2011年09月23日

カマキリ(俳句は写生だけど背景を読まないと鑑賞できない)


カマキリ(俳句は写生だけど背景を読まないと鑑賞できない)




玄関の戸にカマキリや何気なく


玄関にかまきりとまり客のあり


カマキリの冷徹に餌捕らえ食う


故郷は草茫々と実りなく船の残骸残るままかな

カマキリが玄関の戸にとまっていた。それが何なのだとなるが、俳句は写生なのである。
カマキリ自体が何を示しているのか?カマキリは雌が雄を食うとか残酷なイメ-ジがある。
カマキリ自体がいるということですでにイメ-ジされるものがある。蛇でもそうである。
カマキリはそれほど恐ろしいものとは思っていなかった。カマキリは小さいからそうなる。蛇の方が恐ろしい。これは毒蛇だったら人間も死ぬということがある。でもカマキリも実際は恐ろしいのである。

カマキリが何気なく玄関の戸にとまっている。ただそれだけだったら俳句になるだろうか?何にを言いたいのかとなる。だから写生俳句は背景を読まないかぎりわからない、玄関から入るもの客でも何でもすべてが安全なものだろうか?今や人が家に入ってくることがすべて安全と言えるだろうか?

アメリカでは銃をもって家に入る人を迎える、誰が入ってくるかわからない、強盗かもしれない、
アメリカでは家に入ってくるものは気を許せないのである。それで誤って日本人が殺されたこともある。そういうことは銃社会のアメリカでは良く起こっていることだから異常とは思わない、でも今は田舎でも家に入ってくるもの警戒が必要である。特に家の中に入ってくるヘルパ-とか何か福祉関係でも危険である。そもそも家の中に見知らぬ人を入れること自体が危険になっている。知っている人ならいいが知らない人は日本でも危険なのである。日本では意外とそういう点無防備なのである。
そういうのんびりした時代は終わった。日本も近隣とか家の中に入ってくる人は危険である。
近くでもそういうことで警戒している人がいたからそういう時代になったのだと思った。

日本でももはや安全はなくなった。田舎でも安全はない、介護関係の人や家の中に入ってくる人は一番危険である。家のことがわかってしまうことが困るのである。家族構成やら経済状態とかもわかってしまうのである。近くだから安心という時代ではない、江戸時代辺りで安全だったのはまず小さな村の内でしかつきあわない、外部から人が入ってこない、みんな同じように貧乏であり金持ちはそんなにいない、現代は田舎でも様々な人がまじり住んでいるからわからなくなったのだ。人を見たら泥棒と思えとは昔からあったから外部からくる人はそう見ていた。でも隣の村の人さえ全く交わらない社会では犯罪は起こりにくいのだ。伝説でも隣の村から働きに来た麦踏みの若者が蛇にだったとか言われるのは互いに隣の村でも交わらないで生活していたからである。だから隣の村の人さえ遠い人であるから知らない人だから神秘的とさえなっていたのである。


いづれにしろ俳句は写生である。その見たままが驚異的であり美なのである。それをいちいち説明する必要はない、説明したら俳句は短いからできない、玄関のとにカマキリがとまっている、それだけ暗示するものがある。ただそのためにはその背景を読むことが必須になるのである。

草茫々の中に津波で流された船が残っている。これも別に想像でも何でもない、ありのままを写生したにすぎないのだけど今までとは余りにも変わってしまったから詩になる違った絵になってしまったのである。写生そのものが驚くべきものとなってしまったのである。津波の跡などもいつまで見てもその異常性が未だに現実と思えない、夢でも見ているのかと最初言う人がいたけど本当にそうである。戦争のような異常事態はそれが普通の生活からかけ離れているからどうしても理解するのがむずかしい。平和な日常生活から想像できないことだからである。だからそういうものを未だに現実として受けとめることがむずかしい。映像で見たりいくら話を聞いても理解しにくいのである。おそらく

元のように津波の跡にも家が建って復興したとき逆にそんな津波があったのかと前の津波が忘れられたようになるのだろう。でも今回は津波の被害にあったところには家は建たないだろう。だからいつまでも記憶として残るかもしれない、平和な日常、普通の生活が破壊されること、それは個々にあってもこんなふうに全体に起きることは想像もつかなかったのである。

夏菊と蝶


夏菊と蝶


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橙色の夏菊の中にふうわり

揚羽がゆれつつとまるその一時

鮮やかに橙色の夏菊が一面に映え

揚羽はゆれながらとまっている

蝶も鳥もいつも飛び立つ構えでとまる

明るい橙色の夏菊が飛び立ったあとにも

あざやかに映えてまたいづこかへ飛ぶ

新たな花園が待っている

posted by 老鶯 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

菊(俳句は写生-事実は小説より奇なり)

 

(俳句は写生-事実は小説より奇なり)

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大輪の黄菊二輪や石二つ


大輪の黄菊二輪や手水鉢


菊ぬれて茶室の小径しとやかに


真夜中にかすかに鳴ける虫の声聞きつつ田舎静まりにけり


津波にて流さる船のそのままに秋となりにきかすか虫鳴く

俳句は何かと言うと再三書いてきたが写生だったことがまちがいない、なぜ写生なのかというと人間が想像したことより現実が驚くべきことであった。写生そのままが驚くべきことだった。事実は小説より奇なりというときもそうであった。小説より事実の方がどれだけ奇であり驚くべきものか今回の津波だ原発事故だ台風だとかで思い知らされた。こんな風景がありうるのかということに毎日驚嘆してきた。津波で流された船はそのままでありそれもいつしか一つの風景となっている。その事実がまさに写生であった。写生は平凡なものではない驚くべき事実なのである。今回の津波で起こったことは事実は小説より奇なりを如実に示していた。これほどの驚くべき事実はなかった。故郷から避難した人達の運命もそうだった。そんなことがありうるのかという連続だったのである。その事実を書いているだけで驚くべきことだとなる。
茶室はなくなったけど茶室の道はある。手水鉢もある。でもこんな状態では茶をたしなむということもできない。こういう文化的なことは余裕がないとできない、落ち着かないとできない、秋となると芸術の秋となるがこんな混乱状態では芸術どころではなくなる。自分の病気でもそうなっている。毎日が生活に追われてしまうのである。ただ習慣でやってきたことがら書き続けている。もう一つは記録として書いている。デスクトップに記録したのが突然消えたのでびっくりした。記録したものは残っていたようだが整理するのに大変だった。一瞬消えたのかと思った。前に消えたことがあったからパソコンの怖さを知っている。突然全部消える恐怖がパソコンにはある。でも最近はそういうことがなくなったから安心していたのである。かえってレンタルサ-バ-とかに記録していた方が安全だともいえる。管理しているからである。サ-バ-とパソコンとあとはUSBとかCDに記録しておく、印刷もしていた方かいいがこれはめんどうになる。


ともかくこの辺の異常事態は当分つづく、自分の生活もそうである。こういうところだと落ち着かない、ここだけではない、津波で被害にあったところはみんなそうである。働く意欲が喪失しているというのは深刻なことである。それだけ打撃が大きすぎたのである。仮設に入って何もしないとそうなってしまう。仕事は何であれ生きがいだからそういうものが奪われると気力も失ってしまう。そういう精神的なストレスがこれから高まってくる。だからいつになったら復興があるのかとなると見通しがたたない、神戸で10年かかったというからこの辺はもっと時間がかかるかもしれない、そうなると60代以上は苦しくなるのだ。そうなると落ち着いて仕事ができないのである。特に芸術関係とかそうである。こういうものはつくづく平和でない限り栄いないのである。ただあまりに変化しているからその事実を書くだけで小説より奇なりとなっているのだ。

 

秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)

 

秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)

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子育地蔵


栗実り空家となりて淋しかな

石神に子育地蔵や柿なりぬ


表札に佐藤とありて柿実る


街離れ大木戸村や虫の声


片倉村草茫々や秋の蝉


片倉村墓所にひびける秋の蝉


墓所二つ訪ねて暮れぬ残暑かな


小高区は立入禁止秋陽没る


船一つ夕風涼し小島田に


柿なりぬバスに帰りぬ旧街道




写真で高松の空家などを紹介したけど栗とかユズでもそうだったが果実類には放射性物質が蓄積しやすい。果実類は食べにくいのである。それでも自分は地元の梨とか食べている。これもどれだけ危険なのか結局わからない、用心している人は地元の老人でも食べない、昨日相馬市のレストランで話していた人はそうだった。

片倉村から陸前浜街道に出て小高の方に行った時、立入禁止区域になっていた。そして引き返した。この辺の道路は車がめっいり減って昔の街道にもどったようになった。車が通らないといかに静かになるかわかる。それは六号線でもそうだった。夜間のトラックも走らないからそれだけでも静かになり車が走りやすいのだ。それで経済は停滞してしまっているのだが江戸時代にもどったような気分になるのも不思議である。江戸時代なら他所との交通がほとんどない世界である。旧街道だけが唯一の外部に通じる道だったのである。小高にも行けないから秋の陽が没るというとき南相馬市は縮小されてしまった。

石神に子育地蔵があったけどこれも地元に子育するならいいがそれも外に出ていく人が多くなれば無意味化する。近くの石神小学校は閉鎖されていた。そういう異常状態を混乱は何なのか?それが現実として未だに受け入れられない人が多いだろう。自分も一体これは何なのか、理解しにくいのである。市町村が崩壊することなど想像すらしたことがないからである。

鹿島区の小島田には津波で流された船がまだかたづけられないである。それは今や一つの風景になっている。異常事態が定着して一つの風景になる。旧街道をバスにのるというのも何十年ぶりだとかなる。バスはやはり人間的な面があった。だから旧街道を走るのに向いていた。なぜなら一つ一つの近隣の地域を走るからである。それでバス停の地名が心に残るのである。電車だったらそうした狭い地域のことはわからない、より地名が身近になるのはバスである。バスは地名をより親しくするのである。だからバスにのる旅はそういう点で旅にはいいとなる。ただバスは便数が少ないから乗ることができないのである。いづれにしろ旅どころではない、毎日生活に追われている。旅は十分したからいいとなる。ただ思い出は旅にあった。今も心の中でいつも旅しているのだ。


柿の季節になったけど表札に佐藤とあったの句にしたけど佐藤などありふれているけど相馬地方には多いから苗字を見るのもその土地を知ることである。柿の季節になった。柿はその土地に定着する、柿は昔から日本にある。柿は何かもっとも故郷をイメ-ジするものではないか?柿があり素朴な村々がある。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm


つまりこの辺ではそうした素朴な風景すら失われた。柿が食べられないというのもそうである。
故郷から大勢離れた人がいてそのことについていろいろ書いてきた。そもそも故郷は何なのだろうということを書いた。それは故郷から離れてしまうとか漂流被災者になるとか信じられないことが起きているからだ。


年老いて故郷離る人あわれ三条市に逃れつづる日記よみぬ


 http://blog.goo.ne.jp/minamisoumashi-hinan/c/58f2cdf763249235e825b9417cd1b998/4


このプログは避難した人の記録である。これも一つの郷土史の記録となる。こんな体験すること自体ありえないからである。この人が書くには花が咲くには花だけではない、茎とか根があり土がありそういう大地の上に花も咲くとか書いている。つまり花は芸術とか文化だとするときその基盤には農業とかの第一次産業がしっかりと大地に根付いていてあり街があり安定していない限り芸術文化の花は開かない、一体そういう基盤が崩壊してしまったらもうただ生きているだけの人間になってしまうのではないか?なんとか食うだけの貧しい生活である。この土地に豊かな人間生活全体の花が開くことはなくなってしまう。そういう異常事態にどう対処していいかもわからない、ただみんなうろたえ狼狽しているだけである。避難した人々は漂流被災者になっている。市町村から自治体からの絆から切れてしまうとき漂流者になる、法的関係が切れるときそうなる。そんなことありえないことだったから考えもしない、市町村との絆など普通は考えない、普通にあるものである、今やその普通にあるものが失われたから毎日その異常事態を考えざるをえないのである。

 

あなたに向かって花は咲く


あなたに向かって花は咲く



あなたに向かって今日も花は咲きます
あなたに向かって花は熱く咲きます
あなたに向かってあなたのために花は咲きます
あなたに向かって花はほほえみます
あなたに向かって花は笑っています
あなたに向かって花はやさしくおじぎをします
あなたを待って花は人しれず隅に咲いています
あなたはいつも花の中にあります
様々な色の花の中にあります
あなたはこの世になくてはならないもの
あなたに向かって花は咲くからです
花はあなたのために一段と装いを新たにします
その生来の色を豊にします
あなたはこの世で金をかせげなくても
あなたはこの世になくてはならないもの
花はあなたに向かって咲くからです
何よりあなたに向かって咲くからです
花に愛されたければ花に愛されるような人でないと
花はあなたに向かって咲きません
汚れた人に花は咲きません
花はしぼんでしまうでしょう
あなたに向かって花は生来の美を隠さず咲きます
あなたのうよな人がいたから花はしあわせです
あなたは花の中をあるいています
いつまでもいつまでも歩いています
花は尽きることなく咲きつづいています
一重にあなたのために・・・・・・・
その道は天につづいています
あなたは神の花園のへと歩いているのです
天で待っているのも花々です
尽きることなく咲く花々です



 

posted by 老鶯 at 04:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般