2011年10月10日

熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった (原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)


熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった

(原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)



白神山地のブナ林の土壌は「ブナの森から出る水に肥料いらず」といわれるほど理想的な森林土壤であり,高い保水能力を持った土壤である。ところ力 5 ,昭和 33 年から人工造林計?が始まり,ブナを伐採して逮材用のスギゃヒノキなどの針染樹を植えた結果、洪水被害が増えた。


大きいブナだな”と思うもので樹齢は約250年


 カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く

ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。

人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。



ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた。山崩れの原因もブナと杉では根の張り方まで違っていた。ブナは土に密着して広く深く根を張っていたから土壌を堅くする用をなしていた。人間側にとって無用と見えたものが実は山にとっては不可欠な有用なものだったのである。人間はもう文明が開始された何千年前から自然のままではない人工的自然を作って住んできたのである。それが結局常に災いのもとになった。技(わざ)わいなのである。ブナを無用だとすることは人間の一方的な便利さのみを追求した結果であり自然の知恵によって作られた山と森と水のシステムがあった。それを壊した結果洪水が増え山崩れが増えた。今回の熊野地方の山崩れ災害はそのためだった。そしては十津川村は北海道に移住して第二の故郷の十津川村を作った。文明の崩壊が自然破壊と密接に関係していた。イ-スタ-島では森林を破壊しつくして崩壊した。土壌が疲弊して荒廃して文明が崩壊することもある。船を作るためにレバノン杉をとりつくして王国が滅亡した。
ウルクの王ギルガメシュは、ウルクの繁栄を願い、盟友エンキドゥとともに香柏(レバノン杉)を得るために、香柏の森の守護者(半獣半神)のフンババを退治に出かけることを決意しました。戦いのために、ギルガメシュは、エンキドゥと刀鍛冶を訪れて、3ビルトゥ(90Kg)の強力な青銅の斧と大太刀を作らせました。


人間はやはり自然に逆らうと復讐を受ける、そもそもプロメテウスも火を盗んだ結果として過酷な刑罰を与えられたのもそうである。今回の津波でもそうだった。もともと海だったところを開拓して水田にした。防潮林として松林を作った。それは自然とマッチした人工の美だったのである。その風景が根こそぎ津波で失われたのには驚嘆した。これも自然が自然をとりもどすために津波を起こしたのかともなる。青松白砂や水田さえ自然破壊をして作られた風景だったのである。津波があったところは自然に則して生活していれば津波の被害にあわない。人間は自然から離れ自然を破壊して文明を作ってきた。だから今の大都会は一旦災害には弱い、不自然なものであり極端に人工化した所だからである。その例が神戸大地震だった。火の海になり大被害を出した。海より低い場所に住宅地を作ること自体いかに危険なことか今回の津波でわかった。東京辺りにはそういう一帯があるからいかに危険かわかる。


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ともかく老子が無用の用を二千年まえに主張したときまさにこういうことだったのである。ブナを?(木偏に無)としたときまさに人間が便利なもの人間にとって便利なものだけを有用なものだけを追求した結果としてこの字をあてた傲慢があった。そういう人間側だけからの自然利用は必ず復讐を受ける。それが山崩れであり山津波であり今回の大津波でもあった。その復讐は恐るべきものになる。自然はとても人間の知恵では今でも計り知れないものだった。そういう計り知れない自然を畏れることなく原子力発電を海岸に作った。それが自然に復讐されたのだ。自然を甘くみてコストカットのみを追求した、そして自然にはない物質を原発は作り出してその毒で回りは住めなくなったのである。それは自然からの人間の傲慢に対する復讐だったのである。そういうことは地球全体にあり地球の自然が人間側の便利さや有効さなどの追求の結果として起こる。資本主義というのも貪欲に自然を人間側の欲のために破壊してゆくから大きな自然災害が起きて復讐される。自然には自然の知恵と理があって存続している。それを人間側の一方的論理と便利さのみ追求は危険なものとなる。


1889年 奈良県吉野郡十津川村水害遭難、壊滅。
1957年 新十津川村、町制施行。「新十津川町」


原発周辺の住めなくなった市町村はどうなってしまうのか?北海道に移住するようなことは今はできないだろう。すると散り散りになり消滅する。その歴史も断たれてしまう深刻なものとなってしまう。市町村が消滅するということはどういうことなのか?それは歴史と風土とかすべて失うことになる。そこに原発事故の残酷さがあったのである。

posted by 老鶯 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

女郎花野菊桔梗


女郎花野菊桔梗


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そのままに流さる船や秋の風


おみなえしに野菊のそえて桔梗咲くよこしまのなき花にあるかな


森深く一つ二つや蝉の声なお聞こえつつ秋の夕暮


天地(あめつち)の静けさここに極まるや蝉の声かすか秋の夕暮

芸術とかが才能だと思っているかもしれないが確かに啄木とか賢治とかわずかの天才はそうかもしれない、でも才能なくても芸術を極めることができる。芸術のバックボ-ンは倫理的なものである。
徳を追求している。つまり美とか禅とか義が一体であり別々のものではない、愛もそうである。
よこしまなき心に自然の美も映える。よこしまなきというとき別に人間は罪を犯すものだし過ちも犯すから罪を犯すなとは言えない、悔い改めろとは自分にしても他者にしても言える。


ただよこしまな心にはどうしても自然の美は映えない、ピカソなどの絵は本物の芸術ではないというとき美には邪なものもあるということになる。そういう美は本当の美の表現ではないということはある。天才的な人がモラルに欠けている場合があるからだ。天才でなくても普通人でもモラルをもっている人はいる。その簡単なモラルを維持することがむずかしいのだ。嘘つかない人がいないように特に今では社会の上層部は何かしら悪に染まっているように正直であること、嘘をつかないということ自体最高にむずかしいのである。だから江戸時代は素朴な人がそういう簡単なモラルに生きた人が多かった。農民とか職人でも嘘をつかずに生きられた。今は会社員だからその会社がモラルなき会社になっているのが多いからその会社に属している人はまた自分が正直であろうとしてもなりえない状況になっているのだ。


だんだん秋も深まる、天地(あめつち)の静けさが田舎にはまだある。そういう静けさがあるから田舎に住む。ところが今のこの辺は騒乱状態である。それでこういう所に住んでいるのが嫌になる。
そして飯館村でも高瀬川とかも近くの風光明媚な所にも行けなくなった。それがこの辺に住んでいても損になった。そういう自然に囲まれていることが心落ち着かせることだった。それがなくなったときなんかイメ-ジ的にもひどく損なわれてしまったのである。外から放射能地帯というイメ-ジしかもたれなくなった。これも大損だった。とても金で賠償などできない、東電の賠償も期待したほどにはならない、結局ここに住むことは大損にしたならなかったと結果的にはなる。それでも長年住んだ所は簡単に移れない、老人は移れないのである。


まだ蝉が鳴いている、天地の静寂にその声を聞く、今年は長く鳴いているのか、そろそろ秋もかなり深まってくる。除染で草はかなり刈ったから草ぼうぼうとはなっていない、この辺はいつになったら正常化するのか?もう半年も過ぎて流された船も一つの定着した風景となってしまった。