2011年12月01日

TPPを世界史的視野で考える (アメリカの南北戦争も貿易の自由化の争いのため)


TPPを世界史的視野で考える

(アメリカの南北戦争も貿易の自由化の争いのため)

●備蓄した食糧がエジプトで王権を強大化した
 (遊牧民と農耕民の対立)


ヨセフは七年間の飢饉を予言した。王はそれに先立つ豊作の七年間の間、収穫の五分の一を
集め備蓄用にした。旱魃がひどくなったとき、エジプトの人々にに穀物を売る立場になり
彼らの集めた金銀と引き換えた。貴金属がなくなると彼らは小麦や大麦と引き換えに王に
牛や羊の群れを売らねばならなかった。ついに旱魃の終わり頃、穀物を買うために王に土地の一部をうることにした。それ以降、王とその継承者は彼らの臣民から借地料をとることができた。
こうして王家の政治力と経済力は大いに増した。(遙かなる楽園-環境破壊と文明)


王の権力が増大したのはやはり経済力がある。その経済力が増したのはここは旱魃の緊急時の備蓄された穀物だった。
もともとヨセフは羊を飼う遊牧民だったけど食糧不足でエジプトでイスラエルの一族をひきいてフジプトに寄留したのである。遊牧民はモンゴルでもそうだけど食糧不足にりやすいのだ。それで定期的に農民の中国を襲うからあの万里の長城ができた。農業と遊牧民の対立の歴史は古いのだ。遊牧民国家は衰退するし一大文明を築かない、遊牧民は農耕民に侵略して一体化する。それはインドでもドラビダ族に侵略して混血化してイスラム文化を残した。中国の最初の国家の秦の始皇帝は西安から起こったことは遊牧民が作った国家でもあった。だから兵馬俑のような大騎馬軍隊を編成することができて最初の広大な国家を作ることができたのである。でも結局遊牧民は文明を作りえなかった。モンゴルは大帝国を作ったが中国にのみこまれて一時的なものだったのである。


●文明は農耕民が作った


四大文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明であるがみな河の岸に発達した農耕文明だった。インカもマヤも農耕文明だった。遊牧民国家は成立しない、イスラムは遊牧民国家だけど長期的な文明国家とはならなかった。その後もロ-マも農業国家であり定着の農業国家として歴史は発展したのである。農耕文明は2000年からつづいている。エジプトではすでに紀元前から3000年もつづいていたのである。それだけ寿命が長い。その農耕文明から20世紀になり工業文明に移行した。ヨ-ロッパの中世でも江戸時代でも農耕文明である。20世紀の変化は農耕文明から工業文明に離脱した、その変化が余りにも大きすぎたのである。一千万の都市が全く食糧を生産していない、消費するだけだという社会を経験していない、食糧生産にたずさわる人が人口の一割にも満たない社会などありえようがなかった。百万都市の江戸ですら農地にとりかこまれていた農耕社会のただなかにあった都市である。今の都市とは全然違っている。東北辺りから米を商品として買い入れていたにしても回りは農地であり農民と密接に結びついてたのである。これはヨ-ロッパの中世でも城の回りは農地であり農耕社会と密接に結びついたのと同じである。都市があっても小規模だったのである。農耕中心の社会は人類史の中で長いのである。急速な工業文明はまだ百年くらいのものであり人類史からした短い、異常な一時期だったとあとでふりかえられるかもしれないし、それが人類を滅亡させたとかなる。そういう人類史で異常な時期が現代という時代である。


●農業と工業の対立が今世紀鮮明になった


今や一つの国家の歴史ではない、人類史というグロ-バルな観点からの考察があらゆるところで強いられている。当然これだけグロ-バル化すれば庶民のレベルでもそうなっている。貧乏な若者でも世界一周など簡単にできる時代である。そういう点では恵まれた時代なのである。TPPを考える時もそうである。世界史的人類史的視点が必要になってくる。面白かったのはアメリカの歴史だった。
南部と北部の戦争の原因が北部の工業化した都市と南部の広大な土地に黒人奴隷を使用した綿花栽培の農業地帯との争いだったのである。南部ではイギリスに綿花を輸出したい、農業中心の社会だった。その頃イギリスに産業革命が起こり綿花を大量に必要とした。一方北部でも工業化ししていたので工業化した社会で働く労働者を必要としていた。西部を開拓するにも労働者が必要でありそれを南部の黒人奴隷を必要としたのである。アメリカはイギリスから独立したいということもあり工業化する北部中心の社会を形成したのである。ここで農業と工業の対立があった。逆に今はアメリカは工業化として発展しても農業国家となったという皮肉もある。売るものが工業製品ではなく食糧だとなってしまった。その広大な土地から生産した食糧を日本に関税なしで売りたいがためにTPPを促進させようとしている。

日本の戦前の主な産業が絹織物だったのとにている。絹の生産は農業であり地方で盛んだった。つまり南部と同じだったのである。

他の方も言われている通り、自由貿易vs保護貿易の対立が主な争点と考えるのが一番自然だと思います。
農業国or工業国の選択と言ってもいいと思います。


競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから自由貿易を望みます。
ところが新興工業地域の北部にとっては、まだ生産性が低い自国製品では進んだ英国製工業製品に太刀打ちでがきません。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1210005.html



不思議にアメリカはこの時、保護主義が北部の工業化した地域であり自由貿易主義が南部の農業、綿花栽培のプランテ-ションの地主だった。これを日本に当てはめるとTPP賛成派は自動車などを売っている工業化している製造業であり食糧を生産している農民ではない、農業は保護主義なのである。ただアメリカの南部は食糧ではなく綿花栽培なのだから食糧を生産していたわけではない、これも工業製品のための材料を輸出してしいたとなる。アメリカでは今車を生産している会社などはTPPに反対である。保護主義なのである。これは南北戦争時代と同じである。一見関税と貿易が国と国の対立のように見えて実は人類史的には遊牧民と農耕民の対立と同じ様にその生活形態から問題が発している。農業と急速な工業化の対立が根底にあるのだ。ただ言えることはエジプトのヨセフの例のように
食糧を備蓄して王権が強大化したようにアメリカでもオ-ストラリアでも広大な土地があり食糧備蓄していれば何かの災害や飢饉などで日本などが食糧不足になればエジプトと同じ様になる。


現実にこの辺で食糧や物資が全く入らなくなった時があった。放射能をおそれ物が運ばれない。その時救ったのが町で貯えていて古米だったのである。これを頼りに一週間とか過ごした。食糧がもう金でも買えないというのが緊急事態なのである。結局国内でも自分の命を危険にさらしてまで助けようとする人はいないのである。だから江戸時代に郷倉というのを建てて米を貯えていた。最低米があると人間は生き延びられる。米だけでもある程度は生き延びられるのである。そういう危機のために備えるためにも農業はある。そのことがあるから農家に援助もしている。もし関税がなくなると日本の農業は壊滅的な打撃をうけるというときそういう不安があるからだ。もちろん農業には様々な問題がある。だからといってTPPで解決するのだというのでは解決にはならない。アメリカは売るものがない、食料品を売りたいためにTPPをしかけた。それはアヘン戦争とにている。中国に売るものがない、だからアヘンを強制的に軍事力で売った。そういうことをしたのがヨ-ロッパの列強でもあったのだ。


あとがき

本でもインタ-ネットでも自分なりに編集すると活きたものとなることがわかった。本をもっていてもその知識を活用しない
と活きてこない、膨大な本をためこんでも宝の持ち腐れになる。本もテ-マをもち編集すると活きた知識になることはまちがいない。
編集という作業は明らかに創造的なものでありコピ-ではない、編集者が創造的なことをしているのであり電子書籍になろうが
何になろうがこうした創造的仕事は人間しかできないから仕事がなくなるということはないのである。
とにかく自分は相当に本を集めた、だけと活用していなかった。何らか知的作業には本を集めることが必要なのである。
posted by 老鶯 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年12月02日

南相馬市中央産婦人科院長の奮闘


南相馬市中央産婦人科院長の奮闘
http://www6.ocn.ne.jp/~syunran/

原発事故でいろいろな人が地元でテレビにでてくる。普通の生活していたら別に地元で関係しなければその仕事に関心をもつことがなかった。産婦人科などでも関心をもつことがなかった。考えてみたらここで産婦人科が奮闘しているのは放射線が妊婦と子供に一番影響すると報道していた。それで妊婦と子供が一番放射線について敏感になり避難した人が多い。宮城県の大崎の主婦が苫小牧に避難したというのも驚きである。そこで瓦礫を受け入れるなと抗議活動している。大崎など放射線量が相当に低いし誰も注目していないだろう。そんな人まで避難する必要があるのだろうかと思うし非難している人がいる。そんなに放射能に過敏になっていいのだろうかという疑問もある。結局放射能のことが一般人にはいくら説明されてもわかりにくいのである。そして現実に具体的にどう影響するのかも明確にわからない、ただ憶測だけが広がっているのだ。そのことがまた不安にもしている。


傷ついた遺伝子の修復能力も、尿中の排泄能力も、
からだの組織別の半減期も、数段成人より能力が高いのです。


このホ-ムペ-ジにでていたがたれは本当なのだろうか?子供は影響されるがかえってまた修復能力も高いというのは意外である。若ければ遺伝子も修復能力がある。それは若い人は細胞も若いのだから修復能力も高いということは素人でも想像できる。しかし放射能の危険は妊婦と子供については盛んに言われたしそのために子供を優先的に避難させた。これは科学的結果であり専門家も認めているものだから憶測ではないだろう。要するに放射能がどう実際に影響するのか科学的に実証されていない。それで記録を正確にとって後世に役立てるのが使命だと書いてある。
他にも泥に付着したセシウムは植物は吸収しにくいとかあり米にはさほど影響なかったという研究者の発言もあった。ある人は放射性物質は日本では雨が多いから雨と一緒に海に流れだすという人もいる。実際に阿武隈川の河口では


阿武隈川河口で放射性セシウム525億ベクレル


福島県伊達市内では、計1763億ベクレルに達した。放射性セシウムの9割以上は、水中の土砂に含まれており、河口までのダムで一定量はせき止められたとみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111124-OYT1T01108.htm

これも日頃聞いているものからすると驚くべき量である。ということはやはり泥とか砂とかについてセシウムは流れだしている。それにしてもダムでせきとめたというがダムの水はセシウムに汚染される。その水を飲む場合もある。真野ダムの水は相馬市で利用しているのだ。真野ダムの公園のぬれた砂は10マイクロシ-ベルトとか高かった。砂とか泥にセシウムは付着していることはまちがいない、その砂や粒子や泥と一緒に河に流れて河口にそれだけのセシウムが計測された。ただチェルノブエリでは乾燥地帯であり雨が少ないから水で流されるということはない、日本では雨が多いから雨と共に海に流され放射線量が下がってくるというのも風土的にはそうなるかもしれない、しかし放射能の影響については実際はわかっていないのだ。未知な部分が多すぎるから福島県は放射能汚染の実験地帯だ、モルモットだと言われる。


あと1年も経たない内に、南相馬の病院は全て破産すると思います。多分南相馬村となってしまい
ます。南相馬崩壊するのをじっと待って狙っている市長がいます。


ねらっているいうのは相馬市なのだろうか、それしか考えられない、南相馬市と相馬市が仲良くないというのも意外である。同じ野馬追いをしているには解せないことである。ただ相馬市の病院が南相馬市がこういう状態だから繁盛しているだろう。自分も相馬市の病院に通うようになった。南相馬市は将来的に相馬市と合併する、相馬市主導でそうなる。そういうことはありえる、見えているのが現状なことは確かである
いづれにしろ産婦人科が一番放射能の危機を感じていたのはわかる。だからその重荷を背負ったのがここの院長だった。それなりの年であり南相馬市に長いから愛着がありテレビで見ていても好感がもたれる。「最後のミッションだ」というのも何か使命感を感じて奮闘した。


今回の津波や原発事故ではそれぞれが何か日頃の仕事が何なのか自覚させられた。日頃は何か使命感とかミッションとか大げさのもので仕事している人はいない、ところがこうした異常事態で仕事が奪われたとき仕事について考えるようになった。仕事しない人がふえた。特に農家の人などは仕事していない、それで仕事について考えるようになった。それで「万葉集の歌と心境が一致する避難者」というペ-ジが常に読まれいる不思議がある。それだけ仕事がなくなり仕事が問題になっているからだろう。第一確かに避難者が金をもらっても仕事をせずにパチンコ屋通いとか飲み屋通いというのは普通じゃない、そしてそんな生活がいつまでもつづいていたら心も荒廃してしまうだろう。避難者を受け入れた方にしてもその人たちの扱いに困ってしまうだろ。定住して労働するわけでもない、そしていつまでも補償を受けて生活するというわけにもいかないからだ。小高区の海岸近くは警戒区域の解除されるのは当然だろう。
放射線がもともと低かったのである。だから全部が避難させることに疑問だった。


ともかくここの産婦人科の院長は過労のためとも言えるのか、癌になって入院することになったのも不運である。悪いことは何か重なる。70代で仕事ができる年齢だがやはり無理がたたったのか?
病気を背負ってしまった。そして「人生はギャンブルだ」とテレビで言っていたのもわかる。人生は先がよめない、一寸先は闇だというのをこの辺でみんな経験したのである。自分も次から次と災難に見舞われた。これは一体何なのだろうとつくづく思った。まあ、津波で死ななくて良かったなとともかく思ってなぐさめるほかない。津波で死んだ人よりは良かったなと思うほかないのである。


I will be back


とメッセ-ジをのせていたが回復をお祈りします。

posted by 老鶯 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年12月03日

近江から京都-春の俳句連作 (安土桃山文化の考察)


近江から京都-春の俳句連作

(安土桃山文化の考察)


kazari33333.jpg
クリック拡大!



大津皇子若き死あわれ春の逝く


楽浪の都の跡や春深む


近江にそ敗れしものや春深む


信長の上洛果たし城成りぬ


春の日や楽市楽座近江かな


安土城黄金の瓦春の夢


職人の瓦に金箔近江の春


春の夢安土桃山の絵巻かな


信長の炎に消えて春の夢


春の日や幾日過ごすや京言葉


京に入り夢をかなえむ春満月


女御達御所に百間の物語


技伝ゆ錺り師棲むや春の京


路次入りて鍵隠町や春の京


障壁画千面残す春の京


春の日やここは京なり寺の鐘



戦国の力を示す城なるもたちまち消えて春の夢の跡


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


肘掛けに殿の間奥にいつの日や時の長しも春の日暮れぬ



安土桃山時代は華やかだった。それは信長や秀吉の一時の栄華のようにはかなく消え去った。信長の安土城は今までの城とは全く様相を異にする新企画の壮大な城だった。それも全く一時の夢のように消えた。そんな城があったということもなかなか想像しにくい。秀吉の大坂城は城として残り今もその栄華は感じる。安土桃山城はその栄華も束の間だった。ただ信長は一つの時代を変えた革命家でもあった。それはヨ-ロッパの歴史とにていた。ヨ-ロッパの歴史はロ-マ時代からキリスト教の歴史でもあった。それはカトリックであり強固な権力的支配だった。ロ-マが政治で優れていたというとき宗教も政治化された面があったのだ。宗教は宗教都市と化して人民を支配した。政治的支配力があったのである。その政治と宗教の一体化に圧迫された歴史が長かったのである。千年以上そうした圧迫のもとにありついにルタ-がでて宗教改革が起こり改革された。宗教の支配の軛から脱することができた。ヨ-ロッパの歴史は常に宗教支配からの離脱が一つのテ-マになっていた。それは宗教があまりにも政治力をもち権力をもっていたためである。そしてナポレオンによりカトリック教会の支配は完全に打破されたのである。するとナポレオンは信長とにていたとなる。比叡山を焼き討ちして僧侶を虐殺したこととにている。それまでは日本も宗教の力が大きかったのである。日本でも権力をもっていたから権力争いになったのである。宗教はそもそも権力をもった時すでに宗教から離れて政治化していたのである。 そして熊本城の安土桃山文化の復元が成ったがそのNHKの放送で信長の安土城を作るために職人を獲得するために比叡山の焼き討ちとか僧侶集団を滅ぼそうとした。それが職人を得るための具体的な利益を目指していたというのもそれだけそれまでの富は寺院の中にあったのである。


建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%
BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%B2


大工が聖徳太子を祭っているのもそのためである。それは法隆寺の建設のときからはじまっていた長い歴史があった。西には日本の長い歴史が積み重なっている。近江の魅力はその歴史にあるけど自然が豊であることも魅力なのである。琵琶湖があり比良の山々がありと変化に富んでいるのだ。多賀神社にしても伊勢と並び本当に古い謂われがある。様々な歴史が積み重なっている。安土桃山城を信長が造営して楽市楽座を開いたというのも商業の興隆になった。それは全国に広がったのである。

近江商人の元をたどればこの辺からもでてくる。近江商人は全国に散らばり栄えた。そもそも近江とか大阪京都となると人間が東北のような性格とはあまりにも違っている。東北は未だに百姓的農民的性格が根づよく残っている。商人の気質に欠けている。商人に向いていない,それは今でもそうである。東北には豪商が育つことがなかった。農民が大半であり豪商は育たない、それで伊達政宗が伊達ものとして中央に威勢を張った。つまり大半の民衆は貧乏であったが中央には威勢を張らなければならないからそうなった。強く見せるためにあえてそうした。信長の安土桃山城の建設も秀吉の大坂城の建設も当時では権力の象徴として建設された。あまりの豪華さに大坂城を見た毛利は秀吉に逆らえない、従うほかないと思ったということでもわかる。つまり建築は権力の象徴になるのだ。


それは古代からはじまった。日本では大古墳でありピラミッドでありロ-マのコロセウムもそうした建築を誇るものだった。中世の教会も権力を象徴する面があった。ただ権力でも文化の裏付けがありただ大きいというだけではなかった。精神的シンボルでもあるからそれは後世に美として文化として残されたのである。熊本城は豪勢な城だった。外国の南方との貿易を計りその利益を得て資金にしたということもあった。薩摩が中国との貿易で財を成して雄藩となったというのもやはり九州は外国と通じやすいからそうなる。東北は外国と地理的に通じにくいのである。みちのくではそもそも本当の栄華を経験したことがない、城も伊達政宗の青葉城や会津の城をのぞいて小規模なものである。西には大きな城が多いから違っている。それだけ栄えたということである。みちのくでは平泉の栄華があったにしてもそれも一時のことであり三代で消失したはかないもので「五月雨のふりのこしてや光堂-芭蕉」で終わったのである。京都が千年の都とするときその栄華は余りにも短すぎたのである。
人間の文化には必ず歴史的蓄積が必要なのである。文化が華咲くにはそうである。ルネサンスはそうした西欧の歴史的蓄積から起こった。それもイスラム文化も入ってきた国際的なものとして起こった。

江戸時代も鎖国であったが日本の内部的国力を養うものとして働いたという説も面白い。外国との交流で力を消耗しなかったというのも面白い指摘である。確かに明治維新後を見れば一目瞭然である。大戦が三回もあり日本の国力は消耗しただけではないかともみれる。常に日本では外国の文化をとり入れても奈良時代の唐風文化から平安京の国風文化へまたは鎌倉時代の武士の文化へと国風文化が盛り返してくる。明治維新後は外国との交流に消耗されすぎた。だから奈良時代のあとに平安文化が交流した,国風文化になったように日本も欧米化とかではない、国風文化の時代になる。新しい国風文化の創造の時代になる。

結局戦後60年とかは物質の豊かさを追求したのである。それがここにきて終わりを告げる。その象徴がこの辺で起きた原発事故かもしれない、原発も物資的富の象徴としてあったのだ。団塊の世代が生きた時代は物質的には恵まれた時代だった。高度成長であり一つの平和な栄華の時代だったのである。しかしそこに文化は育たなかった。文化の栄華はこれからなのだろう。本当のルネサンスはこれからなのだろう。一方で経済的には衰退するにしても文化は興隆の時期にくる。物質的豊かさの次は精神的豊かさを求めるからである。ただつくづく人間の栄華は短い。繁栄も終わってみれば短い、はかなく無常だというのは変わらないのである。この辺ではそうした無常を津波や原発事故で身をもって全員が感じることになったのである。


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


殿様も悠長な栄華の時間の中にあったがそれも一時だった。江戸時代前は時間はゆっくりと流れていた。その残されたものが物語っている。和時計であれ殿様の肘掛けであれ何かゆったりとした時の流の中にそうした物もあった。それがめまぐるしい時に追われる現代から比べると癒しとなる。江戸時代をふりかえることは常に癒しなのである。それは過去への深い郷愁なのである。結局自分にも個々人にも栄華あり過ぎ去ってしまった。常磐木の松のようにいつまでも変わらぬものとしてありたいと願っても時は無常でありたちまち人生は終わりを告げる。これで終わりか?百年生きても人間は儚いとなる。ああ 青春が帰ってきてほしい、栄華のなかにまだいたいといってもそこにいたのは束の間だったのである。


熊本城の釘隠し
http://www.geocities.jp/joysunny/kumamoto/kumamoto048.htm


京都の釘隠町の由来
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/names/kugi/01.html


京都の鍵隠町の話は面白い。やはり京都だなと思う。釘隠しが立派なのでみんな見に来たからこの名が残った。これは町家だけど町家でもそれだけ立派なものが建つ、そこが違っているのだ。旅するにもこうしたいろいろな歴史を知らないと通りすぎてゆくだけになるのだ。インタ-ネットではそうした故事をたどり旅できるということもあるのだ。京都など実際に行ってみてもこうしたことがわかりにくいのである。

2011年12月04日

冬の雨(それぞれの家には歴史が-家を離れられない訳)


冬の雨(それぞれの家には歴史が-家を離れられない訳)


winterstoneee2222.jpg



寂けさや冬の雨ふる松と石

庭の石見つつ暮れにき冬薔薇


I am watching the stone
in my garden
winter roses in bloom
it comes to a close again


争わぬ二色静けき冬薔薇


two deeply coloured roses
in winter with no harm
and battles


一本の庭の松にし北風の鳴りてなお生く老母と二人


山帽子のなお実のなるや冬日さし母の介護を我はするかな


我が家に店営むも遠きかな忘すられゆくや北風鳴りぬ



昨日は雨であり今日は家がゆれるほど北風が吹いている。この家に住んですでに60年以上過ぎている。子供のときはトタン屋根の平屋のヤハな家だった。その後店が繁盛して大きな今の家を建てた。その新しい家も40年過ぎている。今回かなり痛んだけどまだ生活できる。家はやっぱりそれぞれどこでもそれなりの歴史をもっている。農家ならさらに先祖からの長い歴史をもっている。家が新しくなっても家族は代々住んでいるのだ。そこが都会とは違っている。自分の家は代々つづいた家でないにしろ60年くらい住んでいるとやはりそれなりに長いなと思う。でもすでにここで店をやっていたとか忘れられてゆくかもしれない、すでに思い出すだけの過去になってしまう。ただやはり同じ家にいるのだからいろいろここでの暮らしが家と共にあったことをふりかえる。家はそれだけ人間の生活で重みをもったものである。


だから原発事故で避難した人が特に50代以上では帰りたいという気持ちが痛いほどわかる。故郷や家や土地から離れたら自分のアイディンティティというものがが失われる。この辺は難民の避難者になる人もでてくるというのは現実だろう。難民の流れ者になってしま。若いなら他の土地で一からはじめられるかもしれない、しかし老人はそういうことをできない、特に土地と一体化していた農民は他の土地で暮らすことがしにくい、代替え地で農業をはじめた人もいる。そしてつくづく60代の人がもう一度借金しても農業がたい、あと十年は貴重だ、仕事は生き甲斐だ、仕事がしたいと何度も言っていた。農家の仕事のことを楽しく語っていた。農業は実際はその仕事自体は生き甲斐のあるものであったことをかみしめていた。農業は常に金にならないと言っていたが仕事自体をしたいという人はいる。農業は極めて自然と直結しているから人間の本源的というも言うべき充足をもたらすのである。仕事しないでぶらぶらしているより仕事したい仕事したとうことが叫びのように今なっているのである。


ともかくどんな家でもそれなりの歴史がありだから50過ぎたらなかなかその家を捨てて新しい土地に移りやり直すことがむずかしくなるのだ。自分の家も複雑だったが歴史があった。そしてまだ母は生きている。その苦労を思い介護している。ただあまりの苦労が心を歪めてしまった。それは苦労しすぎた人はそうなりやすい、働くだけが人生だというのはやはり異常だったのである。

俳句は何度もいうけど俳句ほどシンプルなものはなかった。そのシンプルななかに深みがあった。

冬の雨が降っている、庭に一本の松と石がある。ただそれだけのことだけど何か心にしみるものがある。古い家だったら老松があり冬の日がさしてしいる。そういうものは自分の家にはない、この庭だって最近作ったものである。それでもやはり60年は長いのである。

2011年12月05日

冬椿(相馬市城下町の冬の情緒-俳句十句)


冬椿(相馬市城下町の冬の情緒-俳句十句)

somajizpu2222.jpg

koizumihashi3333.jpg



病院に通う老人枯木かな

小泉橋朝にわたるや冬椿


冬日さし城下町の辻塩地蔵


我が歩む相馬市の通り冬椿


シクラメン三色映えて通りかな


相馬駅松一本に冬椿


城下町路次に入れば冬紅葉


城下町北風唸り路次に入る


看護師の楚々と働く冬椿


相馬市に磯部の見ゆや枯野かな


電車来じ垂れこめにけり冬の雲


相馬市の古書店静か冬紅葉


六号線遠くに通ぜじ冬紅葉


城下町歩みであわれ冬の日や六万石と誰か訪ねむ

fuyutttt123.jpg




今は冬椿であり寒椿ではない、寒椿は最近暖冬でそういう感じが出ない、一月から二月の寒い時である。人間は歩かないとつくづく情緒を感じない。自転車も実は歩くのとは違っている。通りすぎることが意外と多いのだ。相馬市に行ってもス-パ-に行くけど相馬市街は通りすぎてゆくのである。
人間は歩いて感じる風景を失った。自転車でもそうなんだから車だったらまず常にどこでも通りすぎてゆくだけである。人が歩き通ってゆく姿がないのである。だから車は人間性を喪失させる機械なのである。車は通りすぎて何か遠くへ遠くと行ってしまうのである。そういうことは日々の生活でもそうなっているのだ。人も遠くへ遠くへと離れ行ってしまうという感覚になる。


今日はまた下腹が痛くなり緊急で相馬市の総合病院に行った。これも時々なるから困る。交換するば直るのだけど何か結構怖い思いをする。緊急の処置が必要なのである。だから救急医療ができないと軽い場合でも死ぬことがある。だからこの辺の一番の問題は医療なのである。この辺ではまともな医療がうけられない。まあ、なんとか医者にかかれるのだから江戸時代よりはいいとはなる。江戸時代あたりはちょっとしたことでみんな死んでいたのだろう。医療を受けられなければ死ぬ。その病院の道を下ったところにあの塩地蔵がある。そして小泉川があり短い橋がある。あの橋が情緒があるのだ。塩地蔵に冬日がさし冬椿が映えていていかにも冬らしい情緒である。あそこに注目している人は少ないだろう。意外と何でもないところに情緒がある。相馬市は確かに城下町なのだけど城下町なんだということを知るためにはお掘りの城跡まで行かねばならない、すると駅に下りて歩くとなるとかなり遠いのである。だからお掘りまで歩いたことはないのだ。自転車では行っても歩いては行ったことがないのだ。相馬市のような小さな街でも今や歩くことはないのである。


今日はまた待ち時間があったので駅の回りをまた歩いた。工事したいたのでうるさかった。ステ-ションプラザとかありビルの上の七階に上ったら磯部の方が見えた。街を知るには高いところに上る必要がある。磯部の海の方が確かに見えた。磯部にはバスも通っている。小学校が高台に残ったからである。あそこのことをテレビでも写していた。あの辺の人は生き残ることができた。でも大多数は海岸に接して住んでいたから被害が大きかった。

何かまだこの辺は工事が多い。近くでも三軒くらい家が壊された。相馬市の駅前通りも三軒が空家になっていた。あれも淋しい感じになる。北風が唸っていた。通りは明かに人が歩くことによって活きてくるのであり車が通っても活きてこないのだ。人間は今や歩く喜びを失っているのだ。古い街はとにかく歩かないと良さがわからない。相馬市は歩くに向いている。歩けば通りの店に眼がむく、駅前通りに花屋があった。それも気づいていなかった。いろいろなシクラメンを売っていた。季節柄あっていた。店は見せるでありそこに意味があった。

裏の路地を歩むと冬紅葉が映える。古書店が一軒通りにある。あれも通りに必要なものである。ブックオフとかは何か通りにふさわしくない。通りにはやはり昔ながらのものがあっているのだ。コンビニなんかもあっていないのだ。でも実際の用となるとどうしてもコンビニに入るのである。街というときやはりそれなりのものがそろっていないと街にはならない。その街の店が歯がぬけたようなると街自体が成り立たなくなる。相馬市でも目立つのはやはり医院である。原町もそうだった。ともかく相馬市は城下町としてのそれなりの情緒がある。でも外から来た人には感じにくいのである。旅をしてもそういう場がある。有名な観光地でもそうである。京都辺りも実際は住んでみたらわかるがちょっと旅したくらいではわかりにくいのである。いろいろな謂われもわかりにくいのである。


電車は今年中に通るらしい、それも一時間おきくらいに通るというから助かる。
相馬市から亘理までは便数が多いけど原町-相馬は少ないから不便である。
電車が通らなかったら冬の雲が動かずたれこめる気分になる。なかなか仙台はゆきづらくなった。
交通が遮断されると本当に江戸時代にもどる。冬の雲がたれこめて動かない。
人もなかなか動かなかったのが江戸時代だったからである。ただまだ車をもっている人はそんな感覚にはなっていない、車をもっていないと余計にそうなるのだ。

2011年12月07日

冬の蜂に刺される



冬の蜂に刺される

fuyuhavhi111.jpg



冬の蜂死に際に刺し手ふくれる


冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城


村上鬼城作
http://utorongo.otemo-yan.net/e134592.html


 村上鬼城(1865〜1938)は、若いころ司法官を志が耳を患い断念、裁判所の代書人で生活をし、22才で結婚し、二女をもうけますが、わずか数年で妻が他界。31才で再婚し二男六女をもうけますが、貧しさはますます厳しく、正岡子規に共感し「ホトトギス」に入門する。
 耳の病、妻の死、貧困と、苦しさの連続だった鬼城を再び不幸が襲います。昭和2年、61才の時、自宅が火災で焼失。



部屋の中に死んだように飛ばなくなっていた蜂にふれてさされた。蜂も怖い。これだけ毒がまわってはれた。熱がこもり痛くもある。その蜂は弱り死んだようだったが死んでいなかった。この句のつづきがあった。死にどころ探して死に際に強烈な毒だして刺した。それだけの力があった。自然も怖い。津波も最高に怖かったけどあんな小さな蜂にさされてこんなに毒でふくれると思わなかった。
体全体まで調子悪くなる、吐け気などにおそわれる。アレルギ-体質だとそうなる。スズメバチは本当に刺されたら即生命の危険にさらされる。それだけ毒が強いのである。人間も怖いが自然も怖いものである。


人間だって命ある限り死んだようでも死なないということがある。最期の抵抗をして死んでゆく。
それが意外と怖い面があるのだ。最期の力をふりしぼってかかってくることもありうる。鬼城の生涯も苦しみの連続だった。そういう生涯も結構ある。一茶などもそうである。自分は30年くらい実に平穏な生活だった。三食用意されていたし何か困ることもない恵まれたものだった。ところが5年前から苦しみの連続になった。家族に認知症かかえ右往左往してそれから自分も病気になり犯罪にあったり事故にあったりまた介護だとか不運の連続だったのである。最期に津波と原発事故だった。

そして冬の蜂にさされるというのもこれもたいしたことないようでも不運である。人間の一生でも不運な生涯は結構ある。戦争で死んだ人とか戦前は結核で死んだ若い人が多いし不運で死んだ人が多かった。戦後60年は平和で恵まれていたのだ。ここにきて津波とかでみんな悲惨なことを経験した。「人生はギャンブルだ」と言って原町の産婦人科の院長も今度は癌になったとか悪いことは重なるのである。この辺は何か変だ、原町で不審火で木材所が焼けたとか何か変なのである。この辺何か全体が不運におそわれているのだ。だからなかんか縁起悪い所なのかとさえ思ってしまう。これまでそう思わなかったが回りも自分もそうした災難つづきだから不安になるのだ。


ともかく明日医者に行くほかない、毒を出すのがいいらしい。あんな死にかかった蜂でもこれだけの毒を出すことに驚いた。人間も最期に毒をだす、意外とこれは怖いのである。弱った老人でも馬鹿にできない、動物は毒を出す、最期に毒を出して死んでゆくともなる。

震災津浪の被災地を励ます詩


震災津浪の被災地を励ます詩

 秘密


    カロッサ


星は天空にあって
眠ることなく燃えねばならぬ
地球を包んで
緑の生命が息づくためには


血は流さねばならぬ
多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


さまざまの力が荒れ狂い
傷つきにくみ合うところ
清らかな治癒の泉が
よき死の底から湧きあがる


私たちが迷い迷うあいだ、
私たちを見守ってくれる力がある。
にがい苦しい努力のうちに
私たちは一致して光を求める


すべての奇跡は
はるかな岸辺におこる
私たちはみな、きそって
自由な岸辺をめざす


私たち身に
太陽の物質を背負っている
私たちは消えてゆかねばならぬ
それほどまでに私たちは強いのだ


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する

 


この詩は震災や津浪や原発事故の被災者を慰めるのにぴったりではないか?


多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


これは津浪の被害にあった人達である。どれだけ多くの涙が流れたことだろうか?多くの血が流れたというときこれは戦争だったらそうなるが今回は涙の方だろう。こういうことがそもそも人類の歴史だった。戦争でもどれだけ多くの血が流されたかわからない、戦争は経験してしいなくても400万人も死んだとなれば忘れられるものではない、延々として語られるだろう。今回の津浪の被害もそうだった。原発事故も未だかつてない事故の経験だった。その傷痕は余りにも深いのである。


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する


どこまで行っても終わりはない・・・この震災や津浪や原発事故の被害は終わりがない・・・それぼと被害が大きすぎた。そして燃えるような奉仕が確かに必要とされている。原町の産婦人科の院長などはそうした人の一人になるだろう。病気になったということは砕け散りつつともなる。そういうことが強いられたともなる。あたりに光を放射する・・・・・奉仕しながら死んでゆくのだからそれが光となっている。これはむずかしい詩ではない、でも震災にあった人達にはぴったりの詩ではないか?これは戦争で傷ついた人達をイメ-ジして作られたのものだろう。でも震災や津浪や原発事故にもあてはまる。原発事故では放射能で汚染されたからその自然が汚されたということがこれはなかなか修復できないのでその傷痕は大きすぎる。ただボランティアとかはそういう奉仕があったことは確かである。その奉仕はやはり光を放射していた。それを批判する人もいたが実際に何もしないよりは光を放ったのである。被災者のなかで働くことは金儲けより奉仕になっていたのである。


この辺では働く若い人が避難していなくて困っているということでもわかる。残されたのは老人だけになり老人だけで支えることはできない、そういうときこういう放射能汚染地帯で働くことは誰もしたくないから奉仕だとなる。これはまた別かもしれないがこういうところで誰も働きたくない、そしたら老人だけが残されて衰退してしまう。こういうときここで奉仕させるというのは無理でも残った金のある老人は働く若い人をとどめるためにも金を多く払わねばならなくなるということもある。
働く人がいないということは働く人が貴重なのである。

今までのように時給いくらとかでは働く人を確保できないかもしれない、働きたいという人が大勢いればそれでかまわないが、働く人がいなければそうなる。ただこれだけ移動が自由な社会だから年金を多くもらっている人はサ-ビスのいい市とかに移動はできる。現実そうして移住している人はいる。年金をもらい金がある人はできるのだ。

こういう放射能汚染地帯とかにいればいいサ-ビスは老人でも受けられない、だからサ-ビスを受けようとすれば人件費はかなり高くなってしまうのではないか?なぜなら働く人がいないということは人手不足なのだから賃金も上がるからである。その上がる賃金分をここに住む人が払わねばならないのだ。要するにこの詩の燃えるような奉仕をする人はがまれだとすると賃金をかなりあげないと誰も働かない、働き手も入ってこないということである。本当に外国人でも中国人でも入れないと働く人がいなくなってしまう。中国人などなら今の給料でも高いとなるから働くとなる。そういうことはすでに震災被災者ではなく日本全国で人手不足になり外国人を入れるほかないとか特に医療や介護分野では問題になっていたのである。特に被災地では顕著になったということである。

ハンスカロッサは医者であり戦争にも参加して献身的に働いたからこの詩ができた。
ということは原町の産婦人科の院長も共通していたのだ。
詩もそうした実践の経験がないと書けない
想像だけでは書けない、つまらないことでも実践していることが言葉になり詩になったりするのだ

posted by 老鶯 at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

鴨(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)




(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)


故郷の川になじむや鴨と月


故郷を離れられじも残る柿


冬薔薇菊と並びて庭の暮る


冬の菊今日もこの道買い物に


冬の月建設現場に光るかな


冬紅葉訪う人なしに今日も暮る


冬の日に橲原の奥大石の動かずあれや人も同じく



この辺のテ-マが常に動かないとかになる。今までは別に石なら動かないで普通でありとりたててそんなことを強調する必要もない。ところが今この辺は原発事故で常にゆれ動いている。現実に故郷に住めなくなった人達が大勢いるのだ。30キロ圏外でも何か心かゆれて落ち着かない、普通だったら土地があってそこに歴史を刻んできたのである。そこから離されてしまったという事実である。
故郷に存在できないという現実なのである。それは何を意味しているのか常にテ-マになってしまう。人間のアイディンティティとして自然がある。この自然のアイディンティティはなかなか作れない、なぜか?自然の時間的スケ-ルが人間のせわしい生活感覚と違っているからである。現代のような時間に追われるなかで自然とのアイディンティティを築くことは容易ではない、時間の感覚があまりに違いすぎるからだ。樹でもいしでも山でも時間感覚が違っている。だから自然と一体化することは時間がかかるのである。やはり一生住んで死んでその土地の土となるというのが生き物として自然なのだろう。そういう根源的場としての故郷を奪われたらどうなるのだろうか?それが現実にこの辺で起きている。だからそのことに納得いかない人が出てくるのは当然である。金もらって他で住めばいいじゃないかと簡単にならないのだ。そこに原発事故の深刻さがあったのでありそうなってみて気づいたともなる。自分の故郷に家に住めなくなるなど考えた人もいないだろう。でもそれが現実化したときそのことを毎日考えることになってしまったのである。


故郷の川に鴨がいつもいる。今日は月がでている。ただそれだけのことだけどなじむというときやはり長年住めばなじむのでありそのなじんだ土地から離れるということはなかなかできないのが人間なのだ。残る柿というのもまたそうである。柿は何か土着的果物なのである。とにかく土地と一体化して生活している農家の人だったらもっと故郷や自分の暮らした土地から離れることは考えもしなかったろう。そういう人達が都会に住み離れて仮設住宅に住んでいる。避難した人達でも老人が多いのである。津浪の被害にあった地域でもなかなか元の住んだ場所にもどれないのである。だから残る残れないとか離れられないとかがテ-マになっているのだ。


橲原の奥には森があり大きな石があった。それは橲原から一体化してあったのだ。自然は村でも全体として存在している。村はそもそも自然と一体化して長く存在していたのである。その村が消失するということはどういうことなのか?そのことが現実化してもそれが現実と思えないのである。それは津浪の被害にあったところでもまだこれが現実なのかと納得し得ない面があるのだ。心が何か宙ぶらりんのようになっていないか?落ち着くべき故郷から土地から遊離してアイディンティティを失った状態にないか?もちろん自分は30キロ圏外でそうする必要はないにしろ回りがそうなのだからその影響を強く受けている。だから心が落ち着かず宙ぶらりんな心になってしまうのである。南相馬市では現実に働き手が若い人が避難して帰ってこないとか正常な生活にもどれない、働き手がなくなれば街を維持できないという深刻なものとなっている。でも放射能汚染で若い人が生活したくないとしたら留めることもできない、そしたら老人だけが残る。でも老人だけでは市の生活を保てなくなる。
最期は姥捨山になるのか?なんかそんな不安から逃れられないのである。

 

2011年12月08日

冬椿の城下町(相馬藩-随筆-1)


冬椿の城下町(相馬藩-随筆-1)

城下町といってもどこに城があったのだろう。ただ濁った小さな堀があるだけである。最近新しい堀が発見されたことがニュ-スになった。堀はあそこだけではない広いものだった。防御のための城だから堀が広いのである。大手門も残されているがこれも小さな門でやっと馬一頭が通れるくらいの門である。大手門というと普通は大きな門をイメ-ジするがここは相馬藩は余りにも小さい。普通の農家の門と変わりないのである。滴水瓦が用いられているがたれもよくよく郷土史家などでないと興味を示さないだろう。一般には「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。青葉城には金箔の瓦などが発掘された。慶長6年( 1601)以後の作事(建築)に伴う瓦だとすれば、豊臣・徳川政権と伊達家との関係を知る上で、たいへん貴重な資料になりますと説明がある。この頃安土桃山文化の時代であり金色の障壁画が生まれた時代である。瑞巌寺には政宗が残した障壁画が残っている。信長の安土桃山城からも金箔の瓦が発見された。ただ相馬藩から発見されたのは堀だけだった。


相馬藩と伊達藩は仇敵であり関係が深い、そもそも相馬野馬追いが派手に行われたのはもともと軍事訓練であり伊達に備えるために大がかりになったのだ。伊達藩との境の新地には古くから住んでいる伊達氏系統の武家の家がありその家では相馬市と合併することをかたくなに拒んでいたという。そんな家があるというのも伊達の境に接していたからだろう。その家は今回の津波で流されてしまった。
相馬領のときの城代は,相馬の家臣である 藤崎摂津であったが、その子藤崎治部の代、天正十七年(1589年)に「伊達政宗」に攻め落とされた。それ以後は、新地・駒ヶ嶺一体は伊達の領地とされ、政宗は、この地を国境の城として大変重要視した。亘理美濃をはじめ、黒木中務、伊達忠宗、桜田玄蓄、新田下総、冨塚長門などの重臣を城代とし、仙台藩の支城となる。江戸中期の享保三年(1718年)から「宮内主税」が城代(領主)となった。

もともと相馬領であったが伊達政宗に攻め落とされた。他に相馬市の玉野も伊達と相馬の境だった。民謡にも残っている。


伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に・・


相馬のステ-ションビルの七階から磯部の方が見えた。磯部は壊滅した。磯辺小学校のある丘の上は残った。だから磯部へバスはでている。磯部の海岸沿いの町には一軒の家も残らなかった。土台のみが残った。ここまで死体が流されて来たんですよ,それを自衛隊の人が探していました。そんな話を聞くと本当に生々しかった。不思議なのは磯部の人は津波にほとんど警戒せず地震があって津浪か来るというとき海に出て津浪を見ようとしていた。見物しようとしていたというか警戒心がまるでなかった。この辺では津浪などここ400年来ていなかったのだから警戒もしない、津浪のことがわからなかった。それで津浪はどんなものかと見に行ったのである。その人の話では津浪の水が来てから小学校のある高台に車で逃げて助かったという。水が来てからも助かったのか?一波二波三波と来て一波はそれほどでなかったのだろう。テレビで見たあの高い波は二波三波だったのだろう。あの波に襲われたらひとたまりもなかった。家が津浪で吹き上げられたというから空恐ろしい光景だった。

津浪の恐ろしさはまざまざと見た。津浪の恐怖は一瞬にして人の命もすべてを奪ってしま恐ろしさだった。自然は人間側の事情を全く考慮しない恐怖だった。営々と海側を干拓して白砂青松の日本的風景を作ってきたのだけどそんなことを全く考慮しない、一瞬にして壊滅させられた。その恐怖は脳裏から離れない。特に肉親を奪われた人はとても忘れられない、この記憶は長びく、あまりの恐怖だった。自然は非情であり人間の側のことを全く考慮しない、情もない恐怖である。それをどう理解していいか今もわからない。


突然の死の衝撃



親は子に 祖父母は孫に

夫は妻に、妻は夫に

それぞれ語りたかった

しかし語れずに死んだ

一瞬にして津浪が飲みこんだ

残されたのは家の土台だけ

ただその上に茫然として立つのみ

多くのこと語りたかった

余りにも無常な不意なる死

自然はかくも非情なるものや

思わずに天に恨みの声があがった

その傷痕はあまりに深い

突然の死は語りたくても

語れない人を大勢もたらした

人は何も言えず死んだ

活きている人がその語れなかったことを

その無念を語りつづける

死者は沈黙して語ることができない

死者の口は閉ざされた

語れるのは生者のみなり



思ほえず津浪に死すや言うことなく土台のみ残り北風唸る

 


津浪は一言も言わせず命を一瞬にして奪ってしまった。だからこの津浪のことは形容しがたいのである。台風とか地震とか確かに自然災害の多い国だったが津浪の恐怖はまた違っていた。なんと形容していいかわからない恐怖だった。今もその恐怖はつづいている。相馬藩政記には確かに400年前の慶長津浪のことをが一行だけ記してあった。


「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。
400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。


700人が死亡したというから大被害の津浪があったのだ。しかしこの津浪について語られることはなかった。ただこの慶長津浪で津浪という言葉が生まれたから大きな津浪であり印象に残るから新たな名前がつけられたのである。その一ッ月後に城の建設がはじまったということはその津浪の被害の復興のためだったという説が出た。時期的に接近しすぎるから津浪の被害にあった今そう推定するようになった。ただこれは明確に検証はされていない、これだけの被害を出したのに記憶が少なすぎた。相馬藩政記は相馬では代替わりしていないので長く保存され外部から研究に来る人もいる。

しかし相馬藩政記の前は記録はない、神社はそれ以上に古い。でも謂われがわからなくなったのも多い。
松川浦の津宮(つのみや)は慶長の津浪のとき建てられたという、その神社に逃げて助かった人もいた。名前からしてこれは本当なのだろう。それにしても津浪についてこの辺ではあまりにも語られなかった。ただ松川浦の船を持っている人は船を沖に出して助かった船が多かった。ということは漁師仲間では津浪のことを知っていて警戒していたことになる。その他は全く津浪については警戒心がまるでなかったのである。これまでの津浪でもチリ地震の津浪でもたいしたことがないからあんな程度のものとして津浪をみていて警戒しなかったのである。

2011年12月09日

冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


fuyukusa12321.jpg



我が母の病に臥して冬の草


行き来する倉庫の道や冬の草


冬薔薇夕闇に浮かび消えにけり


大正生まれの女性はたいがい苦労している。貧乏な時代に生まれたし戦争も経験しているから苦労している。そしてたいがい機織り工場で働いた。女工哀史の時代でもあった。絹織物が唯一の輸出産業であり富国強兵のために過剰に働かされたのである。糸とりとして10年働いたというのは今や一つの日本の歴史を背負って働いたのである。そういうところは評価される。要するに一生が働きづめの一生だった。それがまたマイナス面として働くことしか知らない無味乾燥な人間を作ってしまった。
花一つにも興味を示さないというの人間として生きたとは言えない。いくら貧しくても花一つにも興味を示さない、花がきれいだなと思わない人生は荒寥としている。別な見方をすれば働く奴隷にされたということである。そういう不幸な一生であった。遊ぶことを知らない人生もまた異常だった。

でも一般的にそういう時代に生まれ育ったのである。日本は資源ないから戦前でも輸出が重視されていたのだ。なぜ戦争になったかというと貧しさが原因でもあった。満州に進出したのも貧しい土地もない農民が多かったからである。今は工業製品を輸出していたが戦前は絹織物であり人間そのものを輸出する・かなく満州に進出したのが大戦のきっかけとなったのだ。大正時代は短いけど85から98才とかまだ高齢化で生き延びている人が多い。介護している人も多いのである。だから意外と大正時代は身近なのである。時代が身近に感じるのはやはり祖父母などが生きている時代までだろう。祖父母が生きていれば明治時代も身近なもの感じただろう。今や明治は遠くになりにけりであり明治のことはわかりにくくなっているだろう。大正時代が終わって昭和になったが昭和時代は長い。戦前と戦後ではまるで違っているから時代としての統一性がない。大正時代は短いがかえって大正生まれというとひとくくりになり統一性があり身近なのである。


大正生まれの人は食べ物に文句を言わない、こんなもの食いたくないとかあれが食いたいこれが食いたいともあまり言わない、それが一つの特徴である。あれだけ貧しい時代を生きたのだからそうなる。でも団塊の世代が80くらいになったら介護になったら食べ物にはうるさいだろう。グルメも経験しているからだ。団塊の世代はまた民主主義の世代でありそれも権利ばかり主張するから扱いにくい。そういう点で老人として今も嫌われているがこれからも嫌われる。人間として75才以上あたりも日本人としての気骨をもった人が多く好感がもたれる。良き日本人的なものが残された最後の世代である。70以下になるとそうした日本人的良さをもった人はいなくなる。おそらく戦後生まれは類型として人間が最悪なのかもしれない、日本人的モラルもないしただ自分の欲望を満たすだけの権利を主張するだけである。誤った民主主義の結果として最悪なのである。それでもすべてが悪いとはいえない、遊び上手だからこれから老人文化を作るようになるだろうといわれるのはそのためである。


つくづく自分は天才でないから今頃になっていろいろなことが理解できるようになった。本も山ほど買って集めて読んでもいたが理解していなかった。今読んでみると理解できる。深く読めるのだ。だから今まで買った本を読んで今度は自分なりの見識で文章を書くことができる。今になって見識が深まったのである。本を読むということはただ読んだだけでは知識とはならない、自分なりに編集して再構成するとき読んだとなるのだ。だから本を読むことは相当な見識が必要なのであり若いときは本を買うことはできても読むことはできないのだ。もちろん人によって違うが自分の場合はそうだった。それだけこの世のことを知るということ自体、時間がかかりすぎるのだ。いくら能力がなくても60過ぎたら必ずその人なりの経験で見識をもつことができる。その本が何を言おうとしているのかその趣旨がすぐわかる。するとそれに対して自分なりの見解も延べることができるのだ。だから今買いだめた本を読み返してこの本はこういうことを言っていたのかとたいがい理解できる。だからかえって読書の楽しみが増したとはいえる。若いときは本を読むというより読まれることが多いのである。本にのみこまれてしまうのである。今にあれば本を読んで新たな自分なりの創造的な文が書けるのでてある。

 

料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)


料理は文化である(郷土料理は貧しいからこそ生まれた)

 


昔のテレビドラマの中の、エピソードなのだが、
(題名も出演者も記憶に残っていない)
お手伝いさんが、「納豆汁」を作ったところ、そこの主人か誰かが、 「初めて食べたけど、おいしいね。○○ちゃん、君のいなかでは、よく食べるの?」と聞かれ 「秋田の湯沢では、冬にはよく食べますよ。」と答えたのを鮮明に覚えている

納豆 粒納豆でもいいが、ひき割り納豆の方が楽

味噌 やや濃い目にする
豆腐 好みで加減
山菜  上記山菜類好きなだけ
油揚げ 適当に
ねぎ  適当に
セリ 

http://kokis.client.jp/farmer/f14_nattojiru.html


納豆汁の由来は、万病防止と邪気払いのための正月行事・七草に関わります。その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです。
なぜ納豆汁かというと、内陸部の人々がタンパクの摂取と、冬の日照不足を補うために考え出された料理だからと言われています。かつては冬になると各家庭で作っていた料理で、体を芯から温めてくれる冬の代表的な郷土料理として親しまれています。
http://www.yamagatabussan.com/hpgen/HPB/entries/115.html


「きりたんぽ」が出来た背景には、秋田が米どころとはいっても、県北では、毎年、安定した米の収穫量を上げる というには、地理的条件・気象条件から難しいものがあった。

そこで、一回の食事の量をふやすため、おかずと一緒にすることにした。そのため、ご飯を杉の棒に巻きつけ、 囲炉裏の火であぶることに よって、日持ちを良くした。つまり保存食の役割も持っていた。
http://kokis.client.jp/farmer/f15_kiritanpo.html


郷土料理がどうしてできたのか?それは食糧になるものが不足している。貧しいからこそできたものである。食糧が不足しているから工夫して料理を作ったことから起きている。


その昔深い雪のため、春の七草が揃わないことから、代用したのがこの納豆汁だったのです


七草がないから納豆汁が替わりになったというのも同じである。材料がないからあるもので補うほかないからできた。キリタンポも米が不足しているから工夫して作った。材料が豊にあるから郷土料理ができたのではない、不足しているからできたのである。戦後まもなく食糧不足の時、すいとんがつくられたのもそのためである。すいとんは一度食道で食べたことがある。それは今になるとなつかしい味となり郷土料理とにている。貧しい時代、江戸時代などになればさらに各地に郷土料理があり
旅したらそういう郷土料理を食べられた。地域色が強いから旅はさらに興味深いものとなった。
旅することは地域地域の特色を知ることであるがその中に料理が入っている。でも現代ではグルメ旅行というときそれは豊かな時代のグルメである。郷土料理は貧しい時代の料理だった。食材が不足しても補う工夫した料理だったのである。だからこそ価値あるものだった。


テレビで琵琶湖の隠れ里として知られる管浦のことを放送していた。そこで出した料理はソバの料理だった。米がとれないからソバの料理になった。田んぼにするような平地がない土地だったからソバ料理になった。日本ではどこでも米が食べられたわけではない、会津は山間地だからソバが多い、檜枝岐などもあれだけの奥地で秘境であったからソバが主食になっていた。米が食べられるのは贅沢という面があったのだ。江戸では米は食べられた。でも脚気が江戸患いとして有名になったのは米だけを食べていたからであった。麦とか五穀を食べていた田舎ではなりにくかったのである。旅をしたが郷土料理を食べたことはない、郷土料理は今はかえって特別なところでしか食べられないし何倍も高くなる。だから旅しても食べるのはどこでも食べられるものである。そうすると旅の味わいも得られない。江戸時代なら必ず日常的に食べられていたものが郷土料理になっていたから土地土地で郷土料理を極自然に食べていたのである。


豊になった結果そうした地域の文化にふれることがなくなったのである。豊でなければ文化が育めないということではない、貧しいから郷土料理が生まれたことでもわかる。現代は食材は豊でも郷土料理が生まれていないことでもわかるのだ。地方だと常に貧しいとか何もないとか都会と比べる。しかし文化は豊かな都会に起こるとは限らないのである。貧しいことばかり嘆いていたことがこの辺では原発誘致になり自然そのものが破壊されて住めなくさえなった。住んでも回復するのが大変なことになってしまった。もちろん戦前は貧しく貧乏からの脱出が最優先の課題だった。でもあまりにも豊かさを追求した結果、原発事故になりとりかえしのつかないことになった。この辺では地域色を出そうとしても放射能汚染になったから自然が汚染されたからそもそも地域色を出すのがむずかしくなったのだ。そのことが大損失だった。いくら貧乏でも自然の恵みに生きることに欠けていたのではないか?その土地が汚染されて食糧すら得られないとなることは最悪だった。食が文化の根本だからである。


人間はその土地土地を味わうということが生きる意味なのである。アイディンティティになるのだ。浜通りだったら新鮮な魚を食べられることが喜びとしてあった。食だけではなくその土地の自然がアイディンティティになる。もちろんそこで生産されるものもそうである。日本酒のようなものはそうだった。酒はやはり昔は栄養補うものとしてあった。酒はかなり栄養があるものだったのである。今は栄養をとりすぎるからさけられるようになったのである。今は土地土地を味わうということがなかなかできない、だから旅しても印象に残らない旅となる。江戸時代の粗末な旅籠で郷土料理を食べていたときの方が本来の旅であった。ホテルとか豪華の施設を利用した旅は旅ではない、そういう点、一番旅しやすくなった現代から旅がなくなったというのも皮肉である。土地土地の味わいのない旅になったのである。本当に土地を味わう、人生味わうのは老人になってからかもしれない、山形の納豆汁を味わうのもまさに山形という雪に埋もれた土地にふさわしいものとして生まれた。山形弁というときこれは青森弁のようにより朴訥な感じになっていた。東北弁でももともとみんな相当な相違があった。仙台の語尾にだっちょをつけるのもそうだった。そのなまりも標準語化して喪失した。みんなきれいな標準語を話す、子供まで話すようになった。その時やはり土地土地の個性も失われたのである。これから地方分権だというとき文化の面でも新たな地方色を作る時になっている。それがこの辺で土地自体が汚染されたことは致命的だったのである。


 山形の納豆汁や冬深む


 

2011年12月10日

近江の短歌十首(春から冬まで-菅浦など)


近江の短歌(春から冬まで-菅浦など)


oumiheya222.jpg

 

伊吹山倭尊(ヤマトタケル)のここに死す春なお雪の残る山かも

関が原越えて近江や春の日に琵琶湖光るや大津に泊まる

三上山聳えて電車走り来ぬ近江平野に蓮華映えにき


三上山春の光に映えにつつ電車過ぎ去る一時眩し


(菅浦)


長浜はにぎわいにしを菅浦は道も途絶えて冬の日暮れぬ


菅浦に舟より静か高島を思ふやあわれ秋のくれかな


長浜の城は近きも菅浦の隠され長く冬籠もるかも


長浜に城建つ前に菅浦のありて古りしも社の氏子


奈良よりし代々つづく神主の菅浦に棲み冬深まりぬ


四足門菅浦に古り閉ざされし歳月長く言い伝えあわれ



越前は遠きにあれど都人行き交ふなれや冬の日暮れぬ


盗人恐れ荷運ぶ昔より舟の行き交ふ琵琶湖なるかも

 


地理がわかれば歴史がわかる。それを象徴しているのが関が原の戦いがなぜあそこで行われたかということである。まさに関が原が東西の分かれ目だったのである。関が原を越えると近江平野が広がり琵琶湖も見えて何か解放された気分になる。近江の安土に信長が豪壮な城を作ったのも長浜に秀吉が城を造ったのもその後の発展につながった。記憶では電車がひたすら走っているなかに秀麗な三上山が見える。春田が広がり近江平野の中に近江富士と言われる三上山が見える。記憶の中で旅しているときその光景がいつも浮かんでくるのはやはり近江が西国の入り口になっていたから印象的になる。大津を過ぎると家が多くなり印象が薄れてくる。京都は古い平安京を基にした都であり街であり街を知らないと京都はわからない、近江は自然に恵まれているし琵琶湖がありわかりやすい地形なのである。何よりも自然があるということで京都や大阪とは違っている。旅をして印象に残る地と残らない地がある。それは人によっても違ってくる。自分の旅では関が原から近江平野に出た所がいつもよみがえってくる。それは春の陽光のまぶしい日だった。伊吹山で倭尊(ヤマトタケル)が死んだの意味深である。なぜあそこで死なねばならなかったのか?東国の遠征から帰り西国の入り口で死んだのである。これも何かしらの歴史的事実を反映している。


長浜には行っていないし、菅浦にも行っていない、近江といっても広いから比叡山や比良の山の方も行っていない、近江は全体的にわかりやすいがなかなか全部を知ることはむずかしい。地理は実際に現地を踏まないかぎりわかりにくいのだ。福島県の地形のことを書いたけどここも広いから福島県全体を知ることはむずかしい。会津と浜通りは全く違った地形であり自然なのである。会津といっても奥深い、琵琶湖も奥深い所に菅浦があった。想像だけでもそういう所があるということを知って魅力を感じた。本当に最近まで道も通じない秘境だったらしい。道がないとしたら舟で行き来するほかない、それで小舟があった。海老などをとっている所もテレビで写していた。高島の方に舟で行き来するとしたら高島の方と交流かあり陸路は途絶えているから高島の方に思うということがある。

現代では秘境はなくなった。秘湯を求めて旅している人もいる。檜枝岐などは平家落人の村で秘境だったけど今は尾瀬の登山口でありそういうことはない、秘境など今どきないだろう。車でどこまでも行ける社会だからである。ただ菅浦は地理的秘境の条件を備えていたのである。実際に神主が奈良時代までさかのぼる系図を見せたからあながち嘘とは言えない、この辺はみちのくとは違ってそれだけの歴史があるから信憑性もあるのだ。長浜は秀吉の城が造られて町ができた。菅浦はその前に集落としてあった。ただ田んぼなどないから食糧をどうししていたのか?もっと昔になるとやはり後ろが山だから焼き畑だったのだろう。琵琶湖の魚はそれほど食糧にはならなかったろう。ソバが米替わりになっていたことはやはり会津の山の奥とにている。


16世紀の末に長浜城主だった秀吉が、男子が生まれたのを祝い、町衆へ金子(砂金)を与えました。これをもとに町衆が曳山をつくり、八幡宮の祭礼に曳いたのが、現在の「曳山まつり」の始まりといわれています。
また、湖北地域は中世から猿楽が盛んで、そうした芸能の土壌が、この祭りにも大きな影響を与えたと考えられています。


長浜は近いけど菅浦はその頃も秘境のままだった。道が通じていなかったからだ。高島の方に舟で行けたからそっちの方が親近感をもって
いた。交通の便で親近感をもつところと持たない所がでてくるのだ。例え外国でも頻繁に行っていれば親近感をもつ、相馬だと会津は遠すぎるから疎遠になるが仙台は電車で行けるから親近感をもつ、でも常磐線が5年くらい仙台まで通じないとなると疎遠になるのだ。現実に今年は一回行った限りで行けない、代行バスだと遠いのである。亘理が最終7時ころだとするとさらに行きづらくなったのである。交通が閉ざされると江戸時代にもどったような気分になるのだ。車がない人は余計にそうなるのだ。

 
 

2011年12月11日

この国は会社も政府も腐っている、と 日刊ゲンダイ (福島県も腐っている)


この国は会社も政府も腐っている、と日刊ゲンダイ

(福島県も腐っている)


http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/20110704-1.html

watanabe1111.jpg

政経東北12月号


国民が腐っている。
右も左も腐ってる。
金持ちも貧乏人も腐ってる。
男も女も腐ってる。
大人も子供も腐って


貧乏人も腐っているというところがミソ、清貧なんていう言葉もすたれた、貧乏人でそんな人はいない、ただ金持ちをうらやましがっているだけ、あいつうまいことやっているな、俺たちにおすそ分けはない、働いたって馬鹿らしいよ、正直者は馬鹿を見るというのは本当だよ、金持ちから金なんか盗んだ方がいいよ、おいしい思いをしていやつらは公務員のように泥棒なんだよ、天下りで何億とか濡れ手で粟に入ってくる、俺たちはいくら働いたって時給いくらだ、たかがしれているから働くのが馬鹿らしいんだよ、俺たちは金持ちの奴隷なんだよ、その金持ちは濡れ手で粟に金が入るやつだよ、努力しなくても金が入るんだよ、俺たちはいくら働いてもたかがしれている、金持ちの奴隷にすぎないんだよ・・・・


サラリーマン根性はマスコミも同じだろ
民主主義において一番神聖な職業でないといかんはずなのに
スポンサーや権力におもねったり
女子アナウンサーが取材対象の選手と交際するとか、プロ意識の欠片も無い世界


日本はもともと長いものに巻かれろだからな、おいしい思いしたけりゃ、上にごますって利益にあづかることだよ、マスコミには必ずどこからか金が回ってくるんだよ、宣伝費でかせいでいるんだから当然だよ、金をもらった会社は批判できないよ、東電ばどこでも金をばらまいたからな、文句言う奴はいなかった、それで今度の原発事故だよ、民主主義においてマスコミが大事なのは真実を知らない限り批判できないからだよ、日刊ゲンダイも腐っているからな、そんて子といえるのかともなる。マスコミは自分自身のことはさておき責任なんかとらないよ、弱いものをたたきおしいしところをちょうだいする、正義なんか追求していないからな、特に東電のような国家なみの巨大企業になったらとても批判なんかできないよ,権力をもっているものが情報も操作できるんだよ、情報など真実が先というより権力者の都合いいように操作されるんだよ、東電でわかったろう。何度もプルサ-マルで前の知事が指摘して改善を求めても何の反省もしない、うるさくいちいち言うなよくらいでかたづけられる、そんなことで知事も変えられたんだよ、渡部恒三一派によって追い落とされた、検察すらかかわっていた、権力者が腐敗したら下々もすべて腐敗するんだ、腐るんだ、上だけおいしい思いをしている、働くのが馬鹿らしいとなるんだよ、昔だったら奉公するということがあるけどその奉公する殿様が遊んでばかり浪費していたら奉公したくないだろう、商家だってそうだよな、奉公するにはその家に尽くすということだからな、馬鹿殿には誰も奉公したくないだろう。

上が腐れば下も腐るんだよ、一体天下りなんかどうしてできるんだよ、上はただ税金をかすめとり下々は働いて税金を納める気になるか?働くことが馬鹿らしくなるいだよ、そういうのは国から税金をかすめとる泥棒じゃないか?だから庶民も泥棒の方がいいともなるんだよ、昔の侍は庶民と同じく貧乏だった、ただ尊敬されたのは身分として高くされていたのは上に立つものとして自覚がありモラルがあったからだろう。今は官僚は身分化していて金も入ってくる特権階級だ、でも昔の侍のようにただ金になればいいとなっているから批判されるんだよ、上に立つものが責任も果たさなければ誰も責任なんかとらないよ、侍は切腹させられたけど上に立つものは切腹などさせられない、金だけたんまりもらってあとはしらないだからな、まあ、貧乏人もくさっているというとき、今の貧乏人は誰も尊敬したりしないよ、庶民は誰も尊敬しない、政治家も尊敬しない、ただ地位があり権力をもった人にはへつらう、医者でもへつらう、つまりへついこびるということしかないんだよ、もともと卑しいやつらだから上が腐ればますます下々その本性に拍車をかけて腐るだけだよ、もう見本となるべき尊敬するべきものなどない、ただ金を追い求め金を持っている人のみが偉いし目標なんだよ、上から下まですべてそうなった。そもそも庶民には何が偉いかなどわかりっこない、上が腐れば庶民自体が最も低級なものになってゆく、それが今の悲しむべき状態だよ だから橋下氏に人気がでた、すかっとしたんだよ、ともかくおいしい思いをしているやつらをばっさりだよな、悪者をつるし上げてばっさりやるから庶民はすかっとしたんだよ、そういう人が望まれているのも腐っているものを誰もばっさりやってくれないからだよ・・

福島県も何かおかしい、全体がくさっていたんだろう。なぜ政経東北で渡部恒三の文をのせているのか?渡部恒三は福島県をだめにした張本人の男じゃないか?そんな人の言うことをのせている。やっぱり金が回ってくるのかな、多分そうだろう。福島民報なども聖教新聞刷っているしな、ふくしま財界なども最初は原発を批判したけど二三回でやめた、あれは脅しでありあとから東電に金が入ってきたから批判するのをやめた、でも佐藤栄佐久氏を呼んでしゃべらせている、福島県人は渡部恒三等に怒らないのか、なぜ自分のしたことをしこ謝罪しないのか?庶民がくさっているというとき原発を誘致した人々も地元が加担したから批判できないのか?つまりみんな腐っているから原発事故も起きたんだよ、日本はなんらか大変革しないと腐り切って死んでしまうかもしれない、頽廃して滅びてゆく、双相地域の問題は双葉地域が欠けると南相馬であれ相馬市であれ影響が大きかったのだ。体が病気ならないと意識しないけど腕一本なくすとそのことを痛切に意識する、双葉地域も相馬地域も一体だった、一つの体だったんだよ、それが経済にもろに影響したんだよ、経済は双葉地域も一体となって回っていたんだよ、特に原発があってそれで経済も回っていたんだよ、直接の補助金がなくても双葉地域がうるおいば回りの波及効果があった、それは福島県全体にも及んでいたんだよ、浪江とか双葉地域から住民がいなくなったことでそれがわかった。その影響は南相馬であれ相馬市であれ大きかった。全体の経済規模が縮小したことの影響が大きい。

ああ 罪深い国びと、不義を負う民
悪をなすものの末・堕落せる子よ
イザヤ-1-4


その後あなたは正義の都
忠信の町ととなえられる
イザヤ1-24

どこに正義の都があるのか?いまだかつてなかった。すべては悪徳に染まった都じゃないか
この世に正義の都などありえない、忠信の町などもありえない、悪徳と不義の町じゃないか?
福島県もうつくしま福島などと宣伝していたがそうじゃない、やっぱり腐っていたんだよ、
福島県は自然が確かに美しかったからそういう悪徳が隠されていたんだよ、それが津浪とかで原発事故になり暴かれたんだよ、富岡町長の流された五億円の金庫とか、請戸の漁業権者が東電から5千万もらって御殿を建てたとかそういうことが今責められるようになった。暴かれたんだ。

posted by 老鶯 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年12月12日

抹茶飲む冬の朝 (高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)


抹茶飲む冬の朝

(高齢化で茶道が見直される-新しい老人文化が作られる)



yunomich1111.jpg


冬の庭茶を飲みゆかし書院かな
冬紅葉散るや静かに抹茶飲む


板葺きに石の屋根かな時雨ふる


街道の細道あわれ時雨かな


街道に栄えし家や冬の暮


中山道旅の道連れ時雨ふる



手にとりし茶碗の重し冬の朝石に向きつつ抹茶飲むかな


静かなる時の流れぬ冬の庭苔に日さして書院の主


二本松城内に残る茶室かな椿の落ちて井戸の深しも


相馬藩六万石の貧しさや茶室も残らず冬の日暮れぬ


金沢に買いにし茶碗手にとりぬ冬の長きを抹茶飲むかな


珈琲に抹茶を飲みて年も古る味わい深し冬のくれかな



高齢化で新しい老人文化が作られると書いたがそれにあっていたのがやはり茶の湯だった。やはり茶の湯は日本の風土にあっていたからこそ生まれた文化だった。茶の湯の道は日常的に茶を飲んで安らぐことから生まれた。芸術でももとは日常的な生活を基本として生まれた。それがとりたてて芸術だということはなかった。ただご飯を食べて茶を飲むのと抹茶だけを飲むのとは違っている。茶碗も特別なものであり抹茶の味わいはまた別である。茶の湯の道は日本だけで発展したのである。中国では芸術の域までにはならなかった。茶の湯は少ない人数で交遊を深めるものだった。大勢の社交とは違う。それも茶室は密室であり内輪のものとしての社交だったのである。それでも濃密な人間関係の場として設定されたのである。一期一会とか出会いを大切にしたのである。何よりも茶の湯を本当に味わうには江戸時代のような悠長な時の流れにひたらないと茶の湯を知ることはできないだろう。


例えば茶の湯は生活そのものにあった。二本松の城内に茶室があるけど井戸もある。その井戸はかなり深い。その井戸水を利用して茶の湯の水が使われた。水道のような水だったから便利でも茶の湯にはふさわしくない、深い井戸から冷たい清水をくみあげることからすでに茶の湯ははじまっていた。その一連の不便な動作のなかに茶の湯もあったのである。便利になりすぎたらこうした文化的なものは理解できない、現代はまず時間がないということで時間に追われることでこうした文化的なものが生まれないのである。いくら豊になっても時間貧乏になっているから文化が生まれないのだ。料理でも素材が貧しくても郷土料理のように工夫して手間暇かけるとそれが今にも残るおいしいものとして他から来た人に喜ばれる。そういう時間がないから現代ではインスタント文化になってしまったのである。


文化創生のためには時間をもつべきである。それが高齢化社会で退職後時間がもてるようになる。それで新しい老人文化が生まれということがある。江戸時代に隠居文化が生まれと同じ様に現代にも生まれる。その象徴がコ-ヒ-も抹茶も飲む、ヨ-ロッパの文化と日本の文化のブレンドが日常化していることである。コ-ヒ-の味わいと抹茶の味わいは全く別のものだけど西洋と東洋をブレンドしたように味わっているのである。どちからがその味わいが深いかというとどうしてもやはり茶の方である。その渋い味であり何とも心落ち着けるのが抹茶の味だった。最近わざわざ茶の湯の作法で抹茶を作らなくてもインスタントで飲めるようになった。それはインスタントで茶ではないにしろ味は抹茶の味であり楽しめる。その味わいを楽しむことができる。つまりコ-ヒ-も抹茶も楽しめる時代なのである。


茶の湯となるとどうしても豊かだったところにその文化が伝えられた。金沢などがそうである。加賀百万石だから華麗な文化が残された。相馬藩は六万石であり文化的な面では豊でないので残っていない。それでも相馬焼きは発明であり残った。ただ城には茶室もないし何も残っていない。でも一応城下町だから茶の湯を味わうには適している。茶の湯も城下町にふさわしいとなる。そういう背景雰囲気は歴史は作れないから貴重なのである。

 

2011年12月13日

年の暮(久々に仙台に行く-欅並木の鳩)

 

年の暮(久々に仙台に行く-欅並木の鳩)

keyakihatooo1111.jpg


街中に蔵ある家や残る柿


仙台にも仮設住宅年の暮


長々と棚引きにける冬の雲電車通らず久しくなりぬ


新地にそ家並見えず迫りける寥々として冬の海かも


黒々と枯木の影や動かざる老いて離れじ故郷に棲む


雪けぶる蔵王を見ゆや久々に仙台に来て年も暮れなむ


仙台の枯木並木に鳩並びとまり冬の日平和なるかも


仙台の欅並木に冬日さし喫茶店にそ本を読む女(ひと)


仙台の通りになほも散る木の葉通り歩みて年も暮れなむ


ようやくに仙台に来て喫茶店に我が休みつつ落葉踏み帰る


雪かきに会津の人となりにしやいつの日帰らむ年も暮れなむ


磐城より職人来たりて屋根直し年も暮れなむ福島思ふ



仙台に来たのは8か月ぶりだった。阿武隈川から蔵王が見えて雪だった。本当に久しぶりだった。やはり時々都会の空気を吸わないと気分転換にならない。仙台は都会でも欅並木がいいし木の葉がまだ散っていた。仙台は都会でも情緒がまだある。欅並木の通りを歩み喫茶店に入り本を読むのがなんともくつろぐ。それが何か文化的というかやはり相馬では味わいない都会の雰囲気である。これは仙台でしか味わいない、あの欅並木がやはり効果的である。


その欅並木の太い枝に鳩が身を寄せ合うようにして並んでとまっていた。それがなんともほっとしてよかった。その姿を見たとき子供の頃を思い出した。みんなで無邪気に体を寄せ合って集まっていた。その時ただ無邪気だった。互いに心も身もよせあいあたたまっていた。おしくらまんじゅうとかの遊びも思い出した。鳩は無垢を現しているのだ。ともかく津浪やら放射能やらともう世界の終わりのようなことを経験したので仙台は平和だな、あの枝に並んだ鳩を見てほっとしたのである。ただ仙台の長町に仮設住宅が建っているから仙台にも影響している。仙台で金を使う工事関係者などがふえて景気いいというのもそのためである。ともかく今回の津浪、原発事故の影響は長びく、心に対して影響が大きすぎるのだ。以前として津浪の跡を見ると荒寥としてしまう。仙台から相馬の方に帰っても津浪の後遺症は自分自身は被害にあわなくても消えないのである。家がなくなってしまった、人が死んだということの傷痕が大きすぎたのである。その傷痕はなかなか消えるものではない、実際に被害にあわなくてもその荒寥とした風景が心に刻まれるからである。


そして原発事故で各地に散らばり住んでいる人が大勢いること故郷に変えれず今年が終わろうとしていること動乱はつづき年が暮れる。それでも枯木の影が黒々として写っていたように老人になるとその土地から動けなくなる。だから老人が移住を強いられたことは過酷だった。なれ親しんだ所から離れるということは過酷だった。人間は年とるとその土地と一体化してゆく、そういうのがそもそも生き物であり本能的なものともなっているから土地から切り離されることは何か本源的アイディンティティを奪われるようになるので辛いのである。


屋根を直して70万かかった。屋根のマルイチとかの会社であり本社は水戸にあるみたいだ。郡山とか磐城にも支社があるみたいだ。屋根はどこもこわれたからまだまだ直していない所がいくらでもある。この辺の職人だけでは手が回らない。なんとか屋根を直したのであとは安心である。家持っている結構金かかる。この家は直すのに一千万はかかっている。ともかく自分の家に住めるからいいとはいえる。他では会津の仮設住宅とかに住んで雪かきしていた。大熊の人だった。そういう人を見ているとまだいい方だとなる。

雪かきをして会津の暮らしを身をもってしるというのも想像もしなかったろう。ともかくこの辺はこれからどうなってゆくのか、電車は21日から相馬-原町間で通るから便利になる。相馬から亘理のバスの便は多い。一時間おきに利用できるとなると仙台が遅くても電車で変えれるから便利である。亘理を7時が最終でありこれにのらないと原町までは帰れなかった。今度はそれより遅くても相馬から電車で帰れる。


鳩の写真はカメラ忘れてとれなかった。鳩の写真だけをとっていたサイトがあった。やはり写真は一回限りのシ-ンがあったりするから貴重である。同じ写真が他にない場合は貴重なのである。
身をよせあって並んでとまっていた鳩の写真をとれば貴重だった。今は写真を見せないと訴えない時代だからだ。なんとか絵にしたけど雰囲気は伝わったと思う。

 
 

2011年12月15日

失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)


失われたアイディンティティ(なぜ故郷を離れられないのか?)

identify  identification


identification (with someone/something)
a strong feeling of sympathy, understanding, or support for someone or something
her emotional identification with the play's heroine
their increasing identification with the struggle for independence
5 [uncountable, countable]
identification (of someone) (with someone/something)
the process of making a close connection between one person or thing and another
the voters' identification of the Democrats with high taxes


アイディンティティという言葉は今や庶民レベルでも使っているし日常語化したのかもしれない、なぜこれをとりあげたかというと原発事故で故郷から離れる人などが多数出たことである。津浪の被害でも故郷を離れる人がでた。故郷にすめなくなった人たちが多数生まれた。個人的ならそういうことはあった。啄木でも放浪の詩人であり望郷の詩人となったことでもわかる。東京という都会で自然の中にある故郷を偲んだのである。


ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな


やわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに


ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく


啄木は故郷を離れた時、痛切に故郷を思った。そして故郷に帰れずに死んだ。ふるさとの山や北上川の柳とかが目に浮かんできた。それは自然と同一化していた一体化していた自己を発見したのである。それは天才的詩人の感受性をもっていたからそうなった。普通の人は望郷の心はあってもこんなにならないだろう。震災で被害を受けた人が仮設住宅などで作った短歌などを紹介しているが川柳的なもので短歌とはいえない。芸術は基本的に自然と密接にコミットしたとき生まれる。自然との共感が芸術の根幹にある。啄木は自然と深くコミットできたということが不思議である。やはり天才だから十五才の頃から自然と共感できていたから不思議であり普通の人には理解しにくい、それだけ早熟といえばそうなのだが自然と深く共感するには相当な歳月が必要になるからあんなに少年の時期から自然と共感できたかことが理解できないのである。天才のことは凡人にわからないといえばそれまでであるけど自然と共感することは欲望に満ちている若いときには普通はできない。欲があると自然と共感しにくいのである。啄木も病気になって野心とか欲がそがれて自然と共感できたという側面はあった。「ふるさとの山はありがたきかな・・」ということは病気の結果謙遜になったのである。それまでは天才ということでかなり奢りがあったからである。ともかく自然と共感することにアイディンティティを見出す、アイディンティティの基本は自然にある。日本人のアイディンティティが万葉集とかにあるというときまさに大和が今の奈良がアイディンティティになっている。その土地が日本の故郷でありアイディンティティになっている。ナショナルアイディンティティになっている。


なぜ盛んにそんな放射能汚染地帯になど住めないのだから故郷を捨てて移り住めとか他の人は無責任に言うけど日本人のアイディンティティは農民であり土地にあるから簡単に故郷を捨てて移り住めない。故郷を離れて住めなくなるというときそのアイディンティティが断たれるから深刻になる。
アイディンティティという言葉の意味はわかりにくい、どういう言葉なのか訳すこともできないし多様な場面で使われる。正体とか身元とかになるけど実際はこれは深遠な言葉であり哲学的な深い意味をもっているから定義できない、けれども今や頻繁に使う日常的な言葉にもなっている。アイディンティティが失われると存在意義が失われる。


fundamental identification
deeply identified one
deeply commited identification
solid identification


根源的なアイディンティティ、深く自己同一化、共感された一つ、深くコミットされた一つのものとして故郷があった。それはすべて説明することはできない、牛を飼って生活していた人は牛とまた生活したいと訴えていた。それも牛にアイディンティティを見出している。牛と共に生活することがその人の共感であり生きる存在意義をもたらしていたのである。fundとはfindから来ているから見出すとなるとアイディンティティはまだ見出されていないものある、発見されたものもある。牛とともに生活することが俺のアイディンティティだった、存在意義だったと発見している人もいるのだ。

故郷というとき相馬藩時代からでも長い時間の中でアイディンティティが作られてきた。歴史的アイディンティティはどこにでもある。ヨ-ロッパだとロ-マ時代からつづく歴史がありアメリカ人がロ-マを訪ねるとき自分たちのル-ツをたどり自分たちのアイディンティティを見出す。常に人間はアイディンティティを探し求めている存在でもある。

ともかく故郷とはそのアイディンティティが凝縮した場でありそういう場を離れたらアイディンティティが存在意義が失われるから深刻になる。それでなぜ移住しないのかというときそうした深刻な人間のアイディンティティの問題があるからこそそのアイディンティティとなる場に故郷に帰りたいとなるのだ。普通に故郷に住んでいればそんなことは意識しないのである。当たり前のことだから意識しない、原発事故で浪江とか双葉とかの住民が消えたときその隣の市町村の影響も大きかった。なぜなら普通は意識しなくても経済的に一体化していた。金もその中で回っていた。原発からの金も実際は直接もらえなくても金は回っていた。経済効果はあったのである。実際に原町から大熊に働きに通っていた人もいた。経済は今やギリシャがどうのこうのと世界の果てまで関係しているし影響を受ける。近隣の市町村だったらなおさら大きな影響を受ける結果になったのである。


 鶉鳴く古りにし郷の秋萩を思ふ人どち相見つるかも   万葉集巻八 (1558)


鶉はどこでもいつでも、簡単に鳴く鳥ではない。鶉は長い年月を経て来た故郷でしか鳴かないし、聞けない鳥である。
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/5102080.html

鶉など鳴いたのを聞いたこともない、鶉の卵は売っているし食べている。だけど鶉を今知っている人はほとんどいないだろう。江戸時代までは普通にみかけた鳥だった。
そのあとの説明も自分がこの歌から感じたことを言いわてていた。秋萩を思ふ人どち相見つるかも・・・ここで故郷で鶉を鳴く声に秋萩を見て共感する人がいる。万葉集は常に自然と人間と共感している。だから相・・・ということが必ずつけられる。我(われ)が実は割れたということから発したというとき、まさに万葉集時代は我という孤立した概念はなく相・・・という共感した存在しかなかったのである。自然と共に人とも共感してアイディンティティが作られていたのである。

making a close connection between one person or thing

英語で説明するとこうなるのだう。

co・・という接頭語は共同という意味だから相と同じである。ただこのcoは二人というのではない、ある一定の数の共同に由来しているのが違っている。そこにアイディンティティ、共同、共感があったからである。

そこにfundamental identification があったとなる。根源的な存在意義がアイディンティティが無意識の内に作られていたのである。意識しないからこそ深いアイディンティティのうちに生きていた。アイディンティティがないとか存在意義がないとか現代人のように意識するようになったらその時アイディンティティを失ったからこそアイディンティティを求めていることになるのだ。


 

2011年12月16日

冬紅葉-冬の蜘蛛


冬紅葉-冬の蜘蛛

jisafuyumomihi111.jpg


fuyumomijiiii222.jpg


塔古りて古都の寂けさ冬紅葉


冬紅葉築四十年の家の主


磐ひびく冷たき流れ冬紅葉


餌を待つ蜘蛛もあわれや小雪ふる


我が家に不気味な一点冬の蜘蛛



橲原の奥や訪ぬる人のあれ冬の紅葉の夕日に映えぬ


赤々と冬の紅葉の映えにける我が家も古りて小雪ふりつつ


この夕べ枯葉に雪のつもりつつ蜘蛛の巣張りてなお生きるかも


この岩の津浪の猛威をもろに受け残りて重し年も暮れなむ


大きなる津浪に残る庭の石時折人来て冬の日暮れぬ

kumonewwww111.JPG

クリック拡大!


今日は寒いと思ったら雪ふった。小雪でもやはり寒いからふった。ここは長くは雪はふらない。会津だとこれから毎日雪である。仮設だと寒いし会津の雪ははじめての経験だろう。旅行するのとは違っている。毎日雪だとということは陰鬱になってしまう。冬紅葉がきれいだ。この冬紅葉がなんともいえぬ美しさがある。やはり老年は冬紅葉なのだ。なんとも心にしみる色である。京都辺りも冬がいいということもある。ただ冬には行っていない、人が多いと情緒がなくなるんだよ、修学旅行生などがうるさい。プログでずっと前に紹介した橲原の冬紅葉がいい写真だと我ながらふりかえった。この辺の写真は相当とっている。この辺は結構自然に恵まれた所だった。それが放射能でだいなしにされてがっくりきた。どうしても放射能というのが最初に来てしまう、でも橲原渓谷の奥の冬紅葉はやはり同じように見れるし変わらない、放射能でもどこが汚染されているかわからない、水は澄んでいるし見た目は前と同じなのである。そこが放射能の不思議だった。木が枯れるとかそういう被害がないからどこが汚染されたかもわからないのである。


ともかくこの辺は本当に静かないいところだったのである。橲原が奥座敷としたときあそこもいい場所だった。それが放射能汚染で住めなくなるということが信じられないのである。どうししても落ち着かないから嫌になるのだ。文化的なものもこうなるとあとまわしにされるだろう。茶の湯がどうのこうのより生活の基本となるものをなんとかしろとなる。そういう余裕がこの辺りではなくなる。
田んぼが荒地となっていること自体荒寥としてくる。別に食糧は金さえあれば入ってくるけど他から農家でさえ米を買うなどという生活は尋常じゃない、文化は生活の安定があって余裕があってできるものである。それがないとしたら文化的生活そのものがなくなる。食べれるだけでいいとかなってしまう。


蜘蛛がまだ生きていた。この蜘蛛も不気味であった。今日は枯葉に雪がつもり蜘蛛が映えていたというのも不思議な光景である。蜘蛛も餌をとらねば死んでしまうだろう。今餌はなくなってゆく、しかし蜘蛛の巣を張って待っているほかない、最近二人殺した人いたけど刑務所から出たばかりだった。職もなく金もなかった。そういう人がどうして資産家と近づいたのか?いかにこういう人が危険なのか知らなかった?借金している人や金に飢えているような人は本当に危険である。そういう人は凶悪な犯罪者になりやすい、そういう人が家に入って来たらもう犯罪を防ぎようがない、そういう経験したから本当に追い詰められた人間は怖い。何するかわからない、人を殺すことも追い詰められているからやる。そしして誰かがそういう人の犠牲になるのだ。そもそも刑務所から出て仕事もないのだからまた犯罪を犯しやすい、そのあとのケアがなかった余計にそうなる。そういう人を野放しにする怖さである。野獣を野に放つ怖さである。もっとそういうことは注意深く見守る必要がある。


津浪で庭の大きな石が残っていた。そこにたまに人が訪ねる。その石は家にあったのだから人の情が移った石でもあるのだ。石はその家の人を待っているのだ。樹でも同じである。人間化した樹や石なのである。だから飯館村でも他にも浪江でも人がいなくなった所は以前としてそこにあったものは人を待っているのである。でも子供が帰れない,孫が帰れないと帰ることをあきらめたという人がでてきている。やはり家族は若い人がいないと成り立たないだろう。老人だけでは世話もされない、そこで孫とか娘、息子と一緒にいるために帰れないようになる。こんなふうにしてこの辺はいつまで放射能のことから解放されるのだろうか、つくづく放射能を知らず山眠るとなりたい、もう放射能のことを聴きたくないのだ。毎日毎日でありいつ終わるのか三十年四十年廃炉にかかるとかなるとうんざりしてしまうだろう。だからここに住みたくないという気持ちがわかる。津浪だけだったらこんなふうにはならなかった。放射能は先が長すぎるから困るのだ。

 
 
 

2011年12月17日

相馬藩六万石-冬椿の城下町(随筆2-日立木の町場橋の情緒)

 
相馬藩六万石-冬椿の城下町
(随筆2-日立木の町場橋の情緒)


koizumihashi11111.jpg
クリック拡大!


日本の橋には長い橋より小さい橋が多い。小川が多いから小さい橋が多い。大きな長い橋は少ない、その小さい橋に情緒があり生活の匂いが残されている。人は必ずこの小さな橋を毎日渡るからである。

農人橋


農人橋の地名の由来は、その字の通り農民たちがこの橋を往来していたことに由来する。
幕末に暁鐘成という浪人が作成した『摂津名所図会大成』によれば、江戸時代この地は農村地帯で、耕作のため農民が東横掘川に農人橋を掛けて往来したとある

農民の住む場所が都会化して外の田や畑に働きにでるようになった。わざわざ農人橋とつけるのは鍬とか鎌とか農具などをもって外に出る人が目立ったからだろう。大阪でも江戸でもあれだけの都市でも農民の匂いがしていたのである。


泪橋


これら泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた


神田川 140の橋があった

むつみ橋 夕やけ橋 よしきり橋(よりきりばし 鎌倉橋 蔵下橋


面影橋

「俤橋」とも書き、古来から「於戸姫(おとひめ)」の伝説で知られる橋である。

小川氏の友人が娘の余りの美しさに小川氏を殺害して娘を奪おうとするも、娘がその友人を殺害。娘は自分の美しさを恨んで、黒髪を切り落とし、そのまま神田川に身を投げたという。
村人達はその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたというのである。


浅草橋
http://kandagawa.kingtop.jp/kanda_139.html



日本の橋のあわれ



人は歩いてこそもののあわれを感じるもの

古より日本に小川の多く橋の多し

神田川に140の橋のありと

むつみ橋 よしきり橋 ゆうやけ橋 面影橋 鎌倉橋 浅草橋 蔵下橋・・・・・

江戸時代よりの橋もあり

新しい橋の名もありと様々

橋をわたる人の生活がある

相馬市にある小泉橋も椿橋や

冬椿がその古い橋ににあっている

日本の小さな橋には人々の生活がしみこんでいる

それ故には橋には情緒がある

それも歩かなければ感じられない情緒だ

車で通りすぎては感じない

歩いてこそ昔を偲ぶことができる




神田川の橋は江戸時代から名づけられたものもあるが最近名づけられたものもある。橋がすべて古いとは限らない、やはりいつの時代のものかが問題になるのだ。ただ橋は地名を由来としているから
その名も古い、鎌倉橋となれば鎌倉街道に由来しているのだから古い、面影橋の由来も古代にさかのぼる。ゆうやけ橋などは新しいものだろう。そんな詩的な名前を普通はつけない。よしきり橋はよしきりが鳴いている橋だからそうなった。よしきりは良く鳴くし良く人が通る橋だからその名がついたからふさわしいといえる。むつみ橋も睦み合う橋ということでついた。小さな橋は日々の生活の中にとけこんでいたのである。

十二月までは冬椿であり寒椿ではない、冬椿というと何かまだあたたかさを感じる。街を歩いても寒風は吹きつけない。相馬辺りはそもそも雪もふらないしあたたかいから気候的には恵まれていた。
小泉橋に赤々と冬椿が映えていたのが城下町ににつかわしかった。


日立木の町場橋(まちばはし)

tubakigennkounew1111.jpg
クリック拡大!

人間は意外と身近な場所を知らないものである。灯台下暗しである。浜街道の日立木村の入口に町場橋とあったのを知ったのは最近のことである。そこにあった薬師堂のことは前にも書いていた。あそこには江戸時代の古い碑が多い。飢饉の供養の碑もありあそこには人の出入りが多かった。薬師堂というとどこにでもあるけど今どき病気だからと祈りにゆく人は今はいない、みんな病院にゆく。しかし江戸時代は病院には行けない、医者にもめったに行けないだろう。とすると薬師堂とか地蔵さんに祈るしかなかった。それで薬師堂には人が集まっていたにちがいない。日本では町というとき村の中に町があった。町はマチであり一区画のことである。村の中に町があったということ自体、いかに日本人の生活基盤が村にあったかわかる。農人橋というのももともと町が大きくなって農民が町の中に残された。こういうことは大阪とかの大きな町で生まれたのであり他では村の中に町があったのである。その一区画で商売などを許されたりした。村外の人が集ったのである。

日立木は明治時代以降合併して生まれた名前でありその前は日下石村、赤木村、立谷村であった。

飯館村も飯曾村と大舘村がが合併して生まれ名前である。でも今やその地名が定着している。最近合併した市の名前などはまだ違和感がある。南相馬市などもそうである。他から見ても相馬市と南相馬市を混同しているだろう。その区別がつきにくいだろう。陸前浜街道で一番当時の面影を残している場所が日立木から松並木のある所になる。だからまちば橋というのは街道の情緒を色濃く残している場所だった。百尺観音などは明治以降建てられたものでありただ大きいということであまり価値がない。そもそも歴史的価値あるものは後世の人が発見するものであり忘れられていることが多いのである。自分の住んでいる場所の価値を知らない人が多いのである。原発事故になり故郷に住めなくなって故郷は何なのかということを日々問うようになった。東京辺りのマンションなのか団地なのかそういう所で暮らしている人もいる。一人だけが啄木のように望郷になるのではない、町や村から人がいなくなるなど想像もしなかっただろう。でも現実にこの辺で起きていることなのだ。

街道はどこでも「奥の細道」というように細い一すじの歩く道だった。その感じは日立木から相馬市の城までつづいている。昔は現代の多忙な騒音の中に消されたようになっている。しかしあそこの町場橋の所にたたずむと何か昔に還ったような気分になる。夕蝉がひびく、秋の蝉が名残惜しく鳴く声が聞こえる。やがて冬となり北風が吹く、あの松並木に北風が鳴る。今なら確かに相馬の城は近い、でも実際は歩けばそれなりの距離になる。だから城が近いのだけれど遠くもあるという感じになる。そこでまちば橋というのが心に残るのである。城のあるところが本来の町だけどそこまでは遠いからここが町場であり町場橋となる。昔の人はともかく遠くに行くということはなかなかできない、歩きなのだからできないから日常は近辺でまかなってきた。商店街があるときも隣に魚屋だ雑貨屋だ豆腐屋だとかあった。近辺で日常の生活をまかなっていた。

江戸時代の村になればさらに近所の中で自給自足的に生活していたのである。現代からすると車社会になったときそういう生活が想像しにくくなったのだ。要するに車社会を昔を想像する力を人間から奪ったのである。便利なものは人間的なものを奪うのである。

二本松城内には深い井戸があり椿が散っていた。その中に茶室がある。するとその深い井戸から清水をくみ上げて茶の湯をたてる。するとその過程自体がすでに茶道になっている。水道で簡単に茶をたてていたら茶の湯にはならない、それだけ江戸時代は時間はゆっくりと流れていたのである。そこに濃密に人間と交わる空間と時間があった。だから茶道もふさわしいものだった。

駕籠で街道をゆくこと自体どれだけ時間と労力がかかるか想像すればわかる。なぜ籠などで人を運んでいたのか?それ自体不可解だとなる。技術力がなかったといえばそれまでであるがそんな原始的な方法しかなかったのか不思議である。馬も利用していたからである。外国では二輪馬車があった。そういうものさえなかったということ自体江戸時代の時間感覚は今では想像しにくいのだ。ただ町場橋でも城へ通う人はいた。戦後でもリヤカ-とかで鹿島区の横手から梨を売りに行っていたという女性がいたから城の中には松川浦からも魚が売られたしいろいろなものが運ばれ売られたのである。


「金沢の浅野川に架かる七つの橋を回ると願い事が叶う」とはいうて 
は叶わなくなるって、伝えられている訳。   ・人と出会っても口をきいてはいけない、話しをしたら願い事はかなわない、必ず一筆書きのようにして回ること、同じ橋は通らない


思案橋

現在の八丁堀にある思案橋は江戸時代に
この橋に立って、芝居街にいくか遊郭に行くか思案したことから
命名されたとのこと


橋にはいろいろな話しがあるのは伝説もあるのは小さい橋は日常生活で必ず渡るものだからそうなった。外国でも橋は重要だが大きい河が多いから日本とは事情が違っている。でも河をわたることが大きな役割を果たした。シ-ザ-がフランク人を川に沿って追撃して最後は丘の砦を包囲して勝利した。川には橋がないから川にそって分かれて対峙した。riverはライバルであり川から発している。これも外国の川は大きいからそうなったのである。ルビコン川をわたったというのもそのためである。
今でも浅瀬とか牛がわたれるからオックフォ-ドとかそういう地名が残っている。川を渡ることが重要だったから地名化した。日本の場合は大きな川は少ないから小さな橋の情緒になった。日本の橋は大きな歴史的戦いとかより日常の生活に根ざしているもっと親しみ安いものなのである。





しぐるるや古き農家のたたずまい

夕蝉や立谷村の町場橋

日立木の町場橋や冬の暮

思案橋面影橋や冬の暮

立谷の町場橋や城離れ北風鳴りて今日は寒しも

松並木北風鳴りて街道の一すじ残る日立木をゆく

・・・・・・・・・・・・・・・

板葺きに石の屋根かな時雨ふる

街道の細道あわれ時雨かな

街道に栄えし家や冬の暮

中山道旅の道連れ時雨ふる

鏡池姫の面影写せしと上山城へ秋の夕暮
 


「思案橋」「面影橋」というのも小さい橋ににつかわしい。そこを日々人が行き来しているからだ。常に人はそこで思案しているからだ。面影を見るというときも小川に写すというのがにつかわしい。上山城へゆく七ヶ宿からの街道に鏡池があり姫が顔を写して化粧したというとき城が近いと現実味を帯びてくる。昔の街道にはやはりいくら現代の騒音にかきけされても昔が全く消えるということはない、一すじの街道から昔が浮かび上がってくるのはやはり人間の生活は昔と全く断ち切れてはいないのである。東京のようなところになると昔はもう埋もれて名前だけになってしまっている。中山道の妻籠や馬籠などは昔のままに街道の町並みも残した。その道は細いのである。石段が一段低くなっているところなど昔のままである。屋根に石を置いたところとかあういう所は時雨があっている。現代は時雨の情緒を味わうのがむずかしい。時雨は昔の街道のようにもの寂びたわびしい風景にあっている。山頭火の時代はまだそういう風景が残っていた。それで「うしろ姿の時雨れてゆくか」というのがまだあっていた。ここに車が突っ走る時代になるとあわなくなった。芭蕉のわび、さびは別に作らなくてもそういう風景だったのである。わび,さびを求めなくても回りがそうだったのである。
茶道にしても回りがわび、さびの風景なのだから別にそうした場面をあえて作る必要もなかったのである。 

 
街道にこうした昔の人の生活の記憶がそこはかとなく記されている。そして過去の記憶というのは長い時間の中で記されたものだから時間をかけないとわからないのだ。事実何度も行ってもう人生も終わりかというころにしみじみと昔を偲ぶことができた。それも最も身近な所がそうなのである。
歴史的なものは時間をかけて作られたものだから時間をかけないと理解できない、感じることもできない。旅行してちょっとそこにいただけでは理解しえないものがあるのだ。ヨ-ロッパなども歴史があるけどなかなか理解できないのは時間をかけることができないからである。だから原発事故で浪江町とか双葉町とかでも陸前浜街道のつづきとしてあった。もし人がいなくなればそうした個人的な記憶だけではない歴史的記憶も失われてしまう。そうした記憶はその土地と共に作られてきたからである。そういう記憶が人工的には作れないから貴重なのである。それらを失ったら歴史的継続が失われる。その生も浅薄なものとなってしまうだろう。だから簡単に故郷を捨てることができるのかとなる。若い人ならまた新しい人生の記憶を作ることができるが老人にはできない、老人の仕事は回想になるからだ。歴史の継続がたたれてまた新たな歴史を作るとなると容易ではない、だから北海道辺りでは相馬藩でも本州の方にル-ツを求めることに熱心なのである。
 


 

2011年12月18日

冬の菊-冬薔薇 江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


冬の菊-冬薔薇

江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


rosewwwww1111.jpg

tubakikakine1111.jpg

冬薔薇一輪痛む我がふれぬ


冬薔薇なお一輪の咲かむとす


はや午後や石に日のさし冬薔薇


大輪の十輪畑に冬の菊


城下町主君に仕え冬の菊


今日もまたよりそうものや冬の菊


午後静か冬菜に菊や飾らざり

冬なれどタンポポ咲くや浜通り


巣の破れ今日は消えにし冬の蜘蛛


代々の江戸の老舗や冬の暮


壺屋の謂われ伝えて年の暮

fuyunaiku11111.jpg

kiku10rin11.jpg




冬薔薇の写真をとったけど実際はこれだけではいつの季節なのかわからない場合がある。そこでまわりに木の葉が散っていることで冬だとわかる。つまり写生には奥深さ深みがある。単なる写生でもそうである。デジカメはだから写生俳句の道具としてぴったりなのである。忠実に写生する写し取るのがデジカメだからである。大輪の十輪の菊も写生である。何も説明しないで大輪の十輪の菊が咲いていれば圧巻である。でも冬になっているから微妙に色あせていることがこの写真から見る必要がある。写真だとこうした点まで見れない場合がある。写真が万能とはならない。椿の写真でもこれが冬椿なのかというときわからない場合がある。午後の日が静かにさしてなんともいえないなごみがある。ここは我が町に一軒だけある旅館だった。民宿でありそれなりに垣根をめぐらしている。垣根ということが日本的で椿にあっていたのだ。椿はそもそも南国系統でも日本化した花になった。薔薇も冬薔薇でもそうである。薔薇はもともと夏に咲いているもので冬ににあわないが四季それぞれの趣が生まれた。


菊というとキクでありそういう名前が日本では多かった。最近そうしたキクとかウメとかいう名前は消えた。菊というとき菊は忠節とか律儀とか何か精神的シンポルとしてあった。江戸時代はまさに菊が名前としてふさわしかった。名は体を現すであった。城下町に菊が咲いているというときその風景とあっていた。主君に仕える夫に仕える女性が菊なのである。それは日本の文化でもあった。

何度も江戸時代とかに帰る時代、国風文化の時代がくるというときまさに今がそうなのである。それはもはや単なる懐古趣味でもない、現実的問題として江戸時代への回帰が必要となっている。江戸時代の三百年に培われたものが何なのか?それが明治維新以後急速な変化で忘れられ失われたのである。だからそれを取り戻す必要が出てきたのである。それは根本的な日本人のモラルの点でもそうである。日常生活のレベルでも菊という名前が消えたようにまさに菊のような女性も消えた。仕えるということも消えてただ自分のエゴを主張するだけの女性となった。名前も何を意味しているかもわからない、菊のような女性になりたいなどということはもうない、名前からして何を意味しているかもわからない。そこに日本の伝統的なものが失われたのである。そういう卑近な所でも切実に日本人として失われたものを戻したいということがある。それはいろいろな面でそうなっている。


江戸時代の老舗というのをテレビで放映していたけど今にもつづいている。おそらく江戸時代の店とか農家でもそうだけど職人すら何代もつづいていた。そうした長い時間で培われたものがあった。今のように十年二十年とかで変わっていたら何かいいものはもの作りでも精神的な面でも養成されない。親子は一世、夫婦は二世、主従は三世・・・という言葉が残されている。この意味を何なのかというとわかりにくい。主従が三世ということがわかりにくい。今の時代なら主従関係などどこにもない、会社にしても同じ会社で社長に三世仕えるなどまれだろう。大きな会社ですら変わり方が早いからだ。江戸時代の老舗では勤める人も代々親子で三世で働いていた人がいた。奉公していた人がいた。主従が三世というときそれだけ結びつきが強い、一代で終わるような結びつきははかない。そこには長続きするものが培われないのである。主従が三世というときその結びつきは今の金だけ結ばれているとかではない、そういう利害もぬきにした強い絆があった。

それは今の時代では想像もできないものである赤穂浪士もそういう主従関係から生まれた事件であり今では馬鹿らしいとしか思えない。それは主従は三世という結びつきからそうしたことが生まれた。そこまで主君のためにする必要はないというとき現代の打算的な金銭でしか結びつかない時代とは雲泥の差があったのだ。江戸時代は今や単に懐古趣味で回想するというのではない、現実問題として現実社会に反映させるべきものとして江戸時代を見直す必要があるのだ。現代に失われたものを取り戻すには江戸時代を見直し現実的に反映させることが必要だからである。


口上に<町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店>わざわざ書かれているのは、それまで菓子業は関西から来た人間に占められていたそうで、江戸の町人が開いた店として「最初」なのだそう。禁裏御用を意味する御用菓子司となり、清水徳川家・一橋家のような大名を顧客にし、虎ノ門(西久保八幡町)にも店を増やすなど大いに繁盛していたようです。
http://www.gonzoshouts.com/place/1395/


これも興味深かった。江戸は関西から文化が入ってきた。江戸根元というのも面白い。なぜ壺の形の最中になったかというとその当時砂糖が貴重であり壺に入れて大事に使っていたから壺の形になった。そういうところからもものの大切さを学ぶ、そしてその味をゆっくりと味わうのが江戸時代に帰ることなのである。徳川幕府に世話になったから明治になって店をやめるとか言うのもやはり徳川家の恩顧を大事にしていたというのも今ではなかなかわかりにくい、徳川家の影響がそれだけあったということになる。そういう庶民的な所にも歴史が残されているのが江戸や京都だとなる。

浜通りとなると会津などと比べたらあたたかい、雪もふらない、だからすごしやすい、タンポポも咲いていた。会津などは冬は雪に埋もれるからその生活感覚が理解できないのである。この辺の問題は原発事故で相馬藩とかの歴史の一部が土地と共に断たれるという不安である。まず心が安定しないのである。こういうところで過去の文化を見直し今に活かそうとすることがうまくいかない、小高区辺りまでは南相馬市までは人が住めるようになるだろうけど浪江とかになるとむずかしくなるのか?
そうなるとかつての相馬藩は狭められたものとなってしまう。代々すみつづけた土地があって伝統もあるとしたらその土地が喪失したら伝統も断たれる。そういうことで不安になってしまうのである。

2011年12月19日

なつかしい昔の道 (原発事故で途切れた街道)-詩




なつかしい昔の道

(原発事故で途切れた街道)-詩

人は歩いていた
常に歩いていた
一すじつづく街道を歩いていた
松並木に風が鳴り
道の辺に野の花が咲いていた
季節の変わる度に
犬ふぐりや月見草やあざみや野菊
細い街道を歩いていた
茅葺きの家や石置き屋根の家
貧しい街道の家並み
人は行き来し歩いていた
その歩いている人の姿がなつかしい
ひよいと昔の人が話しかける
旅は道連れ、長い旅
分去で分かれを惜しむ道
その人とは二度と会わなかった
人と人が出会い分かれる道
今この街道にたたずみ
昔の人の歩く姿が見える
この道に昔歩いた人達の記憶がしみこんでいる
時雨がふれば淋しい旅人が去ってゆく
山頭火の後ろ姿が消えてゆく
その風景が心にしみる
昔の人がなつかしんでその道を歩いている
馬頭観世音の碑
馬とともにも歩いていた
馬の名前を呼んで歩いていた
馬は家族の一員であった
だから曲屋で一緒に寝た
ああ 人の歩く姿がなつかしい
当たり前のことが当たり前なくなる
便利さを求めて何かを失った
大きなものを失った
豊かさを求めて心を失った
日本の素朴な風景は消えた
歩く姿も消えた
車は無謀に突っ走してゆく
眼中に人はない
人は邪魔なだけ
早く早く過ぎ去ってゆくだけ
そうして人は何か大事なものを失った
遂に原発事故で道は途切れた
その道はいつ回復するのだろう
人はばらばらになり道は途絶えた
大阪や東京のアパ-トやら団地やら
故郷を離れてばらばらになった
陸前浜街道はとぎれた
道を通じて人間も通じていた
それが離散してばらばらになった
道はいつ通じるのか
故郷にいつ帰れるのか
それはすでに遠い道のりだ
もう今年も暮れようとしている


 

posted by 老鶯 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連