2011年08月15日

危険な核開発f原発の秘密主義 (素人にも説明されればわかることがある)

 

危険な核開発原発の秘密主義
(素人にも説明されればわかることがある)

核が核開発として核爆弾として開発されたため秘密にされたということが原発にも受け継がれた。アメリカでもそうだったし日本でもさらに秘密にされた。それほど危険なものでも秘密にされてアメリカからまだ営業運転もしないときから古い型のマ-ク1の原子炉が導入された。これは小さいとかいろいろ不十分なものがありその後のものは改良されている。日本ではそうした古い型の危険なものをあえて導入した。そしてアメリカでは地震も津浪もない東側にマ-ク1の原発は建てられた。そこも詳しく研究せず危険なものを導入した時点からすでに安全は保障されない、事故が起こることが予想されていた。作った技術者が言っているのだから今になればそういうことはみんな技術者も知っていたのである。ただそれでも原発を建てるために秘密裏の内に行われたのである。秘密だということはすでに危険なものでも隠してやるということである。その時点で事故が起こる予想はされるのである。


人間社会は秘密だということはやはり回りのものにとって危険なものである。一体何をやっているのか?オウムは秘密裏の内にサリンが製造されていた。それも秘密であり近所ものでも近寄れないものだった。カルト宗教団体も秘密裏に何かを画策しているということで近隣のものは恐怖を感じる。でも相手が怖いから何も言えない,その内にそうした団体はいつのまにか社会の巨大な勢力となって社会を支配してしまうことがある。

創価なども何を拝んでいるのだろうと不気味に思う人はいる。それも秘密にしているからそうなる。なかなか何を目的に集まり何をしようとしているのか問うこともできない、信教の自由を犯すのかとなりオウムのように近づけなくなる。そうして秘密裏の中に知らない内に社会がカルト宗教団体にのっとられたということがありうる。東電もまさに秘密裏の内に原発を建て政府と一体となり安全神話がいつのまにか形成されてもはや誰も何も言うことすらできなくなっていた。それは専門家集団の学者なども加わり何も言わせないようにした。マスコミも東電の莫大な資金で何も言わせないようにした。秘密裏に行われたのはまさにそうした検察や警察までもまきこんで権力化してしまっていたからである。官僚や検察の天下り先でありそれにのっかているから誰もチェックするものもいない、保安院も外部のものではない内部のものであり形だけのものでしかなかった。


人間社会が秘密裏になるとその内部のことは外からチェックできないから内輪のものだけで狭い視野になり暴走することがある。それがオウムだったしカルト宗教団体にはそういうところがある。外部から何をしているのかなどチェックできない、別に何教でも日蓮宗でも真宗でも日蓮や親鸞は巨人であり崇拝する。でも宗教のことでカルト宗教団体と論じることはできない、何か批判すれば何百万人の人が宗教弾圧だとか騒ぎ宗教で呪うのも普通だからである。そこに宗教が団体化するとき社会にとって怖いものとなる。そういう危険性を感じないでいるがやはりこれも原発の安全神話の形成と同じだった。官僚、司法から学者からマスコミを抑えて反対するものは公安で尾行していたかもしれない、現実そういう戦争のときと同じ状態にまでなっていたのだ。東電ではそういうことができる権力をもっていた。政府もとりこむ検察までもとりこむことが簡単にできたのである。


原発の安全神話は宗教にまでなっていた。安全の絶対化でありそれに逆らうとお前は神を信じないのかまでなっていた。もちろん東大の学者などがずらりと並んで素人に説得するのだから素人は何も言えなくなる。特に原子力はむずかしいからそうなる。自分などもまともに数学も理科もだけであり高校も出れないほどだからそういう人達を前にするとその権威の前に普通の人は何も言えなくなる。何を馬鹿なことを質問するのだ話しにならんとかなる。医者でも医学博士となっていると何か博士とつかないものより素人にとってはこの先生は他とは違っているのかなと思ってしまう。そういう効用は常にある。素人にはわからないことが今は多いからである。

しかし今回の原発事故でいろいろ事後の原因を教えられると全く理解できないものでもないことがわかった。事故の後だからわかりやすいことがあった。失敗の一番の原因が地震のことは想定していた。地震のことはいろいろ事前に予想して準備していたのである。その結果として津浪のことはないがしろにされた。地震のことばかりで頭が一杯になっていたのである。こういうときは交通事故でも事故が起こりやすい、一つのことに集中しているともう一つのことがないがしろにされ忘れたり思わぬ事故を起こすのである。


地震を予想して原発を低い地盤の安定した所に建てた。そこは高いところだったが土を切り取って低くしたのである。その低くしたところが津浪に襲われた。次にどういうわけか地震を怖がり地震に強いと地下にデ-ゼルの非常用電源を二つも設置した。一つはあとから地下に設置した。この時も津浪のことは全く想定外だったのである。女川では津浪を想定していたから持ちこたえた。建築学的に土台作りで津浪を想定しないで大失敗した。次にマ-ク1は古いもので安全性に問題があった。それは最初からわかっていたことである。相互に安全について真剣に検討しないのも事故の原因だった。細分化され分業で意志疎通ができない、それぞれの分野では俺の領分に入るなとか狭い了見になっていた。そして何より全体をみるものがいない、総合的に判断できるものがいなかった。ばらばらの集合体でありそういうものはいつ事故につながってもおかしくない。別に地震や津浪でなくても人間のエラ-で事故になる。チェルノブエリも東海もスリ-マイルもヒュ-マンエラ-であった。原発はこうして実際は事故が起こりやすいものであった。それは外部からチェックされない安全神話が二十三重の権力で作られていたからである。


結局事故後にしても素人でもわかることがある。失敗の原因は津浪を予想しないことにあった。津浪対策をしていればこんな大事故にはならなかった。しかし素人は原発に対しては一言も真実を教えられない、近くの住民にしても教えても無駄だよ、お前ら素人にはわかるはずがないと一方的に秘密裏にすすめられる。医者でも手術するときは合併症がどうのこうのとその危険性を患者に教えている。でもこうこうだから私たちは責任をもちませんとしつこく言っていた。あとから責任を問われるのが怖くてそうなっていた。実際に一言質問したら頭から怒鳴りつけられた。まさに原発を推進した人達も医者とにているのだ。ただ医者は危険性を指摘して手術した。原発は何ら説明すらしない、わからないからしないというが今になるとなぜ事故が起きたのかわかることがある。津浪を想定していないのが致命的なミスだったことも説明されればわかった。だから素人は何もわからないとして最初から相手にしないのは問題だった。生死にかかわることとなると素人でも真剣に聞くし調べもする。素人だからそこには限度があるにしろやはりまず専門家がわかりやすく説明すれば原発のこともわかることがある。それは今回の事故で証明されたのである。

 
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2011年08月17日

専門家は現代の聖職者(原子力専門家の大罪)

 
専門家は現代の聖職者(原子力専門家の大罪)

1455年、フストとグーテンベルクは二巻本のラテン語聖書(Biblia Sacra)を完成させた。15世紀の記録にはその値段は「二冊で100グルデン」であるという。(「グーテンベルク聖書の行方」、p83)当時の物価で平均的な労働者の二年分の賃金にあたるほど高価なものだったが、それでも写本に比べれば安価であり、写本が一冊をつくるのに一年近くかかることを考えれば大量生産につながる画期的な事業といえた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3
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秘密主義というとき、これは今にはじまったことではない、これは古代から中世とずっとつづいてきたことであった。聖書という重要な書物をそのもの自体を読むこともできない人が大多数であった。それは読み書きできない人が大多数であったからだ。だから読み書きできる聖職者だけが聖書を読むことができて他の人は直接はできない、そして修道院での仕事は聖書を書写すること写本だった。それは精緻な芸術となった。これは仏教の教典を書写するのが仕事だった僧侶とにている。そもそもなぜ聖職者が力をもったかというと庶民が読み書きできないということにあった。すると文字は神聖なものにさえなった。ヒエログリフのように文字が神聖化した。文字の神聖化、呪術化は日蓮宗とか真宗にもある。題目をひたすら唱える、それは文字に何か特別な力が宿っているという信仰である。それも偶像になるのだがそれはやはり文字というのが誰でも読み書きできない特別なものとなった結果である。聖職者が力を得たのは庶民の無能力になったのだ。そしてカトリックは政治的にも社会を支配することができた。それに異を唱えたのがルタ-だった。ドイツ語に訳してわかりやすく庶民に聖書を読ませたし自ら聖書を解読した。その時ちょうどグ-テンベルグの印刷革命が起こり中世の手書きで書写することから脱皮した。その時何より聖書が秘密でなくなった。すべての人が読めるようになったことが宗教革命だったのである。つまり宗教の専門家だった聖職者の支配から脱することができたのである。
現代は別な聖職者、専門家が支配する時代になった。それが今回の原発事故の原因にもなっていた。原子力のことなど専門家でないものは全く立ち入ることはできない。


近代化された専門家サ-ビスの使用言語は問題点、解決策とも神秘の霧につつまれていて市民による評価が不可能となるように仕向けられている。そのそのサ-ビスに何からかの価値がああるかどうかあ決められる唯一の有資格者は同じ専門家仲間である。(専門家時代の幻想-イリイチ)


聖書より秘密主義になりやすい、その秘密にふれえるものは専門家しかない、つまり文字の読み書きもできない多数の庶民と原子力という文字を解読しえる科学の原子力の専門家しか原子力発電所の内部には立ち入ることはできない、結局あなたたちには何の能力もないから聖書を読み書ける聖職者の指導に従えばいいのだとなる。それがいかに危険なものでも危険は隠されるしその危険について専門家しか言うことはできない、その外のものは一言も発言はできない、だから専門家同士が結託していたからもはや誰も危険についてチェックできなくなっていた。


今の時代は専門家によって牛耳られた社会である。報道するのも報道する権利があるのはマスコミだけであり庶民にはない、新聞でも雑誌でもテレビでも出版でもそうだった。報道するのは報道する専門家がするものであり庶民は報道するものに従えばいい、すると報道する専門家が権利を独占して過大な収入を得ることになる。だからこそ東電でも政府でも報道する権利を持っているマスコミを重んじる。ここさえ抑えれば危険なものでも危険でなくさせることができる。それを象徴していたのが名だたるマスコミの新聞社やその他テレビ局などの記者たちが会長の勝俣氏によって中国に歓待されているとき事故が起きたのである。マスコミには何百億という金が宣伝費として支払われているしほとんどのマスコミには金が回っている。三兆円も利益をあげるのだから何百億ははした金だった驚きがあった。何兆円もの賠償に応じるというのも驚きである。そんなにもうかるのか、それなら電気料金を安くしたらいいじゃなかったかとなる。

実際は日本の電気料金は高すぎるのである。庶民には利益の金を還元しないのである。独占企業になっている。これは宗教団体などでもそうである,マスコミをおさえるためには湯水のように金を使う、創価などがそうである。他でも宣伝費には金を使う、それは報道する権利をマスコミという専門家だけがもっていると社会で認定していたからである。これは出版でも同じである。出版するのには出版社を経由しなければできない、書店にも並ばないとなっていた。書店も自費出版などの本は置かない、書店も出版社の支店にすぎない、自主的に判断する力はない、でもインタ-ネットになったとき別に誰でも報道することができるし出版も別にできる。庶民も自由に発言できる、今まではマスコミを通じてしか発言できなかった。マスコミが取捨選択するのである。そこですでにマスコミが全権を握っている、力が証明される。マスコミを通さなくても一言も発言もできないとなっていたからである。


原発推進は、大熊由紀子記者(朝日科学部員)だけでなく、上司・木村繁科学部部長をはじめ、朝日新聞社をあげての方針だったに違いない。そうでなければ、朝日新聞紙上で48回もの連載をし、その後、朝日新聞社から単行本の出版という大キャンペーンが行われるはずもない。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110618/1308375425


原発事故もこうした専門家された社会の中で起きてきた。つまり原子力には専門家しか立ち入ることはできない、秘密主義でありその近くの人もいくら危険でも立入ることはできない、その代わり金が湯水のようにばらまかれてそれで満足させられた。そして今どうなっているのか?無能力な集団は自分の住む所からも追いやられている。それは結局専門家によって無能力化されていた群れである。自分たちで原発の危険性に立ち向かわなかった無能力集団がその罰を受けている。自分もその一人である。金さえもらえばいいとなり是認したのだから原発を誘致した人達にも責任があると言われる。これもいかに現代が専門家によって庶民が無力化されていたためである。命にかかわることだからよくよく説明されればわからないことない、でも専門家は鼻から専門家以外の人を相手にしない、専門家は専門家の話しか聞かない、法律家は法律家の話ししかきかない、一切庶民は立ち入ることができない、彼らの文字はヒエログリフ(神聖文字)なのである。それを解読するのは特権のある専門家だけなのである。


でも専門家が万能だったかというとそうではなかった。ずさんな管理をしていたし素人からみても原発の安全性はいいかげんなものであった。そういうことが津浪で暴露されたのである。
放射能に関しても専門家で意見が分かれていてどっちの専門家を信用していいかもわからない、つまり専門家でも統一した見解がない、そしたら素人はますます混乱する。混乱してただただ恐怖におびえているだけである。専門家もわからないことを素人におしつけられているのだ。これほど馬鹿げたことあるのか?専門家ならそのことに精通しているから信用している。それが放射能に関してはどのくらいの量で被害がでるかわからないとなっている。それで専門家なのか?そんな専門家でもわからないものに専門家ずらするなともなる。そういう危険なものを押しつけるなとなる。専門家は万能ではない、しかし万能のような幻想を抱くの現代社会である。
専門家にもそうした限界があることを提示するべきであり秘密主義にしていたことが今回の惨事の原因の一つだった。

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2011年08月18日

大きいひまわり


大きいひまわり


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三色の夕べ芙蓉のゆうたりと
ミンミンのひまわりにひびく一心に


ひまわりの向かいに大きく塀を越ゆ


不純なきひまわり大きく向かい咲く


ひまわりの生命力の強さかな


復興のシンボルにあれひまわりは



芙蓉は津浪を受けても咲いていた。前からここに咲いていた。向こうの小学校まで津浪が来た。芙蓉は花が大きいからゆったりとした感じになる。個性豊かにゆったりと花が咲くような時がもどってねしいとなる。今の状態は異常である。仮設住宅に閉じ込められていては余裕は生まれない、もともと広い庭とか前が田んぼとかに住んでいた人が多い。団地のような所に住んでいた人達ではないからだ。

このひまわりにはひっくりした。塀を越えてにょきにょき伸びた。写真だとそれほど大きく感じないが実際はその大きい向日葵がこっちを向いて咲いている。向日葵の生命力をじかに感じた。ひまわりってすごいなと感じた。なぜそう感じたかというとすぐ目前に大きく圧倒するように咲いていた。遠くからだと感じない、花でもどこに咲くかで感じ方が違っている。ひまわりはやはりアメリカ産だとするとアメリカのような広大な平野にふさわしい花である。これだけ生命力を感じる花はない、自然は不純なものがない、人間社会は闇である。今度の原発事故でもいかに闇が深いか津浪で明かにされた。自然に感動するのは人間のように不純なものがないことなのである。そこにミンミンが盛んに鳴いている。


ひまわりは田んぼにも植えられている。セシウムを吸収するからと田畑にひまわりが植えられるからどこもひまわり畑になってしまうかもし
れない、放射能に汚染されても花は花であり花が咲かないということはない、森だって元のまま森なのである。じも森に入ったらセシウムを吸収する。目に見えないがそうなる。だけどもったいない、森自体は何も変化ないように見えるからだ。
ひまわりは復興のシンボルになる。でもセシウムを吸収したひまわりをどこに処分するのだとかまたなる。ただひまわりはひまわりである。放射能と関係なく同じひまわりであり何ら変わっていないのである。


今になって暑くなった。夜も熱帯夜である、去年よりは今年は楽だが今になり暑い、ク-ラ-が二つあるが新しいき下にあり二階の古いのは使っていない、こう暑くなると知的活動ができなくなる。頭がぼ-としてくる。だから真夜中に書いている。

ひまわりの詩


ひまわりの詩

突然向かいの庭から塀をこえて
大きなひまわりが伸びて咲いた
らんらんとこちらを向いて咲いている
その曇りなき不純なき大輪の花
その生命力の強さをじかに感じる
ミンミンはひまわりに向かって一心になく
蝉の声をひまわりは受けとめて大らかに咲いている
ああ この大きなひまわりの燃え上がるような力よ
ひまわりはアメリカ産だから
もっと大きな広い大地と空に咲くのににつかわし
その花は世の汚れを一新するような大きな花だ!
あなたもこのような大輪の花たれ
すべての穢れを払うようなこの花の力強さ
太陽の光を存分に吸収して
灼熱の大地に立ちて咲き開く
あなたの未来はひまわりのようであれ
ただ未来に向かって咲き
太陽に向かってひたすら咲く
らんらんとひまわりは今咲いている命のかぎり
天真爛漫の大輪の花よ
そをとがめるは誰や
大輪の花を萎縮さすなかれ
あなたはこのように力強く咲き命尽きる
あなたの命は全うされた
さらなる大いなる未来が来るだろう
自然は神は汝よりはるかに大きいもの
あなたはその神の力をまだ知らない
百才を生きてもその齢は短い
青春の日はさらに余りに短い
またたくまに消失する
神を自然のすべてを知ることはできない
限りなき命の輝きよ
再生の日は激しい夏のようにやってくる
青春は蘇り新しい日は織りなされる
それが人間の歴史である。

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2011年08月19日

死者と生者を結ぶ短歌-十首(お盆終わる)


 死者と生者を結ぶ短歌-十首(お盆終わる)


我が姉は死して安らぐ騒がずに我に向かいて微笑みてあれ

彼岸にて病は癒えぬやさしくも生けるものにそ微笑みてあれ


我が姉の脳の病に犯されて死すこそあわれ安らぎに入る


今はしも騒がずにあれ悲しさや姉は死してそ時はたちにき


人死すも死者と語れる彼岸より死者も生者を見てありしなむ


人は死して終わりにあらじ今生きる人とともにし生きるをしるべし


生きるとき愛せしものは死ののちも変わらず愛し偲びけるかも


いづこにそ死者はありなむ変わらずに愛せしものの心にありなむ


この生の何に未練や愛なくば虚しかりけりなべては消えぬ


生けるとき苦しみ深き彼岸には仏となりけ微笑む顔かな


生けるもの弔いつづくその命消えるにあらじ結ばれてあれ


その愛は一時のものにしあらじ生きる限りにつづくものかも


一時の消えにし愛ははかなかり誠の愛は永久にしあらむ


我が命終わりとならむいまはのきわ見るべきものは穢れなきもの


のうぜんの命のかぎり花びらのもえたぎりつつ散りて重なる


万人の死者を弔う盆にあれ死者の無念を深く思うべし


みちのくの津々浦々に万人の死者の霊浮かびけるかも



死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある


わたしは、死を地続きとする日本人的な感覚を、愛する。
お盆のたびに還ってくる死者のイメージを愛する。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/mourning.html


 確かに死ですべてが終わったわけではない、人間の物語は延々とつづく、家族の物語もつづく、死んだことにより死んだ人を冷静に見直すということや死者についていろいろ回想して考えること自体、死者は自分の中で生前とは違う新たなものとして息づく、生き始めているということもあったのである。ここでは墓訪ねただけでその人のことが確かに生きていたということを実感したという。人間最後に残るのは墓だけである。墓に記された文字だけが生前の証になってしまった。墓がなかったらさらにその人間の実在さえ消失してしまうかもしれない、墓があってこの人は確かに生きていたのだという実感をもつ、そこに墓が死者と生者を結びつける場となっているのだ。


今年は津浪で多くの人が死んだ。その死は個々の死とは違っていた。戦争のように大勢の死はまた違った意味ももつ、だから家族だけではないみんなで日本人全部で供養するということが自然である。戦没者慰霊祭と同じようにこれだけの一時の死の意味はみんなで日本人全部共有するものとなる。ただ自分には戦没者を慰霊するという気持ちがなかった。戦争の是非はともかく日本人は慰霊して供養するのが人の道になる。死者に関してはそれぞれの文化がありやはり日本人は日本人の死の文化があり尊重すべきである。これは理屈ではない、日本人的心性として自然に備わっているものなのだ。そういうものが文化であり理屈では割り切れないのである。ただ自分は戒名とかは否定する。そんなもので死者は供養できない、死者と生者も愛があって語りつづけることができる。戒名をつけても死者は成仏などしない、罰辺りにもならない、僧侶の戒名商売はあくどい、死者を商売とするから納得できない、それぞれの宗教をぬきにして人が愛があってはじめて死者とも語りつづけられる。愛がなければそもそも死者はあなたの中にないのである。


自分の姉は認知症で悲惨に死んだけどやはりいかなる死であれ愛するものは愛するものであり人は病になるものでありそれを否定はできない、病に死んだということはこの世に人間として生きるならみんなそうなって死ぬ、病を最後は克服できない、死すべきものとして人間はある。
だからいかなる病でも死後は哀惜するものとしてある。認知症で死んでも死後はかえってまた前のように普通の人間としての姿に還ったことをイメ-ジする。いかなる病を癒されて彼岸で微笑んでいる姿を見る。それが仏様となったことなのである。


日本人的なものを否定するとき別な価値観をもつことがいかにむずかしいか、民主主義などでもただ欲望の民主主義となっただけである。自由に欲望を追求するだけになった。それはアメリカに習ったことでありそれが日本人としてのモラルを喪失させた。モラルというときやはりその民族特有のモラルがありそこを基盤にしてまたキリスト教でも他の宗教でもありうる。人間はその国の歴史や文化と切り離されず存在している。死者に関する文化もそうである。お盆になると死者にあうというのは日本的文化であり仏教とは関係ない、お盆になると理屈ではなくそういうものを感じる。大和魂も死んでいなかったと原発事故で書いたがそうした歴史的伝統的なものが日本人から簡単に消えないことを見た。日本人は日本のために命を捨てるということがある。これは中国とかアメリカのような巨大な国にはないことである。もちろんそれぞれの国にも国のために命を捨てることはありえる、でも日本が国のために命を捨てるというときはやはりまた違っている。それが大和魂だったのである。なぜ日本では左翼系統が人気が出ないのかというと根本的なところで日本人を否定するからである。キリスト教でも別に内村鑑三でも極めて日本人的日本人だった。そういうこともありえるし宗教だけでは決められない根強い日本の文化が日本人たらしめるのである。


 

時代によって変わる大和魂 (戦争のときとは違った原発事故の大和魂)


時代によって変わる大和魂
(戦争のときとは違った原発事故の大和魂)

 


敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花(本居宣長)

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂(吉田松陰)

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける(明治天皇)


大和魂は明治維新の時、吉田松陰の大和魂が今日に受け継がれた。本居宣長は唐心と大和心を対比させた。大和心となると国粋的なものは感じられない。文化的なものとして日本の本源に帰り日本人の原点に立ち返った。大和魂というと外国の侵略に対して戦う国粋的な強い意味を帯びていた。それは幕末からの黒船などから日本が危機に陥ったからである。その時強く国粋的なものとして大和魂が生まれた。明治天皇も明治時代には大和心と言っている。
大和魂とは言っていない。大和心というとき何か強い調子にはならない。源氏物語から本居宣長が大和心を解きあかしたことでもわかる。大和心には日本の国のために死ぬのだという強いものはない、唐心に対して大和心を対比させたのであり太平洋戦争のような国のために犠牲になる大和魂ではない、平和な時代に唐心と大和心を対比させたのである。


言葉でも時代によって意味が変わってくる。同じ大和魂でも原発事故での大和魂というときそれは戦争のときとはまた違っていた。他国に侵入して人を殺すとかではない、事故を防ぎ日本の人々を救う、特に原発のすぐ近くの人の人命を守るという行為であり戦争とは違っている。
権力者の犠牲になる強いられたものとも違う。原発事故も日本の危機だったことは同じである。でもそれは戦争とは違う、確かに権力者の罪は大きいしそれは戦争の時とにていた。でも他国との戦争のときの大和魂とは違っていた。何であれ原発事故は近くの人にとっては最初は本当に怖いものだった。放射能のこともわからないということもありあのまま原子炉が爆発したりしたら日本が破滅だとか騒がれていたのである。回りの人が半分もいなくなり逃げることもできない自分はどうなるんだろうかと実際問題として恐怖した。原子炉が爆発したらそれも4つも爆発したらどうなったのか?それは実際に空恐ろしいことになっていた。そういう恐怖感を一番感じていたのは近くの人達だったのである。そういうとき誰かがなんとか収めてくれ、助けてくれと祈るように見ているとき大和魂などで犠牲になるのは馬鹿らしいとか言ったら放置されてしまい日本滅亡の大惨事になったかもしれない、そういう危機のとき誰かが大和魂でも犠牲にならなければ日本が滅びる。それを汚れた権力者の犠牲になることは戦争のときのように馬鹿らしいとしたら日本は滅亡してしまかことになりかねなかったのである。


しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける(明治天皇)


それはやまにやまれぬものとして大和魂が生まれたのであり戦争中のような強いられた犠牲とは違っている。つまり大げさに言えば日本民族が存続できるのか、滅亡してしまうのではないかとかまでなっていた。そんなとき日本の歴史を維持するために大和魂でも犠牲心がなかったら愛国心が生まれなかったら日本という国と歴史は滅亡する。原発事故で故郷に住めなくなった人達はすでに愛郷心をうむ土地を奪われてしまった。そしたらどこに愛郷心を求めるのだろうかとまでなってしまった。ユダヤ人のように彷徨う民となってしまうのか?その地域の歴史も失われる。地域でも歴史が消失することは存在意義を失うことにもなりかねない。先祖代々住んだ地域から離れたとき歴史はまた一からはじめねばならなくなる。これは大変なことなのである。


津浪で被害を受けた東北地方でも全国から支援された。そういうとき日本人としての一体感を感じた。それも大和魂としての一つの国としての一体感がある故である。もちろん現代ではそうした国をこえたものとして人道的なものとして助け合いがある時代である。国だけにこだわるのは褊狭だとなる。しかし自国を救うのは自国民であり他国の人は救わない,ぎりぎりではそうなる。アメリカだってぎりぎりになれば日本を助けない、最後に助けるのは日本人しかいなくなる。そういう恐怖も尖閣諸島問題で中国に侵略されるとき感じた。アメリカは傍観して日本は独自に対処しなければならなくなった。その時戦争と同じようなことが見えてきた。日本は誰も助けない、アメリカも助けないとしたら中国やロシアが日本を虎視眈々として領土を奪おうとしている。そういう危機にさらされる。日本人を助けるのは日本人しかいなくなる。そのために日本人は中国からロシアからアメリカまで敵にしたのである。尖閣諸島問題でそういうことが日本がどうしてあんな歯止めがない戦争になったか理解した。日本が独自の道を歩もうとするときそうなってしまうのである。その結果としての多大な犠牲が太平洋戦争だったのである。


藪野氏のコメントの指摘があったが戦争の犠牲となった大和魂を否定するのとまた今回の原発事故での大和魂は違っている。同じ言葉でも意味と価値が違ってくるのだ。ただ一貫した日本の歴史のなかで生まれてきた言葉であり歴史と民族を維持するものとして大和魂がありつづける。


絶えず新たにされる健全な力はある大きな目的のためにする非利己的な活動から生まれる。
このうよな場合にのみ世の人々から正当な援助をうけうるのである。(ヒルティ)

大和魂とは個人的利益の追求ではなく非利己的なものであるから支持される。現代は国のためとかそうした非利己的なもの追求することがなくなった。ただ今回のような危機になったとき
犠牲心が要求された、それが大和魂でありそれは戦争のときとはまた違った意味合いももっていたのである。

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2011年08月20日

ひまわり(写真は万人の芸術に-写生俳句には必須)


ひまわり(写真は万人の芸術に-写生俳句には必須)

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ひまわりに囲まれ小菊群れ咲きぬ


白百合や苔むす岩のしっとりと


デジカメと俳句が一体化する。デジカメでとったものからさらにイメ-ジ化される。写真が見えないもの見せる。このひまわりも加工して付け加えた。でももっとうまくやれば本当の風景のように見る人がいるかもしれない,今はそういう合成した写真を本物と見ている人がかなりいる。
それほど写真の技術が発達したのである。素人でもできるくらいだからプロになればさらに容易にできる。


他人の庭をとったものだけと前の老木の感じを出しているものを写真でみてもう一度とった。肉眼ではこの木を見ていなかったしもう一つの木も見ていなかった。他人の庭だからゆっくりは見ていられない、しかしこの庭は意外とよくできているなと思った。木の配置もいいし磐もいい、そこに白百合が咲いていた。これは俳句だけではわからない、文字だけではわからない、写真がなければ鑑賞できない、俳句より写真の方が芸術化している。俳句は単にそえただけにすぎない、でもいい写真が山ほどあっても他人の写真をみて俳句を作れないのはなぜか?
やはり実際に見ることと写真は違っている。大きな山などはとても写真では実感できない、庭などは狭い空間だから写真でも実感しやすいことはある。


前は茶室だなどと狭い細い庭を作ってもらった。その茶室は介護の部屋になってしまった。茶室などと言うのは贅沢であったことは確かである。ただ風流を楽しまない人はやはり殺伐としているのだ。人間として根本的に何か欠けている。やはり人間金勘定ばかりしているのはおかしいのである。そういう人が多いのは残念である。

科学者はなぜ騙されるのか (原発の安全神話は科学者の妄想だった)


科学者はなぜ騙されるのか
(原発の安全神話は科学者の妄想だった)



http://blog.ousaan.com/index.cgi/links/20070326.html
(科学の世界は不正と盲信に満ちている)


プトレマイオスやガリレオは観測結果をでっち上げ、ニュートンやメンデルは実験結果を改竄し、ミリカンは測定データを取捨選択することでノーベル賞を受賞した。野口英世のおよそ 200編の論文は、今では科学的業績と認められていない


新千円札に想う
http://www.med.kyushu-u.ac.jp/clipharm/about/pdf/essay04.pdf

 

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現代の社会は専門家を介することによって信用を得る社会である。
専門家の役割がそれだけ大きいのだからその責任も大きいのである。


科学者が今や神のようになっているし科学は明かに現代の宗教である。カルト宗教団体でもそこに医者や科学者が信仰をすすめるとき信用する。幸福の科学などという団体が生まれのもそのためである。科学の力はそれほど大きくなった。宗教が一時あれほど盛んになったのは別に心から宗教に帰依したということではない、拝めば病気が直るとか思ったからである。その頃の医学は病気は直らないものとっないたから医者にとっては気が楽である。例え直せなくても誰も医者をとがめる人などいない、医は仁術だということは宗教と同じである。直すことではない、患者を慰めるのが仕事だった。科学が全部悪いとかではない、科学をあまりにも宗教のように信用する。そういうことが原発事故にもあったのだ。

科学がこの世のことをすべて解きあかしたわけでもない。もちろん科学の力は大きいから魅了される。自分のことでも大失敗は早めに医者に行っていれば良かった。薬くらいですんでいたかもしれない、そして人間は病院に入ると一種の機械のようにされる。尿でも管を入れてとれるし人工心臓まであるのだか人間は一部は機械の代わりになる。将来は人間はもっと機械化される。人工臓器になるものがでてくる。するとそれでさらに長生きできる。頭脳でもコンピュ-タ-などが頭脳に埋め込まれたりするサイボ-グ人間ができる。すでにコンピュ-タ-はそういう働きをしているのだ。人間の脳の補足をしている。デジカメなどは明かに人間に見えないものを日常的に見えるようにする機械だった。人間の眼では見えないものが見えるのだ。科学の効用はそれだけ現代では余りに大きくなったから科学を信用する、宗教までになることもわかる。


でも科学とは科学者が言うように科学者自体がわからないことが多いのである。その研究成果でも捏造が多いということでもわかる。あたかもわかったように研究成果を出しているが実際は捏造が多いということはわかっていないことが多いからそうなる。原子力や放射能のことなど科学者が全部わかっていてやったわけではない、放射能の被害についても学者によって一ミリシ-ベルトで被害が出るという人と20ミリシ-ベルトまで大丈夫だという学者もいる。ただ科学者も政治家の言うままに科学的根拠がなくても政治的意図でそういう場合が多い。


政治家が、自分の政策に科学の衣をまとわせたいと思ったとき、科学界に直接圧力をかける必要はない。少し世論を引っぱってやれば、まっさきに科学者がなびく。そして、科学者は、政治家が意図する通りの「科学的」結果を提供する。


科学者は、政治家が意図する通りの「科学的」結果を提供する。科学者は世論や政治家の意図にかなう都合のいい研究成果を出すことができる。そしてその科学者の専門家の研究成果をさらに科学信仰の時代には信頼されるのである。政治家は信用できなくても科学者は信用される。政治家の意図によって放射能も20ミリシ-ベルトまで安全だとされたのは別に科学的根拠があるわけではない、あくまでも郡山市とか福島市まで補償できないという政治的意図でそうなったすにすぎないのである。科学的根拠は何もないのである。放射能の被害については誰もわほからない、科学者さえもわからない、チェルノブエリを参考にしていてもそこも秘密におおわれていて実際の所はわからない、ただ甲状腺ガンが子供に増えたということは確かである。それ以外秘密のベ-ルにおおわれている。何が真実なのか科学的根拠がそこにあるのかわからないのだ。そこに政治的意図が入ってくればますます素人は混乱してわからなくなる。


科学者のモラルがどこにあるのか?政治家の意図に従うだけならない、企業の利益優先主義に従うなら危険なもの毒を出すものでもかまわないとか科学者にモラルがない、ガリレオがそれでも地球は回っているというときそれは科学的真理は真理で変わらないということで言った。
政治家でもなんと言おうと科学的根拠、真理があれば主張していい、しかしその科学的根拠も容易に曲げられ捏造されている。原発事故で科学者にはモラルがそもそもないことが問われた。東電から金さえもらえば科学的に原発は安全だと安全神話を作り上げてきた。百万年に一度くらいの確率でしか起こらないというのにはあきれた。それならば千年前にあった貞観地震の津浪を想定しているはずだった。それも全く想定しないことが事故につながった。原発事故で科学者の信用は失墜した。科学者がわからないものをわかるとして安全神話を作ってきた。

原子力についても放射能についてもわからないことが多かった。科学者は企業の利益優先主義にも政治家の意図にも従い嘘の科学的根拠でだますことができる。それも詐欺の手口なのだが科学的詐欺になると直らない病気、ガンなどに困っている人はそれを信じたくなくても信じる。先に直りたいという願いが強いから直らない薬でも直ると思い頼る。昔だったら宗教に頼る意外なかったが今は科学に頼るのである。

安全神話もただ安全であってほしい、安全なんだという一つの妄想にすぎなかった。そういう妄想が現実化したのは官僚であれマスコミであれ検察までもとりこめる権力化したからである。

科学的根拠などなくても人間は妄想を信じる。病気をどうしても直したい人は直らないとしても薬に頼ると同じである。それが科学者が安全だと科学的専門用語で御託宣(ごせんたく)を並べていたのである。人間は太平洋戦争の時でもそうだったように巨大な妄想を信じやすい、
妄想には根拠がないけど現実とはかけ離れていても妄想を信じる傾向がある。どんなに負けていても日本は神国だから勝つという妄想を信じていたのである。オウムだってオウム王国が現実となる妄想を抱いていたしカルト宗教団体も妄想の団体である。創価なども創価王国が到来するのだ。それも世界広宣流布で世界の創価になる。中国を大事にするのはその布石のためである。それは誇大妄想にしても戦争のときと同じ様にそうした巨大な妄想は信じやすいのである。カルト宗教団体はみな妄想団体なのである。原発の安全神話も科学者の科学的根拠ではない、妄想から生まれた。安全であってほしいという妄想でありそれが科学的には確率的に百万年に一度しか起こらないとかの戯言になった。これこそ科学者がいかに一面幼児的な妄想に陥っていたかわかる。それも科学的根拠でそうなると言っていたのである。

人間は巨大な妄想や詐欺になると弱い、現代はこうした世界的妄想にだまされやすい、株のことや円高のことでもそうだかすぐに世界恐慌で破滅するとかなる。それも一種の妄想でもグロ-バル化しているからそうした妄想でも信じやすいのである。大東亜共栄圏などというのも大妄想だったがそういう巨大なものを人間は信じやすいのである。原発の安全神話は科学者の妄想であり安全などありえなかったのである。科学の世界は不正と盲信に満ちている・・・と科学者が言っているのだから間違いない、この世は現実より妄想を信じるというのも真実である。科学も妄想を信じるために使われる。こういう科学的根拠がありますよとか言われると信じるからである。
その科学的根拠自体が嘘なことが多いのである。


 

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秋の蝉(今年の秋は早い)

 

秋の蝉(今年の秋は早い)

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雨しとと遠くに聞こゆ秋の蝉

みちのくやみじみと聞く秋の蝉


秋の蝉静かに岩にひびくかな


晩年や心にしみる秋の蝉


病気でも食器洗うや朝の蝉



芸術は実際は単純なものシンプルなものだった。単純なものに真理があった。俳句などは特にそうである。短いから単純にならざるをえない、長々と書いてはいられないから俳句は単純な美というか単純な真理の追求である。ええ、こんなものが俳句なのかとさえ思う。詩は長くなるから詩書ける人の方が芸術家のように思う。でも芸術は根本的に単純なものである。真理でもそうである。そうした単純なものに深い趣き、真理が宿っているのが不思議である。仏教などはむずかしすぎる。でも新約聖書になると単純そのものなのだ。哲学になるとむずかしいものになっているが本当の哲学も最初は極めて単純なのである。それほど単純なものが真理として不朽の価値をもっていることが不思議なのである。哲学でも何かむずかしいことを追求しているから身構える、とてもついていけないとなる。そういうものが確かに現代では多い、むずかしくなければ学問ではないとなる。でも万人にわかるのが哲学であり真理であった。俳句は日本的美の単純さを追求したものであった。


今年の秋は早い、昨日辺りから急に涼しくなり秋がきた。だから今鳴いているのは秋の蝉になる。秋の蝉というときみちのくに向いている。しみじみとして秋の蝉の声を聞く、 秋の蝉の声を聞くのにふさわしい環境もある。あまり都会化した所では秋の蝉の声はひびかない、田舎の小さな町だと回りが田んぼだし秋の蝉を聞くのにふさわしい、ただこの辺は仮設住宅やら田んぼもなくなったので様変わりである。こういう環境は異常である。何かわたわたしていて落ち着かないのだ。やはりそれぞれに故郷とというとき土地をもたないと故郷にならない、浪江でも小高でも飯館村でも本来住むべき土地があった。そういうものを一時的にでも失ったとき人はどう感じるのか不思議である。ここは辛うじて住むことができるから秋の蝉の声を静かに聞いている。やはり故郷は土地と結びついているから故郷を喪失することは深刻な問題である。みんな広々とした所に住んでいたから余計そういうものを感じるだろう。原発事故の酷さは故郷を奪われることにあったのだ。そういうふうになるとは誰も想像すらつかなかったろう。事故が起きたらどうなるかなど近くの人も真面目に考えたこともないし考えられなかった。本当に原発近くの人は事故になったら故郷を喪失するということを真剣に考えねばならない、その見本が今自分の住んでいる場所なのである。


一日寝ていても食器を洗ったりしているから母はひどい認知症になっていない、姉は家事もなにもしなかった。そのことが認知症になる一因だった。家事をするようになって症状が改善したのである。女性だったら家事をしなくなったりすると認知症になりやすいことは確かである。
男性だったら仕事をしないとそうなりやすい、これは確かに認知症と関係している。別に趣味などなくても家事だけでもやっていると認知症にならないことはありうる。すべてではないにしろそういう傾向が確かにあるのだ。だからこれも統計的にも数字としても科学的根拠となる。原因はわからないにしてもそういうことは確かにあるのだ。若年性のアマツハイマ-はそれはまた別なものである。老人性はやはり頭を働かせない、体を使わないとなりやすいことは確かである。

 

2011年08月21日

科学者の責任は問われない科学万能社会 (日本人の技術は優秀だという思い上がり)


科学者の責任は問われない科学万能社会
(日本人の技術は優秀だという思い上がり)

●科学者は現代の聖職者


社会の重要度に比して、彼らは 余り 社会の表面に その姿を見せませんね。
社会の黒子に徹しています。その科学・技術の使用で、何か不都合があっても
その発見・開発の責任は 一切 問われません。まさに、これが 彼らが 現代の
聖職者であるゆえんでしょう。 発見・開発は その祈祷であるからです。
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/60721507.html


科学者が悪いんだと今回の原発事故でもさぼど言われないのは科学者は現代の聖職者だからでしょう。カトリックでも聖職者が不正を働いても告発できなかったでしょう。これほどの害を与えても科学者の責任が問われないのは現代がまさに科学優先の社会であり科学なくして成り立たない社会だからとなる。政治家とか官僚やマスコミがいろいろ責任を言われるけど科学者にはこれほどの害を与えても言われない、そういう風潮を作り出しているのはまさに現代が科学者優先の社会であり科学なくして成り立たない社会になっているからである。医者が神様のようになっているのもそうである。どうしたって命にかかわる問題になると弱い、医者がその時なんとか直してくれるとなれば神様に見えてくるのである。だから医療ミスがあっても問うことも普通はできない、ところが医療ミスが実際は非常に多いのである。そのミスも普通では考えられないようなミスが多いのだ。手術してガ-ゼが残していてそれが膀胱から一年後に出てきたとか信じられないようなミスがあるが訴えることもできない、自分も三回も管を取り替えて尿が出なくなったのは明かに病院のミスとしか思えない、でもそれを言うこともできない、ミスだといえば他に行ってくださいとか現実に苦しくなったときみてもらえなかった。今はこの辺りは医療で混乱しているから余計にそうなるのだ。これは怖いことだなと思った。生死にかかわるのにみてもらえいないとなる。この辺では救急医療でも支障をきたしたことがあった。遠くの福島市の方まで行ったとかある。医療は生死にかかわるから病院や医者は最も重要なものとなることがわかった。

科学というと一番医療の面で身近なのである。原子力についてなど身近にあっても関心をもとうとしても素人には手も足もでないものだった。だから近くでも何をしているのだろうとただ不安でもみているほかなかった。

政治家などは誰がやっても同じとかなるから現代社会で政治家がそれほど尊敬されて重要視されることはない、でも科学者は聖職者であり別である。優秀な科学者が必ず必要でありそうでなければこの社会は成り立たない、政治家のように簡単に選挙で代替(だいたい) できないものである。やはり現代文明の神官は科学者なのである。黒子に徹していても科学なしで成り立たないからこそこんなに害を与えてもさほど責任を問われない、つまりさらなる科学の発展を望まれるからそうなる。いづれは科学者も原子力を操作できる知識と技術を身につけるとか開発をすすめればそうなるとか望まれているのだ。開発と発見は現代の祈祷だというのは本当である。常に新しい開発と発見が科学の世界ではありそれによって不老長寿の不可能ではないとかの幻想を抱かせる。だから科学万能主義は宗教であり現代の信仰なのである。祈っていれば直るとか科学がない世界ではなっていたが今は祈りが科学者の開発であり新しい発見なのである。それがあれば問題は解決すると望まれているから科学者の責任はあまり問われないのである。


●科学には限界がある


でも科学にも確実に限界がある。その限界を呈示するのも科学者の責任である。何でも可能であるとか宗教のように信仰のようになるのはやはり科学の偶像崇拝なる。また科学に何でも可能だということを期待するのも科学者にとっては重荷となりその期待に答えるために嘘を言うことにもなる。原発事故も科学者の間では原子力のことはまだまだ不明な未知な分野であることはわかっていた。危険なことも承知していた。ただ企業とか政治家から原発を不完全でも作ることを強いられたという一面がある。科学者はその要望に答える他なく不完全でも原発を作った。それがどれほど危険なものかわかっていてもそうしたのである。科学者が現代文明を担っている責任はそれだけ重い、でもその責任の重さを自覚させられない、良心的な科学者だったらとても原発は危険で日本では特に地震で危険だから作るべきではないという科学者もわずかにいた。そういう人はまったく異端視されていた。

今回の原発事故では科学者の責任は本当に重いことを知った。こんな危険なものに科学者が従事しないよとなれば原発は作れなかったからである。政治家でも企業でも科学者の協力が無ければとても原発は作り得ないからだ。

そういう点で科学者の責任は重いのだけど罰せられることもない、科学者の罰は神から火を盗んだプロメテウスでありその罰は過酷なものだった。そういう責任があった。ただその責任を自覚させられない立場にもあった。現代文明を担うのが科学者だとするときその責任も重大になる。そういう自覚をしている科学者は少ないだろう。核は人類を破滅さけるほどの危険なものだ、こんなものに手を出すべきではない、もっと畏れをもつべきだったというときそういう自覚が科学者にあればこんな事故で苦しめられることもなかったのである。だから今回ほど科学者の無責任さが問われたことはない、放射能問題でもあまりにも無責任であり生死にかかわることでもいいかげんであり実際はわからないとなっている。そして福島県民は放射能のモルモットにされただけなのである。つまり結果は10年後とかたたないとわからないのである。科学者にとってはいいモルモットができたという考えさえしかない人もいる。これで放射能の研究が進むとか思っている人もいる。科学者が優先される文明ではそうなってしまうということである。おそらく放射能を無害にできる研究も進み可能にするだろう。その実験材料が福島県民だとされてしまう。科学が宗教だとすると福島県民はその尊い科学のための生贄になれとまでなっている。
科学の進歩のために実験にされた多数の動物と同じである。それだけ科学が力をもっている文明社会だからそうなっている。


●日本人が技術は優秀だという思い上がり



日本の技術を高く評価している研究機関として、PHP研究所や三菱総合研究所などがある。これらの研究機関は、どちらも大手メーカーの御用機関となっている。PHP研究所は松下電器産業と、三菱総合研究所は三菱グループと深い関係がある。特にPHP研究所の息のかかった技術評論家や技術評論関係の著作は数が多い。


日本企業の経営者で尊敬できる人は殆どいない。しかし、事実を客観的に判断しないと社会に大きな損失をもたらすことになる。

極右であろうと極左であろうと科学技術に対して客観的な判断のできる技術評論家に対して私は敬意を払う。しかし、このように技術評論とかけはなれた右寄りの思想が入り込んでくるとなると問題だ。


このように、得てして人間は自分に都合よく考えたがるものだ。時として冷静さを失い、客観的な判断力を失ってしまう。特に日本人はその傾向が強い
http://www.geocities.jp/fghi6789/shizen.html#dai1shou

 


このサイトは経験を積んだ技術者が言っているから興味深い。日本人は技術的に優秀だとか日本製品が優秀だとかそうしたことはナショナリズム的な日本礼賛であり実質がともなっていないという。技術も客観的評価が大事だと言っている。その客観的評価が技術という分野でもむずかしい。やたら日本人は技術的に優秀だとすりこまれてきた。それは戦争のとき同じだった。日本人は優秀だ、だから日本人はアメリカにも勝つ、さらに日本礼賛が極端化すると日本は神の国だとなり宗教にまでなる。そういうところが今回の原発事故の原因にもなっていた。科学的なものは世界でも客観的に評価しやすいものだがここでもナショナリズムとして礼賛されすぎた。素人の人でも日本の技術は優秀なんだと思い込んでいたのである。技術的なものは物理的現象として客観的評価しやすい、それに加えて社会的要因が事故の原因となった。社会的要因としては科学や技術が中立的であり客観的評価をしやすいがそれも成されていない、日本人は優秀なんだから事故は起きないという刷り込みが成されていた。そういう反省が技術者から成されているのでこのサイトは興味深いものだった。他にも原発事故に関してはインタ-ネットでも膨大な発言があるから全部読むのは大変である。インタ-ネットでは権威者に対して辛辣な批判があるので本で読むより興味深いものがある。PHP研究所から出される本は過剰な日本礼賛になる右よりになりすぎるという指摘もわかった。これは国でなくても人間の思い上がりと傲慢さが破滅の元になっていることは歴史でも変わりがない、思い上がりが誇大妄想になってゆく。そういう失敗をしてきたのに以前として思い上がりがあり原発事故につながったのである。  
 
 
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