2011年12月09日

料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)


料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)

 


昔のテレビドラマの中の、エピソードなのだが、
(題名も出演者も記憶に残っていない)
お手伝いさんが、「納豆汁」を作ったところ、そこの主人か誰かが、 「初めて食べたけど、おいしいね。○○ちゃん、君のいなかでは、よく食べるの?」と聞かれ 「秋田の湯沢では、冬にはよく食べますよ。」と答えたのを鮮明に覚えている

納豆 粒納豆でもいいが、ひき割り納豆の方が楽

味噌 やや濃い目にする
豆腐 好みで加減
山菜  上記山菜類好きなだけ
油揚げ 適当に
ねぎ  適当に
セリ 

http://kokis.client.jp/farmer/f14_nattojiru.html


納豆汁の由来は、万病防止と邪気払いのための正月行事・七草に関わります。その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです。
なぜ納豆汁かというと、内陸部の人々がタンパクの摂取と、冬の日照不足を補うために考え出された料理だからと言われています。かつては冬になると各家庭で作っていた料理で、体を芯から温めてくれる冬の代表的な郷土料理として親しまれています。
http://www.yamagatabussan.com/hpgen/HPB/entries/115.html


「きりたんぽ」が出来た背景には、秋田が米どころとはいっても、県北では、毎年、安定した米の収穫量を上げる というには、地理的条件・気象条件から難しいものがあった。

そこで、一回の食事の量をふやすため、おかずと一緒にすることにした。そのため、ご飯を杉の棒に巻きつけ、 囲炉裏の火であぶることに よって、日持ちを良くした。つまり保存食の役割も持っていた。
http://kokis.client.jp/farmer/f15_kiritanpo.html


郷土料理がどうしてできたのか?それは食糧になるものが不足している。貧しいからこそできたものである。食糧が不足しているから工夫して料理を作ったことから起きている。


その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです


七草がないから納豆汁が替わりになったというのも同じである。材料がないからあるもので補うほかないからできた。キリタンポも米が不足しているから工夫して作った。材料が豊にあるから郷土料理ができたのではない、不足しているからできたのである。戦後まもなく食糧不足の時、すいとんがつくられたのもそのためである。すいとんは一度食道で食べたことがある。それは今になるとなつかしい味となり郷土料理とにている。貧しい時代、江戸時代などになればさらに各地に郷土料理があり
旅したらそういう郷土料理を食べられた。地域色が強いから旅はさらに興味深いものとなった。
旅することは地域地域の特色を知ることであるがその中に料理が入っている。でも現代ではグルメ旅行というときそれは豊かな時代のグルメである。郷土料理は貧しい時代の料理だった。食材が不足しても補う工夫した料理だったのである。だからこそ価値あるものだった。


テレビで琵琶湖の隠れ里として知られる管浦のことを放送していた。そこで出した料理はソバの料理だった。米がとれないからソバの料理になった。田んぼにするような平地がない土地だったからソバ料理になった。日本ではどこでも米が食べられたわけではない、会津は山間地だからソバが多い、檜枝岐などもあれだけの奥地で秘境であったからソバが主食になっていた。米が食べられるのは贅沢という面があったのだ。江戸では米は食べられた。でも脚気が江戸患いとして有名になったのは米だけを食べていたからであった。麦とか五穀を食べていた田舎ではなりにくかったのである。旅をしたが郷土料理を食べたことはない、郷土料理は今はかえって特別なところでしか食べられないし何倍も高くなる。だから旅しても食べるのはどこでも食べられるものである。そうすると旅の味わいも得られない。江戸時代なら必ず日常的に食べられていたものが郷土料理になっていたから土地土地で郷土料理を極自然に食べていたのである。


豊になった結果そうした地域の文化にふれることがなくなったのである。豊でなければ文化が育めないということではない、貧しいから郷土料理が生まれたことでもわかる。現代は食材は豊でも郷土料理が生まれていないことでもわかるのだ。地方だと常に貧しいとか何もないとか都会と比べる。しかし文化は豊かな都会に起こるとは限らないのである。貧しいことばかり嘆いていたことがこの辺では原発誘致になり自然そのものが破壊されて住めなくさえなった。住んでも回復するのが大変なことになってしまった。もちろん戦前は貧しく貧乏からの脱出が最優先の課題だった。でもあまりにも豊かさを追求した結果、原発事故になりとりかえしのつかないことになった。この辺では地域色を出そうとしても放射能汚染になったから自然が汚染されたからそもそも地域色を出すのがむずかしくなったのだ。そのことが大損失だった。いくら貧乏でも自然の恵みに生きることに欠けていたのではないか?その土地が汚染されて食糧すら得られないとなることは最悪だった。食が文化の根本だからである。


人間はその土地土地を味わうということが生きる意味なのである。アイディンティティになるのだ。浜通りだったら新鮮な魚を食べられることが喜びとしてあった。食だけではなくその土地の自然がアイディンティティになる。もちろんそこで生産されるものもそうである。日本酒のようなものはそうだった。酒はやはり昔は栄養補うものとしてあった。酒はかなり栄養があるものだったのである。今は栄養をとりすぎるからさけられるようになったのである。今は土地土地を味わうということがなかなかできない、だから旅しても印象に残らない旅となる。江戸時代の粗末な旅籠で郷土料理を食べていたときの方が本来の旅であった。ホテルとか豪華の施設を利用した旅は旅ではない、そういう点、一番旅しやすくなった現代から旅がなくなったというのも皮肉である。土地土地の味わいのない旅になったのである。本当に土地を味わう、人生味わうのは老人になってからかもしれない、山形の納豆汁を味わうのもまさに山形という雪に埋もれた土地にふさわしいものとして生まれた。山形弁というときこれは青森弁のようにより朴訥な感じになっていた。東北弁でももともとみんな相当な相違があった。仙台の語尾にだっちょをつけるのもそうだった。そのなまりも標準語化して喪失した。みんなきれいな標準語を話す、子供まで話すようになった。その時やはり土地土地の個性も失われたのである。これから地方分権だというとき文化の面でも新たな地方色を作る時になっている。それがこの辺で土地自体が汚染されたことは致命的だったのである。


 山形の納豆汁や冬深む


 

冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


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我が母の病に臥して冬の草


行き来する倉庫の道や冬の草


冬薔薇夕闇に浮かび消えにけり


大正生まれの女性はたいがい苦労している。貧乏な時代に生まれたし戦争も経験しているから苦労している。そしてたいがい機織り工場で働いた。女工哀史の時代でもあった。絹織物が唯一の輸出産業であり富国強兵のために過剰に働かされたのである。糸とりとして10年働いたというのは今や一つの日本の歴史を背負って働いたのである。そういうところは評価される。要するに一生が働きづめの一生だった。それがまたマイナス面として働くことしか知らない無味乾燥な人間を作ってしまった。
花一つにも興味を示さないというの人間として生きたとは言えない。いくら貧しくても花一つにも興味を示さない、花がきれいだなと思わない人生は荒寥としている。別な見方をすれば働く奴隷にされたということである。そういう不幸な一生であった。遊ぶことを知らない人生もまた異常だった。

でも一般的にそういう時代に生まれ育ったのである。日本は資源ないから戦前でも輸出が重視されていたのだ。なぜ戦争になったかというと貧しさが原因でもあった。満州に進出したのも貧しい土地もない農民が多かったからである。今は工業製品を輸出していたが戦前は絹織物であり人間そのものを輸出する・かなく満州に進出したのが大戦のきっかけとなったのだ。大正時代は短いけど85から98才とかまだ高齢化で生き延びている人が多い。介護している人も多いのである。だから意外と大正時代は身近なのである。時代が身近に感じるのはやはり祖父母などが生きている時代までだろう。祖父母が生きていれば明治時代も身近なもの感じただろう。今や明治は遠くになりにけりであり明治のことはわかりにくくなっているだろう。大正時代が終わって昭和になったが昭和時代は長い。戦前と戦後ではまるで違っているから時代としての統一性がない。大正時代は短いがかえって大正生まれというとひとくくりになり統一性があり身近なのである。


大正生まれの人は食べ物に文句を言わない、こんなもの食いたくないとかあれが食いたいこれが食いたいともあまり言わない、それが一つの特徴である。あれだけ貧しい時代を生きたのだからそうなる。でも団塊の世代が80くらいになったら介護になったら食べ物にはうるさいだろう。グルメも経験しているからだ。団塊の世代はまた民主主義の世代でありそれも権利ばかり主張するから扱いにくい。そういう点で老人として今も嫌われているがこれからも嫌われる。人間として75才以上あたりも日本人としての気骨をもった人が多く好感がもたれる。良き日本人的なものが残された最後の世代である。70以下になるとそうした日本人的良さをもった人はいなくなる。おそらく戦後生まれは類型として人間が最悪なのかもしれない、日本人的モラルもないしただ自分の欲望を満たすだけの権利を主張するだけである。誤った民主主義の結果として最悪なのである。それでもすべてが悪いとはいえない、遊び上手だからこれから老人文化を作るようになるだろうといわれるのはそのためである。


つくづく自分は天才でないから今頃になっていろいろなことが理解できるようになった。本も山ほど買って集めて読んでもいたが理解していなかった。今読んでみると理解できる。深く読めるのだ。だから今まで買った本を読んで今度は自分なりの見識で文章を書くことができる。今になって見識が深まったのである。本を読むということはただ読んだだけでは知識とはならない、自分なりに編集して再構成するとき読んだとなるのだ。だから本を読むことは相当な見識が必要なのであり若いときは本を買うことはできても読むことはできないのだ。もちろん人によって違うが自分の場合はそうだった。それだけこの世のことを知るということ自体、時間がかかりすぎるのだ。いくら能力がなくても60過ぎたら必ずその人なりの経験で見識をもつことができる。その本が何を言おうとしているのかその趣旨がすぐわかる。するとそれに対して自分なりの見解も延べることができるのだ。だから今買いだめた本を読み返してこの本はこういうことを言っていたのかとたいがい理解できる。だからかえって読書の楽しみが増したとはいえる。若いときは本を読むというより読まれることが多いのである。本にのみこまれてしまうのである。今にあれば本を読んで新たな自分なりの創造的な文が書けるのでてある。