2011年07月13日

海から吹いてくる東風(こち)の考察 (飯館村の不運は風と地形のため)



海から吹いてくる東風(こち)の考察

(飯館村の不運は風と地形のため)

●風の地名では東風が主流


 海に珍しいものが流れてきたり、木の実が熟して落ちる事をアユ、アエル、と言い、
  それを約束する風であることからくる。


寄木神社が各地にあり何か海から寄ったものを集め生活の糧としていた。津浪が来た磯部辺りにもありそこにはちょうど海が奥に入っていた地点だった。海はもっと奥にあり寄木神社は昔の海の地点を示していた。




かひよせ【貝寄風】


 (貝を浜辺に吹き寄せる風の意) 陰暦の二月二十日頃に吹く西風
 
貝寄する風の手品や和歌の浦 (芭蕉)


 ふるさとや東風寒き日の鰯売り 鈴木真砂女


この辺で海から吹く東風はまだ寒いからこれはわかる。海近くに住んでいるからこの句ができた。


あゆのかぜ【東風・鮎の風】


 「俳諧歳時記栞草」に書かれたように越(富山県)では俗に「アユノカゼ」と呼ぶ、と万葉集の細注にはある。


   東風痛久吹良之奈呉乃安麻乃都利須流乎布禰榜可久流見由    家持
  (アユノカゼイタクフクラシナゴノアマノツリスルヲブネコギカクルミユ)


 谷川健一『日本の地名』によれば、「アユの風」(アイカゼ・アイノカゼ)は秋田県仁賀保では「北風」を指し、越(越中=富山県)では「東風」を指し、 さらに、
 
   年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ


 という万葉集巻七の歌を引用して、名古屋市熱田あたり、つまり太平洋側では「アユの風」は「南風」だと述べる。
 
 ならば、「アユの風」は海から陸へうち寄せる「貝寄風」と、同じ方向から吹く風と考えていいだろう。


はえ【南風】


「牛深はいや節」の「はいや」とは南風だという。

    
         はいやはいやで 今朝出した船は
     何処の港に 入れたやら
     牛深三度行きや 三度裸
     鍋釜売っても 酒盛りやしてこい    
        戻りにや本渡瀬戸 徒歩渡り


しろはえ【白南風】


 (九州地方などで) 梅雨明けの頃に吹く南風。また、8月頃の昼間吹く南風。  『広辞苑5版』
やませかぜ【山背風】


明治20年代の追分節に
 
 やませ風 わかれの風だよ あきらめさんせ 又いつ逢ふやら逢はぬやら

というのがある。これは、最上川舟歌でも


   山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ

 



風を一番敏感に感じるのは誰か?生活に直結して風を感じているのは誰か?それはやはり漁師だろう。帆船の時代とかでも風が大事であ
る。万葉集では風待ちの湊があった。強い風が吹いたらその頃の船では航行できないからだ。風は普通は海と一番関係している。そして海から吹いてくる風で春を感じるのが東風でありコチである。だから沖縄に東風原(こちんだ)という地名がある。コチは古語であり青森や沖縄の辺境に残っている。風の方言も伝播している。ヤマセはもともとは・・・であり東北の方に伝わって変化した。

はいやはいやで 
今朝出した船は
何処の港に 入れたやら


まさにはいやはいやが出だしに歌われるのはそれだけ風とともに漁師が暮らしていたことがわかる。


● 鮎川は万葉集の年魚市潟(あゆちがた)から名づけられた


  年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ

この歌は鮎の風が吹く潟であり潮が退いたら舟も近くに見えたとなる。潮が満ちていれば同じ地点でも遠くに見えるからだ。そういう自然の変化を歌にした。知多の浦となるとこれも相当に広い湾になっている。年魚市潟(あゆちがた)が東風原(こちんだ)と同じように固有名詞の地名になっていることは常にこの辺に住む人が東風を意識していたのだ。鮎川は年魚とあるから今の鮎(アユ)とは関係ない、もともと東風のことであった。ただ鮎となったのは万葉集の当て字の類だった。鮎川の川は海を川とした。牡鹿半島の付け根と金華山の間が海峡であり川のようになっいたからかもしれない、陸の川ではないだろう。このあゆちがた(年魚市潟)は愛知という県名の元となったといいます。
東風が吹くと春が来るから意識する。一般的には海に面する地域が風を一番意識する。津浪が来ても海側に住む人が増えたのは暑いとき風が涼しいし冬はあたたかくなるからだ。福島県の浜通りもそうであり何か特別にいいものはないにしても気候には恵まれているから住みやすいのだ。


東風吹けば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ


この歌も東風にしても実際は海から吹いてくる風である。この辺では明かに丸森辺りだとこの東風だとわかる。山を越えて海から吹いてきた風だとわかる。山を越えれば海が見えるからだ。

飯館村は海から遠いと言っても八木沢峠から海が見える。山の奥でも風は海から吹いてくる。特に春は東風が吹き山の奥まで吹いて春を告げる。祖谷(いや)のかずら橋まで深い谷間を吹き上げてきた風も海から吹いてきた東風だったのだろう。その深い谷間は風の通り道になった。ただ夜は空気が冷えて山から海に風が降下する北風になる。風を感じるのは方向を感じることである。方向に敏感なのが船を操る漁師や航海民である。また方向に一番敏感なのが草原や砂漠の民である。遊牧民は方向を知るために北極星を目印とする、だから星が旗印となる。相馬藩の氏神、妙見神も北斗七星が旗印であり大陸から伝わってきたのだ。遊牧民にとって方向が生死を分ける。それは砂漠で水がある方向へ導くことが命を分ける。それは砂漠を旅行した日本人のベテランが水のある方向へ仲間を導いて命が助かったことでもわかる。方向がまちがって水がなかったら死ぬ。アラ-の神はどこにあるというものでもない、でもアラ-の神の神殿のある方向に向かって祈る。偶像がなくても方向が偶像だというのが如実に示している。
そして遊牧民が航海民になったことは方向が生死を分けることでは同じだから文化も同じものとなるためである。


●飯館村の不運-谷間が風の通り道となり放射性物質を運んだ

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今回の原発事故の放射性物質の流れは予測されにくものだった。放射性物質がどういうふうに流れかよく準備もしていないし研究もしていなかった。高額なスビ-ディの機械を準備していても役立たせることができなかった。まず事故が起こらないとしていたのだから事故が起きたらどうなるかなど詳しく研究などしていないのだ。また誰も予測し得ないものとして事故が起きたのである。だから事故が起きたときただ茫然と現場の人も見ているだけだった。どう処理していいかもわからなかったのである。その後の膨大な汚染水処理を見ていてもわかる。そしてこれほど風と地形に影響されるとは思いもよらなかった。海側は本当に放射線量が低いの山側は異常に高かった。南相馬市が避難準備地域とかに指定されて牛から基準値の何倍もセシウムがでたというとき南相馬市全体のように見ているが違っている。南相馬市でも山側であり海側ではない、これは浪江でも一様に高いと思っているが山側であり山の奥に入った所である。


図のように標高と風の通り道を示した。椚平は標高としては低いが放射性物質は比較的低く流れるとなるとその辺に堆積しやすい、次に赤字木辺りは狭い谷間でありそこが風の通り道を形成した。3月15日に爆発したときその谷間に一定の風、東南の風が吹いた。その方向は昼間は変わらなかった。なぜなら谷間は風の方向が変わりにくいのだ。ちょうど筒のようになっていて風の方向は変わることはできない、一方海側は風の方向はしょっちゅう変わっている。だから一時南相馬市に南風が吹いて2,3時間20マイクロシ-ベルトになったが風の方向が変わり急速に低下した。風の方向が変わり海の方に飛ばしたのである。それが海に出て牡鹿半島に吹き一関まで風が吹いてそこがホットスポットになった。風はこのように複雑なのである。一旦海の方に吹いた風がまた海から陸に向かって吹いて陸の奥、一関まで吹いて放射性物質を運んだのである。今回の事故でわかったことは海側は放射性物質が堆積しにくい、海に吹き飛ばされる。山側は危険である。なぜなら谷間が風の通り道となりその風は赤字木を通り長泥(ながとろ)に吹き出した。だから長泥や曲田は20マイクロシ-ベルトとか異常に高い、長泥や曲田は風の吹き出し口になっていた。そこから標高の高い飯館村の中心地に向かって風は吹いて放射性物質を運んだ。でも中心地の草野辺りでは低くなっていた。そして今度は北風が吹いて風は北風に変わり標高の高い飯館村から降下して吹いた。そもそもその辺になると谷間はない、だから風は変化しやすくなっていた。北風にあおられやすくなっていた。それで福島市や郡山市に放射性物質が流れやすくなっていたのだ。


海側から吹くときは細い谷間をぬって吹きあげてきたが標高が高くなると高いところから北風にあおられて平坦な地に飛んだ。ともかく風をとらえることは機械でもむずかしいし予測つかない、だから東風が方言で今度は北風となっていた。それだけ風はどちらから吹いてくるかわかりにくいのである。そもそも風は科学でも解析できない、千の風があり自在である。そして風は今の時代また感じにくくしている。車でも電車でも風を感じない、船でも今や潮流に乗らなくても航行できる。旅をするときやはり風を感じなければ旅にならない、だから便利になりすぎて旅もなくなった。阿武隈高原を海の方に越えてゆくとき夏すずしい風を感じる、でも車だったら感じないのである。峠が風越し峠という地名も多いのもそのためなのか、峠を越えると風が変わるということがあるからだ。現代人は科学で何でも知っているように錯覚している。でも自然でも実際はわからないのが多い。科学的に分析できないのも多い。風はいくら科学的に説明されてもわからない、あまりにも多様すぎる
からである。


山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ


 東風ふかば思いおこせよ放射能飯館村の恨み深しも


飯館村の不運は風とその地形にあった。真冬だったら北風だから放射性物質は海の方に流されたかもしれない、3月11日という春になるころの東風が災いしたのである。それだけではなく地形も風を呼ぶような地形になっていた。谷間は風を吸い込むような働きをした。それが放射性物質の通り道にしてしまったのである。まあ、風を恨むことはできないにしろ東電への恨み、政府への恨みは消えない、福島県の政治家も結託しているから恨むべきだ。なぜ責任を問わないのか、怒らないのか、風だけでそうなったのではないからだ。


風は地形の影響を受けて変化する
(なぜ飯館方面に放射性物質が流れたのか?)
http://musubu.sblo.jp/article/45497821.html

posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

暑い一日(無人化する村の不思議)




涼しさや夜明けに鳴きぬ鳥の声


清しきや夏の夜明けの鳥の声


夏の夕仮設にひびく笑え声


久しくも村にありにし石なれや残りて待ちぬ帰り来る日を


青々と草の生えにき夕べなお雲雀の鳴きてひびきけるかな


藪甘草草むら深く一輪のここに咲きにつ故郷に住む

蛙鳴く声のともしく故郷を離れし人のなお帰らじも


水田は土の露に草生えて雲雀は鳴けど鷺は来たらじ


耕さじ畑を見つつ農夫かな用もなきしをあわれなるかな


海の方には松原がなくなり木蔭がなくなった。この辺りは木蔭が少ない、今日は暑いから陽差しが強く外に出れない、これも困ったものである。海の方は風が涼しいからいい、木蔭がないと外に出にくいのだ。 飯館村から出てアパ-トに住んでいる人のことをテレビで放送していた。
飯館村は家も広いし一軒一軒が離れて暮らしている。森につつまれて前は広々とした田畑である。そういう所に住んだ人が都会のアパ-ト暮らしはなかなかなじみにくい、アパ-トとかは圧迫感がある。日本の住まいはウサギ小屋と言われたけど狭苦しい。飯館は広々とした所で森につつまれて家があった。 標高も高い高原だから夏でも涼しい、今年も暑いが去年のような暑さにはならないみたいだ。浜通りは海から風がふくから涼しいのだ。なぜ危険な海側に住んだのかというとやはり夏が暑い日本では涼しいくて気持ちがいいからである。人は気持ちのいい所に住みたいのだ。千年に一度来るような津浪より住みやすい場所に住む。


テレビに映った家族は大家族であり三世帯で住んでいるとか今でも田舎ではそういう家がある。家が広いからそれができる。しかし一方でそういう家族はめずらしいことも今では確かである。大原の農家は息子夫婦は街に出て大きな古い家が残されて一人で住んでいた。あそこも廃屋になってしまうのか?酪農でも農家でもたいがい50以上でありその先継続してゆけるのかどうかという人が多い。跡継ぎもなかなかいない、だからこんなふうになると廃業する人が多くなるのだ。


いづれにしろ無人化してしまう村というのも不思議である。そこに待っているのは何か?太古からあった樹や石である。それらも村とともにあったから人間味帯びたものとなっているのだ。

今日は暑くて熱中症のようになった。今年はなかなかク-ラ-を使えないだろう。海の方に行けばいいのだが木蔭もなく休む場所もない、やはり海には松林が必要なのだ。


仮設から笑え声がひびいた。普通の家だったら聞こえないけどそれだけ声がひびく。隣にもひびくからつつぬけになってしまう。長屋にはプライバシ-がなかった。ただ親密な関係になった。両方がうまくいくことはこの世の中ない、夏は朝が涼しいから気分がいい、昼間は暑くてだめだ。ここはまだ30度だから何とかク-ラ-なしでたえられるか、頭が痛くなった。汗をかくというのは確かだろう。陽差しが強いから外にでなかった。