2011年08月01日

万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保路をば 荒しやしてむ 見るよしをなみ 


ゆふぎりに ちどりのなきし さほぢをば あらしやしてむ みるよしをなみ

http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/6812768.html

これは死者を偲ぶ歌だったのか。これは不思議な歌である。万葉集は本当に理解しかねる不思議な歌がある。これは津浪の跡の風景にもにている。荒しやしてむ・・・・・これは荒寥とした津浪の跡でありそこに死んだ人が多数いる。家の跡も残っている。千鳥が鳴くというとき自然に還ってしまった砂浜があり死んだ人は消えた。そこで死んだ人をもう見ることができない、そんなふうにも解釈できる。万葉集の解釈にはいろいろありその人の心象風景によっても違っている。これも死者を偲ぶ歌として秀逸なものとなる。万葉集には生きている人ではない、死んでいる人を思っている、偲んでいる歌がかなりある。死んだ人を思うことこそ偲ぶことこそ最も深いものがある。ただ恋だけだとすると何か浅薄なものとしかならない、そんなことありふれたこととなるからだ。


本当に磯部などでも一軒の家もない、砂に埋もれた原始の砂州に還った。荒しやしてむ・・・・
と死んだ家族を思っても見ることはできない、そういうことが過去にも万葉集時代からどこでもあった。思う人、愛する人、・・・が消えてしまった。ただ自然に戻りそこは砂州となり海の鳥が歩くようになる。万葉集時代だと自然が今とは違って残されているから余計に荒しやしてむ・・・という光景がいたるところにあった。荒野が広がりやすいのである。津浪の跡はこの辺では荒野に、原野になってしまった。でも現代でこんな原野になることなど滅多にない、いづれにしろ万葉集は何を思って歌にしたのか不可解なのが実は多いし謎が多い、その謎は何か今になると解明できない、でも現代に通じるものがある。これも津浪の跡の荒廃した自然と通じている。

ともかくこれほどの人間が死んだことは経験していないし一人の死者を弔うのではない、万人の死者を弔うことは戦死者を弔うのとにている。戦没者慰霊祭みたくなってしまう。今年のお盆はそうなっししまう。


万人の死者を弔う盆にあれ死者の無念を深く思うべし


みちのくの津々浦々に万人の死者の霊浮かびけるかも


まだまだ死者の霊が津浪の被害の跡にはただよっている。突然のことだから死者も浮かばれないということもある。やはり非業の死とか突然の死は無念でありその怨念ではないにしろ無念が残る。国民の鎮魂が必要となっているのが今回の津波の被害だった。

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きりのはな(桐の花)-詩




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きりのはな


みそらにたかく

あるとしもなく

つつしみふかく

ちりもつかずに

みなもにひそか

かげうつし

ちりにけるかな

たれかしる

みそらにつきや

かげうすく

ひるしずか

しんとして

そこはかとなく

かみのみむねに

そのはなの

さきてきえにき



posted by 老鶯 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2011年08月02日

ひぐらし(日立木村のまちばはし)


ひぐらし(日立木村のまちばはし)

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青蔦の絡む祠やまちばはし


ひぐらしや街道細くまちばはし


ひぐらしや五反田多し日本かな


月見草草むら深く咲きにつつ小雨のふりてまちばばしかな

日立木村のことについて書いたけどここは立谷村であった。この川は立谷川であり他に日下石(にっけし)川がある。日立木村はと日下石と立谷村と赤木村が合併してできた村である。ここは立谷村である。日下川と立谷川をはさんで町がある。赤木は離れている。この辺に村が三つあったことでも江戸時代は小さな村単位であった。小さな村単位で協力していた。米作りは田んぼも水の管理が大事でありそこから共同性が生まれた。祖谷では田んぼを作らないから一軒一軒あんな山に離れて孤立して家が作られたというのも気づかなかった。田んぼを作ることは共同作業なのである。米作りには水の管理が重要だからそうなる。焼き畑や蕎麦作りにはそうした水の管理はないのである。水田は水の管理と一体なのである。


町(マチ)は今の町ではない、村の中に町があり村が先である。町は一区画の意味である。町場というときやはり立谷村は当時は家が集った町場だったのだろう。町場町というのもあるから複雑になる。ここに薬師堂があり古い飢饉の供養碑がある。つまりここは江戸時代からの古いものが残っている場所だった。でもこれがまちばはしとなっているのは初めて気づいた。橋の名前には注意する必要がある。郷土史研究には小字とかの地名も知る必要がある。それが地図にはのっていないのだ。だから地図からだけではすべてはわからないのだ。地籍図が必要なのである。小さな橋は小字地名がつけられるから貴重である。

いづれにしろまちばはしというのは何か注目しないが歴史を感じる。百尺観音とかは何か歴史を感じない、ただ大きいだけで価値がそんなにないように思う。明治以降ただ大きく作ったということで関心をひいたのである。歴史的価値はない、歴史的価値あるものは必ずしもそんなに眼をひくものではない場合がある。過去はそもそも埋もれているから誰かが発見しないと生きてこないのである。この立谷の薬師堂とまちばはしと祠は何か一体となって語りかけてくるものがある。ただこの祠は古いものでないかもしれない、まず明治以降になるとそれほど価値なくなるのだ。薬師堂は前にも書いたが江戸時代でも相当古いのである。この辺が確かに昔の街道の面影を残しているのだ。
結局人間はなかなかそうした昔を感じることが気づくことができない、あの辺は松並木もあるから一番昔の面影が残っているところなのである。


今年は草が刈られないから草が伸び放題であり月見草が一杯咲いている。月見草も草とあるごとく草の一種であり草と共に繁茂する。自然はほっておくと原野化してくる。相馬市では田んぼがあるから感覚的に違っている。五反田という地名が日本に多いのはそれだけ零細な百姓が多かった。五反百姓が大勢いたのである。会津で洪水の被害にあったところでも五反田橋が流されたとかあった。水田にはひくらしが鳴くのにあっていた。それは古来からの日本の風景となっていた。ところが今年は原発で南相馬市からは水田は消えて草原化しているから風景が変わっているのだ。水田がない風景は北海道である。


   蜩(ひぐらし)は、北海道のセミではない、北海道には、

   蜩(ひぐらし)はいない、とずっと思っていた。
   鳴き声を聞いた記憶がないからだ。


北海道には蝉はいてもなにか草原地帯になると蝉がなくのもあっていない、草原と蝉はあっていない、草原と水田の感覚は相当違っているのだ。

 
 

2011年08月03日

大和元興寺五重塔跡の桜


大和元興寺五重塔跡の桜

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白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 1018
この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)るの意味
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのです


「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失して
しまいました。本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。
 
 「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
  寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。


室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/gankouji.htm

 



元興寺の礎石



元興寺その謂われは古き

飛鳥仏にもさかのぼるかな

平城宮(ならのみやこ)の大寺なりしも

華やかに五重塔のここに聳えぬ

都は奈良より京都に移りぬ

その栄えもいつしか衰えぬ

ただその塔跡の礎のみ残りぬ

今し桜の花の盛りなるも

その花びらの礎石に散るもあわれ

地元の人の集い花見かな

元興寺の広き境内は奈良町となりぬ

世はかくして移りゆくものかも

その大和の歴史の古きを偲べ

春の日はさして古の栄の日は遠し

ただ礎石のみそこに残りぬ

 


たまたまテレビで地元の人が集い花見をしているのをみた。そこは元興寺跡であり礎石が残るだけだった。この元興寺は日本最初の飛鳥仏があり飛鳥寺をひきついだとすると本当に古いものである。それで万葉集にもここの寺の僧が残した歌があった。それが旋頭歌というのだからどれだけ古いかわかる。


旋頭歌について
http://neige7.web.infoseek.co.jp/sedoka.html

一種の掛け合いの歌であり民謡から発したものである。万葉集の基はもともとそういうところにあった。奈良の寺は規模も大きかった。官寺であり鎮護国家を目的としていたからだ。東大寺の奈良の大仏もそうである。蝦夷征伐などがあり鎮護国家が急務だった。日本統一するあたってかなりの犠牲者が出たからである。その霊を鎮魂する寺だった。だから死者を弔うことなどしない、もともと仏教は死者を弔うことはなかった。お盆とかは日本の古い民間の習俗が基となり仏教にとり入れられたのである。仏教そのものにはそういうことはなかったし戒名もつけることもなかった。それは僧侶にのみつけていたのである。この元興寺もやがて庶民の信仰の場となり変質した。その前に一揆があり五重塔の消失したというのもいかに歴史の変遷をしているかわかる。


奈良や京都を旅してもなかなか歴史はわからない、奈良町に実際自分は訪ねている。でもここが元興寺の境内跡だったということは知らなかった。歴史とはそれだけちょっと旅で訪ねただけではわからないものがある。自分の住んでいる場所すら奈良のような歴史がなくてもそれなりにある。でもそのことがわかるのは容易ではない、住んでいれば歴史は自ずと身につくことはある。結局なぜ歴史がわかりにくいかというと人間の社会というのは無常だからである。人が死んだらたちまち忘れられて墓の名前くらいしか残らず不明になる。残るのは人間の無常の跡だけである。五重塔があったといっても礎石だけになる。でもそれだけでも残っているから奈良などは歴史がある。万葉集にもその寺の僧が残した歌まで残っている。そういう点で歴史を認識する点でみちのくとはずいぶん違ってくるのだ。


無常といえば前に平城宮を訪ねたときそこは枯野だった。そして月がでていた。実際に何もなかった。今は平城宮跡に立派な門を再現している。でもそうしたことが昔を偲ぶことなのかというと疑問なのである。歴史はやはり人間の無常を示す場なのである。芭蕉が平泉を訪ね「奥の細道」を書けたのもまさに観光地化していない無常を感じたからである。今のように観光地化博物館化したりしたら無常を感じない、するとかえって昔を偲べないという皮肉が生まれる。そういうことか現代では多すぎる。旅人は今は浅薄な体験でしかない、深い体験になりにくいのだ。テレビを見て旅をすることはできない、でも結局その背景の長い歴史を知ると見る眼が違ってくる。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。たいがい実際にその場を踏んでいるので必ずしもパ-チャルにはならない、自分の体験からものが書けるのである。


テレビ番組の問題は大衆向けに視聴率が絶えず念頭にあるからむずかしいことはやらない、NHKの大河番組でも通俗的歴史解釈であり歴史の真実はわからなくなる。現代の問題はすべてが大衆向けに作り大衆化するからかえって事の真相がわからなくなる。だからテレビとインタ-ネットの統合が必要になってくる。自分がしていることはまさにテレビとインタ-ネットと自分の体験を一体化して編集したものなのである。

大和元興寺五重塔(極楽坊五重小塔)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_gangoji.htm


ここは古い図がでていて詳しい、五重塔は江戸時代まであった。それなりに詣でる人がいた。

引用したテレビの写真は著作権にふれるかもしれない、誰でもとっている構図にしても桜咲いているときだから貴重になる。ぼかしているからわからないか?今は映像の時代だからどうしても映像化することが要求される。ただ映像だけではわからない、歴史の長い深い背景がある。
それを知らないと何か深い感慨にはいたらない、それがわかるのは芭蕉の平泉の金色堂の俳句なのである。


メデアの変化

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テレビにはテレビの役割はまだある。でもテレビが独占した時代は終わった。インタ-ネットを通じて多角的になった。テレビは大衆的通俗的すぎることである。これも何百万の人にみてもらうためにそうなる。どうしても低俗化する。一方インタ-ネットは素人的専門性がある。でも本の専門性に比べると相当に低い。専門的な本を読むことはそんなにできない、本はプロが書いているから金にもなる。だから簡単な名所の案内などに役に立つ、だから創造的なもの著作権があるものとは限らないものが多い。

ただ大衆的なものよりは素人的専門性がインタ-ネットで備わりそれからより知りたい人は本を読むことになる。一般的に本を読むまでになるとあまりしない、テレビだけの時代は終わった。

ここで新聞は入らないが新聞はテレビより必要なくなった。テレビはやはり映像ということで情報発信で強さをまだ持っている。本はプロ的なことでまだ強さをもっている。新聞は映像もだめだし専門的発信もないから新聞は衰退し必要なくなる。インタ-ネットは速報性があるのだからそこで生き延びることもありうるがその内容によるだろう。情報環境は今やインタ-ネットなしではありえないのである。インタ-ネットに組み入れられることを拒否してももはや無理だし無視できない、そういう必需品になっているのだ。インタ-ネットでもやはり専門性があればどこでも生き残る。専門的なものを追求するのは別にメデアとは関係ない、それは相当な積み重ねや努力が必要でありインタ-ネットの素人集団だけでは書けないのである。

天変地異の貞観時代の再来 (民心の乱れが怨念が自然に影響した)


天変地異の貞観時代の再来
(民心の乱れが怨念が自然に影響した)


祇園祭の起源は平安時代初期にさかのぼります。当時、京の都では疫病が流行していました。人々はその原因が恨みを現世に残して死んでいった人々の怨霊の祟りであると考えました。そこで神仏に祈りをささげて祟りを鎮める事を目的に、市中を練り歩く「御霊会〔ごりょうえ〕」を行いました。
この時代は天変地異の時代だったんですねえ。貞観3年に隕石が落下し、16年間の間に、火山噴火だけでも4つの山が噴火し、地震もあっちこっちであり、11年に貞観地震で津波が発生しています。。


869年 貞観地震 大被害、大津波
878年 関東地震 関東地方大被害
880年 出雲地震 島根県大被害
881年 平安京地震  京都大被害
887年 西日本地震 津波発生 南海東南海連動地震の可能性大


地層堆積物から、西暦1500年ごろ、貞観津波、西暦430年ごろ、そして紀元前390年ごろに今回のと似た広範囲を襲った津波があったとしている。津波の再来期間は450〜800年程度。そして、直近の津波が1500年ごろにあったのだとしたら

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。


そして11年には貞観地震と貞観津波が陸奥国を襲いました。自然災害ではありませんが、この年には新羅の海賊が博多に侵入しました。貞観の韓冦と呼ばれます。

13年には鳥海山が、16年には開聞岳が噴火しています。
京都の夏をいろどる八坂神社の祇園祭は、まさにこの混乱の時代に成立しています。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。


どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都を繰り返したのかについて、それ が「怨霊」のせいだと知っている。実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元彦が「逆説の日本史」の中で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようやく認識されようとしている。



みちのくと奈良や京都の関係はあまりないと考えるがみちのくは奈良の平城宮時代から深い関係があった。清水寺の起源も蝦夷の鎮魂に由来しているとなるといかに古いかわかる。
そういう歴史的背景を知って訪ねるのと知らないで訪ねるのでは感想が違ってくる。奈良時代から平城宮時代から実は蝦夷とは深い関係があった。 陸奥(みちのく)真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを(笠女郎)もそうである。祇園祭りの起源がこれほど古いものであった。貞観時代から発していたとかそれも疫病を鎮めるためだとかそれは天変地異の貞観時代は日本中不安に襲われていた。だから天皇の政権争いの怨霊だけではない、蝦夷の怨霊も深くかかわっていた。だからこそ奈良の大仏はその蝦夷の怨霊を鎮めるための国家鎮護の大仏だった。奈良時代は日本国家統一の時代であり国家が深くかかわる、国家を強く意識する時代だった。それが遣唐使を遣わしたことでもわかる。対外的にも唐ではあるが意識した時代である。奈良時代に日本国家の礎ができたのであり極めて国家を意識した時代である。その後の平安時代となると万葉集のように国を意識したものはなくなり平安貴族の宮廷の物語になってしまった。

だから歴史をふりかえると貞観時代はちょうど明治時代にもにている。対外的に唐を中国文化を国家的にとり入れた時代である。明治維新も国家的にヨ-ロッパの文化をとり入れた時代である。そして今なぜ貞観時代と同じような傾向になったのか?それは多賀城下まで津浪がおしよせ大混乱になったことが記されている。多賀城には京都などから来た官僚がいてその津浪に恐れおののいた。蝦夷の軍事征服は決着したとしてもまだ蝦夷の怨念はみちのくに強く残っていた。そういう時代に大津波が襲い多賀城下までおしよせ都の人はおそれおののいたのである。怨念が自然に影響して動かすことがありうるのか、そんなことは科学的ではないとなり受け入れられないが民心が乱れるときそういう天変地異も起きてくる。だから貞観時代と現代は通じるものがあるかもしれない、民心は今や乱れ飽和点に達していたのだ。それを明かにしたのが津浪で破壊された原発事故だった。いかに政治家から官僚からマスコミから科学者がただ利得のみを求め原発を推進したか、これには国民全部がかかわる問題だった。原発を推進した指導者たちが犯罪者だったことが明らかになった。津浪が知られざる罪を暴露したのである。


これは人間の力ではできないものになっていた。だから天変地異にはそうした天からの警告があり罰である場合がある。本当に巨大な天変地異で滅びたアトランティス文明があるとかそういう巨大な変化が起きたことが知られざる遠い過去にあったかもしれない、そういうことも起こり得る。江戸時代が飢饉があり地震があっても比較的平穏だったのはやはり民心がそんなに乱れていなかった。何か全国的な怨霊となるような事件が少なかった。それで白砂青松の人工的な日本の美が海岸線の開拓とともにありえた。その時は大津波は来なかったのである。もし来ていたら海岸近くの開拓をしていなかっただろう。江戸時代の三百年は平和が満喫されたのである。それは民心が乱れず安定していたともとれる。明治時代以降は民心は安定せず乱れが激しくなった。世界戦争にも加わり大きな犠牲があった。それから民心はやはり金銭崇拝となり物質至上主義のモラルの荒廃時代の極点に達していたのだ。その時、大地震、大津波、原発事故になったのである。原発事故は疫病の再来でもある。疫病になれば食糧も安全ではない、これは貞観時代の再来である。それも民心の乱れがあって貞観津浪と同じように東北に起こったともとれる。だからこれから東海地震,南海地震とか連続して大地震が起こり津浪も起こる。それはすでに科学的に予定されているから単なる脅しではない、貞観時代と同じになってくる。しかしその被害は文明化しているからとてつもないものとなる。そういう不安の時代に突入しているのだ。だから祇園祭りのように日本の天地を鎮める祭りも必要になってくる。やはり人心の腐敗は自然にも影響するのである。


個人的にもここ五年間に自分に起きたことは未だに信じられない、それは家族の認知症からはじまった。そこから歯車が狂ってしまった。家族はばらばらに住むようになりそれから自分の病気や犯罪などにあう、交通事故にもあうこれほどの災難があるのかと思った。自分に起きたことは今は回りで起こっている。家族はばらばらに住むようになるとか家を留守にして火事場泥棒にあうとかそういうことが同じように起こっていることの不思議である。これも自分に起きた不運と関係していた。自分だけではない、他でもこういうことが起きている。金にまつわる事件は増えている。そして人々の心はすさんでいる。それぞれに怨念が強くなり増大の一途をたどっている。そういう人心の乱れが怨念が自然に影響したということはありうるのだ。定期的科学的に起こるものであり関係ないとはならない、貞観時代は今とにて人心の乱れがあったのである。

 
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2011年08月05日

ふるさとの山はありがたきかな・・・ (原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの山はありがたきかな・・・
(原発事故で故郷に帰れない人の気持ちは・・?)


ふるさとの 山にむかいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな 啄木

この山は岩手山だった。あの山は独立峰で姿形もいい、阿武隈山脈には高い独立峰がないからものたりない、会津には2000メ-トル級の山がいくらでもある。だからあういう高い山を毎日望んで暮らしている人の気持ちがどうなるのだろうかとなる。会津の文化は山を知らなければ知り得ないものである。今回津浪にあった所は海を知らなければ知り得ないものである。だから浜通りと会津は全く対称的であり違った世界なのである。だから同じ福島県でも全く違った風土の中にある。


啄木の生まれた渋民村からは岩手山が見えた。盛岡にも住んだことがある。岩手山のような山は何度見てもあきないだろう。だから故郷の
象徴になる。でもこの辺では山が故郷の象徴になるりえない、そうした眼をひく独立峰がない、中通りは高いやまがあるからなる。安達太良山や吾妻山は高いから山が故郷の象徴となりえる。現実に万葉集にすでに安達太良山は歌われている。ただではこの辺で山が故郷と関係ないかというとそうでもない、山は岩手山のような高い独立峰ではない、身近な山でありそれは柳田国男が指摘した祖先となる山である。それは葉山信仰に通じていた。山で潔斎するというか山は神聖な場所としてあった。それは結局深く稲作、水田と結びついていた。日本の文化の基に水田が稲作があり稲作の最大の特徴は水の管理だった。ここから共同性が生まれ国が生まれた。狩猟や採集や焼畑などからは水田のような共同性は生まれない。だからみちのくの蝦夷には国が作れなかった。国としての大きな共同体を作り得なかった。縄文時代には大きな統合した国はなかった。弥生時代になり稲作がはじまって国ができたのである。


まず山がありがたきかな・・・という感覚が今では生まれない、啄木は都会でこの歌を作ったし農民ではない、農民出だったらこういう歌ができるのもわかる。放浪の詩人でありむしろそうした狭い郷土から脱出したいという強い願望があって実行した。自分なんかそうでありだからこそ
ふるさとの山はありがたきかな・・・という感覚がわからない、これは切なる望郷の心から生まれた歌である。でも故郷の山がありがたきかなというときそれは高い独立峰の岩手山より裏の小高い葉山信仰に通じている感覚である。そうした山は水田による稲作と密接に関係していた。



山の森は水をたくわえ水を供給するからこそ神聖な山となり祖先の山となり信仰にまでなった。
最初からなぜ日本の中心でなく大和盆地の飛鳥が先になったのかというと飛鳥から水田を造り始めたからだ。大阪は難波江であり八十島であり大きな入江であり葦原の入江であり水田に適していなかったのだ。まずなんらかの生産力がないと貯えがないと国は興らない、飛鳥で水田を米を作り始めて国力がついてきて飛鳥から藤原宮-平城宮-平安宮と発展した。
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm


「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。


岩手県植樹祭

岩手なるあがたの民の憩場(いこひば)の森となれかしけふ植えし苗 昭和天皇

 


あがたの民と言うから天皇のなかには感覚的に古いものが受け継がれた来たからこそこの歌ができた。基本的に最初は上田(あがた)であり下田が田の地名である。南相馬市鹿島区では栃窪が古代より早く拓けた古い栃であり上田(あがた)とにている。上田は水がいいからいい米がとれる。栃窪の米がうまいというのはそのためである。
最近津浪でわかったことは原発事故で水田がなくなって草原化した、それは水田と全く違った自然だった。風まで違っている。草原をふきわたる風と水田を吹き渡る風はまるで違っていた。この感覚はモンゴルの平原であり北海道である。ある一面水田と違って気持ちいいということもあった。海から草原に風がわたってくる。何か心まで広々とした感覚になった。つまりそれだけ感覚的に水田と草原は違ったものなのである。北海道の苫小牧に上陸したときすでに空気まで違っている感覚と同じだった。


今原発事故で故郷に帰れなくなり故郷に帰りたいという人々が何万といる。でも啄木がふるさとの山はありがたきかなという望郷の感覚は生まれないだろう。浜通りならそうした感覚はうまれがたい。そもそも農民でもそういう感覚は今はうまれがたい、だから原発を積極的に双葉町などでは誘致した。盛んに故郷に還って農業をしたいというが一方で外からは原発から金をもらい恩恵受けていたのだから同情しないという人も多くいる。そんなに故郷が大事ならなぜ反対しなかったのかと言われる。それも確かにあった。今や原発はありがたきかなというふうになっていたのだ。葉山信仰など今はない、経済的効率とか産業としての農業しかない、だからふるさとの山はありがたきかな・・・と今思っている人はほとんどいないだろう。ありがたきかなというと何か自然信仰に通じるものがあった。今は農民さえそうした信仰もないしあるのはどうしたら金になるのかしかない、それはどこでも同じだからそれほど故郷にこだわる必要があるのかと外からみられる。ただ老人は惰性で動けないだけなのである。


葦辺(あしへ)行(ゆ)く、鴨の羽交(はが)ひに、霜(しも)降(ふ)りて、寒き夕(ゆふへ)は、大和(やまと)し思(おも)ほゆ
志貴皇子(しきのみこ)

これも望郷の歌だった。寒々しい難波の宮で歌った。これからも原発事故で避難した人は仮設住宅などで冬も越す、そういうとき寒い冬に耐えてやがて故郷に帰れる日があると思う。そういう気持ちとしてこの歌は秀作である。これも望郷の歌だったが啄木などとは違い荒寥とした自然の中で歌ったものだから感覚的には相当違っている。
posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年08月06日

山は死者の眠る神聖な所 (科学万能主義の危険-原発事故の原因)


山は死者の眠る神聖な所
(科学万能主義の危険-原発事故の原因)



祖父の山放射能にけがされてその眠りしも安からならぬも


祖父の霊山に鎮まるその山を放射能けがし山神怒らむ


人住まぬ山となれるや祖父の山誰か祀らむ山神淋し

今起こっていること何なのか?浜通りというと海岸線だから海を糧にした生きてきたように見えるけど漁業より農業が主である。仙台湾辺りまでそうである。漁業が主なのは三陸や岩手県のリアス式海岸である。そこで田を作る平地がそもそもないからだ。ただ海の恵みは豊だった。
仙台平野は稲作のために開拓された土地であり漁業とは関係していない、つまり稲作が主だというとき実は山との関係の方が密接なのである。そこが見落とされている。だからこそ浜通りは阿武隈山脈-高原と密接な関係がある。例えば浪江町の領域は津島までありそこは相馬藩の山中郷の領域であり葛尾村もそうである。そしてこの葛尾村が自分の父親の生まれた出身地だった。双葉町の酒屋に奉公に出たということで原発のある双葉町とも関係が深かった。
良く我が家に子供の頃来ていたじっじとばっばがいた。その人も30年前に死んだし葛尾村の実家もなくなった。今になってそのじっちとばっばのことを思い出してなつかしくなった。その人たちは葛尾村の山の中の墓に埋められていた。日本人は山に死者を埋めていた。だから山が神聖な場所ともなった。死者が眠る場所は神聖なものとなる。

 こもりくの初瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ 柿本人麻呂


これは死者のことを雲にみたてたのである。こもりくとは奥深い山である。山で死者に会うのである。海や平地で死者に会うということはない、古来から日本では山に死者が葬られ眠っている。だから葉山信仰もそういう死者が眠る山と水田をうるおす水を与えてくれる山として信仰の対象になった。里山が葉(端)山である。村はムレから来ておりこれは水田とはそれほど関係していない、ただ人が群れるからムラとなった。里はそのあとにできた言葉でありこれは弥生時代に水田化されたときできた言葉であり里山もそうである。これも稲作によりできた日本の風景にマッチした言葉であり白砂青松の風景も稲作のために海岸近くを干拓して塩害から守るために松原として防潮林を作っのである。日本の風景は極めて稲作、水田により人工的に作られたのである。そのこは今この辺で水田がなくなり草原化したことでわかった。水田は人間の手で作られた風景だった。

葛尾村であれ飯館村であり江戸時代は山中郷でありそれは水田と深くかかわっていた。水を供給する場所として浜通りの阿武隈高原はあった。だから放射能の汚染で水源になるからこそ心配した。放射能汚染はそうした祖父母が葬られ水田を維持する水源をけがしたことで浜通り全体にかかわる人災だった。その罪は自然だけではない祖父母の眠る神聖な山をけがしたのである。ただその原因をすべて政府や電力会社にすることはできない、すでにそうした江戸時代の稲作の祭りは農民から喪失していたからである。そういう山と深くかかわる神聖な感覚は消えていた。ダムをあらゆる所に作ったりといろいろ山も海岸も人工化してきたからである。


今回の津浪やそれによる原発事故は海の神や山の神の怒りかもしれない、江戸時代までは自然と調和した開発だったが明治時代以降は自然破壊が大規模になった。戦後はさら高度成長時代になり日本列島改造とかで日本の美しい自然は大規模に破壊された。その極点に達したのが原発だったのである。原発は日本の自然を亡ぼすだけではない、日本民族すら亡ぼしてしまう恐ろしいものだった。そういう危険なものに歯止めをかけるものがなかった。農民も漁民もただ金だけしか頭になく金さえもらえば良しとした。それで海の神や山の神の怒りが生じたことは言える。そんなことは非科学的だというとき、現実に核を研究する学者がもっと自然を畏れるべきだったということを言っている。核の力を人間の力では操作できないものだった。根本的に無理があったのである。ただ誰もそれに歯止めをかけるものはなかった。そこで暴走して事故になった。歯止めをかけるものはやはり神や自然に対する畏れが喪失したことでもあったのだ。江戸時代にはそうした自然への畏れがあったからこそ山への信仰が生まれた。科学万能の社会となったときそうした畏れがなくなり傲慢となり罰を受けたのである。科学万能主義は時代には危険がひそんでいた。山への信仰など非科学的でありとか必ずなり何か自然に対する恐れを消失させる。だから古来からある祭りを否定する。もちろん自然の事物を神とすることは偶像崇拝になるから否定されるべきである。ただ自然を尊ぶという観念は常に必要なのである。自然は神が作り神が人間に与えたものでありそれをないがしろにすると今回のような大きなとりかえしのつかない罰が与えられる。そういうことは非科学的とは言えない、そもそも科学でこの世のことすべてを解明などできないからである。


原発を建てるにしても単に工学的科学的面からではなくこうした回りの自然との調和を計ることも考慮せねばならなかった。ただ工学的な見地からのみ計画され建てられる。回りには海もあり山もあり水田もある。そういうものを考慮しなかった。結果としてそういう考慮しない所が甚大な被害を受けたのである。海の神や山の神を祭り許しをこうて建てるべきでもあった。地鎮祭をするにしてもそれは余りにも今や形式的なものであり深いところで自然との調和計るのが祭りだったのである。もちろん科学者にそうしたものを要求することは無理でありそういうものに対して考慮は全くない、だからこそ事故が起きたとも言えるのである。ともかく現代文明には経済的効率的視点とか科学的合理的視点きかそういうものしかない、江戸時代には別な自然に対する接し方がありそれが祭りだった。またこういう視点から原発事故を考える人もまれである。それだけ科学万能主義におおわれた世界になっていたのだ。平気で何百万年に一回しか原発事故は起きないなどと真顔で言っていた。それだけ科学万能主義に陥っていたのである。

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2011年08月07日

原発の深い闇(戦争中と同じ統制-宝島社より)


原発の深い闇
(戦争中と同じ統制-宝島社より)

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これをみると名だたる日本の雑誌は全部が東電から金をもらい原発推進してきた。テレビ関係もそうだった。意外なのは「潮」であるがこれは創価と公明党の機関紙である。ここに入社した人の仕事はまず広告をとることである。新聞社でもどこでもそうだけど広告なくして経営がなりたたない、その時点ですでに言論は制約されけいるのだ。何か批判するにしても金をもらっているとすでにその会社を批判はできない,そしたらすでに偏った報道しかできない。ともかく何を主張しても批判してもいいが金をもらった時点でそれができなくなる。でも現実問題として雑誌であれ出版であれ新聞であれテレビであれ金がかかりすぎる。だから宣伝費でまかなうほかないから公正な報道などできないのである。

それを象徴しているのが福島民報などが創価の聖教新聞を刷っていることである。地方新聞に新聞をすらせて批判をおさえる。この時点ですでに地方新聞も公正な報道などできない、一つの創価公明の機関紙の一部とさえなっているのだ。創価は目的が権力奪取と公然と主張している団体である。宗教もその手段にすぎない、だからこそ司法や公務員や警察とかを会員を入れておさえろとかそうした権力をとるためにあらゆる手を尽くしている。このことは東電ともにていたのである。当然東電は金になるとなれば食いつくから宣伝費をとるために積極的に働きかけたし公明党も積極的な原発推進だった。原発を推進したのは自公政権だった。東電は信じられないほどの利権をもっていた。今になると巨額の賠償金問題になっているがそれにも応じるとういから驚く、3兆円のもうけがなくなるとかいうのもにも驚く、それだけの金がなる木だったのである。その力は国さえも簡単にとりこむほどの財力をもっていた。何も創価と公明党だけではない、原水協にも電事労連とか電力会社の組合の会員がいるので原発に反対できなかったというのもそのためである。確かに一向に原発に関しては何の反対の声もなかった。
「電気は国家なり」というときそうだった。国の教科書でも原発は危険だとか国の力で書かせなかった。まるで戦争中の言論統制と同じだった。というより金になるから積極的にマスコミも応援して加担していたのである。

 


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いかがわしい雑誌社として地元の「財界ふくしま」などもそうだった。プルサ-マルなどで原発を批判した記事をのせていたがあとでぷっつりと批判をやめた。そもそもここの主催者は竹内氏は何かと闇の多い人物だった。つまり雑誌を出してそれを脅しに使っていた



明治時代の新聞記者が、羽織を着て立派な身なりをして、正義の味方のようにふるまい、事件・事故をかぎつけては金品を巻き上げたことからつけられたあだな。
今でいうインテリ・ヤクザといった感じなのだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20100429/1272547997

こういうところから発しているのが新聞とか雑誌の成り立ちだった。だから今でもそういうことはあり現実に竹内氏などはそうだった。福島県出身でも福島県のことなど思っていない、利得だけを追求している。福島県はその種にすぎない、福島県とか郷土を愛すとかは全くないのである。そういう人が出している雑誌を信用できるだろうか?地元には地元に思い入れある人がかかわるべきである。今になると本当に福島県のことを思い原発の批判記事を書き続けたら福島県民に支持されてその株は上がったのである。本当に今になると手の裏を返したように原発を批判のオンパレ-ドだけど3月11日前はその正反対だった。朝日新聞も推進派であった。右翼だろうが左翼でも一部をのぞいて推進派だった。つまりこれは戦争のとき同じだった。大本営発表であり日本国民全員が原発を推進し戦争を推進してそれに逆らうことはできなかった。

いかにマスコミなどは戦争の時と同じように信用できないものかわかった。中国のことを批判するが中国と変わりなかったのである。それはすべてが利得しか眼中にないから利得になるものは飛びつく、それが原発のようなものでも危険なものでも利得になればいいとなりマスコミも金になるからと容認したのである。だから今になりそんなに反対しても信用できないのである。


原発を誘致した渡部恒三。そして、GEを手引きしている息子の恒雄。原子炉の冷却を実現できた、
http://hiwihhi.com/togofujita/status/62759917974597633


渡部恒三は福島県の政界のドンである。この人も福島県のために働くというより福島県を利用して自分の利権を追求した人でもあった。佐藤栄佐久前知事が選挙で追い落とされた。濡れ衣を着されて検察が動いた。新しく知事になったのは甥だったのである。これもいかに原発に関しての闇が深かったかわかる。原発ムラに反対すればどうなるか?検察まで動く、検察はもともとアメリカに日本が負けたときアメリカ側につくように仕向けられていたし今でもそうであるから信用できない、GEに息子が就職していたというのも手先だったことが明確である。 GEのアメリカの責任は日本では問うことができないのである。


いづれにしろ津浪がなければこうした原発の深い闇は暴かれることはなかった。もちろんいづれ事故は津浪でなくても起きた。でもこれほど劇的に闇が暴かれることはなかった。もはや人間の手では暴くことはできないようになっていた。でも津浪が自然の力が神の力がその闇を暴いたともいえる。だから人間にはつくづく限界がある。自然の力でも神の力でも働きその闇は暴かれ裁かれるということを実感した。そういうことがなけれは闇は延々とつづいていたのである。

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相馬市へ(夏の浜街道)


相馬市へ(夏の浜街道)


 

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原町のレストランや夏の月


ひぐらしや暮方に行く相馬かな


浜街道松影涼し相馬へと


浜街道風の涼しや山と海


夕べ着て相馬の街や雲の峰

昨日は原町のレストランで高見食堂でカキフライ定食を食べた。あのカキフライは大きいけど中味は小さいのかもしれない、あげ方がうまいのだ。ス-パ-で売っているのは揚げたてでないからうまいと思ったこと一度もない、揚げたてでないと料理はうまくない、自分は料理はしていない、だからまともに食事したと感じるのはレストランでしたときである。料理に時間かけていたら書き物はできない。料理はつくづく時間がかかる。結局インスタントの米をレンジで二分であたためるのが一番簡単である。米をたくことも時間がかかる。


よく高級レストランで管首相がぜいたくしているとかマスコミで報道するけどそうした仔細なことで何か人気を落とそうとしているのがマスコミである。漢字が読めなかったからとかもそうである。今どきメザシばかり食べている指導者は時代にあわない、首相とかの労働や責任は大変なものでありそんな贅沢をとりたてて責めるべきではない、そんな料理は金持ちならみんな食べているからだ。今は貧乏な時代ではないのだ。管首相は金持ちの家ではない,だから別にかまわないのである。そんなことより別なことに関心を向けるべきなのである。

今や何するにしても時間との勝負である。何かを書くということは時間がかかり結構手間だし知的労力がいる。知的労働というのがあんだけどこれには報酬もない、インタ-ネットでは報酬はない、でも書きたいことを書けるのが強みである。インタ-ネットではメデアをもっているから本当はすごいものになる。でもまだプロは金にならないから参入していない、ほんの一部だからものたりないともなる。


原町と相馬市は雰囲気が違う、ひぐらしが鳴いていると何か城下町にあっている。原町にはあっていない、原町のレストランでは高見食堂で20キロ圏内に入って家のものをとりにいって人達がいた。いわきナンバ-だから小高ではない、双葉郡の人達である。なかなか二時間では持ち出せないとか言っていた。ちょうど20キロ圏外にでる所のビジネスホテルだから泊まったのだろう。相馬市では七夕飾りを田町通りでしていた。野外音楽もやる。用事手相馬市に行く方が多くなっていた。外人のテレビ取材が来ていた。何かとこの辺は取材が多いのである。
浜街道というとやはり浜と山がある。でも浜は津浪でやられた。浜に近いから浜街道だった。松影の道が涼しかった。風は海から浜から吹いてくる風である。やはり浜街道なのである。


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クリック拡大! パノラマ写真-松並木

 

2011年08月08日

悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


●幕末から明治時代は大地震が頻発


巨大な天変地異もまたその流れの中に有り、これから地球という生命体が、人類の悪想念という雲(悪想念エネルギー)を払うため、自浄作用として地殻の活動を活発化させると思います。
http://thelawsofgod.jugem.jp/?eid=225


二千年という時間は、神の目から見ればそれほど長い時間ではなく、地上の文明の軌道修正と浄化が必要になることがあらかじめ分かっていて、人類に警告されているのである


1853年嘉永小田原地震
1854安政東海地震
1855年安政江戸地震
明治時代1868
1894年明治東京地震
1923年関東大震災。
首都圏は、関東大震災を最後に、大地のひずみを解放し、静穏の時代に入ります。


この地震の連続も規則性があった。明治時代がはじまる前のわずか10年前から幕末-明治維新の激動の時代だった。その時地震が活発化していた。そして最後に関東大地震で10万人が死んで一連の地震は集束した。それから約100年でまた大地震とかつてない大津波が来た。

不思議なのは江戸時代でも海の方に盛んに開拓されて稲作が行われて白砂青松の景色を作った時代は比較的平穏だった。もしこの時代に仙台平野とかが大津波に襲われていれば大規模な開拓はしていないのである。三陸は津浪が宿命的にくりかえす場所だから仙台平野とは別なのである。


地震と想念が何の関係あるのかとなるが地上に悪想念が満ちるとき自然も神も怒る。そもそもこの地は人間のものではない、神のものである。人間のものは一つもない、その地も海も山も森も全部が神のものであり人間は神から土地も借りて住んでいるのであり人間のものはそもそも何一つない、みな神が造り神が人間に与えたものなのである。だから神のものを粗末に扱えばどうなるのか?確実に神が罰を与えるのだ。江戸時代の三百年は比較的なぜ天変地異も少なく人々は平和に暮らせたのか?明治時代に訪れた外国人が日本人はみな幸せそうな顔をしていたという。今のような豊でも不幸に沈んでいる顔ではなかった。なごやかな穏やかな顔が多かったのである。ところが幕末から明治維新と激動の時代になった。この変化は余りにも大きすぎた。それと同時に地震も多発したのである。貞観時代も蝦夷征伐のあとであり奈良時代は今の明治時代だった。この時も社会は劇的に変化した。奈良時代と明治時代はにていた。最も国家を意識した時代だった。自然の災害と人間社会の変動期が一致している。これはまだ科学的には検証されていない,でも研究する価値がある。歴史は神話の時代からあり未だに解明されていなのだ。


●アトランティス文明の運命が待っている


人間にとって想念の影響は意外と大きい、その想念が清浄な自然に影響する。すると清浄な領域に住む神もその人間の悪想念に耐えられなくなる。ある程度は許しても今のように巨大文明化するともうその影響は神にとって耐えられないものとなる。それで悪想念を一掃するため天変地異が起こす、易性革命を起こす、天の力、神の力が働くのである。高度な文明がアトランティス文明が海に沈んだというようにそうなることもありえる。


大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。


ギリシャ神話が形成されたのは2千年から3千年前である。しかしプロメテウスとかの神話が原子力の火として現実に人類滅亡の恐怖として災いをもたらした。それが身近で起こったことはこうしたことが再度起こりえる。それほどの大きな津浪の恐怖だった。次に東海南海大地震が起こり今度は東京から西が大災害にあう。その辺は東北より想念は何百倍も悪化している。
悪想念の黒煙がもうもうと立ち上っている。それは放射能のように目に見えなくても神の眼には見える。東北の大津波はその前兆であり警告だった。本番は東海南海地震なのである。だから本当に東京から西の大都市は危険である。東北の放射能から逃れろと盛んに西の人が大阪の人達が面白半分に言っているが本番は東海南海地震でありそこは標的になる。悪想念からしたらどうしてもそうなるからさけられないのである。10万規模の死者が出るかもしれない、首都機能は停止してしまう。その前にゾトム、ゴモラが滅びる前に逃れるほかなくなる。東京より西は実際は東北より危険である。


悪が地上に満ちたから神は大洪水を起こした。ただノアだけを方舟で助けた

ソドム、ゴモラは神の怒りで一瞬に滅んだ
迷宮と化してクレタのミノス文明は滅びた
アトランティス文明も神の怒りで海中に沈んだ


ミノス文明も、紀元前1400頃、突然、歴史から消滅する。その原因は、2つ考えられている。1つはギリシャ本土から南下してきたミュケナイ 人に滅ぼされたという説。もう1つは、サントリーニ島で地球規模の火山爆発が起こり、その地震と津波で滅んだという説である。
 http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-4.htm


過去にあったことは必ず現在にも起こる。2千年前3千年前の神話も現実から伝えられた。全く空想ではないから起こるのだ。そういう危機の時代に突入したのである。そして巨大に複雑に文明化した世界はもはや想念を鎮めることができない、悪想念はもう目に見えないが多量の放射能として地上から消えないように出てきて堆積している。核というタブ-に手をつけた人類は危機なのである。その危機に対する認識があまりにも甘すぎたのである。


近いうちに必ず起こる東京大地震で東京も壊滅確定 被害額112兆円
http://blog.livedoor.jp/omoidesokuhou/archives/2417929.html


●古代の遷都の理由も悪想念を一掃するため



 601年 斑鳩宮 聖徳太子
 630年 岡本宮 舒明天皇
 636年 田中宮 舒明天皇
 640年 厩坂宮(4月) 舒明天皇
 640年 百済宮(10月)  舒明天皇
 642年 小墾田宮 皇極天皇
 645年 難波長柄碕宮 孝徳天皇
 656年 岡本宮(両槻宮・吉野宮も造営)斉明天皇
 667年 近江宮 天智天皇
 672年 飛鳥浄御原宮 天武天皇
 694年 藤原宮 持統天皇
 710年 平城宮 元明天皇
平安遷都までも、紫香楽宮、難波宮、甲賀宮、長岡京と新宮の造営が行われました。


水銀が命絶つ「遷都の原因は大仏建立による公害」仮説唱える
http://lbv.jp/case/mercury_story.html



なぜこれほど遷都しなければならなかったのか?遷都することは一新することである。一カ所に人間が留まるとそこはたまり水のように汚れるからである。気も汚れるし怨霊もそこに留まる。怨霊もその土地に巣くうので逃れた。最近の説では公害説もでてきた。ともかく場所を変えることにより一新させるためである。今だって場所を変えれば気分も変わる。一カ所にいるとどうしても心も濁る。悪想念が一カ所にいるとたまる。想念の影響は思ったより大きいのである。古代には広々としたフロンティアが荒野が回りに常に広がっていたから可能だった。人間にはどうしてもフロンティアが必要だった。ヨ-ロッパのフロンティアはアメリカだった。日本は北海道だった。北海道は今もフロティアとしてあり本州とは空気まで違っている。まだ怨霊とかが巣くっていない、アイヌはいたがそれは素朴な人々でありその人たちの伝説は残っている。現代の不幸はフロンティアが喪失したことである。宇宙に求めても得られない、結果的にもうフロンティアがないからアトランティス文明のように汚れた都市は都は海中に沈むほかない、滅びるほかない、古代において東北はフロンティアではない,日高見の国がありこっちの方が日本国の起源だというとき東北の歴史はそれだけ古いのである。縄文時代は東北の方が人口が多く栄えていたからそうなる。
posted by 老鶯 at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係