2011年11月29日

震災被害地の冬(残る残らないでゆれる心)


震災被害地の冬(残る残らないでゆれる心)



小高区の仮設に住みて落葉かな


人消えて雪のふるかな一本の松の残りて車行き交ふ


飯館に風花舞いてアグリなる喫茶店あり我がよりにしを


5つほど石のよりあい飯館に人のあれかし冬になるとも

この辺は何か津波から原発事故になってから奇妙な異常事態になってしまった。この辺の大きなテ-マが「残る」ということになっている。残って住んでいけるのかどうかが常に問題になる。
仮設住宅に住んでいること自体、すでに故郷に住めない状態を作り出しているのだから一体故郷に帰り残り住めるのだろうか?そういうことが常に現実問題として離れることはないだろう。一応30キロ圏外でも何かそういう気分の中にある。現実に飯館や20キロ圏内では人は住んでいないのだ。
残っていないのだ。だから残るということが重要なテ-マとなる。津波の被害にあった三陸などもそうである。そこに残れるのか残れないのかということが迫られている。現実にもう残れないとあきらめて住居を移す人もいる。なんとか残ろうと頑張る人もいる。常に残るか残らないかが迫られる。

この辺でも若い人は残れないと思う人はすでに住居を移している。残ろうとする人と残れない人とが分かれている。飯館村でもこれから残ろうとする老人組などともう残れないとする若い人たちが分かれている。そういうことで気持ちが引き裂かれているのだ。ここにはもう将来がないとあきらめて残らないと決めた若い人たちもいる。でも老人は残る他ないとここにいる。


残るというとき人だけではない、それは自然もそうなのである。津波で残った松とか庭の石とか家でも地名として残り谷-残り家というのが岩手県の津波の被害にあった海岸の集落に残ったのがわかる。家がなんとか残ったなということで地名化した。それは残らない家が多かったから残った家が貴重になった。陸前高田市では一本だけが残った松が奇跡の松となった。何万本の松が流されたからだ。飯館村では川俣に通じる幹線道路の一本の松は住民が消えても残っている。自然は残っている。でも住民は消えたという不思議がある。放射能汚染があっても自然は消えていない、飯館村とか立入禁止区域には残されたものがいろいろある。それらは残ったままなのである。残ったものと残らないものとの間で心がゆれている。なぜなら完全に故郷に帰らないといいうわけでもないからだ。いづれは帰るとはなっているから残されたものに思いを深める。これは数人とかの思いではない、避難した全員の気持ちであり30キロ圏外で避難しなくてもこの辺の人々の気持ちがそうなっているのだ。「残る」ということが常にテ-マとなってしまうのである。見切りをつけて残らないという人もいるしなおも残るという人もいる。そういうゆれる気持ちが働いていて落ち着かないのである。


飯館村のアグリというパンが食べられる喫茶店も終わった。それも福島市でまたはじめた。場所として飯館村は良かった。でも飯館村ではもう再開しないのだろう。そもそも飯館村が人々が帰れるのか帰れないのかわからない、でもまだ自然は残っている。墓も残っている。家も残っている。いろいろ残っているものがある。人々も残ってゆくのかそれがわからない、ただ残る残らないとか心がゆれたまま今年は終わってゆく、これは津波の被害にあったところでも同じである。果たして残って前のような生活に戻れのか、もう残れないのかということが常にも問題になっている。いづれにしろ仮設住宅手仕事もしないが金をもらっているからパチンコや飲み屋が繁盛しているとか異常である。金をもらっているから働かないという人々もでているという。酒を飲んでいる人もいる。そんな状態がつづいたらどうなるのか?精神的にこの辺は荒廃してしまうのではないか?ただどうしていいのかわからないというのが現状である。おそらくやはり20キロ圏内でも帰らない限り落ち着かないだろう。全体が落ち着かないのである。30キロ圏外でもそうなのである。ここでは落ち着いた生活が回復するのはいつになるのか?落ち着かないとそれぞれが落ち着いて仕事もできないのである。


飯館-松
http://musubu2.sblo.jp/article/34907113.html

posted by 老鶯 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連