2011年12月29日

狭い地域で決められる原発 (小高と浪江で決められていた東北電力の原発)

 

狭い地域で決められる原発

(小高と浪江で決められていた東北電力の原発)

●浪江町と小高町で決められていた東北電力の原発


南相馬市が小高町と原町市と鹿島町が合併して南相馬市になる前に小高と浪江で東北電力の原発が建てられることが決まっていたしすでに補助金も入っていた。小高区は南相馬市になったので南相馬市の市長が電源交付金を今回は東北電力から断った。でもそもそも東北電力の原発が建つかどうかは小高町と浪江町でその是非が決定される。選挙にしても議員が賛成、反対派に分かれても原町市とか鹿島町と相馬市は参加できない、原発は原発が建つ10キロ圏内とかで決められることでありその回りの人は関与できない。10キロ圏内と福島県知事だけで決められる。議会も関係しているが直接的な力はないみたいだ。どうして原発が建てることが決められるのか、決める権利があるのか?それは狭い地域と県の知事によって決められる。福島県外でもそうでありそこが原発の大きな問題点だった。一旦事故になったら今回のように広範囲になる。でも小高町で原発がすでに建てられる予定になっていたことがあまり問題視されなかったように近くでも原発は知らない内に決められるということである。もちろんそのために10キロ圏内などは経済的にも恩恵が受けられる。小高だとすると原町も10キロ圏内であり鹿島も20キロ圏内であり相馬市も30キロ圏になるからそこが全部避難することになった。しかし小高に原発が建てられることにそれほど騒ぐこともなかった。南相馬市に合併してからもそれほど騒いでいないし知らない人もいたのである。


小高の大工さんが原発が建って景気よくなるとか言っていたがそれもピンとこなかったけどすでに原発が建てられることが決まっていたのである。だから先の長い話しということでもなかった。現実に準備のための工事もしていたのである。十年先で長いにしてもやはり建てられることは決まっていたのだから周辺に工事もふえてくるし合併した南相馬市に電源交付金もおりていた。しかしこれも怖いことだった。そんな近くに建つことでも原発に無関心だったのである。他の原発が建っているところでもそうである。狭い地域で決められてその狭い地域は大きな恩恵があるから住民エゴだとして今は外から批判されている。そんな狭い範囲で決められていいのかということが今回の事故でわかったからである。民主主義の矛盾は原発のような危険なものでも結局民衆の多数決で決められる。それがどうであれ多数決で決められる。それも怖いものだった。どうしても利益になる、いい暮らしができるとかなれば危険を考えないで利益を得たいという人が多くなり原発に反対できない、小高でも一時反対した人はいた。だかいつのまにかそれも消えてしまった。そして建てられることは決まっていたのである。でも原町市は五万ほどの人口があっても原発を建てるかどうかを決めるのに関与できなかった。合併して直接関与するようになった。でも小高町で容認していたからそれを引き継いだのである。その原発について南相馬市で是非を議論したり議会で議題になったりもしなかった。


つまり原発は建てる方にとって実に都合いいようにできていた。非常に狭い範囲で決められる。極端な話しが原発を建てる土地の利権者とあとは県の知事の決定で決められる。そんなことでこんな大事なことが決められていたし今でもそうである。これだけ広範囲に事故になったら影響するのにその原発を建てるときは関与できないのである。住民エゴというというときそれを是認する仕組みがあることも問題だったのである。県全員の住民投票とかで決めていればそんな簡単には建てられなかった。実際はそれだけの影響が事故になったらあるのだから原発を建てる仕組みが偏りすぎていたのである。そして地元の人はともかく利益優先になるから放射能のことなど事故前までは怖がらない、安全神話を作られていたこともあるがやはり地元住民は利益になればいい、金がおりればいいとなる人が多いのだ。原発はやはり回りに莫大な金をばらまくのである。大工さんにしてもいろいろ事業もやっているから大歓迎だとなっていた。あんなに事業をやって金儲けすることも疑問である。なかなか人のことは言えないにしてもやはり欲張りだなと思う。ブラックなことをする必要もない、腕はいいしそれなりに収入はあった。人間の欲は何度も書いているけどキリがないということであてる。そういうキリのない欲が原発でも何でもいいとなっていた。だからそうした欲が先になるから地元で原発を反対することはむずかしくなる。


新潟県西蒲原郡巻町が初めて常設型住民投票条例を制定して住民投票を行なって以来、地方自治体の重要な課題について、住民投票に関する条例を制定し、実施された住民投票の結果に基づいて政策決定がなされる事例が増えてきている


これをしても議会や市長などが決定権をもっていて有効になるとは限らない、そういう仕組みが法律が制定されていないのだ。


●重大なことは住民に知らされない(権力により操作される情報)


そして今回の事故でわかったことは重大なことは住民に知らされないということである。スピ-ディの結果はでていて山の方が危険だということは政府でわかっていても浪江町には知らされなかった。それで危険な津島の山の方に集団で避難した。飯館村では何か月も放置されて被曝させられた。なぜスピ-ディがスピ-ディに公表されなかったのか疑問であった。つまり政府は重大なことを知らせないということである。戦争のときも負けたとかは知らされない、知らせると政府にとって困るからである。今回もパニックになることを恐れて知らせなかったというのが弁明だった。政府は肝心なことを知らせない、それで民は犠牲になる。そうしたら何らか自治体で自衛手段をとらない限り命も守れないとなる。でも自治体で放射能のことなで対処できるかとなったらできない、それで政府の安全神話を信じさせられて犠牲になった。戦争に絶対勝つと言われて犠牲になった戦死者ともにている。死んではいないにしろ住めなくなったのだからその被害は大きかった。


重大なことが知らされないというとときこれはマスコミとか報道機関でもそうである。福島県の報道機関でも新聞でも雑誌でもテレビ放送でも原発が危険だなど知らされていない、ただ前の佐藤栄佐久知事がフルサ-マルについて批判したとき報道はしていた。でも原発が危険だということを批判してはいていない、財界フクシマが最初何回か批判したが東電から金をもらってからやめた。単なる脅しだった。つまりマスコミからも重大なことは知らされない、現実にマスコミの主だった人を東電の会長が中国に招待していたとき事故が起きたのである。その時あらゆるマスコミが東電に招待されていたのである。だから今になって東電を批判していることが納得がいかない、これは戦争中と同じである。マスコミからも報道機関からも重大なことは知らされない、でも全然原発が危険ということを警告されていなかったかとういとそうでもない、学者は三十年前でも本を出して警告していた人がそれなりにいた。ただ大きな声とはならなかった。大きな声とならないかぎりその危険性を言ってもそれは虫の声になってしまう。大きな声となるのはやはりマスコミとか権力が加担しないとならない。つまり報道も大きな声にするのは権力の操作による。東電は莫大な金をもっているから政府と一体となり安全神話を作り上げてきた。マスコミは金で買収できる、マスコミは会社の一宣伝部のようにさえ思う。権力をチェックするような役割を果たしていない、そういう力もない、なぜなら宣伝費がもらえなければ成り立たないとなれば宣伝費を払う会社に従うほかないからだ。現実に民報や毎日とかでも聖教新聞を刷っていれば創価に批判はできない、創価を批判したものは報道から抹殺されるのは安全神話と同じである。創価のタブ-は強烈であり自分の本も町の図書館に置けなかった。公務員にも創価の会員がいて権力をもっているからそうなる。検察にも司法にも外務省などにももっている。


それは東電と同じだった。ただそれも権力がなくななればマスコミは叩く、権力をチェックするのではない、常に権力側につくのがマスコミである。そういう機能しかないのである。そうさせられているという一面もある。そしたら政府も信用できない、マスコミも信用できないとなれば何を信用すればいいのかとなる。自治体すら利権が先であり結局多数決でも利権を求めるものが勝つのだから原発をとめることはできない、新潟県の巻町では原発を建てさせなかった。だから自治体でもできないことはない、でもそれは全国でも例外的なことであった。原発の根底には人間の欲が深くからんでいる。その欲がおさえられないから反対できない、南米でも金の採掘で水銀を使い汚染中毒が問題になっている。でも会社が中毒を少なくしようとしたりしたら地元の住民が反対した。金の採掘で金儲けするのに地元の人が困るからだろう。ここでも地元住民の利益が先になる。人間の欲が抑制できない、先になるから地元住民のエゴを止めることができない、河は下流にも通じているし魚が水銀で汚染されても先に利益ありきであり地元住民のエゴが通ることになる。一旦そうした利益にあづかると双葉町であれ富岡町であれもっと原発を建てろとか言っているのに驚く、もうそういう利益か逃れることはできない、ただ回りの人は迷惑でありなんとかしろとなる。でもそういう仕組みがまだ作られていない、ただ今回はさすがに世論が反原発になったから歯止めができたとはいえる。


●故郷に住むということがどういうことか問われた


今回の事故ほど故郷に住むということがどういうことか問われたことがない、故郷に住めなくなって故郷か何なのだろうかと真剣に問うようになった。要するに自然があるから故郷に住むとか田舎に住むということがある。しかしその自然が破壊されたらそもそもそれも破壊された。故郷にそもそも住めなくなるということになった。多少一部汚染されても住めるならいい、しかし住めないことほど深刻なことはない、故郷に住めなくなるなど考えたこともないだろう。故郷に住むなど当たり前でありそこまで考える人はいなかった。原発事故は故郷に住めなくなるんだよとなれば必ず投票でも反対に回る人はふえた。そこまで原発のことを深刻に考えていた人はいない、金になるからと漁業権者も金をもらって喜んでいた。原発からもらえる金の方が大きかったのである。漁業者も魚をとれなくなると考えたこともなかった。農家の人も農地を耕せなくなる、自分の土地で自分達の食べる米さえつくることもできなくなった。こんなことになることなど考えもしなかった。そして故郷に住めなくなるということほど深刻なことはなかった。つまり生存権すら奪われたということである。当たり前に暮らしていた生活全部を奪われてしまった。生存権を剥奪されてしまった。今でも「故郷になぜ住めないんだ」という理不尽に納得いかない人が仮設住宅で年を終えようとしている。そして働くこともできずにいる人々がいる。それで会津でもパチンコにサウナにと贅沢に遊んでいるとか大熊町とか富岡町とか避難した人たちが地元の人に批判されている。故郷とに住むということがそもそも何なのか?

故郷自体住めなくなる奪われるということが起こった。故郷の土地も家も奪われて住めなくなった。それは一個人ではない、故郷の全員がそうなった。どうしてそんなことになったのかとやはり今年は自問自答しているだろう。それはそこに住んでいる人も責任あったんだよとか外から盛んに言われまた住んでいた人も自問自答している。故郷に住むなど当たり前だが当たり前でなくなった。故郷に住むには故郷に住む意志をもち故郷を守るという意志をもたないと住めなくなるということでもあった。別にそんなに故郷にこだわる必要があるのかとなって放射能汚染で他に移った人も多い。だから別に故郷が嫌なら今の時代なら他に移り住めばいいじゃないかとなることもあった。故郷は自然と維持されるものではなかった。故郷の自然もそうである。故郷の自然を守りそこに住む意志がなければ故郷すら奪われてしまうということになった。原発事故はそういうことをつきつけたのである。


故郷はみんなで守らなきゃ奪われる
自然も守らなきゃ奪われる
故郷の何が大事なんだ
自然なのか?それより金なのか?
住んでいる人も問われた
故郷の一員であり住むということはどういうことなのか
それぞれが真剣に問われた


地方自治とか政治に無関心だったけど故郷に住めなくなったら誰も真剣になる、生活的にもそうだし生活が補償されても仕事が奪われたりしたら何の生き甲斐がないとものだともなる。農家などでも日頃当たり前として仕事していた。その仕事の意味も問われた。農家などでも常に金にならないとかどこでも金にならないという声しか聞かない、そういうなかで仕事もできなくなったとき心から仕事ができる喜びを仮設などで感じたのも今回の津浪と事故だったのである。仮設で酒飲んでパチンコしてぶらぶらしてしいることで仕事したいとなったのである。仕事できることは収入はともかく生き甲斐であり喜びだったのである。そういうことも今回の津浪と原発事故で問われたのである。

posted by 老鶯 at 02:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連