2011年08月01日

万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保路をば 荒しやしてむ 見るよしをなみ 


ゆふぎりに ちどりのなきし さほぢをば あらしやしてむ みるよしをなみ

http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/6812768.html

これは死者を偲ぶ歌だったのか。これは不思議な歌である。万葉集は本当に理解しかねる不思議な歌がある。これは津浪の跡の風景にもにている。荒しやしてむ・・・・・これは荒寥とした津浪の跡でありそこに死んだ人が多数いる。家の跡も残っている。千鳥が鳴くというとき自然に還ってしまった砂浜があり死んだ人は消えた。そこで死んだ人をもう見ることができない、そんなふうにも解釈できる。万葉集の解釈にはいろいろありその人の心象風景によっても違っている。これも死者を偲ぶ歌として秀逸なものとなる。万葉集には生きている人ではない、死んでいる人を思っている、偲んでいる歌がかなりある。死んだ人を思うことこそ偲ぶことこそ最も深いものがある。ただ恋だけだとすると何か浅薄なものとしかならない、そんなことありふれたこととなるからだ。


本当に磯部などでも一軒の家もない、砂に埋もれた原始の砂州に還った。荒しやしてむ・・・・
と死んだ家族を思っても見ることはできない、そういうことが過去にも万葉集時代からどこでもあった。思う人、愛する人、・・・が消えてしまった。ただ自然に戻りそこは砂州となり海の鳥が歩くようになる。万葉集時代だと自然が今とは違って残されているから余計に荒しやしてむ・・・という光景がいたるところにあった。荒野が広がりやすいのである。津浪の跡はこの辺では荒野に、原野になってしまった。でも現代でこんな原野になることなど滅多にない、いづれにしろ万葉集は何を思って歌にしたのか不可解なのが実は多いし謎が多い、その謎は何か今になると解明できない、でも現代に通じるものがある。これも津浪の跡の荒廃した自然と通じている。

ともかくこれほどの人間が死んだことは経験していないし一人の死者を弔うのではない、万人の死者を弔うことは戦死者を弔うのとにている。戦没者慰霊祭みたくなってしまう。今年のお盆はそうなっししまう。


万人の死者を弔う盆にあれ死者の無念を深く思うべし


みちのくの津々浦々に万人の死者の霊浮かびけるかも


まだまだ死者の霊が津浪の被害の跡にはただよっている。突然のことだから死者も浮かばれないということもある。やはり非業の死とか突然の死は無念でありその怨念ではないにしろ無念が残る。国民の鎮魂が必要となっているのが今回の津波の被害だった。

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きりのはな(桐の花)-詩




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きりのはな


みそらにたかく

あるとしもなく

つつしみふかく

ちりもつかずに

みなもにひそか

かげうつし

ちりにけるかな

たれかしる

みそらにつきや

かげうすく

ひるしずか

しんとして

そこはかとなく

かみのみむねに

そのはなの

さきてきえにき



posted by 老鶯 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2011年08月02日

ひぐらし(日立木村のまちばはし)


ひぐらし(日立木村のまちばはし)

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青蔦の絡む祠やまちばはし


ひぐらしや街道細くまちばはし


ひぐらしや五反田多し日本かな


月見草草むら深く咲きにつつ小雨のふりてまちばばしかな

日立木村のことについて書いたけどここは立谷村であった。この川は立谷川であり他に日下石(にっけし)川がある。日立木村はと日下石と立谷村と赤木村が合併してできた村である。ここは立谷村である。日下川と立谷川をはさんで町がある。赤木は離れている。この辺に村が三つあったことでも江戸時代は小さな村単位であった。小さな村単位で協力していた。米作りは田んぼも水の管理が大事でありそこから共同性が生まれた。祖谷では田んぼを作らないから一軒一軒あんな山に離れて孤立して家が作られたというのも気づかなかった。田んぼを作ることは共同作業なのである。米作りには水の管理が重要だからそうなる。焼き畑や蕎麦作りにはそうした水の管理はないのである。水田は水の管理と一体なのである。


町(マチ)は今の町ではない、村の中に町があり村が先である。町は一区画の意味である。町場というときやはり立谷村は当時は家が集った町場だったのだろう。町場町というのもあるから複雑になる。ここに薬師堂があり古い飢饉の供養碑がある。つまりここは江戸時代からの古いものが残っている場所だった。でもこれがまちばはしとなっているのは初めて気づいた。橋の名前には注意する必要がある。郷土史研究には小字とかの地名も知る必要がある。それが地図にはのっていないのだ。だから地図からだけではすべてはわからないのだ。地籍図が必要なのである。小さな橋は小字地名がつけられるから貴重である。

いづれにしろまちばはしというのは何か注目しないが歴史を感じる。百尺観音とかは何か歴史を感じない、ただ大きいだけで価値がそんなにないように思う。明治以降ただ大きく作ったということで関心をひいたのである。歴史的価値はない、歴史的価値あるものは必ずしもそんなに眼をひくものではない場合がある。過去はそもそも埋もれているから誰かが発見しないと生きてこないのである。この立谷の薬師堂とまちばはしと祠は何か一体となって語りかけてくるものがある。ただこの祠は古いものでないかもしれない、まず明治以降になるとそれほど価値なくなるのだ。薬師堂は前にも書いたが江戸時代でも相当古いのである。この辺が確かに昔の街道の面影を残しているのだ。
結局人間はなかなかそうした昔を感じることが気づくことができない、あの辺は松並木もあるから一番昔の面影が残っているところなのである。


今年は草が刈られないから草が伸び放題であり月見草が一杯咲いている。月見草も草とあるごとく草の一種であり草と共に繁茂する。自然はほっておくと原野化してくる。相馬市では田んぼがあるから感覚的に違っている。五反田という地名が日本に多いのはそれだけ零細な百姓が多かった。五反百姓が大勢いたのである。会津で洪水の被害にあったところでも五反田橋が流されたとかあった。水田にはひくらしが鳴くのにあっていた。それは古来からの日本の風景となっていた。ところが今年は原発で南相馬市からは水田は消えて草原化しているから風景が変わっているのだ。水田がない風景は北海道である。


   蜩(ひぐらし)は、北海道のセミではない、北海道には、

   蜩(ひぐらし)はいない、とずっと思っていた。
   鳴き声を聞いた記憶がないからだ。


北海道には蝉はいてもなにか草原地帯になると蝉がなくのもあっていない、草原と蝉はあっていない、草原と水田の感覚は相当違っているのだ。

 
 

2011年08月03日

大和元興寺五重塔跡の桜


大和元興寺五重塔跡の桜

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白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 1018
この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)るの意味
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのです


「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失して
しまいました。本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。
 
 「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
  寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。


室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/gankouji.htm

 



元興寺の礎石



元興寺その謂われは古き

飛鳥仏にもさかのぼるかな

平城宮(ならのみやこ)の大寺なりしも

華やかに五重塔のここに聳えぬ

都は奈良より京都に移りぬ

その栄えもいつしか衰えぬ

ただその塔跡の礎のみ残りぬ

今し桜の花の盛りなるも

その花びらの礎石に散るもあわれ

地元の人の集い花見かな

元興寺の広き境内は奈良町となりぬ

世はかくして移りゆくものかも

その大和の歴史の古きを偲べ

春の日はさして古の栄の日は遠し

ただ礎石のみそこに残りぬ

 


たまたまテレビで地元の人が集い花見をしているのをみた。そこは元興寺跡であり礎石が残るだけだった。この元興寺は日本最初の飛鳥仏があり飛鳥寺をひきついだとすると本当に古いものである。それで万葉集にもここの寺の僧が残した歌があった。それが旋頭歌というのだからどれだけ古いかわかる。


旋頭歌について
http://neige7.web.infoseek.co.jp/sedoka.html

一種の掛け合いの歌であり民謡から発したものである。万葉集の基はもともとそういうところにあった。奈良の寺は規模も大きかった。官寺であり鎮護国家を目的としていたからだ。東大寺の奈良の大仏もそうである。蝦夷征伐などがあり鎮護国家が急務だった。日本統一するあたってかなりの犠牲者が出たからである。その霊を鎮魂する寺だった。だから死者を弔うことなどしない、もともと仏教は死者を弔うことはなかった。お盆とかは日本の古い民間の習俗が基となり仏教にとり入れられたのである。仏教そのものにはそういうことはなかったし戒名もつけることもなかった。それは僧侶にのみつけていたのである。この元興寺もやがて庶民の信仰の場となり変質した。その前に一揆があり五重塔の消失したというのもいかに歴史の変遷をしているかわかる。


奈良や京都を旅してもなかなか歴史はわからない、奈良町に実際自分は訪ねている。でもここが元興寺の境内跡だったということは知らなかった。歴史とはそれだけちょっと旅で訪ねただけではわからないものがある。自分の住んでいる場所すら奈良のような歴史がなくてもそれなりにある。でもそのことがわかるのは容易ではない、住んでいれば歴史は自ずと身につくことはある。結局なぜ歴史がわかりにくいかというと人間の社会というのは無常だからである。人が死んだらたちまち忘れられて墓の名前くらいしか残らず不明になる。残るのは人間の無常の跡だけである。五重塔があったといっても礎石だけになる。でもそれだけでも残っているから奈良などは歴史がある。万葉集にもその寺の僧が残した歌まで残っている。そういう点で歴史を認識する点でみちのくとはずいぶん違ってくるのだ。


無常といえば前に平城宮を訪ねたときそこは枯野だった。そして月がでていた。実際に何もなかった。今は平城宮跡に立派な門を再現している。でもそうしたことが昔を偲ぶことなのかというと疑問なのである。歴史はやはり人間の無常を示す場なのである。芭蕉が平泉を訪ね「奥の細道」を書けたのもまさに観光地化していない無常を感じたからである。今のように観光地化博物館化したりしたら無常を感じない、するとかえって昔を偲べないという皮肉が生まれる。そういうことか現代では多すぎる。旅人は今は浅薄な体験でしかない、深い体験になりにくいのだ。テレビを見て旅をすることはできない、でも結局その背景の長い歴史を知ると見る眼が違ってくる。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。たいがい実際にその場を踏んでいるので必ずしもパ-チャルにはならない、自分の体験からものが書けるのである。


テレビ番組の問題は大衆向けに視聴率が絶えず念頭にあるからむずかしいことはやらない、NHKの大河番組でも通俗的歴史解釈であり歴史の真実はわからなくなる。現代の問題はすべてが大衆向けに作り大衆化するからかえって事の真相がわからなくなる。だからテレビとインタ-ネットの統合が必要になってくる。自分がしていることはまさにテレビとインタ-ネットと自分の体験を一体化して編集したものなのである。

大和元興寺五重塔(極楽坊五重小塔)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_gangoji.htm


ここは古い図がでていて詳しい、五重塔は江戸時代まであった。それなりに詣でる人がいた。

引用したテレビの写真は著作権にふれるかもしれない、誰でもとっている構図にしても桜咲いているときだから貴重になる。ぼかしているからわからないか?今は映像の時代だからどうしても映像化することが要求される。ただ映像だけではわからない、歴史の長い深い背景がある。
それを知らないと何か深い感慨にはいたらない、それがわかるのは芭蕉の平泉の金色堂の俳句なのである。


メデアの変化

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テレビにはテレビの役割はまだある。でもテレビが独占した時代は終わった。インタ-ネットを通じて多角的になった。テレビは大衆的通俗的すぎることである。これも何百万の人にみてもらうためにそうなる。どうしても低俗化する。一方インタ-ネットは素人的専門性がある。でも本の専門性に比べると相当に低い。専門的な本を読むことはそんなにできない、本はプロが書いているから金にもなる。だから簡単な名所の案内などに役に立つ、だから創造的なもの著作権があるものとは限らないものが多い。

ただ大衆的なものよりは素人的専門性がインタ-ネットで備わりそれからより知りたい人は本を読むことになる。一般的に本を読むまでになるとあまりしない、テレビだけの時代は終わった。

ここで新聞は入らないが新聞はテレビより必要なくなった。テレビはやはり映像ということで情報発信で強さをまだ持っている。本はプロ的なことでまだ強さをもっている。新聞は映像もだめだし専門的発信もないから新聞は衰退し必要なくなる。インタ-ネットは速報性があるのだからそこで生き延びることもありうるがその内容によるだろう。情報環境は今やインタ-ネットなしではありえないのである。インタ-ネットに組み入れられることを拒否してももはや無理だし無視できない、そういう必需品になっているのだ。インタ-ネットでもやはり専門性があればどこでも生き残る。専門的なものを追求するのは別にメデアとは関係ない、それは相当な積み重ねや努力が必要でありインタ-ネットの素人集団だけでは書けないのである。

天変地異の貞観時代の再来 (民心の乱れが怨念が自然に影響した)


天変地異の貞観時代の再来
(民心の乱れが怨念が自然に影響した)


祇園祭の起源は平安時代初期にさかのぼります。当時、京の都では疫病が流行していました。人々はその原因が恨みを現世に残して死んでいった人々の怨霊の祟りであると考えました。そこで神仏に祈りをささげて祟りを鎮める事を目的に、市中を練り歩く「御霊会〔ごりょうえ〕」を行いました。
この時代は天変地異の時代だったんですねえ。貞観3年に隕石が落下し、16年間の間に、火山噴火だけでも4つの山が噴火し、地震もあっちこっちであり、11年に貞観地震で津波が発生しています。。


869年 貞観地震 大被害、大津波
878年 関東地震 関東地方大被害
880年 出雲地震 島根県大被害
881年 平安京地震  京都大被害
887年 西日本地震 津波発生 南海東南海連動地震の可能性大


地層堆積物から、西暦1500年ごろ、貞観津波、西暦430年ごろ、そして紀元前390年ごろに今回のと似た広範囲を襲った津波があったとしている。津波の再来期間は450〜800年程度。そして、直近の津波が1500年ごろにあったのだとしたら

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。


そして11年には貞観地震と貞観津波が陸奥国を襲いました。自然災害ではありませんが、この年には新羅の海賊が博多に侵入しました。貞観の韓冦と呼ばれます。

13年には鳥海山が、16年には開聞岳が噴火しています。
京都の夏をいろどる八坂神社の祇園祭は、まさにこの混乱の時代に成立しています。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。


どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都を繰り返したのかについて、それ が「怨霊」のせいだと知っている。実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元彦が「逆説の日本史」の中で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようやく認識されようとしている。



みちのくと奈良や京都の関係はあまりないと考えるがみちのくは奈良の平城宮時代から深い関係があった。清水寺の起源も蝦夷の鎮魂に由来しているとなるといかに古いかわかる。
そういう歴史的背景を知って訪ねるのと知らないで訪ねるのでは感想が違ってくる。奈良時代から平城宮時代から実は蝦夷とは深い関係があった。 陸奥(みちのく)真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを(笠女郎)もそうである。祇園祭りの起源がこれほど古いものであった。貞観時代から発していたとかそれも疫病を鎮めるためだとかそれは天変地異の貞観時代は日本中不安に襲われていた。だから天皇の政権争いの怨霊だけではない、蝦夷の怨霊も深くかかわっていた。だからこそ奈良の大仏はその蝦夷の怨霊を鎮めるための国家鎮護の大仏だった。奈良時代は日本国家統一の時代であり国家が深くかかわる、国家を強く意識する時代だった。それが遣唐使を遣わしたことでもわかる。対外的にも唐ではあるが意識した時代である。奈良時代に日本国家の礎ができたのであり極めて国家を意識した時代である。その後の平安時代となると万葉集のように国を意識したものはなくなり平安貴族の宮廷の物語になってしまった。

だから歴史をふりかえると貞観時代はちょうど明治時代にもにている。対外的に唐を中国文化を国家的にとり入れた時代である。明治維新も国家的にヨ-ロッパの文化をとり入れた時代である。そして今なぜ貞観時代と同じような傾向になったのか?それは多賀城下まで津浪がおしよせ大混乱になったことが記されている。多賀城には京都などから来た官僚がいてその津浪に恐れおののいた。蝦夷の軍事征服は決着したとしてもまだ蝦夷の怨念はみちのくに強く残っていた。そういう時代に大津波が襲い多賀城下までおしよせ都の人はおそれおののいたのである。怨念が自然に影響して動かすことがありうるのか、そんなことは科学的ではないとなり受け入れられないが民心が乱れるときそういう天変地異も起きてくる。だから貞観時代と現代は通じるものがあるかもしれない、民心は今や乱れ飽和点に達していたのだ。それを明かにしたのが津浪で破壊された原発事故だった。いかに政治家から官僚からマスコミから科学者がただ利得のみを求め原発を推進したか、これには国民全部がかかわる問題だった。原発を推進した指導者たちが犯罪者だったことが明らかになった。津浪が知られざる罪を暴露したのである。


これは人間の力ではできないものになっていた。だから天変地異にはそうした天からの警告があり罰である場合がある。本当に巨大な天変地異で滅びたアトランティス文明があるとかそういう巨大な変化が起きたことが知られざる遠い過去にあったかもしれない、そういうことも起こり得る。江戸時代が飢饉があり地震があっても比較的平穏だったのはやはり民心がそんなに乱れていなかった。何か全国的な怨霊となるような事件が少なかった。それで白砂青松の人工的な日本の美が海岸線の開拓とともにありえた。その時は大津波は来なかったのである。もし来ていたら海岸近くの開拓をしていなかっただろう。江戸時代の三百年は平和が満喫されたのである。それは民心が乱れず安定していたともとれる。明治時代以降は民心は安定せず乱れが激しくなった。世界戦争にも加わり大きな犠牲があった。それから民心はやはり金銭崇拝となり物質至上主義のモラルの荒廃時代の極点に達していたのだ。その時、大地震、大津波、原発事故になったのである。原発事故は疫病の再来でもある。疫病になれば食糧も安全ではない、これは貞観時代の再来である。それも民心の乱れがあって貞観津浪と同じように東北に起こったともとれる。だからこれから東海地震,南海地震とか連続して大地震が起こり津浪も起こる。それはすでに科学的に予定されているから単なる脅しではない、貞観時代と同じになってくる。しかしその被害は文明化しているからとてつもないものとなる。そういう不安の時代に突入しているのだ。だから祇園祭りのように日本の天地を鎮める祭りも必要になってくる。やはり人心の腐敗は自然にも影響するのである。


個人的にもここ五年間に自分に起きたことは未だに信じられない、それは家族の認知症からはじまった。そこから歯車が狂ってしまった。家族はばらばらに住むようになりそれから自分の病気や犯罪などにあう、交通事故にもあうこれほどの災難があるのかと思った。自分に起きたことは今は回りで起こっている。家族はばらばらに住むようになるとか家を留守にして火事場泥棒にあうとかそういうことが同じように起こっていることの不思議である。これも自分に起きた不運と関係していた。自分だけではない、他でもこういうことが起きている。金にまつわる事件は増えている。そして人々の心はすさんでいる。それぞれに怨念が強くなり増大の一途をたどっている。そういう人心の乱れが怨念が自然に影響したということはありうるのだ。定期的科学的に起こるものであり関係ないとはならない、貞観時代は今とにて人心の乱れがあったのである。

 
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2011年08月05日

ふるさとの山はありがたきかな・・・ (原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの山はありがたきかな・・・
(原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの 山にむかいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな 啄木

この山は岩手山だった。あの山は独立峰で姿形もいい、阿武隈山脈には高い独立峰がないからものたりない、会津には2000メ-トル級の山がいくらでもある。だからあういう高い山を毎日望んで暮らしている人の気持ちがどうなるのだろうかとなる。会津の文化は山を知らなければ知り得ないものである。今回津浪にあった所は海を知らなければ知り得ないものである。だから浜通りと会津は全く対称的であり違った世界なのである。だから同じ福島県でも全く違った風土の中にある。


啄木の生まれた渋民村からは岩手山が見えた。盛岡にも住んだことがある。岩手山のような山は何度見てもあきないだろう。だから故郷の
象徴になる。でもこの辺では山が故郷の象徴になるりえない、そうした眼をひく独立峰がない、中通りは高いやまがあるからなる。安達太良山や吾妻山は高いから山が故郷の象徴となりえる。現実に万葉集にすでに安達太良山は歌われている。ただではこの辺で山が故郷と関係ないかというとそうでもない、山は岩手山のような高い独立峰ではない、身近な山でありそれは柳田国男が指摘した祖先となる山である。それは葉山信仰に通じていた。山で潔斎するというか山は神聖な場所としてあった。それは結局深く稲作、水田と結びついていた。日本の文化の基に水田が稲作があり稲作の最大の特徴は水の管理だった。ここから共同性が生まれ国が生まれた。狩猟や採集や焼畑などからは水田のような共同性は生まれない。だからみちのくの蝦夷には国が作れなかった。国としての大きな共同体を作り得なかった。縄文時代には大きな統合した国はなかった。弥生時代になり稲作がはじまって国ができたのである。


まず山がありがたきかな・・・という感覚が今では生まれない、啄木は都会でこの歌を作ったし農民ではない、農民出だったらこういう歌ができるのもわかる。放浪の詩人でありむしろそうした狭い郷土から脱出したいという強い願望があって実行した。自分なんかそうでありだからこそ
ふるさとの山はありがたきかな・・・という感覚がわからない、これは切なる望郷の心から生まれた歌である。でも故郷の山がありがたきかなというときそれは高い独立峰の岩手山より裏の小高い葉山信仰に通じている感覚である。そうした山は水田による稲作と密接に関係していた。



山の森は水をたくわえ水を供給するからこそ神聖な山となり祖先の山となり信仰にまでなった。
最初からなぜ日本の中心でなく大和盆地の飛鳥が先になったのかというと飛鳥から水田を造り始めたからだ。大阪は難波江であり八十島であり大きな入江であり葦原の入江であり水田に適していなかったのだ。まずなんらかの生産力がないと貯えがないと国は興らない、飛鳥で水田を米を作り始めて国力がついてきて飛鳥から藤原宮-平城宮-平安宮と発展した。
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm


「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。


岩手県植樹祭

岩手なるあがたの民の憩場(いこひば)の森となれかしけふ植えし苗 昭和天皇

 


あがたの民と言うから天皇のなかには感覚的に古いものが受け継がれた来たからこそこの歌ができた。基本的に最初は上田(あがた)であり下田が田の地名である。南相馬市鹿島区では栃窪が古代より早く拓けた古い栃であり上田(あがた)とにている。上田は水がいいからいい米がとれる。栃窪の米がうまいというのはそのためである。
最近津浪でわかったことは原発事故で水田がなくなって草原化した、それは水田と全く違った自然だった。風まで違っている。草原をふきわたる風と水田を吹き渡る風はまるで違っていた。この感覚はモンゴルの平原であり北海道である。ある一面水田と違って気持ちいいということもあった。海から草原に風がわたってくる。何か心まで広々とした感覚になった。つまりそれだけ感覚的に水田と草原は違ったものなのである。北海道の苫小牧に上陸したときすでに空気まで違っている感覚と同じだった。


今原発事故で故郷に帰れなくなり故郷に帰りたいという人々が何万といる。でも啄木がふるさとの山はありがたきかなという望郷の感覚は生まれないだろう。浜通りならそうした感覚はうまれがたい。そもそも農民でもそういう感覚は今はうまれがたい、だから原発を積極的に双葉町などでは誘致した。盛んに故郷に還って農業をしたいというが一方で外からは原発から金をもらい恩恵受けていたのだから同情しないという人も多くいる。そんなに故郷が大事ならなぜ反対しなかったのかと言われる。それも確かにあった。今や原発はありがたきかなというふうになっていたのだ。葉山信仰など今はない、経済的効率とか産業としての農業しかない、だからふるさとの山はありがたきかな・・・と今思っている人はほとんどいないだろう。ありがたきかなというと何か自然信仰に通じるものがあった。今は農民さえそうした信仰もないしあるのはどうしたら金になるのかしかない、それはどこでも同じだからそれほど故郷にこだわる必要があるのかと外からみられる。ただ老人は惰性で動けないだけなのである。


葦辺(あしへ)行(ゆ)く、鴨の羽交(はが)ひに、霜(しも)降(ふ)りて、寒き夕(ゆふへ)は、大和(やまと)し思(おも)ほゆ
志貴皇子(しきのみこ)

これも望郷の歌だった。寒々しい難波の宮で歌った。これからも原発事故で避難した人は仮設住宅などで冬も越す、そういうとき寒い冬に耐えてやがて故郷に帰れる日があると思う。そういう気持ちとしてこの歌は秀作である。これも望郷の歌だったが啄木などとは違い荒寥とした自然の中で歌ったものだから感覚的には相当違っている。
posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年08月06日

山は死者の眠る神聖な所 (科学万能主義の危険-原発事故の原因)


山は死者の眠る神聖な所
(科学万能主義の危険-原発事故の原因)



祖父の山放射能にけがされてその眠りしも安からならぬも


祖父の霊山に鎮まるその山を放射能けがし山神怒らむ


人住まぬ山となれるや祖父の山誰か祀らむ山神淋し

今起こっていること何なのか?浜通りというと海岸線だから海を糧にした生きてきたように見えるけど漁業より農業が主である。仙台湾辺りまでそうである。漁業が主なのは三陸や岩手県のリアス式海岸である。そこで田を作る平地がそもそもないからだ。ただ海の恵みは豊だった。
仙台平野は稲作のために開拓された土地であり漁業とは関係していない、つまり稲作が主だというとき実は山との関係の方が密接なのである。そこが見落とされている。だからこそ浜通りは阿武隈山脈-高原と密接な関係がある。例えば浪江町の領域は津島までありそこは相馬藩の山中郷の領域であり葛尾村もそうである。そしてこの葛尾村が自分の父親の生まれた出身地だった。双葉町の酒屋に奉公に出たということで原発のある双葉町とも関係が深かった。
良く我が家に子供の頃来ていたじっじとばっばがいた。その人も30年前に死んだし葛尾村の実家もなくなった。今になってそのじっちとばっばのことを思い出してなつかしくなった。その人たちは葛尾村の山の中の墓に埋められていた。日本人は山に死者を埋めていた。だから山が神聖な場所ともなった。死者が眠る場所は神聖なものとなる。

 こもりくの初瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ 柿本人麻呂


これは死者のことを雲にみたてたのである。こもりくとは奥深い山である。山で死者に会うのである。海や平地で死者に会うということはない、古来から日本では山に死者が葬られ眠っている。だから葉山信仰もそういう死者が眠る山と水田をうるおす水を与えてくれる山として信仰の対象になった。里山が葉(端)山である。村はムレから来ておりこれは水田とはそれほど関係していない、ただ人が群れるからムラとなった。里はそのあとにできた言葉でありこれは弥生時代に水田化されたときできた言葉であり里山もそうである。これも稲作によりできた日本の風景にマッチした言葉であり白砂青松の風景も稲作のために海岸近くを干拓して塩害から守るために松原として防潮林を作っのである。日本の風景は極めて稲作、水田により人工的に作られたのである。そのこは今この辺で水田がなくなり草原化したことでわかった。水田は人間の手で作られた風景だった。

葛尾村であれ飯館村であり江戸時代は山中郷でありそれは水田と深くかかわっていた。水を供給する場所として浜通りの阿武隈高原はあった。だから放射能の汚染で水源になるからこそ心配した。放射能汚染はそうした祖父母が葬られ水田を維持する水源をけがしたことで浜通り全体にかかわる人災だった。その罪は自然だけではない祖父母の眠る神聖な山をけがしたのである。ただその原因をすべて政府や電力会社にすることはできない、すでにそうした江戸時代の稲作の祭りは農民から喪失していたからである。そういう山と深くかかわる神聖な感覚は消えていた。ダムをあらゆる所に作ったりといろいろ山も海岸も人工化してきたからである。


今回の津浪やそれによる原発事故は海の神や山の神の怒りかもしれない、江戸時代までは自然と調和した開発だったが明治時代以降は自然破壊が大規模になった。戦後はさら高度成長時代になり日本列島改造とかで日本の美しい自然は大規模に破壊された。その極点に達したのが原発だったのである。原発は日本の自然を亡ぼすだけではない、日本民族すら亡ぼしてしまう恐ろしいものだった。そういう危険なものに歯止めをかけるものがなかった。農民も漁民もただ金だけしか頭になく金さえもらえば良しとした。それで海の神や山の神の怒りが生じたことは言える。そんなことは非科学的だというとき、現実に核を研究する学者がもっと自然を畏れるべきだったということを言っている。核の力を人間の力では操作できないものだった。根本的に無理があったのである。ただ誰もそれに歯止めをかけるものはなかった。そこで暴走して事故になった。歯止めをかけるものはやはり神や自然に対する畏れが喪失したことでもあったのだ。江戸時代にはそうした自然への畏れがあったからこそ山への信仰が生まれた。科学万能の社会となったときそうした畏れがなくなり傲慢となり罰を受けたのである。科学万能主義は時代には危険がひそんでいた。山への信仰など非科学的でありとか必ずなり何か自然に対する恐れを消失させる。だから古来からある祭りを否定する。もちろん自然の事物を神とすることは偶像崇拝になるから否定されるべきである。ただ自然を尊ぶという観念は常に必要なのである。自然は神が作り神が人間に与えたものでありそれをないがしろにすると今回のような大きなとりかえしのつかない罰が与えられる。そういうことは非科学的とは言えない、そもそも科学でこの世のことすべてを解明などできないからである。


原発を建てるにしても単に工学的科学的面からではなくこうした回りの自然との調和を計ることも考慮せねばならなかった。ただ工学的な見地からのみ計画され建てられる。回りには海もあり山もあり水田もある。そういうものを考慮しなかった。結果としてそういう考慮しない所が甚大な被害を受けたのである。海の神や山の神を祭り許しをこうて建てるべきでもあった。地鎮祭をするにしてもそれは余りにも今や形式的なものであり深いところで自然との調和計るのが祭りだったのである。もちろん科学者にそうしたものを要求することは無理でありそういうものに対して考慮は全くない、だからこそ事故が起きたとも言えるのである。ともかく現代文明には経済的効率的視点とか科学的合理的視点きかそういうものしかない、江戸時代には別な自然に対する接し方がありそれが祭りだった。またこういう視点から原発事故を考える人もまれである。それだけ科学万能主義におおわれた世界になっていたのだ。平気で何百万年に一回しか原発事故は起きないなどと真顔で言っていた。それだけ科学万能主義に陥っていたのである。

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2011年08月07日

原発の深い闇(戦争中と同じ統制-宝島社より)


原発の深い闇
(戦争中と同じ統制-宝島社より)

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これをみると名だたる日本の雑誌は全部が東電から金をもらい原発推進してきた。テレビ関係もそうだった。意外なのは「潮」であるがこれは創価と公明党の機関紙である。ここに入社した人の仕事はまず広告をとることである。新聞社でもどこでもそうだけど広告なくして経営がなりたたない、その時点ですでに言論は制約されけいるのだ。何か批判するにしても金をもらっているとすでにその会社を批判はできない,そしたらすでに偏った報道しかできない。ともかく何を主張しても批判してもいいが金をもらった時点でそれができなくなる。でも現実問題として雑誌であれ出版であれ新聞であれテレビであれ金がかかりすぎる。だから宣伝費でまかなうほかないから公正な報道などできないのである。

それを象徴しているのが福島民報などが創価の聖教新聞を刷っていることである。地方新聞に新聞をすらせて批判をおさえる。この時点ですでに地方新聞も公正な報道などできない、一つの創価公明の機関紙の一部とさえなっているのだ。創価は目的が権力奪取と公然と主張している団体である。宗教もその手段にすぎない、だからこそ司法や公務員や警察とかを会員を入れておさえろとかそうした権力をとるためにあらゆる手を尽くしている。このことは東電ともにていたのである。当然東電は金になるとなれば食いつくから宣伝費をとるために積極的に働きかけたし公明党も積極的な原発推進だった。原発を推進したのは自公政権だった。東電は信じられないほどの利権をもっていた。今になると巨額の賠償金問題になっているがそれにも応じるとういから驚く、3兆円のもうけがなくなるとかいうのもにも驚く、それだけの金がなる木だったのである。その力は国さえも簡単にとりこむほどの財力をもっていた。何も創価と公明党だけではない、原水協にも電事労連とか電力会社の組合の会員がいるので原発に反対できなかったというのもそのためである。確かに一向に原発に関しては何の反対の声もなかった。
「電気は国家なり」というときそうだった。国の教科書でも原発は危険だとか国の力で書かせなかった。まるで戦争中の言論統制と同じだった。というより金になるから積極的にマスコミも応援して加担していたのである。

 


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いかがわしい雑誌社として地元の「財界ふくしま」などもそうだった。プルサ-マルなどで原発を批判した記事をのせていたがあとでぷっつりと批判をやめた。そもそもここの主催者は竹内氏は何かと闇の多い人物だった。つまり雑誌を出してそれを脅しに使っていた



明治時代の新聞記者が、羽織を着て立派な身なりをして、正義の味方のようにふるまい、事件・事故をかぎつけては金品を巻き上げたことからつけられたあだな。
今でいうインテリ・ヤクザといった感じなのだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20100429/1272547997

こういうところから発しているのが新聞とか雑誌の成り立ちだった。だから今でもそういうことはあり現実に竹内氏などはそうだった。福島県出身でも福島県のことなど思っていない、利得だけを追求している。福島県はその種にすぎない、福島県とか郷土を愛すとかは全くないのである。そういう人が出している雑誌を信用できるだろうか?地元には地元に思い入れある人がかかわるべきである。今になると本当に福島県のことを思い原発の批判記事を書き続けたら福島県民に支持されてその株は上がったのである。本当に今になると手の裏を返したように原発を批判のオンパレ-ドだけど3月11日前はその正反対だった。朝日新聞も推進派であった。右翼だろうが左翼でも一部をのぞいて推進派だった。つまりこれは戦争のとき同じだった。大本営発表であり日本国民全員が原発を推進し戦争を推進してそれに逆らうことはできなかった。

いかにマスコミなどは戦争の時と同じように信用できないものかわかった。中国のことを批判するが中国と変わりなかったのである。それはすべてが利得しか眼中にないから利得になるものは飛びつく、それが原発のようなものでも危険なものでも利得になればいいとなりマスコミも金になるからと容認したのである。だから今になりそんなに反対しても信用できないのである。


原発を誘致した渡部恒三。そして、GEを手引きしている息子の恒雄。原子炉の冷却を実現できた、
http://hiwihhi.com/togofujita/status/62759917974597633


渡部恒三は福島県の政界のドンである。この人も福島県のために働くというより福島県を利用して自分の利権を追求した人でもあった。佐藤栄佐久前知事が選挙で追い落とされた。濡れ衣を着されて検察が動いた。新しく知事になったのは甥だったのである。これもいかに原発に関しての闇が深かったかわかる。原発ムラに反対すればどうなるか?検察まで動く、検察はもともとアメリカに日本が負けたときアメリカ側につくように仕向けられていたし今でもそうであるから信用できない、GEに息子が就職していたというのも手先だったことが明確である。 GEのアメリカの責任は日本では問うことができないのである。


いづれにしろ津浪がなければこうした原発の深い闇は暴かれることはなかった。もちろんいづれ事故は津浪でなくても起きた。でもこれほど劇的に闇が暴かれることはなかった。もはや人間の手では暴くことはできないようになっていた。でも津浪が自然の力が神の力がその闇を暴いたともいえる。だから人間にはつくづく限界がある。自然の力でも神の力でも働きその闇は暴かれ裁かれるということを実感した。そういうことがなけれは闇は延々とつづいていたのである。

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相馬市へ(夏の浜街道)


相馬市へ(夏の浜街道)


 

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原町のレストランや夏の月


ひぐらしや暮方に行く相馬かな


浜街道松影涼し相馬へと


浜街道風の涼しや山と海


夕べ着て相馬の街や雲の峰

昨日は原町のレストランで高見食堂でカキフライ定食を食べた。あのカキフライは大きいけど中味は小さいのかもしれない、あげ方がうまいのだ。ス-パ-で売っているのは揚げたてでないからうまいと思ったこと一度もない、揚げたてでないと料理はうまくない、自分は料理はしていない、だからまともに食事したと感じるのはレストランでしたときである。料理に時間かけていたら書き物はできない。料理はつくづく時間がかかる。結局インスタントの米をレンジで二分であたためるのが一番簡単である。米をたくことも時間がかかる。


よく高級レストランで管首相がぜいたくしているとかマスコミで報道するけどそうした仔細なことで何か人気を落とそうとしているのがマスコミである。漢字が読めなかったからとかもそうである。今どきメザシばかり食べている指導者は時代にあわない、首相とかの労働や責任は大変なものでありそんな贅沢をとりたてて責めるべきではない、そんな料理は金持ちならみんな食べているからだ。今は貧乏な時代ではないのだ。管首相は金持ちの家ではない,だから別にかまわないのである。そんなことより別なことに関心を向けるべきなのである。

今や何するにしても時間との勝負である。何かを書くということは時間がかかり結構手間だし知的労力がいる。知的労働というのがあんだけどこれには報酬もない、インタ-ネットでは報酬はない、でも書きたいことを書けるのが強みである。インタ-ネットではメデアをもっているから本当はすごいものになる。でもまだプロは金にならないから参入していない、ほんの一部だからものたりないともなる。


原町と相馬市は雰囲気が違う、ひぐらしが鳴いていると何か城下町にあっている。原町にはあっていない、原町のレストランでは高見食堂で20キロ圏内に入って家のものをとりにいって人達がいた。いわきナンバ-だから小高ではない、双葉郡の人達である。なかなか二時間では持ち出せないとか言っていた。ちょうど20キロ圏外にでる所のビジネスホテルだから泊まったのだろう。相馬市では七夕飾りを田町通りでしていた。野外音楽もやる。用事手相馬市に行く方が多くなっていた。外人のテレビ取材が来ていた。何かとこの辺は取材が多いのである。
浜街道というとやはり浜と山がある。でも浜は津浪でやられた。浜に近いから浜街道だった。松影の道が涼しかった。風は海から浜から吹いてくる風である。やはり浜街道なのである。


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クリック拡大! パノラマ写真-松並木

 

2011年08月08日

悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


●幕末から明治時代は大地震が頻発


巨大な天変地異もまたその流れの中に有り、これから地球という生命体が、人類の悪想念という雲(悪想念エネルギー)を払うため、自浄作用として地殻の活動を活発化させると思います。
http://thelawsofgod.jugem.jp/?eid=225


二千年という時間は、神の目から見ればそれほど長い時間ではなく、地上の文明の軌道修正と浄化が必要になることがあらかじめ分かっていて、人類に警告されているのである


1853年嘉永小田原地震
1854安政東海地震
1855年安政江戸地震
明治時代1868
1894年明治東京地震
1923年関東大震災。
首都圏は、関東大震災を最後に、大地のひずみを解放し、静穏の時代に入ります。


この地震の連続も規則性があった。明治時代がはじまる前のわずか10年前から幕末-明治維新の激動の時代だった。その時地震が活発化していた。そして最後に関東大地震で10万人が死んで一連の地震は集束した。それから約100年でまた大地震とかつてない大津波が来た。

不思議なのは江戸時代でも海の方に盛んに開拓されて稲作が行われて白砂青松の景色を作った時代は比較的平穏だった。もしこの時代に仙台平野とかが大津波に襲われていれば大規模な開拓はしていないのである。三陸は津浪が宿命的にくりかえす場所だから仙台平野とは別なのである。


地震と想念が何の関係あるのかとなるが地上に悪想念が満ちるとき自然も神も怒る。そもそもこの地は人間のものではない、神のものである。人間のものは一つもない、その地も海も山も森も全部が神のものであり人間は神から土地も借りて住んでいるのであり人間のものはそもそも何一つない、みな神が造り神が人間に与えたものなのである。だから神のものを粗末に扱えばどうなるのか?確実に神が罰を与えるのだ。江戸時代の三百年は比較的なぜ天変地異も少なく人々は平和に暮らせたのか?明治時代に訪れた外国人が日本人はみな幸せそうな顔をしていたという。今のような豊でも不幸に沈んでいる顔ではなかった。なごやかな穏やかな顔が多かったのである。ところが幕末から明治維新と激動の時代になった。この変化は余りにも大きすぎた。それと同時に地震も多発したのである。貞観時代も蝦夷征伐のあとであり奈良時代は今の明治時代だった。この時も社会は劇的に変化した。奈良時代と明治時代はにていた。最も国家を意識した時代だった。自然の災害と人間社会の変動期が一致している。これはまだ科学的には検証されていない,でも研究する価値がある。歴史は神話の時代からあり未だに解明されていなのだ。


●アトランティス文明の運命が待っている


人間にとって想念の影響は意外と大きい、その想念が清浄な自然に影響する。すると清浄な領域に住む神もその人間の悪想念に耐えられなくなる。ある程度は許しても今のように巨大文明化するともうその影響は神にとって耐えられないものとなる。それで悪想念を一掃するため天変地異が起こす、易性革命を起こす、天の力、神の力が働くのである。高度な文明がアトランティス文明が海に沈んだというようにそうなることもありえる。


大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。


ギリシャ神話が形成されたのは2千年から3千年前である。しかしプロメテウスとかの神話が原子力の火として現実に人類滅亡の恐怖として災いをもたらした。それが身近で起こったことはこうしたことが再度起こりえる。それほどの大きな津浪の恐怖だった。次に東海南海大地震が起こり今度は東京から西が大災害にあう。その辺は東北より想念は何百倍も悪化している。
悪想念の黒煙がもうもうと立ち上っている。それは放射能のように目に見えなくても神の眼には見える。東北の大津波はその前兆であり警告だった。本番は東海南海地震なのである。だから本当に東京から西の大都市は危険である。東北の放射能から逃れろと盛んに西の人が大阪の人達が面白半分に言っているが本番は東海南海地震でありそこは標的になる。悪想念からしたらどうしてもそうなるからさけられないのである。10万規模の死者が出るかもしれない、首都機能は停止してしまう。その前にゾトム、ゴモラが滅びる前に逃れるほかなくなる。東京より西は実際は東北より危険である。


悪が地上に満ちたから神は大洪水を起こした。ただノアだけを方舟で助けた

ソドム、ゴモラは神の怒りで一瞬に滅んだ
迷宮と化してクレタのミノス文明は滅びた
アトランティス文明も神の怒りで海中に沈んだ


ミノス文明も、紀元前1400頃、突然、歴史から消滅する。その原因は、2つ考えられている。1つはギリシャ本土から南下してきたミュケナイ 人に滅ぼされたという説。もう1つは、サントリーニ島で地球規模の火山爆発が起こり、その地震と津波で滅んだという説である。
 http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-4.htm


過去にあったことは必ず現在にも起こる。2千年前3千年前の神話も現実から伝えられた。全く空想ではないから起こるのだ。そういう危機の時代に突入したのである。そして巨大に複雑に文明化した世界はもはや想念を鎮めることができない、悪想念はもう目に見えないが多量の放射能として地上から消えないように出てきて堆積している。核というタブ-に手をつけた人類は危機なのである。その危機に対する認識があまりにも甘すぎたのである。


近いうちに必ず起こる東京大地震で東京も壊滅確定 被害額112兆円
http://blog.livedoor.jp/omoidesokuhou/archives/2417929.html


●古代の遷都の理由も悪想念を一掃するため



 601年 斑鳩宮 聖徳太子
 630年 岡本宮 舒明天皇
 636年 田中宮 舒明天皇
 640年 厩坂宮(4月) 舒明天皇
 640年 百済宮(10月)  舒明天皇
 642年 小墾田宮 皇極天皇
 645年 難波長柄碕宮 孝徳天皇
 656年 岡本宮(両槻宮・吉野宮も造営)斉明天皇
 667年 近江宮 天智天皇
 672年 飛鳥浄御原宮 天武天皇
 694年 藤原宮 持統天皇
 710年 平城宮 元明天皇
平安遷都までも、紫香楽宮、難波宮、甲賀宮、長岡京と新宮の造営が行われました。


水銀が命絶つ「遷都の原因は大仏建立による公害」仮説唱える
http://lbv.jp/case/mercury_story.html



なぜこれほど遷都しなければならなかったのか?遷都することは一新することである。一カ所に人間が留まるとそこはたまり水のように汚れるからである。気も汚れるし怨霊もそこに留まる。怨霊もその土地に巣くうので逃れた。最近の説では公害説もでてきた。ともかく場所を変えることにより一新させるためである。今だって場所を変えれば気分も変わる。一カ所にいるとどうしても心も濁る。悪想念が一カ所にいるとたまる。想念の影響は思ったより大きいのである。古代には広々としたフロンティアが荒野が回りに常に広がっていたから可能だった。人間にはどうしてもフロンティアが必要だった。ヨ-ロッパのフロンティアはアメリカだった。日本は北海道だった。北海道は今もフロティアとしてあり本州とは空気まで違っている。まだ怨霊とかが巣くっていない、アイヌはいたがそれは素朴な人々でありその人たちの伝説は残っている。現代の不幸はフロンティアが喪失したことである。宇宙に求めても得られない、結果的にもうフロンティアがないからアトランティス文明のように汚れた都市は都は海中に沈むほかない、滅びるほかない、古代において東北はフロンティアではない,日高見の国がありこっちの方が日本国の起源だというとき東北の歴史はそれだけ古いのである。縄文時代は東北の方が人口が多く栄えていたからそうなる。
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2011年08月09日

家という建物の歴史 (土地や家に愛着するのはなぜか)


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)




家という建物の歴史


裸電球一つが灯っていた
北風がうなっていた
ヒュ-ヒュ-と北風が吹き込んだ
布団にくるまり寒い寒いと寝た
その頃暖房は炭だった


トタン屋根の古い家だった
雨漏りがして洗面器を家中に置いて大騒ぎ
道は舗装されていず砂ぼこりがあがる


この家は二度も水害にあった
土地が低く堤防がまだ安全ではなかった
家はめちゃくちゃにやられたが
辛うじて残った
子供のとき泣いた


その時どうしても二階がないので
ものを二階に運べず逃げられなかった
だから二階のある家を建てようとした
そして大きな二階のある家を建てた
それを姉は自慢していたが
その姉も死んだ


その家を自分が引き継いだが
今度の地震で瓦など壊れたが
40年過ぎてまだ使える
ただ大きな家だが住める
死ぬまでここに住めるだろう

水害はもうありえないだろう
安全な堤防ができたからだ

こうして家にも歴史がある
家には歴史の重みがある

もっと古い旧家なら大黒柱が黒光りして
江戸時代からの歴史を語るものもある
この頃の家は寿命が短い
それだけ家の歴史の重みが残らない


何事過去をふりかえって今がある
家一つにも歴史があり
家は実際は風雨に耐えて残っている
この家もがんばってくれたなとか
そういうことを思うのは家にも歴史があるからだ



最初住んだ家は平屋で古いトタン屋根のいかにもヤハな感じのする家だった。この家は最初、人に貸していたことがあった。長屋みたくなっていた。それでそのことを姉は語っていた。自分が生まれたときは長屋ではなくなっていた。子供のとき小学生頃までは燃料は炭だった。その頃生活は江戸時代とたいして変わりなかったのである。そういう生活体験があることは今になると貴重である。あまりにも変わりすぎたからである。家には裸電球しかなく、電気製品はなにもない、飯台一つを囲んで家族で食事していた。これは自分の家だけではない、他でもみんな同じだった。小学生から中学校になるころテレビがでてきてその頃から急速に変わりすぎたのである。水害は二度経験している。自分の土地は低くて一番被害が大きかった。よく流されないと思った。電柱があって流れたものがそこにひっかかり辛うじて残ったのである。その頃真野川は安全な堤防が作られていなかった。二度目の水害の時もそうだった。それから安全な広い川にして堤防も頑丈になり水害はなくなった。


家一つにもこうして歴史があるとき家そのものに愛着を覚えてくる。家にはそれぞれ歴史があり郷土史がその個々の家からはじまるというのはそのためである。特に祖父母から聞く話から郷土史がはじまるというのはそのためである。こうした歴史をふりかえるのは必ず今を見直す、今の価値を見直すことになる。原発事故があったけどこれもなぜそうなったのか、そこにはやはり40年くらいたっているからその歴史を見直すことからはじまる。何かを語る場合、批判するにしても歴史的に語らないと本質的なものが見えてこない。人間は歴史的な継続の中で生きているものでありその歴史が喪失すると現在のこともわからなくなる。津浪にしても貞観津浪の再来だったことがわかった。その歴史が見逃されていたのである。千年前に大きな津浪が来たということを東電に学者が言っていて注意をうながしていたのである。だけど東電では笑ってとりあわなかった。そこにやはり歴史的に思考することが欠けていたのである。


人間は目先の利益に眼を奪われるだけではなく、先の長い眼をもつ必要がある。そのためには過去のこと歴史的思考を身につけることである。ところが人間は目の前のことに心がすべて奪われる、すると過去のことは見えなくなる。過去が見えなくなることは実際は未来も見えなくなっているのである。過去と未来は一体なのである。現在と未来が一体なのではない、過去と未来が一体なのであり現在から未来は作れないのである。今の問題は過去を掘り下げることにもなる。地震の液状化になったところは昔は沼だったとか今回の津浪に襲われた所はほとんど開拓されたところでありそこは海だった。その海にもどったというのもその一つだったのである。どなん小さな村でも町でも日本では長い歴史がある。だから双葉町でも今回原発事故で避難した市町村の人達が故郷に帰りたいというとき、自分のような二代目くらいでもこうして歴史をふりかえるのに長い歴史をもって生きてきた人は愛着があり帰りたいというのはわかる。他に移ったらその土地と共にあった歴史が失われる。だから先祖代々の土地から離れたくないというとき、そこには自分の家よりも長い歴史、江戸時代から農家をつづけてきた同じ土地でしてきた人がいるからそうなるのである。

 
 
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南相馬市30キロ圏外の不満 (8月から医療費も普通に払わされる)


南相馬市30キロ圏外の不満
(8月から医療費も普通に払わされる)



 主婦の女性(61)は「30キロ圏外の地域は、仮設住宅用の土地提供や避難区域の子供の受け入れなど行政に貢献している。それなのに(30キロ圏内では減免対象となる)国民健康保険税や介護保険料は免除されない。さらに東電の仮払い補償(1世帯100万円)も対象外だった」と指摘。「原発事故は30キロなどで線引きできず、健康への不安は同じ。
http://woman.infoseek.co.jp/news/society/story.html?q=sankein_snk20110807069

7月までは医療費が無料で得したと思った。8月から普通にとられる。30キロからわずか離れても医療費の援助はなくなった。30キロ圏外が本当に被害たいして変わらない所なのに損だったことは確かである。ただ義援金5万はもらった。それで良しとしろということだろう。一所帯百万の補償金はもらえないにしても医療費くらいの援助があってもいいと思った。鹿島区では確かに仮設住宅の土地を提供したりいろいろ援助している。原発事故の時でも半分は避難した。残った人も不安だった。その後も精神的苦痛やいろいろな不便を強いられている。アマゾンの通販も利用できないとか被害もある。でも田畑をもっている人とか地震で半壊以上とか具体的な被害がないと医療費も補助されない、要するにこれからは何も補助されない、でも六号線が開通しないのは原発事故のためである。津浪の被害では今はない。いづれにしろ原発事故の補償を言ったらもはやきりがない、休業補償としての支払いがありこれを適用したらその範囲は福島県だけではない、それだけ大変な補償となる。得した人がいても泣き寝入りの人も多数出てくる。


もう正直放射能の話しを聞きたくない、嫌になった。放射能で何か食べられない、ここも年間やその後の放射能の影響でガンになるとかそうした話すら聞くの嫌になった。そうした精神的苦痛が大きいのが原発事故の放射能騒ぎだった。その苦痛は実際は全国に及んだ。原発事故の被害がこれほど広範囲になるとは国民も予想していなかった。毎日、毎日、放射能、放射能で日が暮れることは異常である。それ自体が精神的苦痛を与えたのである。浜通りでも中通りでもこうした精神的苦痛を与えられたが郡山市でも福島市でも何の補償もないからここに補償がないと声高にも言えない、もう東電でも政府でも補償には限度がある。あとは犠牲させられるのだ。もちろん不満な人は東電に要求すればいい、でも補償しきれないから泣き寝入りになる人も多い。それもこれも原発事故はそれだけ広範囲に被害を与え犠牲をうむ。40年間恩恵を受けた双葉町や大熊町などはしかたないだろうとか言われる。それもそうかもしれない、その他の市町村は今まで恩恵はほとんどない、だから腹ただしくなる。


いづれにしろ原発事故になったら被害がこうなるんだという見せしめが福島県だった。放射能のモルモットだというのも本当である。一旦事故が起きたら原発の回りはあんな被害を受けるんだよという見せしめである。アメリカは黄色人種の日本人だから原爆を落とした。人間を原爆のモルモットにした。原爆では実際に10万人以上死んだから今回の事故とは性質が違っていた。でも精神的苦痛は原発事故の方が長引く、放出された放射能の量もけたはずれに多いのである。ただ爆発しないから死者はでていない、だかそのあとの処理が大変であり精神的苦痛が大きいし長びくである。広島の原爆などではこんなに広範囲に死の灰はばらまかれない、その量も少なかった。原発事故はその後が大変だし広範囲になり精神的苦痛が長びく、ガンになく奇形になくとかそれが風評被害でも無視するわけにはいかない、そういうことで精神的に疲れてしまう人も多くなる。自分も毎日そうしたことを聞いているのが嫌になった。子供をもっている人はさらに大変であり心配が尽きない,今回はその心配することで疲れてしまうのである。例えガンにならないにしてもそうしたことを毎日言われるだけで心配になり疲れてしまう人が多ちなる。本当に原発事故の放射の問題は心労の部分や風評被害が本当に重くのしかかることだった。


ともかく一か月後に入院するとして無料になると思ったが損だった。30キロ圏外でも医療費くらいは無料にしてもちいたかった。30キロ圏外やその他は泣き寝入りであり犠牲にされる。それが原発事故だったのでる。

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2011年08月10日

UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)


UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)

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相馬藩くらいが人間としてちょうど地理的ちも一体感をもてる世界だった。余りに広いと人間は地理的に把握できなくなる。これはあくまでも地図上ではなく人間のヒュ-マンサイズとしての感覚である。相馬藩くらいの地域がちょうど人間の感覚でとらえられるのである。ここには海もあり街もあり山ありと世界の縮図としての世界がある。飯館村も山中郷としてあったのはやはり山から水が流れてくるからである。そこで地理的にも一体感があった。放射能騒ぎでセシウムが流れてくるとか問題になったのもそのためである。水の供給地として飯館村があった。浪江も標葉郷としてあり葛尾村も飯館村と同じ山中郷としてあった。双葉町が相馬藩の境界だった。この辺までが一体感がもてる。歴史的にも地理的にもそうだった。ただ放射能を考えるとこんなに広範囲に影響するとは思わなかった。中通りはもともと地理的一体感をもてない、それが放射能でかえって影響が大きかった。風には境界はなかったためである。

ともかく相馬藩は山あり海あり平地ありといいところだった。気候的にも今年はそれほど暑くない、去年は本当にここも暑かった。でもここは海からの風が吹いてくるからそんなに暑くならない、気候的には恵まれた所であった。それだけはいい所だと思っていた。会津のように雪も降らない、松川浦などの浦ももあった。明治時代前は八沢浦は文字通り浦であった。それを津浪が再現したときは驚いた。いつもあそこが入江になっていることをイメ-ジしていた。しかしあの浦浪が奥によせてきた。、春の光にきらきら光りよせてきたことは想像できなかった。想像を越えているのが自然だった。一度しか見れないにしても現実に見たことは奇跡的だった。あそこは都の役人が歌ったようにそういう場所だった。松原はなくなったが津浪にも残った松は記念の松となった。右田浜は昔の湿地帯にもどった。


橲原は奥まった所であり南相馬市の鹿島区の奥座敷である。江戸時代は大原もそうだった。県道が通りそういう雰囲気に欠けるようになったが「大原山人」という人がいたことでもあそこはやはり橲原とにていた所だった。小高は縄文時代の遺跡が多いということは昔から貝などをはるのに適した場所だった。相馬藩でも山には山の役目があった。木材や馬の飼料となる草が多かった。だから馬を多く飼っていた。その馬は三春藩などにも売られた。葛尾村となると三春藩に近いから藩主が葛尾大臣が招待したというのもわかる。鉄作りでは鉄の素材となるものを請戸港から岩手県の宮古からも運んだ一大製鉄所として栄えた。製鉄となると大量の薪が必要になるから山の方がいいのである。

相馬藩は確かに海があるということが福島県の中で違っている。飯館村を通り塩の道があったというのもそのためである。原釜には塩田があり双葉町にも塩田があり塩を東京の方に売っていたということもあった。その塩田が東京の財閥に買われやがて原発が建てられたのである。



昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/07/



そもそも夜ノ森は余の森であり相馬藩主が余の森として境界争いしたところである。だから原野の風景が明治以降も残っていた開墾されたのである。原発の位置としてはいわき市の昔の平からも離れているし相馬市からも離れているから適地だった。しかしこれほど相馬藩内が原発事故になり苦しむことは想像できなかった。それだけ原発問題は国民的にも県でも市町村でも隠されたものとして秘密のベ-ルのなかにありうかがい知れないものとしてあったのだ。それが今回の事故にもつながっていた。城のあった相馬市は辛うじて被害がまねがれたにしても相馬藩内はぐたぐたに傷ついた。回復されないほど傷ついてしまったのである。


橲原村と大原村の地想学(トポス)

http://musubu.sblo.jp/article/43639625.html

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2011年08月11日

南相馬市は仮設住宅8月まで約2500戸完成


南相馬市は仮設住宅8月まで約2500戸完成


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ベンチがあるのもはめずらしい、ここで休める

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建築中

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地図クリック拡



鹿島中学校の裏は一大仮設住宅地となった。ほとんどが小高から来た人となると鹿島区に小高区ができたようなものでる。

福島県南相馬市は12日、福島第1原発事故などの影響で市外に避難している市民約2万8000人に対し、8月末までに避難所を退去して、自宅や市内の仮設住宅などに入居するよう求める文書を送付した。
市は「避難所を出て自立を促すのが狙い」と説明している。
南相馬市が「帰還要請」 市外避難2万8000人来月中に 市によると、市外にいる避難者は11日現在、福島県1万565人、宮城県2200人、山形県2007人、新潟県2548人など。送付した文書では、体育館などの公共施設などに開設された1次避難所の避難者は今月中に、
宿泊施設などの2次避難所は8月末までに、それぞれ退去するよう促している。

ただ、南相馬市は原発事故で警戒区域や緊急時避難準備区域などに分かれており、自宅に戻れないケースもある。市は8月中に約2500戸の仮設住宅を完成させ、入居希望者に入ってもらうという。 市地域振興課は「放射性物質への警戒感が強いのは承知しており、市内に戻るのを強制しているわけではない。戻らない場合は、民間の賃貸住宅に入るなどしてほしい」と説明している。
1次避難所閉鎖後も136人が2次避難中の山形県米沢市では12日、同市駐在の市職員による説明会が行われた。 説明した職員によると、山形県内では9月末に2次避難先のホテルや旅館と滞在契約が切れる。滞在を延長することによって、夏から秋の観光シーズンに影響を及ぼさないよう配慮したという。


<避難者猛反発 「あまりに唐突」 米沢で説明会>


福島第1原発事故で全国に避難している市民に向け、南相馬市が「帰還計画」を提示した。136人が2次避難する,米沢市内では12日、2カ所で説明会が開かれたが、原発事故が収束しない中、避難先から退去する時期の目安だけが示された形だ。一日も早く帰郷したい気持ちとは裏腹に、避難者の多くは「あまりに唐突だし、現実的でない」と反発した。
説明会会場の一つ、市中心部の置賜総合文化センターには、主にビジネスホテルに避難する17人が集まった。

説明が終わると出席者が次々に発言。「放射線の値は明らかに安全なレベルでない。それを浴びに戻れと言っている のと同じだ」「仮に戻っても、仕事や生活環境を補償してくれるのか」「病院も学校も元に戻っていないのに、帰ってどうするんだ」など、計画を批判する声が上がった。


説明会後、原発から20キロ圏内に自宅がある南相馬市小高区の元会社員斎藤祐樹さん(28)は「市内が安全だと言い切れるのか。現在進行形の原発問題が収束しない限り、不安で帰れるわけがない」と語った。 20キロ圏内で建設会社を営む木幡竜一さん(47)は「市は早く戻ってきて復興に力を貸してほしいと言っているが、まだまだ復興に動き出せる段階ではない」と首をかしげた。

米沢市三沢コミュニティーセンターでも説明会があり、温泉旅館などに身を寄せる11人が出席した。30キロ圏内の自宅から9日がかりで同市に避難した板金業水本サチさん(75)は「帰還後に再び原発事故が起きた場合の再避難の方法は考えているのか。あてもなく逃げるような思いは、もうごめんだ」と話した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110713t61011.htm

南相馬市が示した帰還計画について質問する避難者たち=12日、米沢市の置賜総合文化センター
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110712037jd.jpg
 


鹿島中学校の裏の仮設住宅は数が多いから敷地も広い。まだあそこにあの倍はふやす。工事中である。2000戸くらいまで完成したのか?どこも満員になるくらい入ってきた。ただ鹿島中学校の裏はまだできる。ともかくほとんど小高の人である。知り合いの商売していた女性は山形の娘の所に行っていた。それから今は鹿島中学校の裏の仮設に母親と一緒に入っていて昨日も来た。仕事で困っている。でも病気などしたりしているから仕事できるのかとも思う。部屋は二人だと一部屋であり窓も小さく窮屈だというのは外から見てもわかる。でも小高の人は原発関係だから一人十万とかもらえるから生活費には困らないと思う。津浪被害の人で仮設に入っている人は一割にもみたない、小高は一万以上人口がありいなくなったのだからその数の移動が大変である。それでも土地も家も残してあるのだから事情が違う、小高は放射線量からしたら帰れるように思う。今日は鹿島区で行うのは津浪の被害者の合同慰霊祭であり真野川で灯籠流しみたいなことを行う。これは原発事故とは違っている。漁民していた人でも津浪は原発事故を一緒に考えている人がいる。津浪の被害が原発被害になり補償を要求する。松川浦では沖に船をだして120隻あった船の90隻以上助かったというから津浪への心構えができていたしそういう言い伝えもあったから全く津浪に無防備ではなかった。魚もとっていないから今ならとれるというが原発事故でできなくなったのでこれは補償されるだろう。ともかく福島県は原発事故の方が大問題だった。津浪だけならこれだけの被害にはならなかった。


どうでも良いと思ってんだろ?人口さえ戻れば地方交付金と住民税が入る。
公務員どもにとっては貴重な現金収入だ、というかそれ以外に稼ぐ方法を
知らなかったりするんでない?住民が多数流出してしまうようでは、税収の
大幅減が避けられない。すると公務員はペイカットに苦しむことになる。
結局はテメーの銭の問題なんだよな。帰還させた所為で何人死のうが
知ったこっちゃ無いんだよ。みんな逃げて。特に妊婦と子供と若い人。
子供は遠い遠い町まで逃げて児童養護施設に転がり込みましょう。
公務員さん、村民を騙す前にあなた方こそ自助努力をしなさい。



公務員にしても市がこんなふうになると仕事自体も大変であり公務員は楽だとはならなくなった。だからいちがいに今や公務員を批判はできないだろう。公務員も住民がいなくなり税金が入らなければ勤まらない、こんな状況では税金も入らないし給料も払えないとかなる。実際に市でも夕張のようになる。普通そんなに市民の税金で給料をもらえていることを意識しない特権階級である。こうなると税金もらえないと公務員でも食べていけせないとなってしまうのだ。  
posted by 老鶯 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

真野川で灯籠流し(南相馬市合同慰霊祭)



真野川で灯籠流し(南相馬市合同慰霊祭)

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動画




この花火は長岡の人がきてやっていた
静岡放送局でも来ていた

今ややっている
小高の人もみんな見ている

真野川に灯籠の灯や延々と

みんな見る小高の人も花火かな

満月のい出ておりしも供養する灯籠流し霊の安かれ




真野川で灯籠流しを今日していた。合同慰霊祭でありこれは南相馬市の津浪で死んだ人達の供養である。原発事故では一人も死んでいないのだ。でも実際あとあとまで災いだったのは放射能問題で原発事故だった。森も汚染されて危険だとかがっかりする。田舎に住むメリットがなくなってしまう。


小高区の人が集るから人出がある。わかったことは人口というのが活気に相当影響があることだった。いたるところで目立つのが小高区の人である。そうでないと人口が少ないと何か祭りをするにしても人が集らないのである。3000人とか増えると町は確実に変化する。活気が出てくる。それも5千人増えればさらに活気がでてくる。鹿島区の全盛期はちょうど今の人口に5千人たしたくらいであり子供も多く活気があった。5000人減ることはいかに影響するかわかる。

そして子供が多い若い人口が多かったことである。だからさらに活気があったのだ。今は5000人へってさらに老人の人口ばかりふえる、高齢化するから活気がなくなってしまったのである。

ともかく満月がこうこうと光っていた。霊の安かれと祈るほかない。夜も暑くなった。
posted by 老鶯 at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年08月12日

福島県の報道メデアの怠慢 (地元のメデアも地元の味方ではなかった)


福島県の報道メデアの怠慢
(地元のメデアも地元の味方ではなかった)


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静岡放送局



福島民報社で昨晩の真野川の灯籠流しの写真を写して報道していたけど写真は一枚だけだった。自分のプログでは写真を4枚と動画も出した。するとどうしても地元の人が写真をとるにしても有利だとなる。民報や民友も地元だけどそれでも福島県全体となると広い、さらに細かい地域の情報が必要になる。そして地元に住んでいる人は地元のことが自然体で身についているから報道するのにも福島県全体からみるより詳しく報道できる。実際に会津には会津新聞が必要である。会津は山国でありあまりにも同じ福島県でも風土が違いすぎるのである。今回は浜通りということで原発事故がありいろいろ自分もプログで分析して報道した。インタ-ネットは実際活用範囲が広いのである。動画すらのせられる。これを拡大化すれば一つの新聞にもテレビ局にだってなれる要素があるのだ。


今回原発事故で問題になったのは地元からのメデアの怠慢がかなりあったと思う。福島県民に対する思い入れが欠けていた。広告を出すにしても福島県の会社や市町村が多い。そこから収入を得ているとしたらそのよってたく基盤は福島県民でありさらにその市町村だとなる。その福島県民が今回は最大の被害にあった。ただ福島民報では聖教新聞を刷っているようにその資金源が福島県民だけだとは限らない、「財界ふくしま」の主催者の竹内氏なども福島県出身者でも福島県民を利用するというだけであった。なぜならプルサ-マルのことで東電を批判する記事を連載していたがある時からぷっつりとやめた。それは東電から金をもらったためである。

ただ雑誌を大会社の脅しのために使っている。これはマスメデアにはテレビでもある。なぜかといえば報道するのには巨額の金が必要だからである。出版するにしてもそうである。そして新聞でもテレビでも雑誌でも一方的メデアでありそれが大衆の洗脳的メデアとなっていた。テレビなどは何か催眠効果すらありテレビを見ていると一見洗脳されていないようでされているのである。マスメデアが批判されるのそうした広告とか視聴率とか大衆洗脳メデアとしてありモラルが欠けているからである。でも報道する方にしてはむずかしいこと言っても大衆はついてこない、視聴率がとれないから宣伝効果もない、広告料も多くとれないから視聴率をとれる番組作りになる。それが大衆洗脳メデアになっている。やはりよってたつ基盤が根本的に悪いからそうなる。


前知事の佐藤栄佐久氏は福島県では悪いことを聞かなかった。聖人とまで言われてた。それが突然なぜ逮捕されたのか?そのことを福島県の人は違和感を覚えた。でもその真実は福島県のメデアでは報道されなかった。今になってその背景が明かになった。渡部恒三一派が佐藤栄佐久知事を東電と一体となり追い落としを計った。今の知事は渡部恒三の甥であり原発の推進派であり佐藤栄佐久前知事が問題にしたプルサ-マルのことはうやむやになった。このことについてなぜ福島県民はもっと怒らないのか不思議である。もちろん福島県のマスメデアもあまり問題にしない、これは明かにテロになるくらいの重大な問題であった。これほどの被害を与えた張本人というべき人がのうのうとしていることがわからないのである。大石英司氏のプログを毎日見ているけど渡部恒三が首相に一時的にでもなればいいと言っているのも信じられない、福島県のことが作家でプロであるのわかっていないのか?まあ、作家などはでたらめな人が今までも多かった。だからそんな人かとも思う。要するに福島県人は特に双葉町は原発推進をすすめたから責任あると外からは見られている。福島県民自体が責任あるともいわれる。確かに福島県の政治家のドンがそうなのだからどうにもならない、メデアも原発に関しては何も問題にしていなかった。東電から金が入っているから全国のメデアと同じである。福島県としての地元に根付いた報道がなかったのである。


情報は身近な所でもわからない、小高町はすでに前から原発を立地する契約を東北電力会社と契約していた。その後に南相馬市と合併したから問題だったと地元のプログで指摘する人がいた。これもプログで知った。そういう大事なことでもわからないことが多いのだ。このままだと10年後に原発がまたできていた。小高の建築関係の人は原発できたら景気よくなるよとか盛んに言っていた。その人は津浪でやられ原発事故で命からがら逃げた。地元の人も利益優先の人が多いのだからメデアだけを批判できないことは確かである。でも小高町が東北電力とすでに原発を建てる契約をしていてその交付金までもらっていた。それを今回は断った。もはや原発は建てられない。地元の人でも地元のことがわからないという盲点がある。それはやはり知らせる人がいないとかメデアがないということもある。確かにインタ-ネットはそういうことができても目立たないから広がらないということがある。いづれにしろ報道する権利は誰にでもあった。ただできなかっただけである。


今回の真野川の灯籠流しでは静岡かの放送局からも来ていた。こんな遠くからも来るのかと思った。原発事故は全国的関心が高いから実際は全国から来ているのだ。でも地元の人でないと思い入れが薄いから報道するにも興味本位になりやすい、地元の人だったらそれも実際に津浪で死んだ人が供養して灯籠流ししているのと他から見ているのでは思い入れが違ってくる。地元の人でも津浪の被害にあわなくてもかかわり方は違ってくる。そういう差が報道にでてくる。報道というのはこれまでマスメデアでありマスを一方的に洗脳するメデアだったのである。だから肝心なことは報道されなかったり大問題も追求されないしその結果として福島県民であれ全国民であれ原発事故でこんなひどい被害を受けたのである。メデアが全部責任あるわけでないにしろそういう一方的洗脳メデアだったからこそ東電はそこに莫大な金を出して今日の大事故の原因を作っていたことは否定できないのである。 結局民主主義の社会とは指導者が全部責任があるわけではない、ただ事実も知らせないなら中国と同じように報道統制があり共産主義と同じだった。日本も原発に関しては政府と東電とマスコミと官僚と政治家と一体となって真実は知らされることはなかったのである。

マスメデアの時代は終わった
http://www.musubu.jp/jijimondai39.html#mass

posted by 老鶯 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年08月13日

原発事故で自覚させられた歴史と文化 (稲作は歴史で培われた文化)


原発事故で自覚させられた歴史と文化
(稲作は歴史で培われた文化)

 


故郷に実りなき日ありにしや飢餓の碑残るその片隅に


相馬藩苦難のときの形見かな飢餓の苦しみここに残りぬ


故郷に実りなき日や稲穂なく草茫々と今日も暮れにき


故郷に一代のみならず何代も住みにし土地を離る苦しさ


人住むは一代にあらじ故郷を築く年月その長さかな



お盆でまだ実りの日は早いけど外を見れば稲穂が風になびいている姿は見えない、こういう光景は稲が作られてから見たことがない風景だろう。津浪の被害でも水田は稲を作れなくなった。二つの被害が重なった。こういうことはこの辺では有史以来はじめてだとなる。その有史となるとこの辺ではいつになるのかむずかしい。相馬藩が成立してから正式な歴史が残されるようになった。相馬藩は国替わりしていないから一貫した資料が相馬藩政記にあり外部の研究者も参考にしている。飢餓の歴史は全国にある。ただ相馬藩の被害が大きい時があった。三分の一の人口が減った。この時は相馬藩がつぶれるかつぶれないかの瀬戸際だった。何とか移民政策で穴埋めして立ち直った。その時越中などからの移民が多くそれで真宗系統の寺がその歴史を伝えている。相馬の民謡はそう移民を呼び込むために作られた今で言えばコマ-シャルソングだった。それだけ人を呼び込むために必死になっていたのである。なぜなら三分の一の人口がへれば藩が成りたたなくなる。そういう危機から生まれたのである。越中の人は相馬で苦労したが勤勉に働き相馬に土着した。

しかし今起きていることは飢餓によって人口が激減することではない、原発事故によって人が住めなくなる。現実に双葉町から浪江町から小高区から飯館村とこの辺は相馬藩の範囲内だけど人が住んでいない、これは相馬藩の半分の人口にあたる。だから三分の一の人口がへった飢饉よりひどいとなる。土地そのものも放置されて田んぼは津浪の被害も加わり放置された。だから毎日草ぼうぼうの故郷を見ていること自体未だかつてありえないことだった。飢餓があっても多少は実りはあった。今回は全くない、でも飢えることはないからまた違っている。ともかくこうして田んぼの風景がないということはもはや故郷ととはならない、故郷とは田んぼとともにあったのである。原発や工場がなくなっても故郷でありえる。田んぼがなくなったら故郷でなくなる。稲作とは単に経済的なもの、米を食べるというだけではない、前にも書いたけど米作りは水の管理が大事でありそれは水を供給する山とつながり共同性を育んだ。葉山信仰もそこから生まれた。稲作は文化である。文化というとき芸術的なものだと思っているが実際は違っている。人間の根本的な生のアイディンティティを形成するものである。そんなことを言うと都会の人は米ナショナリズムだとか何とか批判するけど文化は命と直結している。それが腹を満たすだけではない、心を満たすものだった。そういうことを意識して稲作をしている人はいなかったろうしそんなむずかしいことは関係ない、米の値段をあげてくれしか稲作に関わる人自体も思っていなかった。だからこそ簡単に原発が金になるということで無防備に誘致したのである。文化は意識しなくても命にかかわるということを存在意義にかかわっていたのである。


最初は稲が国家なりだったとことは間違いない、それで天皇が大嘗祭を行ない稲の神にもなった。次に鉄は国家となり鉄の王となった。そして電気が国家となり天皇まで東電の株をもっていたことで電気の神とはならないにしろ天皇の役目は民衆の要望によって変わってくる。原発は安全神話とともに絶対化して宗教にまでなっていたというときそれとにているのだ。津浪にしろ原発事故にしろ現代の文明生活を見直す契機となった。現実に一代だけではない代々その土地に住んでいた人が住めなくなるということ自体考えられないことでありこの被害は余りにも大きすぎた。生きる存在意義すらなくなるということもありえる。つまり米など作っても金にならないとか常に言っていた人達が今何を思っているのか?また現にここに住んで水田がない米作りしていない水田のない平野を見ていて思うことは何なのか?すぐに飢餓にはならないから深刻ではないにしろ精神的面での影響は大きいのである。ゴ-ストタウンになるのはゴ-ルドラッシュとか金属を掘って資源なくなったときになる。でも稲作はそうはならない、常民であり常にそこに継続している民である。

今回のことで人間は一代だけの思考で生きることの危険である。原発が作られたのはすでに40年であってもその歴史は最近のことである。原発もこれからも長くつづけて危険がなくなれば一つの文化となりえるかもしれない、鉄道はすでに文化であり工業がすべて悪いとはいえないからだ。ただそうなることはほとんど不可能な代物だった。米作りはすでに日本では千数百年の歴史があるから根強い文化なのである。この辺でも遅いにしても千年とかあるかもしれない、そういう長い年月で培われたのが文化なのである。文明は便利な道具としてその歴史は短い、でも文化は長い年月をかけて作られてきたものだからそれを失うと人間の存在意義すら失うのである。そういう深刻な問題を今回の事故で自覚させられたことは確かである。


今ドラマで見た会社をリストラされた人が存在意義を喪失して自殺した。それは単に経済的な問題だけではなかった。会社の存在がすべてになっていた。人間関係も仲間もすべて会社にありその会社をリストラされたときその肩書もなにもかも奪われて絶望して死んだのである。
この人にとって会社は命とさえなっていた。それが奪われたから自殺した。会社は文化でないにしろやはり存在意義が会社にあったのだからそれを奪われたことで自殺したのである。
農民より会社の方が身近な社会ではこっちの方がより真剣な社会問題としてあった。なぜならほとんどが会社人間になっているからそれだけ深刻になったのである。
 

posted by 老鶯 at 15:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

蝉(お盆で供養)


夕蝉(お盆で供養)

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墓所近く日陰の路地を猫歩む


耳澄ますひぐらし夜に鳴くかすか


老鶯のここに落ち着き動けざる


塀もなき庭に十輪ほど芙蓉かな


十輪ほど芙蓉の咲くや余裕かな


十輪ほど芙蓉の余裕住み安し


ひぐらしの夜に三度ほど鳴きてやむ


はかなさや路上に一つ蝉の死す


夕蝉や故郷に集うお盆かな


夕蝉や死者弔うお盆かな


亡き人を海に弔ふ松川浦観音のごと満月光りぬ


海に流す灯籠あまた亡き人の思いのこもる松川浦かな


人間はどこであれ長く住んでいればそこがいい悪いということより動けなくなってくる。移住することが一番むずかしいことになる。だから年取った人が原発の10キロ圏内とかでもまだ帰りたいとかなる。 そこは80マイクロシ-ベルトもあった。そんなところに帰れるだろうか?
猫と墓所はあっている、猫が墓所を歩くのがあっている。忍び足で音もたてない、墓地を騒がしくしてはいけないから猫があっている。

人間何をするにも余裕がない人は危険である。金に汲々している人は何するにしても危険である。特に福祉関係の仕事はするべきではない、でも金がないからこそそうした仕事につく人が多いから困る。医者でも看護婦でも仕事が大変だから余裕がないと患者に優しく接しられない、金に汲々している人も優しく人に接することができない、頭の中が金で一杯だから遂にはそういう人は犯罪に普通になる。余裕がないということは社会自体もそうであり例えば田舎はかえって都会より犯罪が少ないというとき田舎には土地とか家をもっている人が多い。金持ちでなくても資産がないと住みにくいし親から受け継ぐものがあるから比較的余裕がある。すると町全体でも余裕が生まれる。中には汲々している人も賃貸住宅に住んでいる人もいる。でも田舎では都会と違って少ない、都会にはそもそも無産階級が集まりスラムができやすい、田舎ではそういうことになりにくい、この辺で仮設住宅が増えたことはやはり町自体に余裕がなくなったとはいえる。もともとその人たちも広い所で余裕をもって住んでいた人達である。その人たちも余裕がなくなった。二人で一部屋だと部屋自体にも余裕が生まれない、長屋もいいというがやはり余裕がないといざこざが生まれる。余裕がないということは実はあらゆる面に影響するのである。

ともかく芙蓉のようにおおらかに十輪くらい咲いている、それは街自体にも言える。十輪くらいが悠々と咲いている、それはそれなりに余裕をもって暮らしている姿なのである。


今回の津浪で死んだのは海なのだから海に灯籠流して供養するのが供養になる。昨晩は真野川でしたが真野川は海ではないから向いていなかった。松川浦は向いている。あそこで本当に多数の人が津浪にのまれ死んだのだから・・・・ちょうど満月がでていた。それは同じだった。あの満月をテレビで写していたから視点としては良かった。満月はなにか観音様のように平和の象徴のように見えた。しかしなぜこんなにひどい被害を海は与えたのだろうかとなるとわからない、自然はただ無情無慈悲なかと思い実際に海を呪っている人もいる。その心もわかる。なんでこんな仕打ちをするんだということになる。何でなのだ、解せないのである。

ただこれからあの満月のようにあんな津浪が来るとは思えない、千年は来ないかもしれない、ということはあの満月はこれからの平和を象徴して光っているのかもしれない、平和の営みは松川浦では回復するのか?船は120隻あったが沖に出て90隻が助かった。これもこの辺では津浪のことをあまり聞かないが漁師では言い伝えられていた。津浪に無防備ではなかった。やはり海には海の言い伝えがあった。まだ船を沖に出す時間が余裕があった。他は船も残らなかった。船が残ったことは漁もできるが放射能問題で売れないとなるから困る。でも原発事故では船主には相当な補償がある。田畑をもっている農民にもある。何も権利もない人もある。自分などは8月からはなにもない、医療費も無料でなくなった。30キロ圏外は補償はない、ともかく津浪の被害であれ原発事故のことは長びく、放射能問題がなければすでに漁ができた。それができないからこの辺は延々と放射能問題で苦しむのである。

2011年08月14日

戦争と原発事故(特攻隊の大和魂の再現)

 
戦争と原発事故(特攻隊の大和魂の再現)

原発事故が何であったのか、そもそも自分など放射能のことなどわからないから逃げようともしなかった。逃げられない事情もあったが放射能の怖さを知らなかった。広島長崎の原爆はその恐ろしさを即座にわかった。十万も死ねばその恐怖にうちのめされる。しかし今回の原子力事故はそういうものではなかった。即座に爆発して人が多数死ぬということは起こっていない、確かに一人も死んでいない。でも放射能の危険を知っていた人はその現場で働く人だった。

爆発したときは相当に危険だったしどうなるかわからない危機感があった。もしあの爆発した現場にいたらさらなる大爆発が起こり原爆のようになるとさえ思った人がいた。だからこそ東電の社員も大勢逃げた。それは放射能の危険を知っていたからだ。放射能の危険を知らないものは簡単に逃げない、津浪でも津浪の恐ろしさを知っていたら即座に逃げた。そういう危機感がないものは逃げない、放射能の恐ろしさを知って逃げなかった50人が称賛されたのはそのためである。その時は死ぬのではないかという恐怖に襲われても残っていた。30キロくらい離れていれば爆発してもたいして害はないと考えていた。そういう人が結構多かったが郡山市や福島市まで放射能の影響があった。それは意外なことであった。


そしてその後の経過をみると爆発してまた爆発して黒煙があがった。あれば原爆のキノコ雲のように見えたから恐怖があった。そしてこれからどうなるのだろうと毎日テレビに釘付けになり見ていた。というのは逃げられないしそのあとどうなるのかが見当つかなかったからである。最悪爆発したらどうなるのかと戦々恐々して見ていた。自衛隊や消防隊の決死隊が来て消化活動したときはなんとかおさめてくれと祈るような思いで近くの人は見ていた。それは離れている人にはわからない危機感だった。人間はそうして被害を受けない限り被害を受けたものの気持ちはわからない、ただ事件でもテレビで第三者として高みの見物になる。その時大和魂の特攻隊の再現だというときこれが特攻隊なのかと当時の戦争のことがリアルなものとして共感した。

戦争のことは家族にも従軍看護婦としてシンガポ-ルに四年間いた人がいて死ぬまでその話を聞かされていたので身近なものではあった。しかし戦争という異常事態を理解することはむずかしかった。それは余りにも日常生活とかけ離れたものとなっているからである。しかしこの時
大和魂は死んでいないとかなったとき戦争のことも理解した。日本が危機に瀕したとき日本を救うために命をかける人達がいた。それは自分たちの命も守ることでもあったからよりリアルなものとしてあった。人間は直接的に自分の利害に関係しないものは関心がもてない、自分の命が危うい、その命を守ってくれのが今命をかけて消火活動している人達だとなると祈るような気持ちになった。一挙一頭足を注意してみていた。


特攻隊も戦争の原因は何であれわかりにくいにしろ特攻隊を志願した人や強いられた若者でも日本を救う日本の危機を最後に救おうとして自分の命を国のためにささげたことは間違いない、それは大和魂に通じるものであった。日本はぎりぎりになったときそういう人達がでてくる。一方で官僚や政治家のようにただ一身の安全を計り暴利をむさぼるものもいる。これは明治時代からそうなった。人間は危機のとき真価が発せられるのは同じである。戦争というのは今になっても何かわかりにくい、全容をとても理解できない、人間の弱点は今の時点からしか理解できないからである。今の時点からしか過去を考えることができない、そこに過去に対する誤解がいろいろと生まれてくる。それはどうしようもないことである。特攻隊についても国のために犠牲にされた気の毒な人達だったというのもわかる。その責任は誰にあるのかともなる。ただ特攻隊の若者の心は純粋でありただ国のために命をささげた。最後のぎりぎりのところでそうなった。それは今回の原発事故のことでわかった。日本中がなんとか原発事故をおさめてくれということでは一致していた。日本国が滅んでしまうとかの危機感すらあったからだ。もうチェルノブエリのように決死隊で収めるほかないとまでなっていたからだ。現実にチェルノブエリでは30人くらい死んだからである。その人たちは今は英雄として祀られている。


本当に国のために民衆のために働くものは誰なのか?それは官僚でも政治家でもなかった。
消防隊やら自衛隊やら警官でもそうだった。官僚や政治家や学者は率先して津浪でも原発事故でも救助にあたらなかった。自衛隊では三人死んでいることでもわかる。そういう過酷な現場で働いた人は官僚ではない、そして原発事故でも残った50人をのぞいてはそうではなかった。保安院とかは一番あてにならない、危険のさい何の役にもたたなかった。だから不安院と呼ばれた。日本人の強みは危機にさいしては一致団結して最後にぎりぎりになったら大和魂で国のために命を捨てる人がでてくる。そういう国であることが今回の津浪と原発事故で起こった。

ただ津浪などでは火事場泥棒が横行したから暗黒面はあったからすべて称賛はできない,特に現代はそうした日本人的モラルは喪失していた。金だけを追い求めるのが常態だったからこうしたこが起きても普通のことである。ただ一方で危機のときには日本人は一致団結して協力するということはまだあった。そういうことを身近で目の当たりにした。戦争というのは未だに何なのか理解できない、それはあまりにも日常から離れすぎていて理解できないのである。そこには平和な日常でありえないことが普通に起こっている。殺人が日常だという世界がとても今の世界からは理解できない、だからなかなか戦争は何だったのかということが語れないのである。


みくにのため命ささげる若人のたぎる思いや鬼百合の咲く

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2011年08月15日

NHK-ETV特集アメリカから見た福島原発事故 (起こるべくして起こった事故)


NHK-ETV特集アメリカから見た福島原発事故
(起こるべくして起こった事故)



●原発のマ-ク1の危険性はGEも知っていた

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東電のHP(注1、注2)によれば、BWR(沸騰水型原子炉)にはマークT、マークU、そしてマークU改良の3タイプがあります。今、危機に瀕している第一原発1号機、2号機、3号機、4号機はいずれもマークTという旧式です。この旧式原発マークTの特徴は、米国GEオリジナルタイプであるということです。マークTは、GEの設計図に沿って、GEの指導の下で東芝、日立が建設したものです。

危機に瀕しているのは、もっとも旧い同じ敷地内の1〜4号機(GEオリジナル)に絞られます、つまり同じ第一原発でも5号機、6号機(1号機〜4号機の建設後のフィードバックにより改良されているはず)は危機に瀕していません。


後藤さん、マークT問題は分かっていたがアメリカでは廃止しようという話にまでなっていたのは知らなかった。日本ではさらにもっと柔らかくされ、問題の深刻さとして伝わっていない。ト



今回のNHKの番組はわかりやすかった。GE制のマ-ク1の原子炉は作った人も危険を感じていた。原子炉が小さいことなど初期のもので改良されていなかった。日本に導入されたときまだ営業運転すらアメリカでしていなかった。そういう原子炉技術として不完全なものを日本はアメリカからいち早く導入した。そこがつまづきの元だった。結果的に福島第二原発は日本によって改良されたものだから事故からまねがれた。理系でなくても今になるとその原因を説明されると霧が晴れたようにわかる。最初に失敗したのが津浪を想定しないから地盤を切り取り地震にそなえるため安定した所に建てた。これは鹿島建設が請け負った。建設会社も参加する総合的なものとして原発は造られた。そこで一番悔いているのが津浪を想定して高くしていれば女川の原発のように津浪にも持ちこたえた。東北電力は地元だから津浪を想定していた。地元というときやはり地元と風土に通じているから風土の影響を考慮する。


●風土と文化の影響を考慮しなかったのも原因

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そしてこの風土の影響は文化の基である。風土が文化を作っている。稲作が水の管理が大事だと書いたときそうであった。技術でも風土にあったものが必要である。日本でトンネルの技術が発達したのは山国だからそうなった。技術と風土は関係している。アメリカではマ-ク1の原子炉は津浪や地震に弱いということで西海岸には作っていなかった。これは重要なことである。アメリカではすでに西海岸には津浪と地震がありそれを想定していた。しかし日本ではこれだけ地震があり津浪もあるのに地震には想定したが津浪にはしていなかったことが致命傷となった。地盤を地震に備えて低くしたのもそうだし非常用のデ-ゼル電源をなぜか二つも地下にもっていた。これも津浪を全く想定していない大ミスだった。日本には安全の思想がない、多様な危険に備える安全の思想がないというのも本当なのだろう。ここにも安全に対する文化の相違があった。日本の製品が安全だというとき個々の製品の安全でありこうした巨大な原発のような安全とは違ったものになる。電気製品を作るような安全では日本人は優れていても巨大技術の安全を計る思想には欠けていた。


最初に危険なマ-ク1をアメリカから良く調査しないで導入した。もちろんアメリカ側にもかなり責任がある。危険なものだと知っていたからである。そして良く安全を計ることを注意していなかった。アメリカでは地震も津浪もない東側に作っていたからである。グロ-バル社会になると相手の地理や文化や風土を知らないで安易に便利ものとして文明の利器を導入すると問題が起きる。グロ-バル化社会とは常にそういう思わぬ危険にさらされている社会なのである。外国から思わずウィルスが侵入してくるのもそうである。グロ-バル化といっても風土と文化の相違があるからそこに合わないものが問題を起こす。それが致命傷になって民族が滅亡することさえありうる。そういうこはインディアンが白人によってアルコ-ルがもたらされ中毒になり病気になったとかインカ帝国がスペイン人の少数の侵略者によって簡単に滅亡したことなど例がある。馬を見たことがないから馬に乗った人を神と見たということなどが原因だった。日本ではもともと魏志倭人伝には、「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とあり海産物を主体に食糧として生きてきた民である。だから日本では海産物からヨウ素をとっているからチェルノブエリのうよに甲状腺ガンにはならないというのは風土の文化の影響なのである。そういうことが必ず世界にはあるのだ。遣唐使を派遣しても他国の文化が日本を圧倒することはなかった。日本的文化になるのが文化なのである。仏教なども全く日本的文化で骨抜きにされた。いい悪い別にしてお盆の先祖供養とか死者の供養は極めて日本的な習俗であり仏教徒は何ら関係ないものである。でもそれは日本の習俗、文化だから仏教も日本の習俗化したのである。


●縦割り分業化も失敗の原因


後藤さん、ある分野では技術者同士が議論しているが、今はそれが欠けている。一つには分業が進み、自分の所掌以外に踏み込むのが越権行為と見なされる部分がある。昔は原子力に関わらずそうではなかったのではないか。技術屋同士は互いに踏み込んで交流があったが薄れているのではないか
http://togetter.com/li/174540


もう一つ重要な事故の原因として分業体制があったという指摘である。縦割りの分業体制であり他の分野に立ち入れないし議論も綿密な話し合いも部署が違うとしない、しかし原発のような危険なものを運営するには総合的に見る指令する人が必要になる。それがもてなかった。それは常に複雑化した文明で日常的に起きている。全体を総合的に見れる人は誰もいないのである。指令すること自体不可能な社会になっている。人間がバラバラな部品になっている。その無数の部品を組み合わせ総合的に見れる人などいないのである。それはそれぞれの対応がばらばらになっていることでもわかる。全体を包括して見れる人はいない、部分的に専門的になれる人はいる、でも全体的に見れる指揮官はありえない、無数の配管が迷路のように張りめぐらされている。その一つ一つを知る人などいないのである。だからいったん事故になったらパニックになるのである。もう治める人がいないのである。結果的に恐ろしいことはもうどうにもならないと放置されることさえありえた。原発事故はもう収拾できないとして逃げる他ないとして大部分は逃げた。そしてそこは放射能をだしつづける核の墓場とさえなりえた。今でも一体溶けた核の燃料棒がどうなっているのか明確にわかっていない。原発がそれだけ危険なものなのに日本ではこうして安易に導入されたのである。


失敗の大きな原因として地震にばかり気がとられていた。地下に非常時のデ-ゼル電源を置いたのも地震に対する安全を計ったためである。地震と津浪はセットになっているのだけど地震ばかりに気がとられていた。多様な安全性を計らなかった。多様だということは総合的にみるということである。それが文明では一番できないことだから文明社会の事故はそういうところから必ずまた起きてくる。文明社会は無数の部分の集合であり全体を見る人はいない、日本人が優秀だというとき個々の製品を作るのには優秀でも全体を統括するような安全を計る技術ではアメリカなどより遅れをとっていたのである。日本はアメリカの宇宙開発や核開発や大型の技術開発には向いていなかった。もともと細部にこだわる職人芸には狭い風土で優れていた。小さいものにはこだわり精巧なものを作り上げる。しかし原発のような巨大なものになるとそうはならない、日本が技術が優秀だというとき技術にはいろいろあるからすべてにおいて優秀だとはなりえないのである。そこには必ず風土や文化の差がでてくるからである。アメリカとか中国の風土はあまりにも日本と違いすぎる。グランドキャニオンでもそこが地球なのかとさえ思う。地球の割れ目というべきものでとても日本では考えられない風土である。とてつもないでかさが共通してある。万里長城もそうである。日本はだからグランドデザインが苦手なのである。そうしたどこまでも広い平坦な土地がないのである。


posted by 老鶯 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連