2011年07月20日

末の松山について(続き)

 
末の松山について(続き)



枝折れて末の松山に残る松長くもあれな海も見えずに


沖の石海の証と残りしに津浪来たりて海をしらしむ

http://www.bashouan.com/piTagaUtamakura.htm

この写真では団地かマンションかさえぎられて海は見えない、仙石線沿いは田んぼと海の景色だった。仙台市街から住宅地が拡大して住宅地が広がった。中野栄駅でおりて仙台港から良く太平洋フェリ-にのり苫小牧とか仙台に行った。苫小牧に着くとそこは北海道だった。空気も違うし広々とした原野が市の近くから広がっている。海岸沿いに広がっている。そこにソ-ラ-パネルを置いて電力を作る計画が生まれたというのもわかる。広い未開の地がまだ北海道にはあるからだ。
苫小牧は仙台港から何回も行ったから親しくなっている。ただ北海道も広すぎるから地理がわかるのはむずかしい。


夏の日や地平の遠く北海道


苫小牧船に我がつき広がりぬ原野のかなた青鷺飛びゆく

自分の経験としては仙台港と苫小牧は結びついている。多賀城が作られた時代は海は見えても船が行き来したということはない、港があったということではない、ただ海は見えたから海は意識していた。だから海に関する歌が残り伝説も残ったのである。多賀城については良くわからない、勉強不足である。でも歴史は地理がつくづく大事である。このことは何度も言っていたけど地理がわからないと歴史はわからない、今回津浪であの辺一帯が海だったということをリアルに認識した。そうでなければ海の記憶は住宅地となり工場地帯となり消失してしまっていた。だから海を思い浮かべることはない。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html


小鶴新田については前にプログで書いた。小鶴新田までは仙石線も開通した。小鶴新田停まりの電車も多かった。ここにこんな歌が残されているのもこの辺が沼や湿地帯であり海が近くに広がっていたのである。多賀城からは今のような仙石線の住宅地は見えないのだ。広々として湿地帯や沼であり田があるだけだった。新田だから江戸時代にようやく田が作られはじめた。

小鶴新田の駅におりて印象的だったのは泉が岳が見えることだった。

ともかく仙石線沿いは何回も行っているし自転車でも行った。その辺が全部津浪に襲われたことはショックだった。プログでもその紀行文を書いた。こうした親しい場所が津浪に襲われ流されたことはショックである。あの辺にあった古い碑も写真にとったが流されたろう。すぐ海が近いからだ。鳴瀬川辺りも津浪にのまれた。今回の津浪ではそうした江戸時代からある古い碑なども流され貴重な歴史の証も流された。 宮城県はやはり松島などがあり入江もあり海の文化が東北ではある所だった。伊達政宗が支倉常長を欧州に船で遣わしたようにまた貞山堀を築いて江戸に石巻などから船で米を運んだように海が視界にあり海を活かした英傑だった。東北ではそういう人は少ない、やはりそれも宮城県はめずらしく船を活かす港を作る地形があった。入江があり港になる地形があった。それが基となり海へ活路を見い出すことができた。福島県などは全くそうした港ととなる地形がなかった。だから歴史は地理に大きく作用されるのである。


それにしても末の松山に関心もっている人かなりいる。キ-ワ-ドで5百万ヒットすることは多いなと思った。そんなにここに関心をもつものなのか?実際に訪ねて海も見えないし何の感懐もない、奥の細道の旅でもそういう場所がかなりある。あまりにも変わりすぎたからである。今回は津浪で海岸沿いに興味をもった。津浪で被害を受けた所はもともと海だったからである。

posted by 老鶯 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係