2011年09月24日

枯れゆく蟷螂(デジカメの写生俳句論)


枯れゆく蟷螂(デジカメの写生俳句論)

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蟷螂の枯れゆくあわれ家の中


良く見れば蟷螂枯れゆくあわれかな


蟷螂も枯れゆくものや介護かな


虫の音や今日も微かに母の声

枯蟷螂は秋の終わりから初冬の季語になっている。この前見たときは緑色していたが早くも色が変わっている。今年は何か寒さが早くきているのだろうか?結構寒くなっている。この時期寒いというのも季節的に合わない感じはする。まだ夏が終わり秋がはじまったばかりである。この頃季節が変わっているから夏が終わり急速に冬が来るかもしれない、すでに北海道の旭岳では初冠雪があったから
冬はすでにまじかなのである。温暖化というのもわからない、寒くなるということもあるからわからない。季節の変化は毎年違っている。

前に玄関にとまっていたのは玄関の戸の外だった。その時は緑色だった。今度は玄関の中だった。

外と中でも違っている。外だとまだ元気な緑色の蟷螂だった。でも中になると蟷螂はすでに枯れつつあった。完全に枯れた枯蟷螂ではない、でも色はすでに変わっている。蟷螂の一生も人間の一生でもある。女性でもつくづく人間は怖いものである。死ぬ間際まで斧をふりあげる。自分の主張を通そうとする。欲も深く消えない、かよわそうな女性でもそうだった。人間も斧をふりあげることは死ぬまでやまない、自分を通そうすとるのが人間である。それが何であれ間違っていても何でもそうである。人間は老人になると己を曲げないのである。


ただ最後は寝たきりとかになると弱々しそうな声になり介護されるだけになる。虫の声になる。最後は人間もどんなにがんばっても弱り死につく、それが定めである。それは強い人弱い人も同じである。最後は弱くなりあきらめになる。生き物もそうだけで人間の一生もそうなのである。
いづれにしろ俳句は写生である、日々写生である。だからデジカメが役に立つのである。写真はまさに写生であり写真を見て俳句をよめば一番わかりやすいのである。だからデジカメ俳句の分野が生まれたのである。そして写生俳句何か特別の才能も必要ではない、写生だから何か特別想像することもない、見たままを俳句にすればいいからだ。だから「よく見ればなずな花咲く垣根かな(芭蕉)」に通じている。つまり良く見ることが俳句になる。良く見ると枯れてゆくカマキリだとなる。家の中とか庭だと良くみる。良く観察する。子規は狭い空間から病気で出ることもできなかったから観察するだけだったから写生俳句の創始者になった。つまり病気が子規の俳句を成したのである。啄木も病気になったから後世に残る短歌を残した。病気は人を感じやすくする。感じないものでも何気ないものでも感じるようになる。先がない命であり末期の眼で見るからである。