2011年12月01日

TPPを世界史的視野で考える (アメリカの南北戦争も貿易の自由化の争いのため)


TPPを世界史的視野で考える

(アメリカの南北戦争も貿易の自由化の争いのため)

●備蓄した食糧がエジプトで王権を強大化した
 (遊牧民と農耕民の対立)


ヨセフは七年間の飢饉を予言した。王はそれに先立つ豊作の七年間の間、収穫の五分の一を
集め備蓄用にした。旱魃がひどくなったとき、エジプトの人々にに穀物を売る立場になり
彼らの集めた金銀と引き換えた。貴金属がなくなると彼らは小麦や大麦と引き換えに王に
牛や羊の群れを売らねばならなかった。ついに旱魃の終わり頃、穀物を買うために王に土地の一部をうることにした。それ以降、王とその継承者は彼らの臣民から借地料をとることができた。
こうして王家の政治力と経済力は大いに増した。(遙かなる楽園-環境破壊と文明)


王の権力が増大したのはやはり経済力がある。その経済力が増したのはここは旱魃の緊急時の備蓄された穀物だった。
もともとヨセフは羊を飼う遊牧民だったけど食糧不足でエジプトでイスラエルの一族をひきいてフジプトに寄留したのである。遊牧民はモンゴルでもそうだけど食糧不足にりやすいのだ。それで定期的に農民の中国を襲うからあの万里の長城ができた。農業と遊牧民の対立の歴史は古いのだ。遊牧民国家は衰退するし一大文明を築かない、遊牧民は農耕民に侵略して一体化する。それはインドでもドラビダ族に侵略して混血化してイスラム文化を残した。中国の最初の国家の秦の始皇帝は西安から起こったことは遊牧民が作った国家でもあった。だから兵馬俑のような大騎馬軍隊を編成することができて最初の広大な国家を作ることができたのである。でも結局遊牧民は文明を作りえなかった。モンゴルは大帝国を作ったが中国にのみこまれて一時的なものだったのである。


●文明は農耕民が作った


四大文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明であるがみな河の岸に発達した農耕文明だった。インカもマヤも農耕文明だった。遊牧民国家は成立しない、イスラムは遊牧民国家だけど長期的な文明国家とはならなかった。その後もロ-マも農業国家であり定着の農業国家として歴史は発展したのである。農耕文明は2000年からつづいている。エジプトではすでに紀元前から3000年もつづいていたのである。それだけ寿命が長い。その農耕文明から20世紀になり工業文明に移行した。ヨ-ロッパの中世でも江戸時代でも農耕文明である。20世紀の変化は農耕文明から工業文明に離脱した、その変化が余りにも大きすぎたのである。一千万の都市が全く食糧を生産していない、消費するだけだという社会を経験していない、食糧生産にたずさわる人が人口の一割にも満たない社会などありえようがなかった。百万都市の江戸ですら農地にとりかこまれていた農耕社会のただなかにあった都市である。今の都市とは全然違っている。東北辺りから米を商品として買い入れていたにしても回りは農地であり農民と密接に結びついてたのである。これはヨ-ロッパの中世でも城の回りは農地であり農耕社会と密接に結びついたのと同じである。都市があっても小規模だったのである。農耕中心の社会は人類史の中で長いのである。急速な工業文明はまだ百年くらいのものであり人類史からした短い、異常な一時期だったとあとでふりかえられるかもしれないし、それが人類を滅亡させたとかなる。そういう人類史で異常な時期が現代という時代である。


●農業と工業の対立が今世紀鮮明になった


今や一つの国家の歴史ではない、人類史というグロ-バルな観点からの考察があらゆるところで強いられている。当然これだけグロ-バル化すれば庶民のレベルでもそうなっている。貧乏な若者でも世界一周など簡単にできる時代である。そういう点では恵まれた時代なのである。TPPを考える時もそうである。世界史的人類史的視点が必要になってくる。面白かったのはアメリカの歴史だった。
南部と北部の戦争の原因が北部の工業化した都市と南部の広大な土地に黒人奴隷を使用した綿花栽培の農業地帯との争いだったのである。南部ではイギリスに綿花を輸出したい、農業中心の社会だった。その頃イギリスに産業革命が起こり綿花を大量に必要とした。一方北部でも工業化ししていたので工業化した社会で働く労働者を必要としていた。西部を開拓するにも労働者が必要でありそれを南部の黒人奴隷を必要としたのである。アメリカはイギリスから独立したいということもあり工業化する北部中心の社会を形成したのである。ここで農業と工業の対立があった。逆に今はアメリカは工業化として発展しても農業国家となったという皮肉もある。売るものが工業製品ではなく食糧だとなってしまった。その広大な土地から生産した食糧を日本に関税なしで売りたいがためにTPPを促進させようとしている。

日本の戦前の主な産業が絹織物だったのとにている。絹の生産は農業であり地方で盛んだった。つまり南部と同じだったのである。

他の方も言われている通り、自由貿易vs保護貿易の対立が主な争点と考えるのが一番自然だと思います。
農業国or工業国の選択と言ってもいいと思います。


競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから自由貿易を望みます。
ところが新興工業地域の北部にとっては、まだ生産性が低い自国製品では進んだ英国製工業製品に太刀打ちでがきません。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1210005.html



不思議にアメリカはこの時、保護主義が北部の工業化した地域であり自由貿易主義が南部の農業、綿花栽培のプランテ-ションの地主だった。これを日本に当てはめるとTPP賛成派は自動車などを売っている工業化している製造業であり食糧を生産している農民ではない、農業は保護主義なのである。ただアメリカの南部は食糧ではなく綿花栽培なのだから食糧を生産していたわけではない、これも工業製品のための材料を輸出してしいたとなる。アメリカでは今車を生産している会社などはTPPに反対である。保護主義なのである。これは南北戦争時代と同じである。一見関税と貿易が国と国の対立のように見えて実は人類史的には遊牧民と農耕民の対立と同じ様にその生活形態から問題が発している。農業と急速な工業化の対立が根底にあるのだ。ただ言えることはエジプトのヨセフの例のように
食糧を備蓄して王権が強大化したようにアメリカでもオ-ストラリアでも広大な土地があり食糧備蓄していれば何かの災害や飢饉などで日本などが食糧不足になればエジプトと同じ様になる。


現実にこの辺で食糧や物資が全く入らなくなった時があった。放射能をおそれ物が運ばれない。その時救ったのが町で貯えていて古米だったのである。これを頼りに一週間とか過ごした。食糧がもう金でも買えないというのが緊急事態なのである。結局国内でも自分の命を危険にさらしてまで助けようとする人はいないのである。だから江戸時代に郷倉というのを建てて米を貯えていた。最低米があると人間は生き延びられる。米だけでもある程度は生き延びられるのである。そういう危機のために備えるためにも農業はある。そのことがあるから農家に援助もしている。もし関税がなくなると日本の農業は壊滅的な打撃をうけるというときそういう不安があるからだ。もちろん農業には様々な問題がある。だからといってTPPで解決するのだというのでは解決にはならない。アメリカは売るものがない、食料品を売りたいためにTPPをしかけた。それはアヘン戦争とにている。中国に売るものがない、だからアヘンを強制的に軍事力で売った。そういうことをしたのがヨ-ロッパの列強でもあったのだ。


あとがき

本でもインタ-ネットでも自分なりに編集すると活きたものとなることがわかった。本をもっていてもその知識を活用しない
と活きてこない、膨大な本をためこんでも宝の持ち腐れになる。本もテ-マをもち編集すると活きた知識になることはまちがいない。
編集という作業は明らかに創造的なものでありコピ-ではない、編集者が創造的なことをしているのであり電子書籍になろうが
何になろうがこうした創造的仕事は人間しかできないから仕事がなくなるということはないのである。
とにかく自分は相当に本を集めた、だけと活用していなかった。何らか知的作業には本を集めることが必要なのである。
posted by 老鶯 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2011年12月02日

南相馬市中央産婦人科院長の奮闘


南相馬市中央産婦人科院長の奮闘
http://www6.ocn.ne.jp/~syunran/

原発事故でいろいろな人が地元でテレビにでてくる。普通の生活していたら別に地元で関係しなければその仕事に関心をもつことがなかった。産婦人科などでも関心をもつことがなかった。考えてみたらここで産婦人科が奮闘しているのは放射線が妊婦と子供に一番影響すると報道していた。それで妊婦と子供が一番放射線について敏感になり避難した人が多い。宮城県の大崎の主婦が苫小牧に避難したというのも驚きである。そこで瓦礫を受け入れるなと抗議活動している。大崎など放射線量が相当に低いし誰も注目していないだろう。そんな人まで避難する必要があるのだろうかと思うし非難している人がいる。そんなに放射能に過敏になっていいのだろうかという疑問もある。結局放射能のことが一般人にはいくら説明されてもわかりにくいのである。そして現実に具体的にどう影響するのかも明確にわからない、ただ憶測だけが広がっているのだ。そのことがまた不安にもしている。


傷ついた遺伝子の修復能力も、尿中の排泄能力も、
からだの組織別の半減期も、数段成人より能力が高いのです。


このホ-ムペ-ジにでていたがたれは本当なのだろうか?子供は影響されるがかえってまた修復能力も高いというのは意外である。若ければ遺伝子も修復能力がある。それは若い人は細胞も若いのだから修復能力も高いということは素人でも想像できる。しかし放射能の危険は妊婦と子供については盛んに言われたしそのために子供を優先的に避難させた。これは科学的結果であり専門家も認めているものだから憶測ではないだろう。要するに放射能がどう実際に影響するのか科学的に実証されていない。それで記録を正確にとって後世に役立てるのが使命だと書いてある。
他にも泥に付着したセシウムは植物は吸収しにくいとかあり米にはさほど影響なかったという研究者の発言もあった。ある人は放射性物質は日本では雨が多いから雨と一緒に海に流れだすという人もいる。実際に阿武隈川の河口では


阿武隈川河口で放射性セシウム525億ベクレル


福島県伊達市内では、計1763億ベクレルに達した。放射性セシウムの9割以上は、水中の土砂に含まれており、河口までのダムで一定量はせき止められたとみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111124-OYT1T01108.htm

これも日頃聞いているものからすると驚くべき量である。ということはやはり泥とか砂とかについてセシウムは流れだしている。それにしてもダムでせきとめたというがダムの水はセシウムに汚染される。その水を飲む場合もある。真野ダムの水は相馬市で利用しているのだ。真野ダムの公園のぬれた砂は10マイクロシ-ベルトとか高かった。砂とか泥にセシウムは付着していることはまちがいない、その砂や粒子や泥と一緒に河に流れて河口にそれだけのセシウムが計測された。ただチェルノブエリでは乾燥地帯であり雨が少ないから水で流されるということはない、日本では雨が多いから雨と共に海に流され放射線量が下がってくるというのも風土的にはそうなるかもしれない、しかし放射能の影響については実際はわかっていないのだ。未知な部分が多すぎるから福島県は放射能汚染の実験地帯だ、モルモットだと言われる。


あと1年も経たない内に、南相馬の病院は全て破産すると思います。多分南相馬村となってしまい
ます。南相馬崩壊するのをじっと待って狙っている市長がいます。


ねらっているいうのは相馬市なのだろうか、それしか考えられない、南相馬市と相馬市が仲良くないというのも意外である。同じ野馬追いをしているには解せないことである。ただ相馬市の病院が南相馬市がこういう状態だから繁盛しているだろう。自分も相馬市の病院に通うようになった。南相馬市は将来的に相馬市と合併する、相馬市主導でそうなる。そういうことはありえる、見えているのが現状なことは確かである
いづれにしろ産婦人科が一番放射能の危機を感じていたのはわかる。だからその重荷を背負ったのがここの院長だった。それなりの年であり南相馬市に長いから愛着がありテレビで見ていても好感がもたれる。「最後のミッションだ」というのも何か使命感を感じて奮闘した。


今回の津波や原発事故ではそれぞれが何か日頃の仕事が何なのか自覚させられた。日頃は何か使命感とかミッションとか大げさのもので仕事している人はいない、ところがこうした異常事態で仕事が奪われたとき仕事について考えるようになった。仕事しない人がふえた。特に農家の人などは仕事していない、それで仕事について考えるようになった。それで「万葉集の歌と心境が一致する避難者」というペ-ジが常に読まれいる不思議がある。それだけ仕事がなくなり仕事が問題になっているからだろう。第一確かに避難者が金をもらっても仕事をせずにパチンコ屋通いとか飲み屋通いというのは普通じゃない、そしてそんな生活がいつまでもつづいていたら心も荒廃してしまうだろう。避難者を受け入れた方にしてもその人たちの扱いに困ってしまうだろ。定住して労働するわけでもない、そしていつまでも補償を受けて生活するというわけにもいかないからだ。小高区の海岸近くは警戒区域の解除されるのは当然だろう。
放射線がもともと低かったのである。だから全部が避難させることに疑問だった。


ともかくここの産婦人科の院長は過労のためとも言えるのか、癌になって入院することになったのも不運である。悪いことは何か重なる。70代で仕事ができる年齢だがやはり無理がたたったのか?
病気を背負ってしまった。そして「人生はギャンブルだ」とテレビで言っていたのもわかる。人生は先がよめない、一寸先は闇だというのをこの辺でみんな経験したのである。自分も次から次と災難に見舞われた。これは一体何なのだろうとつくづく思った。まあ、津波で死ななくて良かったなとともかく思ってなぐさめるほかない。津波で死んだ人よりは良かったなと思うほかないのである。


I will be back


とメッセ-ジをのせていたが回復をお祈りします。

posted by 老鶯 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年12月03日

近江から京都-春の俳句連作 (安土桃山文化の考察)


近江から京都-春の俳句連作

(安土桃山文化の考察)


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大津皇子若き死あわれ春の逝く


楽浪の都の跡や春深む


近江にそ敗れしものや春深む


信長の上洛果たし城成りぬ


春の日や楽市楽座近江かな


安土城黄金の瓦春の夢


職人の瓦に金箔近江の春


春の夢安土桃山の絵巻かな


信長の炎に消えて春の夢


春の日や幾日過ごすや京言葉


京に入り夢をかなえむ春満月


女御達御所に百間の物語


技伝ゆ錺り師棲むや春の京


路次入りて鍵隠町や春の京


障壁画千面残す春の京


春の日やここは京なり寺の鐘



戦国の力を示す城なるもたちまち消えて春の夢の跡


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


肘掛けに殿の間奥にいつの日や時の長しも春の日暮れぬ



安土桃山時代は華やかだった。それは信長や秀吉の一時の栄華のようにはかなく消え去った。信長の安土城は今までの城とは全く様相を異にする新企画の壮大な城だった。それも全く一時の夢のように消えた。そんな城があったということもなかなか想像しにくい。秀吉の大坂城は城として残り今もその栄華は感じる。安土桃山城はその栄華も束の間だった。ただ信長は一つの時代を変えた革命家でもあった。それはヨ-ロッパの歴史とにていた。ヨ-ロッパの歴史はロ-マ時代からキリスト教の歴史でもあった。それはカトリックであり強固な権力的支配だった。ロ-マが政治で優れていたというとき宗教も政治化された面があったのだ。宗教は宗教都市と化して人民を支配した。政治的支配力があったのである。その政治と宗教の一体化に圧迫された歴史が長かったのである。千年以上そうした圧迫のもとにありついにルタ-がでて宗教改革が起こり改革された。宗教の支配の軛から脱することができた。ヨ-ロッパの歴史は常に宗教支配からの離脱が一つのテ-マになっていた。それは宗教があまりにも政治力をもち権力をもっていたためである。そしてナポレオンによりカトリック教会の支配は完全に打破されたのである。するとナポレオンは信長とにていたとなる。比叡山を焼き討ちして僧侶を虐殺したこととにている。それまでは日本も宗教の力が大きかったのである。日本でも権力をもっていたから権力争いになったのである。宗教はそもそも権力をもった時すでに宗教から離れて政治化していたのである。 そして熊本城の安土桃山文化の復元が成ったがそのNHKの放送で信長の安土城を作るために職人を獲得するために比叡山の焼き討ちとか僧侶集団を滅ぼそうとした。それが職人を得るための具体的な利益を目指していたというのもそれだけそれまでの富は寺院の中にあったのである。


建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%
BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%B2


大工が聖徳太子を祭っているのもそのためである。それは法隆寺の建設のときからはじまっていた長い歴史があった。西には日本の長い歴史が積み重なっている。近江の魅力はその歴史にあるけど自然が豊であることも魅力なのである。琵琶湖があり比良の山々がありと変化に富んでいるのだ。多賀神社にしても伊勢と並び本当に古い謂われがある。様々な歴史が積み重なっている。安土桃山城を信長が造営して楽市楽座を開いたというのも商業の興隆になった。それは全国に広がったのである。

近江商人の元をたどればこの辺からもでてくる。近江商人は全国に散らばり栄えた。そもそも近江とか大阪京都となると人間が東北のような性格とはあまりにも違っている。東北は未だに百姓的農民的性格が根づよく残っている。商人の気質に欠けている。商人に向いていない,それは今でもそうである。東北には豪商が育つことがなかった。農民が大半であり豪商は育たない、それで伊達政宗が伊達ものとして中央に威勢を張った。つまり大半の民衆は貧乏であったが中央には威勢を張らなければならないからそうなった。強く見せるためにあえてそうした。信長の安土桃山城の建設も秀吉の大坂城の建設も当時では権力の象徴として建設された。あまりの豪華さに大坂城を見た毛利は秀吉に逆らえない、従うほかないと思ったということでもわかる。つまり建築は権力の象徴になるのだ。


それは古代からはじまった。日本では大古墳でありピラミッドでありロ-マのコロセウムもそうした建築を誇るものだった。中世の教会も権力を象徴する面があった。ただ権力でも文化の裏付けがありただ大きいというだけではなかった。精神的シンボルでもあるからそれは後世に美として文化として残されたのである。熊本城は豪勢な城だった。外国の南方との貿易を計りその利益を得て資金にしたということもあった。薩摩が中国との貿易で財を成して雄藩となったというのもやはり九州は外国と通じやすいからそうなる。東北は外国と地理的に通じにくいのである。みちのくではそもそも本当の栄華を経験したことがない、城も伊達政宗の青葉城や会津の城をのぞいて小規模なものである。西には大きな城が多いから違っている。それだけ栄えたということである。みちのくでは平泉の栄華があったにしてもそれも一時のことであり三代で消失したはかないもので「五月雨のふりのこしてや光堂-芭蕉」で終わったのである。京都が千年の都とするときその栄華は余りにも短すぎたのである。
人間の文化には必ず歴史的蓄積が必要なのである。文化が華咲くにはそうである。ルネサンスはそうした西欧の歴史的蓄積から起こった。それもイスラム文化も入ってきた国際的なものとして起こった。

江戸時代も鎖国であったが日本の内部的国力を養うものとして働いたという説も面白い。外国との交流で力を消耗しなかったというのも面白い指摘である。確かに明治維新後を見れば一目瞭然である。大戦が三回もあり日本の国力は消耗しただけではないかともみれる。常に日本では外国の文化をとり入れても奈良時代の唐風文化から平安京の国風文化へまたは鎌倉時代の武士の文化へと国風文化が盛り返してくる。明治維新後は外国との交流に消耗されすぎた。だから奈良時代のあとに平安文化が交流した,国風文化になったように日本も欧米化とかではない、国風文化の時代になる。新しい国風文化の創造の時代になる。

結局戦後60年とかは物質の豊かさを追求したのである。それがここにきて終わりを告げる。その象徴がこの辺で起きた原発事故かもしれない、原発も物資的富の象徴としてあったのだ。団塊の世代が生きた時代は物質的には恵まれた時代だった。高度成長であり一つの平和な栄華の時代だったのである。しかしそこに文化は育たなかった。文化の栄華はこれからなのだろう。本当のルネサンスはこれからなのだろう。一方で経済的には衰退するにしても文化は興隆の時期にくる。物質的豊かさの次は精神的豊かさを求めるからである。ただつくづく人間の栄華は短い。繁栄も終わってみれば短い、はかなく無常だというのは変わらないのである。この辺ではそうした無常を津波や原発事故で身をもって全員が感じることになったのである。


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


殿様も悠長な栄華の時間の中にあったがそれも一時だった。江戸時代前は時間はゆっくりと流れていた。その残されたものが物語っている。和時計であれ殿様の肘掛けであれ何かゆったりとした時の流の中にそうした物もあった。それがめまぐるしい時に追われる現代から比べると癒しとなる。江戸時代をふりかえることは常に癒しなのである。それは過去への深い郷愁なのである。結局自分にも個々人にも栄華あり過ぎ去ってしまった。常磐木の松のようにいつまでも変わらぬものとしてありたいと願っても時は無常でありたちまち人生は終わりを告げる。これで終わりか?百年生きても人間は儚いとなる。ああ 青春が帰ってきてほしい、栄華のなかにまだいたいといってもそこにいたのは束の間だったのである。


熊本城の釘隠し
http://www.geocities.jp/joysunny/kumamoto/kumamoto048.htm


京都の釘隠町の由来
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/names/kugi/01.html


京都の鍵隠町の話は面白い。やはり京都だなと思う。釘隠しが立派なのでみんな見に来たからこの名が残った。これは町家だけど町家でもそれだけ立派なものが建つ、そこが違っているのだ。旅するにもこうしたいろいろな歴史を知らないと通りすぎてゆくだけになるのだ。インタ-ネットではそうした故事をたどり旅できるということもあるのだ。京都など実際に行ってみてもこうしたことがわかりにくいのである。

2011年12月04日

冬の雨(それぞれの家には歴史が-家を離れられない訳)


冬の雨(それぞれの家には歴史が-家を離れられない訳)


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寂けさや冬の雨ふる松と石

庭の石見つつ暮れにき冬薔薇


I am watching the stone
in my garden
winter roses in bloom
it comes to a close again


争わぬ二色静けき冬薔薇


two deeply coloured roses
in winter with no harm
and battles


一本の庭の松にし北風の鳴りてなお生く老母と二人


山帽子のなお実のなるや冬日さし母の介護を我はするかな


我が家に店営むも遠きかな忘すられゆくや北風鳴りぬ



昨日は雨であり今日は家がゆれるほど北風が吹いている。この家に住んですでに60年以上過ぎている。子供のときはトタン屋根の平屋のヤハな家だった。その後店が繁盛して大きな今の家を建てた。その新しい家も40年過ぎている。今回かなり痛んだけどまだ生活できる。家はやっぱりそれぞれどこでもそれなりの歴史をもっている。農家ならさらに先祖からの長い歴史をもっている。家が新しくなっても家族は代々住んでいるのだ。そこが都会とは違っている。自分の家は代々つづいた家でないにしろ60年くらい住んでいるとやはりそれなりに長いなと思う。でもすでにここで店をやっていたとか忘れられてゆくかもしれない、すでに思い出すだけの過去になってしまう。ただやはり同じ家にいるのだからいろいろここでの暮らしが家と共にあったことをふりかえる。家はそれだけ人間の生活で重みをもったものである。


だから原発事故で避難した人が特に50代以上では帰りたいという気持ちが痛いほどわかる。故郷や家や土地から離れたら自分のアイディンティティというものがが失われる。この辺は難民の避難者になる人もでてくるというのは現実だろう。難民の流れ者になってしま。若いなら他の土地で一からはじめられるかもしれない、しかし老人はそういうことをできない、特に土地と一体化していた農民は他の土地で暮らすことがしにくい、代替え地で農業をはじめた人もいる。そしてつくづく60代の人がもう一度借金しても農業がたい、あと十年は貴重だ、仕事は生き甲斐だ、仕事がしたいと何度も言っていた。農家の仕事のことを楽しく語っていた。農業は実際はその仕事自体は生き甲斐のあるものであったことをかみしめていた。農業は常に金にならないと言っていたが仕事自体をしたいという人はいる。農業は極めて自然と直結しているから人間の本源的というも言うべき充足をもたらすのである。仕事しないでぶらぶらしているより仕事したい仕事したとうことが叫びのように今なっているのである。


ともかくどんな家でもそれなりの歴史がありだから50過ぎたらなかなかその家を捨てて新しい土地に移りやり直すことがむずかしくなるのだ。自分の家も複雑だったが歴史があった。そしてまだ母は生きている。その苦労を思い介護している。ただあまりの苦労が心を歪めてしまった。それは苦労しすぎた人はそうなりやすい、働くだけが人生だというのはやはり異常だったのである。

俳句は何度もいうけど俳句ほどシンプルなものはなかった。そのシンプルななかに深みがあった。

冬の雨が降っている、庭に一本の松と石がある。ただそれだけのことだけど何か心にしみるものがある。古い家だったら老松があり冬の日がさしてしいる。そういうものは自分の家にはない、この庭だって最近作ったものである。それでもやはり60年は長いのである。

2011年12月05日

冬椿(相馬市城下町の冬の情緒-俳句十句)


冬椿(相馬市城下町の冬の情緒-俳句十句)

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病院に通う老人枯木かな

小泉橋朝にわたるや冬椿


冬日さし城下町の辻塩地蔵


我が歩む相馬市の通り冬椿


シクラメン三色映えて通りかな


相馬駅松一本に冬椿


城下町路次に入れば冬紅葉


城下町北風唸り路次に入る


看護師の楚々と働く冬椿


相馬市に磯部の見ゆや枯野かな


電車来じ垂れこめにけり冬の雲


相馬市の古書店静か冬紅葉


六号線遠くに通ぜじ冬紅葉


城下町歩みであわれ冬の日や六万石と誰か訪ねむ

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今は冬椿であり寒椿ではない、寒椿は最近暖冬でそういう感じが出ない、一月から二月の寒い時である。人間は歩かないとつくづく情緒を感じない。自転車も実は歩くのとは違っている。通りすぎることが意外と多いのだ。相馬市に行ってもス-パ-に行くけど相馬市街は通りすぎてゆくのである。
人間は歩いて感じる風景を失った。自転車でもそうなんだから車だったらまず常にどこでも通りすぎてゆくだけである。人が歩き通ってゆく姿がないのである。だから車は人間性を喪失させる機械なのである。車は通りすぎて何か遠くへ遠くと行ってしまうのである。そういうことは日々の生活でもそうなっているのだ。人も遠くへ遠くへと離れ行ってしまうという感覚になる。


今日はまた下腹が痛くなり緊急で相馬市の総合病院に行った。これも時々なるから困る。交換するば直るのだけど何か結構怖い思いをする。緊急の処置が必要なのである。だから救急医療ができないと軽い場合でも死ぬことがある。だからこの辺の一番の問題は医療なのである。この辺ではまともな医療がうけられない。まあ、なんとか医者にかかれるのだから江戸時代よりはいいとはなる。江戸時代あたりはちょっとしたことでみんな死んでいたのだろう。医療を受けられなければ死ぬ。その病院の道を下ったところにあの塩地蔵がある。そして小泉川があり短い橋がある。あの橋が情緒があるのだ。塩地蔵に冬日がさし冬椿が映えていていかにも冬らしい情緒である。あそこに注目している人は少ないだろう。意外と何でもないところに情緒がある。相馬市は確かに城下町なのだけど城下町なんだということを知るためにはお掘りの城跡まで行かねばならない、すると駅に下りて歩くとなるとかなり遠いのである。だからお掘りまで歩いたことはないのだ。自転車では行っても歩いては行ったことがないのだ。相馬市のような小さな街でも今や歩くことはないのである。


今日はまた待ち時間があったので駅の回りをまた歩いた。工事したいたのでうるさかった。ステ-ションプラザとかありビルの上の七階に上ったら磯部の方が見えた。街を知るには高いところに上る必要がある。磯部の海の方が確かに見えた。磯部にはバスも通っている。小学校が高台に残ったからである。あそこのことをテレビでも写していた。あの辺の人は生き残ることができた。でも大多数は海岸に接して住んでいたから被害が大きかった。

何かまだこの辺は工事が多い。近くでも三軒くらい家が壊された。相馬市の駅前通りも三軒が空家になっていた。あれも淋しい感じになる。北風が唸っていた。通りは明かに人が歩くことによって活きてくるのであり車が通っても活きてこないのだ。人間は今や歩く喜びを失っているのだ。古い街はとにかく歩かないと良さがわからない。相馬市は歩くに向いている。歩けば通りの店に眼がむく、駅前通りに花屋があった。それも気づいていなかった。いろいろなシクラメンを売っていた。季節柄あっていた。店は見せるでありそこに意味があった。

裏の路地を歩むと冬紅葉が映える。古書店が一軒通りにある。あれも通りに必要なものである。ブックオフとかは何か通りにふさわしくない。通りにはやはり昔ながらのものがあっているのだ。コンビニなんかもあっていないのだ。でも実際の用となるとどうしてもコンビニに入るのである。街というときやはりそれなりのものがそろっていないと街にはならない。その街の店が歯がぬけたようなると街自体が成り立たなくなる。相馬市でも目立つのはやはり医院である。原町もそうだった。ともかく相馬市は城下町としてのそれなりの情緒がある。でも外から来た人には感じにくいのである。旅をしてもそういう場がある。有名な観光地でもそうである。京都辺りも実際は住んでみたらわかるがちょっと旅したくらいではわかりにくいのである。いろいろな謂われもわかりにくいのである。


電車は今年中に通るらしい、それも一時間おきくらいに通るというから助かる。
相馬市から亘理までは便数が多いけど原町-相馬は少ないから不便である。
電車が通らなかったら冬の雲が動かずたれこめる気分になる。なかなか仙台はゆきづらくなった。
交通が遮断されると本当に江戸時代にもどる。冬の雲がたれこめて動かない。
人もなかなか動かなかったのが江戸時代だったからである。ただまだ車をもっている人はそんな感覚にはなっていない、車をもっていないと余計にそうなるのだ。

2011年12月07日

冬の蜂に刺される



冬の蜂に刺される

fuyuhavhi111.jpg



冬の蜂死に際に刺し手ふくれる


冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城


村上鬼城作
http://utorongo.otemo-yan.net/e134592.html


 村上鬼城(1865〜1938)は、若いころ司法官を志が耳を患い断念、裁判所の代書人で生活をし、22才で結婚し、二女をもうけますが、わずか数年で妻が他界。31才で再婚し二男六女をもうけますが、貧しさはますます厳しく、正岡子規に共感し「ホトトギス」に入門する。
 耳の病、妻の死、貧困と、苦しさの連続だった鬼城を再び不幸が襲います。昭和2年、61才の時、自宅が火災で焼失。



部屋の中に死んだように飛ばなくなっていた蜂にふれてさされた。蜂も怖い。これだけ毒がまわってはれた。熱がこもり痛くもある。その蜂は弱り死んだようだったが死んでいなかった。この句のつづきがあった。死にどころ探して死に際に強烈な毒だして刺した。それだけの力があった。自然も怖い。津波も最高に怖かったけどあんな小さな蜂にさされてこんなに毒でふくれると思わなかった。
体全体まで調子悪くなる、吐け気などにおそわれる。アレルギ-体質だとそうなる。スズメバチは本当に刺されたら即生命の危険にさらされる。それだけ毒が強いのである。人間も怖いが自然も怖いものである。


人間だって命ある限り死んだようでも死なないということがある。最期の抵抗をして死んでゆく。
それが意外と怖い面があるのだ。最期の力をふりしぼってかかってくることもありうる。鬼城の生涯も苦しみの連続だった。そういう生涯も結構ある。一茶などもそうである。自分は30年くらい実に平穏な生活だった。三食用意されていたし何か困ることもない恵まれたものだった。ところが5年前から苦しみの連続になった。家族に認知症かかえ右往左往してそれから自分も病気になり犯罪にあったり事故にあったりまた介護だとか不運の連続だったのである。最期に津波と原発事故だった。

そして冬の蜂にさされるというのもこれもたいしたことないようでも不運である。人間の一生でも不運な生涯は結構ある。戦争で死んだ人とか戦前は結核で死んだ若い人が多いし不運で死んだ人が多かった。戦後60年は平和で恵まれていたのだ。ここにきて津波とかでみんな悲惨なことを経験した。「人生はギャンブルだ」と言って原町の産婦人科の院長も今度は癌になったとか悪いことは重なるのである。この辺は何か変だ、原町で不審火で木材所が焼けたとか何か変なのである。この辺何か全体が不運におそわれているのだ。だからなかんか縁起悪い所なのかとさえ思ってしまう。これまでそう思わなかったが回りも自分もそうした災難つづきだから不安になるのだ。


ともかく明日医者に行くほかない、毒を出すのがいいらしい。あんな死にかかった蜂でもこれだけの毒を出すことに驚いた。人間も最期に毒をだす、意外とこれは怖いのである。弱った老人でも馬鹿にできない、動物は毒を出す、最期に毒を出して死んでゆくともなる。

震災津浪の被災地を励ます詩


震災津浪の被災地を励ます詩

 秘密


    カロッサ


星は天空にあって
眠ることなく燃えねばならぬ
地球を包んで
緑の生命が息づくためには


血は流さねばならぬ
多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


さまざまの力が荒れ狂い
傷つきにくみ合うところ
清らかな治癒の泉が
よき死の底から湧きあがる


私たちが迷い迷うあいだ、
私たちを見守ってくれる力がある。
にがい苦しい努力のうちに
私たちは一致して光を求める


すべての奇跡は
はるかな岸辺におこる
私たちはみな、きそって
自由な岸辺をめざす


私たち身に
太陽の物質を背負っている
私たちは消えてゆかねばならぬ
それほどまでに私たちは強いのだ


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する

 


この詩は震災や津浪や原発事故の被災者を慰めるのにぴったりではないか?


多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


これは津浪の被害にあった人達である。どれだけ多くの涙が流れたことだろうか?多くの血が流れたというときこれは戦争だったらそうなるが今回は涙の方だろう。こういうことがそもそも人類の歴史だった。戦争でもどれだけ多くの血が流されたかわからない、戦争は経験してしいなくても400万人も死んだとなれば忘れられるものではない、延々として語られるだろう。今回の津浪の被害もそうだった。原発事故も未だかつてない事故の経験だった。その傷痕は余りにも深いのである。


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する


どこまで行っても終わりはない・・・この震災や津浪や原発事故の被害は終わりがない・・・それぼと被害が大きすぎた。そして燃えるような奉仕が確かに必要とされている。原町の産婦人科の院長などはそうした人の一人になるだろう。病気になったということは砕け散りつつともなる。そういうことが強いられたともなる。あたりに光を放射する・・・・・奉仕しながら死んでゆくのだからそれが光となっている。これはむずかしい詩ではない、でも震災にあった人達にはぴったりの詩ではないか?これは戦争で傷ついた人達をイメ-ジして作られたのものだろう。でも震災や津浪や原発事故にもあてはまる。原発事故では放射能で汚染されたからその自然が汚されたということがこれはなかなか修復できないのでその傷痕は大きすぎる。ただボランティアとかはそういう奉仕があったことは確かである。その奉仕はやはり光を放射していた。それを批判する人もいたが実際に何もしないよりは光を放ったのである。被災者のなかで働くことは金儲けより奉仕になっていたのである。


この辺では働く若い人が避難していなくて困っているということでもわかる。残されたのは老人だけになり老人だけで支えることはできない、そういうときこういう放射能汚染地帯で働くことは誰もしたくないから奉仕だとなる。これはまた別かもしれないがこういうところで誰も働きたくない、そしたら老人だけが残されて衰退してしまう。こういうときここで奉仕させるというのは無理でも残った金のある老人は働く若い人をとどめるためにも金を多く払わねばならなくなるということもある。
働く人がいないということは働く人が貴重なのである。

今までのように時給いくらとかでは働く人を確保できないかもしれない、働きたいという人が大勢いればそれでかまわないが、働く人がいなければそうなる。ただこれだけ移動が自由な社会だから年金を多くもらっている人はサ-ビスのいい市とかに移動はできる。現実そうして移住している人はいる。年金をもらい金がある人はできるのだ。

こういう放射能汚染地帯とかにいればいいサ-ビスは老人でも受けられない、だからサ-ビスを受けようとすれば人件費はかなり高くなってしまうのではないか?なぜなら働く人がいないということは人手不足なのだから賃金も上がるからである。その上がる賃金分をここに住む人が払わねばならないのだ。要するにこの詩の燃えるような奉仕をする人はがまれだとすると賃金をかなりあげないと誰も働かない、働き手も入ってこないということである。本当に外国人でも中国人でも入れないと働く人がいなくなってしまう。中国人などなら今の給料でも高いとなるから働くとなる。そういうことはすでに震災被災者ではなく日本全国で人手不足になり外国人を入れるほかないとか特に医療や介護分野では問題になっていたのである。特に被災地では顕著になったということである。

ハンスカロッサは医者であり戦争にも参加して献身的に働いたからこの詩ができた。
ということは原町の産婦人科の院長も共通していたのだ。
詩もそうした実践の経験がないと書けない
想像だけでは書けない、つまらないことでも実践していることが言葉になり詩になったりするのだ

posted by 老鶯 at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

鴨(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)




(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)


故郷の川になじむや鴨と月


故郷を離れられじも残る柿


冬薔薇菊と並びて庭の暮る


冬の菊今日もこの道買い物に


冬の月建設現場に光るかな


冬紅葉訪う人なしに今日も暮る


冬の日に橲原の奥大石の動かずあれや人も同じく



この辺のテ-マが常に動かないとかになる。今までは別に石なら動かないで普通でありとりたててそんなことを強調する必要もない。ところが今この辺は原発事故で常にゆれ動いている。現実に故郷に住めなくなった人達が大勢いるのだ。30キロ圏外でも何か心かゆれて落ち着かない、普通だったら土地があってそこに歴史を刻んできたのである。そこから離されてしまったという事実である。
故郷に存在できないという現実なのである。それは何を意味しているのか常にテ-マになってしまう。人間のアイディンティティとして自然がある。この自然のアイディンティティはなかなか作れない、なぜか?自然の時間的スケ-ルが人間のせわしい生活感覚と違っているからである。現代のような時間に追われるなかで自然とのアイディンティティを築くことは容易ではない、時間の感覚があまりに違いすぎるからだ。樹でもいしでも山でも時間感覚が違っている。だから自然と一体化することは時間がかかるのである。やはり一生住んで死んでその土地の土となるというのが生き物として自然なのだろう。そういう根源的場としての故郷を奪われたらどうなるのだろうか?それが現実にこの辺で起きている。だからそのことに納得いかない人が出てくるのは当然である。金もらって他で住めばいいじゃないかと簡単にならないのだ。そこに原発事故の深刻さがあったのでありそうなってみて気づいたともなる。自分の故郷に家に住めなくなるなど考えた人もいないだろう。でもそれが現実化したときそのことを毎日考えることになってしまったのである。


故郷の川に鴨がいつもいる。今日は月がでている。ただそれだけのことだけどなじむというときやはり長年住めばなじむのでありそのなじんだ土地から離れるということはなかなかできないのが人間なのだ。残る柿というのもまたそうである。柿は何か土着的果物なのである。とにかく土地と一体化して生活している農家の人だったらもっと故郷や自分の暮らした土地から離れることは考えもしなかったろう。そういう人達が都会に住み離れて仮設住宅に住んでいる。避難した人達でも老人が多いのである。津浪の被害にあった地域でもなかなか元の住んだ場所にもどれないのである。だから残る残れないとか離れられないとかがテ-マになっているのだ。


橲原の奥には森があり大きな石があった。それは橲原から一体化してあったのだ。自然は村でも全体として存在している。村はそもそも自然と一体化して長く存在していたのである。その村が消失するということはどういうことなのか?そのことが現実化してもそれが現実と思えないのである。それは津浪の被害にあったところでもまだこれが現実なのかと納得し得ない面があるのだ。心が何か宙ぶらりんのようになっていないか?落ち着くべき故郷から土地から遊離してアイディンティティを失った状態にないか?もちろん自分は30キロ圏外でそうする必要はないにしろ回りがそうなのだからその影響を強く受けている。だから心が落ち着かず宙ぶらりんな心になってしまうのである。南相馬市では現実に働き手が若い人が避難して帰ってこないとか正常な生活にもどれない、働き手がなくなれば街を維持できないという深刻なものとなっている。でも放射能汚染で若い人が生活したくないとしたら留めることもできない、そしたら老人だけが残る。でも老人だけでは市の生活を保てなくなる。
最期は姥捨山になるのか?なんかそんな不安から逃れられないのである。

 

2011年12月08日

冬椿の城下町(相馬藩-随筆-1)


冬椿の城下町(相馬藩-随筆-1)

城下町といってもどこに城があったのだろう。ただ濁った小さな堀があるだけである。最近新しい堀が発見されたことがニュ-スになった。堀はあそこだけではない広いものだった。防御のための城だから堀が広いのである。大手門も残されているがこれも小さな門でやっと馬一頭が通れるくらいの門である。大手門というと普通は大きな門をイメ-ジするがここは相馬藩は余りにも小さい。普通の農家の門と変わりないのである。滴水瓦が用いられているがたれもよくよく郷土史家などでないと興味を示さないだろう。一般には「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。青葉城には金箔の瓦などが発掘された。慶長6年( 1601)以後の作事(建築)に伴う瓦だとすれば、豊臣・徳川政権と伊達家との関係を知る上で、たいへん貴重な資料になりますと説明がある。この頃安土桃山文化の時代であり金色の障壁画が生まれた時代である。瑞巌寺には政宗が残した障壁画が残っている。信長の安土桃山城からも金箔の瓦が発見された。ただ相馬藩から発見されたのは堀だけだった。


相馬藩と伊達藩は仇敵であり関係が深い、そもそも相馬野馬追いが派手に行われたのはもともと軍事訓練であり伊達に備えるために大がかりになったのだ。伊達藩との境の新地には古くから住んでいる伊達氏系統の武家の家がありその家では相馬市と合併することをかたくなに拒んでいたという。そんな家があるというのも伊達の境に接していたからだろう。その家は今回の津波で流されてしまった。
相馬領のときの城代は,相馬の家臣である 藤崎摂津であったが、その子藤崎治部の代、天正十七年(1589年)に「伊達政宗」に攻め落とされた。それ以後は、新地・駒ヶ嶺一体は伊達の領地とされ、政宗は、この地を国境の城として大変重要視した。亘理美濃をはじめ、黒木中務、伊達忠宗、桜田玄蓄、新田下総、冨塚長門などの重臣を城代とし、仙台藩の支城となる。江戸中期の享保三年(1718年)から「宮内主税」が城代(領主)となった。

もともと相馬領であったが伊達政宗に攻め落とされた。他に相馬市の玉野も伊達と相馬の境だった。民謡にも残っている。


伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に・・


相馬のステ-ションビルの七階から磯部の方が見えた。磯部は壊滅した。磯辺小学校のある丘の上は残った。だから磯部へバスはでている。磯部の海岸沿いの町には一軒の家も残らなかった。土台のみが残った。ここまで死体が流されて来たんですよ,それを自衛隊の人が探していました。そんな話を聞くと本当に生々しかった。不思議なのは磯部の人は津波にほとんど警戒せず地震があって津浪か来るというとき海に出て津浪を見ようとしていた。見物しようとしていたというか警戒心がまるでなかった。この辺では津浪などここ400年来ていなかったのだから警戒もしない、津浪のことがわからなかった。それで津浪はどんなものかと見に行ったのである。その人の話では津浪の水が来てから小学校のある高台に車で逃げて助かったという。水が来てからも助かったのか?一波二波三波と来て一波はそれほどでなかったのだろう。テレビで見たあの高い波は二波三波だったのだろう。あの波に襲われたらひとたまりもなかった。家が津浪で吹き上げられたというから空恐ろしい光景だった。

津浪の恐ろしさはまざまざと見た。津浪の恐怖は一瞬にして人の命もすべてを奪ってしま恐ろしさだった。自然は人間側の事情を全く考慮しない恐怖だった。営々と海側を干拓して白砂青松の日本的風景を作ってきたのだけどそんなことを全く考慮しない、一瞬にして壊滅させられた。その恐怖は脳裏から離れない。特に肉親を奪われた人はとても忘れられない、この記憶は長びく、あまりの恐怖だった。自然は非情であり人間の側のことを全く考慮しない、情もない恐怖である。それをどう理解していいか今もわからない。


突然の死の衝撃



親は子に 祖父母は孫に

夫は妻に、妻は夫に

それぞれ語りたかった

しかし語れずに死んだ

一瞬にして津浪が飲みこんだ

残されたのは家の土台だけ

ただその上に茫然として立つのみ

多くのこと語りたかった

余りにも無常な不意なる死

自然はかくも非情なるものや

思わずに天に恨みの声があがった

その傷痕はあまりに深い

突然の死は語りたくても

語れない人を大勢もたらした

人は何も言えず死んだ

活きている人がその語れなかったことを

その無念を語りつづける

死者は沈黙して語ることができない

死者の口は閉ざされた

語れるのは生者のみなり



思ほえず津浪に死すや言うことなく土台のみ残り北風唸る

 


津浪は一言も言わせず命を一瞬にして奪ってしまった。だからこの津浪のことは形容しがたいのである。台風とか地震とか確かに自然災害の多い国だったが津浪の恐怖はまた違っていた。なんと形容していいかわからない恐怖だった。今もその恐怖はつづいている。相馬藩政記には確かに400年前の慶長津浪のことをが一行だけ記してあった。


「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。
400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。


700人が死亡したというから大被害の津浪があったのだ。しかしこの津浪について語られることはなかった。ただこの慶長津浪で津浪という言葉が生まれたから大きな津浪であり印象に残るから新たな名前がつけられたのである。その一ッ月後に城の建設がはじまったということはその津浪の被害の復興のためだったという説が出た。時期的に接近しすぎるから津浪の被害にあった今そう推定するようになった。ただこれは明確に検証はされていない、これだけの被害を出したのに記憶が少なすぎた。相馬藩政記は相馬では代替わりしていないので長く保存され外部から研究に来る人もいる。

しかし相馬藩政記の前は記録はない、神社はそれ以上に古い。でも謂われがわからなくなったのも多い。
松川浦の津宮(つのみや)は慶長の津浪のとき建てられたという、その神社に逃げて助かった人もいた。名前からしてこれは本当なのだろう。それにしても津浪についてこの辺ではあまりにも語られなかった。ただ松川浦の船を持っている人は船を沖に出して助かった船が多かった。ということは漁師仲間では津浪のことを知っていて警戒していたことになる。その他は全く津浪については警戒心がまるでなかったのである。これまでの津浪でもチリ地震の津浪でもたいしたことがないからあんな程度のものとして津浪をみていて警戒しなかったのである。

2011年12月09日

冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


冬の草(大正生まれの人に親近感をもつわけ)


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我が母の病に臥して冬の草


行き来する倉庫の道や冬の草


冬薔薇夕闇に浮かび消えにけり


大正生まれの女性はたいがい苦労している。貧乏な時代に生まれたし戦争も経験しているから苦労している。そしてたいがい機織り工場で働いた。女工哀史の時代でもあった。絹織物が唯一の輸出産業であり富国強兵のために過剰に働かされたのである。糸とりとして10年働いたというのは今や一つの日本の歴史を背負って働いたのである。そういうところは評価される。要するに一生が働きづめの一生だった。それがまたマイナス面として働くことしか知らない無味乾燥な人間を作ってしまった。
花一つにも興味を示さないというの人間として生きたとは言えない。いくら貧しくても花一つにも興味を示さない、花がきれいだなと思わない人生は荒寥としている。別な見方をすれば働く奴隷にされたということである。そういう不幸な一生であった。遊ぶことを知らない人生もまた異常だった。

でも一般的にそういう時代に生まれ育ったのである。日本は資源ないから戦前でも輸出が重視されていたのだ。なぜ戦争になったかというと貧しさが原因でもあった。満州に進出したのも貧しい土地もない農民が多かったからである。今は工業製品を輸出していたが戦前は絹織物であり人間そのものを輸出する・かなく満州に進出したのが大戦のきっかけとなったのだ。大正時代は短いけど85から98才とかまだ高齢化で生き延びている人が多い。介護している人も多いのである。だから意外と大正時代は身近なのである。時代が身近に感じるのはやはり祖父母などが生きている時代までだろう。祖父母が生きていれば明治時代も身近なもの感じただろう。今や明治は遠くになりにけりであり明治のことはわかりにくくなっているだろう。大正時代が終わって昭和になったが昭和時代は長い。戦前と戦後ではまるで違っているから時代としての統一性がない。大正時代は短いがかえって大正生まれというとひとくくりになり統一性があり身近なのである。


大正生まれの人は食べ物に文句を言わない、こんなもの食いたくないとかあれが食いたいこれが食いたいともあまり言わない、それが一つの特徴である。あれだけ貧しい時代を生きたのだからそうなる。でも団塊の世代が80くらいになったら介護になったら食べ物にはうるさいだろう。グルメも経験しているからだ。団塊の世代はまた民主主義の世代でありそれも権利ばかり主張するから扱いにくい。そういう点で老人として今も嫌われているがこれからも嫌われる。人間として75才以上あたりも日本人としての気骨をもった人が多く好感がもたれる。良き日本人的なものが残された最後の世代である。70以下になるとそうした日本人的良さをもった人はいなくなる。おそらく戦後生まれは類型として人間が最悪なのかもしれない、日本人的モラルもないしただ自分の欲望を満たすだけの権利を主張するだけである。誤った民主主義の結果として最悪なのである。それでもすべてが悪いとはいえない、遊び上手だからこれから老人文化を作るようになるだろうといわれるのはそのためである。


つくづく自分は天才でないから今頃になっていろいろなことが理解できるようになった。本も山ほど買って集めて読んでもいたが理解していなかった。今読んでみると理解できる。深く読めるのだ。だから今まで買った本を読んで今度は自分なりの見識で文章を書くことができる。今になって見識が深まったのである。本を読むということはただ読んだだけでは知識とはならない、自分なりに編集して再構成するとき読んだとなるのだ。だから本を読むことは相当な見識が必要なのであり若いときは本を買うことはできても読むことはできないのだ。もちろん人によって違うが自分の場合はそうだった。それだけこの世のことを知るということ自体、時間がかかりすぎるのだ。いくら能力がなくても60過ぎたら必ずその人なりの経験で見識をもつことができる。その本が何を言おうとしているのかその趣旨がすぐわかる。するとそれに対して自分なりの見解も延べることができるのだ。だから今買いだめた本を読み返してこの本はこういうことを言っていたのかとたいがい理解できる。だからかえって読書の楽しみが増したとはいえる。若いときは本を読むというより読まれることが多いのである。本にのみこまれてしまうのである。今にあれば本を読んで新たな自分なりの創造的な文が書けるのでてある。