2011年09月17日

津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


津(津の宮)神社の謎

(やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


●相馬藩内の津(つのみや)神社


相馬市

松川浦-尾浜3 原釜1

南相馬市

鹿島区烏崎
原町区 金沢 小浜 米々沢 堤谷

浪江 棚塩
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志津川(避難所)津の宮生活センタ-
http://www.pref.miyagi.jp/kikitaisaku/jishin_chishiki/tunami/yosokuzu/574173-4.PDF

tunomiya111.JPG


この神社の由来はわからない、本当に津波の後に祭られたものなのか?時代的にそうなのか?
尾浜に三つも津神社があったのはなぜか?あそこはやはり高台になっていることとも関係しているのか?原釜でも高台は津波の被害をまねがれた。烏崎にも一つあったが海近くの平地だった。他に金沢とか小浜もすべて海岸沿いだから海と関係していたことは確かである。小浜は崖の上を通り越して小浜村に津波がきていた。平地からもきていた。あんな高い所まで来たのかと驚く。地図では米々沢まで津波がきていてそこにも津神社があった。すると前にもそこまで津波が来たからその記念として建てられたのか?どこにその神社があったか詳しく調べれば津波の被害をまねがれた地点にあったらやはり400年前の慶長地震の津波を記念するものかもしれない、それが真実だったら貴重な津波の過去の記録でありそのことを良く伝えていれば警戒したことは確かである。相馬藩政記に確かに記録されていても一行だけでありどんな被害があったかも全く不明である。ただ津波があったというだけである。それでも貴重だがそれ以上にもし津神社が津波を記念して建てられたものだったらその方がどこまで津波が来たかなどわかるからより貴重なものとなった。烏崎の八龍 神社は海に面した崖にあり辛うじて残った。あの高さに建てられたということが謎である。第一あのような急な場所に上るだけで大変だからである。そのような崖の場所が何か意味があった、何かを伝えるものだったのだろうか?

志津川の津の宮も津波に関係する神社だったのか?避難所になっていたというのもそこに津の宮神社があったのか?神社の謂われはいろいろでありわかりにくい、でも津波を伝えるものだったら貴重だったとなる。


●船田(ふなだ)の地名との関係


松崎も昔大津波があったと文献にあります。 海から4km程の内陸地に船が来たそうです。今回の東北の大津波の様子から、松 崎は壊滅だったでしょう。鎌倉時代より前のようです。調べています。  
「船田」までということでしょうか。船田の名の由来はあるいは?と思ったりしていました。

岩科川沿い弁天河原の水田の中に石祠があり、安政大地震の津波で弁天さんが流れてきて止まった処と言われている」と。

http://p.tl/If-K

長生町には船付、船田という地名があり、さらに奥に入って大津田がある。この辺りが古い港と想像される

せんだ」で調べると「千田」であるとか仙田、泉田、川田、船田、扇田というような「せんだ」と読める地名はそれこそ日本各地にいくらでもある。


船田というのも各地にある地名だからこれが津波とみんな関係あるとはいえないだろう。海辺の田だったら海から船が見えるのだからそれだけでも船田とつく、現に船を見ながら田植えや稲刈りしている所は各地にある。ただ今回の津波で船が遠くの田まで流されて今もそのままになっている。船付、船田となると何らか関係あるともいえる。鹿島区の真野の入江は有名でありそれが津波で再現されたことに驚いた。船着という地名が塩の崎にあり船がそこまできた証としての地名だった。奈良時代辺り、万葉集時代は相当奥まで海が入り込んでいた。だから古い港は海から遠い場所にあった。そういう所が日本には多いのだ。大津田とは大津波田ともとれる。津波がその田まできたのかもしれない、ただ船田を船田(せんだ)と読むときは違っている。内陸部にも船田は各地にあるからだ。


●津波に関する神社や伝説は多いが忘れられていた


津波は日本には何度も襲ってきても何百年に一度とかなると忘れやすい、忘れさられていた。宮城県から福島県の平坦な海岸沿いはそうだった。しかしそこはもともと海だったのである。
だから海にもどっても不思議ではない場所だった。そしてもともと低い場所は津波が奥まで来た。そこもまた津波におそわれれば被害が大きくなる。縄文海進とかあり万年とかの年月で海は変わる、奈良時代なら千数百年まえだから地球の時間にすれば短い、その時今回津波が来た地点まで海だったのである。その前はさらに奥まで海だった。だから時間がたてばまた海が奥まではいりこむようになる。そういう繰り返しが何千年単位になれば周期的に起こる。


この辺ではなぜ津波についてこれほど無防備だったのだろうかと思う。夢では海を見ていたら常に津波でなくても波にのみこまれる夢をみる。海からかなり離れていても海の水が押し寄せてくる夢を見ていた。それがちょうど鹿島小学校の前までだった。あそこまで家があっても少ないし海まで広々と田んぼになって見渡せたからである。人間は隕石か落ちてくる夢などは絶対に見ない、ただ海岸近くの集落ならいつも海をみていたらそういう夢を常にみている。その夢を現実化したのが津波だった。なぜそうした夢をみていたかというとやはり津波でないにしろ海に接しているとそういう夢を常に見ている。それは自分だけではない、そういう夢を見やすいのである。だから不安でありいつかそういうことが現実化するのではないかと思っていた。その危機感は夢にすぎないとしても生きている内にそういうことが起こるのではないかという不安はあったのである。ましてやいつも海をみて浪の音を聞いて暮らしている人はもっとそういう夢を見ていたにちがいない。その感覚は特別なものではなく普通にあった。するといつか津波が来るんじゃないか、そういう危機感をもつ人がいても不思議ではない、そういう言い伝えの神社があっても忘れられていたのだ。最近貞観津波のことを地層を研究して伝えた学者がいた。だから現実味がまして仙台の海岸沿いで陳情までしていたのである。相馬でも奥まで津波がきていた。

そういうことを真剣に考えていたらこんなに被害大きくならなかった。それは科学的根拠があったから説得力があったのである。ただ千年前とかなるから真剣に考えなかった。でも400年前にも大きな津波があったのである。慶長地震で起きた東北地方の津波でその時津波という言葉が定着した。それ故に津(波)神社が祀られたのだろうか?慶長地震の時にはじめて津波という言葉が使われたからである。日本はいつ大きな津波が来るわからない。だから海岸にある原発は本当に危険である。


「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』[1]で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と読む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


日本では津々浦々というように津が多いから津波も多いのである。これは宿命的なものでありそういう津波に関してこれほど無警戒だったというのは日本人には歴史記録とか歴史意識に欠けているとしかいいようがないのではないか?津波は確実にこれからも起こる。過去にも定期的に起きていた。千年前の津波でもやはりまた起きる、大規模なものが起きることを証明したのである。


津波最新ニュ-ス

都司准教授らは、同地震の津波でヒラメがあがったという伝承が、沼津市戸田地区の平目平に残っていることに着目。現地で測量を行い、海抜36・4メートルまで津波がさかのぼったと考えられると結論づけた。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110917-OYT1T00389.htm

平目平がヒラメが打ち上げられてその名が残ったとはなかなか気づかないだろう
蛸が打ち上げられたのを磯部の近くで見た。そこが蛸平などとなるのか
そういう地名でも伝説でも由来がわからないのが多かったのである。
posted by 老鶯 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年09月18日

神戸震災の中で作られた俳句


神戸震災の中で作られた俳句


枯草や住居なくんば命熱し     永田耕衣
.


その後、避難所生活ののち、老人ホームで生涯を閉じた。享年97。
耕衣は常々「雑草の哲学」と口にしていたらしい。


神戸の震災は遠いからそれほど実感しなかった。ただ驚いたのがアナウンサ-が燃えたばかりの骨を手にもって報道していたことである。それが熱いといっていた。あの長田区の火事はテレビで見ただけで凄まじいものだった。神戸に近い大阪辺りだったらその恐ろしさを実感したのだ。6千人も死んだのだからあの地震も恐怖として焼きついていた。ただ遠いということでイマイチ実感に欠けていた。やはり遠いということはいくらテレビで報道しても実感できないのである。
それでもあの映像を見たときショックだったから3000円送った。今回は見舞金5万もらったから少なかった。ただこの5万円は原発が関係している。あと30キロ圏外でも一人十万はもらえる。
原発の被害は意外と大きいものだった。田畑が耕せなくなったり地元で作ったものが食べられないのは本当に困る。


・・・・焼かれ芽吹きぬ・・・・・
http://tsdai181.blog61.fc2.com/blog-entry-119.html


この俳句も異常である。やはり火の恐怖がここにあった。津波の恐怖は水の恐怖だった。気仙沼では火事もあったから火と水の恐怖が一度にやってきた。そこにいた人の恐怖はどれだけのものだったろうか。自分も津波と原発事故が重なったとき本当にこの世の終わりが来たかと真剣に思った。家族の認知症介護から次に自分の病気から犯罪にあうことや災難続きであり
今度は地震、津波、原発事故と来れば本当にこの世の終わりかと思う。人間は火と水で滅ぶというのを実感した。今は放射能でも滅ぶ。


永田耕衣は

1995(平成7)年、阪神淡路大震災、永田耕衣は夜中にたまたまトイレに入って、全壊の家から、トイレの手水の金タライをカンカンと打ち鳴らし、近所の青年にトイレの窓から助け出された95歳の時である。耕衣は震災を詠んだ



95才でこうした大災難にあいそのまま死んだ人もいる。今回の津波原発事故でも百人くらい避難所とかで高齢者が弱り死んでいる。こんな年まで災難はある。95才の母は動けなかった。
神戸の地震災害にあった人は体験しているから今回の津波でもいち早く支援してくれたということがあった。こんな災害のとき俳句とか短歌などよんでいられないきが普通である。ただ習慣的に俳句短歌を作った人はそういう場合でも作るのである。習慣とはどんな時でも継続されているのだ。


枯草や住居なくんば命熱し


95才でこんな俳句作れるものだろうか、相当気丈夫だったのか、健康だったのか?95才だったらこれだけの災難にあえばまいってしまう。自分なんか年としては30年違っているからその年に驚く、ただ今は90才は珍しくなくなっている。そこまで゛生きるのはわかるにしても命熱くとなるだろうか?命がなえてしまわないか?なんか自分は病気になって気弱になったからそう思うのだろう。90才を想定した人生は本当に長い。あと30年生きるとなるとこれも一つの人生の期間である。25才頃師が90才の人生と言っていたが本当にそれは長いのだ。ただ高齢者でも津波の被害にあった人はたくさんいるし死んでもいる。原発事故では避難所暮らしした人もいるし今は仮設で暮らしている。だから高齢者も災難を逃れることはできなかった。戦後生まれの人は災難とは何か知らない、戦争を経験した人は知っている。人生に災難はさけられない、自分の家でも二回水害で浸水している。一回目は伊勢湾台風では家が流されたと思ったが辛うじて残ったのである。倒産-貧乏-戦争-貧乏-水害-病気-地震-津波とかそういう時代を85以上の人は送っている。人間は死ぬまで災難がつづくのだ。火宅の世に生きるのが運命なのである。


「火宅無常の世界は、万のこと皆もって、空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異鈔)

 「この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である。ただ、阿弥陀如来の本願だけが、不変不壊の絶対の幸福に救いたまう、真実なのだ」


つくづくこういう世界に人間は生きている。人とて頼りにならない、裏切りなどはどこにでもある。こういうことをここ5年間に一時に体験した。だから念仏のみとなるのは今の世ではありえないにしろこれだけ種々のものに恵まれている時代でも火宅の世に変わりなかった。ただたまたまそれが来るのが遅かっただけである。


芽吹きと地割れ
http://musubu2.sblo.jp/article/44138907.html

 
posted by 老鶯 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

原野化した南相馬市 (南相馬市はこの先どうなるの?)


原野化した南相馬市

南相馬市はこの先どうなるの?


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高松

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真宗系移民の墓

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空家

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栗の木
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子育て地蔵

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片倉村


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小高区へ道

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鹿島区川子の高台のボランティアのテント

南相馬市の原町区の高松から大木戸を通り片倉村を回ってきた。まだ今日も暑い陽差しだった。高松の墓所を見たら釈とあるから越中からなどの真宗系の移民の墓である。相馬藩では墓所を見れば必ず越中などの真宗系の移民の墓は一目で他から区別できるからわかりやすい、必ずそれは江戸時代の移民の末裔なのである。相馬藩では飢饉三分の一の人口が減ったときどれだけ困ったか真宗系統の墓を見ればわかる。墓所に三分の一も真宗系統の墓が残っているからそれだけ移民に負うことが多かったことがわかる。墓が語らずも証明している。
高松では山田という姓だった。高松は山田の姓が多いことがわかる。その辺で栗の木が一本あり大きなイガが実っていた。けれども家には人の気配がなく玄関はしめきっている。人はいない、前に無縁仏とあったがこれも何なのだろうと思った。


南相馬市では農家でも酪農家でも廃業する家が増える。田畑でも放置すると原野と化して荒れてしまう。元の田畑に戻す作業が大変だと経営が苦しかった農家はやめることになるかもしれない、南相馬市ではまだ原町区でも子供のいる家は避難して帰っていない家が結構あるのかもしれない、空家になっている所がある。子供を育てるのに難儀するから放射能の困る点だった。六号線の牛丼屋のチェ-ン店でも店員一人でてんてこまいだった。アルバイトの若い人を労働力として確保できなくなっているのだろう。若い人はいなくなるとこういう所に影響してくる。チェ-ン店のレストランは閉じている所が多いから淋しさを感じる。繁盛しているのはパチンコ屋だというのは仮設住宅に入っている小高区の人などが仕事をできないので暇で行っているからそうなる。パチンコ屋のアルバイトに行っている人を知っているからだ。そんな所には仕事がある。それも異常事態である。パチンコ屋だけが繁盛してもどうにもならないのだ。


高松から大木戸村辺りに来ると昔の街道からは離れている。原町は雲雀が原辺りから原はつく地名が多いように原っぱだから原町となった。その広大な原に野馬追いのための馬を放し飼いにしていたのである。その回りに柵を設けて木戸を回りに作っていたから野馬土手とか大木戸村が生まれた。原町村は野馬追いには一騎しか出ないあとからできた小さな村だった。宿場町となり人口が集中したのである。そして今は原っぱだった原野と化しているのも不思議である。元の原っぱにもどってしまったのである。馬が二頭を草を食べているが放射能の草である。牛はあまりいないだろう。農家も今や空洞化して原野が広がっているから荒寥としている。
途中の明治テックとかマイアスの工場も閉鎖中である。200百人とか働いていたらそこで仕事があるから人もいつく、その仕事がなくなると人は流出してゆく、流出してゆく人は若い人なのである。だから若い人がいなくなると働く人がいなくなりいろいろな店も閉じるようになるのだ。
高松から石神まで通りは閑散としていた。石神小学校も子供はいないから余計淋しいとなる。



明治テック株式会社

従業員数: 135人
建築工事用シートの分野では業界屈指の生産量を誇っています


マイアス電気株式会社
従業員数 62名



それから片倉村に出たらここも草茫々であり淋しい、トラクタ-で除染しているみたいだ。除染の草や土が積み上げられている。それもどこに始末していいかわからない、旧国道の浜街道を小高の方に行ったら立入禁止であり許可なく入ると罰金とられる。小高に家がある人もそうなるから悲しい。この道は車もほとんど通らない道になった。店はみんな閉じている。車が通らないとこれほど静かになるのかと思った。まるで江戸時代にもどったようだ。そこから原町の街中をぬけて川子に出るとテントを張ってボランティアの人がいた。横浜から来たとか歌を歌うとか言っていた。あそこは長居できるようになっているから便利だ。でも今ボランティアは何をするのか良くわからない、かたづけはだいだい終わったからである。

南相馬市はこれから一体どうなるのだろうか、原野化した田畑は来年回復するのか?それとも当分そのままなのか、若い人は去って老人だけの斜陽の街と化していくのか?今みる限りはそうなっている。こんな風景は本当に異様である。常磐高速道路は工事をつづけるにしても大幅に遅れるだろう。それでも原発事故で得した人もいるだろう。家族が多いと得する。小高区なら5人家族の家を知っているが50万が一月に支給される。その額は大きい。一年つづけば貯金さえできる。運の強い人はこういうときでも得する。いい悪いにしろ金銭運も運なのかもしれない、原町区の人は一時金の支給で終わるからかえって損だともなるか仕事がない人は出て行ってしまうだろう。津波の被害には補償はなく原発事故には補償があるのでその差も大きいのだ。いづれにしろ南相馬市では福祉関係のサ-ビスでも他の市よりは劣る。その他医療も正常化していないし看護師も出て行った人が多い。そうなるとますます活気を失い人が出て行く、何らかの方策を建てないとずるずる衰退してしまうのではないか?

江戸時代は移民政策で盛り返したが今度はどうしたらいいのか?中国人でも移民させるのか、中国人ならこれくらいの放射能は気にしないかもしれない、黄砂の方がひどいからだ。放射能のこを良く説明したらこれならたいしたことがないとなるかもしれない、それでも研修生も中国にいち早く逃げた。放射能は怖がればきりがないからだ。老人は免疫があるから居残る。ただ草茫々の元の原っぱに残されるのか?そういう異様な状態からいつ脱すことができるのか?ソ-ラパネルの会社が来るなどはいい面である。その他になにかいいことはないみたいだ。工業商業もしぼんでゆゆき農家もだめになるとすると衰退するばかりではないか?相馬市の方はまだ南相馬市よりはいい。南相馬市から相馬市に移った人もいる。相馬市は普通に田畑を作れるからいいのだ。ともかく南相馬市はどうなるのか、立入禁止区域から野良犬などが入ってきてウィルスをばらまくとかも騒がれている。こんな異様な世界はまるで映画のようである。でも現実なのだから現実を見つめる他ないのである。

posted by 老鶯 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年09月19日

南相馬市周辺の負のスパイラル (土地価格が下落、医者看護師の流出など)


 南相馬市周辺の負のスパイラル

(土地価格が下落、医者看護師の流出など)

●南相馬市相馬市の土地価格が下がっている


一坪は約3.31平米なので
70×3.31=231.7平米です。


南相馬市の土地価格
http://toushi.homes.co.jp/owner/fukushima/city070212/chika24504.html

http://chika.m47.jp/datak-24281.html


相馬市の土地の価格
http://www.tochi-d.com/soumashi/


南相馬市は土地の値段が半分以上に下がっている。一平方メ-トルが6万から2万5千円に
不動産価値も下落している。10年前の半分以下である。南相馬市は全体的に土地からして価値がなくなってきている。原発事故前から下降線をたどっていた。今や誰も放射能の土地を買いたいとう住みたいとかなくなってくる。つまり放射能のせいで南相馬市全体の財産は下落させられたのである。これも原発事故のせいだった。相馬市も土地の価格が下がりつづけていた。仮設住宅に5000人入っているというのも驚きである。相馬市だけではないにしろ相馬市の被害も甚大だった。相馬市は田畑は普通に耕作している。でも土地の価格は下がっているのか?南相馬市から相馬市に移っている人もいる。それはアパ-トを借りる人でありその需要はある。しかし日本では家を建てるとなると土地から家から金がかかりすぎる。特に今は設備費などがかかるので家を簡単には建てられない、こんな放射能汚染になると余計にここには建てないだろう。


まず津波の被害にあった所は住みたくない、するとそこの土地はもう誰も買わない、誰も住まないともなる。これは津波の被害にあったところに共通している。土地の価値がゼロにもなってしまった。なぜなら誰も買わないし住まない、ただ原野化、湿原化しているだけである。 家を建てる人もへってくる。津波原発事故で財産が消失している。富岡町長の金庫のように金がある人は郡山にも新築できる。飯館村長も福島市にマンションを買った。つまり金のある人は外に出ることができる。その人たちはすでに故郷には帰らない、捨てたのである。ない人はとどまるほかないが老人だけになってしまう斜陽のこれまた異様な街になってしまうかもしれない、ソ-ラパネルの会社などが来ることは良いニュ-スである。火力発電所の東北電力の人も残る。その寮もある。田畑を耕す人は農家の人はもともと高齢化で経営も苦しかったから農地は放置されるかもしれない、残れる人は年金をそれなりにもらっている人と仕事が持てる人になってしまう。そういう衰退する街には若い人はますます住みたくないと流出してゆく。負のスパイラルが起きてくるのだ。

確かに南相馬市には核処理の仕事もない、一体この先何があるのだろうか?相馬野馬追いすら数が少ないと迫力に欠ける。しょぼい祭りに
なってしまう。それだけの数も集められなくなる。

限界集落では祭りを受け継ぐ人がいない、万葉祭りなどはなくなっていいにしても相馬野馬追いはなくなったら相馬には何もなくなる。観光と
してはチェルノブエリのように20キロ圏内の野生化した地帯を見る、原発事故現場を見るようなものがでてくる。飯館村は野生化してしまうだろう。鉄格子の窓からイノシシ見学などをするようになるかもしれない、ただ高瀬川などは別に放射能に汚染された水自体はきれいだし気持ちいい場所なのだ。ただ相当に山と森は放射能に汚染されているからそこも行きたくないとなる。老人はあまり気にしないから老人ツア-になる。自分も放射能など気にせず今まで行っていたのだから行きたいとなる。でもそんな未来なんてあるのだろうか?それはチェルノブエリと同じように異常な世界である。そんな世界に住みたいと思うだろうか?来たいという人も研究者と物好きになってしまうだろう。ゴ-ストタウンだ、まるで映画と同じだとか無責任な奴の見せ物になる世界は異常である。


●医者、看護師の他県への流出


毎日新聞で、福島県南相馬市で暮らしていた看護師の記事が掲載されていました。

横田明美さん(46)は南相馬市で勤務していた病院が福島第1原発から30キロ圏内であったため、今月から、山梨県の富士吉田市の市立病院で看護師として働き始めました。
長男と二人で山梨に避難してきたそうですが、夫で市職員である美明さんは、南相馬市に残っています
http://nurse-time.com/blog/2011/06/16/5893.html


透析が復活しない限り、緊急時避難準備区域が解除されても私は帰れない」。南相馬市原町区から福島市内に避難している高野融さん(82)はため息をついた。3年前から週に1度、南相馬市の大町病院で人工透析を受けていたが、震災に伴う医師不足で同病院が透析を休止、福島市内の病院で透析を続けている。同病院の透析患者は10人以上いるという。

南相馬市の緊急時避難準備区域内にある5病院では、震災前に計48人いた常勤医師が28人に、計457人いた常勤看護師も189人に激減した。近く始まる同区域の解除に向けた体制整備は急務だ。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukushima/feature/fukushim1315838901498_02/news/20110913-OYT8T01057.htm


相馬市と隣接する相馬市の病院関係者によると、「深刻な人材流出は起きていない」。むしろ事故直後には、原発周辺から避難した看護師が「働かせてほしい」と訪ねてくることもあったという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110912-00000006-cbn-soci


渡辺静さんは、いわき市で生まれ育ち、同市内の病院で看護師として勤務。
しかし、福島原発事故が発生したため、高校2年と中学2年の娘2人とともに、先に父親の知人を頼って下関市に避難。

その後、原発事故の収束の見込みもなく、娘も下関での生活を望んだため、下関市立済生会豊浦病院に看護師として就職することを選んだそうです。
http://nurse-time.com/blog/2011/06/17/5898.html


医者とか看護師は資格と経験があればどこでもひっぱりだこである。だからこういう災難が来たら他県に移る人も出やすい。他は就職がむずかしいから簡単に他県に出ても苦しい。医者と看護師は人材が流出しやすいから医療崩壊は深刻である。みんな子育てのためにはやむをえないと判断する。それを責めることもできないのが現状である。子育地蔵が石神にあったが今回は無力だった。地蔵に願ってもどうにもならなかった。


透析のようにもし治療を受けられないと死ぬというのは深刻である。自分も南相馬市立病院と民間の医院と相馬総合市立病院の三カ所に通い病院側のミスで危険状態になった。その時たまたま原町の医院が開いていたので助かった。緊急事態だったけど受け付けられなかった。その時混んでいたのである。医療には緊急事態がある。それに対応できなければ死ぬ人がでてくる。南相馬市とかではそういうリスクを受け入れて住まねばならないというのも辛いのである。

南相馬市立病院には一か月入院して看護師に世話になった。その人たちも他に流出したのだろう。若いから結婚していない人も多い、そういう人は看護師資格をもっていればどこでも働き場所があり将来結婚して子育てするのには放射能汚染地帯では危険だということで流出する。これをとがめることもできない、放射能は妊婦や子供に影響しやすいからそうなる。
もう南相馬市とかにいると死期も早めるということも考慮して住むほかないのかもしれない、ただ簡単に他へ移るのがむずかしい人はいる。土地とか家がありそこでなんとか暮らせる人は老人は出にくいのである。だから老人が残って若い人は出てしまったという家も多いのである。
ともかく医療は即命にかかわるから深刻なのである。ただ50代以上はあまり放射能を気にする必要がないということで残りたいという人が多いのである。新しい土地でなじむことはむずかしくなっているからだ。


● 飯館村は放射能汚染物質などのゴミ捨て場になるのか?


飯館村は南相馬市より深刻である。放射性物質の土などを空き地が多いのだから谷間のような所に集積して埋めるとかを村長が決定したみたいだ。飯館村の村長は福島市にマンションを買ったのだから帰らなくてもいい、金庫騒動の富岡町長も郡山市に家を新築したから帰るなくてもいい、金も十分にある。ただ本当にこのように市町村が崩壊するということはどういうことなのか理解できない、これが単に一時期的なものなら回復もある。ただ本当に帰れなくなる場合は市町村は消滅する。飯館村はどうしても放射線量が高いから簡単に帰れるとは思えないのだ。するとそこは国で管理するようになる。そこでの用途は産業廃棄物とかでもめたことがあったが核の処理場となり放射能汚染物質の置き場になりやすいのである。人がいないのだから反対する人もいなくなるからだ。ただ政府にしても東電でも補償金がかさむからそのあと長く補償しきれないだろう。補償をうちきり土地を買い上げることするとしてもその金が莫大だからこれからどうなるのかわからない、ただそう簡単に帰れないというのは現実である。放射線はセシウムだと30年とか減らないし除染にも限界がある。森を除染できないとすると一区画をしてもそれ以上は減らせないことがわかった。その森林が70パ-セントとかの地帯だから除染には限界がある。こういう点でも負のスパイラルが原発事故周辺で起きているのだ。

posted by 老鶯 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年09月20日

南相馬市片倉村の由来


南相馬市片倉村の由来

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●片倉辺の神が由来

諏訪大社は2万5000以上の末社を持ち、起源も非常に古い。
信濃国の一宮であり、神位は正一位であり、信濃的には日本一の神社。
よく誤解されるが、諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され
場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。

祭神は大国主の子である建御名方神とその奥さん。

国譲りの段で天津神に敗れた建御名方神は諏訪に逃げ込んだ事になっているが
その際に、上記神々を率いたモレヤ神と戦争になり、勝利して現在の地位を得る。

建御名方神の氏族は諏訪氏で、代々大祝を担い
洩矢(モレヤ)神の氏族は守矢氏で、代々神長官を担う。
どちらも、神から続く家系図を持ち、諏訪では神として扱われていたが
既に大祝は途絶え、神長官についても守矢氏は生き残っているものの


洩矢神    →千鹿頭神 →児玉彦命
建御名方神 →片倉辺命 →児玉彦命

↑ここ

片倉辺命─(実子)→児玉彦命
         ↓
千鹿頭神─(養子)→児玉彦命

知名度としては落ちるものの、御頭祭も奇祭として有名。
狩りを行い鹿を得て、頭を切り落として捧げるが、その数が75頭とかそんなレベル。
(現在は非常に残念な事に剥製を使っています。神様怒るだろjk)
それ以外にも鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが神饌として捧げられて居た。
ちなみに兎はまるごと一匹、下から串刺しにして立った状態。

諏訪で鎌を軒先(?)に飾るという風習があると聞いたのですが、
これについて詳しく知っている方がいたらいろいろお話を聴きたいです。
どのようないわれがあるのでしょうか?
諏訪大社と関係はあるのでしょうか?


2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k2-4.html


鎌宮諏訪神社(鎌の宮) 石川県鹿島郡中能登町 15.11.23
http://genjin.cool.ne.jp/suwasya/kamanomiya.htm

 



この由来をみると狩猟時代が彷彿とする内容である。長野県となると山深いから狩猟が盛んだったのである。縄文時代にもさかのぼる古い謂われが祭りとなって伝えられているのである。


諏訪神社は古いから全国にあるし相馬藩にもある。相馬市の黒木の諏訪神社は立派である。神田として諏訪田という地名も残る。この諏訪神社は由来が非常に古い。出雲から天津神の建御雷之男神に追われ信州の山深く逃れた先祖になった。天文年間から室町時代に由来を持つとして文書もあるとかになるがここには相馬氏が移動してきたときもたらされたものだろう。

『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。

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相馬重胤
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo14.htm#sigetane


この案内板と神社がある場所が問題である。ちょうど八重米坂をおりた所であり山を越えてここに休む場所としてふさわしい。片倉村の入り口だったのである。そこに片倉辺の神を祀ったからここが片倉村になったのだ。建御名方神 →片倉辺命が由来であった。各地にある片倉の地名はここに由来しているのが多いのだろう。伊達氏の片倉氏は有名でもそれが地名化したわけではない。氏族名は地名になるのがまれだからである。ここから下って旧陸前浜街道の交差点辺りに塩釜神社の案内があった。そこから先に行くと太田神社になるからその跡が裏付けられる。いづれにしろ戦乱があり相馬氏はここに逃れて新しい相馬氏の基礎を築いたのである。初発神社とはここから始めるという意味もあったのか、その場所が歴史を如実に示しているのである。


野馬追いの旗をみると渡辺氏があり今も渡辺氏の墓が分家となって並んでいる。旗も分家して新しい旗となった。もともと渡辺氏の旗は一つでありここにきて分家して新しい旗になった。その旗がもともと共通したものとしてあった。分家した旗はわかりやすい。そういう旗も多いことは確かである。そういう旗は分類しやすいのである。


鎌の旗は一つのと二つが組み合わせたものがあり男鎌と女鎌に由来するものだろう。鎌の由来も諏訪神社から由来したものでありそれが旗印になった。片倉村の由来は相馬重胤から始まっていることは間違いない、地名としてはすでに相馬氏が移住する前からあったものが多い。古代の地名が多いがこの片倉村は片倉辺の神を祭ったものであり相馬重胤に由来していた。だから一面新しい地名だとも言える。おそらく相馬氏がきたときは原野か森だった。そこを開墾したのである。その中心になったのが渡辺氏であった。

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南相馬市片倉村の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/28478326.html

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2011年09月22日

ここ二日間に起こった相馬での自分の緊急事態 救急車を利用、台風で交通が混乱、相馬市のランチメニュ-


ここ二日間に起こった相馬での緊急事態

救急車を利用、台風で交通が混乱、相馬市のランチメニュ-


●総合病院では行く度に先生が変わるので困る

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小便出なくなって七転八倒した。軽い手術のようなものをしたが効き目はなくかえって苦しむだけだった。前も入院したときそうだった。かえって管を入れていた方が楽である。だから何か手術しても良くならないように思う。胃ろうでも今の世の中3年も四年も生きている人がいる。よくそんなことで生きられると思う。自分の場合は食欲もあるし普通に動ける、前とそれほど変わりなく動ける。
だから体力がねんなに落ちたとは思えない。病気は普通は食欲なくなると病気だと思う。食欲あるうちは病気とは思えない。ただ糖尿病とか腎臓病は別であるが、腎臓も悪くなると食欲がなくなる。

病気は食欲がなくなることだと思うのが普通である。また動けなくなるのも病気である。そうでないかぎり病気だとはあまり思わないのだ。治療したり手術したりして良くなるならいいが悪くなる場合もある。病気に関しては田舎は不利である。医者を選ぶことはできない、こんなに混乱しているとさらにそうだった。医者にかかれるだけいいと思えとなってしまう。病気になると都会の方が有利である。金さえあれば高度な治療ができる。ただ都会がすべていいとは限らない、地元だと知っている人がいるとか安心感がある。精神的な面でいいことはある。都会だとたとえいい治療が受けられても他の面で不満があったりする。つまり何事すべてに満足させられるものはない、ただ病気はかかる医者に大きく左右される。しかしその医者がうまいかどうかもわからない、すべての人にとっていい医者がいるわけではないからだ。技術の問題もあるが人間性の問題もある。あの先生とはあわないとか嫌だなとなると技術がうまい先生ともうまくいかないことはある。総合病院の問題は行く度に先生が変わっていることである。研修生も処方箋を書くからさらにややこしくなる。誰か一貫して責任をもたない、共同責任体制になっている。開業医だと評判に大きく左右される。どうしても一人の人間としてずっとみるからこの先生はいいとかだめだとなる。総合病院ではそういう判断がしにくいのである。

●交通の混乱

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今回は一回は真夜中の救急車であり次の日はタクシ-とタクシ-は1万5千円かかった。相馬市までだと高くなる。代行バスは台風で休みとか夜遅くなってしまったとかタクシ-を利用せざるをえなかった。この辺は交通も混乱している。普通に運行している福島交通のバスを今回は利用した。これも一日三回くらいだから利用したことがない。昨日今日とJRの代行バスが運行していない、今日は外からきた人ともめていた、なぜバスを出さないのだ。回送するバスが原町まで行くのでのせろとJRの職員にくってかかっていた。しきりに悪口言っていたから東北人ではない、ボケナスとかなんとか激しい言葉でどついていた。民間なんだからこんなことしていたら首だぞとか言っていた。東北人は忍耐強いというとき会社にもあんまり文句をいわない、そのことが東電とか政府にも原発事故で強い抗議をしないことに通じてもいる。大阪や九州あたりだったらすごいことになっていたろう。あの辺で原発事故があったら東北のようにはならない、大騒動になっていた。そういう東北人の性格をみぬいて原発を建てたとも言える側面はある。


JRは原町-相馬市間を走らせる計画だというが電気は新地の方からとってくるとかかなりめんどうらしいからいつになるかわからない。鉄道を走らせることはコストもかかるしめんどうなのである。ところがバスだと道路さえあればどこにでも行ける融通さがある。事実代行バスとか相馬市と福島市の間の定期バスが福島交通から新しく開通して乗客もかなりある。相馬市と原町区間はあんまり乗っていないのは同じだった。昨日と今日は代行バスも走らないので利用した。バスの方が緊急事態には対応が早い。鉄道はもう復旧するにも時間がかかりすぎる。だからバスでもいいとなる。ただ原町-相馬市間はバスでも相当に不便だった。外からきた人は原町までタクシ-で行った。かなり急いでいてそうなった。外からきた人はあまり待っていられないからそうなった。この辺ではこの交通の問題も大きな問題である。こうなると相馬市-福島市のバスが出るようになったようにそこから東京などへ出る人がふえる。外からの人は東京から福島市に来て相馬市に出るのが一番近道である。ここの高速道路は決まったというのも交通体系が原発事故で変わってしまったからだ。今の時代は交通は大きな問題になる。交通で世界に網の目のように結ばれるようになったのが現代だからである。だから交通がたたれると陸の孤島のようになってしまい不自由になるのだ。災害でそういうことが起きている。本当にこの辺の混乱はずっと長くつづく、簡単に前の状態にはもどらないのである。




●2ちゃんねるののりで放射能の危険を大げさに地元の人が話していた


相馬市に度々行くようになって駅前のレストランとかを利用する。中華料理の李龍とかうしろのホテルのランチなどを食べた。バイキング形式でランチを出しているのは安くてうまかった。500円は安いというのは本当だろう。コ-ヒ-も百円でのめる。そこで話していたのが相馬市に住む人で放射能のことだった。真野ダムの水は飲んでいないとかこの台風で放射性物質が流れて相当にたまったから気をつけろとかその人は年の割りには放射能のことを恐れている。地元の水は飲んでいない、青森地方の水を飲んでいるというのはトラック運転手にコネがあり頼むと言っていた。会社を経営している人らしく今ハロ-ワ-クでは人を安く雇えるとか言っていた。ともかく働く場がないからこの辺ではそうなっている。

この人は水にこだわっていて炭とかで濾過していい水を作っている。その人が話するのに浪江の川に上ってくる鮭は危ない、それも放射能づけになり海に帰って再びもどってきた時が危ない、頭二つとか巨大化したものとか、ヒレがいくつもあるとか、勝手に言いたい放題の放射能被害のことを言っている。いろんな奇形の動物が生まれることをおもしろおかしく言っている。足が六本のイノシシとかなんとかかんとか馬鹿話をしている。これはいつも2ちゃんねるで言っていることだった。それが地元の人が言っていたから2ちゃんねるの会話はこうした巷の会話と共通性があると思った。とるにたらぬものというのではなくそこに庶民の本音がでている場合があるからだ。そういうところでは本音がしゃべる、東電の社員が爆発のとき逃げて食堂でそのことをしゃべったのも真実なのだろう。そういうところでは本音がきけるということにもなる。相馬市にどういう店がレストランがあるかどうかは実際に利用してみないとわからないのだ。どこの街でもそういうことはそこに暮らす感覚でないとわからないのである。相馬市駅界隈には結構いい食堂やレストランがあることがわかった。李龍のゴマのアイスはうまかった。ランチは得でありそのレストランの売りが何かがわかるときがある。レストランでもそれを見込んで安く出しているのだろう。

posted by 老鶯 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年09月23日

あなたに向かって花は咲く


あなたに向かって花は咲く



あなたに向かって今日も花は咲きます
あなたに向かって花は熱く咲きます
あなたに向かってあなたのために花は咲きます
あなたに向かって花はほほえみます
あなたに向かって花は笑っています
あなたに向かって花はやさしくおじぎをします
あなたを待って花は人しれず隅に咲いています
あなたはいつも花の中にあります
様々な色の花の中にあります
あなたはこの世になくてはならないもの
あなたに向かって花は咲くからです
花はあなたのために一段と装いを新たにします
その生来の色を豊にします
あなたはこの世で金をかせげなくても
あなたはこの世になくてはならないもの
花はあなたに向かって咲くからです
何よりあなたに向かって咲くからです
花に愛されたければ花に愛されるような人でないと
花はあなたに向かって咲きません
汚れた人に花は咲きません
花はしぼんでしまうでしょう
あなたに向かって花は生来の美を隠さず咲きます
あなたのうよな人がいたから花はしあわせです
あなたは花の中をあるいています
いつまでもいつまでも歩いています
花は尽きることなく咲きつづいています
一重にあなたのために・・・・・・・
その道は天につづいています
あなたは神の花園のへと歩いているのです
天で待っているのも花々です
尽きることなく咲く花々です



 

posted by 老鶯 at 04:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩全般

秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)

 

秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)

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子育地蔵


栗実り空家となりて淋しかな

石神に子育地蔵や柿なりぬ


表札に佐藤とありて柿実る


街離れ大木戸村や虫の声


片倉村草茫々や秋の蝉


片倉村墓所にひびける秋の蝉


墓所二つ訪ねて暮れぬ残暑かな


小高区は立入禁止秋陽没る


船一つ夕風涼し小島田に


柿なりぬバスに帰りぬ旧街道




写真で高松の空家などを紹介したけど栗とかユズでもそうだったが果実類には放射性物質が蓄積しやすい。果実類は食べにくいのである。それでも自分は地元の梨とか食べている。これもどれだけ危険なのか結局わからない、用心している人は地元の老人でも食べない、昨日相馬市のレストランで話していた人はそうだった。

片倉村から陸前浜街道に出て小高の方に行った時、立入禁止区域になっていた。そして引き返した。この辺の道路は車がめっいり減って昔の街道にもどったようになった。車が通らないといかに静かになるかわかる。それは六号線でもそうだった。夜間のトラックも走らないからそれだけでも静かになり車が走りやすいのだ。それで経済は停滞してしまっているのだが江戸時代にもどったような気分になるのも不思議である。江戸時代なら他所との交通がほとんどない世界である。旧街道だけが唯一の外部に通じる道だったのである。小高にも行けないから秋の陽が没るというとき南相馬市は縮小されてしまった。

石神に子育地蔵があったけどこれも地元に子育するならいいがそれも外に出ていく人が多くなれば無意味化する。近くの石神小学校は閉鎖されていた。そういう異常状態を混乱は何なのか?それが現実として未だに受け入れられない人が多いだろう。自分も一体これは何なのか、理解しにくいのである。市町村が崩壊することなど想像すらしたことがないからである。

鹿島区の小島田には津波で流された船がまだかたづけられないである。それは今や一つの風景になっている。異常事態が定着して一つの風景になる。旧街道をバスにのるというのも何十年ぶりだとかなる。バスはやはり人間的な面があった。だから旧街道を走るのに向いていた。なぜなら一つ一つの近隣の地域を走るからである。それでバス停の地名が心に残るのである。電車だったらそうした狭い地域のことはわからない、より地名が身近になるのはバスである。バスは地名をより親しくするのである。だからバスにのる旅はそういう点で旅にはいいとなる。ただバスは便数が少ないから乗ることができないのである。いづれにしろ旅どころではない、毎日生活に追われている。旅は十分したからいいとなる。ただ思い出は旅にあった。今も心の中でいつも旅しているのだ。


柿の季節になったけど表札に佐藤とあったの句にしたけど佐藤などありふれているけど相馬地方には多いから苗字を見るのもその土地を知ることである。柿の季節になった。柿はその土地に定着する、柿は昔から日本にある。柿は何かもっとも故郷をイメ-ジするものではないか?柿があり素朴な村々がある。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm


つまりこの辺ではそうした素朴な風景すら失われた。柿が食べられないというのもそうである。
故郷から大勢離れた人がいてそのことについていろいろ書いてきた。そもそも故郷は何なのだろうということを書いた。それは故郷から離れてしまうとか漂流被災者になるとか信じられないことが起きているからだ。


年老いて故郷離る人あわれ三条市に逃れつづる日記よみぬ


 http://blog.goo.ne.jp/minamisoumashi-hinan/c/58f2cdf763249235e825b9417cd1b998/4


このプログは避難した人の記録である。これも一つの郷土史の記録となる。こんな体験すること自体ありえないからである。この人が書くには花が咲くには花だけではない、茎とか根があり土がありそういう大地の上に花も咲くとか書いている。つまり花は芸術とか文化だとするときその基盤には農業とかの第一次産業がしっかりと大地に根付いていてあり街があり安定していない限り芸術文化の花は開かない、一体そういう基盤が崩壊してしまったらもうただ生きているだけの人間になってしまうのではないか?なんとか食うだけの貧しい生活である。この土地に豊かな人間生活全体の花が開くことはなくなってしまう。そういう異常事態にどう対処していいかもわからない、ただみんなうろたえ狼狽しているだけである。避難した人々は漂流被災者になっている。市町村から自治体からの絆から切れてしまうとき漂流者になる、法的関係が切れるときそうなる。そんなことありえないことだったから考えもしない、市町村との絆など普通は考えない、普通にあるものである、今やその普通にあるものが失われたから毎日その異常事態を考えざるをえないのである。

 

菊(俳句は写生-事実は小説より奇なり)

 

(俳句は写生-事実は小説より奇なり)

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大輪の黄菊二輪や石二つ


大輪の黄菊二輪や手水鉢


菊ぬれて茶室の小径しとやかに


真夜中にかすかに鳴ける虫の声聞きつつ田舎静まりにけり


津波にて流さる船のそのままに秋となりにきかすか虫鳴く

俳句は何かと言うと再三書いてきたが写生だったことがまちがいない、なぜ写生なのかというと人間が想像したことより現実が驚くべきことであった。写生そのままが驚くべきことだった。事実は小説より奇なりというときもそうであった。小説より事実の方がどれだけ奇であり驚くべきものか今回の津波だ原発事故だ台風だとかで思い知らされた。こんな風景がありうるのかということに毎日驚嘆してきた。津波で流された船はそのままでありそれもいつしか一つの風景となっている。その事実がまさに写生であった。写生は平凡なものではない驚くべき事実なのである。今回の津波で起こったことは事実は小説より奇なりを如実に示していた。これほどの驚くべき事実はなかった。故郷から避難した人達の運命もそうだった。そんなことがありうるのかという連続だったのである。その事実を書いているだけで驚くべきことだとなる。
茶室はなくなったけど茶室の道はある。手水鉢もある。でもこんな状態では茶をたしなむということもできない。こういう文化的なことは余裕がないとできない、落ち着かないとできない、秋となると芸術の秋となるがこんな混乱状態では芸術どころではなくなる。自分の病気でもそうなっている。毎日が生活に追われてしまうのである。ただ習慣でやってきたことがら書き続けている。もう一つは記録として書いている。デスクトップに記録したのが突然消えたのでびっくりした。記録したものは残っていたようだが整理するのに大変だった。一瞬消えたのかと思った。前に消えたことがあったからパソコンの怖さを知っている。突然全部消える恐怖がパソコンにはある。でも最近はそういうことがなくなったから安心していたのである。かえってレンタルサ-バ-とかに記録していた方が安全だともいえる。管理しているからである。サ-バ-とパソコンとあとはUSBとかCDに記録しておく、印刷もしていた方かいいがこれはめんどうになる。


ともかくこの辺の異常事態は当分つづく、自分の生活もそうである。こういうところだと落ち着かない、ここだけではない、津波で被害にあったところはみんなそうである。働く意欲が喪失しているというのは深刻なことである。それだけ打撃が大きすぎたのである。仮設に入って何もしないとそうなってしまう。仕事は何であれ生きがいだからそういうものが奪われると気力も失ってしまう。そういう精神的なストレスがこれから高まってくる。だからいつになったら復興があるのかとなると見通しがたたない、神戸で10年かかったというからこの辺はもっと時間がかかるかもしれない、そうなると60代以上は苦しくなるのだ。そうなると落ち着いて仕事ができないのである。特に芸術関係とかそうである。こういうものはつくづく平和でない限り栄いないのである。ただあまりに変化しているからその事実を書くだけで小説より奇なりとなっているのだ。

 

夏菊と蝶


夏菊と蝶


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橙色の夏菊の中にふうわり

揚羽がゆれつつとまるその一時

鮮やかに橙色の夏菊が一面に映え

揚羽はゆれながらとまっている

蝶も鳥もいつも飛び立つ構えでとまる

明るい橙色の夏菊が飛び立ったあとにも

あざやかに映えてまたいづこかへ飛ぶ

新たな花園が待っている

posted by 老鶯 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般