2011年09月17日

津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


津(津の宮)神社の謎

(やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


●相馬藩内の津(つのみや)神社


相馬市

松川浦-尾浜3 原釜1

南相馬市

鹿島区烏崎
原町区 金沢 小浜 米々沢 堤谷

浪江 棚塩
yoneyonesawa.JPG
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志津川(避難所)津の宮生活センタ-
http://www.pref.miyagi.jp/kikitaisaku/jishin_chishiki/tunami/yosokuzu/574173-4.PDF

tunomiya111.JPG


この神社の由来はわからない、本当に津波の後に祭られたものなのか?時代的にそうなのか?
尾浜に三つも津神社があったのはなぜか?あそこはやはり高台になっていることとも関係しているのか?原釜でも高台は津波の被害をまねがれた。烏崎にも一つあったが海近くの平地だった。他に金沢とか小浜もすべて海岸沿いだから海と関係していたことは確かである。小浜は崖の上を通り越して小浜村に津波がきていた。平地からもきていた。あんな高い所まで来たのかと驚く。地図では米々沢まで津波がきていてそこにも津神社があった。すると前にもそこまで津波が来たからその記念として建てられたのか?どこにその神社があったか詳しく調べれば津波の被害をまねがれた地点にあったらやはり400年前の慶長地震の津波を記念するものかもしれない、それが真実だったら貴重な津波の過去の記録でありそのことを良く伝えていれば警戒したことは確かである。相馬藩政記に確かに記録されていても一行だけでありどんな被害があったかも全く不明である。ただ津波があったというだけである。それでも貴重だがそれ以上にもし津神社が津波を記念して建てられたものだったらその方がどこまで津波が来たかなどわかるからより貴重なものとなった。烏崎の八龍 神社は海に面した崖にあり辛うじて残った。あの高さに建てられたということが謎である。第一あのような急な場所に上るだけで大変だからである。そのような崖の場所が何か意味があった、何かを伝えるものだったのだろうか?

志津川の津の宮も津波に関係する神社だったのか?避難所になっていたというのもそこに津の宮神社があったのか?神社の謂われはいろいろでありわかりにくい、でも津波を伝えるものだったら貴重だったとなる。


●船田(ふなだ)の地名との関係


松崎も昔大津波があったと文献にあります。 海から4km程の内陸地に船が来たそうです。今回の東北の大津波の様子から、松 崎は壊滅だったでしょう。鎌倉時代より前のようです。調べています。  
「船田」までということでしょうか。船田の名の由来はあるいは?と思ったりしていました。

岩科川沿い弁天河原の水田の中に石祠があり、安政大地震の津波で弁天さんが流れてきて止まった処と言われている」と。

http://p.tl/If-K

長生町には船付、船田という地名があり、さらに奥に入って大津田がある。この辺りが古い港と想像される

せんだ」で調べると「千田」であるとか仙田、泉田、川田、船田、扇田というような「せんだ」と読める地名はそれこそ日本各地にいくらでもある。


船田というのも各地にある地名だからこれが津波とみんな関係あるとはいえないだろう。海辺の田だったら海から船が見えるのだからそれだけでも船田とつく、現に船を見ながら田植えや稲刈りしている所は各地にある。ただ今回の津波で船が遠くの田まで流されて今もそのままになっている。船付、船田となると何らか関係あるともいえる。鹿島区の真野の入江は有名でありそれが津波で再現されたことに驚いた。船着という地名が塩の崎にあり船がそこまできた証としての地名だった。奈良時代辺り、万葉集時代は相当奥まで海が入り込んでいた。だから古い港は海から遠い場所にあった。そういう所が日本には多いのだ。大津田とは大津波田ともとれる。津波がその田まできたのかもしれない、ただ船田を船田(せんだ)と読むときは違っている。内陸部にも船田は各地にあるからだ。


●津波に関する神社や伝説は多いが忘れられていた


津波は日本には何度も襲ってきても何百年に一度とかなると忘れやすい、忘れさられていた。宮城県から福島県の平坦な海岸沿いはそうだった。しかしそこはもともと海だったのである。
だから海にもどっても不思議ではない場所だった。そしてもともと低い場所は津波が奥まで来た。そこもまた津波におそわれれば被害が大きくなる。縄文海進とかあり万年とかの年月で海は変わる、奈良時代なら千数百年まえだから地球の時間にすれば短い、その時今回津波が来た地点まで海だったのである。その前はさらに奥まで海だった。だから時間がたてばまた海が奥まではいりこむようになる。そういう繰り返しが何千年単位になれば周期的に起こる。


この辺ではなぜ津波についてこれほど無防備だったのだろうかと思う。夢では海を見ていたら常に津波でなくても波にのみこまれる夢をみる。海からかなり離れていても海の水が押し寄せてくる夢を見ていた。それがちょうど鹿島小学校の前までだった。あそこまで家があっても少ないし海まで広々と田んぼになって見渡せたからである。人間は隕石か落ちてくる夢などは絶対に見ない、ただ海岸近くの集落ならいつも海をみていたらそういう夢を常にみている。その夢を現実化したのが津波だった。なぜそうした夢をみていたかというとやはり津波でないにしろ海に接しているとそういう夢を常に見ている。それは自分だけではない、そういう夢を見やすいのである。だから不安でありいつかそういうことが現実化するのではないかと思っていた。その危機感は夢にすぎないとしても生きている内にそういうことが起こるのではないかという不安はあったのである。ましてやいつも海をみて浪の音を聞いて暮らしている人はもっとそういう夢を見ていたにちがいない。その感覚は特別なものではなく普通にあった。するといつか津波が来るんじゃないか、そういう危機感をもつ人がいても不思議ではない、そういう言い伝えの神社があっても忘れられていたのだ。最近貞観津波のことを地層を研究して伝えた学者がいた。だから現実味がまして仙台の海岸沿いで陳情までしていたのである。相馬でも奥まで津波がきていた。

そういうことを真剣に考えていたらこんなに被害大きくならなかった。それは科学的根拠があったから説得力があったのである。ただ千年前とかなるから真剣に考えなかった。でも400年前にも大きな津波があったのである。慶長地震で起きた東北地方の津波でその時津波という言葉が定着した。それ故に津(波)神社が祀られたのだろうか?慶長地震の時にはじめて津波という言葉が使われたからである。日本はいつ大きな津波が来るわからない。だから海岸にある原発は本当に危険である。


「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』[1]で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と読む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


日本では津々浦々というように津が多いから津波も多いのである。これは宿命的なものでありそういう津波に関してこれほど無警戒だったというのは日本人には歴史記録とか歴史意識に欠けているとしかいいようがないのではないか?津波は確実にこれからも起こる。過去にも定期的に起きていた。千年前の津波でもやはりまた起きる、大規模なものが起きることを証明したのである。


津波最新ニュ-ス

都司准教授らは、同地震の津波でヒラメがあがったという伝承が、沼津市戸田地区の平目平に残っていることに着目。現地で測量を行い、海抜36・4メートルまで津波がさかのぼったと考えられると結論づけた。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110917-OYT1T00389.htm

平目平がヒラメが打ち上げられてその名が残ったとはなかなか気づかないだろう
蛸が打ち上げられたのを磯部の近くで見た。そこが蛸平などとなるのか
そういう地名でも伝説でも由来がわからないのが多かったのである。
posted by 老鶯 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

残暑の蝉の声


残暑の蝉の声

bonsai1232.jpg


朝静かすずろに虫の鳴きにつつ庭の石にし我が向き立ちぬ


我が庭に木槿桔梗と咲きにける手水鉢の水澄みし朝かな


森深く今ひとしきり蝉の声ここに満ちにつ夕暮れにけり


街中に蝉の音聞こえず森になお蝉の声満ち夕暮れにけり


盆栽を仮設に置きてあわれかな帰る日いつや秋となりにき

 


秋なんだけど今日もまだ暑い、木槿は一日咲いて散る、それがわかったのは庭に植えてからである。この木が植えて一年くらいだから大きくならない、外で見るのは木槿が一杯さいているから散っているのがわからなかったのである。茶室は介護部屋になってしまったからないが手水鉢はある。
森にはまだ蝉がまとまって鳴いている、秋の蝉という感じがしない、秋の蝉というと一つ二つくらいが遠くから鳴くのが聞こえるとき秋の蝉の感じになる。町の中でもこの辺だと鶯の声も聞こえる。回りが自然だからそうなっている。東京辺りだと街しかない、延々と街しかない、仙台辺りでも街がつづき街が途切れることはない、そういうところは疲れる。回りに自然がないこと自体、人間の生活は異常になる。ともかくちょっと町を出れば森があるからそこに蝉の声はまだびびいている。今年はまだ残暑なのである。
仮設住宅に盆栽を置いているのをみると何か日本はもともと長屋に住んでいたのでそれで盆栽趣味など合っていたのかとも思う、広い庭は必要ないからだ。もちろん広い庭をもっている裕福な人がはじめた趣味かもしれない、でも長屋のような所でも盆栽一つくらいは置けるのである。仮設住宅は長屋の再現だった。実際に相馬市で長屋風の老人の共同住宅を作るというのもその発想からきている。長屋はアパ-トとも違っている。人間は昔のことを相当に錯覚している。長屋だと言っても実際は今になるとイメ-ジできないから勝手にイメ-ジしている。今の時代からイメ-ジするが実際はそういう場所がどういうものか錯覚してイメ-ジしているのだ。


鎌倉市があるがそこは実際は非常に狭い場所であり不便な場所である。要害の地としてあそこが選ばれた。それで錯覚していたのが江戸はその時全くなかったことである。江戸になればもうすでに百万都市であり巨大な都市だった。鎌倉時代は江戸はまだ荒野のような状態だった。そこがイメ-ジできなくなっていた。あれだけ江戸や東京という存在があるとそこが鎌倉時代からあったように思って鎌倉を見ていたのである。そういうことがちょっとした地元の人の指摘でわかった。地元の人はやはりそういう見方ができる。鎌倉時代を考えるとき江戸がなかったということをイメ-ジしない限り過去を誤解するのである。いづれにしろ歴史は今から過去を見るから誤解や勝手に作り上げたものが多くなる。実際の事実とも現実とも違ってみているのである。