2011年12月09日

料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)


料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)

 


昔のテレビドラマの中の、エピソードなのだが、
(題名も出演者も記憶に残っていない)
お手伝いさんが、「納豆汁」を作ったところ、そこの主人か誰かが、 「初めて食べたけど、おいしいね。○○ちゃん、君のいなかでは、よく食べるの?」と聞かれ 「秋田の湯沢では、冬にはよく食べますよ。」と答えたのを鮮明に覚えている

納豆 粒納豆でもいいが、ひき割り納豆の方が楽

味噌 やや濃い目にする
豆腐 好みで加減
山菜  上記山菜類好きなだけ
油揚げ 適当に
ねぎ  適当に
セリ 

http://kokis.client.jp/farmer/f14_nattojiru.html


納豆汁の由来は、万病防止と邪気払いのための正月行事・七草に関わります。その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです。
なぜ納豆汁かというと、内陸部の人々がタンパクの摂取と、冬の日照不足を補うために考え出された料理だからと言われています。かつては冬になると各家庭で作っていた料理で、体を芯から温めてくれる冬の代表的な郷土料理として親しまれています。
http://www.yamagatabussan.com/hpgen/HPB/entries/115.html


「きりたんぽ」が出来た背景には、秋田が米どころとはいっても、県北では、毎年、安定した米の収穫量を上げる というには、地理的条件・気象条件から難しいものがあった。

そこで、一回の食事の量をふやすため、おかずと一緒にすることにした。そのため、ご飯を杉の棒に巻きつけ、 囲炉裏の火であぶることに よって、日持ちを良くした。つまり保存食の役割も持っていた。
http://kokis.client.jp/farmer/f15_kiritanpo.html


郷土料理がどうしてできたのか?それは食糧になるものが不足している。貧しいからこそできたものである。食糧が不足しているから工夫して料理を作ったことから起きている。


その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです


七草がないから納豆汁が替わりになったというのも同じである。材料がないからあるもので補うほかないからできた。キリタンポも米が不足しているから工夫して作った。材料が豊にあるから郷土料理ができたのではない、不足しているからできたのである。戦後まもなく食糧不足の時、すいとんがつくられたのもそのためである。すいとんは一度食道で食べたことがある。それは今になるとなつかしい味となり郷土料理とにている。貧しい時代、江戸時代などになればさらに各地に郷土料理があり
旅したらそういう郷土料理を食べられた。地域色が強いから旅はさらに興味深いものとなった。
旅することは地域地域の特色を知ることであるがその中に料理が入っている。でも現代ではグルメ旅行というときそれは豊かな時代のグルメである。郷土料理は貧しい時代の料理だった。食材が不足しても補う工夫した料理だったのである。だからこそ価値あるものだった。


テレビで琵琶湖の隠れ里として知られる管浦のことを放送していた。そこで出した料理はソバの料理だった。米がとれないからソバの料理になった。田んぼにするような平地がない土地だったからソバ料理になった。日本ではどこでも米が食べられたわけではない、会津は山間地だからソバが多い、檜枝岐などもあれだけの奥地で秘境であったからソバが主食になっていた。米が食べられるのは贅沢という面があったのだ。江戸では米は食べられた。でも脚気が江戸患いとして有名になったのは米だけを食べていたからであった。麦とか五穀を食べていた田舎ではなりにくかったのである。旅をしたが郷土料理を食べたことはない、郷土料理は今はかえって特別なところでしか食べられないし何倍も高くなる。だから旅しても食べるのはどこでも食べられるものである。そうすると旅の味わいも得られない。江戸時代なら必ず日常的に食べられていたものが郷土料理になっていたから土地土地で郷土料理を極自然に食べていたのである。


豊になった結果そうした地域の文化にふれることがなくなったのである。豊でなければ文化が育めないということではない、貧しいから郷土料理が生まれたことでもわかる。現代は食材は豊でも郷土料理が生まれていないことでもわかるのだ。地方だと常に貧しいとか何もないとか都会と比べる。しかし文化は豊かな都会に起こるとは限らないのである。貧しいことばかり嘆いていたことがこの辺では原発誘致になり自然そのものが破壊されて住めなくさえなった。住んでも回復するのが大変なことになってしまった。もちろん戦前は貧しく貧乏からの脱出が最優先の課題だった。でもあまりにも豊かさを追求した結果、原発事故になりとりかえしのつかないことになった。この辺では地域色を出そうとしても放射能汚染になったから自然が汚染されたからそもそも地域色を出すのがむずかしくなったのだ。そのことが大損失だった。いくら貧乏でも自然の恵みに生きることに欠けていたのではないか?その土地が汚染されて食糧すら得られないとなることは最悪だった。食が文化の根本だからである。


人間はその土地土地を味わうということが生きる意味なのである。アイディンティティになるのだ。浜通りだったら新鮮な魚を食べられることが喜びとしてあった。食だけではなくその土地の自然がアイディンティティになる。もちろんそこで生産されるものもそうである。日本酒のようなものはそうだった。酒はやはり昔は栄養補うものとしてあった。酒はかなり栄養があるものだったのである。今は栄養をとりすぎるからさけられるようになったのである。今は土地土地を味わうということがなかなかできない、だから旅しても印象に残らない旅となる。江戸時代の粗末な旅籠で郷土料理を食べていたときの方が本来の旅であった。ホテルとか豪華の施設を利用した旅は旅ではない、そういう点、一番旅しやすくなった現代から旅がなくなったというのも皮肉である。土地土地の味わいのない旅になったのである。本当に土地を味わう、人生味わうのは老人になってからかもしれない、山形の納豆汁を味わうのもまさに山形という雪に埋もれた土地にふさわしいものとして生まれた。山形弁というときこれは青森弁のようにより朴訥な感じになっていた。東北弁でももともとみんな相当な相違があった。仙台の語尾にだっちょをつけるのもそうだった。そのなまりも標準語化して喪失した。みんなきれいな標準語を話す、子供まで話すようになった。その時やはり土地土地の個性も失われたのである。これから地方分権だというとき文化の面でも新たな地方色を作る時になっている。それがこの辺で土地自体が汚染されたことは致命的だったのである。


 山形の納豆汁や冬深む


 

2011年12月10日

近江の短歌十首(春から冬まで-菅浦など)


近江の短歌(春から冬まで-菅浦など)


oumiheya222.jpg

 

伊吹山倭尊(ヤマトタケル)のここに死す春なお雪の残る山かも

関が原越えて近江や春の日に琵琶湖光るや大津に泊まる

三上山聳えて電車走り来ぬ近江平野に蓮華映えにき


三上山春の光に映えにつつ電車過ぎ去る一時眩し


(菅浦)


長浜はにぎわいにしを菅浦は道も途絶えて冬の日暮れぬ


菅浦に舟より静か高島を思ふやあわれ秋のくれかな


長浜の城は近きも菅浦の隠され長く冬籠もるかも


長浜に城建つ前に菅浦のありて古りしも社の氏子


奈良よりし代々つづく神主の菅浦に棲み冬深まりぬ


四足門菅浦に古り閉ざされし歳月長く言い伝えあわれ



越前は遠きにあれど都人行き交ふなれや冬の日暮れぬ


盗人恐れ荷運ぶ昔より舟の行き交ふ琵琶湖なるかも

 


地理がわかれば歴史がわかる。それを象徴しているのが関が原の戦いがなぜあそこで行われたかということである。まさに関が原が東西の分かれ目だったのである。関が原を越えると近江平野が広がり琵琶湖も見えて何か解放された気分になる。近江の安土に信長が豪壮な城を作ったのも長浜に秀吉が城を造ったのもその後の発展につながった。記憶では電車がひたすら走っているなかに秀麗な三上山が見える。春田が広がり近江平野の中に近江富士と言われる三上山が見える。記憶の中で旅しているときその光景がいつも浮かんでくるのはやはり近江が西国の入り口になっていたから印象的になる。大津を過ぎると家が多くなり印象が薄れてくる。京都は古い平安京を基にした都であり街であり街を知らないと京都はわからない、近江は自然に恵まれているし琵琶湖がありわかりやすい地形なのである。何よりも自然があるということで京都や大阪とは違っている。旅をして印象に残る地と残らない地がある。それは人によっても違ってくる。自分の旅では関が原から近江平野に出た所がいつもよみがえってくる。それは春の陽光のまぶしい日だった。伊吹山で倭尊(ヤマトタケル)が死んだの意味深である。なぜあそこで死なねばならなかったのか?東国の遠征から帰り西国の入り口で死んだのである。これも何かしらの歴史的事実を反映している。


長浜には行っていないし、菅浦にも行っていない、近江といっても広いから比叡山や比良の山の方も行っていない、近江は全体的にわかりやすいがなかなか全部を知ることはむずかしい。地理は実際に現地を踏まないかぎりわかりにくいのだ。福島県の地形のことを書いたけどここも広いから福島県全体を知ることはむずかしい。会津と浜通りは全く違った地形であり自然なのである。会津といっても奥深い、琵琶湖も奥深い所に菅浦があった。想像だけでもそういう所があるということを知って魅力を感じた。本当に最近まで道も通じない秘境だったらしい。道がないとしたら舟で行き来するほかない、それで小舟があった。海老などをとっている所もテレビで写していた。高島の方に舟で行き来するとしたら高島の方と交流かあり陸路は途絶えているから高島の方に思うということがある。

現代では秘境はなくなった。秘湯を求めて旅している人もいる。檜枝岐などは平家落人の村で秘境だったけど今は尾瀬の登山口でありそういうことはない、秘境など今どきないだろう。車でどこまでも行ける社会だからである。ただ菅浦は地理的秘境の条件を備えていたのである。実際に神主が奈良時代までさかのぼる系図を見せたからあながち嘘とは言えない、この辺はみちのくとは違ってそれだけの歴史があるから信憑性もあるのだ。長浜は秀吉の城が造られて町ができた。菅浦はその前に集落としてあった。ただ田んぼなどないから食糧をどうししていたのか?もっと昔になるとやはり後ろが山だから焼き畑だったのだろう。琵琶湖の魚はそれほど食糧にはならなかったろう。ソバが米替わりになっていたことはやはり会津の山の奥とにている。


16世紀の末に長浜城主だった秀吉が、男子が生まれたのを祝い、町衆へ金子(砂金)を与えました。これをもとに町衆が曳山をつくり、八幡宮の祭礼に曳いたのが、現在の「曳山まつり」の始まりといわれています。
また、湖北地域は中世から猿楽が盛んで、そうした芸能の土壌が、この祭りにも大きな影響を与えたと考えられています。


長浜は近いけど菅浦はその頃も秘境のままだった。道が通じていなかったからだ。高島の方に舟で行けたからそっちの方が親近感をもって
いた。交通の便で親近感をもつところと持たない所がでてくるのだ。例え外国でも頻繁に行っていれば親近感をもつ、相馬だと会津は遠すぎるから疎遠になるが仙台は電車で行けるから親近感をもつ、でも常磐線が5年くらい仙台まで通じないとなると疎遠になるのだ。現実に今年は一回行った限りで行けない、代行バスだと遠いのである。亘理が最終7時ころだとするとさらに行きづらくなったのである。交通が閉ざされると江戸時代にもどったような気分になるのだ。車がない人は余計にそうなるのだ。

 
 

2011年12月11日

この国は会社も政府も腐っている、と 日刊ゲンダイ (福島県も腐っている)


この国は会社も政府も腐っている、と日刊ゲンダイ

(福島県も腐っている)


http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/20110704-1.html

watanabe1111.jpg

政経東北12月号


国民が腐っている。
右も左も腐ってる。
金持ちも貧乏人も腐ってる。
男も女も腐ってる。
大人も子供も腐って


貧乏人も腐っているというところがミソ、清貧なんていう言葉もすたれた、貧乏人でそんな人はいない、ただ金持ちをうらやましがっているだけ、あいつうまいことやっているな、俺たちにおすそ分けはない、働いたって馬鹿らしいよ、正直者は馬鹿を見るというのは本当だよ、金持ちから金なんか盗んだ方がいいよ、おいしい思いをしていやつらは公務員のように泥棒なんだよ、天下りで何億とか濡れ手で粟に入ってくる、俺たちはいくら働いたって時給いくらだ、たかがしれているから働くのが馬鹿らしいんだよ、俺たちは金持ちの奴隷なんだよ、その金持ちは濡れ手で粟に金が入るやつだよ、努力しなくても金が入るんだよ、俺たちはいくら働いてもたかがしれている、金持ちの奴隷にすぎないんだよ・・・・


サラリーマン根性はマスコミも同じだろ
民主主義において一番神聖な職業でないといかんはずなのに
スポンサーや権力におもねったり
女子アナウンサーが取材対象の選手と交際するとか、プロ意識の欠片も無い世界


日本はもともと長いものに巻かれろだからな、おいしい思いしたけりゃ、上にごますって利益にあづかることだよ、マスコミには必ずどこからか金が回ってくるんだよ、宣伝費でかせいでいるんだから当然だよ、金をもらった会社は批判できないよ、東電ばどこでも金をばらまいたからな、文句言う奴はいなかった、それで今度の原発事故だよ、民主主義においてマスコミが大事なのは真実を知らない限り批判できないからだよ、日刊ゲンダイも腐っているからな、そんて子といえるのかともなる。マスコミは自分自身のことはさておき責任なんかとらないよ、弱いものをたたきおしいしところをちょうだいする、正義なんか追求していないからな、特に東電のような国家なみの巨大企業になったらとても批判なんかできないよ,権力をもっているものが情報も操作できるんだよ、情報など真実が先というより権力者の都合いいように操作されるんだよ、東電でわかったろう。何度もプルサ-マルで前の知事が指摘して改善を求めても何の反省もしない、うるさくいちいち言うなよくらいでかたづけられる、そんなことで知事も変えられたんだよ、渡部恒三一派によって追い落とされた、検察すらかかわっていた、権力者が腐敗したら下々もすべて腐敗するんだ、腐るんだ、上だけおいしい思いをしている、働くのが馬鹿らしいとなるんだよ、昔だったら奉公するということがあるけどその奉公する殿様が遊んでばかり浪費していたら奉公したくないだろう、商家だってそうだよな、奉公するにはその家に尽くすということだからな、馬鹿殿には誰も奉公したくないだろう。

上が腐れば下も腐るんだよ、一体天下りなんかどうしてできるんだよ、上はただ税金をかすめとり下々は働いて税金を納める気になるか?働くことが馬鹿らしくなるいだよ、そういうのは国から税金をかすめとる泥棒じゃないか?だから庶民も泥棒の方がいいともなるんだよ、昔の侍は庶民と同じく貧乏だった、ただ尊敬されたのは身分として高くされていたのは上に立つものとして自覚がありモラルがあったからだろう。今は官僚は身分化していて金も入ってくる特権階級だ、でも昔の侍のようにただ金になればいいとなっているから批判されるんだよ、上に立つものが責任も果たさなければ誰も責任なんかとらないよ、侍は切腹させられたけど上に立つものは切腹などさせられない、金だけたんまりもらってあとはしらないだからな、まあ、貧乏人もくさっているというとき、今の貧乏人は誰も尊敬したりしないよ、庶民は誰も尊敬しない、政治家も尊敬しない、ただ地位があり権力をもった人にはへつらう、医者でもへつらう、つまりへついこびるということしかないんだよ、もともと卑しいやつらだから上が腐ればますます下々その本性に拍車をかけて腐るだけだよ、もう見本となるべき尊敬するべきものなどない、ただ金を追い求め金を持っている人のみが偉いし目標なんだよ、上から下まですべてそうなった。そもそも庶民には何が偉いかなどわかりっこない、上が腐れば庶民自体が最も低級なものになってゆく、それが今の悲しむべき状態だよ だから橋下氏に人気がでた、すかっとしたんだよ、ともかくおいしい思いをしているやつらをばっさりだよな、悪者をつるし上げてばっさりやるから庶民はすかっとしたんだよ、そういう人が望まれているのも腐っているものを誰もばっさりやってくれないからだよ・・

福島県も何かおかしい、全体がくさっていたんだろう。なぜ政経東北で渡部恒三の文をのせているのか?渡部恒三は福島県をだめにした張本人の男じゃないか?そんな人の言うことをのせている。やっぱり金が回ってくるのかな、多分そうだろう。福島民報なども聖教新聞刷っているしな、ふくしま財界なども最初は原発を批判したけど二三回でやめた、あれは脅しでありあとから東電に金が入ってきたから批判するのをやめた、でも佐藤栄佐久氏を呼んでしゃべらせている、福島県人は渡部恒三等に怒らないのか、なぜ自分のしたことをしこ謝罪しないのか?庶民がくさっているというとき原発を誘致した人々も地元が加担したから批判できないのか?つまりみんな腐っているから原発事故も起きたんだよ、日本はなんらか大変革しないと腐り切って死んでしまうかもしれない、頽廃して滅びてゆく、双相地域の問題は双葉地域が欠けると南相馬であれ相馬市であれ影響が大きかったのだ。体が病気ならないと意識しないけど腕一本なくすとそのことを痛切に意識する、双葉地域も相馬地域も一体だった、一つの体だったんだよ、それが経済にもろに影響したんだよ、経済は双葉地域も一体となって回っていたんだよ、特に原発があってそれで経済も回っていたんだよ、直接の補助金がなくても双葉地域がうるおいば回りの波及効果があった、それは福島県全体にも及んでいたんだよ、浪江とか双葉地域から住民がいなくなったことでそれがわかった。その影響は南相馬であれ相馬市であれ大きかった。全体の経済規模が縮小したことの影響が大きい。

ああ 罪深い国びと、不義を負う民
悪をなすものの末・堕落せる子よ
イザヤ-1-4


その後あなたは正義の都
忠信の町ととなえられる
イザヤ1-24

どこに正義の都があるのか?いまだかつてなかった。すべては悪徳に染まった都じゃないか
この世に正義の都などありえない、忠信の町などもありえない、悪徳と不義の町じゃないか?
福島県もうつくしま福島などと宣伝していたがそうじゃない、やっぱり腐っていたんだよ、
福島県は自然が確かに美しかったからそういう悪徳が隠されていたんだよ、それが津浪とかで原発事故になり暴かれたんだよ、富岡町長の流された五億円の金庫とか、請戸の漁業権者が東電から5千万もらって御殿を建てたとかそういうことが今責められるようになった。暴かれたんだ。

posted by 老鶯 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年12月12日

抹茶飲む冬の朝 (高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)


抹茶飲む冬の朝

(高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)



yunomich1111.jpg


冬の庭茶を飲みゆかし書院かな
冬紅葉散るや静かに抹茶飲む


板葺きに石の屋根かな時雨ふる


街道の細道あわれ時雨かな


街道に栄えし家や冬の暮


中山道旅の道連れ時雨ふる



手にとりし茶碗の重し冬の朝石に向きつつ抹茶飲むかな


静かなる時の流れぬ冬の庭苔に日さして書院の主


二本松城内に残る茶室かな椿の落ちて井戸の深しも


相馬藩六万石の貧しさや茶室も残らず冬の日暮れぬ


金沢に買いにし茶碗手にとりぬ冬の長きを抹茶飲むかな


珈琲に抹茶を飲みて年も古る味わい深し冬のくれかな



高齢化で新しい老人文化が作られると書いたがそれにあっていたのがやはり茶の湯だった。やはり茶の湯は日本の風土にあっていたからこそ生まれた文化だった。茶の湯の道は日常的に茶を飲んで安らぐことから生まれた。芸術でももとは日常的な生活を基本として生まれた。それがとりたてて芸術だということはなかった。ただご飯を食べて茶を飲むのと抹茶だけを飲むのとは違っている。茶碗も特別なものであり抹茶の味わいはまた別である。茶の湯の道は日本だけで発展したのである。中国では芸術の域までにはならなかった。茶の湯は少ない人数で交遊を深めるものだった。大勢の社交とは違う。それも茶室は密室であり内輪のものとしての社交だったのである。それでも濃密な人間関係の場として設定されたのである。一期一会とか出会いを大切にしたのである。何よりも茶の湯を本当に味わうには江戸時代のような悠長な時の流れにひたらないと茶の湯を知ることはできないだろう。


例えば茶の湯は生活そのものにあった。二本松の城内に茶室があるけど井戸もある。その井戸はかなり深い。その井戸水を利用して茶の湯の水が使われた。水道のような水だったから便利でも茶の湯にはふさわしくない、深い井戸から冷たい清水をくみあげることからすでに茶の湯ははじまっていた。その一連の不便な動作のなかに茶の湯もあったのである。便利になりすぎたらこうした文化的なものは理解できない、現代はまず時間がないということで時間に追われることでこうした文化的なものが生まれないのである。いくら豊になっても時間貧乏になっているから文化が生まれないのだ。料理でも素材が貧しくても郷土料理のように工夫して手間暇かけるとそれが今にも残るおいしいものとして他から来た人に喜ばれる。そういう時間がないから現代ではインスタント文化になってしまったのである。


文化創生のためには時間をもつべきである。それが高齢化社会で退職後時間がもてるようになる。それで新しい老人文化が生まれということがある。江戸時代に隠居文化が生まれと同じ様に現代にも生まれる。その象徴がコ-ヒ-も抹茶も飲む、ヨ-ロッパの文化と日本の文化のブレンドが日常化していることである。コ-ヒ-の味わいと抹茶の味わいは全く別のものだけど西洋と東洋をブレンドしたように味わっているのである。どちからがその味わいが深いかというとどうしてもやはり茶の方である。その渋い味であり何とも心落ち着けるのが抹茶の味だった。最近わざわざ茶の湯の作法で抹茶を作らなくてもインスタントで飲めるようになった。それはインスタントで茶ではないにしろ味は抹茶の味であり楽しめる。その味わいを楽しむことができる。つまりコ-ヒ-も抹茶も楽しめる時代なのである。


茶の湯となるとどうしても豊かだったところにその文化が伝えられた。金沢などがそうである。加賀百万石だから華麗な文化が残された。相馬藩は六万石であり文化的な面では豊でないので残っていない。それでも相馬焼きは発明であり残った。ただ城には茶室もないし何も残っていない。でも一応城下町だから茶の湯を味わうには適している。茶の湯も城下町にふさわしいとなる。そういう背景雰囲気は歴史は作れないから貴重なのである。

 

2011年12月13日

年の暮(久々に仙台に行く-欅並木の鳩)

 

年の暮(久々に仙台に行く-欅並木の鳩)

keyakihatooo1111.jpg


街中に蔵ある家や残る柿


仙台にも仮設住宅年の暮


長々と棚引きにける冬の雲電車通らず久しくなりぬ


新地にそ家並見えず迫りける寥々として冬の海かも


黒々と枯木の影や動かざる老いて離れじ故郷に棲む


雪けぶる蔵王を見ゆや久々に仙台に来て年も暮れなむ


仙台の枯木並木に鳩並びとまり冬の日平和なるかも


仙台の欅並木に冬日さし喫茶店にそ本を読む女(ひと)


仙台の通りになほも散る木の葉通り歩みて年も暮れなむ


ようやくに仙台に来て喫茶店に我が休みつつ落葉踏み帰る


雪かきに会津の人となりにしやいつの日帰らむ年も暮れなむ


磐城より職人来たりて屋根直し年も暮れなむ福島思ふ



仙台に来たのは8か月ぶりだった。阿武隈川から蔵王が見えて雪だった。本当に久しぶりだった。やはり時々都会の空気を吸わないと気分転換にならない。仙台は都会でも欅並木がいいし木の葉がまだ散っていた。仙台は都会でも情緒がまだある。欅並木の通りを歩み喫茶店に入り本を読むのがなんともくつろぐ。それが何か文化的というかやはり相馬では味わいない都会の雰囲気である。これは仙台でしか味わいない、あの欅並木がやはり効果的である。


その欅並木の太い枝に鳩が身を寄せ合うようにして並んでとまっていた。それがなんともほっとしてよかった。その姿を見たとき子供の頃を思い出した。みんなで無邪気に体を寄せ合って集まっていた。その時ただ無邪気だった。互いに心も身もよせあいあたたまっていた。おしくらまんじゅうとかの遊びも思い出した。鳩は無垢を現しているのだ。ともかく津浪やら放射能やらともう世界の終わりのようなことを経験したので仙台は平和だな、あの枝に並んだ鳩を見てほっとしたのである。ただ仙台の長町に仮設住宅が建っているから仙台にも影響している。仙台で金を使う工事関係者などがふえて景気いいというのもそのためである。ともかく今回の津浪、原発事故の影響は長びく、心に対して影響が大きすぎるのだ。以前として津浪の跡を見ると荒寥としてしまう。仙台から相馬の方に帰っても津浪の後遺症は自分自身は被害にあわなくても消えないのである。家がなくなってしまった、人が死んだということの傷痕が大きすぎたのである。その傷痕はなかなか消えるものではない、実際に被害にあわなくてもその荒寥とした風景が心に刻まれるからである。


そして原発事故で各地に散らばり住んでいる人が大勢いること故郷に変えれず今年が終わろうとしていること動乱はつづき年が暮れる。それでも枯木の影が黒々として写っていたように老人になるとその土地から動けなくなる。だから老人が移住を強いられたことは過酷だった。なれ親しんだ所から離れるということは過酷だった。人間は年とるとその土地と一体化してゆく、そういうのがそもそも生き物であり本能的なものともなっているから土地から切り離されることは何か本源的アイディンティティを奪われるようになるので辛いのである。


屋根を直して70万かかった。屋根のマルイチとかの会社であり本社は水戸にあるみたいだ。郡山とか磐城にも支社があるみたいだ。屋根はどこもこわれたからまだまだ直していない所がいくらでもある。この辺の職人だけでは手が回らない。なんとか屋根を直したのであとは安心である。家持っている結構金かかる。この家は直すのに一千万はかかっている。ともかく自分の家に住めるからいいとはいえる。他では会津の仮設住宅とかに住んで雪かきしていた。大熊の人だった。そういう人を見ているとまだいい方だとなる。

雪かきをして会津の暮らしを身をもってしるというのも想像もしなかったろう。ともかくこの辺はこれからどうなってゆくのか、電車は21日から相馬-原町間で通るから便利になる。相馬から亘理のバスの便は多い。一時間おきに利用できるとなると仙台が遅くても電車で変えれるから便利である。亘理を7時が最終でありこれにのらないと原町までは帰れなかった。今度はそれより遅くても相馬から電車で帰れる。


鳩の写真はカメラ忘れてとれなかった。鳩の写真だけをとっていたサイトがあった。やはり写真は一回限りのシ-ンがあったりするから貴重である。同じ写真が他にない場合は貴重なのである。
身をよせあって並んでとまっていた鳩の写真をとれば貴重だった。今は写真を見せないと訴えない時代だからだ。なんとか絵にしたけど雰囲気は伝わったと思う。

 
 

2011年12月15日

失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)


失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)

identify  identification


identification (with someone/something)
a strong feeling of sympathy, understanding, or support for someone or something
her emotional identification with the play's heroine
their increasing identification with the struggle for independence
5 [uncountable, countable]
identification (of someone) (with someone/something)
the process of making a close connection between one person or thing and another
the voters' identification of the Democrats with high taxes


アイディンティティという言葉は今や庶民レベルでも使っているし日常語化したのかもしれない、なぜこれをとりあげたかというと原発事故で故郷から離れる人などが多数出たことである。津浪の被害でも故郷を離れる人がでた。故郷にすめなくなった人たちが多数生まれた。個人的ならそういうことはあった。啄木でも放浪の詩人であり望郷の詩人となったことでもわかる。東京という都会で自然の中にある故郷を偲んだのである。


ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな


やわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに


ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく


啄木は故郷を離れた時、痛切に故郷を思った。そして故郷に帰れずに死んだ。ふるさとの山や北上川の柳とかが目に浮かんできた。それは自然と同一化していた一体化していた自己を発見したのである。それは天才的詩人の感受性をもっていたからそうなった。普通の人は望郷の心はあってもこんなにならないだろう。震災で被害を受けた人が仮設住宅などで作った短歌などを紹介しているが川柳的なもので短歌とはいえない。芸術は基本的に自然と密接にコミットしたとき生まれる。自然との共感が芸術の根幹にある。啄木は自然と深くコミットできたということが不思議である。やはり天才だから十五才の頃から自然と共感できていたから不思議であり普通の人には理解しにくい、それだけ早熟といえばそうなのだが自然と深く共感するには相当な歳月が必要になるからあんなに少年の時期から自然と共感できたかことが理解できないのである。天才のことは凡人にわからないといえばそれまでであるけど自然と共感することは欲望に満ちている若いときには普通はできない。欲があると自然と共感しにくいのである。啄木も病気になって野心とか欲がそがれて自然と共感できたという側面はあった。「ふるさとの山はありがたきかな・・」ということは病気の結果謙遜になったのである。それまでは天才ということでかなり奢りがあったからである。ともかく自然と共感することにアイディンティティを見出す、アイディンティティの基本は自然にある。日本人のアイディンティティが万葉集とかにあるというときまさに大和が今の奈良がアイディンティティになっている。その土地が日本の故郷でありアイディンティティになっている。ナショナルアイディンティティになっている。


なぜ盛んにそんな放射能汚染地帯になど住めないのだから故郷を捨てて移り住めとか他の人は無責任に言うけど日本人のアイディンティティは農民であり土地にあるから簡単に故郷を捨てて移り住めない。故郷を離れて住めなくなるというときそのアイディンティティが断たれるから深刻になる。
アイディンティティという言葉の意味はわかりにくい、どういう言葉なのか訳すこともできないし多様な場面で使われる。正体とか身元とかになるけど実際はこれは深遠な言葉であり哲学的な深い意味をもっているから定義できない、けれども今や頻繁に使う日常的な言葉にもなっている。アイディンティティが失われると存在意義が失われる。


fundamental identification
deeply identified one
deeply commited identification
solid identification


根源的なアイディンティティ、深く自己同一化、共感された一つ、深くコミットされた一つのものとして故郷があった。それはすべて説明することはできない、牛を飼って生活していた人は牛とまた生活したいと訴えていた。それも牛にアイディンティティを見出している。牛と共に生活することがその人の共感であり生きる存在意義をもたらしていたのである。fundとはfindから来ているから見出すとなるとアイディンティティはまだ見出されていないものある、発見されたものもある。牛とともに生活することが俺のアイディンティティだった、存在意義だったと発見している人もいるのだ。

故郷というとき相馬藩時代からでも長い時間の中でアイディンティティが作られてきた。歴史的アイディンティティはどこにでもある。ヨ-ロッパだとロ-マ時代からつづく歴史がありアメリカ人がロ-マを訪ねるとき自分たちのル-ツをたどり自分たちのアイディンティティを見出す。常に人間はアイディンティティを探し求めている存在でもある。

ともかく故郷とはそのアイディンティティが凝縮した場でありそういう場を離れたらアイディンティティが存在意義が失われるから深刻になる。それでなぜ移住しないのかというときそうした深刻な人間のアイディンティティの問題があるからこそそのアイディンティティとなる場に故郷に帰りたいとなるのだ。普通に故郷に住んでいればそんなことは意識しないのである。当たり前のことだから意識しない、原発事故で浪江とか双葉とかの住民が消えたときその隣の市町村の影響も大きかった。なぜなら普通は意識しなくても経済的に一体化していた。金もその中で回っていた。原発からの金も実際は直接もらえなくても金は回っていた。経済効果はあったのである。実際に原町から大熊に働きに通っていた人もいた。経済は今やギリシャがどうのこうのと世界の果てまで関係しているし影響を受ける。近隣の市町村だったらなおさら大きな影響を受ける結果になったのである。


 鶉鳴く古りにし郷の秋萩を思ふ人どち相見つるかも   万葉集巻八 (1558)


鶉はどこでもいつでも、簡単に鳴く鳥ではない。鶉は長い年月を経て来た故郷でしか鳴かないし、聞けない鳥である。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/5102080.html

鶉など鳴いたのを聞いたこともない、鶉の卵は売っているし食べている。だけど鶉を今知っている人はほとんどいないだろう。江戸時代までは普通にみかけた鳥だった。
そのあとの説明も自分がこの歌から感じたことを言いわてていた。秋萩を思ふ人どち相見つるかも・・・ここで故郷で鶉を鳴く声に秋萩を見て共感する人がいる。万葉集は常に自然と人間と共感している。だから相・・・ということが必ずつけられる。我(われ)が実は割れたということから発したというとき、まさに万葉集時代は我という孤立した概念はなく相・・・という共感した存在しかなかったのである。自然と共に人とも共感してアイディンティティが作られていたのである。

making a close connection between one person or thing

英語で説明するとこうなるのだう。

co・・という接頭語は共同という意味だから相と同じである。ただこのcoは二人というのではない、ある一定の数の共同に由来しているのが違っている。そこにアイディンティティ、共同、共感があったからである。

そこにfundamental identification があったとなる。根源的な存在意義がアイディンティティが無意識の内に作られていたのである。意識しないからこそ深いアイディンティティのうちに生きていた。アイディンティティがないとか存在意義がないとか現代人のように意識するようになったらその時アイディンティティを失ったからこそアイディンティティを求めていることになるのだ。


 

2011年12月16日

冬紅葉-冬の蜘蛛


冬紅葉-冬の蜘蛛

jisafuyumomihi111.jpg


fuyumomijiiii222.jpg


塔古りて古都の寂けさ冬紅葉


冬紅葉築四十年の家の主


磐ひびく冷たき流れ冬紅葉


餌を待つ蜘蛛もあわれや小雪ふる


我が家に不気味な一点冬の蜘蛛



橲原の奥や訪ぬる人のあれ冬の紅葉の夕日に映えぬ


赤々と冬の紅葉の映えにける我が家も古りて小雪ふりつつ


この夕べ枯葉に雪のつもりつつ蜘蛛の巣張りてなお生きるかも


この岩の津浪の猛威をもろに受け残りて重し年も暮れなむ


大きなる津浪に残る庭の石時折人来て冬の日暮れぬ

kumonewwww111.JPG

クリック拡大!


今日は寒いと思ったら雪ふった。小雪でもやはり寒いからふった。ここは長くは雪はふらない。会津だとこれから毎日雪である。仮設だと寒いし会津の雪ははじめての経験だろう。旅行するのとは違っている。毎日雪だとということは陰鬱になってしまう。冬紅葉がきれいだ。この冬紅葉がなんともいえぬ美しさがある。やはり老年は冬紅葉なのだ。なんとも心にしみる色である。京都辺りも冬がいいということもある。ただ冬には行っていない、人が多いと情緒がなくなるんだよ、修学旅行生などがうるさい。プログでずっと前に紹介した橲原の冬紅葉がいい写真だと我ながらふりかえった。この辺の写真は相当とっている。この辺は結構自然に恵まれた所だった。それが放射能でだいなしにされてがっくりきた。どうしても放射能というのが最初に来てしまう、でも橲原渓谷の奥の冬紅葉はやはり同じように見れるし変わらない、放射能でもどこが汚染されているかわからない、水は澄んでいるし見た目は前と同じなのである。そこが放射能の不思議だった。木が枯れるとかそういう被害がないからどこが汚染されたかもわからないのである。


ともかくこの辺は本当に静かないいところだったのである。橲原が奥座敷としたときあそこもいい場所だった。それが放射能汚染で住めなくなるということが信じられないのである。どうししても落ち着かないから嫌になるのだ。文化的なものもこうなるとあとまわしにされるだろう。茶の湯がどうのこうのより生活の基本となるものをなんとかしろとなる。そういう余裕がこの辺りではなくなる。
田んぼが荒地となっていること自体荒寥としてくる。別に食糧は金さえあれば入ってくるけど他から農家でさえ米を買うなどという生活は尋常じゃない、文化は生活の安定があって余裕があってできるものである。それがないとしたら文化的生活そのものがなくなる。食べれるだけでいいとかなってしまう。


蜘蛛がまだ生きていた。この蜘蛛も不気味であった。今日は枯葉に雪がつもり蜘蛛が映えていたというのも不思議な光景である。蜘蛛も餌をとらねば死んでしまうだろう。今餌はなくなってゆく、しかし蜘蛛の巣を張って待っているほかない、最近二人殺した人いたけど刑務所から出たばかりだった。職もなく金もなかった。そういう人がどうして資産家と近づいたのか?いかにこういう人が危険なのか知らなかった?借金している人や金に飢えているような人は本当に危険である。そういう人は凶悪な犯罪者になりやすい、そういう人が家に入って来たらもう犯罪を防ぎようがない、そういう経験したから本当に追い詰められた人間は怖い。何するかわからない、人を殺すことも追い詰められているからやる。そしして誰かがそういう人の犠牲になるのだ。そもそも刑務所から出て仕事もないのだからまた犯罪を犯しやすい、そのあとのケアがなかった余計にそうなる。そういう人を野放しにする怖さである。野獣を野に放つ怖さである。もっとそういうことは注意深く見守る必要がある。


津浪で庭の大きな石が残っていた。そこにたまに人が訪ねる。その石は家にあったのだから人の情が移った石でもあるのだ。石はその家の人を待っているのだ。樹でも同じである。人間化した樹や石なのである。だから飯館村でも他にも浪江でも人がいなくなった所は以前としてそこにあったものは人を待っているのである。でも子供が帰れない,孫が帰れないと帰ることをあきらめたという人がでてきている。やはり家族は若い人がいないと成り立たないだろう。老人だけでは世話もされない、そこで孫とか娘、息子と一緒にいるために帰れないようになる。こんなふうにしてこの辺はいつまで放射能のことから解放されるのだろうか、つくづく放射能を知らず山眠るとなりたい、もう放射能のことを聴きたくないのだ。毎日毎日でありいつ終わるのか三十年四十年廃炉にかかるとかなるとうんざりしてしまうだろう。だからここに住みたくないという気持ちがわかる。津浪だけだったらこんなふうにはならなかった。放射能は先が長すぎるから困るのだ。

 
 
 

2011年12月17日

相馬藩六万石-冬椿の城下町(随筆2-日立木の町場橋の情緒)

 
相馬藩六万石-冬椿の城下町
(随筆2-日立木の町場橋の情緒)


koizumihashi11111.jpg
クリック拡大!


日本の橋には長い橋より小さい橋が多い。小川が多いから小さい橋が多い。大きな長い橋は少ない、その小さい橋に情緒があり生活の匂いが残されている。人は必ずこの小さな橋を毎日渡るからである。

農人橋


農人橋の地名の由来は、その字の通り農民たちがこの橋を往来していたことに由来する。
幕末に暁鐘成という浪人が作成した『摂津名所図会大成』によれば、江戸時代この地は農村地帯で、耕作のため農民が東横掘川に農人橋を掛けて往来したとある

農民の住む場所が都会化して外の田や畑に働きにでるようになった。わざわざ農人橋とつけるのは鍬とか鎌とか農具などをもって外に出る人が目立ったからだろう。大阪でも江戸でもあれだけの都市でも農民の匂いがしていたのである。


泪橋


これら泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた


神田川 140の橋があった

むつみ橋 夕やけ橋 よしきり橋(よりきりばし 鎌倉橋 蔵下橋


面影橋

「俤橋」とも書き、古来から「於戸姫(おとひめ)」の伝説で知られる橋である。

小川氏の友人が娘の余りの美しさに小川氏を殺害して娘を奪おうとするも、娘がその友人を殺害。娘は自分の美しさを恨んで、黒髪を切り落とし、そのまま神田川に身を投げたという。
村人達はその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたというのである。


浅草橋
http://kandagawa.kingtop.jp/kanda_139.html



日本の橋のあわれ



人は歩いてこそもののあわれを感じるもの

古より日本に小川の多く橋の多し

神田川に140の橋のありと

むつみ橋 よしきり橋 ゆうやけ橋 面影橋 鎌倉橋 浅草橋 蔵下橋・・・・・

江戸時代よりの橋もあり

新しい橋の名もありと様々

橋をわたる人の生活がある

相馬市にある小泉橋も椿橋や

冬椿がその古い橋ににあっている

日本の小さな橋には人々の生活がしみこんでいる

それ故には橋には情緒がある

それも歩かなければ感じられない情緒だ

車で通りすぎては感じない

歩いてこそ昔を偲ぶことができる




神田川の橋は江戸時代から名づけられたものもあるが最近名づけられたものもある。橋がすべて古いとは限らない、やはりいつの時代のものかが問題になるのだ。ただ橋は地名を由来としているから
その名も古い、鎌倉橋となれば鎌倉街道に由来しているのだから古い、面影橋の由来も古代にさかのぼる。ゆうやけ橋などは新しいものだろう。そんな詩的な名前を普通はつけない。よしきり橋はよしきりが鳴いている橋だからそうなった。よしきりは良く鳴くし良く人が通る橋だからその名がついたからふさわしいといえる。むつみ橋も睦み合う橋ということでついた。小さな橋は日々の生活の中にとけこんでいたのである。

十二月までは冬椿であり寒椿ではない、冬椿というと何かまだあたたかさを感じる。街を歩いても寒風は吹きつけない。相馬辺りはそもそも雪もふらないしあたたかいから気候的には恵まれていた。
小泉橋に赤々と冬椿が映えていたのが城下町ににつかわしかった。


日立木の町場橋(まちばはし)

tubakigennkounew1111.jpg
クリック拡大!

人間は意外と身近な場所を知らないものである。灯台下暗しである。浜街道の日立木村の入口に町場橋とあったのを知ったのは最近のことである。そこにあった薬師堂のことは前にも書いていた。あそこには江戸時代の古い碑が多い。飢饉の供養の碑もありあそこには人の出入りが多かった。薬師堂というとどこにでもあるけど今どき病気だからと祈りにゆく人は今はいない、みんな病院にゆく。しかし江戸時代は病院には行けない、医者にもめったに行けないだろう。とすると薬師堂とか地蔵さんに祈るしかなかった。それで薬師堂には人が集まっていたにちがいない。日本では町というとき村の中に町があった。町はマチであり一区画のことである。村の中に町があったということ自体、いかに日本人の生活基盤が村にあったかわかる。農人橋というのももともと町が大きくなって農民が町の中に残された。こういうことは大阪とかの大きな町で生まれたのであり他では村の中に町があったのである。その一区画で商売などを許されたりした。村外の人が集ったのである。

日立木は明治時代以降合併して生まれた名前でありその前は日下石村、赤木村、立谷村であった。

飯館村も飯曾村と大舘村がが合併して生まれ名前である。でも今やその地名が定着している。最近合併した市の名前などはまだ違和感がある。南相馬市などもそうである。他から見ても相馬市と南相馬市を混同しているだろう。その区別がつきにくいだろう。陸前浜街道で一番当時の面影を残している場所が日立木から松並木のある所になる。だからまちば橋というのは街道の情緒を色濃く残している場所だった。百尺観音などは明治以降建てられたものでありただ大きいということであまり価値がない。そもそも歴史的価値あるものは後世の人が発見するものであり忘れられていることが多いのである。自分の住んでいる場所の価値を知らない人が多いのである。原発事故になり故郷に住めなくなって故郷は何なのかということを日々問うようになった。東京辺りのマンションなのか団地なのかそういう所で暮らしている人もいる。一人だけが啄木のように望郷になるのではない、町や村から人がいなくなるなど想像もしなかっただろう。でも現実にこの辺で起きていることなのだ。

街道はどこでも「奥の細道」というように細い一すじの歩く道だった。その感じは日立木から相馬市の城までつづいている。昔は現代の多忙な騒音の中に消されたようになっている。しかしあそこの町場橋の所にたたずむと何か昔に還ったような気分になる。夕蝉がひびく、秋の蝉が名残惜しく鳴く声が聞こえる。やがて冬となり北風が吹く、あの松並木に北風が鳴る。今なら確かに相馬の城は近い、でも実際は歩けばそれなりの距離になる。だから城が近いのだけれど遠くもあるという感じになる。そこでまちば橋というのが心に残るのである。城のあるところが本来の町だけどそこまでは遠いからここが町場であり町場橋となる。昔の人はともかく遠くに行くということはなかなかできない、歩きなのだからできないから日常は近辺でまかなってきた。商店街があるときも隣に魚屋だ雑貨屋だ豆腐屋だとかあった。近辺で日常の生活をまかなっていた。

江戸時代の村になればさらに近所の中で自給自足的に生活していたのである。現代からすると車社会になったときそういう生活が想像しにくくなったのだ。要するに車社会を昔を想像する力を人間から奪ったのである。便利なものは人間的なものを奪うのである。

二本松城内には深い井戸があり椿が散っていた。その中に茶室がある。するとその深い井戸から清水をくみ上げて茶の湯をたてる。するとその過程自体がすでに茶道になっている。水道で簡単に茶をたてていたら茶の湯にはならない、それだけ江戸時代は時間はゆっくりと流れていたのである。そこに濃密に人間と交わる空間と時間があった。だから茶道もふさわしいものだった。

駕籠で街道をゆくこと自体どれだけ時間と労力がかかるか想像すればわかる。なぜ籠などで人を運んでいたのか?それ自体不可解だとなる。技術力がなかったといえばそれまでであるがそんな原始的な方法しかなかったのか不思議である。馬も利用していたからである。外国では二輪馬車があった。そういうものさえなかったということ自体江戸時代の時間感覚は今では想像しにくいのだ。ただ町場橋でも城へ通う人はいた。戦後でもリヤカ-とかで鹿島区の横手から梨を売りに行っていたという女性がいたから城の中には松川浦からも魚が売られたしいろいろなものが運ばれ売られたのである。


「金沢の浅野川に架かる七つの橋を回ると願い事が叶う」とはいうて 
は叶わなくなるって、伝えられている訳。   ・人と出会っても口をきいてはいけない、話しをしたら願い事はかなわない、必ず一筆書きのようにして回ること、同じ橋は通らない


思案橋

現在の八丁堀にある思案橋は江戸時代に
この橋に立って、芝居街にいくか遊郭に行くか思案したことから
命名されたとのこと


橋にはいろいろな話しがあるのは伝説もあるのは小さい橋は日常生活で必ず渡るものだからそうなった。外国でも橋は重要だが大きい河が多いから日本とは事情が違っている。でも河をわたることが大きな役割を果たした。シ-ザ-がフランク人を川に沿って追撃して最後は丘の砦を包囲して勝利した。川には橋がないから川にそって分かれて対峙した。riverはライバルであり川から発している。これも外国の川は大きいからそうなったのである。ルビコン川をわたったというのもそのためである。
今でも浅瀬とか牛がわたれるからオックフォ-ドとかそういう地名が残っている。川を渡ることが重要だったから地名化した。日本の場合は大きな川は少ないから小さな橋の情緒になった。日本の橋は大きな歴史的戦いとかより日常の生活に根ざしているもっと親しみ安いものなのである。





しぐるるや古き農家のたたずまい

夕蝉や立谷村の町場橋

日立木の町場橋や冬の暮

思案橋面影橋や冬の暮

立谷の町場橋や城離れ北風鳴りて今日は寒しも

松並木北風鳴りて街道の一すじ残る日立木をゆく

・・・・・・・・・・・・・・・

板葺きに石の屋根かな時雨ふる

街道の細道あわれ時雨かな

街道に栄えし家や冬の暮

中山道旅の道連れ時雨ふる

鏡池姫の面影写せしと上山城へ秋の夕暮
 


「思案橋」「面影橋」というのも小さい橋ににつかわしい。そこを日々人が行き来しているからだ。常に人はそこで思案しているからだ。面影を見るというときも小川に写すというのがにつかわしい。上山城へゆく七ヶ宿からの街道に鏡池があり姫が顔を写して化粧したというとき城が近いと現実味を帯びてくる。昔の街道にはやはりいくら現代の騒音にかきけされても昔が全く消えるということはない、一すじの街道から昔が浮かび上がってくるのはやはり人間の生活は昔と全く断ち切れてはいないのである。東京のようなところになると昔はもう埋もれて名前だけになってしまっている。中山道の妻籠や馬籠などは昔のままに街道の町並みも残した。その道は細いのである。石段が一段低くなっているところなど昔のままである。屋根に石を置いたところとかあういう所は時雨があっている。現代は時雨の情緒を味わうのがむずかしい。時雨は昔の街道のようにもの寂びたわびしい風景にあっている。山頭火の時代はまだそういう風景が残っていた。それで「うしろ姿の時雨れてゆくか」というのがまだあっていた。ここに車が突っ走る時代になるとあわなくなった。芭蕉のわび、さびは別に作らなくてもそういう風景だったのである。わび,さびを求めなくても回りがそうだったのである。
茶道にしても回りがわび、さびの風景なのだから別にそうした場面をあえて作る必要もなかったのである。 

 
街道にこうした昔の人の生活の記憶がそこはかとなく記されている。そして過去の記憶というのは長い時間の中で記されたものだから時間をかけないとわからないのだ。事実何度も行ってもう人生も終わりかというころにしみじみと昔を偲ぶことができた。それも最も身近な所がそうなのである。
歴史的なものは時間をかけて作られたものだから時間をかけないと理解できない、感じることもできない。旅行してちょっとそこにいただけでは理解しえないものがあるのだ。ヨ-ロッパなども歴史があるけどなかなか理解できないのは時間をかけることができないからである。だから原発事故で浪江町とか双葉町とかでも陸前浜街道のつづきとしてあった。もし人がいなくなればそうした個人的な記憶だけではない歴史的記憶も失われてしまう。そうした記憶はその土地と共に作られてきたからである。そういう記憶が人工的には作れないから貴重なのである。それらを失ったら歴史的継続が失われる。その生も浅薄なものとなってしまうだろう。だから簡単に故郷を捨てることができるのかとなる。若い人ならまた新しい人生の記憶を作ることができるが老人にはできない、老人の仕事は回想になるからだ。歴史の継続がたたれてまた新たな歴史を作るとなると容易ではない、だから北海道辺りでは相馬藩でも本州の方にル-ツを求めることに熱心なのである。
 


 

2011年12月18日

冬の菊-冬薔薇 江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


冬の菊-冬薔薇

江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


rosewwwww1111.jpg

tubakikakine1111.jpg

冬薔薇一輪痛む我がふれぬ


冬薔薇なお一輪の咲かむとす


はや午後や石に日のさし冬薔薇


大輪の十輪畑に冬の菊


城下町主君に仕え冬の菊


今日もまたよりそうものや冬の菊


午後静か冬菜に菊や飾らざり

冬なれどタンポポ咲くや浜通り


巣の破れ今日は消えにし冬の蜘蛛


代々の江戸の老舗や冬の暮


壺屋の謂われ伝えて年の暮

fuyunaiku11111.jpg

kiku10rin11.jpg




冬薔薇の写真をとったけど実際はこれだけではいつの季節なのかわからない場合がある。そこでまわりに木の葉が散っていることで冬だとわかる。つまり写生には奥深さ深みがある。単なる写生でもそうである。デジカメはだから写生俳句の道具としてぴったりなのである。忠実に写生する写し取るのがデジカメだからである。大輪の十輪の菊も写生である。何も説明しないで大輪の十輪の菊が咲いていれば圧巻である。でも冬になっているから微妙に色あせていることがこの写真から見る必要がある。写真だとこうした点まで見れない場合がある。写真が万能とはならない。椿の写真でもこれが冬椿なのかというときわからない場合がある。午後の日が静かにさしてなんともいえないなごみがある。ここは我が町に一軒だけある旅館だった。民宿でありそれなりに垣根をめぐらしている。垣根ということが日本的で椿にあっていたのだ。椿はそもそも南国系統でも日本化した花になった。薔薇も冬薔薇でもそうである。薔薇はもともと夏に咲いているもので冬ににあわないが四季それぞれの趣が生まれた。


菊というとキクでありそういう名前が日本では多かった。最近そうしたキクとかウメとかいう名前は消えた。菊というとき菊は忠節とか律儀とか何か精神的シンポルとしてあった。江戸時代はまさに菊が名前としてふさわしかった。名は体を現すであった。城下町に菊が咲いているというときその風景とあっていた。主君に仕える夫に仕える女性が菊なのである。それは日本の文化でもあった。

何度も江戸時代とかに帰る時代、国風文化の時代がくるというときまさに今がそうなのである。それはもはや単なる懐古趣味でもない、現実的問題として江戸時代への回帰が必要となっている。江戸時代の三百年に培われたものが何なのか?それが明治維新以後急速な変化で忘れられ失われたのである。だからそれを取り戻す必要が出てきたのである。それは根本的な日本人のモラルの点でもそうである。日常生活のレベルでも菊という名前が消えたようにまさに菊のような女性も消えた。仕えるということも消えてただ自分のエゴを主張するだけの女性となった。名前も何を意味しているかもわからない、菊のような女性になりたいなどということはもうない、名前からして何を意味しているかもわからない。そこに日本の伝統的なものが失われたのである。そういう卑近な所でも切実に日本人として失われたものを戻したいということがある。それはいろいろな面でそうなっている。


江戸時代の老舗というのをテレビで放映していたけど今にもつづいている。おそらく江戸時代の店とか農家でもそうだけど職人すら何代もつづいていた。そうした長い時間で培われたものがあった。今のように十年二十年とかで変わっていたら何かいいものはもの作りでも精神的な面でも養成されない。親子は一世、夫婦は二世、主従は三世・・・という言葉が残されている。この意味を何なのかというとわかりにくい。主従が三世ということがわかりにくい。今の時代なら主従関係などどこにもない、会社にしても同じ会社で社長に三世仕えるなどまれだろう。大きな会社ですら変わり方が早いからだ。江戸時代の老舗では勤める人も代々親子で三世で働いていた人がいた。奉公していた人がいた。主従が三世というときそれだけ結びつきが強い、一代で終わるような結びつきははかない。そこには長続きするものが培われないのである。主従が三世というときその結びつきは今の金だけ結ばれているとかではない、そういう利害もぬきにした強い絆があった。

それは今の時代では想像もできないものである赤穂浪士もそういう主従関係から生まれた事件であり今では馬鹿らしいとしか思えない。それは主従は三世という結びつきからそうしたことが生まれた。そこまで主君のためにする必要はないというとき現代の打算的な金銭でしか結びつかない時代とは雲泥の差があったのだ。江戸時代は今や単に懐古趣味で回想するというのではない、現実問題として現実社会に反映させるべきものとして江戸時代を見直す必要があるのだ。現代に失われたものを取り戻すには江戸時代を見直し現実的に反映させることが必要だからである。


口上に<町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店>わざわざ書かれているのは、それまで菓子業は関西から来た人間に占められていたそうで、江戸の町人が開いた店として「最初」なのだそう。禁裏御用を意味する御用菓子司となり、清水徳川家・一橋家のような大名を顧客にし、虎ノ門(西久保八幡町)にも店を増やすなど大いに繁盛していたようです。
http://www.gonzoshouts.com/place/1395/


これも興味深かった。江戸は関西から文化が入ってきた。江戸根元というのも面白い。なぜ壺の形の最中になったかというとその当時砂糖が貴重であり壺に入れて大事に使っていたから壺の形になった。そういうところからもものの大切さを学ぶ、そしてその味をゆっくりと味わうのが江戸時代に帰ることなのである。徳川幕府に世話になったから明治になって店をやめるとか言うのもやはり徳川家の恩顧を大事にしていたというのも今ではなかなかわかりにくい、徳川家の影響がそれだけあったということになる。そういう庶民的な所にも歴史が残されているのが江戸や京都だとなる。

浜通りとなると会津などと比べたらあたたかい、雪もふらない、だからすごしやすい、タンポポも咲いていた。会津などは冬は雪に埋もれるからその生活感覚が理解できないのである。この辺の問題は原発事故で相馬藩とかの歴史の一部が土地と共に断たれるという不安である。まず心が安定しないのである。こういうところで過去の文化を見直し今に活かそうとすることがうまくいかない、小高区辺りまでは南相馬市までは人が住めるようになるだろうけど浪江とかになるとむずかしくなるのか?
そうなるとかつての相馬藩は狭められたものとなってしまう。代々すみつづけた土地があって伝統もあるとしたらその土地が喪失したら伝統も断たれる。そういうことで不安になってしまうのである。

2011年12月19日

なつかしい昔の道 (原発事故で途切れた街道)-詩




なつかしい昔の道

(原発事故で途切れた街道)-詩

人は歩いていた
常に歩いていた
一すじつづく街道を歩いていた
松並木に風が鳴り
道の辺に野の花が咲いていた
季節の変わる度に
犬ふぐりや月見草やあざみや野菊
細い街道を歩いていた
茅葺きの家や石置き屋根の家
貧しい街道の家並み
人は行き来し歩いていた
その歩いている人の姿がなつかしい
ひよいと昔の人が話しかける
旅は道連れ、長い旅
分去で分かれを惜しむ道
その人とは二度と会わなかった
人と人が出会い分かれる道
今この街道にたたずみ
昔の人の歩く姿が見える
この道に昔歩いた人達の記憶がしみこんでいる
時雨がふれば淋しい旅人が去ってゆく
山頭火の後ろ姿が消えてゆく
その風景が心にしみる
昔の人がなつかしんでその道を歩いている
馬頭観世音の碑
馬とともにも歩いていた
馬の名前を呼んで歩いていた
馬は家族の一員であった
だから曲屋で一緒に寝た
ああ 人の歩く姿がなつかしい
当たり前のことが当たり前なくなる
便利さを求めて何かを失った
大きなものを失った
豊かさを求めて心を失った
日本の素朴な風景は消えた
歩く姿も消えた
車は無謀に突っ走してゆく
眼中に人はない
人は邪魔なだけ
早く早く過ぎ去ってゆくだけ
そうして人は何か大事なものを失った
遂に原発事故で道は途切れた
その道はいつ回復するのだろう
人はばらばらになり道は途絶えた
大阪や東京のアパ-トやら団地やら
故郷を離れてばらばらになった
陸前浜街道はとぎれた
道を通じて人間も通じていた
それが離散してばらばらになった
道はいつ通じるのか
故郷にいつ帰れるのか
それはすでに遠い道のりだ
もう今年も暮れようとしている


 

posted by 老鶯 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連