2011年08月26日

相馬市の津浪の対応はどうだった (磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

 

相馬市の津浪の対応はどうだった
(磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

本市でも自主防災組織率100%の磯部地区で盛大に行われた。子供から老人に至るまで実に系統的に行動し、立派。婦人消防隊のおにぎりの美味いこと。磯部の米ってこんなに美味かったっけ
http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/essay.asp?offset=220&id=02


相馬市長エッセーにこう書いてあったから津浪の訓練はしていなかった?地震の訓練だったのか?この辺で生みに接していても津浪の訓練をしていない、鹿島小学校では津浪から逃げる訓練をした。手前まで津浪が来たからだ。磯部の米がうまいと言ったのは山の方は水がきれいだからうまいということがある。海側はまずいのが普通だからそういったのかもしれない、相馬市では津神社(つのみつ)神社は慶長津浪のあとに建てられた。漁師の間では津浪が来たら船を沖に出せということで90隻が助かった。津浪に関する言い伝えなどが全くなかったわけではない。実際に津神社に逃げた50人助かったと言っていた。市長もあの付近で育った。それにしても磯部は余りにも悲惨であり無惨である。一軒も家がなくなった。車で今の小学校のあるところに逃げようとして渋滞で車を流され死んだ人がいた。磯部は山の方にはすぐに逃げられない。鹿島区の烏崎とか海老は逃げられた。車は意外と津浪には危険なものだった。でも今の時代みんな車を利用しているのだから車で死ぬということになった。



慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生したこの地震について「伊達政宗 政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」と記され、『津波』という言語が日本で初めて使われたものでもある。


さらに慶長16年(1611年)12月に小高から宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。
400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html

 


1611年12月2日に津浪が発生してその月に小高から中村(相馬)に移るものだろうか?同じ月といっても12月以内だったら移ったのはいつだったのか?一週間あとくらいなのかとなると忙しい。そもそも最初から移ることを計画していなければ大がかりな移転などできるものだろうか?
それとも津浪があったので移転を決断したその際実行したのだろうか?い岩本氏が指摘したことだから信憑性があるにしてもこのことはまだよく歴史的詳細は証明されていない謎である。
ただ城が移ったのだから経済的効果お大きかったことは確かである。


それにしても市長の仕事は大変である。普通は関心がないが今回だけは市町村長の役割がいかに大きなものか自覚させられた。現代は複雑な社会だから高度な広い識見が要求される。管首相は東工大卒だから原子力に詳しいとして率先して現場に来て指示した。でもそれが誤りだったか真意はわからないがいろいす言われた。原子力に詳しい政治家などそもそもわずかである。相馬市長は医者だから医療方面には詳しいから対策がたてられる。しかし防災関係で津浪まで考慮することはなかった。それは責められることではない、浜通りはみんなそうだった。浪江町ではどこに逃げるから決めた場所があったから全く津浪に無防備ではなかった。

相馬市長が津神社の下で育ったとしたら津浪ことを聞いていたのか?そしたら津浪に対する意識は違っていたかもしれない、でも磯部で地震の訓練はしても津浪の訓練はしていないようだ。そんなことまで要求するのは無理だとなる。市町村長となるとそうしたことまで識見のもつ人が要求される。郷土史もある程度知る人も必要になる。そしたら津浪の避難訓練をしていて住民が助かったということもありえた。


岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った


村長があえてこの高さの防潮堤を作ったのである。普通は10メ-トルくらいでありそこでは大被害になった。5メ-トルの差が生死を分けたのである。ただ市町村長に課せられことはあまりにも今は多いからあらゆることに対処はできない。得意分野はできるにしてもあらゆることにはできない。 ただそうした識見があったら市長の命令で津浪の避難訓練していたなら多少は助かる人がいたかもしれない、 市町村長となると昔なら村の長(おさ)とか長老とか村のことを知り尽くした人がなった。それは老人がなり責任が重かった。 人間の経験は限られているから例え市長になっても万能人間にはなれない、それでもこんな状態になるとそういうことが市長に要求されてしまうのである。


これからはどうしても南相馬市より相馬市の役割が大きくなってゆく。なぜなら南相馬市から南は交通が寸断されたことの影響が大きいのである。だから福島市と結ぶ高速道路の建設が許可された。そして相馬港の役割も活きてくる。福島市の物流は横浜港だったり飯館村の木材の積み出しは石巻だったりしていたのである。相馬港は物流基地の港になっていない。相馬市まで行けば亘理までバスの代行が頻繁にあり便利である。病院も相馬になった。相馬市に拠点を移す会社もある。そういう変化が津浪と原発事故で起きたのである。


今回は相馬市は相馬市民として南相馬市は南相馬市民としてさらに飯館村は飯館村の村民としてそれから双葉町や富岡町も町民として自覚させられた。それぞれの市町村の外部の評価も頻繁に成された。双葉町への批判は大きいから双葉町町民は肩身の狭い思いをした。
自業自得だとも言われた。飯館村は同情された。日頃市民とか町民とか村民の意識を普通過度にもたない、どこに属していてもたいして変わりないとか思っていた。今回はどこの市町村に属しているかで大きく明暗を分けたのである。日本ではそもそも市民意識とかない、育たなかった。ヨ-ロッパのような都市国家がなかったからかもしれない、都市が独立した国であることを経験していない、外国ではどこの都市に属しているか必ず聞かれるしパスポ-トにも記される。それが大事だからである。日本では藩意識が都市になるのだろう。都市の市民感覚は伝統的にもっていないから市民意識も育たないから市政にもなかなか関心がもてないということもあった。歴史的には藩意識であり都市の市民という感覚がなじまなかったのである。



相馬市磯部村  1,813人  497世帯

このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。犠牲としては多いのか、他ではもっとひどいところがある。磯部村は家が全滅しているからもっと人が死んでいるかとも思った。それなりに避難して助かった人がいた。家はなくなっていても津浪で人命は助かるということがある。
テレビで1800軒があったというのは大きな間違いだ。!人口であり所帯数であり家の数ではなかった。これは誤解される。1800軒となればその数が多すぎるからだ。
posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ(2) (浪江町などの対応)


原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ(2)
(浪江町などの対応)
 



被災町村、どこの町村長も議員上がりで弁が立たず困ったものだ。マイクの前でまともにしゃべれない。全国放送のNHKのインタビュ―等初めてなので無理もないが。

○原発工事関係の下請け労働者は浪江町に多く住んでいた。
○浪江町には呑み屋も多くあるし、特急も停車する。それに仙台空港にも近い。
○富岡町よりはるかに浪江町の方が人口も多いし便利だった。その浪江の呑み屋で下請け労働者がよく言っていたのは、「保安院」と「東電梶vのなれ合いの話と年に1〜2回避難訓練をやっていたが、単なるセレモニーで誰も気合を入れてやってないという話ばっかりだった。

津島避難所(小学校、中学校、浪江高校津島分校などで指定避難所ではないと思う)近隣は、1万人以上の人と車でごった返していたが、川俣町にも分散した模様であった。
 


浪江町役場の原子力事故の情報はどこから入ったかわからない。
○双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町の原発がある町は、原発と役場間にホットラインがあるが浪江町にはない。浪江町は県の指示で動いたのではないか。


日当は一日7万円というが、孫請け、ひ孫請けの現場労働者には1万5000円しか払われない。今回の事故後は日当が40万円にも膨れあがったというが、ピンハネされて作業員の手取りはほんの少しだろう。これまでも被曝事故で亡くなった家庭には、法外な現金を積んで口を封じたこともあった。


東北電力が2020年稼働の目標で浪江・小高地区に原発建設を計画してきたことにも触れ、「双葉町の現状を見ている私たちは、みんな反対で農業を守ろうと話し合ってきた」と語気を強めた。


飯舘村で林業を営む男性は、「山間地の多い飯舘村は林業が盛んだったが、海外からの輸入が増えていくなかで、林業で生計をたてていく人は東北地方全体でも減っていった。このあたりで切り出した木を保管する場所も石巻の港にしかなく、津波で流されたため木の持っていき場所がなくなっている」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=249748

 


双葉町について


 確かに生活様式の変貌は目を見張るばかりです。ワラ屋根の農家なんて、いくらも残っていない。
みんなアルミサッシのついた新建材の家ですよ。車のない家は数えるほどでしょう。

 応接セット、カラーテレビ、ステレオ、ピアノ・・・・・・。
どれも必要に迫られて買うわけじゃないけれど、勢いというものがあって、
村中が競って揃えるんだから、無理してでも買わないと、みじめで暮らしていけない気持ちになる。

 それでも金がある家はいいですよ。ない家は月賦です。
畑はあっても荒れていくか、減っていく一方。必然、家中が現金収入を求めて外へ出ます。
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1313911029/l50


元町議「双葉町を最終処分場に」−−絶望の果ての覚悟

 東京電力福島第1原発の近くに住んでいた人々から悲壮な声が出始めている。
 同原発5、6号機のある福島県双葉町。原発から7〜8キロの所で果樹農家を営む元町議、大塚憲さん(61)は言う。
 「廃炉にした後、周囲数キロは国が買い上げ、高レベル放射性廃棄物の最終処分場にする。それくらいのことを考えてもいい」
 



浪江町は意外と原発で働く人が多かった。実際近い、請戸から煙突が見えた、5キロくらいしか離れていない。浪江もこれといった産業もないから原発に頼ることが多かったのかな?
実際に遠い親戚にも働く人いたし回りを見ればそういう人多かったんだろう。地形的には平地が拓けているのは請戸の海の方である。山の方はそれほどの耕地はない、山際には大堀の陶工の住む村がありそれは江戸時代からの唯一ともいえる産業だった。浪江には高瀬川と請戸川とか二つ川があるから自然には恵まれていた。高瀬川を上ると葛尾(かつろう)村になる。そこが自分の父の出た実家だった。南相馬市病院に一か月入院したとき同じ病室の人は請戸の農家で賞までもらった篤農家だった。後進の指導もしていた。15町の田畑をもっていた。平市(今はいわき市)に野菜などを売っていた娘を三人も大学に出したと自慢していた。それで主人は寝たきりになりやっと手をあげるくらいしかできない、脳もやられていて話すこともできない、
奥さんはこの人は働いたんですよ、働いたんですよと一生懸命語りかける。でも話すこともなにもできない、やっと手をにぎって通じている。この人はわかっているんですよ,わかっているげすよと懸命に介護していた。


もう一人は南相馬市の原町区の大原の農家の人でその人とも毎日話していた。その人は5町の田畑をもっていたがそれでも大きい方である。でも息子は市役所に働き跡を継がない、そしてあのうよな重病ではもう農業はできない、一人で暮らしていた。猫が友達だった。あんなところにもイノシシがしきりに出て荒しているというのには驚いた。県道も通っているからあんなところに出ないと思った。廃屋が三軒ほどありすぐ近くにも幽霊屋敷のようなのがあった。大原も放射能汚染が高かったからあそこにはもう住まない、むしろ東電に補償された方が良かったろう。今は農家でそういう農家が多い。跡継ぎがいなくなっているのだ。もう一人は双葉町から来ていた。泌尿科がないためだった。あの辺は近くに都市がないから不便である。いわき市は遠いからだ。もともと相馬藩と磐城藩の境だった。その双葉の人はバスで埼玉のかず市に移動した。バスに乗っているのを見たからだ。娘が埼玉にいるいうことでも移動した。もうなかなか帰ってこれないだろう。そもそも夫は結構悪い認知症だから施設にでも入ったかもしれない。請戸の農家の人は郡山に移動した。娘が郡山にいて時々介護していたからだ。それにしてもどうなったかわからないがあれだけの重病人をかかえてどうなったのか?請戸のどの辺に住んでいたのか心配である。港ではないだろう。ただ浪江は海の方に耕地が広がっている地域だった。高瀬川はいい渓流だったが行けなくなったのが残念である。


浪江町役場の原子力事故の情報はどこから入ったかわからない。
○双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町の原発がある町は、原発と役場間にホットラインがあるが浪江町にはない。浪江町は県の指示で動いたのではないか。


浪江の人は命令で最初津島に避難した。ところが津島は放射線量が高すぎた所だった。誰の命令で津島に避難したのか?東電からの支持ではない、政府からでもないだろう。津島から相馬市に逃れた人とあった。これも相当な手落ちだった。ただ誰の責任になるのかわからない。
双葉や富岡にはホットラインがあったということはやはり東電では事故の危険性かあるので備えていたのである。浪江には備えていなかったからそうなった。双葉町ではいち早く埼玉に避難した。それも素早い支持があったからだろう。浪江にはないから津島のような放射線の高い所に逃げた。原発の近くの人は今度は事故に備えていた方がいい。

この辺の市町村長はテキパキしていない、今の知事もだめである。すると佐藤栄佐久氏は優秀だったのだと思う。別にこんな緊急事態にならなければ市町村でも知事でも誰でもいい、首相すら誰でもいいとかなっていた。しかし緊急事態になると指導者の役割はすごく大きくなる。
指導者によって命運が左右される。だから指導者を選ぶことは住民の命をさゆうしかねないのだということを本当に自覚させられた。相馬市長は評判がいいがその他はあんまりかんばしくないようだ。


富岡町よりはるかに浪江町の方が人口も多いし便利だった。その浪江の呑み屋で下請け労働者がよく言っていたのは、「保安院」と「東電梶vのなれ合いの話と年に1〜2回避難訓練をやっていたが、単なるセレモニーで誰も気合を入れてやってないという話ばっかりだった。



こんなものだったのだろう。東電の危機感のなさがここに現れている。あまりにも原発に対する考えが甘すぎたのである。金をばらまいて百姓や漁業者をだまちせばいいんだよ、あいつらは金を握らせばだまる、マスコミも金を握らせば何もいわないよ、安全対策は適当でいいよ、金をかけたくないからな・・・こんな調子だったのである。それに呼応した地元の人も同罪だ言えば同罪である。請戸には原発長者が生まれいたことはまちがいない,この辺でも火力発電所ができたとき漁業権のあった人達には大金が入り呉服屋がもうかった。高い着物など買ったからである。漁業権は大きな権利である。億の金も入る人がいたかもしれない、立派な家だったらそうかもしれない、漁業や農業だけではこの辺では金にならないからだ。磯部ですらそうして立派な家が建ったというのをそこに住んでいる人から聞いた。松川浦まで漁業権をもっていれば東電からか金が入るのである。今でも放射能関係で補償はあるのだ。ただ15町も田畑をもっていた人は別だった。そういう人は少ない。ともかく浪江には原発労働者が多かった。葛尾(かつろう)村から浪江におりてきて原発で働いた人も知っている。浪江は原発の利益を受けていないとか言っていたが必ずしもそうではなく受けていたのだろう。補助金はさほどもらわなくても近いから経済的恩恵はあったのである。 双葉町などが高レベル放射性廃棄物の最終処分場にするほかない、土地はかいあげてもらうというのも原発と未だに一体なのである。しかし回りの人からするとその高レベル放射性廃棄物とは何なんだ。そんなものがまたどう影響するのだとなる。原発の問題は10キロ圏内だけでは決められない、その人たちの利権で勝手に決められないものである。


それにしても飯館村では木材を石巻までもっていっていた。その石巻が津浪で大被害を受けた。そんな影響まであった。いかに様々な今回は津波と原発事故であったかわかる。

posted by 老鶯 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連