2011年10月12日

限界集落とにてくる原発事故周辺の市町村 (消滅する、衰退する自治体)

 

限界集落とにてくる原発事故周辺の市町村

(消滅する、衰退する自治体)

●高齢化で置き去りにされる老人


2794集落に消滅の恐れ=高齢者5割以上は1万−総務省調査総務省が過疎地などの6万4910集落について行った調査で、全体の4.3%に当たる2794集落が、人口減少や高齢化の進展により今後消滅する恐れのあることが30日、分かった。

このことは原発事故で避難して消滅しそうな市町村にも起きている。働き手の若い世代は放射能のために去り老人だけが高齢者だけが残される。高齢者が多くなると福祉のサ-ビスも満足に受けられなくなる。現実に南相馬市では医者も看護師も半分いなくなった。この影響は大きい。会社もやめる所が多く若い人の働く場所が失っている。人口流出が街を衰退させる。南相馬市はすでにそういう状態になりつつある。相馬市は人口がまだ流出していないからもちこたえる。南相馬市か医療が崩壊してしまうことは残された高齢者も医療サ-ビスを受けられないから深刻である。一時救急医療も閉ざされた。福島市の方まで運ばれた人もあった。救急医療ができないと死ぬ人もでてくる。そういう危険がましてくるところで高齢者が暮らすのも苦しい。高齢者だけ残るというけど高齢者を支える若い世代がいなくなったらそれもむずかしい。あきらめて早く死んでしょうがいないという人が残るのか?そういう選択も迫られるのである。限界集落に残る人は贅沢だという意見もある。


人が住んでいる限り現代の便利な生活を維持しようとする。そのために物を運んだり様々なサ-ビスをするのがコストがかかりすぎる。それで一カ所に集めてコンパクトシシティ化するのがいいという案がでた。昔なら別に辺鄙な所でも他の市町村に頼らず自給自足していた。医者がいないとしたら早く死ぬのもあきらめていた。現在はそうはいかない、いざとなればやはり救急車を頼り助けてもらおうとするし様々なサ-ビスを受けたいと思う、すると限界集落はみんなの負担になるのだ。すでに今の社会は交通が発達しているから全国規模で地域を考えざるをえなくなっている。全国民の税金が限界集落に注がれることになる。今回の津波や原発の災害でも全国民の義援金もあったが税金も投入されるからそんなところに無駄となり一カ所に集めろと言われるようになった。津波の災害地でもあまり金をかけることはやめろというのはその金が全国民から出る税金になるからである。社会が全国民規模でまたは世界規模ですら考えざるをえない社会になった。だから一地域のエゴは許されないともなる。自給自足なら全国規模の援助がないのだからかまわないが今はそうではないのだ。限界集落に留まるにしても誰かが助けなければならないからだ。そのコストが高くつくからそう言われる。昔ならまず高度な医療サ-ビスなどないしあきらめているから良かった。それが今はできないからそういう要求をするならコンパクトシティ化して住めとなるのだ。森林の保全とかは車時代だから通ってするのが能率的と言われる。ただそこにもいろいろな意見はある。


●10キロ圏内は核の処理場に


8市町村がまとまる、「ふたば市」構想は悪くない、その場合原発周辺を処分場にして国からの交付金で自治体運営をやりくりするのが現実的だと思う。


この意見は何を意味しているのか、国の補償といい東電の補償といい、それは町村が消滅して国の管轄になり東電の準社員化することではないか?そもそも原発を作ったとき10キロ県内とか国と東電に町村を売り渡したようになったのではないか?もはやそこが核の処分場としてしか用がないというのはまさにそうである。そこの住民も国や東電の準社員化することになる。給料は国と東電から払われることになる。その前に原発で働いていた人はそうなっていた。それで世話になっているからと東電を擁護していたのである。ただ若い人は放射線量かあれほど高いのだから帰らない、若い人もが子供も帰らなければ町村の存続はありえない、それが10キロ圏内や飯館村ではほとんど不可能だという専門家の指摘がある。

放射能は一定量が常時維持されて減らないことが困るのである。一部を除染しても7割をしめる森を除染はできない、30年たってようやく半分にへるとかでは先が長すぎるのである。すでに2年が帰るための限度というけどとても変えれる年数ではない、そうなると帰れないということで生き残る対策をしなければならない、それがどういうものになるのか検討せねばならない、代替地案もあった。それも簡単にはすすまない、そのうちまとまらず散り散りになり町村は消滅してゆくかもしれない、互いのつながりも薄れてゆきあきらめて散り散りになってしまう。残されたのは国の核の処理場員として残る人である。それは東電の準社員化でもある。そもそも田んぼでも漁業でもとても現代では自立できないと原発を誘致した。それは東電の準社員化だったのである。それだけ東電は巨大な会社だったのである。つまり市町村を買収できるほどの財力をもっていたのである。だから事故になり現実的な案として東電の核の処理場になるのが残された道となる。ただそういう場所に若い人はもどらないからすでに町村は消滅しているのだ。国の管轄であり東電の敷地になってしまうのである。土地の買い上げもするというからそういう方向に進んでいる。


●代替地や他の市町村に移ることは可能か


これは現代で可能なのか?十津川村は災害で北海道に移住して同じ村を作った。この時はみんな農民だったからできた。土地さえあれば農業主体の生活だからできたのである。今は農業は経済の一割りにすぎないのである。移住するにしてもそれだけの仕事を用意できるのかとなる。核の処理場としての仕事は現実的だというときそれは確かに仕事になるから国と東電で支払ってくれるからそうなる。では他ではどうなるのかとなると何ももっていない人がどうして他の市町村に町ごと住めるのだろうか?もし大きな会社がありトヨタのような工場があればそこを仕事先として与えてくれればできる。そうでなければそれだけの人数を受け入れる市町村はあるだろうか?この辺でも仮設住宅ができて人口が5千人くらい増えたかもしれない、でもそれはあくまでも仮設住宅であり仮に住んでいるに過ぎない、恒久的にここに住むわけではない、だからここで恒久的に住む対策をとられていない、いづれ帰るものとして住んでいる。小高区だと20キロ圏内でさほど放射線量が高くないから帰れるとは思う。その点10キロ圏内とは事情が違っている。結局予想としては10キロ圏内とかは浪江町でも飯館村でもすでに存続することがむずかしいのではないか?現実的に見ればそうなってしまうのではないか?

放射線量は最近南相馬市でも0・5から減らないのである。他でもそれほど減っていない、放射線量は一定の量から減らない、セシウムなら30年間で半分になる、その30年間は長いのである。それはもうそこには住めないということである。だから帰るということで町村自体維持できるのだろうか?
若い世代と老人世代が分断されるのも一致できないのも市町村を維持するためには不利である。
しかしそう簡単に故郷を捨てることもできない、帰りたいというのはわかる。だからチェルノブエリでは老人は故郷に帰ってほそぼそと畑を耕して暮らしていた。放射能のことを気にしないと言ってとれた野菜を食べていたのである。

そういうふうにこの辺もなるのか、もうそれは市町村は消滅してしまったのである。ただ市町村が消滅するということを日本で経験したことはない、徳山村がダムに沈んでそうなった。でもここはまた規模にしても大きいし南相馬市では7万以上の人口があった。

双葉郡8町村で5万5千人とかいる。この人口は多い。相馬藩で飢饉のとき三分の一の人口がへった。そして越中を中心にその三分の一を補った。その墓がどこにでもあるからわかる。でも現代は農業中心の社会ではない、そもそも農業自体で生活できないから原発を作ったのである。どこかの市町村にそれだけの人が集団で移ること自体むずかしいだろう。だからどうしても散り散りになって生活するようになる。どこにでも移動は容易な時代だからである。むしろまともって町村が移住するとなるとかえってむずかしい。そういう場所か今はないである。分散するならあるがまとまった人数を受け入れる場所はない、市町村はないのである。

ただ何かいい知恵というのはあるかもしれない、それも簡単にはでてこないだろう。まとまった人数を引き受けるにしてもそれだけ余裕があり受け入れる力がある市町村はあるのか?南相馬市は近くても経済的に苦しくここも縮小してゆきどうなるかわからない、いわき市と南相馬市と相馬市に分散するというのは歴史的地理的にはいいがそういう状態に受け入れる所もない、ともかく南相馬市自体一体どうなるのか?その不安が大きいのである。限界集落となる不安が迫っているのである。縮小して衰退してゆく不安が消えないのである。それはイ-スタ-島とかマヤ文明のように取り残される市の不安になる。衰退してゆく市町村には誰も住みたくない、なぜなら心も衰退してしまうのではないか?単に物質的な面だけではない、イメ-ジは放射能の廃棄場、核処理場でありかつての自然豊かな市町村とも違っている。そういう市町村には誰も住みたいという気分になれないのである。気分やイメ-ジの問題も大きいのである。放射能は実被害がどれだけあるのか不明である。それでも風評被害とイメ-ジがそこなわれる被害も大きいのである。ただここに長く生きてきた老人はなかなか離れられない、だから墓に入りますとか百才の老人も自殺したのである。死に場所としてはもうここしかなくなっていた。60くらいまで住んでいる場所は一般的にはついのすみかであり死に場所にもなっいるし先祖の墓もあるから離れがたいのである。その死に場所すら原発事故は奪ったのである。

参考にした雑誌-政経東北-「消えゆく自治体」
 
 
posted by 老鶯 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

自分に起きたちょっとした事件の謎 犯罪は田舎でも増えている?)


自分に起きたちょっとした事件の謎

(犯罪は田舎でも増えている?)

犯罪が増えているとか増えていない主観なんだよ、自分のみにふりかかったら犯罪が多いなと思う
そうでない人は犯罪はあまり関係ないんだよ、犯罪を身近に感じて犯罪を知るんだよ
今回のことも変だった、小さなバッグを忘れた、それを知ったのが自転車でしばらく離れてからだった。忘れた場所はわかっていた。そこにもどってみたらなかった。それで近くのス-パ-に行ってみたら届けられていた。そのス-パ-に忘れた記憶はなかったが一応たずねてみたのだ。5分くらいしかたっていないからわかっていた。そしたらバッグがス-パ-に届けられていた。近いからス-パ-に届けたのだ。

「お礼をしてくださいよ」と店員に言われた。

店員に電話番号と名前が書かれたメモを渡された。

そのス-パ-では金がなくて外でカ-ドで一万下ろして使った。2千円内の出費だったろう。その時一万なのだから一万を使うはずがない、バッグが届けられていたしお礼をしろとも言われたので電話した。出たのは20才以下の高校生くらいの男子だった。そのバッグは通信販売で買ったばかりであり一万した。あとはカ-ドとデジカメが入っていた。あとは何も入っていない、でも全部で5万くらいとして一割の5000円払った。失敗したのは電話したときパッグの中味を見ていなかった。金が減っていることにきづかなかった。確かに一万をス-パ-に出したのだから2000円しか残っているはずがない、かといってぬきとられたとも思えない、わざわざ届ける人がぬきとるわけもない、するとス-パ-のバッグをわたし人がぬきとったのか、それとも自分に何か落度がありなくなっていたのか?その辺がわかりにくい、金はス-パ-でしか使っていない、・・・・その辺が謎になっている。ス-パ-内で忘れたならス-パ-の責任になるがその外になると警察に届けるものだった。ス-パ-に届けるものではななかった。ただ警察すら忘れ物の金をぬきとっていた事件があった。これはぬきとりやすいのである。小額だったら全くわからないのである。


バッグを届けた人に5千円をわたした。母親と一緒であり顔を見たらとても金をぬきとって届けるような顔ではなかった。すがすがしい顔をしていた。それも母親と一緒に来ていたからあの人はぬきとるようなことはしないと思った。人間はやはり表情を見るとわかるということがある。ただそれは人間を良くみれる人でないとむずかしい。人間の表情をよはとることはむずかしい。 するとス-パ-の店員がぬきとったのかとなる・・・それが有力だが自分の落度もある。小額をぬきとる犯罪がありそれはわかりにくくされて誰も訴えないということがあった。それは巧妙な犯罪である。犯罪者はそういう所に頭が働くのである。乱暴な犯罪はよほどせっばつまった人がするのだろう。


自分は最近どうしてか犯罪にあった経験があり犯罪を考えるようになった。これは額が少ないからどうでもいいことだがそれでも何か最近田舎でも犯罪が増えているかもしれない、せちがない、世の中になっている。余裕のない社会になっている。ともかく格差もひどいし時間給とか派遣という労働の仕方が労働倫理を壊している。まともに正直に働くことが馬鹿らしくなっている。自分も時間給とか派遣の働き方は大問題だと思う。それは底辺の労働のモラルを壊してしまったから犯罪は増えていると思う。ただこういうのは統計的には客観的にはわからない、そして警察に検挙されない数も膨大である。警察では小さい犯罪にはかかわらない、はっきりとした証拠がないかぎりかかわらない、それは大きな犯罪でもそうである。今は明確な証拠がない限り警察は動かないのである。結局犯罪がふえたとか増えないは主観的なものである。犯罪にあった人は犯罪のことを真剣に考える。あわない人は考えない、他人事であり面白がるだけである。それは殺人事件でもそうである


推理としては


●届けた人がぬきとった


●ス-パ-の店員がぬきとった


●自分が何かしらで金をなくした


何かで落としたのかもしれない、その可能性もある、ただ一カ所だけよって使ったあとは使っていない、それも何百円だけである。そのあとは自転車で去っただけである。
推理としてはこのどれかである。自分の過失も十分にある、そういうことも前にあった。
だから疑うのは良くないが最近犯罪にあったので主観的にそう思ってしまった。

posted by 老鶯 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

山中節の情緒(旅の思い出)


 

山中節の情緒(旅の思い出)


 



山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯のにおい


「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り春から秋にかけて北海道附近に出稼ぎしていた船頭さん達は冬が近づくと家に帰り一年の苦労を癒すためこの山中に来てゆっくり湯治をしたのである。


山中や菊は手折らじ湯の匂ひ 芭蕉


「山中温泉はまことに効験あらたかな温泉である。かの不老長寿の霊薬と伝える山路の菊を手折るまでもなく、湧き出る湯の匂いは菊に劣らず香しく、浴するほどに命の延びる心地がする。



太平洋と日本海の情緒は正反対である。情緒的には日本海側の方がいい。あの情緒は他ではなかなかない情緒である。日本海には何か古い家並みがあり昔のものさびた感じがあった。一方で太平洋な明るさはなく陰気な感じになる。雪国だから余計にそうなる。

山中温泉には行っていないから地理的なことがわかりにくい。そんなに山の中なのかとうことが実感としてわからない。やはり一回行ったところならイメ-ジしやすいし関心をもつ、ただこの辺りの白山郷がありそこには行っているし近くだった。そこは閉ざされた本当に山深い平家落人の里にふさわしい所だった。山中温泉はそんな山奥とも地図で見た限りでは違っている。ただかなり山間を奥に入った場所である。こおろぎ橋などがあり名前としてはいい。でもそこが山中節のように山が高くさえぎっている場所のようにも見えない。ただ日本は山にさえぎられている所が実に多い。山国である。こういう俗謡でもそういうふうになるのが日本の風土である。北前船の船頭がここで湯治した。長く滞在するからそこに恋も生まれた。そういう歴史を感じて泊まるのとただ泊まるのでは違っている。歴史がある場所とない場所では違っている。北前船にまつわる話しはいろいろある。太平洋側にはそうした情緒が不足している。何か人間的なもの情が深いものを感じる。日本海とか越前越中越後はそういう土地柄でもある。
今回原発事故などで新潟県にも浜通りから相当数の避難者を受け入れてくれた。新潟県はそういう情が厚いという面があった。ただ現代は旅の情緒がない、山中温泉に行ったことがない、たまたまテレビで見て知った。ここに芭蕉が長く滞在したのも知った。ここの湯にいやされたのである。でも温泉ホテルが今は意外と情緒がない、そもそも豪華なホテルは保養にはいいが情緒がない、旅人は木賃宿のようなものがにあっている。今はやたらホテルが多い、それで旅の情緒がそがれるのである。旅が自由になりどこでも行ける時代だがかえって本当の旅がなくなったというのも皮肉である。貧しいときの方が旅の情緒があり旅があったし旅人になれたのである。自分は旅がしたかったから豪華なホテルには泊まりたくない、もちろん金もなかったから安宿を探して歩いていた。長く旅しているとやっぱり安宿なのである。その点ヨ-ロッパは旅しやすい、安宿やユ-スホステルで安く泊まれる。年配の人も泊まっている。一方で外人用のホテルは高く豪華なのである。ヨ-ロッパは長旅する人が多いからそうなった。やはり旅にいい時代は戦前であり江戸時代だったのである。豊になりすぎて便利になりすぎて旅が自由になって旅がなくなったというのも皮肉である。豪華ホテルには泊まりたくない、また高すぎるということもある。ふらりと旅して気ままに泊まるホテルではない、だからどうしても今はビジネスホテルに泊まることになった。

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天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、滋賀・福井方面より山づたいに良材を求め移住した工人たちの「ろくろ挽き」が始まりとされております。
 その後、技術・製品ともに川を下り、手工芸品として山中温泉の浴客への土産品として広く生産されるように、1700〜1800年代にかけて工人たちのたゆまぬ努力と創意工夫や全国の名工を招いての技術導


江戸時代後期天保年間(1830〜1844)の蒔絵師 会津屋由蔵(あいづや よしぞう) 弘化年間(1844〜1848)の糸目挽き(いとめびき)名工 蓑屋平兵衛(みのや へいべい) ました。

1830年から1844年(天保年間から弘化年間)には会津の板物師桜田門兵衛が当地へ赴き会津の塗法を伝え、1848年嘉永)には会津の蒔絵師角田東斉によって会津蒔絵法が伝わり、川連漆器に見られる沈金、蒔絵といった装飾の、基盤も大きく築かれていった。



山中漆器で面白いのは会津の漆器が技術指導に最初に来ていたことである。すると会津の漆器は技術的に古く優れていたとなる。相馬焼きも技術指導のために益子焼きには相馬焼きの技術も入っていた。益子焼は笠間焼きからはじまった。焼き物の歴史を調べるとやはり興味深いものがある。浪江の大堀焼きは一体どうなってしまうのだろうか?焼き物は土が大事だとするとその土地に根ざしたものとして生まれた。ただ今は土も他からもってくるものが多いから青ヒビとかの技術は移住先でも残すことはできるのだろう。



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新蕎麦やむぐらの宿の根来椀


根来塗の名称は紀州(和歌山県)の根来寺から来ており、当時僧徒が自分の寺で使うものを作りました。根来塗の歴史は古く、正応元年(1288年)に遡ります。お寺で、僧が日常的に使う為、きれいに塗るというより、使いやすさ、丈夫さに 主眼をおき、黒漆で何回も塗り重ね、最後に一回 朱漆を塗り、仕上がりとしました。


この根来碗で新蕎麦を食べた。その味わいはなんともいえぬものだった。蕪村は食べることにかなり風流を感じて食べていた。江戸時代はともかく土地柄がにじみでるようなものが多かったのである。今はそういう土地柄の産物が喪失した。どこでも何でも手に入るということはみんな規格化した製品になったのである。おみやげが今は一番つまらない、まずいものが多い。名前だけになってしまった。そういう土地の情緒が喪失したのが現代でありそれと同時に旅の情緒も喪失したのである。江戸時代は旅に一番向いた時代であったが旅がしにくい時代でもあった。人間はだから時代によって恵まれたといっても必ず失われたものがありその失われたものは取り戻すことがもはやできないのである。

山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


日本はどこでもこういう風土なのである。隣の村も山にさえぎられて閉ざされている。隣の村に行くには峠を越えねばならない、そういう風土である。だから隣の村さえ神秘的になる。一旦去れば山にさえぎられて見えなくなるからだ。そしてし互いに閉ざされた中で暮らしていたのである。それで飯館村だったら大倉村と佐須村は民情が一致しないから合併できないということにもなった。狭い村々で民情が違っていたのである。それは山があるから今のような大きな市はできないのである。


あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり 大伴家持


山に隔てられている。その山の向こうを常に思っているのが日本の風土である。山がにくいとなるのもそのためである。山さえなければ会えるのになとなる。それで日本はトンネルが多くトンネルの技術も発達したことがつくづくわかるのである。


 

残る蝉の声(詩)


残る蝉の声



天地の静寂


残る蝉の一つ二つ


森の深みに


静かに聞き入る


親の墓所があり


ここを離れえじ


最後まで聞き入る


その蝉の声


ともにありにし


歳月の長きも


ここにともにありて


故郷の土となりゆく


天地の深まる静寂


そを聞き入りぬ

 
posted by 老鶯 at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般