2011年10月04日

秋陽没る (もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池を今日のみ見てや・・の意味)


秋陽没る

(もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池を今日のみ見てや・・の意味)



烏二羽電車来たらず秋陽没る


家もなく残れる庭の石と月


朝日さし菊の映えにき今日のみや心に留め明日はなきかも



常磐線は5年くらい復旧しないという、線路は草に埋もれている。鉄道が通じていないと簡単に遠くに行けない、線路の電線に烏が二羽とまっていて秋の陽が山に没る。その感覚がまた不思議なのである。小高区も立入禁止で入れない、飯館も警戒が厳しくて入れない、仙台はバスになり最終が亘理で7時ころになると仙台に行ってもゆっくりしていられない、だから仙台に半年もすでに行っていない、介護とかなってから留守する人がいないからすでに遠くに行くことができない、結局狭い範囲で毎日生活するようになる。閉ざされた空間になる。これは明かに江戸時代にもどった感じになる。

江戸時代なら本当に狭い範囲で生活していた。電車も車も交通手段がないのだからいつも顔なじみの狭い範囲で生活していた。それでも車時代なのだから車を持っている人はやはり広い範囲で生活している感覚になっているのだろう。とても江戸時代の村で暮らすのとは全然違っている。自分の場合は車がないから余計に狭く閉ざされた地域で生活するようになる。生活空間が狭くされてしまったのである。そういう狭い空間にこの頃寒くなり秋の陽が沈んでゆく,それは今までとは違った感じなのだ。地域空間が狭いというだけではない、生活感覚が何か窮屈なのである。なんか茶室のような狭い閉ざされた狭い空間に生活している感覚である。


家もなくというとき津波で土台と庭の石しか残っていない、庭の石はやはり自然の石とは違う、ペットが野生の動物と違っているように石も人間化した石だった。そこに人間が住んでいたから人間化した石であり残された石から人間を偲ぶということがある。最後は石と月の世界になってしまった。
石についていろいろ書いてきたけど石はやはり真面目だとか正直だとか誠実だとかそういう人間的モラルの象徴としてもあったのだ。石は忠実な僕でもあった。その石だけが今も庭に残って月がでている。

 


大津皇子(おほつのみこ)の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余(いはれ)の池の般(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りませる御歌一首


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ


朝日さし菊の映えにき今日のみや心に留め明日はなきかも

 


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池・・・・代々に伝えられた謂われのある池・・・そういうふうになじんだ池・・そこにいる仲間の鴨とも今日のみで別れねばならぬ、別れるだけではない死ぬのだから永遠の別れとなる。そこにこの歌の痛切さがあった。それも24才としたら余りにも若かった。啄木の歌と通じるものがあった。そんな若くして今日のみだけ見て死ぬということは普通は考えられない。ただ60すぎたら「今日のみや」という感覚は日常的になる。いくら長生きの時代でも70くらいで死んでいる人が結構いる。死は身近であり「今日のみや」で明日はないということは日常的感覚になるのだ。

つまり今日のみや・・として人でも景色でも花でも見るのといつまでも見れるものとして見ているのとは違ってくる。あう人も今日のみで会い別れる、そういう感覚で会っているのといつでも会えるとして会っている感覚の相違は大きい。人間は人にしても死ねば永遠に会えなくなる、死別した人はそのことを痛切に知っている。すると今誰であれあっていることは何なのだろうと考える。この世での人間の出会いは何なのかと深く考える。あなたとわたしは今日限りしか会わないとなったらどうなるのか、その日はみんなやってくるのである。確実にその日はみんなにくる。若い日はたちまち過ぎてその日は確実にやってくる。そういう終わりの日から生きるときこの世に生きることは厳粛なものとなる。だらだらとしたものにはならない、「今日のみや」と見ていればそうはならない。


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池・・・それはこの辺で原発事故で故郷を離れて住む人にも通じる歌かもしれない,代々長く住んでいた家や土地と離れそこに永遠に住めなくなる・・・そういう現実を今つきつけられているのだ。奈良のように古い歴史がないにしろやはり江戸時代の前からも人は住んでいた。そういう土地から突然切り離される苦痛はこの歌と通じたものがあるかもしれない、そういうことを普通に暮らしていれば意識しない、ただ今そういう土地から切り離されたとき痛切に意識することになったのだ。

そして最後に今日のみやとしてみるべきものが何かというとそれは穢れのないものであってほしい。なぜ祖父母など死ぬとき孫に財産を残したいとなるかわかった。孫はまだこの世の汚れに染まっていないからだ。息子娘になると歳であり生活に追われたりして欲深くなり財産だけが欲しいとなっている人が多い。それは他人だったら金しか財産しかその人に求めることはないのだ。最後にはそういう人とは接したくない、清らかなものを見て心にとどめて死んでゆきたい・・・それが最後の願いなのである。だから最後を看取る人は心が清いということが必要である。しかし医者とかでもただ体を看取るだけでそういう人は少ない、ただ機械かもののように見ている人が多い。体だけではない最後には人の心を診る人が必要になってくるのだ。それは宗教者になるがその宗教者もほとんど今では汚れている、戒名でふっかけて金をもらうとかしかない、そういう金銭的なものから最後は離れたい、その最後を見つめる人は心清らかな人であってほしい、そういうことが看護師などにも求められる。どうしても歳とると人間はこの世の汚れと欲に染まっている。人格がこれほど変わってしまうのかとあきれてしまう。医者は体だけを診るが最後はもう体ではない、心を診る必要が出てくる。医者もいくら体をみても医者が変な人が多いというとき最後をみとるのにふさわしい人はまれである。そこにタ-ミナルケアの大きな問題がある。