2011年08月09日

南相馬市30キロ圏外の不満 (8月から医療費も普通に払わされる)


南相馬市30キロ圏外の不満
(8月から医療費も普通に払わされる)



 主婦の女性(61)は「30キロ圏外の地域は、仮設住宅用の土地提供や避難区域の子供の受け入れなど行政に貢献している。それなのに(30キロ圏内では減免対象となる)国民健康保険税や介護保険料は免除されない。さらに東電の仮払い補償(1世帯100万円)も対象外だった」と指摘。「原発事故は30キロなどで線引きできず、健康への不安は同じ。
http://woman.infoseek.co.jp/news/society/story.html?q=sankein_snk20110807069

7月までは医療費が無料で得したと思った。8月から普通にとられる。30キロからわずか離れても医療費の援助はなくなった。30キロ圏外が本当に被害たいして変わらない所なのに損だったことは確かである。ただ義援金5万はもらった。それで良しとしろということだろう。一所帯百万の補償金はもらえないにしても医療費くらいの援助があってもいいと思った。鹿島区では確かに仮設住宅の土地を提供したりいろいろ援助している。原発事故の時でも半分は避難した。残った人も不安だった。その後も精神的苦痛やいろいろな不便を強いられている。アマゾンの通販も利用できないとか被害もある。でも田畑をもっている人とか地震で半壊以上とか具体的な被害がないと医療費も補助されない、要するにこれからは何も補助されない、でも六号線が開通しないのは原発事故のためである。津浪の被害では今はない。いづれにしろ原発事故の補償を言ったらもはやきりがない、休業補償としての支払いがありこれを適用したらその範囲は福島県だけではない、それだけ大変な補償となる。得した人がいても泣き寝入りの人も多数出てくる。


もう正直放射能の話しを聞きたくない、嫌になった。放射能で何か食べられない、ここも年間やその後の放射能の影響でガンになるとかそうした話すら聞くの嫌になった。そうした精神的苦痛が大きいのが原発事故の放射能騒ぎだった。その苦痛は実際は全国に及んだ。原発事故の被害がこれほど広範囲になるとは国民も予想していなかった。毎日、毎日、放射能、放射能で日が暮れることは異常である。それ自体が精神的苦痛を与えたのである。浜通りでも中通りでもこうした精神的苦痛を与えられたが郡山市でも福島市でも何の補償もないからここに補償がないと声高にも言えない、もう東電でも政府でも補償には限度がある。あとは犠牲させられるのだ。もちろん不満な人は東電に要求すればいい、でも補償しきれないから泣き寝入りになる人も多い。それもこれも原発事故はそれだけ広範囲に被害を与え犠牲をうむ。40年間恩恵を受けた双葉町や大熊町などはしかたないだろうとか言われる。それもそうかもしれない、その他の市町村は今まで恩恵はほとんどない、だから腹ただしくなる。


いづれにしろ原発事故になったら被害がこうなるんだという見せしめが福島県だった。放射能のモルモットだというのも本当である。一旦事故が起きたら原発の回りはあんな被害を受けるんだよという見せしめである。アメリカは黄色人種の日本人だから原爆を落とした。人間を原爆のモルモットにした。原爆では実際に10万人以上死んだから今回の事故とは性質が違っていた。でも精神的苦痛は原発事故の方が長引く、放出された放射能の量もけたはずれに多いのである。ただ爆発しないから死者はでていない、だかそのあとの処理が大変であり精神的苦痛が大きいし長びくである。広島の原爆などではこんなに広範囲に死の灰はばらまかれない、その量も少なかった。原発事故はその後が大変だし広範囲になり精神的苦痛が長びく、ガンになく奇形になくとかそれが風評被害でも無視するわけにはいかない、そういうことで精神的に疲れてしまう人も多くなる。自分も毎日そうしたことを聞いているのが嫌になった。子供をもっている人はさらに大変であり心配が尽きない,今回はその心配することで疲れてしまうのである。例えガンにならないにしてもそうしたことを毎日言われるだけで心配になり疲れてしまう人が多ちなる。本当に原発事故の放射の問題は心労の部分や風評被害が本当に重くのしかかることだった。


ともかく一か月後に入院するとして無料になると思ったが損だった。30キロ圏外でも医療費くらいは無料にしてもちいたかった。30キロ圏外やその他は泣き寝入りであり犠牲にされる。それが原発事故だったのでる。

posted by 老鶯 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

家という建物の歴史 (土地や家に愛着するのはなぜか)


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)




家という建物の歴史


裸電球一つが灯っていた
北風がうなっていた
ヒュ-ヒュ-と北風が吹き込んだ
布団にくるまり寒い寒いと寝た
その頃暖房は炭だった


トタン屋根の古い家だった
雨漏りがして洗面器を家中に置いて大騒ぎ
道は舗装されていず砂ぼこりがあがる


この家は二度も水害にあった
土地が低く堤防がまだ安全ではなかった
家はめちゃくちゃにやられたが
辛うじて残った
子供のとき泣いた


その時どうしても二階がないので
ものを二階に運べず逃げられなかった
だから二階のある家を建てようとした
そして大きな二階のある家を建てた
それを姉は自慢していたが
その姉も死んだ


その家を自分が引き継いだが
今度の地震で瓦など壊れたが
40年過ぎてまだ使える
ただ大きな家だが住める
死ぬまでここに住めるだろう

水害はもうありえないだろう
安全な堤防ができたからだ

こうして家にも歴史がある
家には歴史の重みがある

もっと古い旧家なら大黒柱が黒光りして
江戸時代からの歴史を語るものもある
この頃の家は寿命が短い
それだけ家の歴史の重みが残らない


何事過去をふりかえって今がある
家一つにも歴史があり
家は実際は風雨に耐えて残っている
この家もがんばってくれたなとか
そういうことを思うのは家にも歴史があるからだ



最初住んだ家は平屋で古いトタン屋根のいかにもヤハな感じのする家だった。この家は最初、人に貸していたことがあった。長屋みたくなっていた。それでそのことを姉は語っていた。自分が生まれたときは長屋ではなくなっていた。子供のとき小学生頃までは燃料は炭だった。その頃生活は江戸時代とたいして変わりなかったのである。そういう生活体験があることは今になると貴重である。あまりにも変わりすぎたからである。家には裸電球しかなく、電気製品はなにもない、飯台一つを囲んで家族で食事していた。これは自分の家だけではない、他でもみんな同じだった。小学生から中学校になるころテレビがでてきてその頃から急速に変わりすぎたのである。水害は二度経験している。自分の土地は低くて一番被害が大きかった。よく流されないと思った。電柱があって流れたものがそこにひっかかり辛うじて残ったのである。その頃真野川は安全な堤防が作られていなかった。二度目の水害の時もそうだった。それから安全な広い川にして堤防も頑丈になり水害はなくなった。


家一つにもこうして歴史があるとき家そのものに愛着を覚えてくる。家にはそれぞれ歴史があり郷土史がその個々の家からはじまるというのはそのためである。特に祖父母から聞く話から郷土史がはじまるというのはそのためである。こうした歴史をふりかえるのは必ず今を見直す、今の価値を見直すことになる。原発事故があったけどこれもなぜそうなったのか、そこにはやはり40年くらいたっているからその歴史を見直すことからはじまる。何かを語る場合、批判するにしても歴史的に語らないと本質的なものが見えてこない。人間は歴史的な継続の中で生きているものでありその歴史が喪失すると現在のこともわからなくなる。津浪にしても貞観津浪の再来だったことがわかった。その歴史が見逃されていたのである。千年前に大きな津浪が来たということを東電に学者が言っていて注意をうながしていたのである。だけど東電では笑ってとりあわなかった。そこにやはり歴史的に思考することが欠けていたのである。


人間は目先の利益に眼を奪われるだけではなく、先の長い眼をもつ必要がある。そのためには過去のこと歴史的思考を身につけることである。ところが人間は目の前のことに心がすべて奪われる、すると過去のことは見えなくなる。過去が見えなくなることは実際は未来も見えなくなっているのである。過去と未来は一体なのである。現在と未来が一体なのではない、過去と未来が一体なのであり現在から未来は作れないのである。今の問題は過去を掘り下げることにもなる。地震の液状化になったところは昔は沼だったとか今回の津浪に襲われた所はほとんど開拓されたところでありそこは海だった。その海にもどったというのもその一つだったのである。どなん小さな村でも町でも日本では長い歴史がある。だから双葉町でも今回原発事故で避難した市町村の人達が故郷に帰りたいというとき、自分のような二代目くらいでもこうして歴史をふりかえるのに長い歴史をもって生きてきた人は愛着があり帰りたいというのはわかる。他に移ったらその土地と共にあった歴史が失われる。だから先祖代々の土地から離れたくないというとき、そこには自分の家よりも長い歴史、江戸時代から農家をつづけてきた同じ土地でしてきた人がいるからそうなるのである。

 
 
posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)