2011年10月15日

終身雇用制は労働意欲を醸成した (派遣、時間給の労働がモラルを破壊した)


終身雇用制は労働意欲を醸成した

(派遣、時間給の労働がモラルを破壊した)


●終身雇用制は労働意欲に不可欠だった

最初に就職した場所を生涯の職場と心得て、あらゆる職場で、全精力を傾けて働いた。卒業と同時に就職した組織が、忠誠心とエネルギーを傾ける場所になった。その組織を発展させることが、自分の仕事を、自分の人生を発展させることと同義になった。
http://uonome.jp/article/tougo/854


利益優先で企業のモラルが低下すると、製品の品質が劣悪化するのは当然である
http://www.ne.jp/asahi/21c/union/news/no80/03ap_seih.html

この時代の働く意欲は終身雇用からでていた。これは極めて日本的労働形態だった。なぜなら終身雇用とは江戸時代の村のように一生をともにする,働く協働、協同、共同のコミニュティとしても機能していた。会社はそれほど人間の存在意義を与えるものとなっていた。会社人間には社蓄とかと批判されることもあるが人間の存在意義すら与える場所としてあった。だからドラマでもリストラされた人が自殺したことでもわかる。会社から離れたとき存在意義が断たれてしまったのである。そうした存在意義は終身雇用だからありえた。今のように派遣だとかパ-トとだとか時間給では絶対にありえない、時間給は時間を切り売りしているのであり極めて非人間的な働きかたである。それが常態化したとき労働の倫理はモラルは破壊した。派遣とか時間給は勤めるとか奉公するとかとはまるで違う。それは一時的に派遣する、一時的に時間給で働く・・・そういう人生を部分化する、時間も切り売りされた部分的なものとなる。終身雇用だったら時間は一生費やされるものであり奉公するというときもそれは一生であり時間給ではない、江戸時代の武家でも主君に奉公するというとき一生のことであり一時期、一時間のことではない、全人生を奉仕する奉公するということになる。君主に仕えるということはそういうことでありそうでなければモラルはありえない、時間給で働き派遣で働くとなると限られた一時間を金のために働くのでありあとは君主であり雇い主であり関係はなくなる。そういう働き方にはモラルが生まれようがない、ただ一時期を部分として部品として金のために働くことになる。終身雇用は外国のように職能団体の組合とも違う。

外国では職能ごとに組合があり強固であるからストも長びく、労働組合は資本家と経営者と対立してある。だからマルクスの階級闘争の思想も生まれた。今もヨ-ロッパでは階級社会であり貴族と支配階層と労働者は分かれて暮らしている。言葉すら違っている。イギリスでは英語に通じていれば労働者階級かどうか見分けられる。日本でのステ-タスはいかなる会社に属しているかであり階級ではない、会社が一つの村であり藩になっていた。

会社のビルの上に鳥居を作り祭っている。会社を反対にすれば社会なのである。そういう社会を戦後作ってきたのである。それは悪いとは言えない、労働のモラルを作ってきた。それが日本の高度成長を成し遂げた要因だという人もいる。つまり労働意欲がどこから生まれるのか?そのことが大事なのである。労働意欲は確かなことは派遣とか時間給から決して生まれない、江戸時代だったら藩に帰属して奉公する、勤める、商人も商家に奉公するとなりそういう部分的にではなく帰属するものがありそこに仕えるということで働く意欲が生まれてきていた。職人は職人でまた違っていた。職人は会社に属するというのではない、自らの職を技をみがくことに追求することにあった。職人は個々人でありその技を追求することに誇りをもっていたのである。だから下駄にしても職人の名前の下駄がありさまさまな分野で職人の名前がつけられているのだ。現代では職人の名前をつけている物はない、たまたま包丁作りでいい職人が近くにいて名前が彫られていた。でもそういうのは大量生産時代には消失したのである。


●江戸時代に犯罪は少ないのは移動しない生活だったから


もう一つ大事なことは労働のモラルが保たれたのは一カ所に定住して住んでいたからである。このことが意外と見逃されている。現代はめまぐるしく移動するから江戸時代がどういう生活か誤解しやすいのである。人はほとんど移動せず暮らしていた。農村は自給自足的な生活だった。するとそこに住む人は長く住んでいるなじみの人ばかりだった。そして一代だけではない、三代くらい住んで村の一員として認められるように長く住まないと信用もないのである。信用はそもそも長く一緒に住み生活しないかぎり協働しない限り作られない。ところが現代の生活は経済的にも今日あって明日は別れているような関係が多すぎる。そういう所からは信頼関係は生まれない、どうせ今日限りだとなればいちいち相手のことを考えない、ただ一時的に物を交換するようなものとして物として考える。それがマルクスの言う貨幣が神となる物神化現象となる。人間はそのときモノに過ぎない、モノとしてしか見ていないのである。そこから人間疎外が起きてきたということがわかる。人間の信頼関係とか存在意義は長い時間の中でしか作ることはできない、江戸時代は変化が少なく長い時間で継続する仕事が多かったのである。だから農家はもちろんそうだが職人でも十何代もつづいているような職人の家があった。そういうことはもう一代だけではない、そんなに長くつづいているのだから社会も安定しているしそういう所では犯罪は起こりにくいのだ。農村でも長い時間の中で人間関係も培われている。即性的なもの一時的なものはないのである。

一時的なモノを交換する、売買するような関係ではないのだ。そういう人間関係は狭い関係にはなるが犯罪を犯せるような社会ではない、そういう所で一人が犯罪を犯せば村自体が崩壊しかねない、それでそういう人がいても何とか一緒に暮らす方法をとる。いちいち裁判に訴えるようなことはしにくい、村のうちで丸く治める、そういう大家とか庄屋とかが仲介役として折り合いをつけていた。それが談合とかの日本的な折り合いの決め方になる。それをいちがいに悪いと言えないのはやはり狭い社会だとそうなる。波風をたてずみんなが穏便にまとめる方法をとったのである。だから日本人はあまり自己主張しなというときそういう狭い村の中で生きていたからである。ただそういう場所では犯罪は極めて少ない、日本で犯罪が少ないというときこういう狭い村のモラルがあったからである。よそ者が交じり合う世界ではなかなかこうはならない、日本でも外国人が交じれば増えれば犯罪がふえてくる。江戸時代からすれば今は何万倍も犯罪社会になっている。


●時間給、派遣の労働がモラルを破壊した


その原因が派遣とか時間給の労働の仕方にあった。特に時間給の介護士とかヘルパ-とか手伝いとか家に入ってくる人はもはや全く信用できない、時間給ということは時間を細切れにして労働を売っている。そういうとき金さえもらえればいいのだから労働のモラルも何もない、人を助けるということなどありえない、時間給で金さえもらえればいいということしかない、働く動機がそれしかないときいかに危険なものになるか、これは身をもって経験した。アメリカでは手伝いの人を裸で働かせるということで話題になったがそこまでしないともう働かせることもできない深刻な状態になっている。金目のものは盗まれるし家の事情がわかることは非常に危険なのである。


それも時間給とか派遣とかいう働き方が原因としてあった。ただ十年とかその家で働いていて家族の一員になっているような人は別である。それだけの時間の中で信頼が生まれているからだ。ところが最近はそういう金持ちの家でなくても一時間とか時間給で家の中に入ってくる仕事が増えたのである。こういうのは本当に危険極まりないのだ。信頼するには時間がかかりその時間をもてないで雇うからそうなる。そういう時間給で働く人には労働意欲が育たないし信頼もできないのである。特に人と人が直接向き合う介護関係はそうなる。そこではただ物の売買だけではない、親密な関係になるからだ。そういうところでは時間給とか派遣とかで雇うのは向いていない。本来そういう仕事はなかった。最近高齢化で生まれたものである。昔は隣近所で介護の世話をしていたとある。なぜ隣近所が向いているかとなると近くの90才の老婆と話ししたけどその人は自分が子供のときから知っている。今になり話ししていると自分の母親のようにも思えた。おそらく狭い村で育った人はみんな顔見知りであり一族のようなものになっていた。それは昔の言葉からもそうなっていた。


ハワイで発見された親族名称体系。全てのオジ・オバが父・母と同様に呼ばれ、全ての従兄弟・従姉妹が兄弟・姉妹と同様に呼ばれています(モルガン)


人間は部族時代ならみんな家族でありそうした大家族の一員になっていた。そういうところでは犯罪はおこりにくい。そういうところでは現代のような金が第一の社会ではない、金は貨幣はやはり交通が発達して外部との接触が増加すると金が大事になる。外部との接触がすくないと金は使いようにも使いない、金が贅沢品から生まれたというとき貝から生まれたというときそれは装飾品であり贅沢品だからそうした贅沢品は外部から入ってきたからそうなっているのだ。そういう贅沢なものが入ってくるとき金の力は大きくなり金をもつものともたざるものの階級分化も起きてきた。都市文明になったとき階級分化が起きてきた。それは市が都市の起源だとすると贅沢品が外部から入ってくるからそうなったのでる。だから二千年前のギリシャのポリスでも現代と同じ状況が生まれていた。それは貨幣が社会を支配するものとなっていたからである。


●福祉関係は金だけでは通じない世界


特に福祉関係ではそうでるある。「オマエなんか助けるつもりなど全くないんだよ、あわれみもしない、オレは金がないから時間給でオマエのために働いているんだよ、一時間でいくらかもらい働く、手助けするが一時間だけだよ、あとはしない、一時間これっぽちでは働く気などしないがしょうがないんだよ、オマエなんか死ぬおうが死ぬまえがどうでもいい、問題は金だよ、金をくれ、同情するより金をくれ、同情などしない、金さえもらえればいいんだよ、・・・・」こういう心の人が普通に働いていることは福祉関係では恐ろしいことである。あわれみなどまるっきりない、動機は金しかないのだ。だから非常に危険である。だから身寄りがない人は本当に悲惨である。例えいくら財産があっても苦しいとき助けてもらえない、むしろその巨額の財産のために殺されることが推理小説の普遍的テ-マになっている。そういうことは日常的に親族間でも起きているからめずらしくないのだ。そして身寄りのない人はどうしても今の社会は金だけが頼りになる。施設に入るにしても金である。でもいくら金があっても金で人の心は買えない、そのことが最後に老後になるとわかる。金があっても誰も助けてくれないということが現実としてわかる。みんな求めるものは金だけだとなる。自分もあわれみ助ける人は一人もいないことがわかる。金で雇う人は金が目的なのだがらあわれみなどない、それは親族さえそうなっている。そして遂には笑い事ではなくネコや犬に財産を残すということが事実として起こっている。ペットは金を欲しいと思わないからだとか最後の友はペットだったという人も高齢化で多くなっているのだ。無縁化社会もそうである。ただ若い人は老人になり身寄りがなくなることがどれほど恐ろしいことか実感できないのである。


ソロン自身が都市国家を破滅に導く最大の要因として「金銭の誘惑」をあげ「悪人でありながら富める者、善人でありながら貧しい者」が多いことを嘆いているようにこの世紀に抗しがたい貨幣経済の元でおよそその方向にしかなさえなかったのだろう。(時間の比較社会学-真木悠介)


人は金なりという言葉が前七世紀にすでにあったというから貨幣の歴史もそれだけ古いのである。
貨幣がこの世を支配するときそうなってしまった。グロ-バル化も金融が世界を動かすというときそうなった。でも金というのは紙幣にしかすぎない、実体ある富ではない、だからある時紙幣は紙屑になる時がある。資本主義が世界恐慌となりそういう時が迫りつつある。こういう社会はやはりある時ゆきづまり崩壊する運命にある。そういう時が近づいている。クロ-バル経済も崩壊する予兆がでている。それはやはり非人間的な貨幣が支配する社会の終焉に向かっているのかもしれない、今回の津波もそういう非人間的な社会から助け合う人間の姿を見た。それは利益追求だけではない、苦しいときただモノを運んでくれるだけでその運んでくる人が利益だけではない,命を救っていたのである。経済は協力のことであり利益追求だけではないことを知ったのである。助け合う協働に経済の基本があった。だから暴利をむさぼる人はやはり悪人なのだが資本主義社会ではそれが許されている。

その反発が世界中で激しくなりデモがアメリカでも起こっているのだ。ただここで言っているうに貨幣なしの社会は作り得なかった。貨幣に代わりうる社会の構築はむずかしかった。物々交換の社会にもどることはできない、貨幣なしの社会をつくりえるのか、何か新しい方法があるのかとなる。労働を労働で返すというのは昔は行われていた。ユイとかではそうである。それは貨幣なしの協働社会だったのである。そういう社会が江戸時代にはあり犯罪が極端に少なく協働社会は人々がなごやかにむつみあう社会でもあった。だから明治時代に訪れた外国人は日本人は幸せそうな顔している。その顔もみんななざごやかな笑いに満ちていたのだ。今はみんな憂鬱であり幸せそうな顔をしている人はいない、ただ金に追われ信用はない、不安定な相互のつながりもない無縁化社会になった。身寄りがある人はあまり感じないけど身よりない人はこういうとき最も悲惨な最後が待っているのだ。金だけではどうにもならない時が来る。だから最低限金だけではない家族や仲間を作っておく必要があった。そういうことを痛切に感じる時が来る。


 

posted by 老鶯 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題