2011年12月17日

相馬藩六万石-冬椿の城下町(随筆2-日立木の町場橋の情緒)

 
相馬藩六万石-冬椿の城下町
(随筆2-日立木の町場橋の情緒)


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日本の橋には長い橋より小さい橋が多い。小川が多いから小さい橋が多い。大きな長い橋は少ない、その小さい橋に情緒があり生活の匂いが残されている。人は必ずこの小さな橋を毎日渡るからである。

農人橋


農人橋の地名の由来は、その字の通り農民たちがこの橋を往来していたことに由来する。
幕末に暁鐘成という浪人が作成した『摂津名所図会大成』によれば、江戸時代この地は農村地帯で、耕作のため農民が東横掘川に農人橋を掛けて往来したとある

農民の住む場所が都会化して外の田や畑に働きにでるようになった。わざわざ農人橋とつけるのは鍬とか鎌とか農具などをもって外に出る人が目立ったからだろう。大阪でも江戸でもあれだけの都市でも農民の匂いがしていたのである。


泪橋


これら泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた


神田川 140の橋があった

むつみ橋 夕やけ橋 よしきり橋(よりきりばし 鎌倉橋 蔵下橋


面影橋

「俤橋」とも書き、古来から「於戸姫(おとひめ)」の伝説で知られる橋である。

小川氏の友人が娘の余りの美しさに小川氏を殺害して娘を奪おうとするも、娘がその友人を殺害。娘は自分の美しさを恨んで、黒髪を切り落とし、そのまま神田川に身を投げたという。
村人達はその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたというのである。


浅草橋
http://kandagawa.kingtop.jp/kanda_139.html



日本の橋のあわれ



人は歩いてこそもののあわれを感じるもの

古より日本に小川の多く橋の多し

神田川に140の橋のありと

むつみ橋 よしきり橋 ゆうやけ橋 面影橋 鎌倉橋 浅草橋 蔵下橋・・・・・

江戸時代よりの橋もあり

新しい橋の名もありと様々

橋をわたる人の生活がある

相馬市にある小泉橋も椿橋や

冬椿がその古い橋ににあっている

日本の小さな橋には人々の生活がしみこんでいる

それ故には橋には情緒がある

それも歩かなければ感じられない情緒だ

車で通りすぎては感じない

歩いてこそ昔を偲ぶことができる




神田川の橋は江戸時代から名づけられたものもあるが最近名づけられたものもある。橋がすべて古いとは限らない、やはりいつの時代のものかが問題になるのだ。ただ橋は地名を由来としているから
その名も古い、鎌倉橋となれば鎌倉街道に由来しているのだから古い、面影橋の由来も古代にさかのぼる。ゆうやけ橋などは新しいものだろう。そんな詩的な名前を普通はつけない。よしきり橋はよしきりが鳴いている橋だからそうなった。よしきりは良く鳴くし良く人が通る橋だからその名がついたからふさわしいといえる。むつみ橋も睦み合う橋ということでついた。小さな橋は日々の生活の中にとけこんでいたのである。

十二月までは冬椿であり寒椿ではない、冬椿というと何かまだあたたかさを感じる。街を歩いても寒風は吹きつけない。相馬辺りはそもそも雪もふらないしあたたかいから気候的には恵まれていた。
小泉橋に赤々と冬椿が映えていたのが城下町ににつかわしかった。


日立木の町場橋(まちばはし)

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人間は意外と身近な場所を知らないものである。灯台下暗しである。浜街道の日立木村の入口に町場橋とあったのを知ったのは最近のことである。そこにあった薬師堂のことは前にも書いていた。あそこには江戸時代の古い碑が多い。飢饉の供養の碑もありあそこには人の出入りが多かった。薬師堂というとどこにでもあるけど今どき病気だからと祈りにゆく人は今はいない、みんな病院にゆく。しかし江戸時代は病院には行けない、医者にもめったに行けないだろう。とすると薬師堂とか地蔵さんに祈るしかなかった。それで薬師堂には人が集まっていたにちがいない。日本では町というとき村の中に町があった。町はマチであり一区画のことである。村の中に町があったということ自体、いかに日本人の生活基盤が村にあったかわかる。農人橋というのももともと町が大きくなって農民が町の中に残された。こういうことは大阪とかの大きな町で生まれたのであり他では村の中に町があったのである。その一区画で商売などを許されたりした。村外の人が集ったのである。

日立木は明治時代以降合併して生まれた名前でありその前は日下石村、赤木村、立谷村であった。

飯館村も飯曾村と大舘村がが合併して生まれ名前である。でも今やその地名が定着している。最近合併した市の名前などはまだ違和感がある。南相馬市などもそうである。他から見ても相馬市と南相馬市を混同しているだろう。その区別がつきにくいだろう。陸前浜街道で一番当時の面影を残している場所が日立木から松並木のある所になる。だからまちば橋というのは街道の情緒を色濃く残している場所だった。百尺観音などは明治以降建てられたものでありただ大きいということであまり価値がない。そもそも歴史的価値あるものは後世の人が発見するものであり忘れられていることが多いのである。自分の住んでいる場所の価値を知らない人が多いのである。原発事故になり故郷に住めなくなって故郷は何なのかということを日々問うようになった。東京辺りのマンションなのか団地なのかそういう所で暮らしている人もいる。一人だけが啄木のように望郷になるのではない、町や村から人がいなくなるなど想像もしなかっただろう。でも現実にこの辺で起きていることなのだ。

街道はどこでも「奥の細道」というように細い一すじの歩く道だった。その感じは日立木から相馬市の城までつづいている。昔は現代の多忙な騒音の中に消されたようになっている。しかしあそこの町場橋の所にたたずむと何か昔に還ったような気分になる。夕蝉がひびく、秋の蝉が名残惜しく鳴く声が聞こえる。やがて冬となり北風が吹く、あの松並木に北風が鳴る。今なら確かに相馬の城は近い、でも実際は歩けばそれなりの距離になる。だから城が近いのだけれど遠くもあるという感じになる。そこでまちば橋というのが心に残るのである。城のあるところが本来の町だけどそこまでは遠いからここが町場であり町場橋となる。昔の人はともかく遠くに行くということはなかなかできない、歩きなのだからできないから日常は近辺でまかなってきた。商店街があるときも隣に魚屋だ雑貨屋だ豆腐屋だとかあった。近辺で日常の生活をまかなっていた。

江戸時代の村になればさらに近所の中で自給自足的に生活していたのである。現代からすると車社会になったときそういう生活が想像しにくくなったのだ。要するに車社会を昔を想像する力を人間から奪ったのである。便利なものは人間的なものを奪うのである。

二本松城内には深い井戸があり椿が散っていた。その中に茶室がある。するとその深い井戸から清水をくみ上げて茶の湯をたてる。するとその過程自体がすでに茶道になっている。水道で簡単に茶をたてていたら茶の湯にはならない、それだけ江戸時代は時間はゆっくりと流れていたのである。そこに濃密に人間と交わる空間と時間があった。だから茶道もふさわしいものだった。

駕籠で街道をゆくこと自体どれだけ時間と労力がかかるか想像すればわかる。なぜ籠などで人を運んでいたのか?それ自体不可解だとなる。技術力がなかったといえばそれまでであるがそんな原始的な方法しかなかったのか不思議である。馬も利用していたからである。外国では二輪馬車があった。そういうものさえなかったということ自体江戸時代の時間感覚は今では想像しにくいのだ。ただ町場橋でも城へ通う人はいた。戦後でもリヤカ-とかで鹿島区の横手から梨を売りに行っていたという女性がいたから城の中には松川浦からも魚が売られたしいろいろなものが運ばれ売られたのである。


「金沢の浅野川に架かる七つの橋を回ると願い事が叶う」とはいうて 
は叶わなくなるって、伝えられている訳。   ・人と出会っても口をきいてはいけない、話しをしたら願い事はかなわない、必ず一筆書きのようにして回ること、同じ橋は通らない


思案橋

現在の八丁堀にある思案橋は江戸時代に
この橋に立って、芝居街にいくか遊郭に行くか思案したことから
命名されたとのこと


橋にはいろいろな話しがあるのは伝説もあるのは小さい橋は日常生活で必ず渡るものだからそうなった。外国でも橋は重要だが大きい河が多いから日本とは事情が違っている。でも河をわたることが大きな役割を果たした。シ-ザ-がフランク人を川に沿って追撃して最後は丘の砦を包囲して勝利した。川には橋がないから川にそって分かれて対峙した。riverはライバルであり川から発している。これも外国の川は大きいからそうなったのである。ルビコン川をわたったというのもそのためである。
今でも浅瀬とか牛がわたれるからオックフォ-ドとかそういう地名が残っている。川を渡ることが重要だったから地名化した。日本の場合は大きな川は少ないから小さな橋の情緒になった。日本の橋は大きな歴史的戦いとかより日常の生活に根ざしているもっと親しみ安いものなのである。





しぐるるや古き農家のたたずまい

夕蝉や立谷村の町場橋

日立木の町場橋や冬の暮

思案橋面影橋や冬の暮

立谷の町場橋や城離れ北風鳴りて今日は寒しも

松並木北風鳴りて街道の一すじ残る日立木をゆく

・・・・・・・・・・・・・・・

板葺きに石の屋根かな時雨ふる

街道の細道あわれ時雨かな

街道に栄えし家や冬の暮

中山道旅の道連れ時雨ふる

鏡池姫の面影写せしと上山城へ秋の夕暮
 


「思案橋」「面影橋」というのも小さい橋ににつかわしい。そこを日々人が行き来しているからだ。常に人はそこで思案しているからだ。面影を見るというときも小川に写すというのがにつかわしい。上山城へゆく七ヶ宿からの街道に鏡池があり姫が顔を写して化粧したというとき城が近いと現実味を帯びてくる。昔の街道にはやはりいくら現代の騒音にかきけされても昔が全く消えるということはない、一すじの街道から昔が浮かび上がってくるのはやはり人間の生活は昔と全く断ち切れてはいないのである。東京のようなところになると昔はもう埋もれて名前だけになってしまっている。中山道の妻籠や馬籠などは昔のままに街道の町並みも残した。その道は細いのである。石段が一段低くなっているところなど昔のままである。屋根に石を置いたところとかあういう所は時雨があっている。現代は時雨の情緒を味わうのがむずかしい。時雨は昔の街道のようにもの寂びたわびしい風景にあっている。山頭火の時代はまだそういう風景が残っていた。それで「うしろ姿の時雨れてゆくか」というのがまだあっていた。ここに車が突っ走る時代になるとあわなくなった。芭蕉のわび、さびは別に作らなくてもそういう風景だったのである。わび,さびを求めなくても回りがそうだったのである。
茶道にしても回りがわび、さびの風景なのだから別にそうした場面をあえて作る必要もなかったのである。 

 
街道にこうした昔の人の生活の記憶がそこはかとなく記されている。そして過去の記憶というのは長い時間の中で記されたものだから時間をかけないとわからないのだ。事実何度も行ってもう人生も終わりかというころにしみじみと昔を偲ぶことができた。それも最も身近な所がそうなのである。
歴史的なものは時間をかけて作られたものだから時間をかけないと理解できない、感じることもできない。旅行してちょっとそこにいただけでは理解しえないものがあるのだ。ヨ-ロッパなども歴史があるけどなかなか理解できないのは時間をかけることができないからである。だから原発事故で浪江町とか双葉町とかでも陸前浜街道のつづきとしてあった。もし人がいなくなればそうした個人的な記憶だけではない歴史的記憶も失われてしまう。そうした記憶はその土地と共に作られてきたからである。そういう記憶が人工的には作れないから貴重なのである。それらを失ったら歴史的継続が失われる。その生も浅薄なものとなってしまうだろう。だから簡単に故郷を捨てることができるのかとなる。若い人ならまた新しい人生の記憶を作ることができるが老人にはできない、老人の仕事は回想になるからだ。歴史の継続がたたれてまた新たな歴史を作るとなると容易ではない、だから北海道辺りでは相馬藩でも本州の方にル-ツを求めることに熱心なのである。