2011年10月31日

秋薔薇(盛岡の岩手銀行にあっていた)


秋薔薇(盛岡の岩手銀行にあっていた)

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朝早み畑に人あり菊の花


目の前に農家の柿の熟しなる


この街になじみて長し秋薔薇


盛岡の銀行古りて秋薔薇


故郷のこの道知りつ夕月夜


雨しとと石をぬらして我が庭に山茶花ひそか今日開くかも

畑に人がいた。何か栽培してしいる。家で食べるものを作っているのか?放射能を気にしない人もいる。老人はあまり気にしないから自分でつくった野菜を食べる人もいるだろう。
やはり畑に人がいるのが普通でありそれでこそ畑の用をたしている。人がいない荒地では菊だって花だった映えない、自然といっても今接している自然は人間化された田園の自然である。だから人間かいなければ活きてこないのだ。人が働いていてはじめて活きてくる天地なのである。天地だけの人がいない世界は天地さえ栄えないということになる。

秋薔薇は盛岡のあの煉瓦の銀行があっていた。盛岡は東北では一番情緒がある街だった。東北で他に魅力ある街はあまりない、あそこに啄木とか賢治が生まれことがわかる。そういう風土だったのである。ただ二人は天才だから独特なのである。まず子規の写生を基本にしている人は天才ではないことは確かである。


秋薔薇はやはり盛岡のあの煉瓦の岩手銀行とあっていた。あの銀行は貫祿がある、存在感がある。建築も存在感があると後世に残る。今のビルなんか存在感がない。それは人間の心にも影響しているのだ。そういう存在感のある建築物とともに暮らしているとき人間も存在感あるものとなる。そこからルネサンスが生まれた。現代は豊でも何か重厚なものに欠けている。何でもめまぐるしく変わるけど恒久的なものが追求されないのである。長期的ビジョンを政治でももたないと人々も落ち着かない、やる気がでてこないとか言う人がいたが本当である。その長期的ビジョンをもつ余裕がないのである。


柿は何か素朴なものを示している。他の果物はそうは感じない、柿は日本的であり精神的なものの象徴としてある。そこが他の果物と違っている。他の果物はただ味だけなのである。もちろんみかんなどでも瀬戸内海とになっいるがそれを見ていないから風物として景色として鑑賞できないということもある。柿と農家は一体のものとしてある。


岩手銀行


明治44年4月
  盛岡銀行本店として、3年の歳月を費やして完成。煉瓦造鋼板葺3階建、延べ面積1020平方メートル。使用した煉瓦約91万個、総工費13万円余。設計は東京駅の設計者でもある工学博士辰野金吾、岩手県出身の工学博士葛西万司の両氏。
http://www.iwatebank.co.jp/restroom/legacy/nakano/index2.html



3年かかったというからそれなりに長い。今はそんなに長くかかって建物を建てていないだろう。ピミミッドだって大変な長い年月で建てられた。古代のものはみんなそうした時間をかけて建築された。ヨ-ロッパの聖堂でもそうである。結局現代は早く早くでありじっくり時間をかけて作ることをしない、だから浅薄なものしかできない、原発だって早く作りすぎたから古い原子炉で事故を起こした。もう少し待って技術的成熟した新しいものを使っていれば事故にならなかった。事故の原因が急ぎすぎたということにもあったのだ。現代は急ぎすぎて失敗することがかなりあるのだ。じっくり待って時間をかけて作るという余裕がない時代だからである。


盛岡は詩人の街
http://www.musubu.jp/hyoronmorioka.htm