残りの万葉集の歌 (安達太良の雪形-粟蒔入道)

 

焼畑時代の名残りの万葉集の歌

(安達太良の雪形-粟蒔入道)

●春日野は焼畑だった


ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを


梨棗黍に粟次ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く


あしがらの箱根山はこねのやま粟蒔きて実とは成れるを逢無くも怪し


よみ: 春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿(しか)待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


この歌が何を意味してるのかわかりにくい、神の社とは何の社なのか?焼畑から稲作に移る過程でできた社なのか?稲作の神が祭られたのか?粟と鹿というとき焼畑時代のものだろう。鹿の血を畑に蒔くとか田んぼに蒔いて豊作を祈るという風習も焼畑時代のものである。月見の行事に芋や団子を供えるのも焼き畑時代のものである。太陽より月が信仰になっていたのが焼き畑時代だった。天照神になったのは太陽神になったのは稲作になってからである。ここに何か春日野辺りに大きな時代の変化が稲作への変化が起きてこの歌が生まれた。大仏殿ができたところだかちら社からさらにあれだけ巨大なものができたのだからあの辺は変化が激しかったのである。鹿待ちにということ鹿を待ち伏せるとは鹿を刈りしていた狩猟時代の感覚である。万葉集時代はまだ狩猟時代が継続されていた所がある。だから狩りの歌も残っている。生々してものとして残っている。稲作がはじまると焼畑は否定的に見られる傾向になりその神や風習も軽んじられる。天照神が第一位の神となった。ただ焼畑時代のものはその後も祭りとかでいろいろ残されているのだ。その一つは月見の行事である。焼畑の地名も全国的に多い。焼畑は稲作のように余り技術を擁しない粗放な原始的農業だった?だからいたるところで最初に焼畑が行われた。燃やして灰が肥料になるからだ。海辺の村でも漁港の後ろが焼畑地名になっいる。牡鹿半島辺りでも山が佐須とか焼畑地名があり飯館村にも佐須がありいかにも焼畑が行われていたという奥地なのでてある。


宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/2543033/


日本では米を重点に語られるけ実際はこのように海の産物から粟とか雑穀から多様な食があった。それは戦前までつづいてきたのである。戦後十年後くらいから白米だけになった。雑穀は忘れられていったのである。


●安達太良山の雪形、「粟蒔入道」


これも何のことかと思った。山の中に分け入り粟をまいている姿が雪形として残る。それを目安として農作業をはじめた。
http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/19417639.html


「種まき」「豆まき」「粟まき」「代掻き」「田打ち」などをしている人物や馬、牛、鳥など身近な動植物、文字、農具類等がある


雪形は農民の生活と密着していた。普通だったらこんなふうには見ない、日頃こういう仕事をしているから実感として自然になったのである。農民の命名の仕方は美的なもなどない、地名も便利なものとして生活に密着してつけられていたのだ。そこが勘違いしやすいのである。


 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳


これなども狩猟時代を彷彿とさせるものである。鹿や猪の寝床になっている所を知っているというのは山を相当に知っていないとこのような歌は生まれない、熊を狩猟するのも春でありその冬眠している穴を知っているからできるし危険なことである。安達太良というとき飯館村との境の水鏡神社を越えると川俣に入ると安達太良山が見える。あそこを境にして中通りであり安達太良の見える領域になる。だから農作業をしながら安達太良山が見える。安達太良の大きな影が消えるのは川俣から水鏡神社を越えて飯館の方に入った時なのである。山というとき蔵王は南相馬市の鹿島区の八沢浦とか岩沼の海岸線とかからも見えた。阿武隈川が海に出る辺りにも残雪の蔵王が見えて美しかった。安達太良は浜通りからは飯館からも見えないのである。だから水鏡神社を越えたとき二本松を意識する。日本は山で峠で境界を意識するのである。


吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮


農作業しながら安達太良が見えるのが川俣だった。川俣は二本松の領域なのである。

 
 
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原発とロウソク(蠟燭) (蠟燭(ロウソク)も高価だった江戸時代)


 原発とロウソク(蠟燭)

(蠟燭(ロウソク)も高価だった江戸時代)


ロウソクの油にはいわしやさんまの油を使っていましたが、けむりが多くてたいへんでした。 ろうそく1本で6時間ともせました。でも、ろうそく1本2,800円もしたので、庶民は簡単に買えませんでした。ろうそくのしずくを買い集める。江戸時代、ろうそくはたいへん貴重な物だったから、燃えた後に残るしずくも貴重な物だった。


江戸時代には、ろうそくの流れ買いという職業がありました。ろうそくの流れとは、燃やしたろうそくの滴が落ちて固まったものです。ろうそくの流れ買いとは、家々を回ってこれを買い集める仕事です。
現在一般家庭で使われているろうそくはパラフィンなどを使った西洋ろうそくです。しかし日本古来の和ろうそくとは、はぜや漆などの実からとったロウが原料で、それを取り出すのは専門の技術が必要でした。
和ろうそくを作るためのロウの取り出しにはかなり手間がかかったため、ろうそくの滴は貴重であり、買い集めることで一つの職業として成り立っていたのです。
買い占められたロウは再びろうそくを精製するための材料として、再び溶かして型に流して利用されました。


現代の日本では、石油に代表される化石燃料だけでも、毎日一人当たり10万キロカロリー、石油換算で約10リットル分も使っています。ところが江戸時代の先祖は、今と同じ基準で計算するならゼロ・エネルギーで暮らしていました。ゼロと10万の差



昔をふりかえることはやはりいつの時代でも必要である。今がどうしてこうなったのかわからなくなっている。すると今のこの豊かな生活のありがたみがわからなくなる。電気なんかあって当然じゃないか、停電になればもう大騒ぎになる。今や現代人はあまりにぜいたくになれすぎてしまった。あって当たり前でありでありこのようになにもない時代のことを忘れてしまった。いかにロウソクですられほど貴重なものだったか?今は電気を使いどれだけ贅沢をしているのか、電気くらいみんな少しは節約できるだろう。これは極端にしても現実そういう時代があった。ロウソクの雫さら買い集める、そんな時代だった。こうした生活を忘れたとき、原発などという超危険なものに手をだした。双葉町辺りでも貧しい貧しいというけど高度成長時代は別に原発なしでもやれた、それなりに高度成長の波にのって豊になれる時代だった。原発なしで何もなりたたないということありえなかった。全国的にも別に双葉町が特別ではなかった。会津の奥地などもっとひどかったろう。江戸時代に帰れというのは無理にしても江戸時代がどういう生活をしていたか、それを知る必要がある。 ロウソクは相当に贅沢なものでありロウソクは今の電気とするとどこでも大きな産業だった。会津などでの絵蠟燭などがそうだった。だから会津藩領域以外に販売されていた。それでもロウソクが高価なものであり絵ロウソクになればもっと高価であった。


原発の南西約12キロに位置。富岡町内の残留者は一人だけという。震災から約1カ月後、松村さんも同県郡山市内に一時避難した。だが、すし詰め状態で避難所に横たわる被災者を見て「自分には無理だ」と思い、3日ほどで自宅に戻った。「『自分勝手だ』と非難があることも分かっている。罰金ならいくらでも払う。でも自宅に帰ることが犯罪なのか。おれたちは被害者なのに」


 自宅は電気、水道などライフラインが寸断されたままだ。だが、自家用車に使うガソリンなどの燃料は火災を心配する町民が「使って」と提供してくれた。食料は備蓄のコメや缶詰。風呂は井戸水をまきで沸かし、夜はろうそくをともす

双葉町で離散した家族の人がロウソクでもいい、原発はこりごりだと言っていたのが印象的だった。自分の住む場所すら奪われてはじめてそのことに気づいた。便利な生活も大きな代償があった。

原発などなくても石炭とか石油は簡単に枯渇しないという学者もいる。本当はそうだったが原子力をはじめたのはそういうことではない、別な意図が政府にもあった。現実に未だにベトナムに原発を売るとかトルコに売るとか決めているからだ。原発を輸出してもうけられるという思惑もあった。
そのために原発をやめるわけにはいかないとか石炭でも石油でもあるのだが原発をはじめた意図は別なところにありだから危険でもやめられない、技術立国である日本を維持するためにはやめられないとかの裏の事情があった。現代人は余りにも贅沢になれすぎてそれが過去のことを忘れてしまった。それは津波にも言えた。過去に津波は何度もありどこでも危険なのが日本だった。しかし忘れていた。だから忘れたころに災害が来るということに日本ではなっていたのだ。


戦前でも自転車は貴重で一生修理して使っていたとか、なんでももったない時代だった。それが消費こそ美徳と何でも使い捨てで新しいものにするのがいいのだということが高度成長時代から急速に始まった。そのことが原発でも危険でもいい、便利ものを危険を度外視して作られた原因でもあった。豊になればなんでもいい、危険は見逃されたのである。現代は絶えず捨てるものが多すぎる。ゴミが大量に暇なしでてくるのだ。リサイクルした江戸時代とは正反対なのである。そういう生活が必然的に原発という危険なものでも便利な生活を選んだ背景にあった。江戸時代をいろいろな点で見直すというとき江戸時代が最大のエコの生活だったからそうなる。日本にはその手本があったからこそそう言われる。意外と江戸時代は平和な時代であり歴史的に注目されない、戦国時代が歴史のすべてのようになっている。そこにも歴史を知る問題があった。ほとんど戦国時代とか戦争とかそういう面白いことだけを歴史としてとりあげるからそうなる。それだけが歴史ではない、゛日常的に生活に密着したのも歴史でありそういうことが語られなさ過ぎている。津波のことなどもそうだった。戦国時代の目立つことばかりが語られていた。津波も大惨事なのだからもっと語られてもいいはずだが語られていなかった。人間の興味がそういうところに向かないということもあったから大事なことでも忘れられてしまう。信長や秀吉のことはあくことなく語られてもそうした庶民の日常的生活は語られないのである。

posted by 老鶯 at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年01月12日

時代劇衰退の原因 (大衆商業主義、大衆迎合の時代は終わる)


時代劇衰退の原因

(大衆商業主義、大衆迎合の時代は終わる)

江戸時代に興味あるから時代劇が衰退するのは残念である。戦後まもなくの映画館の時代があった。どこにも映画館がありニュ-スまで映画館で放映していたことがあった。その時ラジオの時代で映像はめずらしいからそうなった。その鞍馬天狗の嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)とかは誰でも知っている名前だった。映画もその頃白黒であり動く絵を見れるというだけで観客が来たともいえる。テレビがないのだから庶民の娯楽として人が集った。テレビの初期もこれも自宅で動く絵が見れるということで爆発的に広がった。内容より動画が見れるということだけで新鮮だったのである。そういう時代は長くつづいた。内容よりやはり動画が見れるということがテレビ時代を作ったのである。
NHKの大河テレビなどで時代劇が映画から引き継がれた。テレビの時代劇が水戸黄門に象徴されるように長くつづいた。それも遂に終わりとなった。時代劇は今やその伝統芸が若い人に受け継がれないという危機に瀕するようになった。時代劇も日本の伝統であり文化だからそれを失うことは惜しいとなる。ではどうして衰退したとなるかはいろいろな時代背景がありいちがいには言えない。


「(東映)時代劇のアタリ・ショック」であります。
当たるからというので、娯楽作品ばかり濫発した東映。
内容のマンネリ化、決してほめられない内容の作品も配給せざるをえませんでした。
http://www.c-able.ne.jp/~bantsuma/s/saiken_12.htm


作る側にも見る側にも問題があった。最初は映画でも内容より動く絵を見るということでそれだけで面白かったのである。テレビでもそうだった。それが当たり前となったときただ動くだけではつまらないとなる。内容を求めるようになった。それに作る側が答えられないとい面があった。これは見る側にも問題があった。見る方にしてもわかりやすいものを望む。芸術的な手のこんだものを望まない。それで勧善懲悪の水戸黄門が受けたのである。でも江戸時代でも善と悪が簡単なものではない、世の中は複雑でありそんな簡単に悪を懲罰できたりしない、でもわかりやすいから考える必要もないから大衆に受けたのである。大衆に受けることばかかり視聴率をとることばかり考えたら娯楽作品ですら内容もないものとなり見る人もいなくなる。そこに矛盾があった。この矛盾は現代の大衆社会を象徴している。大衆にあわせようと視聴率をとるばかりの放送するときかえって番組がつまらないものとなり大衆にすら見捨てられる、テレビを見ないという現象がでてきた。


大衆に迎合しすぎるとき時代劇のようなものでも文化をになっていたからそういうものまで衰退して滅びる。現代の問題はあらゆるところが大衆迎合主義になったことである。政治から宗教から情報産業から芸術から芸能から娯楽まであらゆる分野で大衆迎合主義になりそもそも文化であったもの伝統すら失われた。文化は大衆によって破壊される。大衆という言葉、その存在自体が近代になって現れたものであり江戸時代には大衆という言葉もない、民衆という言葉がありこのフォ-クロアと大衆は違ったものである。民衆はフォ-クロアのように民俗学の対象となる民話や民謡などの文化を残している。大衆とは何物も創造しない、ただ消費するだけの大衆であり商業主義のなかで新たに創造された人々である。ただ消費するだけの多数の存在である。ただ多数であるが故に社会を支配するという現象が起きた。そのことは様々な人が言ってきたことである。劇場民主主義と大衆民主主義とか扇動される主体なき大多数というのが大衆である。その大衆が伝統も文化も破壊してきたというのが近代だった。


文化というときいろいろなレベルがある。民衆レベルの文化も郷土料理とかにもあり民謡もありと別に高度なものだけが文化ではない、でもヨ-ロッパなどでは貴族が芸術家のパトロンとなり芸術が興隆した。貴族はやはり見る眼があり鑑賞力があるからこそ芸術家を育てることができた。ただ金があるだけでは芸術家だって育てられないのである。ヨ-ロッパの音楽でも絵画でもやはり高等なものになるとそれを鑑賞できる人達がいないと芸術も発展しない。商業主義で生まれ大衆向きにすると文化は生まれないし映画の娯楽ですら衰退する。映画が娯楽としてもその底辺が広くなれば黒沢映画のように世界に認められた映画が作れたのである。ただ大衆主義や商業主義は文化を破壊する。そもそも文学とかなると理解する人が少ない、詩などになると本当に理解する人はさらに少数者になってしまうからである。だから詩でもくだらなくても大衆向きにすれば売れる。小説でもそうである。商業主義と大衆主義は一体である。ブヘストセラ-なんかメデアの力で売るために作り出されたが出て半年くらいで使い捨てのように見捨てられ誰もかえりみない、だからすでにベストセラ-というのはなくなった。百万部単位の本など売れないだろう。


これからの時代はそういう大衆主義とかなものは衰退してゆく。メデアでいくら虚構を作り上げても受けない、みんながテレビに釘付けになるようなものはできない、個々の関心が別々になりそれぞれが細部にこだわるようになる。それは確かに中世の時代に帰るということは言える。信長とか秀吉のドラマなどもう見たくない、それはわかりきっているからである。もっと江戸時代でも庶民のこととかその生活を細部について知りたい、そういうドラマでもあったら興味深いとなる。ただそうなると視聴率がとれないから時代劇の技を伝統を受け継ぐことがむずかしいとなる。例えば「蠟燭(ろうろく)と原発」ということで書いたけど


江戸時代には、ろうそくの流れ買いという職業がありました。ろうそくの流れとは、燃やしたろうそくの滴が落ちて固まったものです。ろうそくの流れ買いとは、家々を回ってこれを買い集める仕事です


ええ、こんなことがあったのかと庶民の生活を原発を使うような時代と比べると興味深い。そういう細部にこだわり追求すると別な風に江戸時代が見えてくる。ただこうしたことは視聴率はとれないからやらない、でも誰かがインタ-ネットなどで追求して出せば少数でも見る人はいる。インタ-ネットはこうした興味の分散化でありテレビ時代やマスコミ時代から変わるメデアとして生まれたのである。時代によってメデアも変わってくる。大衆商業主義やマスコミなど何かまさに大勢を大衆を標的とした商売は成り立たなくなっている。個々の興味に対応しないと娯楽すら衰退する。そういう個々の興味や細部にこだわる時代の変化がある。それはいろんな分野に適応される。ともかく大衆商業主義はどこでも衰退することはまちがいない、時代が変わってしまったのである。

 
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2012年01月13日

蟻と蝶(詩)



蝶と蟻

蝶はどこから生まれるのか
空気から生まれ
風から生まれ
常に軽やかに
ところ定めず
ただよい浮かぶ
絶えず風に流れ
とどまるは花のみ
蝶は地には下りない
花も空中に咲いている
花々の中をいつも飛んでいる
まばゆい光の中を
蝶は神の掌から放たれた妖精
神の業の奇跡の一つ
風に運ばれ風に舞い
花にたわむれ嬉々として
命の喜びを現せり
しかし蟻は労苦の内に
汗と埃りにまみれ
冬に地下に眠り
ようやくに休みに入った
蟻の定めはただ労苦のみなのか
蟻はただ冬になり
地下でようやく眠りに入る
あたかも墓に人が眠るごとく
人はただ労苦のみなのか
延々たる労苦のみなのか
蝶は夢、蟻は現実
人は夢にのみ生きられず
蟻の宿命を負わされている
その宿命は終わることがない
世の終わりまで蟻は働きつづける
それが例え蟻塚を作るだけにしても・・・

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2012年01月14日

2012-夜明け(津波の跡に昇る太陽)


2012-夜明け(津波の跡に昇る太陽)
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まだ明けぬ大地凍てつき光る月


松一本残る夜明けに寒の月


家もなし松一本や寒の朝


寥々と松一本の残るかな寒の夜明けに月の光りぬ


新年の朝日輝き昇るかな津波の跡の大地凍てつく


津波跡人の涙も凍りしも朝(あした)に生きむ陽の昇るかな


二軒ほどここにありにし家知りぬ大地凍てつく寒の朝かな


家ありし跡に来たりて新年の陽は昇りしも大地凍てつく



6時ころ海の方に行った。月がまだこうこうと光っていた。大地は雪が残り凍てついている。ここ一週間くらい寒い。津波の跡は荒寥としている。一本の松が残り寒月が光る。この光景そのものが凄まじいものとなっている。写生自体が今やこの辺でありえないものとなっている。枝が折れ右田の松原の残った松も凄まじい。この辺では高田の松原とは違い、松は残った方だろう。それにしても右田の松原はいい松原だった。それが根こそぎなぎたおされた。そこで残った松は貴重である。


この光景はロシアから満州にくる所の荒野ににていた。大地が凍りついていた荒野が車窓から見えた。満州だったら零下何十度の世界だから比べることはできない、夏でも冬だった。満州と違うのはここには人が住んでいたということである。その人の住んでいた所に人が来ていた。あの辺には確かに二軒家があったし写真もとっていた。写真にとっていたところがかなり消失した。だから写真は貴重になった。あとで消失したところの写真を出してみよう。津波の傷痕は余りに深い、未だ何ら復興していない、あそこに家が新しく建ったりしたら復興したとなるがそれもないだろう。あのままの荒寥とした風景が残されれば津波のことは忘れられないだろう。満州とは違い荒野ではない、人が住んでいたからである。それでも新年の朝日が美しく輝き昇った、生き残ったものは生きねばならない。
太陽は美しく輝いていた。


松一本残る夜明けに寒の月


寥々と松一本の残るかな寒の夜明けに月の光りぬ


これは同じ光景を読んだものである。俳句と短歌は共通性がある。でもこれを比べたとき俳句の方が簡潔に引き締まっていい。つまりこんな光景など普通ありえない、だから写生そのものが凄まじいものとなっている。普通にはありえないから写生そのものが特別なものとなってしまったのである。
現実の写生は身にしみるのであり異様なことが写生となったのである。

 

2012年01月17日

寒椿(電車で相馬市の病院へ行く)


寒椿(電車で相馬市の病院へ行く)

寒の朝汽笛の鳴りて電車ゆく

久々や冬田に電車のひびきかな


冬の暮二両の電車の行き来かな


冬の朝竹の林に鳥の鳴く


侍や誠生き抜く寒椿


病院に三本の枯木今日も見つ変わらざりにし先生の診る


病院に治療を終えて小泉橋渡りて帰る冬のくれかな


この道の路次を幾度曲がりつつ老舗の菓子屋冬のくれかな



昨日は相馬市の病院に行った。電車が通うようになったので便利である。一時間おきにはでていない、二時間おきくらいである。それでも相馬市に行くには便利である。電車とバスとでは感覚的相当違っている。ただ相馬市までしか行かないからあとはまたバスになるから交通としては正常化しないしいつ仙台まで通じるのか、5年先とかなるとその頃死んでいるということもないとはいえない。それだけ先のことになっているのだ。二両の電車だからなんか淋しいとなる。過疎地帯を走る電車である。常磐線は別に過疎地帯のものではなかった。仙台まで通じていれば普通の路線だったのである。

医者も行くたびに変わると困った。年取ると何か人間で何でも変わることに弱くなるのだ。だから特に技術的なことには新しい技術にはついていけなくなる。現代は老人には住みにくいのだ。いろいろなものが機械化しているときその操作だけで大変になる。軽い認知症の介護をしているけどエアコンすらボタン一つすら押すことができない、認知症の人はテレビのリモコンも操作できないのだ。江戸時代のような機械に頼らない生活だったら認知症でもそれなりに適応できていたかしれない、見慣れた所でいつも知っている人とつきあっていればそれなりに受け入れられれは適応できていたのかもしれない、ボケたからとかで病気と認識されていなかったのかもしれない、認知症などという病気は記録されていないからだ。ともかく老人は変化に弱い、だから今回原発事故で仮設に避難した高齢者は悲劇だった。人間は長く一カ所に住んでいると自然とも一体化してゆく、その土地の樹や石のようになってしまう。人間もやはり自然の生物だからそうなってしまう。人間は機械ではないからそうなるのが自然なのである。


城下町というき相馬藩辺りでは郷士であり侍は農民をして暮らしていた。農民と侍が一体化していたのが覆い。相馬藩の城勤めの侍は少なかった。だから野馬追いというとほとんど農家から出るのが多い。街からは出ないのである。そして相馬野馬追いで外の人が錯覚しているのは500騎出場したとしてかなり多いとみるし壮観になるが実際は500所帯であり相馬藩内で15万を越える人口があるとすると極めて野馬追いに出れるのは少ないのである。江戸時代は所帯が少ないにしろそうである。野馬追いは民衆の祭りではない、選ばれた侍の祭りである。だから他の祭りとは違っている。選ばれた人しか参加できない祭りなのである。そもそも江戸時代に侍をどう見ていたのか?侍とは特別であったこと、庶民とは別な行動や立ち振る舞いをする人達であり区別されていた。ただ特別豊かな生活をしていたわけではない、相馬藩ではほとんど農民だったとすると農民の生活と同じである。ただ侍だったらこうしなければならないとか庶民とは違ったモラルの下で生きていたことは確かである。侍としての筋を通す何か強いモラルがあった。それがわかるのが切腹という行為だったのである。それほどまでして制裁を自らに課するのが侍だったのだ。そこが庶民とは根本的に違っていた。今はそうして自ら制裁するなどない、戦争でも原発事故でも指導者は自ら制裁しない、責任をとらない、日本から侍はいなくなったということである。


城下町というとき必ず歩くと路次を曲がることになる。そこで一軒一軒の店を見ることになる。店屋は見せるであるから店を見るのである。その見ることから買うということになる。それが車社会になったとき街を歩かないのだから店も見ない、どんな店があるかもわからない、そこで商店街はどこでも衰退したのである。歩く社会だったら一軒一軒の店を見るし買うということに結びついていたのである。ともかく今回はなんとか12時ころ電車で帰ることができた。2時以降まで確実にかかっていたから便利にはなった。どうしても緊急で病院に行くときがあり困ったのである。タクシ-だと5千円かかっていた。今度はなんとか電車で行けるからなんとかなるということで安心は安心である。

2012年01月18日

新年のあらたまの歌の再考 (失われた悠長な時間感覚)


新年のあらたまの歌の再考
(失われた悠長な時間感覚)

あらたまの、年は(き)来ゆきて、玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞立つ、長き春日を、天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし、たらちねの、母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り、息(いき)づきわたり 我(あ)が恋(こ)ふる、心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み、天(あま)伝(つた)ふ、日の暮(く)れぬれば、白栲(しろたへ)の、我(わ)が衣手(ころもで)も、通(とほ)りて濡(ぬ)れぬ


正月も終わりだけどこの歌はなにか昔の生活が如実に歌われている。玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば・・・というとき現代は使ひが多すぎる。たまに来るから使ひも貴重になるけど今は情報過多であり絶えず暇なく使いがニュ-スが耳に入ってくる。考えてみると殺人事件にしても全国レベルとか世界レベルになればめずらしものではない。人間社会では常に起きてきたことである。

万葉時代辺りはそうしたニュ-スが聞こえない、聞きようがないのだ。使(つかひ)はめったに来ないから玉づさのとして貴重なものとして枕詞になった。使ひにしてしも歩いて来たりして伝えるとなると貴重だとなる。万葉人の満足は天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし・・であり常に天地に思いはせて天地の中にあった。繭(まよ)隠(こも)りというのも養蚕は万葉時代から戦後10年くらいまでも養蚕は盛んだった。養蚕のために二階で繭を飼うための作りの家が今でも残っている。随分古い歴史があったけど養蚕もすたれてしまった。どこの山の中でも養蚕があった。だからこの歌は時代的に別にかけ離れたものではないし最近まで日本人がつづけていた生活だった。確かにそういう二階が養蚕をするために作られた家々はまだ阿武隈高原辺りに今でも残っている。


心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み・・・ここにも何か悠長な時の流を感じる。性急に思いを果たすというようなものはない、松が根というのは待つにかけている。ここに時間の悠長さがあった。繭(まよ)隠(こも)りというとき外界との交渉があまりない生活だった。霞立つ長き春日を・・・これも山深く隠されているような感覚になる。万葉時代は時間の感覚が今とは違いすぎる。江戸時代でもそうだからそれ以前の万葉時代の時間感覚はそれ以上に悠長である。明治維新以後生活のリズムがあまりに変わりすぎた。天地を思うようなことはほとんどない、時計に追われ車に追われ情報に追われ金に追われ何かに追われつづけている。こうした天地のリズムにあわせた時間感覚からあまりにも離れすぎた生活になった。古代文明でもエジプト文明でもマヤ文明でも常に思っていたのは天地のことだった。そのためのピラミッドであり神殿であった。

現代では天地より石油であり原発とか科学や機械が天地より大事になった。そして天地すら操ることができるとして原発が作られた。天地より人間が作ったものが機械の方が技の方に関心がある。毎日株に一喜一哀している。そういう生活はやはり何か人間を天地から離れさせて人工的な世界がすべてのようになってしまった。そこに落とし穴があった。津波なども天地の成せる業でありそれは人間の思いを越えていた。
 

岡崎の月見に来ませ都人かどの畑芋煮てまつらなむ  大田垣蓮月


【通釈】岡崎に月を見にいらっしゃい。都の人よ、門の畑で採れた芋を煮てご馳走しましょう。

【語釈】◇岡崎 京都市左京区岡崎。◇かどの畑芋(はたいも) 門のそばの畑で収穫した芋。◇まつらなむ 御馳走しましょう。「名月へのお供え物として捧げましょう」の意にもなる。


京都市でも広いからこういう場所がまだあった。江戸時代から明治でもあった。こういうもてなしが本当のもてなしになる。前の畑でとれた新鮮なものを出される。それこそなんともいえぬ安らぎを与える。現代生活はいろいろ便利なんだけど失われたものも多い。人間が営々と変わらない天地との生活が喪失した。


鶉ふす門田(かどだ)のなるこ引きなれてかへりうきにや秋の山里(建礼門院右京太夫集)


かへりうきにや・・・都へ帰るのも憂(う)し・・ということなのか、大原の生活も慣れたからなのか?大原は一回行ったけど本当にここは京都からはかなり遠い、当時だったら都ははるかに遠い雲の彼方になる。バスで行っても二時間とかかかるから遠いのだ。門田とは家の前の田で重要な田であった。前田もそうである。家を中心にして生活があったからだ。都の暮らしを思いつつ大原の生活も慣れたということがあったのか?人間はどんなものでも慣れるというのは本当である。不便な生活でも不便なりになれるということもある。ただ一旦便利な生活をしたら不便な生活にもどれないことも人間の性(さが)である。昔がいいというとき現実としてはわからない、昔の現実を今も生きている人がアフリカや後進国に現実にいるからだ。その人達の仕事は薪を集めることや水をくむことが仕事でありインドでの嫁の仕事は遠くから水をくんでくることだったりする。それが重労働で長生きできないとなると労働に追われて体力を消耗している悲惨な生活だったとなる。もちろんまともに医者などにもかかれない生活である。ただこれだけ便利になっても天地から離れて失ったものがある。だから現代からは過剰に過去への郷愁が募ってくる。飯館村でもそうだがこの辺はまだ素朴な田舎でもあった。変わったにしろそれなりに素朴な田園風景が残っていたところである。それが原発事故で失われたから余計にそう思う。


母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り・・というとき母が中心としての家があった。母の重みが家と共にあった。それは家で仕事していたからである。会社に勤めているのではないからそうなった。いづれにしろこの万葉の歌は心なごむ歌である。何かそうした当たり前の人間的なものをうしなったから余計に現代からなつかしいものとなっているのだ。心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば・・・というとき今はあまりにも言いすぎる。語りすぎるということがある。すべてを人は他者に語りようがない、いくら思いがあってもただ黙って待つほかないというのがいいのである。

2012年01月19日

奈良からの遷都の万葉集の歌 (原発で故郷を離れる人の心境の一致)


奈良からの遷都の万葉集の歌

(原発で故郷を離れる人の心境の一致)


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あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな


●奈良の都を離れる歌


大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ

作者不詳巻1−79


大君のご命令を畏くもお受けし、住み慣れた我が家を離れた。山深き泊瀬の川に舟を浮かべて、私の行く川の幾つもの曲がり角にさしかかる度に、数え切れないほど、我が家の方を振り返り見てやって来た。玉桙の道を行き美しい奈良の都の佐保川に到着した。私の寝ている衣を透かして朝の月明かりが清清しく、重なる草の穂一面に夜の間に霜が降り、岩と川面は凍りついている。それほど寒い夜を安息することもなく、通って来て作った家に、千年先までいらして御住み下さい。私もまた通って来ますよ。


あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな
http://blogs.yahoo.co.jp/nosolu2003/4371004.html


寧樂の故りにし郷を悲しびて作る歌一首 短歌を并せたり

やすみしし わご大君の 高敷かす 倭の国は 皇祖の 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生(あ)れまさむ 御子のつぎつぎ 天の下 知らしいませと 八百万 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 平城の京師(みやこ)は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野邊に 櫻花 木の晩こもり 貌鳥(かほどり)は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば射駒山 飛火が嵬(たけ)に 萩の枝を しがらみ散らし さ男鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うち延(は)へて 思へりしくは 天地の 寄り會ひの限 万代に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 恃(たの)めりし 奈良の都を 新世(あらたよ)の 事にしあれば 大君の 引のまにまに 春花の うつろひ易(かは)り 群鳥の 朝立ちゆけば さす竹の 大宮人の踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も往(ゆ)かねば 荒れにけるかも

  反歌二首
立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり(六ー一〇四八)
なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし益(まさ)る(六ー一〇四九)


 大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の いましける
    志都(しつ)の石室(いはや)は 幾代経(へ)ぬらむ 」

     巻3−355 生石村主真人( おひしの すぐり まひと)


この辺で起きていることは何なのか、この混乱は何なのか理解しがたい、警戒区域になり故郷から離れて暮らす人は余計にそうだろう。浪江の人は二本松のマンションに移り住んだけどそこが津島の採石場の石を使っていたので放射線量が高くここに住んでいられないと泣いていた。浪江の人は本当に災難だった。津島に町民ごと移動してそこが一番放射線量が高かったのである。スピ-ディはアメリカに知らせても肝心の地元の人には知らされなかった。そして津島が山だから安全だと思い町民が避難したのである。今度はその津島の石の放射線で苦しんでいる。それにしても津島は石の産地でありあれだけ各地に売っていたことに驚く。津島石とかあり石の産地としてはそれなりに有名だった。


ともかく故郷に住めるのか住めないのかとかが未だに原発事故で問題になっている。宮城県とか岩手県でも津波で被害にあった壊滅的被害を受けた地域でももともと住んでいたところに住めるのかすめないのかが問題になる。もう住むことをあきらめる人もかなりでてくる。それだけ被害が大きかった。原発事故関係では放射能の問題が解決しないと住みにくい、この放射能はやっかいでありどれだけ危険なものかもわかりにくい、住めるという人と住めないという学者もいてわかりにくいのだ。
でも人間はそんな簡単に故郷を捨てて別な地域に全員が移住したりできるものなのか?移住したとしても実際に移住はあってもほんの一部だった。町民村民全員が移住する、いなくなるということを想像できなかった。ただ今直面していることは全員が町から村からいなくなる住めなくなっている。
そしていつ帰れるのか、もう帰れない、住めないのかということが問題になる。


 万葉集の歌と心境が一致する避難者
http://musubu2.sblo.jp/article/45938544.html


なぜこのペ-ジが読まれているのか不思議である。これを読んでいる人は避難している人なのか、そうとしか考えられない。仕事ができないということでそうなっている。昼間から酒飲んでいる人とかパチンコしている人とか仮設住宅でやることがなくそうなっている人が増えているからだ。


●都を離れることと故郷を失うことの心境の一致


万葉集の歌をとりあげたのは奈良から遷都するとき人々はどうなったのか、その心はどうだったのか記されている。奈良の都に長く住みたいとしても遷都することになり住めなくなった。その都は荒廃していった。それは今の警戒区域の状態とにている。


玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ

夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ ・・・


困難な状態をのりこえて作った家だからこそ愛着がある。だからその都を家を離れがたいものとなる。家を作ることはやはり昔も今も大事業になる。自分の家も姉がいつもこの家を作ったと自慢していた。そのことを何度も聞かされたからその話しとともに家への愛着が生まれる。ましてや何代もつづいている農家などは家と土地が一体化ししているから余計に愛着があるからこそ故郷を離れたくないとなる。


あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな

こんなふうに愛着が深いものとなる。家はやはり一代では終わらない、最低二代はつづくから今の感覚だと長いのである。10年20年でいろいろなものが変わるから家の寿命は長いのである。この万葉集にでてくる家は貴族の家だからもっと長く住んでいた。しかし都が移るとなると長く住んだ家からも離れることになる。


さす竹の 大宮人の踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も往(ゆ)かねば 荒れにけるかも


現在の警戒区域はこうなっている。馬ではない、車も通らないとなる。そんなことがありうるのかというけど現実にこれと同じ様な状態がここで起きている。市町村が崩壊して衰退してゆく危機に見舞われている。ギリシャではオ-ストラリアなどに移住しようとする人が急増している。東欧でも仕事がなく移住しようとする人が増えている。原発事故だけではない、経済的に困窮すれば人は故郷でも離れ住む人が増えてくる。外国に移住するとなると大変だがヨ-ロッパ辺りはそうした移住が歴史的にもあり英語ができれば移住しやすいとなる。日本でもかつては北海道とかプラジルとか集団移住した歴史はある。けれども故郷自体がなくなるということなどはない、そこに暮らす人がいてわずかの一部の人が故郷から離れたのである。もし故郷に住む人がいなくななれば歴史の断絶が起こる。
身近なものとして墓も個々人の家の歴史を伝えるものであればそれも断絶してしまう。相馬藩としての歴史も警戒区域にありそれも断絶してしまう。歴史は土地に記されているからだ。そうなるとアイディンティティも喪失する。


 大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の いましける
    志都(しつ)の石室(いはや)は 幾代経(へ)ぬらむ 」

     巻3−355 生石村主真人( おひしの すぐり まひと)


これはそれぞれの家の墓ではないにしろそれ以上にその土地に記された歴史が石室として残っていた。それはそこに最初に住み着いた先祖のことをさしていたのだろ。


萩の枝を しがらみ散らし さ男鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うち延(は)へて 思へりしくは 天地の 寄り會ひの限 万代に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 恃(たの)めりし


さ男鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし・・・とかこういう牧歌的風景も喪失する。これは鹿だけではない夫婦のことでもあるだろう。奈良の都は今の都とは余りにも違っていた。東京などとは想像すらできないものだった。  天地の 寄り會ひの限 万代に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 恃(たの)めりし・・・天地のなかにあったのであり天地を頼みとしていた都だったのである。それはエジプト文明でもマヤ文明でも同じである。天地を頼みとした文明であり原発とか機械とか科学などこれだけ人工のものを頼りにした文明ではなかった。そこが今の都とはあまりにも違っていたのである。電気を頼りにした文明でもあった。この電気はどこからくるのかといえば天地からではない、石油であり石油なら遠い中東から運ばねばならない、石炭も日本にはなくなっているからオ-ストラリアからなど運んでいる。原町の火力発電所も石炭を使っていてオ-ストラリアから運んでいた。オ-ストラリアには石炭の埋蔵量がまだまだあり百年とか間に合うと言われている。原発でなくても発電はできるのである。原発をつづける意図は日本の技術力の維持であり核兵器につながる技術力を持つことでありまた海外に輸出するという別な意図もあった。電力を供給するなら別に石油、石炭でも間に合うのである。ただ原発をもつことが先進国であり技術力を示すことになるから作っていたのである。


●欲望、金だけの追求で他の大事なものを見えなくした現代の危険


いづれにしろ故郷に住めなくなるという代償はあまりにも大きすぎた代償だったのである。それまでして原発に頼る必要があったのかというと実際はそうではなかった。その辺が政府とか財界とかにより隠されて情報は操作されて原発は作られてきた。地元でも金になるということで経済的効果のみを求めて容認してきたのである。津波にしても20年前に仙台市の海近くが住宅地として開発されたとき学者が貞観津波の痕跡が発見されたとして警告していたが住宅開発をすすめる業者などから脅迫されたという。安全より開発による利益優先でありこれは原発でも同じだった。安全よりコストカットして東電では利益を上げることだった。だからこそコストカッタ-として社長にのしあがった。人間の欲望は限りなくその欲望が無限に肥大化して安全とか何かほかのものは見えなくなる。欲望にただひたすら突っ走る、金になればなんでもいいんだというのが高度成長時代であった。そこに戦前からあった義理人情もへったくれもない、モラルもなにもない、ただ金にさえなればいい、相手も蹴落としてもなんでもいい、金をもうける奴が偉いんだとなった。「武士は食わねど高楊枝」などということはありえない、金のない奴は誰も相手にしない、そういう欲望剥き出しの社会を形成したのが戦後だったのである。カルト宗教団体でもそうしたぎらぎらした欲望が前面に出して恥もしない、それが当たり前だとなってしまった。欲望しか金しか頭にないから見えないからある分野では怖いことになる。

福祉の分野などではヘルパ-などと入ってきて認知症の老人を簡単にだますことになる。家に入る人は本当に危険である。あらゆる人が頭に金のことしかない、ここでいくらになるんだ、なんだたいした金にならないとか絶えず仕事でも金の計算しかしていない、金のこと以外見えなくなっている。そういうことが原発事故になり天罰だったというとき確かにそうだったと納得もする。人間の欲望はどこかで抑えられることが必要でありそれがないと原発事故のように恐ろしいことが起きる。津波で被害にあったところも千年前の津波など全く無視して宅地開発したのである。自分も時事問題の深層で書いた相馬市の奥まで貞観津波では来ていたいうのに驚いた。なぜ津波に宮城県とか福島県が無防備だったのか不思議だった。確かに自分も警戒していなかったけど海側は何か本能的に怖い感覚は誰でももっていた。そういう本能的な恐怖の感覚、自然に対する畏怖とかが失われたのも現代だったのである。「安全神話」が形成されたのもそのためである。それほど人間は人工的な文明人となって自然に対する畏怖を失い、天地から離れた生活になっていたのである。


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)
 http://musubu2.sblo.jp/article/47280019.html
posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年01月20日

囲炉裏(抽象画)


囲炉裏

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冬は黒のイメ-ジになる。黒い大黒柱、梁、そこに囲炉裏が
鎮座する。


津波で流された貴重な松の写真


津波で流された貴重な松の写真

●右田の松原はなくなった

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右田の松原

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残った松
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松川浦の松原



右田の松原はいい松原だった。それが流されたこと消えたことが信じられない、残った一本の松は凄まじい、津波の猛威をこの残った一本の松から今も感じる。全身傷だらけになり残った。

松川浦の松原も消えた。松は多かったが太い松はないから右田の松原の方がいいと思っていた。でも松影の道がまっすぐ伸びて気持ち良かった。この辺をサイクリングするのは気持ちが良かった。


●石巻の袖の渡しの松は残っていた


残った松
http://blog.goo.ne.jp/ebijirusi/c/b6504b8c2681f1b077f3a78d15ba94cc/8


石巻-袖の渡し
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html


あの松が残っていたということは意外だった。距離的に海に近いから松も流されたかと思った。
やはり家とか河口で多少奥に入っていたから残った。海岸にじかに接したところはほとんどの松が
根こそぎ流された。やはり家が密集していてそれが障害となって流されなかった。
奥の方でも前に障害物がないと流される。中州は障害物がないから完全に流された。

ともかくあそこの松はいい松だったので残って良かった。救われた感じた。また行けばやはり昔を偲べる、昔すら偲べない所がかなりある。陸前高田は一本も松が残らない。海岸に接していたから流された。今回の津波が襲った所はいい松林が松原のある所だった。その松が流されたことがショックだった。白砂青松の景色が根こそぎ奪われた。白砂は少ないにしてもやはり松原が根こそぎどこも流された。その被害が余りにも大きかったのである。

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海からそれなりに距離があったから松も残った。


 

posted by 老鶯 at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係