2011年09月18日

原野化した南相馬市 (南相馬市はこの先どうなるの?)


原野化した南相馬市

南相馬市はこの先どうなるの?


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高松

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真宗系移民の墓

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空家

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栗の木
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子育て地蔵

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片倉村


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小高区へ道

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鹿島区川子の高台のボランティアのテント

南相馬市の原町区の高松から大木戸を通り片倉村を回ってきた。まだ今日も暑い陽差しだった。高松の墓所を見たら釈とあるから越中からなどの真宗系の移民の墓である。相馬藩では墓所を見れば必ず越中などの真宗系の移民の墓は一目で他から区別できるからわかりやすい、必ずそれは江戸時代の移民の末裔なのである。相馬藩では飢饉三分の一の人口が減ったときどれだけ困ったか真宗系統の墓を見ればわかる。墓所に三分の一も真宗系統の墓が残っているからそれだけ移民に負うことが多かったことがわかる。墓が語らずも証明している。
高松では山田という姓だった。高松は山田の姓が多いことがわかる。その辺で栗の木が一本あり大きなイガが実っていた。けれども家には人の気配がなく玄関はしめきっている。人はいない、前に無縁仏とあったがこれも何なのだろうと思った。


南相馬市では農家でも酪農家でも廃業する家が増える。田畑でも放置すると原野と化して荒れてしまう。元の田畑に戻す作業が大変だと経営が苦しかった農家はやめることになるかもしれない、南相馬市ではまだ原町区でも子供のいる家は避難して帰っていない家が結構あるのかもしれない、空家になっている所がある。子供を育てるのに難儀するから放射能の困る点だった。六号線の牛丼屋のチェ-ン店でも店員一人でてんてこまいだった。アルバイトの若い人を労働力として確保できなくなっているのだろう。若い人はいなくなるとこういう所に影響してくる。チェ-ン店のレストランは閉じている所が多いから淋しさを感じる。繁盛しているのはパチンコ屋だというのは仮設住宅に入っている小高区の人などが仕事をできないので暇で行っているからそうなる。パチンコ屋のアルバイトに行っている人を知っているからだ。そんな所には仕事がある。それも異常事態である。パチンコ屋だけが繁盛してもどうにもならないのだ。


高松から大木戸村辺りに来ると昔の街道からは離れている。原町は雲雀が原辺りから原はつく地名が多いように原っぱだから原町となった。その広大な原に野馬追いのための馬を放し飼いにしていたのである。その回りに柵を設けて木戸を回りに作っていたから野馬土手とか大木戸村が生まれた。原町村は野馬追いには一騎しか出ないあとからできた小さな村だった。宿場町となり人口が集中したのである。そして今は原っぱだった原野と化しているのも不思議である。元の原っぱにもどってしまったのである。馬が二頭を草を食べているが放射能の草である。牛はあまりいないだろう。農家も今や空洞化して原野が広がっているから荒寥としている。
途中の明治テックとかマイアスの工場も閉鎖中である。200百人とか働いていたらそこで仕事があるから人もいつく、その仕事がなくなると人は流出してゆく、流出してゆく人は若い人なのである。だから若い人がいなくなると働く人がいなくなりいろいろな店も閉じるようになるのだ。
高松から石神まで通りは閑散としていた。石神小学校も子供はいないから余計淋しいとなる。



明治テック株式会社

従業員数: 135人
建築工事用シートの分野では業界屈指の生産量を誇っています


マイアス電気株式会社
従業員数 62名



それから片倉村に出たらここも草茫々であり淋しい、トラクタ-で除染しているみたいだ。除染の草や土が積み上げられている。それもどこに始末していいかわからない、旧国道の浜街道を小高の方に行ったら立入禁止であり許可なく入ると罰金とられる。小高に家がある人もそうなるから悲しい。この道は車もほとんど通らない道になった。店はみんな閉じている。車が通らないとこれほど静かになるのかと思った。まるで江戸時代にもどったようだ。そこから原町の街中をぬけて川子に出るとテントを張ってボランティアの人がいた。横浜から来たとか歌を歌うとか言っていた。あそこは長居できるようになっているから便利だ。でも今ボランティアは何をするのか良くわからない、かたづけはだいだい終わったからである。

南相馬市はこれから一体どうなるのだろうか、原野化した田畑は来年回復するのか?それとも当分そのままなのか、若い人は去って老人だけの斜陽の街と化していくのか?今みる限りはそうなっている。こんな風景は本当に異様である。常磐高速道路は工事をつづけるにしても大幅に遅れるだろう。それでも原発事故で得した人もいるだろう。家族が多いと得する。小高区なら5人家族の家を知っているが50万が一月に支給される。その額は大きい。一年つづけば貯金さえできる。運の強い人はこういうときでも得する。いい悪いにしろ金銭運も運なのかもしれない、原町区の人は一時金の支給で終わるからかえって損だともなるか仕事がない人は出て行ってしまうだろう。津波の被害には補償はなく原発事故には補償があるのでその差も大きいのだ。いづれにしろ南相馬市では福祉関係のサ-ビスでも他の市よりは劣る。その他医療も正常化していないし看護師も出て行った人が多い。そうなるとますます活気を失い人が出て行く、何らかの方策を建てないとずるずる衰退してしまうのではないか?

江戸時代は移民政策で盛り返したが今度はどうしたらいいのか?中国人でも移民させるのか、中国人ならこれくらいの放射能は気にしないかもしれない、黄砂の方がひどいからだ。放射能のこを良く説明したらこれならたいしたことがないとなるかもしれない、それでも研修生も中国にいち早く逃げた。放射能は怖がればきりがないからだ。老人は免疫があるから居残る。ただ草茫々の元の原っぱに残されるのか?そういう異様な状態からいつ脱すことができるのか?ソ-ラパネルの会社が来るなどはいい面である。その他になにかいいことはないみたいだ。工業商業もしぼんでゆゆき農家もだめになるとすると衰退するばかりではないか?相馬市の方はまだ南相馬市よりはいい。南相馬市から相馬市に移った人もいる。相馬市は普通に田畑を作れるからいいのだ。ともかく南相馬市はどうなるのか、立入禁止区域から野良犬などが入ってきてウィルスをばらまくとかも騒がれている。こんな異様な世界はまるで映画のようである。でも現実なのだから現実を見つめる他ないのである。

posted by 老鶯 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

神戸震災の中で作られた俳句


神戸震災の中で作られた俳句


枯草や住居なくんば命熱し     永田耕衣
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その後、避難所生活ののち、老人ホームで生涯を閉じた。享年97。
耕衣は常々「雑草の哲学」と口にしていたらしい。


神戸の震災は遠いからそれほど実感しなかった。ただ驚いたのがアナウンサ-が燃えたばかりの骨を手にもって報道していたことである。それが熱いといっていた。あの長田区の火事はテレビで見ただけで凄まじいものだった。神戸に近い大阪辺りだったらその恐ろしさを実感したのだ。6千人も死んだのだからあの地震も恐怖として焼きついていた。ただ遠いということでイマイチ実感に欠けていた。やはり遠いということはいくらテレビで報道しても実感できないのである。
それでもあの映像を見たときショックだったから3000円送った。今回は見舞金5万もらったから少なかった。ただこの5万円は原発が関係している。あと30キロ圏外でも一人十万はもらえる。
原発の被害は意外と大きいものだった。田畑が耕せなくなったり地元で作ったものが食べられないのは本当に困る。


・・・・焼かれ芽吹きぬ・・・・・
http://tsdai181.blog61.fc2.com/blog-entry-119.html


この俳句も異常である。やはり火の恐怖がここにあった。津波の恐怖は水の恐怖だった。気仙沼では火事もあったから火と水の恐怖が一度にやってきた。そこにいた人の恐怖はどれだけのものだったろうか。自分も津波と原発事故が重なったとき本当にこの世の終わりが来たかと真剣に思った。家族の認知症介護から次に自分の病気から犯罪にあうことや災難続きであり
今度は地震、津波、原発事故と来れば本当にこの世の終わりかと思う。人間は火と水で滅ぶというのを実感した。今は放射能でも滅ぶ。


永田耕衣は

1995(平成7)年、阪神淡路大震災、永田耕衣は夜中にたまたまトイレに入って、全壊の家から、トイレの手水の金タライをカンカンと打ち鳴らし、近所の青年にトイレの窓から助け出された95歳の時である。耕衣は震災を詠んだ



95才でこうした大災難にあいそのまま死んだ人もいる。今回の津波原発事故でも百人くらい避難所とかで高齢者が弱り死んでいる。こんな年まで災難はある。95才の母は動けなかった。
神戸の地震災害にあった人は体験しているから今回の津波でもいち早く支援してくれたということがあった。こんな災害のとき俳句とか短歌などよんでいられないきが普通である。ただ習慣的に俳句短歌を作った人はそういう場合でも作るのである。習慣とはどんな時でも継続されているのだ。


枯草や住居なくんば命熱し


95才でこんな俳句作れるものだろうか、相当気丈夫だったのか、健康だったのか?95才だったらこれだけの災難にあえばまいってしまう。自分なんか年としては30年違っているからその年に驚く、ただ今は90才は珍しくなくなっている。そこまで゛生きるのはわかるにしても命熱くとなるだろうか?命がなえてしまわないか?なんか自分は病気になって気弱になったからそう思うのだろう。90才を想定した人生は本当に長い。あと30年生きるとなるとこれも一つの人生の期間である。25才頃師が90才の人生と言っていたが本当にそれは長いのだ。ただ高齢者でも津波の被害にあった人はたくさんいるし死んでもいる。原発事故では避難所暮らしした人もいるし今は仮設で暮らしている。だから高齢者も災難を逃れることはできなかった。戦後生まれの人は災難とは何か知らない、戦争を経験した人は知っている。人生に災難はさけられない、自分の家でも二回水害で浸水している。一回目は伊勢湾台風では家が流されたと思ったが辛うじて残ったのである。倒産-貧乏-戦争-貧乏-水害-病気-地震-津波とかそういう時代を85以上の人は送っている。人間は死ぬまで災難がつづくのだ。火宅の世に生きるのが運命なのである。


「火宅無常の世界は、万のこと皆もって、空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異鈔)

 「この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である。ただ、阿弥陀如来の本願だけが、不変不壊の絶対の幸福に救いたまう、真実なのだ」


つくづくこういう世界に人間は生きている。人とて頼りにならない、裏切りなどはどこにでもある。こういうことをここ5年間に一時に体験した。だから念仏のみとなるのは今の世ではありえないにしろこれだけ種々のものに恵まれている時代でも火宅の世に変わりなかった。ただたまたまそれが来るのが遅かっただけである。


芽吹きと地割れ
http://musubu2.sblo.jp/article/44138907.html

 
posted by 老鶯 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係