2011年12月28日

年の暮-冬の暮 (老後は芸術でも鑑賞力をもつことが充実させる)


年の暮-冬の暮

(老後は芸術でも鑑賞力をもつことが充実させる)

kasetubonn.jpg



石二つ欲抑制して冬の暮


石二つ向き合いつつ冬の暮


冬の暮牛越城望み五輪塔


荷の重し原町に行き冬の暮


池凍り高松の池鴨群れる


男一人家事に励むや年の暮


前読みし本また読みて年の暮


百巻の本の整理や年の暮


盆栽を仮設に並べ年の暮


干し物に枯木のあわれ仮設かな



俳句は単純だけどそれなりに深い意味がある。ただそれがなかなか鑑賞できないのだ。芸術はそもそも鑑賞すること自体むずかしい。絵だってそうだし比較的建築はわかりやすい。芸術を作らなくても緩衝できる能力があれば人生も相当充実したものとなる。音楽だって鑑賞すること自体がクラシックなどになるとむずかしい。音楽は生のオ-ケストラの演奏を聞かないと感動しにくい。一回だけ外国のドイツのオ-ケストラの生演奏を聞いた。それは現代音楽だけど迫力があり感動した。普通現代音楽はわかりにくい、でも生演奏だから感動したし何か鑑賞できた。生の迫力は違っている。そういう点田舎は不利である。仙台まで行かないとその機会がないからほとんど生演奏は聞いたことがないのだ。絵だってやはり現物を見るのとコピ-を見るのは違っているだろう。老後などはやはりこの鑑賞力を深めれば充実したものとなる。自分でも不思議なのは本を相当読んでいても理解できなかった。本の山の中で暮らしていてもすべて理解しているわけではなかった。理解しない方が多かった。本でも理解すること自体むずかしいのだ。今の年になって不思議に本読んでそれを理解して自分なりの文章を書ける。自分の文脈のなかで本を読んでいるのだ。引用の規定にその人の創造的な一部としての引用は認められているとある。


引用する分量を抑えなければならない。
引用するには目的(必然性)が必要であり、それに必要な量しか引用してはならない。
質的にも量的[5]にも、引用先が「主」、引用部分が「従」の関係になければならない。
引用を独立してそれだけの作品として使用することはできない。


質的にも量的[5]にも、引用先が「主」、引用部分が「従」の関係になければならない。

これが一番むずかしいのだ。たいがい古典でも他の著作でも自分が書いたものが主になることは本当にむずかしい。若い人なんか丸写ししかできない、自分が主となるものが書けないのである。だから引用自体できないとなる。自分は自分が書いたものを主にして引用できるようになった。自分の文を読んでみればわかるしたいがい自分が主として本を読みその一部を利用できる。だからたいがいの本の引用ができる。これはなかなかできないことなのだ。それだけ創造的なものを書くということはむずかしいのである。ある人の言っていることを深化して自分なりに表現もできるのだ。だから今になると別に旅行をする必要はない、鑑賞力があれば自宅でいろいろなものを鑑賞できるのだ。別に高等なものでなくてもテレビでも映画でも人生経験が豊富だと深く自分の人生に照らし合わせると興味をもつ、犯罪にあったから犯罪に興味をもったり病気になったりして入院したから病院のドラマに関心をもつとかなる。そういう深刻な経験をしないとドラマも興味をもてないのである。

「石二つ向き合いつつ冬の暮」・・・これなども単純なものである。石をテ-マにして詩も相当書いてきた。石が現しているのは何か?やはり石は精神の象徴としてある。正直とか誠実とか持続とか何かそういう精神的シンボルとして石はある。この世にあるもはすべて何らかの精神的象徴である。

石と石が向き合うとういうことは互いに正直に向き合うということである。しかしそういうことができる人は少ない、正直な人は少ないし赤裸々に自分をさらけだせる人は少ない、実際に何か罪のない人などいない、そういう人は闇をかかえているから石と石のように向き合うことができないのである。表面では繕っても向き合うことができない、昔の人の方がそうして狭い社会で正直に向き合って暮らしていた。今はみんな心もばらばらである。


新田橋をわたった所にある高平の青田氏の五輪塔はいつも心に重しのように残る。名前すらないのだがあの五輪塔が歴史の証のように残っている。それはいつも牛越城に向き合っている。その位置は昔から変わってないないのだ。墓はそれだけ存在感があり歴史でもあった。もしあの五輪塔がなかったら青田氏の墓で歴史的な事件があったこともふりかえらない、あそこに五輪塔が残っているからその歴史をふりかえるのである。もちろんあれは地元の一部の人しか注目していない、でもやはり五輪塔の重みで歴史を意識しているのだ。だから土地に歴史が記されているから土地から離れたら歴史は消失してしまうと思う。歴史を認識するのは書類だけになってしまうからだ。


仮設住宅で年を越す、これも考えられないことだった。仮設は長屋と多少にている。でも長屋とも違う、一時的なものとしてあるからだ。でも広い家に住んでいたのだからあわれだとなる。盆栽を並べていたが日本人は盆栽を発明したのもやはり狭い住居空間とかが関係していたことがわかる。
ともかく今年もあまりにもいろいろなことがあったが終わりである。浪江の人とまたあった。七人家族であり空家を借りているという、浪江の人も結構原町,鹿島,相馬市に移っているのだろう。親戚などが多いからそうなる。浪江の人は苦しい、帰れない人もでてくるしすでに三割は帰らないとなるとそのあとどうして町を維持するのかむずかしくなる。三割となると全体の影響が大きい。三割が五割りにもなってゆくだろう。小高は帰れるから南相馬市はなんとか維持できるが浪江の方がかけると影響がかなりある。経済的にかなり縮小してしまうことである。


原町まで電動バイクで買い物に何回も行っているけど重いものでも運べるのでこの自転車だけは役に立った。別に車がなくても暮らしていける。でも原町まで行けないと苦しい。電車も相馬まで通ったからその点は便利になった。