2012年01月01日

新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


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大坂城夕陽に映えて門入れば静心なく花の散るかな


大坂城なほも花散りあましたる花に酔うかな夕陽落ちゆく

大坂城出入り尽きぬ花あまたなお散りにつつ日も暮れぬかも


大阪城難波の夢の蘇るその跡の大いなるかも花散りやまじ


大坂城栄いは遠くみちのくの雪に埋もれて春を待つかな


優艷に京都の桜しだれけり昔の人に我があわめやも


千年の都にしあれその栄今につづきて桜しだれぬ


みちのくゆ我がたずねしは遠き日や姫路城にそ満開の桜


淡路島見えて明石城大阪へ船の行くかな春の夕暮


瀬戸の海遣唐使の帰りきて明石の戸や平城宮の近しも


淡路島なぎさに花の散りにつつ夕陽の映えて城の小さし


岩国の城をたずね山の上に椿の咲きて我が下り来ぬ

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桜というときやはり京都、大阪、瀬戸内海沿岸とかが印象に残った。桜というとき日本人の花になったのは奈良時代ではない、桜が日本人の花になったのは西行が桜を歌った時からである。鎌倉時代になるのか、京都の平安京からも桜は歌われていたろう。奈良は桜の時代ではない、梅の時代であり


あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり(万葉集巻三328)

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな  伊勢大輔(61番)


奈良の桜は八重桜であり今の桜ではない、今の桜のように華やかには散らない、八重桜と吉野の桜ではまるで違っている。奈良時代は山桜の時代である。 


さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 


今の桜の感覚はやはり平安京辺りからはじまっている。左近の桜は、中国から考え方が入ってきた時は「左近の梅」だったそうです。右近の橘の方は、なんでとなりますよね。調べました。橘は日本書紀の中で不老長寿のクスリとして出てきます。
それがいつの頃からか「左近の桜」となったらしい。桜というのは武家が台頭してからかもしれません。ということは最近(室町時代ぐらい?)かな。

やっぱり桜はまだ平安京では今のような桜ではない、奈良時代からのつづきで梅だったのである。
桜は大坂城の桜が一番印象に残ったというとき大坂城は広いしその時丁度桜が散っていた。そして夕陽が落ちてゆくときだった。その桜がなんともいえぬものだった。桜というとき花でもそれは山桜ではない人間の歴史と呼応して人間化した桜である。大坂城で見る桜は人間の興亡を写していたし京都の桜は千年の都として栄えた所に咲く桜であり一際優艷になっているのだ。大坂城は短く炎上したけど大阪の栄は江戸時代もつづいたのである。信長の安土城は一代もつづかないはかないものだった。しかし大坂城は秀吉が死んでも終わらなかった。大阪商人の栄いはつづいたからその繁栄を写すものとして見ている。江戸は参勤交代の政治の場であり大阪は商人の都市となった。その棲み分けで栄えた。京都は天皇がいて文化都市として千年の都でありえた。それが現代では東京に集中しすぎたから大阪が衰退したとかとなる。ともかく京都-大阪-明石-姫路城-とかの桜は見物だった。そういきう栄はみちのくにはない。大坂城の桜はいくら散ってもまだ散ってゆく、やはり大坂城の桜は日本の栄の象徴だった。江戸城にはそういうものがないから残念である。西には大きな城があるから陸奥とは違ってその栄を偲ぶことができる。絶えず旅していたからそういう日がなつかしい。今や仙台に行くのがやっとである。日本に生まれて最後に見たいものは富士山だった。最後に富士山を仰ぎ死んでゆきたいというのがやはり日本人だった。
今年は津浪原発事故で新年おめでとうとはなりにくい、でも西は被害がないので新年おめでとうでもいいのかもしれない、今年は龍年だけど去年が龍年だった。これ以上荒れる年はごめんだとなるがそれでもまたどん底の年になるのだろうか、いづれにしろここ五年間災難の連続であり最悪の年として終わった。今年は平穏であってほしいとなるが放射能のことなどは簡単にはおさまらないし病気のこともあるし晩年になってからの災難は苦しい、そして津浪でも原発事故でも何ら解決していないのである。復興はこれからも時間がかかる。放射能を払拭したくてもできないのが辛いのである。


今年もまたいろいろ鑑賞することでは何か不思議に進展があった。見る眼ができた。すでに遅すぎたということがある。でも何かものを見る眼がさえてくる。本をいくら読んでも深く理解しなかった。それが理解できるからかえって本を読み返すことが楽しいのである。だからモノを書くことでは進歩があった。自分独自のものを書ける。この桜の短歌も前の短歌のつづきだった。旅はしなくても回想でまだつづいているし旅は死ぬまで終わらないのだ。ただだんだんこの世から人間は離脱してゆく、それが年をとり死が近づくことである。ますますこの世への執着が強くなるというのも老人にはある。老人になってから欲がかえって強くなるというのは本当である。一方で我執も強くなる。淡白になるというではない、そんな人が多すぎるから老人は嫌われるのがわかる。


九六寝て年越すも時代かな

町の墓所死者も年越す除夜の鐘



寝ながら介護されながら病院で自宅で年越す老人がどれくらいいるのだろうか?相当な数だろう。
小高の人が80才以上の人が集まって町を活性化しようとしても無理がある。若者が集らないことにはとをにもなちない、若者が集る町にしよう、残る町にしようというのがこの辺の課題になる。高齢化は津波の被害にあったところでも相当深刻なのである。若いなら立ち直ることができるが老人は立ち直ることがむずかしい。あきらめる人が多くなるだろう。農林漁業は六〇才以上の人が大部分だろう。会社などで募集しても人が集らないという、まさに働く若い人が減っているからそうなる。そうなるとこの辺はいろいろなサ-ビスも受けられるなくなる。福祉関係など病院などではそうなっている。こういう問題はこれからも津波の被害にあったところや原発事故周辺ではつづくのである。


今年もいろいろ書き続けますのでよろしくお願いします

 大坂城の花見客
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm

桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


山桜の美
http://www.musubu.jp/sakuranew-4.html

前に書いたものののつづきとして書いている。年が明けてすぐアップできた。こういうことがインタ-ネットではできるからいい。

2012年賀状の俳句 (落日の輝きの方がまぶしい)


2012年賀状の俳句

(落日の輝きの方がまぶしい)

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落日の輝き眩し年明けぬ

落日の光芒深く年明けぬ


老梅のなお枝伸ばし香るかな


新年や二条城なる松の張り


隠棲の細道たどる冬の京


海に向かい若者走る年明けぬ


新年や人なき町を誰が祝う


元旦や地震に目覚め龍の年

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全体図 狩野山雪 老梅図襖



昼間寝ていたら地震だった。震度4だから結構強かったし範囲も広かった。今年も波乱の幕開けなのか、辰年だからまた波乱なののか、これ以上の波乱はもういやだ、平穏であってほしい。
元旦に見たのは朝日ではなく山に落ちゆく夕陽だった。ただその夕陽がまぶしかった。晩年になるとかえって実は内面的輝きは増してくる。自然と深く一体化してゆく、それでモノを見る眼ができてくる。鑑賞力が高まってくる。それは芸術一般に言える。ものの味方が深くなってくる。だから若いときより老人の方がある意味で充実している。若いときはものを見る眼がない、欲望だけがふくれあがっている。体力はあってもものを見る眼がないから精神的に充実しないのだ。旅をしてもやはりものを見る眼がないと何も見えない、特に歴史ある所はそうである。歴史は時間の中で作られたものだからやはり時間をかけないと見えないのである。歴史は徐々に時間をかけて見えてくるものがある。それは人生でもそうである。徐々に時間をかけて見ていればわかるものがある。歴史をたどることはそれだけ時間がかかるのである。落日の輝きの方がまぶしいとういことがある。それは内面から発せられる光である。心境の変化で見えるものがある。心境が変わると同じものでも同じではないのだ。

明かに今日の新年の落日は違っていた。それは内面が心境の変化でそうなっている。平凡なものでもその人の心境で見えるものが違ってくる。特にそれは老人になると心境が変わってくるので見えないものも見えてくるのだ。若いときは心境が乱れているから見えないのである。心境によって人は幸せにもなれば不幸にもなるということがわからない、貧乏でも心境が良ければ苦にしないということもある。あばら家で今日はいい月だとか風流を感じているとすれば心境によるのでありその人は幸せだとなる。それでないとほとんどの人が不満不平しかないのと同じになる。裕福でも心境が悪ければ不幸になってしまう。


人生を理解するにも時間をかかる。何を意味しているものなのか卑近なこと一番身近な所でもわからない、最近家について書いたが家って何なのだろうと考えたのもわかったのも最近のことである。家の家事から全部やってみると家はその家につながっている人達が二代くらいでもいる。家は死者とつながっている。家は一人ではない、それぞれ一つの最も基本的な共同体である。その共同体の中で死者も生き続ける。墓は外にあるからその村や町や市とつながっている。家は縦軸で時間につながり横軸でその空間、土地とつながっているのだ。だから人間は一番基本的なアイディンティティは家にあった。そんなこと当たり前じゃないかとなるがそういう当たり前のことが年をとらないとわからないのである。事実、故郷から離れたらその土地とも離れるからそうしたアイディンティティが失われるから根無し草のようになっている。そういうアイディンティティが断たれたら存在感もなくなる。そういうことを原発事故で自覚したのである。


京都辺りはいろいろ歴史がある。その一つをテ-マにしても探るにしても時間がかかる。狩野派の絵が雄渾になったのは家康の時代になってからだというのもわかる。権力者に絵が注文されるから権力者向きの武士の好みの絵になったという。芸術にもそういう時代背景がある。狩野山雪の老梅の絵は迫力がある。現実にあんな梅は存在しないだろう。それは絵師の心境から生まれた。人間の心を写したものだから迫力ある絵となった。それはゴッホの絵でもそうである。太陽でもそれぞれの心で見ると違って見えるのでありいつも同じ太陽ではないのだ。鑑賞力、認識力が高くなってくるとこの世は一面退屈しない、そうでないと人類の宝はいくらでもあっても鑑賞できずに終わる。それは自然でもそうである。自然は何の意味ももたらさない、そういう人がいくらでもいる。


ただ芸術家でなくても体で自然を感じている人達がいる。農民で職人でもそういうことはありうる。もの言わぬ語らぬ描かぬ芸術家もありうる。そういう人は表現しなくても自然を深く感じているのだ。だからそういう人達が自然と通じ合うのは自然の中で働いている時でありもし原発事故で避難している人のように働かなくなったら自然を感じない、ただパチンコとかその他遊ぶだけで価値無きものになってしまうだろう。自分が家事をして働いて家についてわかったように人は働かないと回りにあることが深く体で理解できない、もっとも身近な家を理解しなかったことでもわかる。家事というのは料理するとかだけではない、何か深く家全体にコミットすることだった。そういうことが働くことにある。働くことは何かと深くコミットすることなのだ。ただそういう意識をもてないのが現代の労働である。ただ時給をもらうだけにすぎないとなって労働の深い意味を理解できないのである。そういう意識がもてないのである。主婦だったら家事が単に料理するのではない家全体を支えているという自覚をもつ、ほかでは時給いくらだとしかならない、そういうのは人間の労働ではないことは確かである。


この辺だと海の方に心が向くのだけど今回の津波で海が恐怖の場所になってしまった。海の方に行きたくないとか海を見たくないとか海と密接にかかわった人でさえそういう恐怖を植えつけたのである。被害にあわなくても津波の被害のあとは余りにも荒寥としている。
そういう感覚はなかなかぬけない、原発事故だって人が住めなくなった町や村は荒寥としている。だから新年を祝う気にはなれないことは確かである。だから京都とか西の方のことで新年を祝うというの別に問題ない、なかなかこの辺はおめでとうとはならないからだ。

2012年01月02日

変わらない三本の樹 (変化を求める時代の終わり)


変わらない三本の樹

(変化を求める時代の終わり)


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三本の樹の変わらずに年明けぬ

三本の樹の忠節や年明けぬ


五輪塔向きを変えずに年明けぬ


故郷に死者のいまして年明けぬ


新年に夕日のさして故郷のなれにし道を我が帰り来ぬ


新年や津波の跡やなお一つ船の残りてこの道をゆく



公園に同じ様に樹が三本立っている。それは変わることがない、その変わらないことが今や一つの願いとなっている。実際この辺では変わりすぎてしまった。ここに留まるべき人が去り故郷に住めなくなった人も多数いる。変わらないということ残るということが課題となっている。50以上とかはなかなか変われないだろう。普通は一定の立場もできあがっているだろう。人間はなれ親しんだところがいいとなる。人それぞれだから一様ではないにしろ一般的にはそうである。奇妙なことはこの辺では変わらないこと同じ所にありつづけることが深刻なテ-マとなっているのだ。津波の被害にあったところでもやはりもうここには住めないと移る人もでている。あれだけの被害があると海は恐怖である。自分では被害にあわなくても海は怖いとなる。そういう恐怖心はなかなかぬけない、被害にあった人はなおさらである。被害の跡を見れば本当に荒寥としているからだ。そこは住めないしすべてが変わってしまったのである。


なぜ江戸時代なのかとなるとそこは今のようにめまぐるしく変わらない社会だったからである。もちろんすべて理想の社会とかではない、ドイツでも黒い森というところで鳩時計とか作っている職人がいて百年前の時計を直しているというから驚きである。一つ一つ手作りであり百年前のものでも直せるという。手作りでありそれは江戸時代の職人と同じである。そういう長い時間で変わらないからできる。もう現代のように大量生産でもの作りもめまぐるしく変わればできない、人間はやはり長い時間をかけないと信頼とかモラルとかいろいろな基本的なものが構築できないだろう。今や家さえそうした長い時間で築かれた感覚が消えている。家など古いとかなんとかなるしそういうことではなく家は少なくても二代つづくからそこで育まれものがありそこがアイディンティティの基本であるということで書いた。


今や会社でも派遣とかなると臨時であり時給であり手間賃かせぎである。jobでありwork(作品)でもない、そういう短い時間の中では果たして労働倫理など育まれるだろうか?せいぜい一年とかでやめるとか何か月かでやめるとか金をもらってあとは終わりであり関係なとなる。だから金持ちの家に勤めるにしても金を盗ってあとは関係ないと極端化する。それがもし10年勤めるとかなれば全然違ったものとなる。そこに何か互いに心も通じ合うものがでてくるし単なる金の関係ではないものが生まれてくる。そうでなければ親子一世、夫婦は二世、主従は三世とかなるはずがない、主従の関係が親や夫婦の関係より強く長くなるはずがないのだ。主従の関係も親子何代とかの長い時間の中で培われたのである。現代のような会社とか仕事の関係でも余りにも短すぎる。そういう短い関係ではただ人間は即物的になってしまうだろう。そこでモノを得ればいい、金を得ればいいとしかならない。ただモノを媒介するだけの関係になってしまうだろう。現実に社会がなっている。明治維新後社会が変わりすぎたのである。だから江戸時代にもどるというとき日本人がもともとあったものアイディンティティを取り戻すということなのである。


ともかくこの辺はそうした長く住み続けてきた基盤そのものが失われた。そういう基盤が回復しなければどうにもならない、長い時間というとき家とかには先祖が必ずいてその死んだ先祖とともにある。その市町村でもそうである。死者も生者と継続して存続している。そういう場が故郷なのだろう。それで墓が残っているから死者の拠り所となる。五輪塔なども墓に残っているだけで重みがあり相馬藩の歴史をふりかかることになる。土地から切り離されたらそういう昔をふりかえるということが土地からできなくなる。歴史はどこでもそれなりに長い継続がある。それが断たれることは人間の存在感を軽薄にする。江戸時代など関係ないとかなると今だけがすべてになってしまう。そういう点が今見直すべきなのである。


ともかく三本の樹は忠節を示している。三本でも信頼すべきものがあれば安定する。それすらないということが問題なのである。

2012年01月03日

禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある (宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)


禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある

(宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)

●働くこと自体、欲念や欲望を避けるためだった


宗教はそもそも禁欲からはじまっている。道徳というものはすべて何らかの欲の抑制と禁欲を教えている。資本主義すらもともと修道院の禁欲主義からはじまった。神に奉仕して民衆に奉仕することが動機となっていた。そのためにこそ働き利益をあげることが神から許されたのである。修道士は利益をあげてもそれでもって享楽したり贅沢などしない、家庭ももっていないとしたら日々食べるだけで満足しているのが修道士である。そうしていれば自ずから利益が上がり利益は蓄積され資本も蓄積される。ではその利益が蓄積されその資本をどう使うかが問題となる。消費をしない倹約、禁欲を守るのだから修道士は消費しない、でも生産が増加すればもの余りになるだけである。資本主義は勤勉の宗教、哲学なのだからいつかはそうして日々働いていたら誰かが豊になり裕福になることに運命づけられている。一方で富は富裕になることは修道院では禁止されている。そういう矛盾が資本主義にはあった。


日本人が勤勉だというとき本当に明治から大正生まれの人は良く働く、そして消費をすることを悪いものとしている。それが極端になると働くことだけを価値となしあとの一切の消費を悪いものとして否定する。食べるものは贅沢したりして認めている。しかし庭とか作ったりしたら全く価値を認めない、他のものにも認めない。趣味的なものも認めない、花を買って挿したりすることは多少認めていても庭に花を植えたりして鑑賞することも認めない、一切遊びもしない、趣味で遊ぶことも体験もしていない。そういう環境にもあり労働が子供の頃から強いられた世代である。すべてがもったいなという世代である。だから食べ物で今贅沢しても食べ物で何か文句を言ったりすることもないのである。どんなものでもありがたい、食べられればいいという世代である。そういうことは感心する。しかし自分の家族のことは極端だから一般化はしにくい。しかし何のために働いたのかというと奇妙なことは働くために働いたということになる。たいがい今は消費するために働いている。食べるほかに家が欲しい、いい車が欲しい、大きいテレビが欲しい、海外旅行がしたいとかそういう消費がグロ-バルに広がったからそういう消費で満足するために働く。そういう欲望が限りなく広がって来たのがグロ-バル化経済の欲望資本主義である。


なぜこれほど労働に重きをキリスト教のプロテスタンシズム、修道院では置いたのだろうか?それはおそらく働くないと気が散りかえって様々な欲望や享楽の誘惑に負けるからだったともいえる。働くことに夢中になっていれば別に消費しないでも誘惑からまねがれるからいいとなる。そうでないと怠惰な時間があるとそこに欲望や誘惑が入りこんでくる。それを修道士は恐れたのである。それは別に厳格なキリスト教でなくても仏教でも禁欲であり禁欲こそが宗教であり哲学であり道徳なのだ。ただ仏教では働かない、洞窟で座禅を組み禁欲にはげむ、僧院にこもり修行するのも禁欲である。インドなど暑いから木蔭でじっとすることが暑さに耐えることも関係していた。蓮の花のあうのはインドである。その蓮の花がエジプトでもロ-タスとし象徴的な花となっている。蓮の花はもともと暑い国の花である。

プロテスタントシズムが起こったのはドイツとか北欧とかでありそこは寒い国だった。寒い国は勤勉になる。暑い国はどうしても怠惰になる。だから座禅を組んで働かないで禁欲を実行したが座禅しても気が散り欲望は目覚める。かえって強く目覚める。一方働くことは気が散らない欲望を忘れられる効果があった。それで修道士は働くことに勤しんだのである。働くために働くということとある程度共通していたのである。自分の家族の場合は異常だったけど修道士はそうではなかった。神に奉仕しているとして働いていたのである。時計というものが修道院内で発明され時の鐘を鳴らすのは修道院でありそこで時間の感覚が養われたのである。


●キリスト教では座禅する代わりに働いて禁欲した


宗教というのはどうしても禁欲が不可欠なのである。例えば女性と交わらないというとき女性はあらゆる面で欲を増長するものとしてあることがいなめないのだ。その衣裳で飾り様々なもので誘惑する。それは女性が悪いというのではなく極自然な行為としてしている。それでその女性の贅沢のために男性が働くということも普通にある。するとそうした労働は贅沢のためであり宗教的にはしてはならないものである。だけど働くということに重点が置くとその意図とは違ってそうした贅沢なことに消費されるのである。そこにまた矛盾があった。それでソロ-が働くことを拒否したのは金持ちのために金持ちの浪費のために働いているとかを見て働くことをその場合は無意味としたのである。確かに現代の労働となるとすべてが本当に必要なものなのだろうか、これほどの労働が必要なのかという疑問がでてくる。貧しいときは労働は必要だった。おそらく機械化も関係している。コンバイン一台で千人分の麦刈りをしてしまう時代である。人間の労働はある程度機械が肩代わりするようになった。すると人間は機械と比べるとこれだけの差があるのだから人間の労働が無力になったから働くことが必要なくなったという一面はある。ただ労働の分野は無限に増えている。介護とか新しい分野ではいくらでも必要になっているのだ。家事などは機械化して消費化しやすくなっているから金でまかなうことができる。自分でもほとんど買ってまかなっている。風呂も自動だし洗濯も自動だから一人で何とかやっていけるのだ。ごはん炊くこともしていない、インスタントの米をレンジであたためて食べることができる。これが昔のように電気釜もない時代だったら家事だけで一日が終わっている。洗濯にしても骨の折れるものであった。昔の労働は大きな部分が家事に費やされていたことは確かである。女性の主な労働は家事だったのである。


人間は強いられて働いてきた。日常の糧を得るために追われ働いてきたのが普通である。でも豊になると働く必要もないのに働いているように見えるようになった。明治維新後は欧米に追いつくために富国強兵とかがむしゃらに働かされたのだ。豊になることを追求してきたのだ。戦後の焼け野原になってからも物質不足でありその物を充たすために団塊の世代はがむしゃらに働いたのである。それが今働かない人が人口の三分の一くらいもあるような時代になった。高齢化の人も年金暮らしで働かない、ニ-トや若い人でも働かない人口が多い。これほど働かない人がいた時代はないだろう。ただ働かない人達が働きたくないということではない、自分の生き甲斐となるものがあれば働く、ぶらぶらして何もしないということも楽でないからだ。そしてそういう暇な所に欲望や享楽の誘惑がはいりこみやすい、また小人閑居して不善を成すとなやすいのである。働くことは修道士のようにそういう欲望を抑制して逃れるためにもあったのだ。特にに若いときは欲望の力が爆発的になるから余計にそうである。そこで禁欲を実行することは至難である。


ところが懸命に労働しているとある程度逃れられるとういことがある。座禅などしていてもかえって欲望が増大するからむずかしい。ともかく人間の生活には明かに禁欲が必要だからこそ昔から宗教や哲学や道徳が生まれたのである。欲望のままに生きる人間は野獣と同じになってしまうからである。結局人間の悪は性であれ何であれ抑えられない欲望のために起こるからだ。だからあくなく消費を刺激する現代の資本主義は全くプロテスタントシズムからはじまった禁欲の資本主義と正反対のものである。消費がすべて悪いものではない、消費も生産につながっているものもある。旅をしたことは知らない世界を見聞することであり本を買うことも知識を得ることであり消費は生産につながるものでもある。だからいちがいに消費は無駄とはならない。ただ絶えざる性を刺激するようなファッション産業などや様々な消費が奨励されるのかとなるとそうは思えないものが増えてきたのである。車だって本当にこんなに必要なのかと疑う、そんなことを言う人は今は異端であり誰も相手にしない。もし車が過剰で無駄だとなるとき車を生産していることにで働くことも無駄だとなるのだ。働くことが疑問になったのはあまりにも物がふえすぎた結果だろう。そしてさらに足りない足りないと欲望を刺激するものが過剰に作られているからだ。


●現代は昔の禁欲生活が必至になった


江戸時代から戦前は貧乏だから別に宗教のように禁欲を強制しなくても強制させられていたのである。禁欲が大きな価値となっていた。宗教的には享楽的消費より禁欲が推奨される。それで魂は汚れから逃れられる。そして実際に禁欲というのは現代文明には不可欠となっているのだ。原発事故がなぜ起きたのか?その原因はいろいろあるにしても人間の欲にあったことはまちがいない。原発は人間の欲望に答えるものだからこそ危険なものでも作られてきた。原発は人間の欲と深くからんでいる。だからこそ廃止することもむずかしいのである。すべての人の欲を抑制させることはむずかしいからだ。地元にしても原発からの恩恵があるから積極的に誘致したという経緯もある。だから原発も宗教ともからんでくる。双葉町辺りで何キロしか原発から離れていない所では家族がばらばらになりその主人が家族が一緒に暮らせるならロウソクでもいいと言っていた。まさにそうした極端な禁欲的なことを言うようになったのはその被害が大きすぎたからである。こんなに害を及ぼすものだとは思っていなかったのである。


原発を拒否するには生活そのものでは昔のように禁欲的にならざるをえない、俗社会では耐えられないということになればまた原発事故が起きて住めなくなる。以前として欲望を拡大化する欲望資本主義が継続されたらまた原発事故が起きる。社会全体に禁欲が要求されているのだ。もちろんロウソクにしろとか車をもつなとかは言えない、しかし禁欲はある意味で強制的にすら必要な時代になっている。そして禁欲がすべて悪いとはならない、禁欲はかえって満足をもたらす、幸せをもたらすことにもなる。江戸時代の人々が幸せそうに見えたというのは今より欲望が抑えられて禁欲的だったからである。人間の欲望は限りないし決して満足をもたらさない、結局人間は何ら本質的には変わってない、欲望から脱しない限りこの世に平和はこないし人間は欲で滅びるということは変わっていない、原発だって人間の限りない欲望が作り出したものである。原発は科学の問題であり科学がやがて解決するというがそうはならない、今回の津波はこれ以上原発をもつなという天からの神からの警告だった。これを無視してさらる原発をつづけるなら日本は滅亡する。地震国であり津波国であり危険すぎるのである。アメリカの科学者が日本では狭いから原発事故になると逃れる場所がないと言っていた。二三ケ所事故になったら日本は滅亡して外国に逃れるほかなくなる。


いづれにしろ人間は常に少数者であれ禁欲を実行する人達を必要としていた。それが今のように全く世俗化した社会になったとき欲望のみが放置され拡大化してゆくときそこから原発事故でもあらゆる害が抑えようなく起きてくる。カルト宗教にしてもそこもぎらぎらした人間の欲望を増長するだけの団体である。宗教はあらゆるところで厳格な禁欲を実行する場ではなくなった。神社にしてもそうでないか、賽銭にはこの世の欲がこびりついている。何を祈るかと言ったら何かのこの世の欲望を実現したいが為にお参りしているだけではないか?だから現在は神聖な場はすべて欲で汚ごされている。寺もまた戒名商売とか観光商売とか世俗の欲と離れた世界ではない、宗教は本来世俗の欲と離れることを志向した。世俗の欲を絶つことが出世であり信仰の場だったのである。そんなところ今はどこにもない、宗教的な場所に行けばそこは常にそうである。なぜ山の上まで行ったらそこに神社があって賽銭のようなものが要求されるのかわからない、どこでも賽銭が要求されるのが宗教的な場所になっているのだ。それは商人にかけた関税なのかとも思う。だから今は自然そのものにじかに接することが身を清めることであり宗教的な場に行くべきではない、そこには常に人間的な欲がまとわりついているのである。昔のように禁欲的な修行をしているということもないのだ。ただ賽銭をもらいたいという人が形だけ僧侶になったり神主になったりしているように見えるのだ。宗教はそもそも禁欲を実行する場でありその原点に帰るべきなのである。

posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2012年01月04日

山形県の旅の回想の短歌 (秋から冬-七ヶ宿街道など)

 

山形県の旅の回想の短歌

(秋から冬-七ヶ宿街道など)

 


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上山近くや姫の面影の鏡清水に秋の夕暮

上山秋の灯ともりあわれかな七ヶ宿より我は来たりぬ


上山一夜泊まりぬあわれかな秋の夜ふけぬ安宿に寝る


上山残れる雪に城見えて電車の去りぬ春はまだしも


峠駅下れば見ゆる福島や江戸への道のなお遠しかも


仙台ゆ山寺に入り山形や雪踏み入りぬ馬形部落


山寺の対面石に雪残り流れの清く我の向き合ふ


何故にここにありしや山寺に北畠神社秋深まりぬ


南朝の形見と残る神社かなみちのくの奥戦いの跡


深々と雪に埋もれて山形やなまりの強く冬深まりぬ


山形に雪はふりつむしんしんと小国は遠く旅の日思ふ


数県の雪に埋もれて家淋し羽前南駅一時とまりぬ


最上川船は通らじ雪埋もれ春を待つかな冬は長しも


最上川虫なきかすか船着場ここにそ昔舟は寄るかな


最上川流れゆるやかに秋の日や我がたどりて酒田にいでぬ

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●旅の楽しみ方


【第一段階:計画立案する楽しみ】
【第二段階:実体験する楽しみ】
【第三段階:写真を楽しむ楽しみ】
【第四段階:旅行記を書く楽しみ】
http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/zatugaku/whytravel/whytravel2.html

ここで現代の旅で大事なのが3と4である。ここは実際は一つのものである。旅行記を書くというときそれは旅を思い出して書く、回想の旅である。回想するためには記憶をたどらねばならない、すると人間は忘れやすいから記憶をたどれなくなるのだ。特に外国などは変わっているから記憶しにくいから写真は本当に大事だったし貴重な宝物になっている。そしてそれがどこでとったかさえ不明になる場合も多い。日本の場合はあとで回想することが何度もできる。それでも忘れ安いのである。ただ東北だったらだいだいの地形が頭に入っているからわかりやすい。それでも電車で行っただけではわからない。上山(かみのやま)に行くのに自転車で小坂峠を越えたけどとんでもない坂だった。嫌になって上りたくなくなった。たいがい坂は歩いて上っていた。あの坂はどんな人でも急なので歩いて上るほかない。小坂峠どころではない大阪峠だった。その坂を越えると上戸沢から下戸沢となりなにか名前もひなびているし何か淋しい道のりとなっていた。それは白河街道を通って会津に出たときと同じだった。あの道も今はさびれた道になっている。昔の街道はさびれた裏道のようになっている所が多いのだ。道は変わってしまった。街道で不思議なのはなぜ急峻な山道を越えたのかということである。あのような道を駕籠でゆくとしたら大変な労力がかかる。それは陸前浜街道の鹿島区の一石坂もそうなように坂がきついのに回り道していない、結局昔は急な坂道があっても山があっても最短距離を選んだのである。その感覚は歩いてみないとわからない、少しの距離でも遠回りすると歩いた場合かえって遠くなり目的地に遅くつく、早くつくためには坂があっても最短距離を行った方がいいのである。自転車だって二三キロ分かれてそこで休むかと思ったら往復5キロとかなり時間がかかるのである。先を急ぐとすると回り道は時間がかかるのだ。歩くことは常に先を急ぐということがあったのだ。まずこれは車の旅とは余りにも違いすぎるから感覚的に実感できなくなったのだ。峠駅は電車でも昔の峠だから名前がついた。力餅とか売っているのも面白い。峠を越えるのは大変だったのである。

旅を充実させるには現代はでは確かに外国までも広く旅はできる。でも中味のある旅がしにくい、それで大事になるのが回想の旅であることがわかった。東北辺りだったら回想の旅もしやすい、まず地理をしること地形をしることだがそれが感覚的にわかりやすい、それでも今の旅は車がないと電車の旅が主流になるから昔の街道のことは閑却されやすいのである。自転車で行けるところはそれなりに行っても限られていた。だから上山というとき上山は車窓から見た上山城しか記憶していないしそういう所が多いのである。一回だけ七ヶ宿を通ったのでこうしたし短歌もできたのである。秋の夕暮れに鏡清水に姫が顔を写したとかあり上山の近いので現実味を帯びて想像した。そこから上山についたのはすでにとっぷりと日も暮れて街の灯がともっていた。そしてやっと安宿に泊まることができた。旅情は安宿にあるが現代はホテルは高すぎる。ビジネスホテルでも高い。温泉旅館は高すぎるから数えるくらいしか泊まっていないし泊まらなかった。安く旅するならヨ-ロッパでも外国の方が向いている。日本は交通費でも何でも高すぎる。上山城は2万五千石だけど城が小さくても残っているのがいい。それなりにここが城下町だったことが外からみてわかるからだ。相馬藩は六万石でも城がないから城下町だということすら意識されないのだ。


七ヶ宿街道は日本海側や山形秋田から参勤交代に来るときは福島市に出て奥州街道にでたときここからまっすぐ江戸へ通じると意識しただろう。でも今のように福島市に出たら新幹線で二時間だとはならない、まだまだ遠い感覚である。その遠い感覚が旅だったのである。今でも地形は変わっていないから想像はできる。福島市に出る奥州街道はみちのくの幹線道路だったことは昔も今も変わらない。小坂峠を越えると広々とした平野が開ける。山形は山に閉ざされた地域でありかえって最上川を通じて酒田に結ばれ日本海から北前線で大阪や京都に結ばれていたのだ。紅花で栄えたというのも最上川の交通があったからである。日本では河の役割はあまりない、最上川だけは交通路となっていた。人間の社会は交通によって繁栄したりしなかったりすることがはっきりしている。参勤交代の道でも昔の街道はそれなりに人が行き来するからその街道沿いは栄えるということがある。ところが鉄道ができたとき交通路が変わったから昔の街道はさびれたのである。最上川の舟運も北前船もなくなった。そうすると最上川沿いもさびれることになったのである。人間は遠くても不便でも交通が発達すると便利な所が要所となる。


東北でも福島県でも広い、会津は一つの大きな国であり雪国でもある。山形も雪深い所だから一般的に東北には雪国が多い。ただ浜通りから太平洋沿いの石巻辺りまでは海側であり海の風土でにかよっている。今回津波にあった地域は風土的に共通していた。むしろ会津と山形とか新潟は風土的に雪国で共通している。雪に閉ざされる感覚は浜通りの方では理解し得ないのである。それで今回浜通りで原発事故で会津の仮設住宅に住んでいる人がいる。その人たちが会津の雪に埋もれ雪かきしてい姿がある。はじめて身をもって会津の雪を雪国の体験をしているのだ。そこで冬を越すのだから本当に会津の人の気持ちがわかる、雪国の人の気持ちがわかる。東北でもこうして風土の違いがあるからなかなか一つのものとして理解しにくいのだ。

山形も深く雪に埋もれる県である。宮城県との境が山寺に出る辺りにありその境がはっきりししているからここから山形だと意識しやすい。必ず面白山とかが深い雪に閉ざされるし雪国に入ったということが意識される。春になっても雪が長く残っているから宮城県と山形県の境は一番境として意識しやすいのである。山形県で面白かったのは郷土料理として納豆汁があった。それがなんともこってりとして雪国風である。土地のとれたもので工夫して作ったのが郷土料理である。仙台のハゼの雑煮も石巻の長面で焼いたもので栄養があるようだ。今回の津波で被害を受けたがハゼをとりはじめた。海水と淡水が交じるところでハゼがとれる。北上河の河口でものんびりと釣りしていた人がいたがあの被害は凄まじい。テレビで見てもそうなのだからそこに行ったら茫然としてしまうだろう。あれだけ人家が密集していたのだから被害も大きかった。

ともかく冬は冬籠もりでり今日もちょっとだけ雪がふった。冬籠もりして旅の回想にふけりこうして旅行記のようなものを書いているのがあっている。「山形の納豆汁や冬深む」となればさらにいいだろう。これは浜通りの感覚ではない、山形の感覚なのである。雪国の冬籠もりと太平洋側の冬籠もりは感覚的に相当違っているのだ。旅行記を書くにはやはりまた調べたり本を読んだりしないとできない。それかインタ-ネットととかアマゾンで本が安くても送料が無料となっているので買いやすくなったので助かる。ものを書くということは必ず何かを参考にして書いているのである。本にはやはりプロ的な人が書いているので詳しいのである。ドイツについて書くとしたら最低十冊とか本を読まないと書けないだろう。ある程度本を集めないと書けないのである。そのコストが安くなり便利になったから素人でもある程度のものが書ける。ただ外国はかなりむずかしい。ただ外国も近くなったから日本と外国が重なり合う物語やら歴史をつづれるようになったのである。


七ヶ宿街道

http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sitigasyukukaidou..html

ここは相当に専門的である。こういうのがサイトにあると助かる。インタ-ネットをたどって旅を深められるのだ。
本ではなかなかこういうふうに読めないのである。一つの相互的関連として検索し読みまた創作するとき
知識は創造は無限に広がってゆくのだ。


 

2012年01月05日

スイスの貴重な写真一枚


スイスの貴重な写真一枚


alpstree11.jpg
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雪山に映えて一羽の烏かな

背(そびら)には雪の岩山高々と樹は伸びにけりアルプスの村

この写真は絵になっていた。絵ではないにしろまさに構図としても絵にすれば立派な絵である。スイス辺りは絵になる風景が多い。ただこの写真は全く思い出すこともできない、たまたまあとから見てこんな写真あったのかと驚いた。こういうふうに見事にとれたのは少ない。観光地の写真はみんなとっているから同じ様なものになりやすい、今はインタ-ネットでかなり見れる。ハイデルベルグの雪の光景がyoutubeで写されていた。あそこは塔も印象に残ったところだった。


赤い屋根白に変わりぬ雪のふりハイデルベルグに塔の映えし塔かも


何か塔に雪がふり寒々としているのがリアルである。一度行ったからリアルに感じるのだ。

外国の写真はやはり思い出すには不可欠である。ただ観光地のはいくらでも写真が見れる。すると同じ様なものになってしまうのが現代である。この写真は観光地でもはずれた所だった。スイスの有名な観光地でもぶらぶらしてとった写真だった。とったことも全く覚えていなかった。でもこの写真は秀作である。全く構図とか一切考えてとってはいない、偶然の産物だった。それでもいい写真をとれるときがある。だから本当はとにかく数をとればその中にいい写真が残る場合がある。デジカメだとそうしやすかったがこの時はデジカメではないのでそれほどとっていなかった。デジカメだったらもっととれたからいいのが残っていたろう。

雪のハイデルベルグ
http://www.youtube.com/watch?v=IyZQ5z2_Pmc&feature=related


あとがき

良く見たら烏が一羽高いところに止まっていた。これなども肉眼では気づかなかった。それを写生して俳句にした。
ただ写真を見ないと俳句だけでは鑑賞できないのがある。写真と一つとなって作品化しているのが現代の写生俳句なのである。

2012年01月06日

本の読み方 (本は読むとは著作者の心を読み自分なりに解釈すること)


本の読み方

(本は読むとは著作者の心を読み自分なりに解釈すること)


●引用は極力すべきではない


繰り返すが、「自分の言葉」を使って、自分の疑問とその答えを中心にして要約文を書かねばならない。やってはいけないのは、本文の文章をそのまま使うこと。これは、やってはいけないよ。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/howtoread.htm


本は読むより読まれているということが多い。本を読んでもびっしり大事な所に線をつけたりしていたがそれも無駄だった。本は相手ののみこまれ読まれてしまうのが多い。若いときは結局、経験もないのだから相手の言いなりになる。知識の量も経験もある人にただ読まされることになる。それは別にすべて悪いことではない、いいことを言っていれば記憶に留めるのは悪いことではない。でも読書はカルト宗教団体に入るとにている。一方的になりやすいのである。引用することは相手の言っていることをそのまますることであり自分なりに解釈したものではない、自分の文脈で解釈していないのだ。引用は確かに効果的になることはある。自分も引用したが自分なりの解釈をしていない引用もあって失敗だった。インタ-ネットでは何でも軽く書いていいから書いたがもっと要約したこれこそ自分が言いたい核心だいうものを書くべきだった。それは今からでも手直してインタ-ネットでは書ける。読書も相手の書いたものを自分なり読むということが大事なのだ。相手のペ-スのままにすべてただ自分が読むのではなく読まれてしまうのが読書には多い。


●他者の基準が基準になり安いこと


古典でも絶対化してはいけない、古典にはどうしても読まれてしまい自分の解釈ができにくい。それだけ中味があるのだから自分のようなものには自分なりの解釈はできないと思ってしまう。人間は結局、すべてのものは自分なりの価値づけするほかない、どんなにベストセラ-で売れていようが知的分野や芸術とかの分野では自分が価値の基準になってしまうのである。そんな能力は自分にはないといっても現実的にはそうされてしまうのである。だから絵画でも詳しくない人は他人の基準に従うのである。ベストセラ-を読むのは他人の基準に従う人が多いからである。みんな買って読んでいるからいい本なんだよとなる。これはカルト宗教と同じである。みんな入っているあれだけの数の人が入っているのだからそれだけの価値があるとなる。数で判断されているのだ。それに疑問を抱いても考えたり調べるのがめんどうになるからそうなる。第一カルトなどは権力をもっているから批判した本が極めて少ない。批判した本を本屋に置かさせないのだ。それだけの力をもっている。

原発事故でも原発に反対する本はあっても隅に追いやられていた。反対の学者もマスコミに呼ばれて声高に主張できなかった。もっと創価でも真光でも幸福の科学でもこれはカルト団体で権力を操作することを目指しているとかそういう批判の本は出ない、出せないようにしているのだ。書店はまた売れない本は置かない、カルト宗教団体では金があるからその会員が買ってくれるからお得意さんだとなる。ある時大きな書店は「幸福の科学」の本が入り口に山積みになっていた。一番目立つところに置かれていた。一般人はなかなか買わないにしても会員が大量に買えば売れるものとして置かれている。


●時代が変わって理解しにくくなる理由


ともかく古典でもそれがどういう価値があるのか、解釈すればいいのかは自分で価値づけるほかないのだ。そういう作業がないかぎり古典も活きてこない、権威ある本となっていてもそうである。古典というときそれはなぜ古典になるかというと時代の影響がある。どうし現代では芭蕉のような深みのある俳句ができないのかと不思議であった。それは現代の環境と江戸時代の環境が余りにも違っていたからだ。第一車もない、電気もない世界だ、高層ビルもない、鉄道もない、音もほとんどしない世界だ。そういう世界で今とはまるで違った感受性が磨かれた。現代は感受性は自然に対しても歴史に対しても乱れ悪くなっている。「須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇-芭蕉」どうしてこの笛の音が聞こえてくるのだろうか?芭蕉は自分の生きていたさらに過去の人に同情して深い俳句を作っている。現代は過去から聞こえるものも騒音とかで打ち消されているのである。古典は明治時代のもの古典になっているけどやはり明治時代は江戸時代の延長であり江戸時代の感受性がまだ残っていたから古典として残った。その時侍のことを具体的にリアルに理解していた時代だった。だから武士道なども書けたのである。武士が何であったのかまだ父とかが侍だったとかなればわかるのだ。

それが現代になると理解しにくい。司馬遼太郎は明治維新のことを書いているけどやはりまだ明治を知っている世代だから書けた。一時代あとの人は客観的にその前の時代を評価しやすいということがある。祖父母や両親の時代は具体的に理解しやすいからだ。時代が変わると団塊の世代すら理解しにくいものとなるだろう。あれだけの戦争のことをなかなか理解しにくいのもそのためである。時代に流されない人間の真実を書いたのが古典である。だから人間の不変のものとして残った。戦争が理解しにくいのは太平洋戦争などは参加した人ものちの人も否定的にとらえている面がどうしても大きいからだろう。明治維新については盛んに語られるのに語られないのは肯定的ではないからだろう。現実に80代でまだ戦争に参加していた人はかなりいてもなかなか語られないのは参加した人も否定的になっている面があるからだろう。人間は年取っても過去を語りたくない人はいくらでもいる。過去はみんないいものではないからだ。過ちと罪の悔恨だったのが普通だからである。ただ75才以上の人には日本人的な心情で共通したものがあり貧乏でも何かまだ誠実で素朴な人が多いようだ。70以下辺りになるともう日本人的心情の素朴さは喪失した。ギブミ-チョコレ-トの時代になり進駐軍からアメリカから物、金だけを要求して自らも追求する時代になったから団塊の世代と変わりない、金しか価値を認めない世代になったのである。


●本は読むより眼を通すという読み方が最善


本はじっくり確かに読む必要があるものもある。でも長い本は結局読めなかった。なぜなのだろうか、おそらく長い本はそれだけ労力がかかるからだろう。長い本は相手を読むことがむずかしく読まれることが多くなるのだ。相手のペ-スにのまれてしまう。あなたはこちらの言い分を全部読んでから何回も読んでから著者のことを語れよとなる。そういう本と人とつきあうことは骨折れるから全集などいろいろ買ったが積んどくで終わった。どんな本でもその本の全部を理解することはできない。部分的には理解できることがある。自分の今の本の読み方は読むというよりはさ-と眼を通して自分にとって必要なものをピックアップして利用するという感覚になっている。だから長い本はなかなかそうしにくいから読んでいない、でも一部が利用できなるなと思うとそこだけを記憶して利用する読み方である。だから一時にあるテ-マに関したことを十冊くらい手にとり眼を通している。それは読んでいるのとは違う。自分なりに新たに再構成するために読んでいるのだ。


ただあるテ-マで書くときどうしてもそれに関して深く知りたければある程度の多くの本を参考にせねばならない、なぜなら人それぞれに必ず詳しい分野があり専門家がいるからそうなる。とても自分だけでは解釈しきれないからそうなるのだ。でもいくら専門家が語っても自分なりに解釈しない限り本も宝の持ち腐れだった。家が傾くくらい本をもっていてもそうだった。本を買うだけで知識がふえた感覚になっていたのだ。本はもう装丁とかにこだわるより中味が大事である。装丁とか表紙の部分で重くなっているのだ。
本は重くなりすぎているのだ。本は写本のように秘密めいて情報を独占するようなものとしてあった。本はあくまでも知識を伝えるものであり紙に書いた活字で伝えるのと電子本でもインタ-ネットでも伝えることは変わらない、すると効率的に読書するには電子本でも電子化してもかまわないということである。それで内容には変わりない、内容の有る無しは決められない、その価値づけは読書する方がすることには変わりないのである。


最近ニ-チェとかマキャベリでも要点を書いて解釈している本がでているけどあういうのが受けるのは結局全部読めないからである。それでもある程度はその本の趣旨を説明しているので読書になる。でもそういう古典的なものは人によっていろいろ解釈できるのである。ある人がある部分をとりあげある人がある部分をとりあげる。自分でもニ-チェとかマキャベリでもそうした要点をとりあげて解説できる。10人いたら10人の解釈があるのだ。本になるとそれが何でも権威化して特権化するから偏るのである。ある人の解釈は参考になっても自分なりの解釈をしないかぎり本を創造的に読んだことにはならない。ただコピ-しているだけでは読書にはならないのだ。

指標は我にあり汝にあり、集団にはなし

2012年01月07日

世界史を地理風土から解明する 世界の地理から首都の位置から世界史を読む(1)


世界史を地理風土から解明する


世界の地理から首都の位置から世界史を読む(1)

歴史は地理であるというとき世界史でもそうであるから世界の地理がある程度わからないと世界史はわかりえようがない。地理は本だけ読んでも地図を見てもわからない、立体的地図を見てもわかりにくい。地理は地形と関係しているからある程度体で体感しなとわかりにくい、そうなると地球は馬鹿でかいからとても一生をかけてもゆく所が限られているからわからないとなる。自分の場合も50すぎてから世界旅行したから遅かった。今の人は若い時から海外旅行しているから学者でなくても海外に詳しくなれる。世界史が地理だというとき地球を作ったのは神であり神があらかじめ人間に予定していた用意していたのが地理である。カナンの地、イスラエルが地球の中心だというときそこはあらかじめ神が定めたからである。アブラハムがカナンの地にあえて移住したのもそのためだろう。神が定めた地球の中心がイスラエルだったのである。地球の首都がイスラエルだった。首都というときまず世界史で大事なの世界でそれぞれの国で首都となっている地理である。日本だったらヤマトが奈良になったのは歴史的必然だった。日本の地理的中心が奈良でありそう定められていたのである。邪馬台国論争があっても地理的に日本の地理的中心は奈良だった。なぜならそれも地形が関係していた。

大阪が難波が適地のように見えたが日本は葦原の瑞穂の国というように海に囲まれ湿地帯が多かったのである。今の港となっている所はほとんど湿地帯であった。難波も広大な湿地帯でありそこに都をつくりえよがなかった。それで最初の都が首都が奈良の奥まった飛鳥になったのである。そこもまた奈良の平地が湿地帯であり湖だったとかあり飛鳥が都になった。その後万葉集で歌われた山辺の道も平地が湿地帯だから山辺の道に沿って巨大な古墳が作られた。卑弥呼が眠っている箸塚古墳といわれるのも山辺の道沿いにある。その後も首都は難波には作られなかった。山城の山に囲まれた京都が平安京の首都になった。その後は近江の大津京が首都に一時なったり難波はなかなかなれなかった。
難波が大阪は秀吉の時代まで待たねばならなかった。次に首都になったのが江戸-東京なのも海に面していた東京湾でありここも湿地帯であり埋め立てが必要だった。


首都の位置から地理から世界史をみるとある程度理解しやすくなる。中国も馬鹿でかいから地理を知るのは用意ではない、ただ最初首都が始皇帝の秦の首都が長安であり西安となった。秦がシナとしてシルクロ-ドを通じてヨ-ロッパに知られたことでもわかる。そこは遊牧民族の騎馬民族の土地と接するところであり兵馬俑の大騎馬軍団を擁して中国の最初の統一国家を作ったのである。去年は津波の被害で「絆」が強調されたが感じの意味は動物との牛とか馬とか羊の絆が語源だという。これは遊牧民的言葉だった。遊牧民は動物との絆なしではありえない、農耕民は土地の絆なしではありえない、日本語のきづなは木綱になってしまう。日本は樹の文化だったのだろう。樹に綱を張るから新年の神社の行事でもあるし家庭でもしめ飾りかしているからである。その後も遊牧民のモンゴルと接する北京が首都になったのも遊牧民の影響が中国は強く受けているからである。遊牧民の侵入を防ぐために万里長城を作ったのである。この遊牧民は広大なユ-ラシア大陸の国家の揺籃の地となった。ただ農耕民のエジプトのような三千年とか継続する文明国家を作り得ず雲霧消散した。トルコまで遊牧民国家であり西と北の境目がイスタンブ-ルになっている。イスラエルとかも遊牧民の国だった。砂漠からユダヤ人の聖書が生まれたのである。この遊牧民がフェニキア人のように地中海の海洋民となってギリシャがそのあとを受け継いだ。そういう大きな歴史の流れが地理的にあった。その国の首都がなぜそこにあるのかまず検討する必要がある。ギリシャの首都がアテネでありロ-マの首都がロ-マだというのもその位置が大事になる。フランスでも国家がマルセイユを歌っていたというときやはりマルセイユが中心としてあり次にパリに移っていった。マルセイユはギリシャの植民都市として発展した。フランスには広大な平野が背後にありそこが耕作地帯となるからパリに首都が移った。


遊牧民の影響はヨ-ロッパにも継続された。ロシアがタタ-ルの軛としてモンゴル帝国の一国家として出発したのもそのためである。その後もフン族とかいろいろな民族が西のヨ-ロッパに移動したのである。ハンガリ-などもそうした遊牧民の国家だった。東ヨ-ロッパ地帯は遊牧民国家であった。ただドイツはゲルマンは森の民と言われるように狩猟民であり遊牧民であり農耕民にもなっていた。ゲルマンは遊牧民とは違った文化をもっていた。遊牧民は森の民とはなり得ないだろう。今でも森は草原などにわずかにしかないだろう。でもモンゴル平原にも森がありその森の民が狩猟の民は今でもシベリア辺りでは移動するから定住の農耕民とは文化が違っている。森の民というときなかなか理解しにくい、ドイツでも森がなくなったときそれかイメ-ジしにくくなった。でもその伝統が文化に受け継がれている。ゴシック聖堂が森を象ったものだというときそういうものかと理解する。その背景にあったのがゲルマンの樅の樹などの黒い森であり樅の樹はドイツの象徴的な樹となっている。森の民故にその思索も深くなり音楽もベ-トベンとか重厚なものが生まれ重々しい思索の哲学の国となった。Fundamental Germany Identityが森にあったからである。

のちのプロテスタントシズムが生まれたのも勤勉の奉仕を基にした資本主義のエトスが形成されたのもそのためである。峻厳な森と北方の厳しい風土がそのモラルを自ずとキリスト教と合体して形成された。

地理を見ればおおよそおおざっぱに世界史がわかるという利点がある。スペインとフランスをさえぎるピレネ-山脈が国を分けたしラインは自然の強固な境界となった。山も国境となり川も国境となる。それは自然の地形にそって都市や国家が形成されたからである。日本でも関が原が天下分け目の境界線だったことは地理的にわかり西を治めようとすれば信長が安土城を築いた理由もわかるしのちに大阪が首都になったこともわかる。それは地理的風土的要因があったからである。


一つの国の歴史と民族性はまず自然の植えにちゃんと書いてある。よその国や人間を知りたければ、その国の自然というものをまずゆっくりと読むことだ。一ペ-ジだけで結論に達したりしないであせらず急がず読むことだ、春夏秋冬という書物をゆっくり読むべきだ。(西欧の顔を求めて-犬養道子)


この本は含蓄がある。ほとんど外国に住んでいたら当然そうなる。ところが普通の人は一回くらいしかヨ-ロッパでもなかなか行けない、ただ最近若い人でも8回パリに行ったとかいう人も増えている。外国というのは本で読んでもわからない、地図を見てもわからない、一回でもその土地を踏んだ人は実感としてわかるのだ。ドイツの大地を踏んだ時、ドイツの文化の根源的なものを実感として体から感じる。ドイツ人のゲルマンの魂がその土地から形成されたからである。するとベ-トベンの音楽とかが肌でその土地と一体となって感じることができる。印象画がフランスから生まれたのも霧深い森深いドイツではない明るい陽光のフランスだから生まれた芸術だった。これもその土地の風土を知らなければ深く理解し得ない。日本の俳句は日本の四季を知らなければ理解しようがないのだ。一年間日本の気候四季を経験しなければ理解しえないものである。だから一度も外国の地を踏まない人と踏んだ人の差が外国の場合は大きいのである。駆け足で一回だけでも行ってもその影響は大きいのである。一回だけでも相当理解が深まる。これまでは一回すら行けないのが普通だった。今は庶民レベルで行っているから外国に対する理解は深まってくる。ただ外国に住んでいる人のようにはいかない、そこに以前として大きな差がある。何回もゆく訳に行かない無理だとなる。


この地理的世界史論は継続されて書かれる、次は川を知らなければ外国は知ることはできないとなるだろう。


 

2012年01月08日

日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因 (ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因

(ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


●ヨ-ロッパ人の歴史感覚


彼らと話して驚くのは何気ない会話の中にも正確な歴史年号がよく出てくることである。丁度、煉瓦をきらんと積み重ねてゆくように彼らの考えの中に、無学な一般の人でも過去何千何百年歴史の一コマ一コマが、きちんとして西暦年号で積み重ねられている。(ドイツの森-小塩節)

大部分のヨ-ロッパ人にとって洋服タンスは重要な装飾家具であり例えばそれがブル-地に城の花模様のバロック箪笥タンスならベッドもブル-に白の線の入るバロック、という風に、時代とスタイルを揃えるのが。常識である。木材もロ-ズウッドのテ-ブルがあればサイドテ-ブルもイスモロ-ズウッド。時代がエドワ-ドならカ-テンの模様もエドワ-ドの風とそろってくる。そしてそのような家具は曽祖父から祖父母へ父母へ受け継がれてゆく(ラインの岸辺-犬養道子)


古代の列中と中世の教会が合体した珍しい建物。2世紀にアントニウス帝が妻ファウスティーナに捧げるために建造し、二人の没後は墓所となったとされています。


邸宅の前の坂に連なるアーチは、坂の麓のひとつだけが、
ノルマン民族に侵攻された11世紀のもので、あとはゴート族に侵攻された
5世紀のものだそうです。
ひとつだけ、色が違うので、いわれてみるとなるほど、です



ヨ-ロッパの歴史の地層は明確に残っている。その時代もその地層から見分けることができる。その歴史感覚は日本とは相当違っている。そもそも庶民レベルで西暦年号まで記憶して語っている人は特別な専門家しかない、庶民レベルでは日本では江戸時代すら語られていない、明治時代ももう生きている人がいないので「明治は遠くになりけり」になる。実際に何度も甚大な津波の被害を受けたのに堤防を高くしたにしろ警戒を怠って即座に逃げない人が多かったというのもそういう昔がリアルにありありと日々語られていないということにあった。つまり日本人は過去を忘れやすい民族である。その原因が過去の遺物がほとんど残らないということがある。そのことが過去を意識されないのだ。
ヨ-ロッパでは過去をいやおうでも意識させられる。遺跡がそっくり残っている、石だから残っている。そこで歴史感覚が自ずと養われる。同じ家に一世紀に二世紀とか住んでいることが考えられない。コロッセウムの隣にあった教会は地下はロ-マの遺跡でありその上に教会が建築されている。あれなどもまさに歴史が明確に連結されて時代分けされているのだ。だから時代感覚も養われる。


オランダの風車も住居になっているが二百年前のものだと聞いて驚く。それが今もまだ使われていた。アムステルダムの商人の邸宅の街並みも昔のままである。ドイツでも中世の街並みが塀に囲まれた街がそっくり残っている。日本では街自体が城下町でも近代化されたなかでビルの中に埋もれてしまっている。城下町といっても城だけがわずかに残って新しく建築されているが街並みから昔を想像することはむずかしい。江戸時代があっても東京に行って江戸時代を偲べる場所がない、江戸城の跡は皇居になったけど江戸城がどういうものだったかわかりにくい、むしろ東京で一番建物で意識されるのが東京駅なのである。明治の象徴としてのオランダのアムステルダム駅をまねた駅だけなのだ。あとは全部変わってしまって江戸時代を偲ぶ建物がまれである。せいぜいどこどこの屋敷跡というだけでそこはビルになり何も残っていないのだ。ロ-マだったら貴族の邸宅跡が未だに残っている。その礎も遺跡として残っている。常に過去が歴史が意識されるのがヨ-ロッパである。ロ-マの遺跡はヨ-ロッパ中にありそれがいつも背景となっている。だからロ-マを具体的に常に意識するのである。
それは専門家でなくても庶民レベルで日常生活の中で意識しているのだ。だから家具でもその時代時代の特徴でアレンジすることができる。それは庶民レベルでもそういう歴史感覚が育まれているのだ。言葉でも英語には時制が明確であり過去を意識して未来を意識するということを言われている。


●日本人は生(き)の文化、今だけに生きる文化?


日本の建築にしても神社が伊勢神宮では20年後とに建て変えるという社があり新しい方がいい、神の意にかなうということが日本の文化なのである。生(き)の文化だというときそれを端的に象徴している。それが生ものとして生きている時じ旬であり建築もそういう意識がある。日本の家はせいぜい30年しかもたないというのもそのためである。家が確かに歴史感覚を作る基になるときそれがないからそこでも庶民レベルで歴史感覚が希薄になる民族なのである。日本では祭りは由来がわからなくても一番歴史を意識させる、祇園祭は貞観地震の津波などの供養のためだったというときそんなに古いかのかと感心した。それでも一時的まさにお祭騒ぎで歴史が日常的に意識されることはない。

日本は過去を意識することがあまりにも希薄な民族なのである。過去というと時、歴史というとき

戦国時代の信長、秀吉、家康くらいしか一般的には意識しないだろう。そもそも何々時代の家具をそろえることなどできない、家具を置くだけのゆとりある家もまれだった。そういう豊さがなかったこともいえる。ただ日本人は例えば水に流すというようにみんなその時その時で水に流すという傾向が強い。今回のこれだけの被害にあったことでも正に水に流すで忘れてしまうのだろうか?そうなるとまた同じ被害を受ける、相馬藩政記は相馬藩内だけではない他の人でも参考にしている。相馬藩は代替えがない大名であり一貫して継続したので資料になりやすい。そこに確かに400年前の慶長津波のことが記されていた。それも津波があった、7百人死んだというだけである。ほかは何も記されていないのだ。もっと詳しく書かれていれば津波のことを恐怖して読んでいたかも語れていたかもしれない、そういうことが余りにもなさすぎたのである。わずかに碑が忘れられたように残っていただけである。その碑も本当にいつの時代かもわからない、字すら消えていたのである。


日本人はただ今に生きているだけの民族なのかもしれない、今の旬、生(き)なるものを生ものの寿司などを味わう文化なのかもしれない、過去は忘れて今を生きるだけの文化なのかもしれない、それでも明治時代とか大正時代は特徴があった。大正ロマンとかあり短い時代でも郷愁ある時代としてみている。大正生まれの人は90以上でもまだ生きている。その後は昭和からは何か時代的特徴を見るのはむずかしい。ただモノや技術だけで計られる時代なのかもしれない、鉄道時代や車時代やテレビ時代・・・とか技術の進歩が歴史でありそれくらいしか時代を見分けることがないし特徴もないとなる。祭りのように過去は一時的お祭り騒ぎで過ぎ去ってゆくものなかもしれない、ヨ-ロッパのように石のようにしつこく大地に刻印されて残り意識されるのとは違った歴史感覚なのだ。その歴史感覚は津波のような被害だけではない、対外的にも外交でも大きな失敗につながり大きな犠牲を生む、大東亜戦争というのもそのためだったという指摘も否定はできない。ヨ-ロッパの歴史もアメリカの歴史も中国の歴史も深くコミットすることにかけていた。言葉からもそういうことは言えた。


●successは成功でなかった、継続の意味


succeed:(自動)1) 成功する 2) あとを継ぐ、(他動)1) あとを継ぐ 2) 次いで起こる(「後について行く」ことから。sub- は「下、副、従」などを表すが、ここは「後に従って」。「成功する」は「後にうまくついて行く」ことから)

success:(名)成功
successful:(形)成功した
succession:(名)連続、継承
successive:(形)連続する(consecutive と異なり中断が入ることもある)
successor:(名)後継者

に続くこと → あとに続くこと → うまく事がはこび続けること


筆者はホテルに戻って早速、英英辞典を引くと、語源的には successful は continuous という意味がもとであるということを発見する。


  不思議な国ニッポン
  自分一代での「せつな的成功」と「継続は力なり」で何世代も続ける努力
  木造建築と石造建築のちがいからくる、日本文化と欧米文化とのちがい


その時々の成功ではない、継続することが歴史を受け継ぐことが成功の起源である。津波でこれほどの被害を受けたのは過去を受け継がないから大失敗をしたのである。常に人間の生を継続しているものとして考えないから起こった。これだけの大津波もただ祭りとして過去のこととしてし大騒ぎして忘れてしまうのだろうか?あれだけ被害をだした戦争にしても忘れてしまうのだろうか?ここの原発事故も忘れてしまうのだろうか?原発事故でも過去のことをまるで考慮しなかったために失敗した。
貞観津波のことを学者が指摘しても全く受け入れられない、それは余りにも遠い過去として考慮されない、それも歴史感覚がないためではないか?ヨ-ロッパだったらロ-マ時代でも記録が膨大であり生々しく再現される。そして現代とその生活感覚たいして変わりないことに驚くのである。もう近代の生活と変わりないことがかなりあるのだ。現代の身近な生活として受け継がれているものがある。
日本人の歴史感覚は見直すべき時だろう。歴史的にものを考えることは長期的視野で考えることである。今でも常に今日明日が問題であり10年後をどうするなど考えられない、それは世界的傾向としてそうなったが長い時間をかけて歴史的に構築するという時間感覚が失われることは危険である。それは津波のことでも意識されたのである。

 
posted by 老鶯 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年01月09日

伊藤契沖の群雀と粟の絵を見て


伊藤契沖の群雀と粟の絵を見て

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粟による群雀喜々と江戸時代


柳津に粟饅頭をもらうかな


新年の満月に願う復興を


米3分・大根干葉・粟 米3分・大根干葉・粟
盛切一椀づつ 雑炊・くだけ粥・麦粥

江戸時代の農民は稗・粟・麦等の雑穀中心の雑炊を食し、米は3-4割しか入らないものでした。現代の蕎麦・うどんは江戸時代は特別なご馳走であったことがわかります。
http://homepage2.nifty.com/history-nanokaichiba/edosyoku1.html


粟餅
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no163.html


 阿波は粟のことか?石川県輪島市町野町粟蔵の粟蔵は文字通り粟を貯えていた蔵になる。粟に関することは多い。江戸時代は常食として粟を食べていたのだから当然そうなる。米は三分くらいで粟とか稗とか麦を混ぜて食べていた。今のように白米ばかり食べていることはない。白米ばかり食べていたのは江戸でありそれで栄養が偏って江戸患いの脚気になった。江戸では米は入ってくるが雑穀は入ってこない、戦後の10年くらいは麦飯だった。それはこれまでの雑穀文化の名残だった。戦後10年くらいは麦畑がどこにもあった。養蚕もしていて桑畑もあった。自分の家の後ろがそうだったが住宅地になりその面影は何もなくなった。なぜこの粟に今興味もったかというと伊藤契沖の絵に粟が描かれ多くの雀がその粟を食べに来ている絵を見たからである。稲穂による雀は稲雀となっているから知っているが粟を食べる雀は見たことがない。


粟稗にまづしくもなし草の庵 芭蕉


白石市益岡公園
  粟まくや わすれすの山 西にして  松窓乙二


関山、烏峠と共に白河三山と称される新地山は白河市街から7キロほど東方にある阿武隈河畔の
小山で、対岸には古代の白河郡政庁である白河官衙跡(国史跡)もある。古くから人忘れずの山の
別称があり歌枕ともなっていたが、おそらくこの穏やかな山容は、畿内から下向した官人らに懐かしい大和の山々を連想させたに違いない


キ-ワ-ドで粟で探ししていたらこんな句に出会った。人忘れずの山ということでわすれすの山となった。不忘山というのはあるけどこれは高い山である。白河官衙跡にあるということは古いことは確かである。別に粟稗を食べていたからといってその当時貧しいとは感じていなかった。今の時代の食生活からすると貧しいとなるが江戸時代の感覚では貧しいのではない、普通の生活だったのである。
粟というとき柳津で粟餅をもらった。それが結構うまかった。粟餅も普通にあったものである。粟は欠かせないから粟蔵があり地名にもなっている。日本人は米ばかりを食べていた米ばかりを作っていたように思っているが実際は米は三分とか少ないのである。そこがまた昔を誤解することになる。

会津の方だと余計に山国だから蕎麦も食べていたし米を食べる量は少なかった。柳津という会津の奥にふさわしいともなる。ただ粟はどこでも作られていたのだ。やっぱり旅をしても郷土に住んでいてもこういう故事が知らないと旅もつまらなくなる。福島県なども会津をふくめると広いからわからないことが多いのである。


今日は満月が海から昇った。月見は焼き畑時代から由来するもので芋とか雑穀を月に供える行事だった。満月は何か縁起がいいというか新年にふさわしい。今年はいい年であってほしい、復興を満月に願う。月とか太陽も地球にかなり影響している。それは歴史も動かしているかもしれない、そういうことはなかなかわかりにくい、今回の津波などもどういう影響でなったのか本当に不思議である。



柳津(やないず)でもらったのは粟餅ではなくいかにも粟らしい粟饅頭でした。粟餅はまだ食べたことがありません、
粟餅も江戸時代は普通に食べていたものです