2011年07月04日

相馬の荒寥とした原初の風景 (津浪で再現された原初の松川浦)

相馬の荒寥とした原初の風景
(津浪で再現された原初の松川浦)


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北山八景で歌われていた



山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里


高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月


中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風
http://musubu2.sblo.jp/archives/200912-1.html


この中で「山上春霞」は地名として山上に紙漉き沢とか残っているからそういう冷たい清水が流れる所だった。今でもその地形は変わらず昔を偲べる。高松というのも今も変わらない淋しい場所である。今は墓所になっていた。墓地にふさわしい場所だった。
そして想像できなくなったのが中野飛雪である。こんな淋しい所だったのか?枡形があるということは城下町への入り口でありにぎやかに思えるがそうではなかった。人がほとんど通らない道だった。街道の道でもそうだった。江戸時代とはそういう城があってもそれだけ淋しい場所だった。夜だったら物音一つ聞こえないのである。冬だったら雪がふったりしたらひとっこ一人も見えない世界なのである。まるで道があっても原野と等しい世界だった。城だってしんみりとして冬籠もりであった。そういう世界は今になると想像しにくいのだ。人が絶えるなどありえない世界である。20キロ圏内とか飯館村とか避難した村はゴ-ストタウンになりそれとにたものになった。江戸時代は例え人が住んでいてもいかに淋しい世界だったか現代からは想像がつかないのだ。


磯部漁火
・・・・とかなると今になると一軒の家もなくなったから原始の砂州にもどったから江戸時代を偲べる風景ともなる。松川浦だって磯部だって家は少ないし淋しい世界だったのである。もちろんあんなに旅館などない、荒寥とした風景である。津浪で松川浦は磯辺辺りまで広大に広がる浦だった。それが再現されたから驚いた。松川浦は今の浦の何倍もの広さだった。広大な海が迫っていた。火力発電所の辺りは新沼とかありあの辺は低湿地帯であり津浪は六号線まで迫っていた。あういう低い土地は他にもあり危険だった。原釜でもちょっと高いところにあった家は残ったのである。その差が大きかった。磯部には一軒の家も残らなかった。ポンペイの跡である。不遜かもしれないが結局もう再建するよりそこをポンペイの跡のような記念公園にでもするほかないのかもしれない、そしてその悲劇が語り継がれる。再建できなくなったような場所になったところが今回の津浪ではあった。そこは悲劇の場所であり伝説の場所ともなった。松川浦は旅館はやがて再建される。そして磯部は悲劇の村として誰しもたずねる場所となる。砂だけの世界になってしまった。北海道にはそういうまだ原野と砂の海岸が広々と長く残っている。それと同じだった。


津浪はまず原釜方面から松浦大橋のすぐ下まで押しよせ尾浜方向に押し寄せた。その時まともに波を受けた原釜は被害が大きかった。それでも高台の家は残っていた。新沼方面は土地が低くこれも被害が大きかった。そして尾浜は低い丘がありそれが津浪の衝撃を和らげた。
それで家はなんとか残っていた。ところが海岸方面から白い波が吹き上がりおしよせてきた。
結局尾浜辺りは二つの津浪に襲われたことなる。海岸方面から松川浦大橋を渡り灯台のあるところから磯部へ向かう海岸線におしよせた波を凄いものがあった。その波により磯部は全滅した。尾浜のような少しでも小高い丘が連なっているだけでも津浪の衝撃を和らげることができたのである。


松川浦はもともと柏崎とあるごとく崎はまさに海の崎だった。そして磯部は長い砂州だったことが判明した。柏崎に広がった海も広大だった。それは今も六号線から見える。あれだけの広い土地を埋め立てて田にしたのである。まさに原始時代そのものの光景が現出した。


松川浦広々として満たす水春の夕陽の輝き落ちぬ


これもなんと表現ししていいかわからなかった。ただ一回しか見ていないのが残念だった。ただ今でも水がたまると柏崎から磯部辺りは大きな湖になっているのだ。湖をウミと言ったのはわかる。それから湖-ミズウミとしたのは水は潮水が淡水化した海になったからだろう。こういう風景は北海道には今でも残っている。広い海跡湖が残っている。サロマ湖などと酷似している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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松川浦に押し寄せた津波
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top305-movie02&s=324&y=&rel=m&g=phl

サケは成熟すると、また海水じゃ生きられない体になるそうだ。
仮に帰るべき川が無くなってたとしても、そのまま海に居続けると死んじゃうから、
仕方なく近くの他の川に遡ぼるんじゃないかと言われてるみたい。


オショロコマは北海道でも降海型は殆どいません。しかし、同じ系統で西欧に住むアルプスイワナはその殆どが降海します。これはオショロコマ類の生息南限に北海道が当たっているからです。 

 


海と川の交わる所に生物の進化のドラマがあった。それは何億年の生物のドラマであり神秘である。その謎は解きあかされていない、生物の神秘は本当は謎が多く神秘として残されているのだ。何でもわかったように科学が錯覚させられているだけである。カワイルカなども大陸の大きな河だとそこが海のようになるから残って海に出なくなった。そういうことは想像できる。川の魚には海と河の淡水化した河に住んでも海が故郷だから海に降るのである。


人間は最初海の近くには住んでいない、それは小高の縄文時代でも説明した。海側から引いた土地で狩りと採集で生活していた。だから
ドングリとかクリは硬いものの意味でありグリグリというのも縄文言葉である。ハマグリは浜の石ということでもわかる。グリはもともとは石のことだった。陸から生活がはじまり海に向かった。他の生物は海から上がり陸に向かった。その道が河だったのである。アイヌの生活は川上に上ることが優先された。だから川上が頭になり川下は尻になる。
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川はそもそも下るものではない、溯ってゆくのが川であった。上へ上へさかのぼってゆくのが川であり川は原始の道だった。実際に和名抄に川道郷があったから川は道としてとらえていたのだ。それが一番示しているのがアイヌの言葉である。アイヌ語では川口は尻であり川上が頭である。川は上ってゆくものであり下ってゆくものではない、それは人がまず川を上っていった。川を上ってゆく暮らしをしていたからだ。日本の下は川下は湿地帯であり虫や蟹や蛇などがうじゃうじゃいてバイ菌もでて住みにくかったのだ。これは外国でも地中海辺りでも最初の住居は高台にできたことでもわかる。平地はかえって住みにくかったのだ。邪馬台国(やまだいこく)というのも高台にあった。ダイとは高いところだからだ。稲作は水が良くないといい米がとれないからアガタから山田とか小山田とかがいい米のとれる場所だった。


邪馬台国(やまだいこく)
とは湿地帯が多い日本の地形の中で高台にあった国ということである。今にしてみたら津浪でそのことが明確化された。低い場所は津浪で海になったからである。
人は台に高台に住んだ。鹿島区の台田中もそうでありそこに中世の城があった。その回りは湿地帯であり現実に津浪で近くまで海になったことでもわかる。最初の国は高台に作られたのである。
http://www.musubu.jp/kashimakayanazo7.htm


 

posted by 老鶯 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

白い夾竹桃(相馬市の病院へ)



夾竹桃(相馬市の病院へ)

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老鶯の藪に鳴くかな城下町

相馬なる梅雨の日あわれ潜り石


夾竹桃の白き花散る昼下がり相馬の街歩み帰りぬ


夾竹桃の白き花散る城下町日傘をさして歩む女かな


昼下がり相馬の街や古き橋渡りて帰りぬ行く人まれに


塩地蔵いつもここにしありにける何を語るや我が帰るかな


古風なるホテルのありや相馬なる街角入りて夏の昼下がり

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正午を少し過ぎた昼下がりという言葉には、どこかけだるい雰囲気がただよいます。


相馬と原町はイメ-ジが相当違っている。原町は明治以降近代化して発展した街のイメ-ジがある。相馬市はもともと城下町としてあり古風な感じになる。市街もそんなに広がっていなかった。田町とか曲田となるのはそこが田であった所である。曲田という住所のふたばやホテルに
欧州レストランという所で食事した。駅前と下りからちょっと入った所のホテルでありわかりにくい、旅したからホテルはほかりにくいのだ。安ホテルばかり探していた旅だった。でも安いホテルを探すのは大変であり結果的には駅前通りのビジネスホテルに泊まることになる。ただちょっと入った所になると意外と他から来た人にはわからないから泊まりにくいということがある。相馬にも結構ホテルがあることがわかった。あの辺はもともと田町とか曲田とか田のことである。つまりいかに江戸時代の城下町といっても城の回りにのみ家がありその他は田だった。ほとんど回りは田だった。相馬総合病院の近くの新沼なども沼でありあそこまで津浪が来ていた。病院のすぐ近くだった。そもそも明治維新後に城のあったところは近代化が遅れ発展していないのだ。会津でも城のある所は商売しにくいからと喜多方が商売で発展した。喜多方とは北方だった。会津の北だから喜多方になった。相馬の南だから南相馬市になったと同じである。南相馬市立病院に一か月入院したときあそこは海まで見える眺めのいいところだった。ちょうど大原の山の方も見えて同じ病室に大原の人が入院していたのだ。

 


道を鍵形に曲げたり袋小路を設けるなどすることで、城への到達距離を延長した・・・
町の北と南の入口には土手を築いて「枡形」と呼ばれる城下町特有の道路形態をつくり、有事に備えた(相馬市中野)


相馬市は確かに城下町の雰囲気があるが他の人は城もないのだからわかりにくい、要するに六万石だから狭いのである。何故なら田町と曲
田でもそこはもともと田だった。城の回りにわずかに武家屋敷があり宇田川を渡り職人町とか商人町があった。現在の街の十分の一くらいなのである。これは他でもそうであり今からふりかえると大きく思えるから不思議である。ただ仙台辺りだと三百人町とか仙台駅の近くにあり同数の足軽が住んでいたことに由来とかある。

つまりそれだけ広い範囲が城下町だったとなる。その規模は十倍とか違っている。当然60万石となればそうなる。そして白石市に足軽まんじゅうというのが名物になっているのも伊達の行列は派手であり伊達物という言葉が生まれたように大人数を従えた派手な行列だった。実際は仙台藩は豪商などは少なく貧乏だった。威勢を張った行列だったのである。力がないからこそ貧乏だからこそ派手で力を誇示しようとした無理した結果だったというのはそしなのだろう。
そもそも相馬には足軽とかいたのかというと郷士がいてもそういう侍についている専門の従者はそんなにいなかった。郷士として農業をしていたのである。それだけ雇える経済力もなかった。
城下町の名残としては町の区画があり枡形とか路地や小路が多いとういことは細い路地が多く日陰になりやすいのが城下町であり何か日傘をさして歩くのがにあっている。


潜り石は六号線はバイパスの方向になっている。この地名は面白い、石には興味があるからこの地名の起こりが気になる。潜り石はくぐるであり石をくぐるという所は結構ある。他にもこの地名はある。

病院は混んでいた、50人以上来ていた。南相馬市から移っている人でも増えた。手術は三か月後だから余裕がある。悪性ではなかったらしい、癌はなかった。まあこれが死につながるような病気ではない、でも60代でも毎日新聞の死亡欄を見ていると一人は死んでいる。たいがい癌なのである。すでに10人一人は死んでいる。同教生のクラスが40人として4人は60代で死んでいる。数としては少ないようでも10人一人死ぬことは結構多い感じもするのだ。70代になると倍は死んでいる。


夾竹桃は西表島のジャングルで自生しているのを見た。熱帯の花だった。やはり白い花だった。これも相馬市にあっていた。

欧州レストランのランチの刺身定食は結構いい、お得である。自分はまともな食事していないから外食の方がいい、食事用意するだけで手間なのである。用意して洗ったりしていたら手間なのだ。プログ書くだけでも時間がかかる。なんとか書けているのはプログだからちょっとの暇でなんとか書けるからである。小説みたくなると書けない、俳句短歌だったら仕事の暇にまだ書けるのである。

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奥州レストランで売っていた震災孤児への寄付のための缶のバッジである。
これはどこでも売っていた。相馬市とかで震災孤児がどれくらい出たのだろうか?
結構寄附金は集った、これも一つのアイデアである。値段はない、千円で買った。
寄附金だから金のある人はそれ相応に出すというのが寄附金である。でも安く買うとまずい感じもした。それしか出さないのかと
見られてしまうのも嫌になるというのも問題だった。寄附金には常に何らかの問題がまとわりついているのだ。