2011年08月05日

ふるさとの山はありがたきかな・・・ (原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの山はありがたきかな・・・
(原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの 山にむかいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな 啄木

この山は岩手山だった。あの山は独立峰で姿形もいい、阿武隈山脈には高い独立峰がないからものたりない、会津には2000メ-トル級の山がいくらでもある。だからあういう高い山を毎日望んで暮らしている人の気持ちがどうなるのだろうかとなる。会津の文化は山を知らなければ知り得ないものである。今回津浪にあった所は海を知らなければ知り得ないものである。だから浜通りと会津は全く対称的であり違った世界なのである。だから同じ福島県でも全く違った風土の中にある。


啄木の生まれた渋民村からは岩手山が見えた。盛岡にも住んだことがある。岩手山のような山は何度見てもあきないだろう。だから故郷の
象徴になる。でもこの辺では山が故郷の象徴になるりえない、そうした眼をひく独立峰がない、中通りは高いやまがあるからなる。安達太良山や吾妻山は高いから山が故郷の象徴となりえる。現実に万葉集にすでに安達太良山は歌われている。ただではこの辺で山が故郷と関係ないかというとそうでもない、山は岩手山のような高い独立峰ではない、身近な山でありそれは柳田国男が指摘した祖先となる山である。それは葉山信仰に通じていた。山で潔斎するというか山は神聖な場所としてあった。それは結局深く稲作、水田と結びついていた。日本の文化の基に水田が稲作があり稲作の最大の特徴は水の管理だった。ここから共同性が生まれ国が生まれた。狩猟や採集や焼畑などからは水田のような共同性は生まれない。だからみちのくの蝦夷には国が作れなかった。国としての大きな共同体を作り得なかった。縄文時代には大きな統合した国はなかった。弥生時代になり稲作がはじまって国ができたのである。


まず山がありがたきかな・・・という感覚が今では生まれない、啄木は都会でこの歌を作ったし農民ではない、農民出だったらこういう歌ができるのもわかる。放浪の詩人でありむしろそうした狭い郷土から脱出したいという強い願望があって実行した。自分なんかそうでありだからこそ
ふるさとの山はありがたきかな・・・という感覚がわからない、これは切なる望郷の心から生まれた歌である。でも故郷の山がありがたきかなというときそれは高い独立峰の岩手山より裏の小高い葉山信仰に通じている感覚である。そうした山は水田による稲作と密接に関係していた。



山の森は水をたくわえ水を供給するからこそ神聖な山となり祖先の山となり信仰にまでなった。
最初からなぜ日本の中心でなく大和盆地の飛鳥が先になったのかというと飛鳥から水田を造り始めたからだ。大阪は難波江であり八十島であり大きな入江であり葦原の入江であり水田に適していなかったのだ。まずなんらかの生産力がないと貯えがないと国は興らない、飛鳥で水田を米を作り始めて国力がついてきて飛鳥から藤原宮-平城宮-平安宮と発展した。
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm


「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。


岩手県植樹祭

岩手なるあがたの民の憩場(いこひば)の森となれかしけふ植えし苗 昭和天皇

 


あがたの民と言うから天皇のなかには感覚的に古いものが受け継がれた来たからこそこの歌ができた。基本的に最初は上田(あがた)であり下田が田の地名である。南相馬市鹿島区では栃窪が古代より早く拓けた古い栃であり上田(あがた)とにている。上田は水がいいからいい米がとれる。栃窪の米がうまいというのはそのためである。
最近津浪でわかったことは原発事故で水田がなくなって草原化した、それは水田と全く違った自然だった。風まで違っている。草原をふきわたる風と水田を吹き渡る風はまるで違っていた。この感覚はモンゴルの平原であり北海道である。ある一面水田と違って気持ちいいということもあった。海から草原に風がわたってくる。何か心まで広々とした感覚になった。つまりそれだけ感覚的に水田と草原は違ったものなのである。北海道の苫小牧に上陸したときすでに空気まで違っている感覚と同じだった。


今原発事故で故郷に帰れなくなり故郷に帰りたいという人々が何万といる。でも啄木がふるさとの山はありがたきかなという望郷の感覚は生まれないだろう。浜通りならそうした感覚はうまれがたい。そもそも農民でもそういう感覚は今はうまれがたい、だから原発を積極的に双葉町などでは誘致した。盛んに故郷に還って農業をしたいというが一方で外からは原発から金をもらい恩恵受けていたのだから同情しないという人も多くいる。そんなに故郷が大事ならなぜ反対しなかったのかと言われる。それも確かにあった。今や原発はありがたきかなというふうになっていたのだ。葉山信仰など今はない、経済的効率とか産業としての農業しかない、だからふるさとの山はありがたきかな・・・と今思っている人はほとんどいないだろう。ありがたきかなというと何か自然信仰に通じるものがあった。今は農民さえそうした信仰もないしあるのはどうしたら金になるのかしかない、それはどこでも同じだからそれほど故郷にこだわる必要があるのかと外からみられる。ただ老人は惰性で動けないだけなのである。


葦辺(あしへ)行(ゆ)く、鴨の羽交(はが)ひに、霜(しも)降(ふ)りて、寒き夕(ゆふへ)は、大和(やまと)し思(おも)ほゆ
志貴皇子(しきのみこ)

これも望郷の歌だった。寒々しい難波の宮で歌った。これからも原発事故で避難した人は仮設住宅などで冬も越す、そういうとき寒い冬に耐えてやがて故郷に帰れる日があると思う。そういう気持ちとしてこの歌は秀作である。これも望郷の歌だったが啄木などとは違い荒寥とした自然の中で歌ったものだから感覚的には相当違っている。
posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連