2011年10月01日

磯部の津波の被害にあった人の話 (津波警報の出し方に問題があった)


磯部の津波の被害にあった人の話

(津波警報の出し方に問題があった)

磯部の人と原町区の火力発電所の所であって話を聞いた。磯部は一軒も家が残らなかった。土台だけであり相馬市で五百人ほど死んで半分は磯部の人だった。死体がここに流れ着いたんですよと聞いたときは生々しかった。その人の話では津波がどうしてやってきたか説明していた。突然に大きな津波は来ない、テレビの映像だと突然に大きな津波が巨大な波飛沫をあげて襲ったように見えるがそうではなかった。まず警報がでたとき海がどうなっているか見に行ったという、写真にとろうとして見に行った人もいた。あんな巨大な津波が来るとはそもそも思いもよらなかったのだ。防波堤は6メ-トルあるから大丈夫だとかここは津波が来ないとかまるで津波に対する警戒心がなかった。だから津波を写真にとってみようかとかなる。珍しい津波がくるから記念にとっておこうというくらいの意識しかなかった。九十才くらいの老人でも津波を警戒していなかった。そもそも津波の経験がないのだから歳には関係なかった。チリ地震の津波もあったがそれもたいしたことなかたことが警戒しないものになっていた。この心理は三陸とかでも同じだった。あそこでは何度も被害にあっていたのだからもっと警戒してもいいき思ったが同じだった。防波堤がありまずそれに安心していた。それからチリ地震の津波くらいだと過少評価していた。その大きな原因が最初の津波警報にあった。


3メ-トルの津波が来る
6メ-トルの津波が来る


つまり最初に出された水位がそんなものだった。自分は6メ-トルとテレビで見たとき驚いた。そんな高い津波警報が出たことがなかったからだ。津波注意報はしょっちゅう出ていた。津波警報はめったに出ないものである。でもこの津波警報の出し方が大きく影響していた。6メ-トルといってもそれほどでないと思う人がいた。最初から10メ-トル以上の津波が来るといったら対応の仕方も違っていたかもしれない、10メ-トルとなればかなりの衝撃を与える。磯部では地震の時、停電してテレビを見れなくなった。それでも海を見たいたら水はひいたという、それから第一波がやってきた、それは最初たいしたことがなかった。水が堤防を越えてきたのであわてて車で逃げたという、ええ、水が来てから逃げられたのかと思った。テレビではものすごい勢いで波が高く打ち上がっていたから見ただけ恐ろしかった。水があがってから車で逃げて助かったのか?近くの磯辺小学校の所に逃げて助かった。第二波、三波が来るまでそれなりに時間差があり助かったのだろうか?第二波、三波は巨大なものであり家が吹き飛んだのを見たという、それから凄い音がしたという、何かに爆撃されたような状態だった。


ともかく津波警報の出し方が大きな問題があった。今はテレビの情報を頼りにしている。人間の経験とか五感ではない、川の水がひいたからとか海の水がひいたからとかで危険を感じるのではない、テレビの情報に頼っている。ただそこに錯覚が生まれたのである。3メ-トルか6メ-トルかとその数字を見てたいしたことがないと判断した人もいる。現代は人間の五感とか経験を頼りにしていない、テレビの情報を頼りにしている生活でありそれが習慣化しているからとっさの危険の場合もそうなった。そこが盲点ともなっていたのだ。テレヒだけに頼るということが実は危険をまねいていた。誰かが今度の異変は普通とは違う、大きな津波が来るぞと予感してもそのことを言っても従う人はまれだったろう。テレビで気象庁から科学的な根拠のもとで発表するものだったら信じる。人間の五感とか第六感とかとっさの危機感よりテレビの気象庁の科学的根拠を基にした情報に従う。そのことがかえって今回裏目に出たのかもしれない、防波堤を作ったということでも安心していた。それも裏目にでた。また停電したり携帯が使えなくなったりすると情報も遮断されるからそういう日頃便利なものが一旦使いなくなったときどうにもならなくなる、各地で停電が起こり携帯が使いなくなったからだ

このことは原発事故でもそうである。気象庁とは誰かといえば原初力専門家委員であり政府でありマスコミでもあった。そういう所の情報を信じていたし放射能については地元の人も知らないから突然の事故に対処する方法がなかった。事故には全く備えていなかった。安全だと気象庁から言われていれば信じる。それは科学的根拠に基づいているから信じると現代でなっている。つまりかえってそういう情報の権威が一方的になっているとき他の情報をとり入れる方法がない、今でこそすべてのマスコミが原発が危険だと言っているけど事故の前は全部が安全神話を作る方だったのである。それは戦争と同じだった。戦争前は日本は勝つという情報しかださない、負けたとたんにアメリカ一辺倒になった。だから信じられなくなった。今回の原発事故でも「原発は危険だ」という情報が極めて少ない、原発は安全だという情報が圧倒的である。するとどうしても原発は危険だということから考えることがない、はじめに危険ありきから考えられないのである。現代ではマスコミが危険を知らせる役目をになっていた。しかしその役目を果たせなかった。だから津波の水が来てから逃げていたというのも他からは考えられないがそれでも助かっていたのである。津波は第一波ではなく第二波や第三波が巨大となり怖いということである。ともかく津波警報は今では6メ-トルくると言っても恐れない、10メ-トル以上の津波来ると言ったらその効果は相当違っていた。とっさに逃げる人もいた。つまりNHKの情報の出し方が問題だった。津波警報だけでは人々は即座に避難しないのである。


10メ-トルの津波来るぞ


こういえばかなりの効果が出ていたかもしれない、情報がテレビ時代となり危険を察知するのもテレビだけとなるとやはりそこに問題が生まれたというのもあった。それは津波の情報だけではない、様々な問題でテレビだけから情報をとっているとそういう間違いを犯しやすいのである。政治的判断でもテレビを見てばかり判断しているとそうなる。増税はやむをえないという発信ばかり聞いていたらそうかなといつのまにか思ってしまう。増税は役人や官僚がしたいのであり都合がいいからそうなる。国民が痛んでも官僚や役人は痛まないからそうなる。増税が震災復興のためにはどうしても必要なんだというときしかたがないとかなる。それもやはりマスコミがそういうとしかたがないのかともなる。いづれにしろ情報は出し方と受け取り方によってずいぶん解釈も違ったものとなる。テレビでもマスコミでも出される情報がすべて信用していいものではないしそのまま受け取っていいものでもない、独自の分析が必要になったりする。津波のような危険情報の時はそういう考える分析する余裕もないから情報が出す方が責任がある。その時人々の生死がかかっていたからである。



地震発生から1〜2分以内にあるいは発生後揺れが収まらない内に津波が到達することもあり、今後も警報・注意報の発表が津波到達時刻に間に合わない事例の発生が考えられる(現実に、津波警報等の発表の時点で第1波の到達予想時刻が「すでに到達と推測」となっていたケースは1999年以降でも幾つか存在する)。ゆえに海岸付近の住民は揺れを感じたら津波警報の発表を待つまでもなくすぐに津波の襲来を考えて、安全な高台に避難する事が第一優先といえる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E8%AD%A6%E5%A0%B1

市役所のアナウンスに全然危機感ない所に役所のクソっぷりが出てるな 
津波が腰まで来てんのに「大津波警報が〜、高い津波が観測〜」ってバカか 
「沿岸部で今車押し流されてっからすぐ逃げろ!!!」くらいに煽れよバカ 
そういう呑気な警報だから逃げ遅れるんだろうがクソ役所



こういうこともあった、役所の人はこういうことある、普通の時はいいがこんな緊急事態だと対応できない

機転がきかない、そういう場に遭遇した経験もないから普通のような対応していた


波がきてからでも助かっていた人はいた、第二波、第三波でのまれ死んだ人が多かった


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2011年10月02日

原町火力発電所と相馬共同火力(新地)発電所の津波の被害の違い (ちょっとした地形の相違で被害の大小があった)


原町火力発電所と相馬共同火力(新地)発電所の津波の被害の違い

(ちょっとした地形の相違で被害の大小があった)


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原町火力発電所

この建物の半分くらいまで津波が来た


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ここは一時火事になった

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相馬共同火力(新地)



ここの被害は少なかったのはちょっとした地形の相違だった


避難時に社員1人が死亡し、油漏れによる火災が発生。揚炭機全4機が破損し、8万トン級の石炭船も沈没した。同発電所は福島第一原子力発電所事故による緊急時避難準備区域に当たり、現在も復旧の見通しは立っていない[7]。東北電力によると復旧は2013年夏頃の予定としている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%BA%E7%81%
AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

ここは思った以上被害が大きかった。再開できるのが二年後というのもそのためである。特に海岸に接して突き出した所が大きな被害を受けた。その後ろはそれほど受けてないみたいだ。堤防のような丘にさえぎられているためでもあり多少高い所にあっただけで被害は少なくなった。新地ではすでに再開されているとなるとあそこも海に面していたが地形が違っていた。直接海に接しているというのではなく湾のような所にあったためかもしれない、津波は地形の影響が大きかったのだ。湾が深く入っていれば波は弱められる。だから東京湾はそれほど津波の被害がないとされている。三陸のような地形が一番津波にとっては被害を大きくする地形だった。松島や塩釜は島が防波堤になり被害が少なくてすんだ。


津波はここに丘が防波堤のようになっているけどこうしたものがあるだけで全く被害の度合いが違ってくる。福島第一原発は直接に海岸に接していた。この原町火力発電所とにていたのである。低い場所であり直接に海に接していたら津波の衝撃をもろに受けた。最初は高い場所に建てる予定だったがわざわざ土をきりとり低い場所に建てた。地震を恐れて地盤を固い所にしようとしたためである。それが命取りになった。予備の電源も地下に置いていた。津波のことは想定していなかったのである。そういうことは共産党の質問などで指摘されていたが何ら変えるつもりもなかった。津波は想定していなかったのだから当然だった。


ここでは千人も働いていたというのには驚いた。ここだけの雇用でもこの辺では大きい。退職した人が警備で働いている人が結構多かった。近くに警備会社があったのもそのためである。原発も雇用の場所として地元ではいい就職先だったのである。その恩恵を受けていた人はかなりいる。ただ火力と原発ではまるで違ったものだった。火力にしても二酸化炭素問題で環境問題があった。原発は二酸化炭素を出さないから環境にいいと言われていた。科学にうとい人はそういわれればそうかと思う人はいた。ともかく原子力は素人には非常にわかりにくいものだからである。未だに説明されてもどこまで危険なのかわからないのである。


この画像を見れば津波の高さが建物の半分くらいまできている。これだけ大きい建物だから上に逃れて助かった人がいた。千人くらい一時とじこめられたのだ。津波でも大きなビルならなんとか逃れられた。でもその建物も三階建てくらいでは今回は津波にのみこまれた。結局福島第一原発は津波にとっては一番危険な場所に建てていたのである。それはどうしてもそうした方が便利でありコスト的にもその方が安くすむからである。その便利さを追求した結果が安全がなおざりになった。そして津波は来ないという前提で工事ししていたのである。


それにしても新地の被害が少なかったのはわずかな地形の相違だった。地図で見てもちょっと海岸から離れていて前に多少障害物のうような丘があるだけで違っていた。前にちっとした障害物となるものがあると津波の勢いがそがれるのである。津波は浪の高さもあるがその浪か押し寄せる衝撃力も影響している。福島第一原発は海岸に接しているからもの凄い衝撃力で浪がおしよせてきた。浪の力が緩和されなかったのである。原発は日本ではそういう危険な場所に建っている。津波には弱い場所に建っている。また地震の巣の上にも建っている。例え三十年四十年事故なくてもどこかで事故は起きる。想定外の事故が起きる。そして一旦事故が起きたら今回のような惨禍になり人が住めなくなるのだ。

福島第一原発写真
http://www.anaroguma.org/komake/fukushima/photo_March/index.htm

posted by 老鶯 at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び (津波被害で消滅の危機の村)


牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び

(津波被害で消滅の危機の村)

テレビで見た大谷川浜での定置網漁は興味深かった。村落が消滅しかかっていたが漁をはじめたら魚はもどってきて大漁だった。その時漁師の顔は喜びに満ちていた。それまでまず避難所暮らしやら仮設暮らしで何もしていない、仕事がないというとき金がないというだけではない、仕事そのものが生きがいになっていることを自覚させられた。日頃何気なくしている仕事がもしできなくなったらどうなるのか?生活できなくなるということもあるが仮設で一応援助があって暮らしていけても何年も仕事がなかったら退屈するし生きがいがなくなる。その生きがいが特区にして企業に雇われるようにすればいいというがそれでは生き甲斐がなくなる。サラリ-マンになるのは嫌だいう漁師の気持ちを察してやれというのもわかる。自分の暮らしている場所が見える海で漁ができて生活が成り立つ、それが漁師にとっては生き甲斐なのである。それは農家だったら前田で働くことである。家の前の前田や前畑で働くことは充実感がある。サラリ-マンのように家から遠くへ出勤するのとは違う。つまり農家とか漁師は大地とか海と直結して一体化して生活する。自分たちの村のすぐ前の海で漁することは前田と同じ感覚である。人間の基本的生活感覚はそこから生まれたのである。牡鹿半島というと山も低いが大谷川村では清水が湧きでていて小さなサンショウウオまでいた。その清水は涸れたことがないというから水に恵まれていたことの不思議である。耕地になるような田畑はないが水に恵まれていればそれなりに生活できる。ただ鮎川は明治以降に鯨の遠洋漁業で栄えた。


鮎川は明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった。しかし,捕鯨会社の進出により,一躍,労働者がたくさん流れ込んできた。


網地島に隠居していた老人も遠洋漁業に行っていて話したことがある。鮎川は寒村に過ぎなかった。金華山は相馬辺りでも碑が結構ある。
でも金華山は古代まで歴史がさかのぼれるのか疑問である。
この辺の碑は明治以降になってから建てられたりしている。湯殿とかは古いが金華山信仰は新しいのである。

荻浜は北海道との航路があり港があり明治時代に栄えた。そこで啄木がより歌を残した。月が浦からは支倉常長の船がメキシコ回りでヨ-ロッバまで行った。東北では海への歴史がそれなりにある場所である。牡鹿半島を地形的に見ると後背地に山しかなく田畑は作れない、すると漁業だけで生きてゆくほかない、それで遠洋漁業に活路を見出すのは必然だった。そういう場所は対馬とかにもあった。山と海しかないのだ。海山の間がないから地形的に活路を見出すとなると海に乗り出すほかないのである。


今回はその漁村が壊滅的打撃を受けて村が消滅する危機に瀕している。もともと第一次産業は高齢化であり跡継ぎがなくなっていた。大学などを出せば故郷にはもどってこない、もしその土地で暮らすなら別に教育はいらない、その土地のこと海の漁のことに通じればいいのである。それは長年経験を積んだ両親とか祖父母から学べばいいのである。そこに世代間のつながりが生まれてくる。そういう生活が長い間つづいてきた。そういう生活が津波で奪われたとき皮肉なことに海に魚がもどりみんなで定置網で漁をして大漁になったときその喜びは深かった。津波で被害があっても海は死んではいなかった。海は豊かな恵みを与える海だった。海を恨んだがまた海に感謝する営みがもどった。その時の喜びは深い、人間の生活はもともと海であれ大地であれ山であれそういう自然と結びついていることにこそあった。そういうものが文明が発達したとき喪失してしまった。みんなサラリ-マンになり工員になってしまった。実際に第一次産業にたずさわるものは一割くらいになったときその価値は極端に低下したのである。現実は女川でも原発があり雇われる人が多く漁師だけで生活している人は少なくなっていた。それは漁業だけではない農業でもそうである。8割が第一次産業に従事していた時代とはあまりにも変化しすぎたのである。その時第一次産業にたずさわる人の心も変化した。農業であれ漁業であれ金にならない、跡継ぎもなくなるとか社会全体で価値が低いものとされたのである。

そのことが原発事故とも関係ないこともなかった。つまり漁業権を私的権利として原発を作るとき多額の補償金をもらっていた。浪江の請戸では5千万をもらった人もいたと白状した。それだけの権利が漁業権にはあったのだ。福島県の漁業組合ではみんな東電からもらっていたのである。この辺は牡蠣の養殖とかもないし漁業は盛んではない、だからまた容易に漁業権を売り渡すことにもなった。
でも農家でも漁師でも海と共に大地と共に山と共に生活する喜びとか価値を見出せなくなっていた。それより金になっていた。そういうことが原発を容易に建てさせた要因でもあった。現に原発のある玄海町でも漁師が反対しても金をもらっていたのである。金の魅力があまりにも大きくなりすぎたのである。それでも人間の本当の生活の喜びは山とか大地とか海と共と一体となってある所にある。

そういうことが見失われていたが津波や原発事故でそういうことが見直された。漁師が魚が踊る、大漁旗をかかげる、そこにこそ生きる喜びがあった。そういうことは金に代えられないものでもあった。それは農民でもそうだったがそういう生き甲斐とかより金だとなるとき容易に原発を誘致して手っとり早く金を得るということにひかれる。自分たちが求めていたものが何であったのか、そういうことを見直す機会にもなったことは確かである。海に大地に山に感謝しない文明生活はやはり神から見ると不遜なものだった。確かに津波はその自然からの大被害を受けたのだが人間は文明生活に浸り大地にも海にも山にも感謝しなくなっていたのである。江戸時代の生活は第一次産業がほとんどだから自然を畏れ感謝する生活をしていたのである。それが信仰にもなっていた。それが喪失したとき容易に原発が誘致されたともいえるのだ。ともかく金になればいいということでそうなったからである。それで津波が天罰だったというときそういう面も確かにあったかもしれないし人間の本来の生活を見直す契機になったのはそのことを証明している。



網地島
http://musubu.sblo.jp/article/29256713.html



再び大漁の喜び



再び魚が踊る

その魚をとらえる

鮭ももどってきた

その感触がいい

再び大漁だ

喜びが満面に満ちる

その魚を積んで村に帰る

妻や子供がそこに待っている

魚は村のものに分けられる

その喜びは深い

何にも得難い喜びがあった

久しぶりに働いた充実感

それは体全体にみなぎる

仲間とくみ交わす酒がうまい

人の絆がさらに深まる

津波はあまりにも酷かったが

海には魚がもどっていた

その魚の恵みがうれしい

再びまたここで魚をとり暮らせたら

そうつくづく漁師達は心から思った

・・・・・・


 


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父の形見の大漁旗
http://www.daily-tohoku.co.jp/special/sansya/news/news2011/san110803c.htm


大漁旗にはいろいろな思いがこもっていた。大漁旗のキ-ワ-ドでわかった。こういうときインタ-ネットは便利である。

TBS

集落消滅の危機に・・・男たちは海に賭けた (2011/10/1 放送)

posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年10月03日

原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


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烏崎の沼

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萱浜

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萱浜にあった家

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瓢箪や平和もどらむ二つかな

水葵色濃くなりてここに咲きまた来たりて秋となるかな


萱浜はぼうぼうとして萱の原元に帰りて秋風の吹く


誰か住む形見と残る庭の石草も枯れつつ秋風の吹く

 


烏崎の沼になったところは不思議である。水葵は色が濃くなったみたい、もともとあのような色なのか?あそこだけが本当に沼のようになった。他は水がたまっても浅いし汚い、あそこだけなぜ水葵と白い花が咲いたのか謎である。もともとそういう素地があって沼になった。なぜならあそこだけが自然に帰ったのである。他はあのように自然に帰っていない、湿地帯化しているところがあるが汚いのである。あそこの水は何か深く感じるし湿地帯の沼である。
いづれにしろ津波の跡は何度行ってみても不思議としかいいようがない、萱浜(かいはま)はもともと萱の原だったからこんな情景だった。江戸時代に越中から移住した人などが苦労して開拓した地域であり今でもその時のことを語り伝えていた。それが今や水の泡になった。元の萱の浜に帰った不思議である。一軒の家があった所に庭の石だけが残っている。これはどこでもそうである。庭の石だけは残ってあとは土台だけになってしまった。老人ホ-ムがあったところまで水が来て被害があった。


ともかくなんとも荒寥とした風景になった。あの辺にはもう家は建たないし田を作ることもないだろう。無理して田んぼを作り米作りする時代ではないから農家でも廃業する人はふえるだろう。すると萱の浜のまま放置されるのか、でも土地は広いから何か利用するというとき産業廃棄物とか放射能の処理場にいいとなってしまう。その他にソ-ラパネルでも置くかとなり現実にそういう会社がアメリカから来たりしている。津波の跡はもはや水田にはならない、それだけの労力を費やす人はもういないだろう。湿地帯化すれば自然がもどったことになるがきれいな北海道のような湿地帯になるかどうかはわからない、菖蒲などが咲けばそうなる。

瓢箪は秋の季語であり平和がもどってほしい、今までの普通の日常がもどってほしい、津波と原発事故の前は瓢箪が下がっていてこの辺はのんびりしたところがあった。今は毎日毎日放射能がどうだこうだそしてぼうぼうとした草がなびく津波跡とか平和が失われたのだ。瓢箪とか糸瓜を養う余裕がなくなった。そういう余分な人を養う余裕がない社会もまた窮屈なのである。年金暮らしの人は金の心配がないから残れるというけどそうでもない、現実に南相馬市から半分の医者や看護師がいなくなった。すると金があっても世話する人がいなくなるのだ。だから年金をもらっても金があってもサ-ビスを受けられると限らないし金があると安心もしていられないのだ。市町村でも全体が衰退することの影響が大きいのだ。全体が衰退したらもう個々人でも家でも栄えることはありえない、個々が栄えることは全体が栄えてはじめてありうる、全体が衰退したらあらゆるものが衰退してゆく、芸術とかもやはり生まれない、育まれない、決して個々人が金があるとしてもそういう市町村では栄えることはない、そういう衰退する市町村では金の価値すらなくなっているのだ。そもそもサ-ビスを受けられないからだ。物は通信販売でも手に入っても医療とか福祉関係など人的サ-ビスは受けられなくなる。
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2011年10月04日

秋陽没る (もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池を今日のみ見てや・・の意味)


秋陽没る

(もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池を今日のみ見てや・・の意味)



烏二羽電車来たらず秋陽没る


家もなく残れる庭の石と月


朝日さし菊の映えにき今日のみや心に留め明日はなきかも



常磐線は5年くらい復旧しないという、線路は草に埋もれている。鉄道が通じていないと簡単に遠くに行けない、線路の電線に烏が二羽とまっていて秋の陽が山に没る。その感覚がまた不思議なのである。小高区も立入禁止で入れない、飯館も警戒が厳しくて入れない、仙台はバスになり最終が亘理で7時ころになると仙台に行ってもゆっくりしていられない、だから仙台に半年もすでに行っていない、介護とかなってから留守する人がいないからすでに遠くに行くことができない、結局狭い範囲で毎日生活するようになる。閉ざされた空間になる。これは明かに江戸時代にもどった感じになる。

江戸時代なら本当に狭い範囲で生活していた。電車も車も交通手段がないのだからいつも顔なじみの狭い範囲で生活していた。それでも車時代なのだから車を持っている人はやはり広い範囲で生活している感覚になっているのだろう。とても江戸時代の村で暮らすのとは全然違っている。自分の場合は車がないから余計に狭く閉ざされた地域で生活するようになる。生活空間が狭くされてしまったのである。そういう狭い空間にこの頃寒くなり秋の陽が沈んでゆく,それは今までとは違った感じなのだ。地域空間が狭いというだけではない、生活感覚が何か窮屈なのである。なんか茶室のような狭い閉ざされた狭い空間に生活している感覚である。


家もなくというとき津波で土台と庭の石しか残っていない、庭の石はやはり自然の石とは違う、ペットが野生の動物と違っているように石も人間化した石だった。そこに人間が住んでいたから人間化した石であり残された石から人間を偲ぶということがある。最後は石と月の世界になってしまった。
石についていろいろ書いてきたけど石はやはり真面目だとか正直だとか誠実だとかそういう人間的モラルの象徴としてもあったのだ。石は忠実な僕でもあった。その石だけが今も庭に残って月がでている。

 


大津皇子(おほつのみこ)の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余(いはれ)の池の般(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りませる御歌一首


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ


朝日さし菊の映えにき今日のみや心に留め明日はなきかも

 


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池・・・・代々に伝えられた謂われのある池・・・そういうふうになじんだ池・・そこにいる仲間の鴨とも今日のみで別れねばならぬ、別れるだけではない死ぬのだから永遠の別れとなる。そこにこの歌の痛切さがあった。それも24才としたら余りにも若かった。啄木の歌と通じるものがあった。そんな若くして今日のみだけ見て死ぬということは普通は考えられない。ただ60すぎたら「今日のみや」という感覚は日常的になる。いくら長生きの時代でも70くらいで死んでいる人が結構いる。死は身近であり「今日のみや」で明日はないということは日常的感覚になるのだ。

つまり今日のみや・・として人でも景色でも花でも見るのといつまでも見れるものとして見ているのとは違ってくる。あう人も今日のみで会い別れる、そういう感覚で会っているのといつでも会えるとして会っている感覚の相違は大きい。人間は人にしても死ねば永遠に会えなくなる、死別した人はそのことを痛切に知っている。すると今誰であれあっていることは何なのだろうと考える。この世での人間の出会いは何なのかと深く考える。あなたとわたしは今日限りしか会わないとなったらどうなるのか、その日はみんなやってくるのである。確実にその日はみんなにくる。若い日はたちまち過ぎてその日は確実にやってくる。そういう終わりの日から生きるときこの世に生きることは厳粛なものとなる。だらだらとしたものにはならない、「今日のみや」と見ていればそうはならない。


もも(百)づたふ磐余(いはれ)の池・・・それはこの辺で原発事故で故郷を離れて住む人にも通じる歌かもしれない,代々長く住んでいた家や土地と離れそこに永遠に住めなくなる・・・そういう現実を今つきつけられているのだ。奈良のように古い歴史がないにしろやはり江戸時代の前からも人は住んでいた。そういう土地から突然切り離される苦痛はこの歌と通じたものがあるかもしれない、そういうことを普通に暮らしていれば意識しない、ただ今そういう土地から切り離されたとき痛切に意識することになったのだ。

そして最後に今日のみやとしてみるべきものが何かというとそれは穢れのないものであってほしい。なぜ祖父母など死ぬとき孫に財産を残したいとなるかわかった。孫はまだこの世の汚れに染まっていないからだ。息子娘になると歳であり生活に追われたりして欲深くなり財産だけが欲しいとなっている人が多い。それは他人だったら金しか財産しかその人に求めることはないのだ。最後にはそういう人とは接したくない、清らかなものを見て心にとどめて死んでゆきたい・・・それが最後の願いなのである。だから最後を看取る人は心が清いということが必要である。しかし医者とかでもただ体を看取るだけでそういう人は少ない、ただ機械かもののように見ている人が多い。体だけではない最後には人の心を診る人が必要になってくるのだ。それは宗教者になるがその宗教者もほとんど今では汚れている、戒名でふっかけて金をもらうとかしかない、そういう金銭的なものから最後は離れたい、その最後を見つめる人は心清らかな人であってほしい、そういうことが看護師などにも求められる。どうしても歳とると人間はこの世の汚れと欲に染まっている。人格がこれほど変わってしまうのかとあきれてしまう。医者は体だけを診るが最後はもう体ではない、心を診る必要が出てくる。医者もいくら体をみても医者が変な人が多いというとき最後をみとるのにふさわしい人はまれである。そこにタ-ミナルケアの大きな問題がある。

 

2011年10月05日

東電と国家の関係 (原発事故の責任は誰に-戦争と同じだった)

 

東電と国家の関係

(原発事故の責任は誰に-戦争と同じだった)


●政府の責任のあいまいさ

そもそも原発事故の責任は誰にあったのか?国では東電にあったとするが国策で進めたのだから国にも責任はあった。安全神話を形成したのは国の力もあった。文部科学省では教科書に原発が危険だ書かせなかった。子供にすらそういう教育をして洗脳していた。それは戦争に絶対に負けない、日本は神の国だから天皇がいるから負けないという洗脳と同じだった。東電の管理のずさんさを今は嫌というほど指摘している。ところがそのずさんな管理を指摘するのは原子力保安委員だったが何ら機能していなかった。東電の社員と同じだったのが原子力保安委員だったのである。東電はそれをいいことにコストカットに走って安全は見逃された。今になるとなぜ津波に備えていなかったのか?そういうことが厳しく問われている。


「津波に備えろよ、もっと高い所に原発を建てろ、土地を削って低くしてはだめだ、予備の電源を地下に置いてはだめだ」


そういう命令する権限は原子力保安委員にあった。地震に備えることもあるがもっと津波にも備えろという命令をだしていれば土地を低く削って建てることを許可しないだろう。そういう権限が政府にはあった。それをしなかったということは政府の責任も大きい。東電にまかせきりになっていた。すると東電は企業だから安全よりコストを重視してコストカットに走った。私企業であるかぎりコストを追求するのが資本主義社会の宿命でもあった。でも原発は一私企業が運営するのには余りにも危険なものだった。だからこそ国策として政府が加担するものとなった。それでも政府も原発に対しては認識が甘すぎた。東電の言いなりであり政治家もただ原発の利権だけに目を向けていた。これは自民党と公明党の時代にその基礎は作られていた。政治家も原発利権の虜(とりこ)になっていた。原発推進の議員が自民でも民主でも福島県の議員でも非常に多いのである。そういうなかで誰も原発の危険を指摘できなくなっていた。これは日本は必ず勝つという誤った信念に陥っていた戦争のと時と同じだった。そういう危険なものを一企業にまかせきりになったのも大問題だった。原発は戦艦大和を建造するとにている、国の威信がかかっている。アメリカなどではそういう覚悟で運営していた。日本ではそういう覚悟が弱かった。


●原発の危険に対する甘さ


つまり戦争するような覚悟でないと原発は作り得ないような代物だったのである。もしそういう決死の覚悟で作るなら国指導で津波にも備えろと強く検討されてわざわざ土地を削ったりさせなかったかもしれない,高い防波堤も作っていたかもしれない、まず東電の建設許可の段階でそうしたことを許可させない、そういう権限が政府にあったし責任もあった。でも原発に関しては政府の影が薄い、政府は官僚でも50人が東電に天下りしていたとか検察も警察関係もしていたとか議員には金をばらまかれて買収していたとかマスコミにも湯水のごとく金を使っていたとかそういうことしか聞こえてこない、政府が東電にとりこまれたとしかいいようがない。一企業が国家のようになっていた。それはすべて巨額な金を持っていたことによる。一企業の力がすでに国家をとりこむようになっていた。
一企業でも一宗教団体でもそれが巨大化すると国家の中の国家になってしまう。政治家もそういう巨大な組織の代表者でありその組織の意向を無視しては政治家にもなれない、するとむしろ国家はそうした巨大組織が運営するものとなる。


政治家の権力、指導力がどれほど現実的に通用するのか?首相の権限がどれほどあるのか?原発でも首相がやめるといえばやめられるのかといえばできない、財界からの圧力があって管首相もひるがえした。首相でも決める権限がない、背後の組織の圧力があるからだ。戦争にしてもどういう経過をへて戦争に突入したのか?一首相の独断でできるわけがない、しかしその誤った判断はやはり無駄死にともいえる大量の死を生んだ。原発も何か戦争とにているのだ。誰が責任化あったのか明確ではない、東電すら被害者だと思っているから謝罪にしても真剣ではない、戦争のときもそうだった。結局誰も責任はとらなかった。責任者が明確化されないからあやふやにされるからまた同じ過ちがくりかえされる。

それが日本的体制としてある。結局その時の空気にさからえなくなった。その場の空気が重大な決定につながる、空気だから誰かに責任があるわけではない、全体が国民までもその空気を作っていた。だから誰も責任がないというのが日本だというのも本当かもしれない、科学者も科学的判断に忠実ではなかった。ただ安全神話を形成するばかりだった。ただ科学者はやはり科学的に探求していたのである。津波のことも10メ-トルとか想定して対策をたけようとしていたがその前に津波が来てしまった。その想定にしても不確実だとなれば金がかかるとなればとりあげられないし対策は東電ではとらなかった。政府そのものでも安全対策を真剣に考慮していない、東電側の言いなりになっていた。管首相がベントがどうのこうのというときだけ政府が指導権を発揮するように見えたがそれもかえって逆効果だったとか批判されている。政府は何ら原発に対して強く働きかけるものがなかった。ただ東電から金をもらったり官僚は天下りの得意先だったりマスコミも東電の言いなりであり厳しく安全を問うことがなかった。共産党だけが福島第一原発で厳しく危険を指摘していた。それも軽く一周されて具体的な行動にはつながらなかった。


●原発事故は第二の敗戦


結局原発事故も広島長崎の原子爆弾で終戦になったように日本の第二の敗戦だった。その責任も明確化されずうやむやとなる。その責任は自民公明政権の時に基礎が築かれていたのだからそこにも波及するからされたくないとして責任はあいまいになる。そもそも原発は国の命運を左右するようなものとして考慮されていなかった。そういう危険を覚悟の上で運営されているわけではなかった。だからあんなずさんな運営になっていたのである。ただ危険を隠す方にだけ安全神話を作る方だけに過剰に労力が財力が費やされたのである。日本が勝っている、勝っているという報道しか耳にしない戦争と同じだった。地元でも原発で働いている人が近くにいると原発は危険じゃないかとさえ言えなくなっていた。その人たちは強く原発は安全だとにらみつけるように言われる。それは戦争に負けているんじゃないかとか言うと回りの人に非国民と言われた時代とさほど変わらなかったのである。地元でもそういう意識が強かったのである。それは原発利権のあまりの大きさによっていた。やっぱり双葉町の庁舎は6千人しか人口がないのに立派である。双葉郡では小さな市町村でも合併しなかったのも財政が豊だったからである。そういう構図は戦争とにていた。日本はそういう失敗をくりかえす国となっていた。それは明治維新で武士がいなくなり指導者が変わりそういう体質に変わったことにも起因している。日本という国を責任をもって指導すべきものが喪失した。ただ求めるのは利権だけであり金だけである。それが一企業ならしかたない面があるにしろ政治もそうだし宗教団体もそうだし大衆もそうだし日本人のもともとあったモラルも崩壊している。そういう中で原発事故も起きてきた。


國のため 重きつとめを 果たし得て 矢弾つき果て 散るぞ悲しき 栗林忠道


ここには国のためにとあるから国家を背負っていた指導者の最後の姿があった。東電は一私企業であり営利追求の会社だから国家の命運を左右するなどと思っていなかった。そんな責任が自分たちが負っているとも思っていなかった。でも事故をおこしたとき国家の命運を左右するほどになっていたのだ。だから自衛隊から消防隊から警察まで総動員になった戦争と同じ状態になったのである。そこで大和魂と救ってくれと地元の人は一挙一投足を見ていた。日本の命運を左右するほどのものになっていたのだ。散るぞ悲しき・・・ここに万感の思いがあった。戦争の是非は別にして現代で国のために重き勤めを果たして・・・とかそういう気概をもった政治家も官僚も指導者もいなくなった。ただすべてが利益追求になってしまった。東電に官僚が50人も天下りしていることでもわかる。東電の社長も5億円の退職金をもらっていたとかでもわかる。遂には最後硫黄島の地獄の戦場で散るぞ悲しきと言って死んでいった人の悲しみはこういう人には今の日本人にはわからない、この歌に国に対する万感の思いがあったのである。飽食の経済的豊さのみ戦後追求してきた結果としての原発事故だったかもしれない、国の誇りも威信もない、ただ個々にも全体にも経済的豊さ金の追求だけになっていたのである。戦争の是非は別にしてこうして死なねばならない人がいた,大勢の日本人がいたのである。その悲しみは深いのである。


 



終戦時にはGHQという強力な権力を持って日本の既得権益とか利権構造を平気で破壊できる力のある組織があった
今はみんな自分の既得権益と利権構造を守ることに汲々として、誰もまじめに国のことも国民のことも考えていない
http://unkar.org/r/lifeline/1303532577

そういうことはわかりやすい、政党なら自分たちの政党の既得権益を守ろうとしているし官僚なら省庁の既得権益が第一だし天下り先の確保だし会社は会社で既得権益を失いたくない、東電なども会社の既得権益を失いたくないから送電と発電の分離をしたくないとかそれぞれの組織が既得権益を守ろうとして働き手いるだけ,そこに国の意志の統一はない、ただそうした既得権益のために働く集団があるだけだとなる。そこで自分たちの利益になることだけを追求している。国難に一致して立ち向かうということはなくなった。それが原発事故を起こした原因でもあった。要するにみんな権益だけを求めてバラバラなである。誰かが統一して事にあたることはなかった。安全をないがしろにするようになっていた。それも見過ごされたのはただどの組織も既得権益を失いたくないし利権を最優先したからである。マスコミだって東電は最大の得意先だった。みんな利益のみを求めていたからそうなった。

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秋の夕暮短歌十首(南相馬市立病院の思い出)

 
秋の夕暮短歌十首(南相馬市立病院の思い出)

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病院の窓



大原にその人あれや街遠く老いて淋しき秋の夕暮


一か月病院にありぬそのことの思い出深き秋の夕暮


病院に勤めし人のそれぞれにいかにしあらむ秋の夕暮


病院の窓により見ゆ大原へ秋の夕焼け美しきかな


一時は浪江の人とともにありその人いづこ秋の夕暮


原発にちりぢりになる故郷の人の絆や秋の夕暮


原町に実家の墓のありにしを参り菊さし帰りけるかな


原町の母の実家は今はなし墓のみ残り秋の夕暮


あわただし時の移りやおさまらぬ原発の騒ぎ秋となりしも


病院の窓辺に鳩のとまりしを心なごみぬ秋の朝かな


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秋の朝病院に目覚め原町の街に光や我は生きるも


南相馬市立病院がなぜ心に残っているのか?一か月も入院したということにもあった。病院の一か月は長いのである。でもあの市立病院は4階か5階だった。ともかくあそこは眺めが抜群だった。海も見えるし山の方も見えた。その山の方に住んでいたのが大原の人だった。その人とはずいぶん話した。大原のことがよくわかった。大原は鹿島区だったら橲原と同じ位置にあった。山際であり街からは遠い、橲原は奥座敷としたが大原もにていた。ただ大原という土地にはあまり関心がなかった。その人の話しを聞いて関心をもったのである。その人は80近くかなり重病で話すことができなかったのである。それが突然話せるようになった。それでいろいろ話を聞いたのである。ちょうど暇だから時間をもてあますから話を聞くのに向いていたのである。そして病院の窓から大原の方を見ると秋の夕焼けが美しかった。眺めがいいから心理的にも癒しになった。そういうことは病人の心に影響するのだ。

相馬市立病院は全く違っていた。建物は古いし眺めはよくない、ほとんど外の景色が見えない、あそこだったら入院したら嫌だなと思った。ただ医者とか看護師は悪いとは言えない、ただ建物や立地している場所が良くない、もっと高ければ市街とか海の方まで見えるようになっていた。あそこは三階くらいしかない、南相馬市立病院は見ただけで建物も立派だし眺めが抜群だったのである。なぜあのような立派なビルが建てられたのか?それなりの財源があったとなる。東電からの金で建てたというものではない、この辺では東北の火力発電所である。でも小高区に原発を建てる予定になっていたのだ。そこから金が入っていたが事故で断ることになった。双葉町の庁舎は実に立派である。南相馬市立病院とにていた。やはりあれだけのものを建てられるのは原発の金が入っていたからである。あの辺では小さい町でも合併しなくても原発の金でやっていけたのである。富岡町長の5億円入っていたとうい金庫の話題はつきない、それだけの金が入る裏付けがあるから騒いでいるのだ。原発の補償にしても何兆円となる、そんな金を東電で払うということにも驚いた。それだけの収入があったことにも驚いた。それだけの金になるのが電気事業だったのである。


いづれにしろ一カ月間の入院は不思議な思いで深い経験となった。一人は大原の人でありもう一人は浪江の人だった。その人はわずかに手を動かすだけでしゃべることもできない悲惨な状態だった。妻が来て手を握るだけであったが何か通じていた。もう一人はこれも悲惨だった。94才の身寄りのない老人でありただ肉体だけが活かされている、治療費が無料ということで活かされている悲惨なものだった。身寄りがないから誰も来ない、それが自分とにていたから恐怖になった。そして今浪江の人は一体どうなったのだうか,推測できるのは妹が郡山にいるからそっちに移ったのだろう。それにしてもあれだけの病人をかかえてどうなったのだうと思う。浪江は悲惨な状態になった。もう一人は双葉の人が二日ほどいた。双葉町にはない科がありこちらに来るほかなかった。双葉や浪江は大きな病院がないからそうなった。その人はバスで

埼玉に移動するとき妻がテレビに写っていた。もともと埼玉に娘がいるから移り安かったのである。

それにしても浪江にしろ大原でも放射線量が高いから避難地域になったようにその後は原発事故の影響を大きく受けた。大原では息子は街の市役所に勤めているからとてもあの体では農業はできないから放棄されるだろう。一人猫とともに大きな家に住んでいたのである。東電に補償されてもらった方がいいとなる。浪江の人は15町歩の田畑をもっていた。でもこれも跡継ぎがないとかあり補償された方がいいともなる。鹿島区では38町歩もっていた人が補償問題で原町区にきていた。そんなのは昔の地主の土地の広さでありやっけていけるのかとも思った。その補償額も大変なものになる。ただ農家は土地をもっていれば確実に補償される。漁師も船をもっていたりすれば補償される。その補償額は大きいのである。鹿島区は30キロ圏外でも一所帯百万支給される。ところが相馬市になると支給されない、そこに不公平があり不満がでてくる。でも補償するにも限度がある。きりがない補償になってしまうのである。


原町とは母の実家があったとこでありその墓だけは残っているから縁のあるとこである。原町はどうしても用事があり買物などで頻繁に行っている。原町が衰退すると鹿島区は不便になる。相馬市は遠いから困るのである。故郷に住んで南相馬市立病院は一番思い出深い場所となった。その病院が医者や看護師が半分になった。そのことの影響は大きい、誰か一億円寄付して病院を建てなおしてくれとあったがよほど原町区に思い入れがある人だったのか感心した。それだけ病院は大事な場所だった。病院が整備されていないと寿命が縮まることは確かである。緊急の場合は治療できなくて死ぬことにもなる。そしてなぜ医者も看護師も半分もいなくなったのかと思う。放射能の影響のためである。看護師でも若い人が多いしこれから結婚して子育てする人達だからそうなる。でも南相馬市でも山の方と違い放射能はそれほど高くないのだ。だからここで子育てができないということでもない、そして人間は簡単に故郷を離れることができるものなのかとも思う。人とのつながりがあり家族とのつながりもある。もちろん希薄な人もいるからいちがいには言えない、人とのつながり、土地とのつながりでも希薄になっているから今は移動しやすいというのはいえる。


医者とか看護師はどこでもひっぱりだこであり生活できる。そしたら放射能汚染地域に住むことをこだわる必要がない、それでも何か人とのつながりもそんなに希薄であり見捨てるのかとかなると淋しいとなる。それだけここで生きてゆくという理由がないのも淋しい、例えば金持ちは日本から今だ脱出して外国で暮らす算段をしているとか、かえって苦しいときは日本を見捨てることができる。富岡町長が郡山に家を新築したとか飯館村の村長が福島市にマンションを買ったとかすでにそういうふうに金のある人は他に移り住むことが容易な時代なのである。人とのつながりより金だとなっている時代である。逆に金の時代でないなら人とのつながりの方が大事になっている。江戸時代だったらそんな簡単に他に移れないから留まるほかない、運命共同体の一員として運命を共にするほかない、今なら金さえあれば他に移れる、もうここではまともなサ-ビスが受けられないと金がある人は移れるのである。現実に福祉関係では全国でもサ-ビスのいい市に移り住んでいる人がいるのだ。だからこれからも辺からは人が流出してゆく、市は衰退してゆく、でも何か思い入れあった人は一億円寄付したのである。その思い入れが何なのかは個々人によって違うからわからない、でもそういうものがあれば残って働く人はいる。そうすれば復興もできるがそれがむずかしていのである。



秋の病室の窓
http://musubu.sblo.jp/article/41232749.html


2010年-10月に入院の記録
http://musubu.sblo.jp/archives/201010-1.html

 

2011年10月06日

女郎花(自然と風流(みやび)


女郎花(自然と風流(みやび)

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夕月や二色の菊の畑に咲く


我が茶室介護となりて虫の声


女郎花今日もつつましく咲きにつつ我がよりければ木槿も咲きぬ


飯館の道の辺の石の淋しきや我が座りしを秋の夕暮

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風流はみやびの漢字の当て字だとすると風流は自然そのままというのではなくみやびからはじまった。「風流・風姿・閑雅・藻・温雅・雅妙・遊」この当て字もやはり自然そのものとは違っている。
閑雅などはみやびに通じた言葉に適している。野良仕事に追われているばかりだったら閑雅はなき、みやびはないからだ。何らか人間が手を加えた結果としてのみやびである。みやびとなると何か華やかであり風流となると自然そのものの感じがする。茶室も自然そのものではない、みやびである。人間が作る風流なのである。女郎花は野にありそれを手折り手水鉢に飾ったり茶室に飾ったり瓶に飾ったりすること自体みやびなのである。花瓶にさして花をさすこと自体がみやびなのである。実際に縄文人は花瓶を作っていないだろう。木の実を貯える器は作っても花瓶は作っていない、みやびはなかったのである。


「梅の花夢に語らくみやびたる花と我思ふ酒に浮かべこそ」(『万葉集』巻五・八五二)


梅がみやびたる花としているのは梅は中国から入ってきたものだからである。外来種だからみやびを感じた。異国情緒を感じたり舶来品だったのである。万葉時代は明治時代と同じだったのである。
中国の文化に唐の文化が入ってきた時代だったからである。


風流とか茶室とかなるとやはり回りでも生活に余裕がないと生まれないだろう。京都ではそれだけの余裕があるから生まれた。茶でも商人から生まれた、堺の金持ちの商人から生まれた。風流はそうした余裕がなければ生まれない、自然をみやびに鑑賞できないのである。芭蕉に俳句を習った人も金持ちの商人だった。東北でも芭蕉を泊めたのが俳句をする豪商だった。貧乏な人は仕事に追われるからそうした余裕がないから俳句でも作る暇がないのである。文化にはそういう暇を作り出すものがなければありえなかった。蟻のように働くばかりだったら文化は生まれない、スク-ルがそもそもスコ-レ(暇)から来ていることでもわかる。学問も暇がなければ生まれなかったのである。


ただ今のこの辺の状態は風流をみやびを楽しむという雰囲気ではない、田が荒地になっていること自体そこにはもはや風流を感じない、薊のようなものが増えているのは自然状態にもどっているからだろう。草ぼうぼうのなかに薊のようなものが繁茂する。それは風流ではない、秋薊というときそういう自然の状態ではない、人が田畑を作り暮らしているとき秋薊がある。その時風流を感じるのである。

でも月は変わらず出ていたから俳句を作った。菊が畑にわずかに咲いていた。ただほとんど荒地化しているから普通ではない、自然そのものというわけではない、荒寥とした荒地なのである。

補償にしても一反で2万5千円とかもらえないと農家の人が言っていたがたいしてもらえないのか?
そもそも補償額が巨額すぎるからとてもみんなが満足するような補償はできない、損になることが多い、第一こういう場所に住んでいること自体が損だと思ってしまう。風流もみやびも楽しめないとなれば田舎に住んでいいことあるのかとなる。都会だったら女郎花でも野からとってさすとか萩の花を見るとかできないからかえって損である。田舎では風流が楽しめるから田舎に住みたいという人がいる。風流となるとそれも農民など汗水たらして暮らしている人から比べると贅沢だとなるが今はそういう余裕がもてる時代だからそうはいえない、むしろ一切の風流を認めない、花にも自然にも趣味もなにもない人はある意味で恐ろしい存在だった。狂気のように茶室でも庭でも花でも植木でもそんなもの必要ないと怒る姿は恐ろしかった。そういう人間になってしまったことが恐ろしい、そういうふうに育てられたことも恐ろしいとなる。そういうけど働きづめにされた人はそうなる場合がある。家庭でもそうしてこき使われているばかりだとそうなる場合がある。たとえ経済的に余裕があっても
そういう家庭で育ったらそうなるのだ。人間の一生はほとんどの人が人間として全人間としてまともに育たない、歪められて育つ、それが最終的に恐怖の人間と化してしまう。

飯館村は良く行っていたから思い出の場所である。この辺はみんな思い出の場所であるが飯館村は特にそうだった。そこに今行けない、人が住んでいないというのも不思議であり異常であり残念である。あそこの石に座っていたなと思うときそれはそこに人が普通に住んでいたときの思い出である。もし人が住まなくなったらどうなるのか?石というのも実は庭の石と同じ様に村と一体になってあったのだ。全く原自然の石ではない、村の中で人間化した石である。だから石には必ず伝説があり人間的意味が付与されている。橲原の境石の立目石は小池村と橲原村の境の石としてある。人間化された自然は風流化であれみやびであれ全くの原自然とは違っているのである。だから人間が住まなくなっても以前としてペットのように犬のように猫のように人間を待っている。ペットも人間化した動物だからである。だから無人化してもゴ-ストタウンになると余計荒寥として淋しいのはもともとの自然ではない、人間化した自然でありそこに人間がいなくなったら余計に荒寥としてくる。廃屋があれほど荒寥としているのはそのためである。人間が住んでいたのに住まなくなったときあんなに淋しいものとなってしまったのである。

2011年10月08日

秋風(五輪塔に残る歴史)


秋風(五輪塔に残る歴史)


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金木犀ここに匂うや夕暮れぬ


我が帰るいつもの道や秋の蝉


この道や残り少なく秋の蝉


古りにける五輪塔や秋の風ここに吹きにつ謂われ伝えむ


牛越城望みつ暮れぬ五輪塔電車通らず秋風の吹く


彼岸すぎて誰か参れる故郷の墓所の静かに秋の夕暮


ワレモコウ薊野菊や野辺の道草むら深く夕暮るかも


素朴なる人と暮らしてその村にともに眠るは幸いなるかな

原町の線路の近くの上高平の五輪塔はかなり古い、それは向き合っている牛越城のあった山と深く関係していた。謀叛がありその時に功績があった。歴史はその場所と深く関係している。take placeであり事件でもどこで起きたかが問題になる。あの五輪塔はいかにも古いのである。五輪塔があるということはやはり古い墓だとなる。もちろん最近建てられた五輪塔は違う。五輪塔が一番多く建ったのは鎌倉時代である。だから鎌倉には五輪塔が多いのである。江戸時代になったとき江戸の百万都市ができたのでありそれまでは鎌倉であり江戸については資料がないというのも何か歴史は過去は錯覚することが多いのである。江戸百万都市ばかりを思うから鎌倉はその前にあったことをイメ-ジできなくなっているのだ。あの五輪塔には名前がないか青田氏のものであることはまちがいないだろう。
今は常磐線は草に埋もれて通らない、すると余計に牛越城のある山にまっすぐに向き合っている。時代が逆戻りしてしまった。古墳でも何でも歴史的なものは場所が深く関係している。だからその場に立ってみないとわからないのである。これはテレビなどで見てもわからない、地理はその場に立ってみないとわかりにくい。一部分ではなく回りを俯瞰しないとわからないからである。

南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/36245436.html

それにしてもこの辺は電車は通らない、原発の近くは町村が消滅するとか考えられないことが起きている。もし市町村が消滅したらその歴史も消滅する、そういうことがありうるのだろうか、ダムに村が沈んだだということはあった。でも小規模であり浪江とかでも2万人とかいるし他も6000人とかいる。そういう町が消滅するということはどういことなのか?双葉町だって江戸時代から相馬藩内であり人が住んでいた。するとそういう歴史も失われることになる。原町に残っている五輪塔から過去をふりかえる。しかしもし町村がなくなったら墓所すらなくなり神社とかもなくなり元の自然に帰ってしまうのだろうか?そういうことは考えもしなかったから想像できない、いろいろなものが失われる。飯館村だって葛尾(かつろう)村だって江戸時代から住んでいた。そういう歴史が断たれてしまうのだろうかとなる。
今日はバッグを忘れた。それがス-パ-内でなかったが届けてくれる人があった。本当は警察に届けるところをス-パ-に届けてくれた。でも警察に届けると同じだからお礼をすることにした。若い人でありよく届けたと思う。若い人は何かちゃらちゃちしているいいかげんに見えるがまだ歳とった人よりモラル的にいいのかもしれない、まず50以上はモラルがない、大人だから分別あると思ったら大間違いである。分別あるのは80以上であり50から60代はまるでない、この世代はまた欲が深くなっているから金がすべての世代だから怖い。この世代の人をヘルパ-とか手伝いとかなるとよほど気をつけないといけない、家に入れる人は最大限を気をつけないと痛い目にあう。
ただ田舎だとまだまだバックなどス-パ-に忘れても他でも意外と誰かが届けてくれたりするから田舎はその辺が違っていると思う。でも家の中に入れる人はよくよく気をつけないと今はだめである。50以上の人は最大限を気をつける必要がある。結局子供や若い人がまだいいのは欲がそれほどないからでてある。まだ純真なところがあるからだ。親子にしても子供も30以上とかなると財産だけが欲しいとなってしまうのが普通である。そして年取って淡白になるとか今はならない、年取るとますます欲が深くなるのが現代である。それだけ金の力が大きくなっているからだ。金なくしては何ら力をもてないと育ってきているからである。田舎が素朴でいい時代は終わった。自分が素朴だと思った人は病院で出会った80近い人と馬鹿正直な85才の女性だった。あういう人はまだ素朴でありそういう人とその土地で最後に暮らして墓に入りたいとなる。ただ今は放射能騒ぎでそれもかなわなくなったらどうなるのか?死に場所すら奪われたとなるのだ。
ワレモコウ あざみ 野菊・・・秋らしい、それはまだ草むらに咲いている。しかし回りはぼうぼうとした枯野になってしまった。草茫々の枯野であるから異常である。こういう風景もまともじゃない、人間の正常な生活が津波と原発事故で奪われたのである。ただ田舎だからまだ風景に素朴なものが残っているのだ。まだ秋の蝉が鳴いている。

2011年10月09日

人間の業(わざ)-文明の限界 (原発事故はその象徴として起きた)

 

人間の業(わざ)-文明の限界

(原発事故はその象徴として起きた)

原発事故を今の時点ではなくて人類史から考究する必要もある。エネルギ-革命として必然的に原子力が夢のエネルギ-として生まれた。人間は絶えず技術革新してきた最終段階として原子力発電があったのかもしれない、また兵器にしても核兵器が最終兵器として生まれたように人類を滅ぼすものとして生まれたようにそういう意味合いがある。青銅器や鉄の兵器ができたとき殺傷力が格段にましたから殺戮される人の数も増えた。戦争では兵器の差は大きい。マヤとかインカがスペインの馬と鎧と甲冑の少人数の兵隊に侵入されて滅びたことでもわかる。技術が世界を変えたのである。船にしても大航海時代になったのも船の技術革新があったからである。戦争はどうしても武器が大きな力を発する。武器が発達すれば国家も強大化できる。それで最終的に現実に日本に原爆が落とされたのである。

エネルギ-革命としては石炭から石油になったとき飛躍的技術革新が起こった。石油の応用範囲は非常に広い。原子力さえ石油で成り立っているという人もいる。車も石油なくしてはありえなかった。ガソリンがこの辺からなくなったとき車は使い物にならなかった。足を奪われたら現代では陸にあがった河童になってしまった。身動きとれなくなった。物資も入らなくなった。車は石油なしでは動かない、船も飛行機もそうである。石油なしでは今の文明は成り立たない、正力松太郎が戦争に負けたのは石油がなくなりエネルギ-戦争に負けたからと原発を導入したと言っているのもエネルギ-がそれほど大事なものだったからである。石油がないなら今の文明は存続しえないのである。でも石油は中東に依存して中東紛争にまきこまれるし運ぶのに遠いということで危険がともなうコストがかかる。すると原子力発電が非常に魅力的に見えたのもわかるのである。そこに落とし穴があったのである。

人間の業-技(わざ)には限界がある。プロメテウスが火を盗んで過酷な刑罰を受けたように人間の業には限界がある。その限界を越えようとしたときイカロスは墜落した。人間の業(技)には常に呪いが付与されている。そういう宿命にある。鉄を生産して便利なものになってもそうなると自然破壊は巨大化して殺戮も飛躍的に増大してしまう。人間の作り出す業には常に何かそうした呪いが付与されている。だから仏教では業であり職業になる。職は業をともなっているから職につかなかった。これも現代文明では明治維新以降はそうした業となる職が増えた。会社でも増えた。財閥でも利益のみを追求すると他国とも戦争をいとわないとなる、業をもつことになる。これまで江戸時代までは侍だけが戦争していた。しかし明治以降は会社が大きくなり強大化して戦争をしかけたり後押ししたりする。財閥が戦争のあとおししたとかアメリカでもロックフェラ-などが戦争を企画して巨額の金をもうけたとか常に言われるのはそのためである。職業が会社という巨大な業となってしまった。江戸時代には個々の職人がいて会社はない、個々の職人が自分の技を磨いていたのである。明治以降の変化は余りにも大きいものだった。

その時、職の業(ごう)が巨大化した。そして会社は必ずブラックな所をもっている。ブラック企業が増大したのである。銀行とか保険とか金融業はそもそもブラック的なものだという詐欺的なものだというとき説明されると確かにそうなのかと思う。紙幣を勝手に作り出すのが銀行だというのも説得力がある。金融業には何かいかがわしいものがある。それで世界的金融業となると何かいかがわしいとなる。世界的を金によって支配する悪魔の仕業だとなる。江戸時代の職人なら個々人だからブラック的なものはない、仕事にのみ精進していたのである。明治以降はブラック的なものが増えたのである。


原子力発電を作った東電もそういうブラック的会社だった。それが政府と一体化していたのだ。財閥と一体化して戦争が起こされたというときと同じだった。原子力発電は巨利を生み出すから政治家から官僚からマスコミから地元からあらゆる人が群がったのである。それだけ原発の魅力が大きいものだった。原発が成功していれば中東紛争にまきこまれる必要もないメリットはあった。石油に依存することはそれだけ中東紛争にまきこまれる割合が強くなる。原発があればそういう危険を回避できる。そこでアメリカでも他の国でも原発にシフトしたのである。つまりそれは石油文明から一段上のエネルギ-革命をめざした結果だった。それが今回の事故でその革命に失敗した。人間の技の限界を見たのである。人間の技術には限度がある。医療にしても限度がある。癌がやはり直せないのも医療の限界を感じる。人間の技術には限界がある。そして人間の技(わざ)はわざわいというように日本でも技(わざ)はわざわいをもたらす呪われたものをもっていたのである。そのわざわいが原発に現れたのである。つまり人間の文明はエネルギ-問題で限界に達してしまった。ということはこれ以上人類はもう地球の資源を食い尽くして環境破壊をしてはならないという天からの神からの警告である。

今回の津波にもそういう警告があった。人類はこれ以上人口が増えたりGDPをふやしたりすることはひかえねばならない、そんなにもう地球は経済発展できない、成長できない、限界に達している。
それをおしすすめれば地球に歪みができる、それが反動として巨大な災害として自然から復讐される。そういう時代になっているから資本主義的無限の資源の消費や経済発展は抑制すべきものとなっているのだ。

この抑制することが人間には一番むずかしい。キリスト教も仏教も宗教は必ず欲の抑制を説く、それは理にかなったことである。そういうことは2千年前にすでに東西の賢者が説いていたことである。

人間の欲を無限大に拡大すれば地球環境は破壊されるしモラルも破壊されるしあらゆるものが破壊され滅亡にいたる。人間が欲で滅びるというのはそのことである。原発は人間の限りない欲望の象徴として生まれた。そこに危険があり落とし穴があり事故につながった。人間の技に対する呪いだった、わざわいだった。科学技術はあらゆるものをかなえてくれる人間の願望、祈り、宗教ともなっていたがそこには限界があったのである。科学には限界がないと信仰のようなものがあるがそこには原発でも医療でも限界があるのだ。その限界を認識して文明を見直さないとまた危険なことになる。それは人類滅亡に通じているのだ。

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