2011年09月04日

月曇る(相馬市城下町の情緒)


月曇る(相馬市城下町の情緒)


tukikumoru2222.jpg

故郷に老いゆくものや秋の蝉


城下町なおひびきあう秋の蝉


長々と柳しだれて田町暮る


夕風に蓮の花弁やほの赤し


月曇る六万石の城下町


街道に残れる松や月曇る


宇多川に夕風涼し川岸を高校生の歩みゆくかな

秋になっているけど残暑でもあり今日は結構暑い、これはやはり普通の夏であり秋なのだろう。夕風が涼しく感じる。 相馬市は城下町で情緒ある場所なのである。だから原町の新田川の情緒とも真野川の情緒とも違っている。あそこは他から来た人は城下町であったことさえわかりにくいだろう。でも街の雰囲気はそれぞれあるものだと思う。鹿島区と小高区があるがこれも実際は違ったものなのだろう。ただ小高区には細い川しかないから川の情緒はない、真野川は一番川としては大きい。相馬市は宇多川も細い川である。蓮の花が咲いていたり田町に柳がしだれていたりして情緒はある。


人間はみんな老いてゆく、ただ今の時代、60代でも老いを感じない人が多いのかもしれない、病気などにならない限り老いを感じない、まだこんなに欲があるのかと女性でも驚く、個人差があるが老いたら枯れるなどないのが今の時代なのかもしれない、老いということを認めない時代でもある。確かに60代で老いとはならないのが現代である。でも老いるということは自然の流れでありそういう自然の流れに逆らうことはできない、またそれは不自然なことになる。老いることは欲が減退してゆくのだからすべてが悪いとはいえない、でも欲が老いてますます深くなるのには驚く。最後まで人間は欲から離れられないのだろう。60代とかなると犯罪さえ怖がらない、自暴自棄的になる人がいるから怖い。先は長くないんだとなるとやりたいことをやった方がいいとかせこせこみみっちく働くより犯罪でもして金が得る方がいいとかなる。そういう人は本当に老いてはいない、老いるということは欲が減退して枯れることなのである。そういう境地から見えてくるものがある。それはぎらぎらした欲望のむきだしの若い人にはない境地でもある。老いとは団だこの世のことはあきらめて死に向かってゆくことである。でもそうならない人が多いのはどこまでも欲を追求するのだから今の老人は昔の老人とは変わってしまったかもしれない、ただもともと老いとはあきらめてゆく、この世のことから離れてゆくのが普通であった。


俳句でも実際は余りにも単純なものだった。しかしその単純な中に深い人生を現せるのはシンプルなものに変わらない人間の真理があるからのだ。人生はこんな単純に現せるものかと我ながら驚く。故郷に老いてゆく・・秋の蝉の声を聞く・・・ただそれだけではないかともなる。でもそこに深い味わいがある。人間は老いれば年になれば死ぬ場所を求めるようだ。象が死ぬとき象の墓場にゆくということがある。人間にも本能的にそういうことがある。死に場所を求める・・そこがどこなのかとなる。それは長く住み生活したところになるだろう。原発事故で故郷に住めなくなった人達にとって長年住んだ故郷を離れることはかなり深刻な問題なのである。死に場所になるところから切り離されたからである。それで墓に入りますと言って自殺した高齢者の気持ちがわかる。もう故郷からそういう人は離れられないのである。なぜならそこが死に場所だからである。若い人なら別だけど老人の気持ちはみんなそうなってゆくのである。だから故郷から切り離されることは一番残酷なことだったのである。チェルノブエリでも老人が戻って生活しているというのはわかる。農民の場合は先祖代々住んでいるのだから余計にそうだと思う。

 
今日は月曇るだからやはり秋であった。台風でもあったがここはそれほど雨もふらず終わった。