2011年10月06日

女郎花(自然と風流(みやび)


女郎花(自然と風流(みやび)

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夕月や二色の菊の畑に咲く


我が茶室介護となりて虫の声


女郎花今日もつつましく咲きにつつ我がよりければ木槿も咲きぬ


飯館の道の辺の石の淋しきや我が座りしを秋の夕暮

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風流はみやびの漢字の当て字だとすると風流は自然そのままというのではなくみやびからはじまった。「風流・風姿・閑雅・藻・温雅・雅妙・遊」この当て字もやはり自然そのものとは違っている。
閑雅などはみやびに通じた言葉に適している。野良仕事に追われているばかりだったら閑雅はなき、みやびはないからだ。何らか人間が手を加えた結果としてのみやびである。みやびとなると何か華やかであり風流となると自然そのものの感じがする。茶室も自然そのものではない、みやびである。人間が作る風流なのである。女郎花は野にありそれを手折り手水鉢に飾ったり茶室に飾ったり瓶に飾ったりすること自体みやびなのである。花瓶にさして花をさすこと自体がみやびなのである。実際に縄文人は花瓶を作っていないだろう。木の実を貯える器は作っても花瓶は作っていない、みやびはなかったのである。


「梅の花夢に語らくみやびたる花と我思ふ酒に浮かべこそ」(『万葉集』巻五・八五二)


梅がみやびたる花としているのは梅は中国から入ってきたものだからである。外来種だからみやびを感じた。異国情緒を感じたり舶来品だったのである。万葉時代は明治時代と同じだったのである。
中国の文化に唐の文化が入ってきた時代だったからである。


風流とか茶室とかなるとやはり回りでも生活に余裕がないと生まれないだろう。京都ではそれだけの余裕があるから生まれた。茶でも商人から生まれた、堺の金持ちの商人から生まれた。風流はそうした余裕がなければ生まれない、自然をみやびに鑑賞できないのである。芭蕉に俳句を習った人も金持ちの商人だった。東北でも芭蕉を泊めたのが俳句をする豪商だった。貧乏な人は仕事に追われるからそうした余裕がないから俳句でも作る暇がないのである。文化にはそういう暇を作り出すものがなければありえなかった。蟻のように働くばかりだったら文化は生まれない、スク-ルがそもそもスコ-レ(暇)から来ていることでもわかる。学問も暇がなければ生まれなかったのである。


ただ今のこの辺の状態は風流をみやびを楽しむという雰囲気ではない、田が荒地になっていること自体そこにはもはや風流を感じない、薊のようなものが増えているのは自然状態にもどっているからだろう。草ぼうぼうのなかに薊のようなものが繁茂する。それは風流ではない、秋薊というときそういう自然の状態ではない、人が田畑を作り暮らしているとき秋薊がある。その時風流を感じるのである。

でも月は変わらず出ていたから俳句を作った。菊が畑にわずかに咲いていた。ただほとんど荒地化しているから普通ではない、自然そのものというわけではない、荒寥とした荒地なのである。

補償にしても一反で2万5千円とかもらえないと農家の人が言っていたがたいしてもらえないのか?
そもそも補償額が巨額すぎるからとてもみんなが満足するような補償はできない、損になることが多い、第一こういう場所に住んでいること自体が損だと思ってしまう。風流もみやびも楽しめないとなれば田舎に住んでいいことあるのかとなる。都会だったら女郎花でも野からとってさすとか萩の花を見るとかできないからかえって損である。田舎では風流が楽しめるから田舎に住みたいという人がいる。風流となるとそれも農民など汗水たらして暮らしている人から比べると贅沢だとなるが今はそういう余裕がもてる時代だからそうはいえない、むしろ一切の風流を認めない、花にも自然にも趣味もなにもない人はある意味で恐ろしい存在だった。狂気のように茶室でも庭でも花でも植木でもそんなもの必要ないと怒る姿は恐ろしかった。そういう人間になってしまったことが恐ろしい、そういうふうに育てられたことも恐ろしいとなる。そういうけど働きづめにされた人はそうなる場合がある。家庭でもそうしてこき使われているばかりだとそうなる場合がある。たとえ経済的に余裕があっても
そういう家庭で育ったらそうなるのだ。人間の一生はほとんどの人が人間として全人間としてまともに育たない、歪められて育つ、それが最終的に恐怖の人間と化してしまう。

飯館村は良く行っていたから思い出の場所である。この辺はみんな思い出の場所であるが飯館村は特にそうだった。そこに今行けない、人が住んでいないというのも不思議であり異常であり残念である。あそこの石に座っていたなと思うときそれはそこに人が普通に住んでいたときの思い出である。もし人が住まなくなったらどうなるのか?石というのも実は庭の石と同じ様に村と一体になってあったのだ。全く原自然の石ではない、村の中で人間化した石である。だから石には必ず伝説があり人間的意味が付与されている。橲原の境石の立目石は小池村と橲原村の境の石としてある。人間化された自然は風流化であれみやびであれ全くの原自然とは違っているのである。だから人間が住まなくなっても以前としてペットのように犬のように猫のように人間を待っている。ペットも人間化した動物だからである。だから無人化してもゴ-ストタウンになると余計荒寥として淋しいのはもともとの自然ではない、人間化した自然でありそこに人間がいなくなったら余計に荒寥としてくる。廃屋があれほど荒寥としているのはそのためである。人間が住んでいたのに住まなくなったときあんなに淋しいものとなってしまったのである。