2011年08月21日

400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


1611年慶長三陸地震の被害

北海道の南東岸でアイヌの溺死者多し(青森県防災HP)
南部・津軽:「海辺の在家・人馬等3000余溺死すと云々」(貞山公治家記録)
今泉(陸前高田市)で溺死者50人、家はほとんど流された。(気象庁)
鵜住居・大槌で死者800人、船越で50人、山田・津軽石・宮古で330人(中央防災会議)
宮古でも一軒残らず波にとられた。(気象庁)
仙台藩領:「1783人溺死し、牛馬85匹溺死」(貞山公治家記録)、「里へ下れば、一宇も残らず流失す」(同、別条)
相馬藩領:「約700人が津波で死亡」(相馬藩世紀)


宮城野区岡田地区は「荒井付近まで達したという慶長16年(1611年)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが,元和(1615〜)から寛永年代(〜1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した」とある。また、「元和年代に、吉田権六茂友という藩士がここで八百余石の禄を受けていたが、荒廃した土地の開墾を奨励して、更に七百余石の田地を開き、計千五百石の禄を領するようになった。続いて、寛永年代にかけても、岡田・新浜の開田が盛んに行われた」とにある。
この頃はまだ慶長三陸地震経験者も存命していたはずだが、食糧増産の命題が優先されたのか、海側低湿地での新田開発及びそれにともなう新田村の取立が盛んに行われたのである。


岡田の歴史
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/13/13-05-06.htm#rekisi


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/

 

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この辺では津浪が来たという話しや言い伝えを聞かない、そうした謂われあるものもないが
松川浦では津浪の被害が大きかったが漁師の間では津浪になったら沖に船を出せということで120隻ある船の90隻が助かった。時間もあったから助かったのかもしれない、それにしてもそういう言い伝えがあったからやはり漁師には津浪を知っていた。松川浦にある津(つのみつ)神社に逃げて50人が助かったというのもその神社がいつ建てられたのか?慶長の津浪のとき建てられていたのだろうか?400年前に明かに今回と同じ様な大きな津浪がきて被害があった。それが相馬藩政記に記されていた。400年前と言ったら千年前の貞観地震とは違いそれほど歴史的遠い昔ではない、それでもなぜこの辺では津浪にこれほど無防備だったのだろうか?

それは三陸でもあれだけ津浪に襲われ被害があっても同じ様に被害にあっているのだから人間はやはり津浪より生活優先になってしまうのだろうか?この辺でも400年前に大地震があり津浪の被害があった。それがあまりにも看過されていた不思議である。400年もたつと人間はそうした記憶も消えてしまうのだろうか?それでも双葉町の原発を建てられた地域でも慶長の津浪の被害があったかもしれない、相馬であったとすればあった。すると貞観地震が千年前で昔だとして400年前となるとそうはならない、歴史的時間では短いのである。人間はそれだけ忘れやすい、記録されていてもそれをもう現実のものとして受けとめられないのである。今回は津浪が現実にあるんだということを思い知らされた。そして遠い昔のことは今にかかわっていることを再認識したのである。祇園祭は貞観地震で死んだ人を慰霊するためだという時もそれだけ祭りの起源が古いことに驚く、京都だから当然だとしてもその頃からみちのくのことは京都に詳しく知られていたのである。



海老村は屋形村から発展したから上海老であり海に面したところは下海老となる。下海老が中心になっている、人家が多いのは昔は漁村であり塩も作り江戸時代は米も船で運んでいたということが鹿島町誌からわかる。海に面して漁業があり塩作りがあり米の運搬までしていたのだから下海老村の方に人口が集中してきたことがわかる。北海老村は下海老村のあとに作られた。http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


下海老村は海岸に接してありそこでは塩もとれる米を船で運べる港があったから海岸沿いに人が集中してきた。そういうことは三陸の町でもそうなった。どうしても海岸に人が集中してくるのはそこが暮らしの拠点になりやすいからである。下海老村に人が集中したのは慶長の津浪の後である。でもその津浪のことは言い伝えられていたはずである。それでもそういう危険な場所に人々は便利で住むようになった。 宮城県の岡田地区でも慶長津浪のすぐあとに開拓されているのはなぜだろうと思う。今とは事情が違うのだろう。どうしても開拓せねばならぬ切羽詰まった理由があったしか言いようがない。瀬に腹は変えられないということがあったかもしれない、三陸の港でも何度も津浪の被害があったのに海岸沿いに住んだのは豊かな漁場と便利だったからである。外からも人が入ってきている。

 
 
posted by 老鶯 at 02:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年08月22日

ひまわりの詩(信頼の花)


ひまわりの詩(信頼の花)

ひまわりは大地に伸びて咲く
すくすく力強く伸びて咲く
その大輪の花は信頼に満ちている
自信に満ちて咲いている
一点の疑いもなく堂々と
隠すことなくすべてを明らさまに
そこに暑い陽ざしが照りつける
十輪ほどのひまわりがた私に向かって咲く
その時安心があり病も癒える
みんな信じあって力強く咲いている
信じないものはその輪に入れない
人間も信じ合わなければ何事も成されない
一点の疑心をもってもすべてが崩れる
信じ合うことがすべての基礎である
信じ合わなければ何事も成せない
信じ合うことによって成らざるものも成る
大輪のひまわりが今日も私に向かって咲き
わたしは励まされ力づけられる
ひまわりは力を人々に与えつづける
人の世に絶望させられし者よ
大輪のひまわりを見よ
そのそびらに大いなる山は聳え
信頼の不動なる山は厳然と聳える
そして新たな信頼を回復させよ!

posted by 老鶯 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2011年08月23日

(看過されていた慶長津浪の被害) 小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?

 


(看過されていた慶長津浪の被害)
小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html


慶長津浪の後に復興させるために小高から中村に移った。それと伊達市から守るために中村に城を築いた。そもそも相馬の城が津浪の復興のためだったとは思いもよらなかった。津浪の影響がこの辺でそんなにあったのかということである。伊達氏との争いは相馬の歴史では常に語られている。しかし津浪のことなど誰も注目しなかったのである。確かに津浪で被害を受けたらその復興になったことはありえる。被害を受けた人々を中村に集め仕事を与えることもできた。双葉、大熊まで今回の津浪と同じ様に被害を受けている。それにしてもなぜ東電では400年前にこれだけ被害のあった津浪が記録として正式に残っているのに全く考慮しなかったのか?

貞観津浪は千年前以上だから考慮するとなると現実感がなくなるかもしれない、それにしても400年前にこれだけの被害の記録が現実にあったのである。700人は今回死んだ数に匹敵するくらいだろう。人口密度がまだまだ低い時だからである。東電は地元の歴史を良く研究しなかった。東北電力では女川は津浪を考慮して高台に建てて助かった。女川はもっと津浪の被害があったことがわかっていた。入江であり危険な地形だった。東電は東京だから地元の研究していなかった。?でも地震のことは科学者の専門家がいるのだから危険性は提起されていたのだ。


住民団体や日本共産党は、再三にわたって、国と電力会社に申し入れを行い、国会で質問し、対策を求めてきました。しかし、国と電力会社は、「現実には起こらない」「多重、多様な電源設備がある」などといって、この問題に目をつむってきました
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-06-02/2011060204_01_1.html

実は5年前の2006年3月1日の衆議院予算委員会分科会で、まさに今回同様の事故への懸念が指摘され、危機を回避するための措置を講じることが「約束」されていたのだ。
質問者は日本共産党の吉井英勝衆院議員、答弁者は二階俊博経産相(当時)と政府参考人の広瀬研吉保安院長(同)。以下はその議事録からの抜粋だ(敬称略)。

吉井「冷却系が喪失するというのが津波による(略)問題」「大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊される」「老朽化したものの実証試験を行ったということはどれぐらいありますか
http://president.jp.reuters.com/article/2011/04/01/
650DA4AE-56B6-11E0-8777-12CF3E99CD51.php

 


これほど指摘していたのに何ら対策をしない、清水社長はコストカッタ-でのしあがったとか言われるから金をかけたくないから古い型のマ-ク1を使いつづけたし津浪対策もあえてしなかった。ただマスコミに安全神話を作るために湯水のように金を使っていたのである。その責任は余りにも重すぎる。

郷土史というとこうした災害とか余り関係ない深刻なものがない好事的なものとして追求している面があった。でも実際は郷土史にも重大な危険を教えるものがあった。それがこの津浪の記録だった。しかしこの辺でもこの津浪のことを特別とりあげて警告している人などいなかった。
やはりただ700人が死んだという記述だけではものたりない、どういう被害が浮かんでこない、しかしこのことをもっと注意していればこんな被害にはならなかった。海岸線でも余りにも無防備だったのである。海岸線に家があれだけ密集していることがどれだけ危険なことか慶長地震の津浪を想像していたら恐怖していたはずである。何かしらの備えをしていた。ただ松川浦近辺で津浪の被害があったところは湿地帯であり津浪の後に開拓されたのだろう。それは仙台平野と同じだろう。漁師が被害になったのか?どういう被害にあったのか詳細がわからない、ただこの津浪の後にも開拓されて田が作られたことは確かである。新百姓として松川浦に入った人もいる。そういう人は漁師をするというより田を作ったのだろう。塩場をもっている人がありそれは原釜などでは大きな収入源となったから津浪の後でも仕事をはじめた。ただ慶長というと小高から中村に移ったばかりだからいろいろ整備されていないことは確かである。津浪で潮水をかぶったところより奥も湿地帯であり徐々に海側に開拓していったことは確かである。今開拓されて田になっている所はみな慶長の津浪の被害を受けたあとに田になった所なのである。津神社(つのみつ)は慶長の津浪の記念として祈念のために建てられたのだろうか?


ともかく地震の専門家も東電にはいるし十分に研究できる金もある。そして厳しく危険なことを指摘されていたのに東電では一向に手をうたなかった。事故の直前まで指摘されていた。
そして内部をしりえたのはGEの技術者、アメリカ人だったのである。その人は身の危険を感じていた。東電は過失致死罪にあたるとか言う人もいる。でも検察では罪に問えないとか言っているのも結局検察も官僚であり東電擁護に回っているからである。検察、警察官僚の有力な天下り先が東電だからである。今回の事故は想定外の津浪のためだというけどそもそも東電では津浪の備えなどしていなかったのである。想定外もなにも津浪そのものを無視していたのだ。だから東電の罪は大きい、これだけ危険なものなに危険でないという安全神話を作るためにのみ膨大な金をマスコミに使い政府と一体となっているから余計に奢りになった。その奢りをとがめる人もいない、保安院は内部の人であり厳しくチェックする人達ではない、だから津浪のことに関しても甘いし見逃しているのだ。これは想定外のことではない、そもそも津浪を想定していなかった人災だったのである。ただ地元の人も自分もふくめ津浪に関心がなかった。400年前にそんな大きな津浪の被害があったなどはじめて聞く人が多い。それだけ関心がなかった。貞観津浪は学者が最近、土壌から砂が発見されたなど津浪の跡を科学的に証明していたので関心があった。慶長津浪についてははじめて聞くことだったのである。そこに津浪がこの辺では盲点となっていたのである。

posted by 老鶯 at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

コメント一つ削除(相馬郷土史のプログで)



要請がありましたので一つのコメント削除しました


メ-ルを読まないときあるので・・・コメントを削除してくださいと書いてください


メ-ルが読めないのは宣伝が多すぎて開いていないです


実名など出して困る人があると思いますから削除するときも実名は出しません


インタ-ネットはいつまでも残るので困る人がでてくるかもしれません

プログでは相手のことが良くわからないので最初は匿名で書き込みをして

あとでメ-ルなどで連絡するといいようです

連絡は匿名でコメントでしてメ-ルを出したよと書いてください

posted by 老鶯 at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

なぜ東北の慶長地震の津浪は大きく伝わらなかったのか? (マスコミからインタ-ネットへの変化は社会を変えるのか?)


なぜ東北の慶長地震の津浪は大きく伝わらなかったのか?
(マスコミからインタ-ネットへの変化は社会を変えるのか?)

●貞観津浪は多賀城があり京都に知られた


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貞観津浪は千年前以上で古いのに京都まで広く知られていた。つまり中央政府に知られていた。それは多賀城があったためである。中央の役人が相当数きていて短歌も残しているからわかる。末の松山と有名な歌枕となったがそれは貞観津浪があったために歌枕の地となった。
歌枕となったということはみちのくの奥でも都に知られたということである。その当時は都に知られる意義は今よりずっと大きい。なぜなら京都から遠く離れていると情報が伝わらないからだ。
遠くの情報は貴重になる。だからこそ歌枕として記録された。歌枕はだから単なる風流ではない、どうして陸奥をしるかという目印であり地図だった。地図すらないときは歌枕が地図でありその地名から知るほかない、だから芭蕉の奥の細道でも歌枕をたどっているのは特別に風流を求めたわけでもない、地図として歌枕が指標となっていたからである。

そしてなぜ慶長地震の津浪も貞観津浪に匹敵するものだったのに都の人にも伝わらず地域的に伝えられるにすぎなかったのか?それも詳細はわからないし都の人の話題にもならなかった。それはすでに多賀城の時代は終わって江戸時代に入っていたのである。蝦夷征服は昔のことであり多賀城も遺跡として埋もれてしまった。だからかえって都にも伝わらず全国的にも伝わらなかった。相馬藩と宮城県の伊達市には伝わっていた。それも何百人死んだという記述しかない。その規模は貞観津浪と同じくらいでも地方的な災害として終わった。貞観津浪は京都の祇園祭がその犠牲者を弔うことに由来があるというときそれだけ都の人々にも全国的な広がりのあるものとて知られていたのである。だからかえって地域的なものとして知られていないからそんなに話題にもならず地域的な災害の記録としてしか残らなかった。学者が研究したのも貞観津浪であり慶長津浪でなかった。そこに慶長津浪が歴史的に注目されない理由があった。
それだけの災害でも封建時代になると藩中心の社会だから他に伝わりにくかったのである。


●インタ-ネットなどで情報が世界的に拡大


それに比べると今は世界的に情報は即時に伝えられる。ベルギ-にいたサッカ-選手の川島が「フクシマ、フクシマ」と原発のことでやじられ怒っている抗議している姿がテレビで写された。
ベルギ-までフクシマのことが知られてそんなヤジが飛んでいたことに驚いた。フクシマの原発事故はそれだけ世界的関心がもたれた。南相馬市長がyoutubeで窮状を訴えて世界的に有名になったというのもインタ-ネットが普及したためである。それほどインタ-ネットが情報伝達に有効なのかという疑問はあった。でも今や世界的なデモや革命がインタ-ネットを通じて成されていることが情報環境が変わったためである。インタ-ネットを通じて社会が変えられるということは日本ではあまり考えられない、まだ遊び的な少数派のものだと思っていた。でもインタ-ネットにアクセスする人が初期の段階からすると10倍以上に増えているかもしれない、すると当然影響力も大きくなる。仮設住宅でもインタ-ネットしていることに驚く。インタ-ネットは必需品になりつつある。インタ-ネットが今までのマスコミのように伝達力を備えればマスコミの力は衰える。インタ-ネットは実際は余りにも簡単に情報を伝達できる。それも文章でも映像でも音声でも素人でもできるから新聞とかテレビとかラジオとか本とかを一緒にしたような機能を素人でも使いこなせるのである。それをなぜ今までのマスコミがインタ-ネットでしないのか?コストも極端に安くなる。インタ-ネットはまだ陰のメデアとしてマスコミ側がしておきたいのである。ただこれも相当に変わってきている。インタ-ネットなしでは情報通になれない時代になってきた。かえってマスコミだけの情報では取り残されるという不安感も生じている。


●会社人間、組織人間が隠蔽を生み原発事故につながった


そしてインタ-ネットは個人でメデアを持てることが画期的だったのである。ここにはいろいろ問題あるにしろ機能的にはそうなっている。マスコミというとき今はどこでも会社人間になっているようにマスコミもあくまで会社人間であり会社の命令に従うのであり会社には逆らえない、社命に絶対服従である。個人として取材して何か社会に訴えたいとしても無理である。東電を批判したいとしてもできない、社命でするなと言われればできないのが今の社会である。それは別にマスコミだけではない、会社人間と化して社会では会社の命令は絶対であり逆らうことはできない。東電に勤めている人もやはり巨大な国のような会社の一員として行動する。いろいろ原発でも問題があっても内部告発できたのはGEのアメリカ人しかいなかった。会社には逆らえない、もし逆らえばやめるほかなくなってくる。会社をやめれば路頭に迷うことになる。だから会社を告発することは一番むずかしいことなのである。そういう会社人間組織人間であるから戦争のときのように上らかの命令には社命として従わねばならない、何か不正があったり告発したくてもなかなかできない、会社や組織からはずされたら死を意味する場合もある。江戸時代から明治の初期とかは会社人間はいない、職人でも商人でも個々人でやっていたのである。大店とかに奉公もあったが基本的には今のような大きな会社がありそんな力をもっていない。そういう会社人間化したことも今回の原発事故の原因となっていた。内部から告発しにくいのである。だから悪は隠蔽されつづけたのである。侍にはモラルがあったが会社人間には利益優先主義しかないのも問題である。だから東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがったことでもわかる。安全よりコストでありそれが会社なのである。事故が起きなければ問題なかったのである。


いづれにしろこれだけフクシマが浜通りが相馬が全国的ニュ-スなったことはない、全国的ニュ-スになるのは野馬追いくらいだった。毎日全国的ニュ-スとしてこの地域が報道されている。
そういうとき報道の醍醐味があることがわかった。マスコミも何百万の視聴者がいて社会を動かせるということで醍醐味があった。マスコミの操作によって社会を動かせるとなればやりがいがある。しかしそれが衰退してゆく今は過渡期にあることは間違いない、相馬郷土史研究ではアクセスは百くらいだったが今は400もある。これは一時的にしろこれだけ毎日あるとすると報道する方もやる気にもなる。今や個人レベルで報道の魅力にとりつかれる人がでてきている。
今ニュ-スで逆立ちしてオ-トバイに乗っているところをyoutubeに投稿して逮捕された。自作自演で自分を見せたいがためにそうした。前には放火したのを実況放送した女性も逮捕された。これはマスコミでもやらせとして常に操作して大衆の眼をひくためにやっていたのである。それが個人レベルでやるようになったのである。そして広告もペ-ジごとに出されるとそのペ-ジはいつまでも消えないのだ。キャッシュとしても残りそこからアクセスされると効果的である。ヤマハの電動バイクについて詳しく書けばそのペ-ジはいつまでも残りアクセスされている。それで困って有料でやっているからやめるように言っているが通じていないのでまた交渉である。一見インタ-ネットの広告は有効でないようでもあるペ-ジはいつまでも消えないしそこにアクセスがつづいて関連があれば効果的だとなる。インタ-ネットは新聞やテレビのようにその日その日で消えるメデアではないのである。情報が蓄積されて無限に増大していてアクセスできることが違っているのだ。

 
 
posted by 老鶯 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年08月24日

最近起きた津浪と原発事故のミステリアスなこと 週刊朝日の「富岡町長の金庫の謎」を追う

最近起きた津浪と原発事故のミステリアスなこと

週刊朝日の「富岡町長の金庫の謎」を追う



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週間朝日9月2日

「現在も福島第二原発の仕事を受注しようと、町議自体営業攻勢かけている」

町議は建設業を営み長男が今はその建設会社を勤めている。 町長は加害者である東電を全然追求しようとしない・・・


あれだけの事故があったのに以前として福島原発とかかわり仕事を受注して金を得ようとしている。ここにまさに原発とかかわる町の実体が如実に現れていた。

富岡とか双葉町は未だに原発推進だから驚く。南相馬市も小高区に東北電力の原発が建つ予定であり交付金ももらっていた。それを市長は今度は断った。しかし原発近くの市長村は財政的に深く原発ともかかわっていた。そういう実体がある。これは原発を誘致した市町村には必ずある。それでその金庫には5億円入っていたというのもわからないにしろそれだけの金が原発の仕事の中から入るということはありうるから噂になった。そういう噂には何か真実がこもっている場合があるのだ。原発は金になるし東電も金なるからそういう噂がつきまとう。ともかく津浪で金庫が流されて火事場泥棒が出たというのは本当である。これも真実はわからないにしろありうることであり津浪で他にも金庫は流され金は消えたのである。ともかく原発利権は凄いものだった。これも想像を越えたものだった。何兆円という利益をあげていた東電だった。
だから「原発埋蔵金」があっても不思議ではないのである。

こういうことがあるから双葉町でも原発の回りの市町村は外から批判される。そもそも原発の近くでだけでなく福島市の方まで放射能の影響があったのだからそうした狭い地域の問題として原発が決められたことに大問題があったのだ。双葉町とか富岡町でも評判が良くない、飯館村は同情されているけど外からあまり同情されない、そういう町や村に住むと何か住んでいる人全体もいい目で見られないことはある。そうはいってもここも事故がなければ将来そうなっていたかもしれない、原発は非常に身近な問題だった。もう双葉町でも富岡町でも放射能などより金だとなればそこに住みたい人は住めばいいしもういやだという人は他に移り住むほかないかもしれない、これから原発を建てることに反対してもどうしても敗れることがありそうしたらそこにいたくない人は移り住む他ない。そういう現実を見せつけられたからだ。原発を誘致することはそれだけのリスクがあったのである。

富岡町には遠い親戚の共産党員が住んでいた。その人は数年前死んだ。ビキニのことなど語っていたが今なら堂々と原発に反対できたし町民の支持も得られた。事故前は今でこんな調子だから富岡町民には相手にされない、それだけどっぷりと原発の町となっていたのである。
その人とは付き合いもほとんどなかったが事情あって墓参りしている。原発は共産党くらいしか反対できないものだったことは確かである。今回は共産党の株はあがった。別に支持はしないけど原発はそれだけ反対しにくいものだったということは確かなのである。そもそも自分も放射能について関心などもったことがなかったのである。放射能の危険については眼をつぶらされていたのである。

ともかくこんなに身近でいろんなことが起こることはなかっ。津浪の被害でも一人一人聞いてみればいろいろな話しがあるだろう。小高 区でも津浪の被害にあった人は帰れないとか言っていた。仮設住宅でも津浪の被害にあった人と原発事故だけの避難者は違っている。30キロ圏外では補償がなく相馬市玉野の酪農家は死んだのそのためだとかいうのもそうかもしれない、20キロ圏内はさらに補償されているから食うに困ることはないのだ。原発は補償問題でもあとあとまで尾をひくのである。
posted by 老鶯 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

津浪の跡が湿地帯化して水葵咲く (原初の湿地帯にもどる不思議-南相馬市鹿島区烏崎)


津浪の跡が湿地帯化して水葵咲く
(原初の湿地帯にもどる不思議-南相馬市鹿島区烏崎)

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夏菊や湿地に残る船一つ
船残り夏草茂り夕暮れぬ


ひぐらしや土台のみ残る村の跡


夕靄や辺りうかがふ鷺の二羽


鷺の二羽出会う沼地や夕暮れぬ



沼生まれトンボ飛びきて夕暮るや津浪の跡に水葵咲く


二本の松に土台庭の石残りて夏草繁り暮れにき


津浪あと湿地広がり青鷺の沼地におりたつ夏の夕暮


津浪あと湿地広がり靄深く沼点々と夏の夕暮


草茫々村も埋もれて夕靄に青鷺餌を沼に探しぬ

 

 
東歌


苗代の子水葱(こなぎ)が花を衣(きぬ)に摺(す) 馴るるまにまに何故(あぜ)か愛(かな)しけ


上野伊香保の沼に植る子水葱かく恋ひむとや種求めけむ


上つ毛野伊奈良の沼の大藺草よそに見しよは今こそ勝れ

 伊奈良村(いならむら)は群馬県の南東部、邑楽郡に属していた村 


ミズアオイ科ミズアオイ属、東南アジア原産の水田雑草で、主に本州から九州に発生し、北海道では少ない。稲作に付随して日本に伝来したとされ、現在の有機水田では、最も一般的な水田雑草である。

 コナギと良く似た水田雑草にミズアオイがある。かつて食用に供されたと言われるこのミズアオイの古名を「葱(なぎ)」と呼び、ミズアオイを小ぶりにした姿のコナギは「小葱(こなぎ)」と呼ばれるようになったようである。

除草剤を使わな稲作では、おびたたしい数のコナギが水田を覆うことがある。
http://tarikidict.jugem.jp/?eid=44


植子水葱(うえこなぎ)=ミズアオイが栽培されていた証拠となる言葉。
 水葱(なぎ)=ミズアオイの古名である。


醤酢に蒜樢き合とて鯛願ふ我にな見えぞ水葱の羹

 ひしおすにひるつきかとてたいねがふわれになみえぞなぎのあつもの


 意味 ひしおすにノビルをつきこんだ和え物と鯛を食べたい思っている私に、見せつけてくれるな。水葱の吸い物なんか!
 本意 ??(ミズアオイが一般的に食されていた証拠となる歌)

http://homepage3.nifty.com/nagi/onibasu/manyousyuu.htm


小沚潟 こなぎがた ・・・という地名が熊本県にある。こなぎが一杯茂り咲いていたのか?

 



東南アジア原産の水田雑草で、主に本州から九州に発生し、北海道では少ない。稲作に付随して日本に伝来したとされ、現在の有機水田では、最も一般的な水田雑草である。


福島民報に烏崎に水葵が咲いていたというのが出ていたので行ってみた。
なぜ津浪の跡に沼地化した所に水葵が咲いたのだろうか?これは水田に繁茂して困る草でもあった。農薬を使わない水田ではどうしても繁茂するから取り除かねばならない、水田を作るにはやっかいな草だった。でも花が咲くし染料としても使われたから有用なものとしてもあった。
食糧にもされていた。水葵をベトナムで見たことあるが稲作に付随して日本に伝わってきたというのは驚きである。湿地帯に自生してるのかと思ったが稲作とともに伝播したというのは驚きである。


東歌はまさにこうした湿地帯の風景とともにあり水田と密接に関係していたのである。なぜ水葵がなくなってしまったのかというと農薬のせいだった。農薬をまかないとこうした雑草が生えるから農薬で殺していたのである。農薬は自然をかなり殺している自然破壊でもあった。でもそれがなければこうした雑草をとりのぞくために農民の労苦はふえる。大藺草もただの草ではなく花を咲かせるから美しいとみて恋の歌にもなった。こういうもの水田で日常的に見ていたからこの歌ができた。東歌だからより生活と密着した歌を作ったからである。水葵は伊豆沼とかでも見た。沼地なら必ず見える花である。これは結構生命力強いのだろう。ともかく湿地帯と化した風景はまさに原初にもどったのである。万葉集がなかなか理解でないのは原初の風景とともにありそれが今とかけ離れているから理解しにくいのである。


いづれにしろ田んぼがなくなり津浪の跡が湿地帯となり沼地化している風景は北海道の風景である。北海道にはこうした広大な原野がまだ残っているからだ。それにしても庭の石と家の土台と松が二本残っている風景は不思議としか言いようがない、庭の石も自然の石となり松も自然の松のようになった。それは想像もしえない風景だった。そういうことが日々起こっているのが津浪と原発事故の現場なのである。人の住まない地域が広がりそこは水田も草茫々になり湿地帯化している。原初の自然にもどっている。飯館村辺りではイノシシが増えるというのは本当だろう。人が住まなくなればイノシシも里にでてくる。イノシシは原町区の大原にもでてきたと聞いた。結構家のある所までイノシシはでてくるとすると人がすまなくなったらイノシシは悠然と里にでてくる。原初の自然にもどる。原発周辺は自然の楽園となるというのも実に奇妙なことである。放射能の影響はあっても森が死んだり植物が死んだりしない、チェルノブエリを見ればわかる。だから皮肉なのは放射能が自然をとりもどすという一面もある。人が住めなくなるのだからそうなる。放射能で木も花も枯れないのである。人体には有害でも自然が死ぬわけではないのが不思議である。ともかく広大な地域が原初の自然に帰る不思議さである。

 


福島民報では水葵の写真一枚だけ出していたけどやはり地元だともっと詳しく報告できる。

自分のプログがリンクされればもっと詳しく見れる。ただマスコミとインタ-ネットは協力関係にはない、マスコミが主導権を握りたいからそうなる。インタ-ネットはマスコミに従属するものとして
権力をもっていたいのである。でも今やマスコミだけではもうやっていけない、写真でも大きく出せるし動画も出せる。リンクさせればもっと詳しく興味あることを知ることができる。水葵と検索すればこれだけのことが知ることができたからである。

ここは南相馬市鹿島区の烏崎であり村は津浪で消失してしまった。


 

posted by 老鶯 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年08月25日

原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ (プルサ-マルまで要求していた富岡、双葉町など)


原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ
(プルサ-マルまで要求していた富岡、双葉町など)


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富岡町町長の遠藤勝也、双葉町町長の江戸川克隆、楢葉町町長の草野孝、大熊町町長の渡利綱、の4町長が2009年(平成21年)1月28日(水)、協議会の会長職にあった遠藤勝也氏の富岡町で臨時総会を開き、「プルサーマルに関する約7年間の事前協議の白紙撤回問題」を、@東電の原発トラブル隠し発覚後の東電・国の再発防止策は評価できる。A地球温暖化防止の観点からプルサーマルを含む核燃料は重要などを理由に凍結から推進に方針転換を図るべく県議会並びに県に対して要望書を提出した。更に「交付金ありきの合意ではない!」とのコメントを付けてけての要望でしたネ・・・原発に素人同然の貴方達が、何を根拠に再発防止策が評価出来たのでしょうか・・・さしずめ、東電のワンサイドデーターを与えられ、補助金で煽られ・・・凍結解除を推進したのでは・・・


双葉町の財政は、予算規模は約47億円。
町税19億1400万円のうち15億2500万円は固定資産税で、そのうちおよそ9割は原発関連。
また、国庫補助金9億6400万円のほとんどが、電源立地交付金。


平成21年度の電源三法交付金は
 いわき市 ¥2,088,319,832(いわき市は三法以外にももらってる)
 双葉町  ¥1,953,262,984
 大熊町  ¥1,695,668,074
 双葉郡内で最も金額の少ない自治体は葛尾村で¥47,987,806


双葉町は90%以上原発利権で食ってた町。
それにいまの町長は自分から7号機・8号機を誘致している。金が欲しいから。


噂なので、テキトーな回答は出来ませんが、震災後、中学生らが、数千万円もの大金を盗んだと、岩手の友人から聞いています。
火の無いところに煙は立たず、かもしれません。


上にも誰か書いてるけど、双葉町と大熊町は半永久的に
居住、立ち入り禁止区域になるだろうね。
なぜなら、猛毒のプルトニウムが周囲数キロに飛散してる。
プルサーマルは危険と言ってた反対派の言うとおりの惨事になってしまった。
それを踏まえて、いずれ街の移転とかになると思うけど、
そのあたりの都合が悪いことは政府や東電は何も言いませんねえ。
浪江とか富岡町は運が良ければ20年くらいで戻れるのかも?
でもその頃には年寄りは全部亡くなってるし、若い人は他に生活の基盤が出来てるだろうし。


本当に原発の恩恵を受けているのは、原発関係に勤めててそれなりの報酬を
もらっていた者。浪江町民に「双葉大熊のせいで・・・」と言われ嫌で仕方
がない。双葉町民だが原発関係とは関係ない職場だし、町は財政破綻し税金
は高いので原発交付金年1万円など何の意味もない。あんなくだらない地域
に戻る気はないので、別に構わないが原発関係に勤めててましな報酬を受け
ている浪江町民に言われ、カチンときた。「あなたの旦那はT電関係じゃな
いんですか?」と言おうかと思ったが関係が悪くなるのを考え控えたが、は
っきり言ってありがた迷惑である


俺は請戸に住んでた者だ。717の言っていることは
本当だ。漁師関係者以外はビタ一文東電からはお金は
ってない!!!
2000年の補償金のときは、請戸一帯が新築ラッシュで
傍から見てて「これは異常だよな、、そのうち天罰くらうぞ
クソが、」と思ってた。
それが10年ちょっとでこのザマ。


東電関係の奴に「大熊双葉・・・」と言われるのはやっぱむかつくわ。
あ〜俺も1メートルでもぎりぎり浪江とかに住んでればよかった。
こんなバカ東電のために、全てそこの住民のせいにされなきゃならんのか?
「原発関係でなんか働いてないし恩恵なんか受けていない」と言えば「原
発推進者を選んだのはそこの住民だろ」になるしな。こんな地域なんて
みんな原発推進者だろ。そもそも、俺は選挙になんか行かないけど。
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1309192538/

 



原発は距離によっても変わってくるし市町村でもその影響の色合いが変わってくる。
一番近い、大熊や双葉や富岡などは東電から金もらったということで批判されている。でも被害も一番大きい地域で帰れないとか言われている。でも自業自得だとか言われる。その内部に住む人でも金銭的に恩恵があった人とない人がいるがその町民ということで一緒にされる。
いわき市が意外と金もらっていることに驚いた。南相馬市も全然もらっていなわけではなかった。ただ原発の利益は10キロ圏内くらいだろう。浪江町も恩恵は少ないが原発で働いていた人を知っている。原発で働くという人はそれなりにいた。


それにしてもあまりにも10キロ圏内の双葉町や大熊町や富岡町などはプルサ-マルを県に認めるように要請していたというのはひどい。危険より金だと露骨である。恩恵を受けない人は住みたくないとなってしまう。なぜならいっしょくたくに見られるからだ。双葉町民というだけで肩身の狭い思いをしてしまう。それでも20キロ圏内など補償があるからいい。補償がなくて被害があるところは損だとなる。富岡町長の金庫には何億の金がつまっていた。それは本当らしい。なぜなら原発利権はそれだけ大きいから権力あるものはとりつかれる。浪江の請戸では船主は漁業権ももっている人は大金が入ったことは地元の人が言っているのだからまちがいない。でも船主ではない漁業権がないと金は入らなかったのである。そういう金って意外と天罰で吐き出される場合がある。福島県の伝説で長者の倉から米俵が飛んでなくなったとかある。それは回りのものもその長者をうらやましがりそうした財産はみんなで分けるべきだという気持ちがあったからそんな伝説が生まれたかもしれない、何かそうした訳ありの金は紛失したりする。

それは運命だったのかもしれない、つまり津浪でその金が吐き出されたのかもしれない、原発事故も天罰だったというのもそのためである。東電は安全対策があまりにもお粗末だったのである。東電の罪はあまりにも大きいのだ。

広島と長崎に原爆が落とされたのは地元には何の責任もない、でも今回の原発事故は地元にも国民全部にも国策でしたのだから多少の責任はあるから税金が使われてもやむをえないという判断がある。そういうことも違ってる。つまり距離やその土地土地によって影響も違うし思いも違ってくる。

南相馬市に住んで今一番感じることは六号線や常磐線が遮断されて使えないことが不便なのである。これは自分だけではない、仕事している人はみんなそうなっている。
今の社会はこれだけ広く交通している社会だから交通が大事になるのだ。他でも三陸の方でも津浪で道路が遮断され不便になってるところがある。只見地方なども洪水で道路が寸断され鉄道も破壊されたから交通の面で不便になる。それだけ今の時代は交通に頼ることが多いからである。江戸時代なら自給自足でがまんするほかない。そういう生活になれているからできる。それが今はできないから困る。逆に田畑を作らなくても食糧が入るのは交通が発達したからである。

 
 
posted by 老鶯 at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

蝉の声(相馬市の病院へ)


蝉の声(相馬市の病院へ)



今日死ぬや夜明けて聞きぬ蝉の声


蝉の声歩みつ聞きて病院へ


蝉の声坂を上りて満ちにけり


蝉の声満ちて路上に一つ死ぬ


打ち曇り蝉の音ひびき城下町


いつも行く木蔭の道や城下町


今の時代の不思議は何か?歩くことが特別なことになったことである。何するにも車だとすると歩く姿も見えないし自ら歩くこともない、これほどの変化がないのだけで気づいていない、そもそも人間が人間になったのは立って二本足で歩くことによってなった。それがなくなった変化は人類史上最近のことなのである。馬を使ったりはしていたがそれはまた別である。車とは全然違う、日常的生活は歩くことにある。だから歩かなければ江戸時代のことなどわからないのである。また自然にも通じることはできない、旅でもそうである。大地を歩くことで五体で感じるものがある。つまり歩くことを奪われた人間は未だかつてなかったのである。この変化を重大なものとして感じている人はまれである。なぜなら歩かないということは実際は人間社会への影響が実に大きいのである。ものの感じ方もまるで違ってくるからだ。基本的なものとして歩かない生活は人間が人間でなくなりさえするということさえありうる。様々な問題がそういう基本的なことを奪われたことによって生じてくることがある。万葉集でも歴史でも歩いて作られたものだから根本的に歩かないと理解できないのである。

病院まで歩くからこの句ができた。病院までタクシ-で行ったらこの句はできない、まだなんとか歩けるからいい。でも歩くのは辛い。ただ普通に暮らしているから病気ともいいがたい。他の人もこれは病気なのだけど老化の一現象みたいなものとなっている。ただ腎臓悪くしたらだめである。一時なったから怖かった。そこまでいかないので助かった。でも旅するということは歩くことだからなかなかできなくなる。相馬市は歩くには向いているだろう。原町は歩くには向いていない、いつもなぜかしっとりとして曇り空の感じが相馬市なのである。駅から城まで歩いてみるのもいい。ただ結構距離を感じるから歩いていない。田町通りから城までそれほど遠くない。
あそこに城があったのは堀などを作るために宇多川を利用したからである。

蝉は良く死んでいる。毎日歩いていると路上に死んでいる。蝉の命は一週間くらいだろう。はかない命である。だから朝に鳴いて夕方に死んでいる蝉もある。一心に鳴いて死んで行くのが蝉である。今日は蒸し暑いから夏だった。手術はもっとあとだからまだ余裕があった。別に普通の生活できるからこれで困ることはない、介護すらしている、人の世話までしている。人間の体も本当は一部機械化されると便利である。小便でも便でももし人工になるとかえって便利かもしれない、人工臓器は実際にかなり不思議なものである。一部の臓器がだめになったら人工臓器に置き換えられると便利である。でも人工腎臓などできていなからそれは無理なのだろう。
血管なとは人工血管など普通にある。臓器となるとむずかしいのである。ロボットだったら部品をとりかえればいつまでも使えるが人間はそうはいかない。人間は免疫力がなくなると病気になる。病気は体全体のことであり一部が弱って病気になるとも違うように思う。体全体がまだ力があれば部分も回復するのだ。全体の力が衰えれば部分もだめになり死に近づく。放射線でも確かに細胞など傷つけるが免疫力があれば抵抗力がありガンにならないかもしれない、免疫力が全体の体力がまだ維持されている人は癌も直っている人がいる。放射線の影響も個々人で違うらしい。結局10年後にガンになったとしても放射線の影響かどうかはもうわからないのである。

2011年08月26日

原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ(2) (浪江町などの対応)


原発事故の30キロ圏内の市町村の対応と影響まとめ(2)
(浪江町などの対応)
 



被災町村、どこの町村長も議員上がりで弁が立たず困ったものだ。マイクの前でまともにしゃべれない。全国放送のNHKのインタビュ―等初めてなので無理もないが。

○原発工事関係の下請け労働者は浪江町に多く住んでいた。
○浪江町には呑み屋も多くあるし、特急も停車する。それに仙台空港にも近い。
○富岡町よりはるかに浪江町の方が人口も多いし便利だった。その浪江の呑み屋で下請け労働者がよく言っていたのは、「保安院」と「東電梶vのなれ合いの話と年に1〜2回避難訓練をやっていたが、単なるセレモニーで誰も気合を入れてやってないという話ばっかりだった。

津島避難所(小学校、中学校、浪江高校津島分校などで指定避難所ではないと思う)近隣は、1万人以上の人と車でごった返していたが、川俣町にも分散した模様であった。
 


浪江町役場の原子力事故の情報はどこから入ったかわからない。
○双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町の原発がある町は、原発と役場間にホットラインがあるが浪江町にはない。浪江町は県の指示で動いたのではないか。


日当は一日7万円というが、孫請け、ひ孫請けの現場労働者には1万5000円しか払われない。今回の事故後は日当が40万円にも膨れあがったというが、ピンハネされて作業員の手取りはほんの少しだろう。これまでも被曝事故で亡くなった家庭には、法外な現金を積んで口を封じたこともあった。


東北電力が2020年稼働の目標で浪江・小高地区に原発建設を計画してきたことにも触れ、「双葉町の現状を見ている私たちは、みんな反対で農業を守ろうと話し合ってきた」と語気を強めた。


飯舘村で林業を営む男性は、「山間地の多い飯舘村は林業が盛んだったが、海外からの輸入が増えていくなかで、林業で生計をたてていく人は東北地方全体でも減っていった。このあたりで切り出した木を保管する場所も石巻の港にしかなく、津波で流されたため木の持っていき場所がなくなっている」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=249748

 


双葉町について


 確かに生活様式の変貌は目を見張るばかりです。ワラ屋根の農家なんて、いくらも残っていない。
みんなアルミサッシのついた新建材の家ですよ。車のない家は数えるほどでしょう。

 応接セット、カラーテレビ、ステレオ、ピアノ・・・・・・。
どれも必要に迫られて買うわけじゃないけれど、勢いというものがあって、
村中が競って揃えるんだから、無理してでも買わないと、みじめで暮らしていけない気持ちになる。

 それでも金がある家はいいですよ。ない家は月賦です。
畑はあっても荒れていくか、減っていく一方。必然、家中が現金収入を求めて外へ出ます。
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1313911029/l50


元町議「双葉町を最終処分場に」−−絶望の果ての覚悟

 東京電力福島第1原発の近くに住んでいた人々から悲壮な声が出始めている。
 同原発5、6号機のある福島県双葉町。原発から7〜8キロの所で果樹農家を営む元町議、大塚憲さん(61)は言う。
 「廃炉にした後、周囲数キロは国が買い上げ、高レベル放射性廃棄物の最終処分場にする。それくらいのことを考えてもいい」
 



浪江町は意外と原発で働く人が多かった。実際近い、請戸から煙突が見えた、5キロくらいしか離れていない。浪江もこれといった産業もないから原発に頼ることが多かったのかな?
実際に遠い親戚にも働く人いたし回りを見ればそういう人多かったんだろう。地形的には平地が拓けているのは請戸の海の方である。山の方はそれほどの耕地はない、山際には大堀の陶工の住む村がありそれは江戸時代からの唯一ともいえる産業だった。浪江には高瀬川と請戸川とか二つ川があるから自然には恵まれていた。高瀬川を上ると葛尾(かつろう)村になる。そこが自分の父の出た実家だった。南相馬市病院に一か月入院したとき同じ病室の人は請戸の農家で賞までもらった篤農家だった。後進の指導もしていた。15町の田畑をもっていた。平市(今はいわき市)に野菜などを売っていた娘を三人も大学に出したと自慢していた。それで主人は寝たきりになりやっと手をあげるくらいしかできない、脳もやられていて話すこともできない、
奥さんはこの人は働いたんですよ、働いたんですよと一生懸命語りかける。でも話すこともなにもできない、やっと手をにぎって通じている。この人はわかっているんですよ,わかっているげすよと懸命に介護していた。


もう一人は南相馬市の原町区の大原の農家の人でその人とも毎日話していた。その人は5町の田畑をもっていたがそれでも大きい方である。でも息子は市役所に働き跡を継がない、そしてあのうよな重病ではもう農業はできない、一人で暮らしていた。猫が友達だった。あんなところにもイノシシがしきりに出て荒しているというのには驚いた。県道も通っているからあんなところに出ないと思った。廃屋が三軒ほどありすぐ近くにも幽霊屋敷のようなのがあった。大原も放射能汚染が高かったからあそこにはもう住まない、むしろ東電に補償された方が良かったろう。今は農家でそういう農家が多い。跡継ぎがいなくなっているのだ。もう一人は双葉町から来ていた。泌尿科がないためだった。あの辺は近くに都市がないから不便である。いわき市は遠いからだ。もともと相馬藩と磐城藩の境だった。その双葉の人はバスで埼玉のかず市に移動した。バスに乗っているのを見たからだ。娘が埼玉にいるいうことでも移動した。もうなかなか帰ってこれないだろう。そもそも夫は結構悪い認知症だから施設にでも入ったかもしれない。請戸の農家の人は郡山に移動した。娘が郡山にいて時々介護していたからだ。それにしてもどうなったかわからないがあれだけの重病人をかかえてどうなったのか?請戸のどの辺に住んでいたのか心配である。港ではないだろう。ただ浪江は海の方に耕地が広がっている地域だった。高瀬川はいい渓流だったが行けなくなったのが残念である。


浪江町役場の原子力事故の情報はどこから入ったかわからない。
○双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町の原発がある町は、原発と役場間にホットラインがあるが浪江町にはない。浪江町は県の指示で動いたのではないか。


浪江の人は命令で最初津島に避難した。ところが津島は放射線量が高すぎた所だった。誰の命令で津島に避難したのか?東電からの支持ではない、政府からでもないだろう。津島から相馬市に逃れた人とあった。これも相当な手落ちだった。ただ誰の責任になるのかわからない。
双葉や富岡にはホットラインがあったということはやはり東電では事故の危険性かあるので備えていたのである。浪江には備えていなかったからそうなった。双葉町ではいち早く埼玉に避難した。それも素早い支持があったからだろう。浪江にはないから津島のような放射線の高い所に逃げた。原発の近くの人は今度は事故に備えていた方がいい。

この辺の市町村長はテキパキしていない、今の知事もだめである。すると佐藤栄佐久氏は優秀だったのだと思う。別にこんな緊急事態にならなければ市町村でも知事でも誰でもいい、首相すら誰でもいいとかなっていた。しかし緊急事態になると指導者の役割はすごく大きくなる。
指導者によって命運が左右される。だから指導者を選ぶことは住民の命をさゆうしかねないのだということを本当に自覚させられた。相馬市長は評判がいいがその他はあんまりかんばしくないようだ。


富岡町よりはるかに浪江町の方が人口も多いし便利だった。その浪江の呑み屋で下請け労働者がよく言っていたのは、「保安院」と「東電梶vのなれ合いの話と年に1〜2回避難訓練をやっていたが、単なるセレモニーで誰も気合を入れてやってないという話ばっかりだった。



こんなものだったのだろう。東電の危機感のなさがここに現れている。あまりにも原発に対する考えが甘すぎたのである。金をばらまいて百姓や漁業者をだまちせばいいんだよ、あいつらは金を握らせばだまる、マスコミも金を握らせば何もいわないよ、安全対策は適当でいいよ、金をかけたくないからな・・・こんな調子だったのである。それに呼応した地元の人も同罪だ言えば同罪である。請戸には原発長者が生まれいたことはまちがいない,この辺でも火力発電所ができたとき漁業権のあった人達には大金が入り呉服屋がもうかった。高い着物など買ったからである。漁業権は大きな権利である。億の金も入る人がいたかもしれない、立派な家だったらそうかもしれない、漁業や農業だけではこの辺では金にならないからだ。磯部ですらそうして立派な家が建ったというのをそこに住んでいる人から聞いた。松川浦まで漁業権をもっていれば東電からか金が入るのである。今でも放射能関係で補償はあるのだ。ただ15町も田畑をもっていた人は別だった。そういう人は少ない。ともかく浪江には原発労働者が多かった。葛尾(かつろう)村から浪江におりてきて原発で働いた人も知っている。浪江は原発の利益を受けていないとか言っていたが必ずしもそうではなく受けていたのだろう。補助金はさほどもらわなくても近いから経済的恩恵はあったのである。 双葉町などが高レベル放射性廃棄物の最終処分場にするほかない、土地はかいあげてもらうというのも原発と未だに一体なのである。しかし回りの人からするとその高レベル放射性廃棄物とは何なんだ。そんなものがまたどう影響するのだとなる。原発の問題は10キロ圏内だけでは決められない、その人たちの利権で勝手に決められないものである。


それにしても飯館村では木材を石巻までもっていっていた。その石巻が津浪で大被害を受けた。そんな影響まであった。いかに様々な今回は津波と原発事故であったかわかる。

posted by 老鶯 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連