2011年08月30日

草原を飛ぶ夏の蝶


草原を飛ぶ夏の蝶

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草原に風のそよぎて夏の蝶

草原を風の渡りて夏燕


朝の庭影なし涼し手水鉢


草原に風のそよぎて津浪あと秋めく白し雲の広がる


街道の五本松の一本松枯れつつ残り秋の蝉鳴く


草原化した自然というのは本当に不思議である。それはいつでもモンゴルの平原に住んでいるのと多少にている。毎日あのうよな広々とした所に住んでいる人の気持ちはどうなるんだろとう思う。水田とは余りにも違いすぎるからだ。ジンギスカンやモンゴル帝国が生まれたのも歴史的必然だった。遊牧民の生活様式が発展したのと同じだからである。山がないから日本とはまるで違っている。あういう所に住んでいたら日本のようなせこせこと働くというより心が大きくなってしまうだろう。日本人は細かいことにこだわる、そういう点は人間関係でもそうであり一面住みにくい、労働でも外国の方が働きやすいという若者にであった。時間や上司との関係など大雑把であり厳しくないからだろう。普通なら外国などだったら働きにくいのである。

日本は人間関係でも生活でも狭い場所に住んで育まれた。社が中心の狭い人間関係である。だからもともと窮屈なのである。大陸となると大陸的でありその関係もさらに地球的に広がる,陸続きだから
世界帝国が生まれる。そうすると民族を越えたものを思想でも何でも志向することになる。
法律はそういうところから万国共通のものとして生まれた。大陸になると天が神になる。どこまでも広がる大地と天の世界なのである。日本にはどこまでも広がる大地と天がないのである。
茶室の文化などが生まれるのもそうした風土だからである。


夏の蝶となるとこの草原にあっていた。水田より草原にあうものだと思った。草原に風がわたり燕も飛んでいる。この草原の感覚と北海道にはある。北海道には唯一日本では大陸の感覚なのである。だから特別に気持ちよさを感じるのだ。せせこましさから解放された気分になるのである。いづれにしろ草原の風景が身近にあること自体ありえざることだった。この辺は津浪と原発でありえないことが起きている。避難した町でも一体これからどうすればいいのかとなると本当にわからないだろう。そもそも町がなくなるということなど考えもしなかったろう。でも起き
ていることはそういう現実なのである。


街道の五本松の一本松は枯れても残っている。でもいつ枯れて倒れて消えるのかわからない、今そういう老人が高齢化で多くなった。90くらいになるとみんなそうなってしまう。でも今の人はなかなか死なない、死なされないということもある。寝たきりになっても結構生きてゆくのだろうか?ぼっくり死ぬ人は死ぬけど寝たきりになっても死なない人は今は死なない、あの松はそういう高齢者を象徴している。