2011年08月19日

時代によって変わる大和魂 (戦争のときとは違った原発事故の大和魂)


時代によって変わる大和魂
(戦争のときとは違った原発事故の大和魂)

 


敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花(本居宣長)

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂(吉田松陰)

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける(明治天皇)


大和魂は明治維新の時、吉田松陰の大和魂が今日に受け継がれた。本居宣長は唐心と大和心を対比させた。大和心となると国粋的なものは感じられない。文化的なものとして日本の本源に帰り日本人の原点に立ち返った。大和魂というと外国の侵略に対して戦う国粋的な強い意味を帯びていた。それは幕末からの黒船などから日本が危機に陥ったからである。その時強く国粋的なものとして大和魂が生まれた。明治天皇も明治時代には大和心と言っている。
大和魂とは言っていない。大和心というとき何か強い調子にはならない。源氏物語から本居宣長が大和心を解きあかしたことでもわかる。大和心には日本の国のために死ぬのだという強いものはない、唐心に対して大和心を対比させたのであり太平洋戦争のような国のために犠牲になる大和魂ではない、平和な時代に唐心と大和心を対比させたのである。


言葉でも時代によって意味が変わってくる。同じ大和魂でも原発事故での大和魂というときそれは戦争のときとはまた違っていた。他国に侵入して人を殺すとかではない、事故を防ぎ日本の人々を救う、特に原発のすぐ近くの人の人命を守るという行為であり戦争とは違っている。
権力者の犠牲になる強いられたものとも違う。原発事故も日本の危機だったことは同じである。でもそれは戦争とは違う、確かに権力者の罪は大きいしそれは戦争の時とにていた。でも他国との戦争のときの大和魂とは違っていた。何であれ原発事故は近くの人にとっては最初は本当に怖いものだった。放射能のこともわからないということもありあのまま原子炉が爆発したりしたら日本が破滅だとか騒がれていたのである。回りの人が半分もいなくなり逃げることもできない自分はどうなるんだろうかと実際問題として恐怖した。原子炉が爆発したらそれも4つも爆発したらどうなったのか?それは実際に空恐ろしいことになっていた。そういう恐怖感を一番感じていたのは近くの人達だったのである。そういうとき誰かがなんとか収めてくれ、助けてくれと祈るように見ているとき大和魂などで犠牲になるのは馬鹿らしいとか言ったら放置されてしまい日本滅亡の大惨事になったかもしれない、そういう危機のとき誰かが大和魂でも犠牲にならなければ日本が滅びる。それを汚れた権力者の犠牲になることは戦争のときのように馬鹿らしいとしたら日本は滅亡してしまかことになりかねなかったのである。


しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける(明治天皇)


それはやまにやまれぬものとして大和魂が生まれたのであり戦争中のような強いられた犠牲とは違っている。つまり大げさに言えば日本民族が存続できるのか、滅亡してしまうのではないかとかまでなっていた。そんなとき日本の歴史を維持するために大和魂でも犠牲心がなかったら愛国心が生まれなかったら日本という国と歴史は滅亡する。原発事故で故郷に住めなくなった人達はすでに愛郷心をうむ土地を奪われてしまった。そしたらどこに愛郷心を求めるのだろうかとまでなってしまった。ユダヤ人のように彷徨う民となってしまうのか?その地域の歴史も失われる。地域でも歴史が消失することは存在意義を失うことにもなりかねない。先祖代々住んだ地域から離れたとき歴史はまた一からはじめねばならなくなる。これは大変なことなのである。


津浪で被害を受けた東北地方でも全国から支援された。そういうとき日本人としての一体感を感じた。それも大和魂としての一つの国としての一体感がある故である。もちろん現代ではそうした国をこえたものとして人道的なものとして助け合いがある時代である。国だけにこだわるのは褊狭だとなる。しかし自国を救うのは自国民であり他国の人は救わない,ぎりぎりではそうなる。アメリカだってぎりぎりになれば日本を助けない、最後に助けるのは日本人しかいなくなる。そういう恐怖も尖閣諸島問題で中国に侵略されるとき感じた。アメリカは傍観して日本は独自に対処しなければならなくなった。その時戦争と同じようなことが見えてきた。日本は誰も助けない、アメリカも助けないとしたら中国やロシアが日本を虎視眈々として領土を奪おうとしている。そういう危機にさらされる。日本人を助けるのは日本人しかいなくなる。そのために日本人は中国からロシアからアメリカまで敵にしたのである。尖閣諸島問題でそういうことが日本がどうしてあんな歯止めがない戦争になったか理解した。日本が独自の道を歩もうとするときそうなってしまうのである。その結果としての多大な犠牲が太平洋戦争だったのである。


藪野氏のコメントの指摘があったが戦争の犠牲となった大和魂を否定するのとまた今回の原発事故での大和魂は違っている。同じ言葉でも意味と価値が違ってくるのだ。ただ一貫した日本の歴史のなかで生まれてきた言葉であり歴史と民族を維持するものとして大和魂がありつづける。


絶えず新たにされる健全な力はある大きな目的のためにする非利己的な活動から生まれる。
このうよな場合にのみ世の人々から正当な援助をうけうるのである。(ヒルティ)

大和魂とは個人的利益の追求ではなく非利己的なものであるから支持される。現代は国のためとかそうした非利己的なもの追求することがなくなった。ただ今回のような危機になったとき
犠牲心が要求された、それが大和魂でありそれは戦争のときとはまた違った意味合いももっていたのである。

posted by 老鶯 at 03:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

死者と生者を結ぶ短歌-十首(お盆終わる)


 死者と生者を結ぶ短歌-十首(お盆終わる)


我が姉は死して安らぐ騒がずに我に向かいて微笑みてあれ

彼岸にて病は癒えぬやさしくも生けるものにそ微笑みてあれ


我が姉の脳の病に犯されて死すこそあわれ安らぎに入る


今はしも騒がずにあれ悲しさや姉は死してそ時はたちにき


人死すも死者と語れる彼岸より死者も生者を見てありしなむ


人は死して終わりにあらじ今生きる人とともにし生きるをしるべし


生きるとき愛せしものは死ののちも変わらず愛し偲びけるかも


いづこにそ死者はありなむ変わらずに愛せしものの心にありなむ


この生の何に未練や愛なくば虚しかりけりなべては消えぬ


生けるとき苦しみ深き彼岸には仏となりけ微笑む顔かな


生けるもの弔いつづくその命消えるにあらじ結ばれてあれ


その愛は一時のものにしあらじ生きる限りにつづくものかも


一時の消えにし愛ははかなかり誠の愛は永久にしあらむ


我が命終わりとならむいまはのきわ見るべきものは穢れなきもの


のうぜんの命のかぎり花びらのもえたぎりつつ散りて重なる


万人の死者を弔う盆にあれ死者の無念を深く思うべし


みちのくの津々浦々に万人の死者の霊浮かびけるかも



死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある


わたしは、死を地続きとする日本人的な感覚を、愛する。
お盆のたびに還ってくる死者のイメージを愛する。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/mourning.html


 確かに死ですべてが終わったわけではない、人間の物語は延々とつづく、家族の物語もつづく、死んだことにより死んだ人を冷静に見直すということや死者についていろいろ回想して考えること自体、死者は自分の中で生前とは違う新たなものとして息づく、生き始めているということもあったのである。ここでは墓訪ねただけでその人のことが確かに生きていたということを実感したという。人間最後に残るのは墓だけである。墓に記された文字だけが生前の証になってしまった。墓がなかったらさらにその人間の実在さえ消失してしまうかもしれない、墓があってこの人は確かに生きていたのだという実感をもつ、そこに墓が死者と生者を結びつける場となっているのだ。


今年は津浪で多くの人が死んだ。その死は個々の死とは違っていた。戦争のように大勢の死はまた違った意味ももつ、だから家族だけではないみんなで日本人全部で供養するということが自然である。戦没者慰霊祭と同じようにこれだけの一時の死の意味はみんなで日本人全部共有するものとなる。ただ自分には戦没者を慰霊するという気持ちがなかった。戦争の是非はともかく日本人は慰霊して供養するのが人の道になる。死者に関してはそれぞれの文化がありやはり日本人は日本人の死の文化があり尊重すべきである。これは理屈ではない、日本人的心性として自然に備わっているものなのだ。そういうものが文化であり理屈では割り切れないのである。ただ自分は戒名とかは否定する。そんなもので死者は供養できない、死者と生者も愛があって語りつづけることができる。戒名をつけても死者は成仏などしない、罰辺りにもならない、僧侶の戒名商売はあくどい、死者を商売とするから納得できない、それぞれの宗教をぬきにして人が愛があってはじめて死者とも語りつづけられる。愛がなければそもそも死者はあなたの中にないのである。


自分の姉は認知症で悲惨に死んだけどやはりいかなる死であれ愛するものは愛するものであり人は病になるものでありそれを否定はできない、病に死んだということはこの世に人間として生きるならみんなそうなって死ぬ、病を最後は克服できない、死すべきものとして人間はある。
だからいかなる病でも死後は哀惜するものとしてある。認知症で死んでも死後はかえってまた前のように普通の人間としての姿に還ったことをイメ-ジする。いかなる病を癒されて彼岸で微笑んでいる姿を見る。それが仏様となったことなのである。


日本人的なものを否定するとき別な価値観をもつことがいかにむずかしいか、民主主義などでもただ欲望の民主主義となっただけである。自由に欲望を追求するだけになった。それはアメリカに習ったことでありそれが日本人としてのモラルを喪失させた。モラルというときやはりその民族特有のモラルがありそこを基盤にしてまたキリスト教でも他の宗教でもありうる。人間はその国の歴史や文化と切り離されず存在している。死者に関する文化もそうである。お盆になると死者にあうというのは日本的文化であり仏教とは関係ない、お盆になると理屈ではなくそういうものを感じる。大和魂も死んでいなかったと原発事故で書いたがそうした歴史的伝統的なものが日本人から簡単に消えないことを見た。日本人は日本のために命を捨てるということがある。これは中国とかアメリカのような巨大な国にはないことである。もちろんそれぞれの国にも国のために命を捨てることはありえる、でも日本が国のために命を捨てるというときはやはりまた違っている。それが大和魂だったのである。なぜ日本では左翼系統が人気が出ないのかというと根本的なところで日本人を否定するからである。キリスト教でも別に内村鑑三でも極めて日本人的日本人だった。そういうこともありえるし宗教だけでは決められない根強い日本の文化が日本人たらしめるのである。