2011年08月03日

天変地異の貞観時代の再来 (民心の乱れが怨念が自然に影響した)


天変地異の貞観時代の再来
(民心の乱れが怨念が自然に影響した)


祇園祭の起源は平安時代初期にさかのぼります。当時、京の都では疫病が流行していました。人々はその原因が恨みを現世に残して死んでいった人々の怨霊の祟りであると考えました。そこで神仏に祈りをささげて祟りを鎮める事を目的に、市中を練り歩く「御霊会〔ごりょうえ〕」を行いました。
この時代は天変地異の時代だったんですねえ。貞観3年に隕石が落下し、16年間の間に、火山噴火だけでも4つの山が噴火し、地震もあっちこっちであり、11年に貞観地震で津波が発生しています。。


869年 貞観地震 大被害、大津波
878年 関東地震 関東地方大被害
880年 出雲地震 島根県大被害
881年 平安京地震  京都大被害
887年 西日本地震 津波発生 南海東南海連動地震の可能性大


地層堆積物から、西暦1500年ごろ、貞観津波、西暦430年ごろ、そして紀元前390年ごろに今回のと似た広範囲を襲った津波があったとしている。津波の再来期間は450〜800年程度。そして、直近の津波が1500年ごろにあったのだとしたら

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。


そして11年には貞観地震と貞観津波が陸奥国を襲いました。自然災害ではありませんが、この年には新羅の海賊が博多に侵入しました。貞観の韓冦と呼ばれます。

13年には鳥海山が、16年には開聞岳が噴火しています。
京都の夏をいろどる八坂神社の祇園祭は、まさにこの混乱の時代に成立しています。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。


どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都を繰り返したのかについて、それ が「怨霊」のせいだと知っている。実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元彦が「逆説の日本史」の中で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようやく認識されようとしている。



みちのくと奈良や京都の関係はあまりないと考えるがみちのくは奈良の平城宮時代から深い関係があった。清水寺の起源も蝦夷の鎮魂に由来しているとなるといかに古いかわかる。
そういう歴史的背景を知って訪ねるのと知らないで訪ねるのでは感想が違ってくる。奈良時代から平城宮時代から実は蝦夷とは深い関係があった。 陸奥(みちのく)真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを(笠女郎)もそうである。祇園祭りの起源がこれほど古いものであった。貞観時代から発していたとかそれも疫病を鎮めるためだとかそれは天変地異の貞観時代は日本中不安に襲われていた。だから天皇の政権争いの怨霊だけではない、蝦夷の怨霊も深くかかわっていた。だからこそ奈良の大仏はその蝦夷の怨霊を鎮めるための国家鎮護の大仏だった。奈良時代は日本国家統一の時代であり国家が深くかかわる、国家を強く意識する時代だった。それが遣唐使を遣わしたことでもわかる。対外的にも唐ではあるが意識した時代である。奈良時代に日本国家の礎ができたのであり極めて国家を意識した時代である。その後の平安時代となると万葉集のように国を意識したものはなくなり平安貴族の宮廷の物語になってしまった。

だから歴史をふりかえると貞観時代はちょうど明治時代にもにている。対外的に唐を中国文化を国家的にとり入れた時代である。明治維新も国家的にヨ-ロッパの文化をとり入れた時代である。そして今なぜ貞観時代と同じような傾向になったのか?それは多賀城下まで津浪がおしよせ大混乱になったことが記されている。多賀城には京都などから来た官僚がいてその津浪に恐れおののいた。蝦夷の軍事征服は決着したとしてもまだ蝦夷の怨念はみちのくに強く残っていた。そういう時代に大津波が襲い多賀城下までおしよせ都の人はおそれおののいたのである。怨念が自然に影響して動かすことがありうるのか、そんなことは科学的ではないとなり受け入れられないが民心が乱れるときそういう天変地異も起きてくる。だから貞観時代と現代は通じるものがあるかもしれない、民心は今や乱れ飽和点に達していたのだ。それを明かにしたのが津浪で破壊された原発事故だった。いかに政治家から官僚からマスコミから科学者がただ利得のみを求め原発を推進したか、これには国民全部がかかわる問題だった。原発を推進した指導者たちが犯罪者だったことが明らかになった。津浪が知られざる罪を暴露したのである。


これは人間の力ではできないものになっていた。だから天変地異にはそうした天からの警告があり罰である場合がある。本当に巨大な天変地異で滅びたアトランティス文明があるとかそういう巨大な変化が起きたことが知られざる遠い過去にあったかもしれない、そういうことも起こり得る。江戸時代が飢饉があり地震があっても比較的平穏だったのはやはり民心がそんなに乱れていなかった。何か全国的な怨霊となるような事件が少なかった。それで白砂青松の人工的な日本の美が海岸線の開拓とともにありえた。その時は大津波は来なかったのである。もし来ていたら海岸近くの開拓をしていなかっただろう。江戸時代の三百年は平和が満喫されたのである。それは民心が乱れず安定していたともとれる。明治時代以降は民心は安定せず乱れが激しくなった。世界戦争にも加わり大きな犠牲があった。それから民心はやはり金銭崇拝となり物質至上主義のモラルの荒廃時代の極点に達していたのだ。その時、大地震、大津波、原発事故になったのである。原発事故は疫病の再来でもある。疫病になれば食糧も安全ではない、これは貞観時代の再来である。それも民心の乱れがあって貞観津浪と同じように東北に起こったともとれる。だからこれから東海地震,南海地震とか連続して大地震が起こり津浪も起こる。それはすでに科学的に予定されているから単なる脅しではない、貞観時代と同じになってくる。しかしその被害は文明化しているからとてつもないものとなる。そういう不安の時代に突入しているのだ。だから祇園祭りのように日本の天地を鎮める祭りも必要になってくる。やはり人心の腐敗は自然にも影響するのである。


個人的にもここ五年間に自分に起きたことは未だに信じられない、それは家族の認知症からはじまった。そこから歯車が狂ってしまった。家族はばらばらに住むようになりそれから自分の病気や犯罪などにあう、交通事故にもあうこれほどの災難があるのかと思った。自分に起きたことは今は回りで起こっている。家族はばらばらに住むようになるとか家を留守にして火事場泥棒にあうとかそういうことが同じように起こっていることの不思議である。これも自分に起きた不運と関係していた。自分だけではない、他でもこういうことが起きている。金にまつわる事件は増えている。そして人々の心はすさんでいる。それぞれに怨念が強くなり増大の一途をたどっている。そういう人心の乱れが怨念が自然に影響したということはありうるのだ。定期的科学的に起こるものであり関係ないとはならない、貞観時代は今とにて人心の乱れがあったのである。

 
posted by 老鶯 at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

大和元興寺五重塔跡の桜


大和元興寺五重塔跡の桜

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白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 1018
この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)るの意味
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのです


「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失して
しまいました。本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。
 
 「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
  寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。


室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/gankouji.htm

 



元興寺の礎石



元興寺その謂われは古き

飛鳥仏にもさかのぼるかな

平城宮(ならのみやこ)の大寺なりしも

華やかに五重塔のここに聳えぬ

都は奈良より京都に移りぬ

その栄えもいつしか衰えぬ

ただその塔跡の礎のみ残りぬ

今し桜の花の盛りなるも

その花びらの礎石に散るもあわれ

地元の人の集い花見かな

元興寺の広き境内は奈良町となりぬ

世はかくして移りゆくものかも

その大和の歴史の古きを偲べ

春の日はさして古の栄の日は遠し

ただ礎石のみそこに残りぬ

 


たまたまテレビで地元の人が集い花見をしているのをみた。そこは元興寺跡であり礎石が残るだけだった。この元興寺は日本最初の飛鳥仏があり飛鳥寺をひきついだとすると本当に古いものである。それで万葉集にもここの寺の僧が残した歌があった。それが旋頭歌というのだからどれだけ古いかわかる。


旋頭歌について
http://neige7.web.infoseek.co.jp/sedoka.html

一種の掛け合いの歌であり民謡から発したものである。万葉集の基はもともとそういうところにあった。奈良の寺は規模も大きかった。官寺であり鎮護国家を目的としていたからだ。東大寺の奈良の大仏もそうである。蝦夷征伐などがあり鎮護国家が急務だった。日本統一するあたってかなりの犠牲者が出たからである。その霊を鎮魂する寺だった。だから死者を弔うことなどしない、もともと仏教は死者を弔うことはなかった。お盆とかは日本の古い民間の習俗が基となり仏教にとり入れられたのである。仏教そのものにはそういうことはなかったし戒名もつけることもなかった。それは僧侶にのみつけていたのである。この元興寺もやがて庶民の信仰の場となり変質した。その前に一揆があり五重塔の消失したというのもいかに歴史の変遷をしているかわかる。


奈良や京都を旅してもなかなか歴史はわからない、奈良町に実際自分は訪ねている。でもここが元興寺の境内跡だったということは知らなかった。歴史とはそれだけちょっと旅で訪ねただけではわからないものがある。自分の住んでいる場所すら奈良のような歴史がなくてもそれなりにある。でもそのことがわかるのは容易ではない、住んでいれば歴史は自ずと身につくことはある。結局なぜ歴史がわかりにくいかというと人間の社会というのは無常だからである。人が死んだらたちまち忘れられて墓の名前くらいしか残らず不明になる。残るのは人間の無常の跡だけである。五重塔があったといっても礎石だけになる。でもそれだけでも残っているから奈良などは歴史がある。万葉集にもその寺の僧が残した歌まで残っている。そういう点で歴史を認識する点でみちのくとはずいぶん違ってくるのだ。


無常といえば前に平城宮を訪ねたときそこは枯野だった。そして月がでていた。実際に何もなかった。今は平城宮跡に立派な門を再現している。でもそうしたことが昔を偲ぶことなのかというと疑問なのである。歴史はやはり人間の無常を示す場なのである。芭蕉が平泉を訪ね「奥の細道」を書けたのもまさに観光地化していない無常を感じたからである。今のように観光地化博物館化したりしたら無常を感じない、するとかえって昔を偲べないという皮肉が生まれる。そういうことか現代では多すぎる。旅人は今は浅薄な体験でしかない、深い体験になりにくいのだ。テレビを見て旅をすることはできない、でも結局その背景の長い歴史を知ると見る眼が違ってくる。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。たいがい実際にその場を踏んでいるので必ずしもパ-チャルにはならない、自分の体験からものが書けるのである。


テレビ番組の問題は大衆向けに視聴率が絶えず念頭にあるからむずかしいことはやらない、NHKの大河番組でも通俗的歴史解釈であり歴史の真実はわからなくなる。現代の問題はすべてが大衆向けに作り大衆化するからかえって事の真相がわからなくなる。だからテレビとインタ-ネットの統合が必要になってくる。自分がしていることはまさにテレビとインタ-ネットと自分の体験を一体化して編集したものなのである。

大和元興寺五重塔(極楽坊五重小塔)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_gangoji.htm


ここは古い図がでていて詳しい、五重塔は江戸時代まであった。それなりに詣でる人がいた。

引用したテレビの写真は著作権にふれるかもしれない、誰でもとっている構図にしても桜咲いているときだから貴重になる。ぼかしているからわからないか?今は映像の時代だからどうしても映像化することが要求される。ただ映像だけではわからない、歴史の長い深い背景がある。
それを知らないと何か深い感慨にはいたらない、それがわかるのは芭蕉の平泉の金色堂の俳句なのである。


メデアの変化

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テレビにはテレビの役割はまだある。でもテレビが独占した時代は終わった。インタ-ネットを通じて多角的になった。テレビは大衆的通俗的すぎることである。これも何百万の人にみてもらうためにそうなる。どうしても低俗化する。一方インタ-ネットは素人的専門性がある。でも本の専門性に比べると相当に低い。専門的な本を読むことはそんなにできない、本はプロが書いているから金にもなる。だから簡単な名所の案内などに役に立つ、だから創造的なもの著作権があるものとは限らないものが多い。

ただ大衆的なものよりは素人的専門性がインタ-ネットで備わりそれからより知りたい人は本を読むことになる。一般的に本を読むまでになるとあまりしない、テレビだけの時代は終わった。

ここで新聞は入らないが新聞はテレビより必要なくなった。テレビはやはり映像ということで情報発信で強さをまだ持っている。本はプロ的なことでまだ強さをもっている。新聞は映像もだめだし専門的発信もないから新聞は衰退し必要なくなる。インタ-ネットは速報性があるのだからそこで生き延びることもありうるがその内容によるだろう。情報環境は今やインタ-ネットなしではありえないのである。インタ-ネットに組み入れられることを拒否してももはや無理だし無視できない、そういう必需品になっているのだ。インタ-ネットでもやはり専門性があればどこでも生き残る。専門的なものを追求するのは別にメデアとは関係ない、それは相当な積み重ねや努力が必要でありインタ-ネットの素人集団だけでは書けないのである。