2011年11月19日

科学時代の盲点 (地震学は素人の感より頼りない-フジテレビのプライムニュ-スを見て)


科学時代の盲点

(地震学は素人の感より頼りない-フジテレビのプライムニュ-スを見て)

mapjidhimnn11.jpg

sumatora1111.jpg

地球的規模で地震を見ていなかった


●科学万能主義に陥る危険


「科学的思考」と「科学万能主義」とは違う、科学的思考は科学万能主義にはならない。あくまでも一つの方法である。科学でこの世のことがすべてわかる、解決するとはならない、フジテレビの討論で地震学者が地震予知はできないことを言っていた。地震は未知の世界であり学者もわからないしそのことをもっと言うべきだった。地震の研究は狭い地域で分けてパ-ツにして研究していた。宮城県沖とか福島県沖とか岩手県沖とか部分に分けて研究していた。これは科学の手法である。部分化するのが西洋科学だった。ところがそこに盲点があったのだ。


震度9という地震を経験したことがなかった。経験していないのだからその経験から研究できなかったと言う。ところがスマトラでもアラスカでも震度9の地震は起きていた。スマトラは最近起きていた。それが全く関係ないと言えたのだろうか?地球は一つでありつながっている。地殻は連動している。だから日本のプレ-トがスマトラとかアラスカとは関係ないとは断言できない。地殻の変動は地球的規模になるからだ。人間の盲点は全体を知ることができないことである。科学は部分に分けて部分の研究は微にいり細にいりする。しかし全体として見ることは不得意なのである。地震学はそうした地球全体として研究せねばならないからそこに地震は予知できないのである。

もう一つ科学の盲点は長いスパンになると千年単位とかなると過去のことはまさに科学的に研究できない、貞観地震のことは最近科学的に研究されてわかってきた。しかし以前として推測の域であり

それがまた起こるという確定はむずかしかった。つまり千年とか単位となると科学者も確定的なことは言えなくなる。それから全体的把握になると科学は弱い。地球全体を研究するとなると手に余るとなる。だから部分的な研究には精をだしても地球全体を知ることはできないからそこが盲点になって想定外の巨大地震を予知もできなかった。でもスマトラとアラスカに起きたのだから日本で起きないとは言えなかったのである。



●現代文明に科学的思考は不可欠


それから地震の警報で問題になったのは地震警報は天気予報などと全く別なものだった。それを科学者も予報官もそれを聞いた住民も錯覚していたのである。天気予報は正確であるから地震も正確だと知らず科学に対する錯覚が生まれていたのである。科学はある分野では正確であり効力を発しているし科学の時代だから科学に望み期待することも大きくなっている。だから科学万能主義にもなる。科学がすべてを解決できると科学万能主義になる。科学的見方と分析と科学万能主義は違っている。
科学というときもはやこれを否定はできないのが現代である。例えば宗教にしても科学的にみるべきところはみなければならない、なぜならカルト宗教がこれほど大衆を洗脳するのはなぜなのか?それは不思議にも科学時代に科学的に見ないということなのだ。あらゆることを宗教に結びつけることはすでにガリレオの宗教と科学の分離に反している。またカトリックの政教分離でもそうである。宗教と科学や政治をまたは経済でも分離して考えるようになったのが現代である。


例えば創価などでもあなたが不幸になったのは信心しないからでありあなたの不幸の原因をすべて宗教にしてしまう。会社が倒産したり商店街が衰退して倒産したり病気になったりといろいろな不幸がある。それをすべて宗教に結びつけるやり方は科学的ではないのだ。その理由はすべて宗教にあるのではない、商店街の衰退は車社会になったとか巨大ス-パ-ができたとかにあると社会を科学的に分析するのが正解であり宗教は関係していない、病気にしてもみんな病気になるとしたらすべて宗教が関係するとはならない。現実宗教団体に入って祈ればすべて解決するとかにはどこもならないのである。こういうところでも科学的に見る眼が必要なのが現代である。科学時代に科学的な思考をせず盲信に陥ってゆくというのもまた科学万能ではないからそうなる。


●地震学は素人の感より頼りないもの


現代では科学が苦手でも科学的思考が必要な時代である。現代文明は科学的思考の上に成り立っている。それが科学万能主義となることとは別問題である。科学は万能でないからこそ原発事故も起きた。原子力や核について人間はすべてを知っているわけでないから事故が起きた。原発の安全神話は科学万能主義の宗教に似通ったものとなっていたのだ。科学が万能なら事故は起きない、でも事故は起きた。地震予知と不確かなものとこれまでもそのことは知っていた。だからあくまでも一つの目安にすぎないと科学者が言うようになった。地震について津波についてはわからないと言っていた。だから地震が起きたら津波の警報にしてもあくまでも目安にすぎないから自己判断で危険を感じて避難すべきだと言っていた。ところがやはりテレビとかマスコミが情報を受けていることが日常化しているときそこで錯覚が生まれたのである。

3メ-トルや6メ-トルの津波警報が出たときそんなものかと最初からみくびってしまった。それは常にテレビとかの情報から流されることになれていたことにもある。天気予報とにたものとして見るようになってしまっている。日常的には天気予報は正確なのだけど地震予知は正確ではないのだ。特に巨大地震は千年に一度でも起こるしこれからも想定外のものである。だからこそ予知はできないと言っていたから各自危険を感じて避難する他ないと言っていた。

そして地震警報をだしたのはその時、大阪管内であり大阪では東京のような揺れを直接感じていなかった。だからもし東京管内だったら直接のゆれを感じたからたれは尋常ではないと人間の感が働きもっと津波警報も違ってものとなっていた。そんなことを地震学者が言っている。ええ、人間の感の方が体感の方が頼りになる?それなら地震学者はいらないとなる。これほど地震学は未熟なもので頼りないものだった。それはこれまでもそうだったのである。でも日常的に天気予報とかが正確だからそこに錯覚が生まれたのである。日常的でないものに対し人間は弱いということである。

そうなると夢とか人間の不安とかの方が地震や津波に対して予知になったともなる。なぜなら海岸沿いに住んでいる人は大きな浪に飲まれる夢をみる、自分も小学校の前まで海の水がおしよせてのまれる夢を良くみてたいたのである。その通りに小学校前まで津波は押し見せていたことに驚いた。小学校前から海まではほとんど家もないからそういう夢をみていた。そういう夢が本当に現実化したことに驚いたのである。隕石が落ちる夢などは見ない、しかし浪にのまれる夢は実際度々みているのである。そうした人間の不安は現実化する。だから都会に住んでいる人がビルが倒れたりする夢を見るかもしれないがそれはいつしか現実化する。そういうことはありうるのだ。絶対に倒れないことはありえないのだ。そういう危険を感じることは回りにある。それはいつか現実化するのである。

posted by 老鶯 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

冬日(木彫りのアイヌ像-長寿は人類の目標だった)


冬日(木彫りのアイヌ像-長寿は人類の目標だった)

kiboriainu111.jpg
クリック拡大!

emjyuuu111.jpg

木彫りにアイヌの夫婦冬日さす


健やかに長寿の樹や冬日さす


その昔槐の盆やひなたぼこ



北海道木材の中でも特に堅い、槐(エンジュ)材を使用しています。槐材は、北海道の厳しい環境のなかで育つため、密度が高く油分が多いので、木彫りに適しており仕上がりも光沢が美しいものとなります。

きへんに鬼と書き、魔よけになるともいわれ、愛されてきました。延寿とも書いて、長寿を祝う木とみられています。昔はタバコ盆に用いられました


槐は固いから煙草盆としても使われていた。火でも燃えないということである。木にもいろいろ種類がある。これは長寿の樹としてふさわしいものなのか?実物はみていない。樹はもともと寿命が長い。だから長寿と延寿となった。延寿(エンジュ)が槐だった。人間の最初の文化はみんな樹からはじまった。アテネのアクロポリスの神殿も元は木の屋根だったとか石の前は木だったのである。


バイキングなどがノルウェ-から生まれたのはあそこは針葉樹林帯で木が豊富だから船の材にことかかなかったから船の文化が発達したとなる。今はヨ-ロッパでは森林が喪失している。でもベルゲン鉄道のテレビを見たらノルウエ-辺りはまだ森林におおわれていた。針葉樹だからゴシックの聖堂にもあっている。ゴシックの聖堂は森を象ったものだからである。


この木彫りの像は30年前頃買ったものである。お土産で買ったものでいいものがなかった。安物ばかりだからいいものが残っていない。お土産でもいいものを買わないとあとは捨てるだけになるだろう。いいものはやはり高いから買わないのだ。ただいいものは時間がたつにつれ光沢を帯び貫祿を帯びて価値がでてくる。本物の芸術品は時間の中で価値を帯びてその価値がわかってくるのだ。これも買ったときそれほどと思わなかったが今になると何か重厚なものを感じる。ただこれが特別高いのというのではない、当時5千円くらいだったろう。それでも今になると冬の日がさしてこの木彫りの像が重みがでている。今はインスタントで安物が多すぎる。家自体が外見は良くても安物なのである。
材料もいいものを使っていないからそうなる。やはり何でも長持ちするのがいいのである。


ともかく人間が長寿になったことは悪いことではない、長寿は人類の願いでもあった。多産多死は自然のル-ルだが高齢少子化は人類の歴史の必然としてそうなったのである。だからもともと悪いことではない。人間は本当に長生きしないと仕事ができないことがわかった。芸術の分野でもそうである。これは時間がかかるものだと思った。天才でない人は特にそうである。何か理解するのに時間がかかるのだ。現代のようにグロ-バル化したら芸術だって学問だってグロ-バル化しているだろう。すると外国のことを理解せねばならない、それが大変であり時間がかかりすきるのである。日本だけでも理解するのに大変なのに外国を理解するのは更に大変である。その点江戸時代は日本だけを理解していれば良かったから楽だったのである。

 


葛飾北斎


己、六歳より物の形状を写すの癖ありて
半百の頃より数々画図を顕すといえども
七十年描く所は実に取るに足るものなし
七十三にして稍、禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟り得たり
故に、八十六歳にして益々進み
九十歳にして猶その奥義を極め
一百歳にしては一点一格にして生きるが如くならんか
 
『富嶽百景』のあとがきより


天才にしてもこうなのだから凡人はなおさらである。自分も60過ぎてから結構俳句短歌詩でもいいのが作れるようになったと我ながら思う。凡才だからそうなったのだけどやはり芸術であれ一つの道を極めることは時間のかかることなのだ。だから長寿でないかぎり何か一つの道を極めることは不可能である。長寿は人間にとっていいことなのだ。ただ悪いとされるのは社会にとって活力を失うとか福祉の負担がただ増加するばかりだとかそうしたことで若者が老人は死ねとか盛んに言われる。でも人間が目指してきた一つに明かに長寿があったことは確かである。ただそれも健康でないと意味がなくなる。多少病気になっても仕事ができることが大事なのである。長寿はやはり人類の一つの目標であり負の部分があるにしろ今世紀に達成されたのである。もちろんこれからはわからない、意外と団塊の世代は早死になるとか言われているしわからない、でも長寿は健康であれば祝福されたことである。本当の幸福感は長寿ではじめて得られるもかもしれない、ただ自分はどうなるのかわからない、癌でないとするとすぐに死ぬとは思えないがわからない、ただ長寿でないと自分の仕事の大成ができないことは確かである。