2011年09月06日

天地から離れた人間の傲慢が原発事故に (万葉集時代は天地と一体)


天地から離れた人間の傲慢が原発事故に

(万葉集時代は天地と一体)



天地と 共に終へむと 思ひつつ 仕(つか)へ奉(まつ)りし 心違(たが)ひぬ」(2-176)


宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと天壌(あめつち)と無窮(きはまりな)けむ


天地も 依(よ)りてあれこそ 天地を 訴(うれ)へ乞(こ)ひ?(の)み



「天地 日月と共に 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継(つ)ぎ来(きた)る」(2-220)、「天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の宮」(3-315)
天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の宮」(3-315)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68224


万葉集は天地と密接に結びついていた。天地と離れてはありえなかった。だから政(まつりごと)もそうだった。天地も 依(よ)りてあれこそ 天地を 訴(うれ)へ乞(こ)ひ?(の)み・・・・このように訴えるもの乞(こ)うものも天地しかない、天地に仕え天地に依り天地に訴えていた。そもそも歌は訴える(うったえる)から歌(うた)になったというとき天地への呪文の役目を果たしていた。
政(まいりごと)は天地は切り離せずあった。これは古代の文明では天地を祭ることは普通にあった。マヤ文明では太陽に祈っていて太陽が弱り死んでゆくことを畏れていたので生きた人の心臓を犠牲に捧げた。それほど太陽を畏れていたのである。訴えるべきものが天地でありその天地なくして人間の存在はありえなかった。


今の時代、為政者が天地のことを思っていることがあるだろうか?天皇は伝統としてそういう天地のまつりごとを受け継ぐことはありうる。しかし今や人間を支えているのは天地ではない、科学であり技術になったのである。天地をまつったり乞うたりしない、科学と技術力が解決するのであり天地は無力になった。科学と技術が天地をしのいで解決するものだと思っている。病気になれば医学に頼り医者は神様のようになる。それはとりもなおさず天地に祈るより科学の力が天地より大きいし実際に細部では実効力があるからそうなる。天地に祈っても病気は治らない、神に祈っても直らない、これは事実である。奇跡の起きた時代は終わり今は科学の時代なのである。科学万能時代なのである。気象にしても衛星から写真をとり気象は科学的に解析されるものとしてある。天地として不可解なものとしてあった古代とは余りにも違いすぎる。宇宙から天地が解析されているのだ。解析しているのは他ならぬ人間の科学の力なのであ。神ではない、ただ地中のことに関しては解析できないから今回のような地震と津浪に驚嘆したのである。想定外だとして天地を恐れることになった。奈良県の山でも台風で想定外の水が出て堤防は決壊した。それもまた人間に対する奢りに対する神の警告でもあった。人間は天地をなお凌駕するものとしては存在しない、原発もその一つであり人間には操作しえないものをあえて無理して操作した故、事故になり大被害を受けた。天地は汚されて人は住めなくさえなった。人間の奢りが罰せられたのである。


万葉時代の天地を尊ぶ世界とはあまりにもかけ離れているからその時代と今も比べても役にたたないということもある。絶えず政(まつりごと)と言えば天地に訴え祈ることだった世界とは余りにも違っている。人間は今や天地に祈る人などいない、科学力、技術力に訴える。想定外の天地の力にうちのめされば人間の技術力はたりなかったのだとなる。確かに想定外の津浪で高い防波堤は無惨に崩壊した。そこで人間の奢りは打ち砕かれた。でもその堤防を作った人達はその堤防故に安心していたのである。それが徒になり大被害を受けた。その堤防こそ自分たちを守るものであり天地になど祈ることはなかった。天地に祈るときは人間の力ではどうにもならない、神に祈るほかないというとき祈る。しかし現代では科学万能だからそうはならない、科学の力に頼るのである。科学に頼るのが悪いものではないにしろ科学を越えたものとして天地があるということがないことが問題なのである。科学者が天地のことを全部知っているのかというと知らない、そしたら科学者さえ天地に対して謙虚にならざるをえない、そういう謙虚さが科学万能時代に喪失して大事故につながったともいえる。天地に祈るとは人間の力には限界があるからこそ祈る、限界がなくなれば祈る必要がなくなるのだ。


天地と 共に終へむと 思ひつつ 仕(つか)へ奉(まつ)りし 心違(たが)ひぬ


これは天地にひたすら仕えようとしていたが人間社会では宮仕えではそうはいかなかった。
無垢なる天地とは違う人間社会では心は違ったものとなってしまう。政争があるし天地に仕えるのとは違っている。天地に仕えていれば心は清浄でありえる。しかし政治の人の世界ではそれはありえないものとなっていた。この 心違(たが)ひぬは極端化している。天地から全く離れて政治は動いている。国民総生産とか科学技術の力であり国の力はすべて人間の力でありそこに天地が入る余地などない、原発も国の力を示すものだからこそ国策として推進されたのである。天地に仕えるのではない、科学万能となるとき一番偉いのは科学者であり神のごときものとなる。それが無惨にも津浪で打ち砕かれたのである。その権威は地に堕ちた。放射能は天地を延々と汚しつづける。科学者にその放射性物質をなんとかしてくれと言ってもそれができないのである。火を盗んだプロメテウスのようにその過酷な罰は科学者が受けるものだった。そんな危険なものに手を出すべきではなかったのである。天変地異は神の意志でありだから人間社会も天変地異によって改められるというとき本当にそうだった。人間では暴けない悪を自然の驚異的な力が暴いたのである。人間の奢りを打ち砕いたのである。原発はバベルの塔だったかもしれぬ、なぜなら科学万能の象徴であった、それがバベルの塔が崩壊したときそこに住む人間は離散してばらばらにされた。ただ右往左往してばらばらにされなす術がなかったのである。


天地は時に怒る

人間の奢りに対して

天地を畏れつつしめ

そして天地と和さしめよ

posted by 老鶯 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連