2011年09月03日

秋の蝉(井戸の思い出)



秋の蝉(井戸の思い出)



なきやみて余韻の長し秋の蝉


盆過ぎて地元にありて墓参り


我が家を訪ね人の去りしあと雨しととふり秋の蝉鳴く


月見草草むら深く咲きにつつ雨しととふりともに住むかな


遠くより蝉鳴く声のひとつかな静かにひびき秋となるかな


淋しさや昔の井戸の使われず近くにあれど用のなきかも


世話になる女(ヒト)し思いてあわれかな墓参りして秋の蝉鳴く

wellold.jpg




お盆すぎて姉が世話になった近くの女性が一緒に自分の家に来た夢をみた。もう一人も幼なじみであり長い付き合いのあった女性が夢に見たからと線香あげにきた。お盆にはやはり死者が訪ねてくるというのは本当なのだろう。二人の間で夢を見たことがリアルなのである。ただ幼なじみの人は姉が認知症になってから二年間全く来なかった。認知症になる前は毎日行っていたのである。でも死んで会いたいとかなったのかもしれない、人間は死んだら絶対に会うことはできない、それで死別の悲しみは消えることないのだ。だから会えるうち会っていた方がいいのだけと認知症というやっかいな病気になって合わなかった。その時姉は淋しがっていた。
今になるともっとあっていればなと思ったのかもしれない、でも終わったことはもう還ってこない、だから生きているときまだ会えるからいいやなどと思っているとその人と二度と会えなくなって後悔しているのだ。

お盆過ぎてもやはり地元の人はその土地に生活するのだから墓所は身近なのである。遠くの人はお盆に来るだけだが地元の人は墓守をしている。死者は常に身近に存在しているのが地元なのである。ただ昔の井戸が近くにあったけどそこには人が住んでいたけど今は住んでいない、そして井戸だけが残されている。この井戸についてはいろいろ思い出がある。子供のときここの井戸の水をバケツで運んで風呂をわかしていたからである。その井戸だったのである。
つまり井戸は昔から共同体の要としてあった。それが枯れて使われない、そのことは今や近くは遠くつながりがなくなった。農村は違っていても小さな町でも町内はつながりがないのだ。
だから介護であれ病気になったりしても無関心である。昔は近所の人が介護でも手伝っていたということもあった。今はそういうことはない、ただ隣近所といってもそこにはいろいろ嫌なことがあり必ずしも昔がいいとはならない、ただこの井戸はそういうことがあったなとつくづく思い出した。この年になるまでこの井戸について思ったことがなかった。それもすぐ近くだから毎日見ていたのである。それでも思うことがなっかた。なぜ今この井戸を思ったか不思議である。人間は意外と近くのことに疎い、関心がない不思議がある。

ただ年になるとあの頃こんなことあったなとか子供の頃でも思い出すのが仕事みたくなっているのだ。人生は思い出なり・・・となってしまったのである。思い出すことによって確かにそういうときがあったということを存在せしめるのだ。それはその場や残っているモノなどによって思い出すことができる。この井戸は残っていたから思い出すことができた。しかしそれも毎日見ていてそういうことがあったなとつくづく思ったのはこの年になってからである。ただ井戸は昔から生活の要だからそこを中心にして共同体があったから井戸の話はいろいろと残されているのだ。そもそも江戸は井戸だったのである。江戸の水をまかなったのは井戸だったからそうなる。江戸という大都会でもそうだったのだから井戸にまつわる話は無数にあるのだ。