2011年08月26日

相馬市の津浪の対応はどうだった (磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

 

相馬市の津浪の対応はどうだった
(磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

本市でも自主防災組織率100%の磯部地区で盛大に行われた。子供から老人に至るまで実に系統的に行動し、立派。婦人消防隊のおにぎりの美味いこと。磯部の米ってこんなに美味かったっけ
http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/essay.asp?offset=220&id=02


相馬市長エッセーにこう書いてあったから津浪の訓練はしていなかった?地震の訓練だったのか?この辺で生みに接していても津浪の訓練をしていない、鹿島小学校では津浪から逃げる訓練をした。手前まで津浪が来たからだ。磯部の米がうまいと言ったのは山の方は水がきれいだからうまいということがある。海側はまずいのが普通だからそういったのかもしれない、相馬市では津神社(つのみつ)神社は慶長津浪のあとに建てられた。漁師の間では津浪が来たら船を沖に出せということで90隻が助かった。津浪に関する言い伝えなどが全くなかったわけではない。実際に津神社に逃げた50人助かったと言っていた。市長もあの付近で育った。それにしても磯部は余りにも悲惨であり無惨である。一軒も家がなくなった。車で今の小学校のあるところに逃げようとして渋滞で車を流され死んだ人がいた。磯部は山の方にはすぐに逃げられない。鹿島区の烏崎とか海老は逃げられた。車は意外と津浪には危険なものだった。でも今の時代みんな車を利用しているのだから車で死ぬということになった。



慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生したこの地震について「伊達政宗 政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」と記され、『津波』という言語が日本で初めて使われたものでもある。


さらに慶長16年(1611年)12月に小高から宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。
400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html

 


1611年12月2日に津浪が発生してその月に小高から中村(相馬)に移るものだろうか?同じ月といっても12月以内だったら移ったのはいつだったのか?一週間あとくらいなのかとなると忙しい。そもそも最初から移ることを計画していなければ大がかりな移転などできるものだろうか?
それとも津浪があったので移転を決断したその際実行したのだろうか?い岩本氏が指摘したことだから信憑性があるにしてもこのことはまだよく歴史的詳細は証明されていない謎である。
ただ城が移ったのだから経済的効果お大きかったことは確かである。


それにしても市長の仕事は大変である。普通は関心がないが今回だけは市町村長の役割がいかに大きなものか自覚させられた。現代は複雑な社会だから高度な広い識見が要求される。管首相は東工大卒だから原子力に詳しいとして率先して現場に来て指示した。でもそれが誤りだったか真意はわからないがいろいす言われた。原子力に詳しい政治家などそもそもわずかである。相馬市長は医者だから医療方面には詳しいから対策がたてられる。しかし防災関係で津浪まで考慮することはなかった。それは責められることではない、浜通りはみんなそうだった。浪江町ではどこに逃げるから決めた場所があったから全く津浪に無防備ではなかった。

相馬市長が津神社の下で育ったとしたら津浪ことを聞いていたのか?そしたら津浪に対する意識は違っていたかもしれない、でも磯部で地震の訓練はしても津浪の訓練はしていないようだ。そんなことまで要求するのは無理だとなる。市町村長となるとそうしたことまで識見のもつ人が要求される。郷土史もある程度知る人も必要になる。そしたら津浪の避難訓練をしていて住民が助かったということもありえた。


岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った


村長があえてこの高さの防潮堤を作ったのである。普通は10メ-トルくらいでありそこでは大被害になった。5メ-トルの差が生死を分けたのである。ただ市町村長に課せられことはあまりにも今は多いからあらゆることに対処はできない。得意分野はできるにしてもあらゆることにはできない。 ただそうした識見があったら市長の命令で津浪の避難訓練していたなら多少は助かる人がいたかもしれない、 市町村長となると昔なら村の長(おさ)とか長老とか村のことを知り尽くした人がなった。それは老人がなり責任が重かった。 人間の経験は限られているから例え市長になっても万能人間にはなれない、それでもこんな状態になるとそういうことが市長に要求されてしまうのである。


これからはどうしても南相馬市より相馬市の役割が大きくなってゆく。なぜなら南相馬市から南は交通が寸断されたことの影響が大きいのである。だから福島市と結ぶ高速道路の建設が許可された。そして相馬港の役割も活きてくる。福島市の物流は横浜港だったり飯館村の木材の積み出しは石巻だったりしていたのである。相馬港は物流基地の港になっていない。相馬市まで行けば亘理までバスの代行が頻繁にあり便利である。病院も相馬になった。相馬市に拠点を移す会社もある。そういう変化が津浪と原発事故で起きたのである。


今回は相馬市は相馬市民として南相馬市は南相馬市民としてさらに飯館村は飯館村の村民としてそれから双葉町や富岡町も町民として自覚させられた。それぞれの市町村の外部の評価も頻繁に成された。双葉町への批判は大きいから双葉町町民は肩身の狭い思いをした。
自業自得だとも言われた。飯館村は同情された。日頃市民とか町民とか村民の意識を普通過度にもたない、どこに属していてもたいして変わりないとか思っていた。今回はどこの市町村に属しているかで大きく明暗を分けたのである。日本ではそもそも市民意識とかない、育たなかった。ヨ-ロッパのような都市国家がなかったからかもしれない、都市が独立した国であることを経験していない、外国ではどこの都市に属しているか必ず聞かれるしパスポ-トにも記される。それが大事だからである。日本では藩意識が都市になるのだろう。都市の市民感覚は伝統的にもっていないから市民意識も育たないから市政にもなかなか関心がもてないということもあった。歴史的には藩意識であり都市の市民という感覚がなじまなかったのである。



相馬市磯部村  1,813人  497世帯

このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。犠牲としては多いのか、他ではもっとひどいところがある。磯部村は家が全滅しているからもっと人が死んでいるかとも思った。それなりに避難して助かった人がいた。家はなくなっていても津浪で人命は助かるということがある。
テレビで1800軒があったというのは大きな間違いだ。!人口であり所帯数であり家の数ではなかった。これは誤解される。1800軒となればその数が多すぎるからだ。
posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年08月27日

マヤ文明の崩壊の原因と共通 (原発事故周辺の市町村の崩壊)

 

マヤ文明の崩壊の原因と共通
(原発事故周辺の市町村の崩壊)

●マヤ文明崩壊はエネルギ-問題だった


環境破壊
内部抗争
交易ル-トの変化
外部からの侵略
宗教(偶像崇拝→迷信化)


これは都市国家が文明が滅びる原因では世界的に共通している。内部抗争とか内乱が必ずどこの国でもありそれがかえって国を衰退させる。そこから国も滅びてゆく。それが宿命的にある。それから環境破壊もそうである。その環境破壊もいろいろと伝説として語られている。レバノン杉が船の材料として使われすぎてギルがメッシュ王国が滅びたとかある。都市国家形成には膨大な資源を消費するからそうなる。マヤ文明も森林を消費しすぎて滅びたとかいうのもそのためである。そして気候変動とか天変地異でも都市国家とか文明は滅びの原因となる。そういうことは海に沈んだアトランティスとかでも語られている。もう一つは交易ル-トが変わり都市国家がほろびてゆく。交通手段が変わり都市の繁栄は衰退する。船という交通から鉄道に変わり鉄道から車に変わりで衰退する都市がある。だからマヤ文明で起きたことは特殊なことではなく世界的に共通していたことだった。だから特殊なものとして理解されないものではない。人間の共通の文明として解析できる。ただ太陽が弱り太陽が死んでゆくという恐怖で人間の生きた心臓を神にささげたということは今からすると信じられないことである。それほど太陽が大事なものだからそうなった。それが異常なことかといえば現代にあてはめてもエネルギ-ほど大事なものはない,今騒がれている原発問題もエネルギ-問題なのである。石油ショックの時もそうであり戦争中も石油の一滴は血の一滴だとか言うのはマヤの文明の異常性と比べても変わらないものがある。エネルギ-が枯渇したら人間も文明も終わりだという恐怖からそうなっているのだ。
原発問題も電気がエネルギ-源とするとき電気がなくなればどうするんだという脅しがある。電気がなくなれば現代の高度な文明は滅びる。その恐怖が一番大きいのである。


●モアイ像を作ったイ-スタ-島も同じ原因で衰退


陸の孤島のモアイ像を作ったイ-スタ-島の崩壊もマヤ文明の崩壊とにていた。ヤシの木をきりすぎた環境破壊であり宗教の過ちモアイ像を作りすぎた偶像崇拝にもあった。偶像崇拝は迷信の基である。だからユダヤ教から起こった偶像崇拝の拒否はイスラム教でも科学を発達させて今日に至っている。科学を最初に発達させたのはイスラム系だったのである。それが西欧に輸入されてルネサンスが起きた。他ではマヤ文明のように迷信化して科学として発展しなかった。科学というとき最初は技術ではなく一つの思想であり哲学であったのだろう。その応用が技術であった。その後イ-スタ-島では大航海時代に外部と接触してばい菌や商人の略奪で急激に衰退した。その前に激しい内部抗争もあった。これもまさに陸の孤島であれ一つの文明が滅びるのはその原因が共通していることがわかる。


こうしたことは学問的に自分の住んでいるところとはあまり関係ないものとして追求していた。それが自分の住んでいるところで現実化していることのショックである。津浪と原発事故で自分の住んでいる場所が崩壊しつつあるという現実である。それは過去の都市国家であれ文明であれ崩壊するさまとにている。原発事故で放射能で耕作もできなくなり地域が崩壊してゆく。
交易ル-トも交通も遮断されて都市が衰退してゆくのはまさに自分の住んでいる場所である。

都市国家であれ国が滅びる原因は環境破壊、エネルギ-の枯渇、交易ル-トの変化とか同時進行的に起きてくることがわかる。ここもまさにそうなっているからだ。しかしわからないのは太陽のエネルギ-は50億年とか枯渇しないとありその点マヤ文明は大きな迷信に陥っていた。イ-スタ-島も同じだった。それは宗教が原因でもあった。科学的知識がなかったというより太陽が弱り死んでゆくという思想は他ではみられないからだ。でもその恐怖は今でも別な形で共有している。ともかく原発を神とまで宗教とまでなり安全神話形成され推進されたのはまさにそれだけエネルギ-が文明の血だからである。エネルギ-なくなれば衰亡して滅びるという恐怖は同じなのである。


●フクシマの再生は自然エネルギ-で計るほかない


エジプト文明が三千年もつづいたのはその基礎が農業でありナイルなどの自然の恵みに頼るものだったからだという説も正しいのだろう。今日のように資源を急激に大量に消費する文明、原発など危険なものまでもエネルギ-とする文明は今回のような事故で放射能で一挙に崩壊する恐怖だった。食糧さえままならなくなる。これがまだ一地域であったがもっと大きな事故となり各地で起これば本当に日本は終わりだとなっていた。その原因もエネルギ-問題なのだからマヤ文明人の都市人の恐怖を馬鹿にはできないのだ。マヤ文明崩壊は現代文明の崩壊する原因でもある。 森林などの資源は再生できる。石油は枯渇して原発は危険すぎる。新しいエネルギ-源も簡単にはみつからない、だから百年間くらいで現代の文明は日本だけではない急激に衰退してゆくのかもしれない、文明は共通しているからだ。

だから福島県が再生可能なエネルギ-の基地、バイオマスとか森林資源の活用や自然のクリ-ンエネルギ-の基地として再生を計るのは向いている。会津は山国であり森林に恵まれている。福島県全体を考えるとき交易ル-トは中通りにあり中央と結びつくが会津が大きくても山国でも結びついていない、浜通りも阿武隈高原にさえぎられ結びつかない、今回の津浪と原発事故を契機に福島県の未来を構想するとやはり一つの文明の転換モデルとしてまたは再生可能エネルギ-環境優先の県として再興することが望ましい。ただ福島県の弱点は会津が大きくてもそこが県全体として結びつかないのである。むしろ浜通りだといわき市は茨城県に相馬の方は宮城県に結びついているのだ。それは阿武隈高原にさえぎられている地理的要因が大きいのである。


ここ百年の変化があまりにも大きかった。その歪みが負荷が地球に与えたのは計り知れない、エネルギ-的には千年くらいの消費がこの時代に行われ環境を破壊した。戦争も世界戦争となり人命が大量にモノのように消尽された。まさに文明が人命までも大量消費した結果であり戦争の原因はエネルギ-大量消費する文明にあった。そういう視点がないと現代の問題は解決しない。国際的関係だけではない、戦争の原因の源に文明そのものがあったのである。だから文明の転換とか江戸時代の見直しとか日本でも過去へ復帰する傾向が強くなる。それは文化的にそうなのである。江戸時代への懐古主義や万葉集の自然と一体化した世界への伝統への回帰が起こっている。津浪と原発事故によって日本の文化も変化を遂げる。

今回のことで文明の転換は日本から起きてくるのかもしれない、ただ一方で暗黒の世界のはじまりになるかもしれない、世界的恐慌とか世界的動乱とかも起きやすくなる。交易ル-トが世界的に変化するのとにている。一文明が崩壊することそれは今や世界がグロ-バル化した世界が崩壊するのと同じである。内部抗争は国家間同士の地球の内部抗争が激烈になり環境破壊やエネルギ-問題で人類そのものがほろびてゆくことになる。マヤ文明やイ-スタ-島と同じ運命になるのが人類でもある。宗教も現代はカルト組織宗教だから世界的に滅びの原因になる。世界的にもカルト宗教は危険である。それは本来の宗教ではない、形を変えた偶像崇拝であり現代の科学万能時代に急激に増加したことも何か共通している。モアイ像が大量生産したこととも共通している。いづれにしろこうした文明の変換の大きなことが自分の住んでいる場所に起きていることがショックなのである。象徴的に文明崩壊のはじまりが自分の住んでいる場所で起きている。
そしてこれは文明の負荷が大きくなりすぎた結果でありそれで文明自体の破綻崩壊が世界的なものになってゆくはじまりかもしれない、2012年が文明の最後でありその先がわからないというマヤの予言も何か一致している。地球が文明を支えきれなくなり巨大津浪が起こったのかもしれないのだ。

 


参考にしたサイト

古代・中世、現実・異世界、魂の半分はいつも何処かを旅しています。
現在の旅先からお送りします。(イ-スタ-島崩壊の原因)
http://55096962.at.webry.info/201002/article_16.html


エジプト文明を中心に語られているが説明がわかりやすいから面白い。
文明史とか歴史は本当は身近なものなのだけど学問的専門的になるとわかりにくいのだ。
わかりやすいものとして現代の問題を解くのはやはり過去の歴史である。人間の歴史はやはり共通していて全く理解できないものはない,原因と結果が必ずあるのだ。とすればその原因を良く知れば事前に文明の崩壊を防ぐこともできるとなる。

マヤ文明とは

http://www.maya13.net/what/index.html


その1つに考古学者が『カレンダー・ラウンド』と呼ぶ『52年周期』をもつ暦があります。

戦後60年で時代の変わり目に来たことは確かである。2012年に世界が滅びる予言はやはり現代文明のゆきづまる恐怖と呼応している。地球に与える負荷が大きくなりすぎたのである。
それが今回の大津浪の原因にもなっていたのだ。

本当の自分の姿は、心の刻印が教えてくれます。 これこそが、マヤの時間の教えです。
http://www.jp-spiritual.com/maya1.htm


心に刻印されているというときこれは別にマヤとは関係ない、あなたの行為や思想が心に刻印されているのだ。それは老人になってみればわかる。あなたのしたことや罪なことは決してぬぐいされるものではない、心に刻印されているからだ。そういうことを軽くみているから犯罪がたえないのである。


マヤ文明崩壊の原因
http://www.crc-japan.com/research/mayan/index.html

posted by 老鶯 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

夏曇り(相馬市の城下町のイメ-ジ画)


夏曇り(相馬市の城下町のイメ-ジ画)


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昔の記憶

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城下町曇りて静か黒揚羽

橋一つ古りて木蔭や城下町


城下町昔の記憶夏曇り


石は聞く減りゆく秋の蝉の声


voices of  a few  cicadas are heard
by the silenced stone in autumn


秋の蝉耳傾ける一人かな



夏曇りという言葉があったのか?それが相馬市の城下町にふさわしかった。あそこの不思議は単に城下町というだけではない、あそこには大きな高いビルなどが少ないからかもしれない、
もちろん工場のようなものもない、旧市街はそうなっている。原町では感じないものが相馬市ではいつも感じる。だから一つの不思議であり神秘である。他の人は外から人は気づきにくい、ここは何もない街だなとして終わりになっているだろう。実際に城もあるわけではないし何も見るべきものがないのだ。ただ街の雰囲気が静まり返っている。おそらく江戸時代の静けさは今とは余りにも違っていた。二階すらないのが多い。平屋であることも静かな雰囲気をつくりだしていたのである。高い建物がない、月天心の世界である。江戸時代の生活は静寂であり質素でありそれ故に何か心にしみるものがあった。だからこそ芭蕉の奥の細道が成った。江戸時代は今からすると本当に神秘の世界である。  
夏曇りとは今の気候とあっている。夏なのに曇りそんなに暑くはなっていないのだ。季語としてはあまり使わないものだろう。
気候も去年は異常に暑かったけど今年はまた違っている。年々によって最近は気候も変わりやすいのである。
秋雨の時期とも違っているから夏曇りがいいのかと思う。

2011年08月28日

福島県や原発周辺はこの先どうなるの? (放射能被害の閉塞感の大きさ)


福島県や原発周辺はこの先どうなるの?

(放射能被害の閉塞感の大きさ)



▼しかし当の福島県民にとって、穴蔵に閉じ込められたような現在の閉塞感はいかに
腹立たしくやりきれないものか想像を絶するものがあるだろう。当地を訪れた人々が
「現地を見ないと悲惨さを実感できない」と語るように、原発事故被害地を見れば
その深刻さが肌で感じられるだろう
▼福島県全体の現在を語ってくれた当地来訪団の面々によると、放射能汚染警戒区域
だけでなく避難の輪はその周辺から外側にどんどん広がり、手が付けられない状態
だという。安全を求めて県外へ移住する動きは増幅するだけで、「何より子どもを持つ
母親たちの不安がそれを加速させている」という
▼何より商売柄身につまされたのは、福島県紙についての動向だ。ここには「福島民報」
と「福島民友」の2紙があるが、いずれも読者が激減して減収を余儀なくされ、
幹部らが退陣しているという。やり場のない怒りがひしひしと伝わってきた。
http://jishin.ldblog.jp/archives/51722385.html


原発事故の影響は広範囲である。福島民報や民友も読者が激減した?自分はいろいろ情報をとるためにやめていたのをまたとった。前は母が読んでいたからとっていた。こんなところまで影響していたんだ、でもさ、民報とか民友とかで原発の情報を出していた、反対しなくても原発がどういうものか県民に知らせていた?財界ふくしまのようにプルサ-マルを最初避難してあとでやめた。それは東電を恫喝して金をまきあげるためだったとか、県民を主体にしたものではなく、自分たちの会社の利益優先だろう。それは他で同じでも結局原発事故の被害は福島県の報道機関にもあった。それも自己責任だった。福島県に住んでいる人は責任あったと言われる。
報道機関の責任は重いのだからしかたないよ、福島県の住民なんだから福島県民を守るために情報を出すというのが地元紙の使命なんだよ,もちろん福島県民だけではない、原発は国策なんだから国民にもみんな責任がある。それで税金をはらってもしょうがないと言っている。
原発事故はみんな被害者であり加害者でもあったんだよな・・・・
本当に福島県は特に浜通りは何か閉塞感が大きいんだよ、交易ル-トは断たれ先の見通しはたたない、ただ原発が廃炉のモニュメントととして建っている、マヤの遺跡のようになるのか?
マヤは別に環境は汚染されていないから観光地になっているけどここはなれない、核廃棄物の処理場としてしか利用価値がなくなった、悲しい・・・・



いわきの知り合いに聞いたが
仲間内で話す時は「仕事が無い」とか「これからどうなる」とか
そんな話ばっかりで死んだようだって言ってたよ


空洞化ってのはそういうものだからなぁ
人が減るとあらゆる産業が成り立たなくなっていく


今後、人口減はあっても増はなし。
原町区は2万人程度の町になるだろうな。しかも、大半が老人。
そんな町で産業か成り立つはずがない。
したがって俺は移住(^-^)/~~


商工会もあれ程大型店の出店を反対していたのに、今は結局大型店頼りなんじゃないですかね?
住民は一部の良心的なお店を除き、震災時に足元をみて暴利を働いたお店には、もう騙されませんよ。



経済活動だけをとれば人口は目安なんだよ、一人ふえれば貧乏人でもそれだけ消費はするから、モノを買うからな、経済活動は活発になるんだよ

商店街はすでに頼りにならないものになっていた?ス-パ-がなければ生活していけない、ス-パ-開いたときは本当に安堵したよ、商店だけではもう成り立たなくなっている。一番街にとって痛手なのは若い人が去ってゆくことだよ、南相馬市が2万くらいになって半分が老人だったりしたら悲惨だよな、老人は誰かの助けがないと生きていけないんだよ、もう今のような手厚い介護などできる人手がいなくなるよ、若者が住みたくない街はすたれてゆくんだよな、あとに残されたのは老人だけ、姥捨山のようになってしまうのか?



本当に今でも住んでいます。泌尿器科病院で透析患者の面倒を見ています。
経済が衰退しようが何だろうが、生まれ育った土地に対する尊敬と愛情は、そんなに簡単に消え去るものではありません。風評や不便な生活に耐え、「住めなくなる」という外野の声にめげず、復興を目指しています。


お世話になっています゛土地への尊敬と愛情をもっているということよほどその土地に愛着ある人でないと言えないでしょう。自分もこの土地で生きてきたから自然と一体化しているから年もとればここがいいとなる、でもこういう人は若い人では少ないよな、若いときは外に憧れるからな、その土地の良さはわからないもんなんだよ、会津は雪だし、中通りは福島市などは夏は蒸し風呂でくそ暑いし気候的に嫌だという人が避難した人達にいることがわかるよ、いわき市に移り住みたいとう人が多いのもわかるよな、自分も気候的にはここがいいし自然もいいし今は何か特別欲しいものもないしここで創作活動をつづけたいんだよ、

老人になると外面的なものより内面的価値の方がずっと大きくなるんだよ、芸術が外面的なものから自然があるから生まれるものでもない、美しい自然に囲まれていても何ら反応しない人もいる、その人は内面が心が汚れているから美しいものでも心に映らないんだよ、内面的にモノが自然が見えてくるのはやはり老人になってからだな・・・天才をのぞいてはそうだよ、どんな才能ない人でも老人になると内面的哲学的宗教的になるからな・・・俳句なんか実に単純なものだった、でもその単純なものの意味や深さを知ることができなかった。芸術はそれだけ奥深いものなんだよ、それはどの分野でもそうだろう。なかなか一つの道を極めることはむずかしいんだよ、それはつまらない趣味だってそうだからな、でも積み重ねてゆくと見えてくるものがあるんだよな


医者や看護師は大事だった、看護師にはてぐさめられたな、看護婦のやさしさにいやされた、若い看護師がいないということは老人にとっては辛い、もっとも住みにくい地になるよ、その土地に尊敬と愛情をもっている人ってすくないと思うからな・・・


かくて日本国は領土の一部を失うことになった。失った面積が、政府による借り上げ可能な範囲に収まったことを天に感謝すべきだろう。これ
からも原発を推進したい人たちには、ぜひ福島の政府借り上げ地に居住することをお薦めしたい。そして身をもって放射線は怖れるに足りないことを実証していただきたいものである。その医学データは、今後の放射線対策の貴重な資料になるだろう。



放射線の影響ってどれくらいあるんだろうか?未だにそれがどう理解していいかわからないんだよ、目に見えるわけではないし、放射能にばかりおびえて暮らすこと自体、閉塞感がますます高まる、そこに住む人はそれだとやりきれないよ、毎日毎日放射能の話しばかりでもう嫌になってしまうよ、そうした風評被害とか精神的圧迫が大きいのが放射能問題だった。自分はもう放射能を余り気にしたくないんだよ,放射能が高い山でも森でも行きたい、自然は何ら変わっていないのが不思議なんだよ、でも森に入ると放射能たまっているから放射線をかなりあびる、森には放射性物質が集積している、なんかそいう話を聞くと精神的に嫌になる、放射能でも老人ならあと10年後にガンになると言ってもみんな何かしら病気になる人多いよ、そうなると放射能にびくびくして暮らすのが嫌なんだよ、そんなにびくびくしていたらそもそも生活を楽しめないだろう。子供は影響が受けやすいからと外で遊べないというのも悲惨だよ、どれくらい影響するからわからないということが一番困っているんだよ、実験デ-タ-にされる・・・・それって今後の原発の開発に役立てるのの、廃止してしまえば不用なものとなるだけじゃない、放射能は目に見えないからどう対処していいかわからないから一番困るんだよ・・・


まあ、自分は残り少ない人生だから放射能を気にしていたら貴重な時間を無駄にしてしまう、津浪のあとでも放射能で耕作されない土地でも楽しめるよ、草原化した自然は水田とは違う気持ちいいもの感じたんだよ、津浪の跡でも水葵が咲いたし自然は美しいものを提供しているんだよ、とをもその辺が神戸の都会型の災害とは違っている。自然が全く喪失することはない、だから美は残っている。かえって湿原化して北海道のような原初の自然がもどっている不思議があるんだよ、こんな経験生きているうちにするとは思わなかったよ、だから今のところ毎日興奮するんだよ、別世界に変わってしまようなったから・・・・田んぼ作れなくてどうするんだと農家の人にはなるが別に飢死するわけではないから飢饉よりはましなのかな、お前は以前としてノ-テンキなやつだと言われるかもしれんがそれが偽らざる現在の心境なんだよ、ただこの辺は何か

放射能の雲が厚くたれこめおおわれている。それは放射能の被害というより放射能がわからないからその心の不安がそういう閉塞感を作り出してしまっているんだよな・・・

 
 
 
posted by 老鶯 at 03:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

鎮魂の野馬追い (NHK-復興を願い今年も野馬追い)


鎮魂の野馬追い

(NHK-復興を願い今年も野馬追い)

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亡き妻に法螺貝鳴らしもののふの役目を終えて今年も帰りぬ

朗々と法螺貝鳴りぬあわれかなあの世の妻にひびく音なれ


養いし愛馬にも傷津浪にも助かりにつ出陣果たす


馬一頭津浪に流され野馬追いに今年はいでず無念なるかな

 


野馬追いは今年も開催されたけど6分の一だから迫力なかった。それでも特別の野馬追いになった。NHKで放送していたのは海老村だったようだ。あそこは高いのだけど村がほとんど壊滅した。墓所のあるところは高いから残った。高くても海に接していれば被害が大きかった。崖の上でも何人か死んだのには驚いた。


おくさんがいろいろ世話して毎年野馬追いに出ていた。それでおくさんへの思いが深かった。
墓であれ津浪に流された家の跡や村の跡で法螺貝を吹いた。それが今回は鎮魂の法螺貝なった。一段と思いのこもるものとなった。他でもなんとか祭りをしようしたり津浪の被害はいろいろでありとても語りつくせない、烏崎に水葵が咲いたのも驚きだった。津浪で上の土が流されてそれで下の土から水葵が咲いたというのも不思議である。これは自然現象だけど人間的なものとしてもいろいろなことがあった。馬まで流されて足に傷があった。一頭は助かったが一頭は死んだ。馬も無念だったとなる。


野馬追いは侍-武士(もののふ)の伝統を残すものだけど作法として残っているだけで侍の精神というのは何なのかわからなくなった。でも作法でも伝えられていればそこから侍とは何か学ぶものはある。武道などは型から入るし型を徹底的に教え込まれる。つまり精神より形から入るのが武道なのである。本当の戦になったら型など関係なくなる、でも平和時になれば戦闘でも型として教えることになる。だから野馬追いでもそれぞれの役目があって型があってだいたいその通りにする。いづれにしろ野馬追いでは侍の姿を見ることができるが侍とは何であったか今となるわかりにくい、武士道と言っても明治以降は別なものになっていたのだ。それでも実際の姿として侍を見るのは野馬追いであり貴重な祭りなのである。


いづれにしろ今回の野馬追いは津浪の被害を受けた人には特別なものとなった。何とも悲しいというか切ないとういかそういうものを見ただけで感じた。野馬追いは今や本当に雲雀が原で集結してやれるのかとなる。相馬藩というのが崩壊の危機にたたされた。もちろん相馬藩はなくなったのだけどその伝統の祭りの維持も危機にたたされたのだ。

ご冥福お祈りします


がれきから救出の馬も津波被害にあった南相馬市では、厩舎のがれきの下から3週間ぶりに馬が助け出だされ、出場を目指めざして練習に励んでいます。復興の願いを込めてつけられた名前は「日の出」を意味する「サンライズ」です。
http://mainichi.jp/life/edu/maishou/kousaten/archive/
news/2011/06/20110607kei00s00s009000c.html

posted by 老鶯 at 18:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年08月29日

お盆に死者が帰ってくる?


お盆に死者が帰ってくる?

 


私は敗戦直後に生まれた。小学時代まで戦争の痕を社会が引きずっていた。
シベリアに抑留された弟の帰りを待ち、ついにその希望をかなえられなかった人がいた。


その墓地の奥行きは広く、以前来たときの記憶があいまいなものだから、周辺を行ったりきたりして捜した。「夢」とだけ刻まれた墓を捜すのにゆうに30分かかった。寒いのに汗が滴った
http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/danshou.htm#pagetop


お祭りをやったりします。墓地の上で人びとは踊り出すわけです。そうすると、死んだ人間が生きている人間の世界で一緒になって立ち上がってくるということが起こる。死人と一緒に踊るんです
http://www.kosmos-forum.org/forum/03/repo03.html

 


祭りはそもそも祀りだから死者を祀ることから始まったのだから死者を祀るは祭りになるのは当然だった。政(まつりごと)とは政治のことだけどそもそも死者を祀ることが政治のはじまりだった。死者におうかがいをたててまつりごとが始まった。誰が王のあとを継ぐかは死者を祀ることから始まっていたからそうなる。だから日本では祭りがお盆あたりに集中するのはそのためである。
死者を迎える祭りが起源になっているのが多いのである。祇園祭が東北で起きた貞観津浪で死んだ人を弔うことから発しているというのを知って驚いた。祇園祭も疫病で死んだ人々を祭り弔い疫病にならないように神に祈る祭りだったことは確かである。蝦夷を弔うということもあったかもしれない、それだけ古い由来があるのが京都や奈良である。
お盆は仏教とは関係ない、日本古来の習俗なのだろう。仏教が日本の習俗化したものなのだろう。祭りは縄文時代からあっただろう。死者を祀ることはそれだけ古いからである。人間が死ぬということは一番記憶に残ることでありだから死者を忘れないためにも祭りがあった。現実に祭りには何の由来かさえわからないものがある。それだけ古いからそうなった。でも祭りは継続されているのだ。祭りは極めて日本的文化なのである。だからフランス人が日本の祭りを見て歩いていたというのは日本文化を知るには一番いい方法だったとなる。でも日本人でも祭りを見るのはむずかしいから祇園祭でも何でも見ていない、見れないのだ。まず祭りの時期は混むし暑いから外に出たくいから祭りを見ていないのである。だから日本人でも祭りを知らない人が多い。祭りの中にその土地の歴史のエッセンスがつまっていることがある。でも祭りはなかなか実際に見ることがむずかしいのだ。


お盆に死者に会うというとき今日不思議な夢を見た。死んだ姉が近くの世話になった人と一緒に家に帰って部屋に上がろうとしていた。その女性は姉が認知症になってから唯一つきあってくれた正直ないい女性だった。同じ大正生まれであった。生前はそれほどつきあいがなかった、というよりは馬鹿にしていたということがあった。でもその人は正直であり金を10万借りても恩義を感じて必ず返していた。そういう馬鹿正直な人であった。戦後生まれではそういう人はいなくなった。義理人情に固い人である。義理人情など古いとなるがこれはやはり日本人が古くからもっていたモラルだった。今は義理も人情もなく金だけだとなっていることでもわかる。殺伐とした世界となったことでもわかる。そういう人々が多いということ情に厚い人間が多いということはそれだけ貧乏でも助け合いモノの足りなさを補うということができたという反面もあったのだ。
今は金しか通用しないし金でしか人との関係はなくなった殺伐とした世界だから義理人情など古いということはまさに金だけの社会になった異常性を示しているのだ。


その人には世話になったということでお盆だから墓参りしようとした。でもその墓が前も探したのだがわからなかった。同じ近くの墓所にあるのだから簡単に探し得るものだと思っていた。花でもあげようと探したが見つからないのだ。同じ姓の人の墓はいくつかあった。姓としては多いからどれなのかわかりにくいのだ。「夢」という墓を探したというのとにている。そして今日姉がその女性に連れられて自分の家に来た夢を見たのも不思議である。姉は陽気な人だからやっぱり笑っていた。死者はもしかしたら生前親しかった人と世話になった人と一緒に来るのかもしれない、生前親しい人と一緒にあの世にいるのかもしれない、だから病院で死ぬのが多いから本当は医者看護師の役割は大きい、死者を絶えず看取っているからだ。死ぬとき看取られるのが医者であり看護師になるからだ。今はそういう時代になったからだ。するとただ体だけをみるだけでいいのかともなる。そこまで配慮する人は少ない、タ-ミナルケアをする病院はまだまれである。病院はかえって死体処理場のようになり無機質な場所でもある。だから死んだら早くかたづけてくださいということになる。何かモノのようにかたづけられてしまうのである。

ともかく人間の出会いはそもそも不可思議なものではないか?誰と誰が出会うかは本当に不可解なことであり不思議なことである。親子さえそうである。親子すら一つの人間の出会いなのである。なぜなら親子すら別れて無縁化していることも結構あるからだ。血縁だけで出会いが決められるわけではない、出会いには不思議なものがある。なぜこの人と出会ったのか結婚したのかとか家族になったのかと不思議なのである。だから神の巡り合わせだとかなってしまう。そういう結論になること自体、出会いには何か人間を越えた宿命的なものが働いているからそうなる。出会いといってもただ店でモノを買ったから店員と出会うなどはない、出会いは何か深いつながりを感じる時なのだろう。でも出会いにはいい出会いばかりではない、出会っても別れて永遠に会わない人もいる。

それから例えば悪い人と出会う場合がある。さらに深刻なのは殺されるような悪い出会いもある。でもよくよく考えるとこれも不幸な出会いの一種なのだ。そういうのももしかしたら出会いなのかもしれない、あの人を殺したい思うようになったときそれは浅からぬ深い縁が生じていたからかもしれない、そういう人はこの世にいくらでもいる。それは宿命的な出会いであり因縁があり因縁が生まれたからかもしれない、人間はこの世でいい出会いと悪い出会いを経験する。いい人とばかり会うということはない、だからこの世なのである。いい人ばかりいたらこの世が天国になっているからだ。


いづれにしろ鎮魂の野馬追いというのも不思議だった。野馬追いは別に死者を弔うという謂われはない、それでも妻が死んで法螺貝を鳴らしたときそれがお経の弔いのようなものになった。それも不思議だった。津浪から原発事故とそうした不思議なことが毎日のように起こっていたのがこの辺なのである。これだけの津浪の死者となると国家的にも弔わねばならないともなった。8月も終わるにしてもやはりまだお盆の時期なのだろう。だから死者が夢の中で家に来たというのもわかる。盆踊りも死者を祀るためのものであり死者と一緒に踊るものだった。死者と踊るというと何か変だけど時間がたてば死者を悲しむばかりでなくて死者と一緒に楽しく踊るといかこともありうるのだろう。祭りは時間がたては死者を祀るものだという意識がなくなってしまうからだ。

 
 
 馬鹿正直な大正生まれの女性死ぬ
http://musubu.sblo.jp/article/43544993.html

納得いかない原発誘致の原因 双葉町や大熊町などが特別貧しかったからか?


納得いかない原発誘致の原因


双葉町や大熊町などが特別貧しかったからか?

 


1966年(昭和41年)
12月23日 :漁業権損失補償協定を周辺10漁協と締結する。
9月29日 :1号機を着工する。
1968年(昭和43年)3月29日 :国が2号機の原子炉設置を許可する。
1970年(昭和45年)1月23日 :国が3号機の原子炉設置を許可する。
1月26日 :1号機に最初に装荷する燃料がこの日と2月4日にGE社ウィルミントン工場より運び込まれた[33]。
11月17日 :1号機の試運転を開始する(翌年5月11日に記念式典を実施する)。
1971年(昭和46年)2月22日 :5号機の原子炉設置許可申請を提出する。
3月26日 :1号機の営業運転を開始する。 
 


 補償を受けたのは、直接三組合の請戸漁業協同組合・富熊漁業協同組合・久之浜漁業協同組合、入会五組合の四倉漁業協同組合・小高漁業協同組合・鹿島漁業協同組合・磯部漁業協同組合・相馬原釜漁業協同組合、隣接組合の新地漁業協同組合であった。

誰も原発など建設して欲しくないのですよ。





でも、本当に働き口一つない寒村なのです、地元にいたら冬場は都会へ出稼ぎです。
それでも貧しい暮らしを強いられるのです。
原発が出来る以前は、板の間にワラを敷いただけのところで眠る家もあったと聞きます。
それほど貧しい村だったのです。
若者はそんな村の暮らしを嫌って都会へ出て行ってしまう。
ますます過疎と高齢化が進む、何とかしなければ村が立ちゆかない。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6676652.html


大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。

http://p.tl/JnMW

双葉町は夜ノ森が有名なように相馬藩主の余の森として磐城藩と境界争いがあった。広野とか大野という地名があるように野と森が多かった。だから明治時代に開拓された所でもあった。双葉町から逃れた人で相馬藩の武士の家系につながるものだと系図を見せた人が新聞社で紹介された。だからあの辺まで相馬藩だったのである。「小良が浜」というのまさにおらの浜だと境界争いがあったからだ。

しかし謎のは1970年に原発が始動したというとき、その頃は高度成長時代の盛りであった。

始動したのがちょうど大学を卒業した頃であった。でも同教生は中学で金の卵として都会に出された。都会の人手不足を補った時代であり出稼ぎ時代でもあった。でもわからないのは出稼ぎでもそれは現金収入になるのだから悪いことではない、それなりに豊にしたはずなのである。高度成長時代は商店街でも町の小さな工場でも活気にみなぎっていた時代である。それも十年間くらいは急速に成長したのである。所得倍増計画もその頃でてきたのだからそのくらい経済に勢いがあった時代である。それが双葉町辺りには及ばなかったのだろうか?

戦前ならわかる。自分の父親が葛尾(かつろう)村から丁稚として双葉町の新山に働きに出た。

富沢酒造店が今でも残っているが酒屋は大きな勤め口だった。戦前ならどこでも貧しさを極めた。戦後十年くらいはもそうだった。でも戦後十年すぎたころから急速に高度成長の時代に突入した。その恩恵をいち早く受けた人々がいる。双葉町辺りだと10年くらい高度成長の時期から取り残されたのかもしれない、それは地理的条件によったのだ。今でも双葉町辺りには大きな病院がない、泌尿器がないから南相馬市立病院に双葉町で入院した人と同室だった。その人は埼玉の加須市に避難したのをテレビで見た。タクシ-で帰らねばならないとか言っていたがあそこまでタクシ-で帰るとしたら大変な料金になる。金はあったのかもしれない、今でもそういう不便な場所であった。


人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。


平市と原町市に遠いということが海のチベットとかなった。でもさしみがごちそうだというのは戦後十年くらいはみんなそうだった。私の父は病気になり最後にさしみ食えるようになったが食えないと言って死んだ。その前は味噌を焼いたりして酒の肴にしていたのだ。思うに個々の家でも高度成長の恩恵にあづかったものとないものがでたが日本経済はその時うなぎ上りだったのである。確かにその頃は肉が贅沢だったかもしれない、よく子供の頃は塩引きを食べていた。肉はあんまり食べていなかったかもしれない、だんだん肉を食べるようになった。自分の家では高度成長の恩恵にいち早くあづかっていた。

だから頭が悪くても大学まで出れた。同教生で大学に行けたのは5人くらいである。でも都会ではもっと大学に行けていた。田舎からだと仕送りなど金がかかるからだ。マンモス大学であり講堂に3000人とか学生がつめこんだ。団塊の世代はとにかく人が多いからどこでもそうなったのだ。団塊の世代は高度成長の落とし子であった。そういう時代にみんな豊になりたいというのはわかる。でもその豊になりたいということが原発の誘致に結びついたのである。高度成長時代に地元に仕事がないから出稼ぎだというときそれは東北全体でもそうだった。でも出稼ぎで現金収入になり子供を大学に出した人も多いのである。だから貧しいから原発を誘致するほかなかったということがちょっと理解できないのである。高度成長時代は豊になる方法がほかにもあったはずなのである。原発がなければ何もできないというものでもないはずだった。ただ地域地域でもさらに分かれて事情が違ってくる。
東京でも千代田区は一番金持ちで恵まれた所だったとある。。区によって差が相当あるのだ。


ただ原発の恩恵が双葉町だけではない、新地まで恩恵を受けていた、特に漁業権をもっている所はそうだった。磯部でも立派な家が建ったというのはそのためだった。原発事故で放射能で漁業ができなくなったけどやはりまた東電からは補償があるから恵まれているともなる。 双葉町だけでその頃別にそうした貧乏な所は全国にあった。だからその理由で原発を作ったのはやむをえないとはならない、特別貧しかったというけど出稼ぎだったというけど東北では農家はみんな出稼ぎでありそれでも子供を大学に出したほどの収入になったからだ。戦前や前後
10年くらいの貧しさと比べると明かに原発が建つ頃の事情は違っていたのである。


原発が出来る以前は、板の間にワラを敷いただけのところで眠る家もあったと聞きます


戦後十年くらいはみんなひどかった。燃料は炭だし自分の家もトタン屋根で雨漏りがひどい家だった。戦後十年は双葉町だけではない、農家でもそういう家は全国にあった。だから特別貧しい地域だからどうしても原発が必要だったという理由に納得がいかないのである。

posted by 老鶯 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年08月30日

草原を飛ぶ夏の蝶


草原を飛ぶ夏の蝶

summmerwinds.jpg


草原に風のそよぎて夏の蝶

草原を風の渡りて夏燕


朝の庭影なし涼し手水鉢


草原に風のそよぎて津浪あと秋めく白し雲の広がる


街道の五本松の一本松枯れつつ残り秋の蝉鳴く


草原化した自然というのは本当に不思議である。それはいつでもモンゴルの平原に住んでいるのと多少にている。毎日あのうよな広々とした所に住んでいる人の気持ちはどうなるんだろとう思う。水田とは余りにも違いすぎるからだ。ジンギスカンやモンゴル帝国が生まれたのも歴史的必然だった。遊牧民の生活様式が発展したのと同じだからである。山がないから日本とはまるで違っている。あういう所に住んでいたら日本のようなせこせこと働くというより心が大きくなってしまうだろう。日本人は細かいことにこだわる、そういう点は人間関係でもそうであり一面住みにくい、労働でも外国の方が働きやすいという若者にであった。時間や上司との関係など大雑把であり厳しくないからだろう。普通なら外国などだったら働きにくいのである。

日本は人間関係でも生活でも狭い場所に住んで育まれた。社が中心の狭い人間関係である。だからもともと窮屈なのである。大陸となると大陸的でありその関係もさらに地球的に広がる,陸続きだから
世界帝国が生まれる。そうすると民族を越えたものを思想でも何でも志向することになる。
法律はそういうところから万国共通のものとして生まれた。大陸になると天が神になる。どこまでも広がる大地と天の世界なのである。日本にはどこまでも広がる大地と天がないのである。
茶室の文化などが生まれるのもそうした風土だからである。


夏の蝶となるとこの草原にあっていた。水田より草原にあうものだと思った。草原に風がわたり燕も飛んでいる。この草原の感覚と北海道にはある。北海道には唯一日本では大陸の感覚なのである。だから特別に気持ちよさを感じるのだ。せせこましさから解放された気分になるのである。いづれにしろ草原の風景が身近にあること自体ありえざることだった。この辺は津浪と原発でありえないことが起きている。避難した町でも一体これからどうすればいいのかとなると本当にわからないだろう。そもそも町がなくなるということなど考えもしなかったろう。でも起き
ていることはそういう現実なのである。


街道の五本松の一本松は枯れても残っている。でもいつ枯れて倒れて消えるのかわからない、今そういう老人が高齢化で多くなった。90くらいになるとみんなそうなってしまう。でも今の人はなかなか死なない、死なされないということもある。寝たきりになっても結構生きてゆくのだろうか?ぼっくり死ぬ人は死ぬけど寝たきりになっても死なない人は今は死なない、あの松はそういう高齢者を象徴している。