2011年07月17日

夏らしい夏


長々と木蔭の道のつづきつつ藪の深きに鶯の鳴く


青鷺の二羽の飛びゆく悠々と我が見上げつつ大きく息す


少女子の微笑むごとく合歓の花風にさゆれてここに咲くかな


この家に人の気配もなく静か黒揚羽一羽舞いつつさりぬ


立葵その色際立つ今日もまた陽のまばゆくさしにけるかな

今年の夏は去年と違って普通の夏である。暑いのだけど三十二度くらいまではク-ラ-なしでいられる。暑くても夏らしい夏だから気持ちがいい面がある。去年は病気になってしまうような暑さだった。浜通りは海からの風であんなに暑くならない。去年は異常だった。

仮設住宅に人はまだ半分も入っていないだろう。それでもたりないというからその数がすごい。

南相馬市の大半は立入禁止区域になった小高から入る人達である。ス-パ-でも道でもよその人が目立つようになった。地権者が土地を貸さないというのは仮設は二年くらいで終わりになるとすると一時的なものとなり村作りとか町作りとか市作りにならないからだ。二年すぎたらみんないなくなるというのでは街作りにはならないからだ。そういう点中途半端になるから将来の計画がたてられないのである。これもみんな原発事故の集束がいつになるかわからないからなのだ。集束がはっきりすれば市町村の建て直しもできるのである。


畑にも田んぼにも人はいない、そういう風景もありえないことだから不思議である。それでも花は普通に咲いているし木蔭は気持ちがいい、夏らしい夏なのだ。体の方も今年は異常は感じない、病気なことは確かなのだが今はほとんど感じない、病気は食欲ないとき感じる。だから胃腸が悪いとき一番病気を感じる。食欲があると病気を感じないのである。


青鷺は良く河原でみかける、河原に餌があるからだろう。白鷺は水田にいるからみかけない、気持ちよく大空を飛んでいた。コンビニに自転車で旅していた老人がいた。どこから来たのかわからなかった。その人はほとんどしゃべらなかった。ホ-ムレスだったかもしれない、持ち物からするとそう見えた。六号線は途中閉鎖されているか東京から来る人はみかけない、六号線が閉鎖された影響は鉄道が閉鎖されたより大きかった。物流が車になってたからである。アマゾンの通信販売なども南相馬市には配達されない、古本も配達されないから困る。

オウムとにていた原発事故(専門化した知識人の犯罪だった)


オウムとにていた原発事故(専門化した知識人の犯罪だった)

http://musubu.jp/jijimondai42.html#oom(時事問題深層42へ)


http://musubu.jp/jijimondai-41#tunami
のつづきで同じテ-マで書きました。

今回の原発事故が盛んにオ-ムのテロと同じだとインタ-ネットで騒いでいる人達がいた。
インタ-ネットだから何の責任もなく烏合の衆が騒ぐだけだとなるが何かそれでもヒントを得るのだ。人間一人の知識はたかがしれている。やはり千人一万人集ると情報も集るのだ。
オウムのテロだ、これはテロだなどと言う人はマスコミではいない、でもこれは明かにオウムの犯罪とにていた。オウムはサリンを隠れて作っていた。東電も原発は絶対安全だとして危険な
原発を推進した。それに加担したのは今の指導層全部だったのである。

政治家から官僚から検察から警察から専門家の学者からマスコミから全部そうだった。この人たちが全部犯罪人だった。これも戦争の時と同じように誰も裁くことができない、検察も犯罪者の一味だったからである。裁いたのは津浪という自然であり神だったとなる。
オウムも小さい団体にしても暴力化してサリンまで製造する怖いものとなっていたし本当に異常に暴力的だったことに驚いた。ヤクザなみだった。そしてタブ-化したとき危険が隠された中で増大していた。タブ-化して危険を育んだのである。カルト宗教団体とか創価でもそうである。
もう巨大化してタブ-化したら批判できなくなる。そしてその時それらは批判されないから思うがままにふるまうことができる。「絶対安全なんだよ」「お前らは低能は口だすな」とか傲慢になっていた。政府まで加担して一体化したときもう誰も批判できない、危険はその時ますます増大していた。でも誰も危険だからもっと慎重にやれとかも言えなくなっていた。それは極端化した
オウム集団と同じだった。検察や警察が東電に天下りして用心棒になっていたのだ。
これはオウムよりたち悪いものだった。政府-検察(警察)や官僚やマスコミが一体となりテロ集団になっていた。サリンのようにあからさまな毒をふりまくというのではないにしろそれ以上に危険な毒をふりまくものだった。放射能という毒が出ることは専門家は知っていたのである。

結局これは知識人であった専門家集団の犯罪だった。今や科学者が聖職者であり崇められる。その権威の象徴が原子力だった。それが津浪の一撃で崩壊した。そしてその権威は偶像は地に堕ちた。偶像は津浪の一撃て倒された。人間の作ったもの文明などそれだけもろいものだったのである。現代の聖職者の奢りは簡単に砕かれた。その権威をとりもどすことはもはやできない、なぜなら聖職者たる科学者も原子力を操作できるものではなかった。原子力の科学者がもっと核を操作することに畏れをもつべきだったという発言はわかる。人間の知識や知恵や技術はたかがしれている。想定外のことが起こるのである。絶対安全などということはない、それでも百万年に一度しか事故が起こらないとしていたのだからあきれる。どんな計算でそうなったのか?ただ科学者の数学遊びだった。それほど傲慢になっていたのである。


一つのテ-マで書くのにはホ-ムペ-ジの方がいい、ただここだとどのペ-ジがアクセスされたかわからなくなる。プログだと何が読まれているかわかりやすいからいい、自分の場合これだけ記事が多くなると整理する必要が出てきた。整理するのはホ-ムペ-ジの方がしやすいので徐々にしていこう。

posted by 老鶯 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月19日

木陰(仮設住宅の問題)


しばらくは仮設住宅に住みにつつ小高の人の木蔭に休む

鹿島区の仮設住宅に入った人はほとんど小高区の人である。一万人以上避難したのだからその数が多い。津浪で避難した人は一割にも満たない、仮設住宅に入っている人は津浪の被害にあった人と原発事故で避難した人にはかなりの相違がある。両方の被害を受けた人もいる。
だから鹿島区の地権者が南相馬市の役所の人が来て仮設住宅のための土地を貸してくれというときできないと言った。その理由は一時的なもの二年間とかしか住まない人達でありそのあとはまた移動してししまうからである。そうなると村作りでも町作りでも市作りもできない、将来の市町村作りの指針も作れない、ただ一時的に移動した人達を一時的に収容しているだけだとなるとそこに住んでいる住民にしても困ることになる。つまり小高区の人は避難解除されたら小高に戻り生活再建する。そこには土地も家も無傷で残っているからだ。津浪の被害者はやはり一割にみたない、町が全滅したりしたところではない、そういう事情があり対処がむずかしいのである。そもそもここに仕事があって移ったわけでもない、そして鹿島区に仕事となる場がない、ただ人口だけは相当増えた。だからス-パ-でも道行く人でも小高の人が目立つののである。


相馬市では仮設住宅を長屋風にして長く共同的生活をするものとして一部を作る。神戸でも障害者なども一緒に住める住宅を作った。割安の介護施設としても作ることができる。特養に入れずに困っている人は本当に多い。安くても入れる施設が欲しいという要望は多いのである。
そういうことも南相馬市として政策として立案して実行することも必要なのかもしれない、高齢者は一人一人住むより共同で住んだ方がいいということもある。飯館村では三所帯で住んでいた家族がいたけどこういうのは今はめずらし、家族が小単位になり一人所帯にもなり介護になると困るのである。隣近所は町の方になると本当に都会と同じである。社会が変わったときそれに対応する政策も必要になる。今回の津浪や原発事故はそうした社会を変えるチャンスでもある。でも原発事故はまだ集束していないからこの避難者の対処がむずかしい。それが将来の計画を作れないものにしている。


南相馬市は相馬市と比べるとこういう点、不利であり混乱しているだけである。相馬市は長屋風の共同住宅のようなものを建てるというのはやはり将来への計画を描くことができて実行できたのである。南相馬市は原発事故でできない、田んぼも畑も荒地になっているだけである。
だから南相馬市は自分たちで市を再建しようとする意欲より国からの命令に大きく左右されている。緊急避難指示地域の解除命令がでてからどうするとか国の命令いかんによっているのだ。仮設住宅にしても国から金が支払われる。相馬市では独自で長屋風の共同住宅を作る計画をした。南相馬市ではそれがしにくい、だから南相馬市の市政は国の意向が大きく作用して身動きとれなくなっている。国に半分管理されてしまっているのだ。


人間は人が住むことによって生きてくるものがある。自然もそうだった。千倉のグランドは野球場としてしか見ていなかった。その時ここにある樹に注目していなかった。でも一本大きな樹がありその下で憩う人を見ているとその樹が住宅ができたことで活きている。木蔭のある仮設住宅となってなごみがある。自然も人間が生活して活きてくる場合があった。自然だけで自然が活きるということでもないのだ。人間が住んで自然も活きるということがある。木蔭に休んでいる時そこに平和を感じる。木蔭には風がそよいで涼しい、今年は普通の夏だからク-ラ-はほとんど必要はない、自分は夏にも弱いから体を不調になったがこのくらいの夏は夏らしい夏である。
ともかく当分仮設住宅というのは何か目立つし問題になる。

案はけっこうと思いますが、財政からいうと金がありませぬ


http://mypo.li/page/78203

やはり自治体主導でやれないことを指摘していた、やはり地域によりみんな事情が違っているからだ。
一律に仮設住宅を建てても被災者にとっていいとはならない・・・

posted by 老鶯 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月20日

末の松山について(続き)

 
末の松山について(続き)



枝折れて末の松山に残る松長くもあれな海も見えずに


沖の石海の証と残りしに津浪来たりて海をしらしむ

http://www.bashouan.com/piTagaUtamakura.htm

この写真では団地かマンションかさえぎられて海は見えない、仙石線沿いは田んぼと海の景色だった。仙台市街から住宅地が拡大して住宅地が広がった。中野栄駅でおりて仙台港から良く太平洋フェリ-にのり苫小牧とか仙台に行った。苫小牧に着くとそこは北海道だった。空気も違うし広々とした原野が市の近くから広がっている。海岸沿いに広がっている。そこにソ-ラ-パネルを置いて電力を作る計画が生まれたというのもわかる。広い未開の地がまだ北海道にはあるからだ。
苫小牧は仙台港から何回も行ったから親しくなっている。ただ北海道も広すぎるから地理がわかるのはむずかしい。


夏の日や地平の遠く北海道


苫小牧船に我がつき広がりぬ原野のかなた青鷺飛びゆく

自分の経験としては仙台港と苫小牧は結びついている。多賀城が作られた時代は海は見えても船が行き来したということはない、港があったということではない、ただ海は見えたから海は意識していた。だから海に関する歌が残り伝説も残ったのである。多賀城については良くわからない、勉強不足である。でも歴史は地理がつくづく大事である。このことは何度も言っていたけど地理がわからないと歴史はわからない、今回津浪であの辺一帯が海だったということをリアルに認識した。そうでなければ海の記憶は住宅地となり工場地帯となり消失してしまっていた。だから海を思い浮かべることはない。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html


小鶴新田については前にプログで書いた。小鶴新田までは仙石線も開通した。小鶴新田停まりの電車も多かった。ここにこんな歌が残されているのもこの辺が沼や湿地帯であり海が近くに広がっていたのである。多賀城からは今のような仙石線の住宅地は見えないのだ。広々として湿地帯や沼であり田があるだけだった。新田だから江戸時代にようやく田が作られはじめた。

小鶴新田の駅におりて印象的だったのは泉が岳が見えることだった。

ともかく仙石線沿いは何回も行っているし自転車でも行った。その辺が全部津浪に襲われたことはショックだった。プログでもその紀行文を書いた。こうした親しい場所が津浪に襲われ流されたことはショックである。あの辺にあった古い碑も写真にとったが流されたろう。すぐ海が近いからだ。鳴瀬川辺りも津浪にのまれた。今回の津浪ではそうした江戸時代からある古い碑なども流され貴重な歴史の証も流された。 宮城県はやはり松島などがあり入江もあり海の文化が東北ではある所だった。伊達政宗が支倉常長を欧州に船で遣わしたようにまた貞山堀を築いて江戸に石巻などから船で米を運んだように海が視界にあり海を活かした英傑だった。東北ではそういう人は少ない、やはりそれも宮城県はめずらしく船を活かす港を作る地形があった。入江があり港になる地形があった。それが基となり海へ活路を見い出すことができた。福島県などは全くそうした港ととなる地形がなかった。だから歴史は地理に大きく作用されるのである。


それにしても末の松山に関心もっている人かなりいる。キ-ワ-ドで5百万ヒットすることは多いなと思った。そんなにここに関心をもつものなのか?実際に訪ねて海も見えないし何の感懐もない、奥の細道の旅でもそういう場所がかなりある。あまりにも変わりすぎたからである。今回は津浪で海岸沿いに興味をもった。津浪で被害を受けた所はもともと海だったからである。

posted by 老鶯 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2011年07月21日

義仲寺に湖風が吹く(失われた人間の五感)


義仲寺に湖風が吹く(失われた人間の五感)

湖の風・・・・・義仲忌
http://www.k3.dion.ne.jp/~haiku/51/11/11_002.htm


凛として白菊献ぐ巴塚


日本でも、滋賀県の琵琶湖(670.33 km2) などの大きな湖において、湖風や陸風の定期的な入れ替わりと循環があることが学術的に確認されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E9%A2%A8


琵琶湖は結構大きいから湖風が吹く、陸風も弱いながら吹く、これが湖風なのかと感じるのは地元の人でないとむずかしいだろう。

義仲寺は有名だけどあそこで琵琶湖の風を感じるだろうか?街中にあり湖も見えない、あそこは昔は湖が見えて近かった。これも仙石線の沿線のうよに変わってしまった。 ても地元の人だと風を感じるのか?風はなかなか旅しても感じることがむずかしかった。風に注意している人はいないし何か建物とかにさえぎられたり車が頻繁に通っている時代だから風を感じることがむずかしい時代なのだ。いちいちどこから風が吹いてくるかなど注意する余裕もない旅なのが今は普通である。放射能関係で風のことを書いたけどやはり地元だから地形に精通していたから書けた。他ではどういう風が吹くのかわかりにくい、漁師などなら風を見分ける。でも今は潮流とか風を知るのではなくコンピュタ-や機械を頼っているのだから漁師にしても今とは全然違っている。だからかえって人間は五感で感じること五感で判断することがまれでるある。みんな機械に頼っている。でも機械に頼りすぎると自然の兆候をかえって見逃す感じないことになる。津浪でもそうである。とっさに五感で感じる、危険を感じる能力を失っている。気象庁の発表とか天気予報頼りであり昔のように生活の中で五感で知ることがない、これも人間の能力がかえって機械頼りになり奪われてしまった。


でも危機の時は人間の五感が助けることがある。テレビで砂漠で水がなくその方向を感で決めて導いた人がいて助かった。何かそういう人間の五感が研ぎ澄まされるて助かることもある。機械だけに頼っては助からない、海で暮らしている人は確かに海の水が退いたとか津浪の前兆があった。それで逃げた人は助かった。ただとっさのことだから見極める時間がないからただ海を見ていて津浪にのまれた人もいる。 いづれにしろ地震とかこんなに科学が発達しても予知できない、あとからなにかやと言っているだけであり当たったことは一度もない、つまりここに科学や機械の限界があるのだ。原始人は一番五感が発達していた。危険を察知する能力も高かった。人間は機械にすべてを頼るようになると五感が衰退してしまう。放射能の流れを予測するスピ-ディも役に立たなかった。危機のとき機械が役に立たないことがある。原発などもだから危機の時もう収める術がなくなる。そもそも放射能は人間の五感で感じられない、匂いもないし見えない、ただ数字だけで危険を感じるだけである。そういう毒を作ること自体もう人間の手に負えないものとなっていた。


いくらカメラが機械でもやはり構図とかクロ-ズアップとかするのは人間の眼でありだから写真も芸術である。ロボットには芸術作品は作れない、あくまでも道具である。レントゲン写真でも優秀な医者しかその写真が何を意味しているのか、病気はどこにあるのかなどわからないのだ。最終的には人間の目に頼っているのである。そういうことを勘違いしている。ともかく人間の五感で感じられないものはどれだけ危険なのか?それすらわからなくなりいつのまにか人類が死に絶えていたとかなる危険がある。放射能の危険は今までにない危険なものだった。危険を知り得ない危険だった。危険を感じないままに死に至らしめるものが放射能だった。広島などの原爆とも違っていた。目に見えない感じられない恐怖だったのである。だから今もその恐怖におびえている。でも実害が出ないからなんか空騒ぎのようにさえ思うのが放射能の危険なのである。


人間は旅しても細部をつくづく見ていない、あそこを訪ねても巴塚などあったのか?インタ-ネットで見てわかった。インタ-ネットだとある土地の細部に詳しい。土地の人なら何度も訪ねるから細部にこる。すると他から見た人も細部を見る。多賀城の末の松山もそうだった。ビデオをとった人は末の松山から坂を下ってとっていたからあそこが坂なのだと理解した。この高低差は地図ではなかなか理解しにくい、そういう点でインタ-ネットでは点に詳しくはなれる。

2011年07月22日

風の詩(放射能の思わぬ行方)

insect1111.jpg

radiomap2222222.jpg


風の詩(放射能の思わぬ行方)

風よ、定めない流れのなかに

刻々と生まれ、死ぬものよ

ぼくの日々はすぎてゆく一陣の風にすぎない

(ロランドルランク-ル)




風は何人もとらえられないもの
明日は明日の風が吹く
まことに明日の風は今日とは違う風


刻々と風は変わっている
変幻自在千の風
風は自在に遊んでいる


今日は嵐の風だった
明日は明るい日の中のそよ風
風の調べは常に変わる


風は遠くから吹いて
遠くへ吹き去ってゆく
風はどこにも留まることない


風の神になり風にのり
どこでも自由に吹いて
留まることをしらない


人生もとらえがたく
明日のことは知り得ない
風のごときもの


風は思わぬ所に吹き
思わぬ遠くに運ぶ
風を知る術はない


風は今日どこに向くのか
それは誰もしりえない
心もまた風のままに吹く


尽きることのない風の魅惑
捕らえがたい気まぐれな魅惑
瞬間瞬間に浮かび消えるもの


人も自然も刻々変化している
昨日と違ったステップで踊り
その時喜びに一時満たされる


その喜びも一瞬にして消え
新たな風のステップを試す
風の妖精のダンス




また、放射能汚染が最も深刻だった事故当初の風向きは、北東への風と、南南西への風。
これで最初は宮城の牡鹿半島の方向へ向けて、次は関東地方全域へと向けて、放射性物質は拡散した


風の吹く所はしりえない、だから牡鹿半島から宮城県の登米とか栗原に放射能を運び、一関まで運んだ。南々西の風が吹き北東の風が一関に放射性物質を運んだことになる。一旦海に吹いた風が一関の方まで今度は吹いて放射能を運んだ。風はとらえがたい、風はつくづく自在であり人格化すればギリシャ人ののように神にすれば風の神をいくら追っても追いつけない、その変化は激しく予測がつかない、つまり風を追うことはできない、放射能の追跡を風からしたがそれができなのはそのためである。一旦海に出た風が海風となって一関まで吹いた。その風の流れはダイナミックなのである。そんなところまで良く吹いたと思うように意外なのである。


牡鹿半島から一関に吹いたのは明かに海の東風である。海だと障害がないからこの時期に東風が吹く、それが吹き抜けて一関まで吹いたのである。これも大きな風でありダイナミックだから予測し得ないのである。ともかく海風は大きな風になる。その大きな風の流れが放射性物質の流れにも影響したのだ。喜多方にも吹いたのはやはり吾妻山の山頂から雪から放射線量が
かなり高く発見されたことでもわかる。山を越えて風は吹き喜多方にも流れたから牛に食べさせる藁にセシウムが積もったのである。


人間の心も風である。どこに吹いてゆくかわからない、そういうものが本当の旅である。今日はここに行こうなど目的を設定して行くのが旅ではない、道があったらその道をどこまでも行き別れ道があったら気のむくままに選ぶ、それが本当の旅だった。そんな旅している人はもういない、定められた旅しか今はない、レ-ルの上を高速道路の上を車で計画した通りに行くだけである。阿武隈高原辺りは道が複雑でありそこを自転車で気ままに行っていた。それで風と放射能の関係を書いたのである。

ボレアースは冷たい冬の空気を運ぶ北風で、ノトスは晩夏と秋の嵐を運ぶ南風であり、ゼピュロスは春と初夏のそよ風を運ぶ西風であった。東風のエウロスはいかなる季節とも関連付けられておらず、ヘーシオドスによる『神統記』や、後代の『オルペウス賛歌』の中で言及されていない唯一の上位のアネモイである


ヨ-ロッパだと風の向きは逆になっている。北風は同じでも秋になる風が南風とは日本ではならない、春と初夏の風がゼピュスであり西風なのはこことは逆である。ただ東風は季節と関連されていないというのはやはり海から吹いてくる風になるからか?地中海でも東風は海から吹いてくるからかもしれない、大西洋から吹いてくる風が西風になる。


冬の大地のニンフ・クロリスが春の西風ゼフュロスに触れられて唇から花を出し、堂々と歩む花の女神フローラに変身する情景が描かれている。

古代ギリシアでは、西風は穏やかで良い風とされ、しばしば冬を運んでくる冷たく厳しい北風の神であるボレアス(Βορέας, Boreas)と比較されました。
 また、イギリスでは、西風と云えば春の軟風です。西風は、メキシコ湾流(Gulf Stream)の流れる大西洋の波の上を吹き抜けてくる風で、暖気と水分を含んで柔らかく感じられると云うことです。
 http://ch08180.kitaguni.tv/e961328.html


ここのプログは放射能のことや文学や詩のことを書いているし翻訳もしている。インタ-ネットには実際はいろんな人がいる。寺田寅彦ににた人もいるということか?なかなか見つけられないのが難なのである。


いづれにしろ風はそもそも土地によってこれだけ違っている。北風は世界共通でも他は違っている。風はとらえることができない、確かに放射性物質の流れはおおまかには風に左右されたことは言える。でもまだまだ全体がわかったわけではない、だいだいの見取り図のようなものは見えて来ているのかもしれない、0・5マイクロシ-ベルトの一関は南相馬市と変わりない、だからそんな遠くまで放射性物質が飛んだことに驚くがこれもチェルノブエリで予想されていたのである。

posted by 老鶯 at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月23日

今年も野馬追いは一部行われたが・・・

generalll.jpg
ikari.jpg
rrrrrrr.jpg

相馬市(宇多郷)の行列

巫女が出ていたのは面白かった。




南相馬市鹿島区(北郷)で宇多郷と北郷が合流する

kitagooo123.jpg

reiiiii123.jpg

honjinnn.jpg


宇多郷と北郷が合流して出陣の式



相馬より旗を追いつつ北郷に来たりてその旗我は知りにき

北郷の大将の家に陣を張りいざ出陣やひまわりの咲く


宇多郷と北郷の陣合流しいざ出陣や法螺貝鳴らす

 


今年は相馬市まで行列見に行ったけど数が少ないし盛り上がらない、野馬追いどころではない、野馬追いの楽しみ方というか見方が意外と地元に住んでいてもわからなかった。野馬追いは行列の前からすでにはじまっている。馬が出る家には前日から旗が立っていた。するこの村のこの家からこんな旗印が出ているとわかる。そこまで地元の人でも詳しく見れない、行列とか旗取りを見て終わりである。野馬追いに出る家はなかなかわかりにくい、一見相馬ならみんな野馬追いに出ると思っているが限られた武家の出の人しか出れない祭りなのである。500騎出たとしても人口からすると非常に家としては少ないのである。村から数軒しか野馬追いには出ない、祭りだとネブタ祭りのように誰でも参加するのが祭りだと思っているが野馬追いは違っている。選ばれた昔の武士の出の人だけが参加できる祭りなのである。わずかに自由参加を許される人はいるがそれもごくわずかであり参加できないのが野馬追いである。


今回は相馬市まで行ってはじめて行列を見た、そしてそこで旗を確認して旗を追って北郷(鹿島区)に来た。するとあれは相馬市(宇多郷)の行列に出て北郷(鹿島区)に来たということがわかる。そういう見方がなかなかできない、実際この年になるまで野馬追いの見方がわからない、結局地元でもわからないことはいくらでもあるのだ。灯台もと暗しなのである。旗の種類も多いしそのル-ツをたどることはもはやできない、それがもどかしいのだがどうにもならない、鹿島区には仮設住宅に小高区の人が多数入ったから鹿島区で見ることになった。小高区からは野馬追いに出ない、浪江や双葉まで相馬藩だけどここからも騎馬がでないと野馬追いは盛り上がらない、そうしたかつての相馬藩を再現して歴史的アイディンティティを確認するのが野馬追いの祭りだからでもある。雲雀が原の神旗争奪戦にそれが全部集る時壮観なものとなる。それができなくなったら野馬追いさえ危機にひんすることになる。小さな限界集落では祭りさえできなくなって跡継ぐものがなくなって消失する所もある。それはやはり歴史の消失だった。飯館村の大倉は古い村であり葉山の古い祭りがあったが今はダムに沈んで消失した。近くに「大倉ばっば」といわれる人が住んでいた。当時多額の補償金をもらったので大倉御殿といわれる所もあった。双葉の人で避難した人が相馬藩の武士の出だとかその系図を示したものもいた。
祭りはその土地のアイディンティティを確認することでありそれもその土地に残る理由にはなる。


ともかく今やこの辺は家族までばらばらになっている。松川浦で魚の行商に来ていた女性も母親と共に娘の元へ避難した。それで昨日自分の家に来て仕事がないかとか来ている。仕事がなくなって困っている人はたくさんいる。南相馬市から浪江,双葉は縮小して一部は消滅してしまう危機である。浪江焼きそばとか宣伝していたがそういうものでとても町民のつながりは保てないだろう。何をもって故郷に住み続ける理由となるのか?それは各自違っている。双葉などは悲惨である。未だに原発を増設して金をたかっている。原発に頼る意外、生活する道がなくなってしまっていた。麻薬を売って生活する他ないとアフガニスタンの部落と同じである。もはや回りの迷惑など考えない、自分たちの生活だけを優先する。でも回りにこれだけ迷惑をかけるものを許すわけにはいかない、双葉町の人にはその近くの回りの人も怒りを覚えるようになっている。原発はあまりにも危険すぎたのである。

yakuhatatataa123.jpg

山中郷は今の飯館村と葛尾村であり江戸時代は野馬追いに参加していたが今は参加していない、標葉(しめは)は浪江であり双葉も入る、そこが参加しないと数的にはかなりへる。

posted by 老鶯 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年07月24日

野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る


野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る

kyouuuuuuu.jpg

これは旗の数である。(相馬市士6)
この資料から見えるものは何なのか?野馬追いに出る数を見れば一番多いのは城下の侍である。810となると多い。でも野馬追いには馬が必要である。その馬を城下町の侍屋敷で飼えたのかとなるとそんな広い敷地は相馬の城の回りにあったとは思えない、一部の上級武士にあったかもしれないが800人も出る馬を用意はできない、でも馬は今の車と同じであり農家には馬が運搬用や農耕用に必ず飼っていて馬小屋があった。在郷給人で農民しながら武士だった家には馬は飼っていたから野馬追いの馬はあった。ただ市中になるとこれだけの馬を飼うことはできない、それでも馬は常に欠くべからずものとしてあった。
 


北山八景

田町晩煙      田町晩煙

秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。


《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、

連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉

《コメント》
 中里哲義
  道ひろき 御代になびきて 立ちそふや うまやつづきの 暮れのけぶりも



 うまやつづきの・・・厩がつづいていたのだから馬をその辺では飼っていたから野馬追いの馬は用意された。晩風が吹く時まで歩いていたとなるとその当時ではにぎわういをみせていた。連甍というと甍とあるが甍の屋根はそんなになかったろう。茅葺きの屋根が多かった。軒を並べることがあるから相馬では一番にぎわう通りだった。

この数字を見て小高が意外と少ない、もともと相馬藩の城は小高にあった。浮舟城である。浮舟とあるのはその当時回りは湿地帯だったのか?そこから村上とかに城を移し宇多に移った。
その時職人なども移動したから小高では少なくなったのか?北郷(鹿島区)が意外と多いのは宇多郷に隣接しているからなのか?宇多郷と北郷が合流して雲雀が原に出陣する。


今の原町の名の起こりはまさに原っぱであり野馬原であり今の市街もほとんど野馬原であり野馬土手が回りに築かれ多くの木戸があり出入りを管理していた。木戸守も置かれた。その地名の名残りとして大木戸村がある。今の原町区では大きい村である。これも江戸時代は牛越村のなかに大木戸村があり牛越が中心であった。原町市の由来となった原町村は小村であり一騎しか野馬追いに出ていない、原町は江戸時代は文字通り原っぱであり小村であり今のような家はなく城のあった相馬市より人口も少なかった。原町宿として発展した経緯があり町の規模は小さかった。明治以降近代化して発展した市だった。その象徴が無線塔だった。その前までは野馬原としてあるだけであった。



原町飛行場のあった場所は、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、
牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。
明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。
雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村から多くの入植者がやって来て、借地して耕作地に変えていったのでした。
「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、
1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。


「墾心楽土」 碑文(全文)

この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 
其の後部落有志に払い下げられた処である
昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が 
この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には
並々ならぬ困難を極めたのであった
漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 
昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

この歴史は双葉町とにている。あそこももともと陸軍の飛行場があったところと聞いた。その跡に原発が建てられた。公共事業のようなものとして必要だった。反対したのは軍関係の施設であったからであり危険なものでもあったからだ。事実戦争になり爆撃の対象とされる。そういう物騒なものだから反対した。それは双葉町の原発の誘致ともにていた。軍事施設ではなかったが危険なものだった。歴史はくりかえすとはつくづく今回の津浪や原発事故で思い知らされた
この大津波だって5百年前に相馬藩にあったらしいがその頃の記憶が丁度消失したとされている。貞観津浪では相馬氏奥まで実際に津浪は来ていたし証拠も科学的に土から発見された。
つまり今回の津浪や原発事故でも人間は同じことをくりかえすものだということを思い知らされた。歴史はくりかえす・・・は自然災害でもそうだし人間の事象でも同じことが起きてくる。浜通りがまるで戦争状態みたくなったことでもわかる。いろいろ変わったように見えても人間そのものは変わっていないから同じことが繰り返しが起こるのだ。

posted by 老鶯 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2011年07月25日

立地が悪い仮設住宅(小池の一部)(感じがいいのは角河原)


立地が悪い仮設住宅(小池の一部)(感じがいいのは角河原)


koike4543.jpg
koikeee123.JPG

ここは立地が悪い

tunogahara.jpg
tunikaaaa1212.JPG

ここは立地がいい

小池の神真野川の上の方はじき側が川だからいいと思うがここは一番立地が悪かった。
前は会社の建物にさえぎられすぐ前が製材所であり木を切る音がうるさい、今までみた鹿島区内の仮設住宅では立地が悪い。土地がないからこうなった。地権者が断った所もありなかなか
いい土地が見つからないからこんな悪い場所になった。田んぼは荒れ地になっているけど整地するのが大変である。となると校庭とかが地盤としていいとかなるがみんなそこに集めるわけにはいかないからこんなに分散した。

角河原は一番立地がいい、人間の住む所は樹が一本あるだけで活きてくるものだと思った。
樹も人間が住むことで活きてくるということがあった。木蔭などは人間が休むことで木蔭なのである。もちろん太古なら動物が休むことで木蔭はなんともいえぬ安らぎを作り出す。

木蔭の効用を普通はあまり考えないが仮設住宅を見ていて一本の樹があるだけで何か憩いの空間を作り出すことに気づいた。そもそも人間の生活に樹は欠かせないものである。でも樹を活かすとなると広い庭が必要である。

鹿島の仮設住宅はこれで全部である。小池の上とか角河原だと車がないと買物ができない、ス-パ-が遠いからだ。小高の人がほとんどだがその他津浪の被害にあった人でもみんな農家が多いし広々とした家に住んでいたから狭いと感じる。都会の団地のように住んでいた人はたいして変わらないと感じる。

長屋風の共同住宅として高齢者が住むもいいかもしれない、孤立化する高齢者が増えている。庭や野菜などを作る畑などの用地を確保する、そういう住み方を考える時代になった。
一軒家に住むことは思った以上コストがかかり一人で住むとなるとやっかいなのである。今は隣近所も助けにならないからそうした共同住宅が高齢者に向いているかもしれない、このさいそういうことも考え実行してみるのもいい。


小高の人がネットで言っていた、仮設住宅に入るの拒否するのは入っても仕事がないとか帰れる状態でないのに帰れと言われるのは問題だ、避難所で暮らしていた方がいいと、そういうこと本にも書いてあった。「避難所にしがみつけるだけしがみつけ」仕事もないのだから仮設住宅に入っても自前で食費など払うと生活費が大変になる。そういうことで拒否する人もでてくる。仮設住宅に入っても自立しろと言ってもできない相談なのである。ただ政府の方針としてそうさせたいのである。原発の避難者は補償金はでるから津浪の被害者とまた違っている。

でも小高は双葉などよりは待遇が悪いとかあったのか、地域によって違っているのか?
ともかく小高の人が目立つし災難だった。小池の立地の悪い所に入ったら嫌だともなる。
でも土地が確保できない、そこが仮設住宅の一番の問題だった。でも仮設住宅で建築関係の人の提案がいろいろあった。仮設住宅を思い出の場にしようとして塔を真ん中に建てようとか立案した建築家もいる。塔はコミニュティのシンポルのようなものになる。仮設住宅は本当にどこでも目立つ、建物はにたりよったりだが立っている場所には差がある。場所を選ぶわけにもいかないがいい土地が確保されないので南相馬市以外でも悪い場所に建てざるをえない場合がかなりあると思う。

posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

桐の花、樗(あふち)の花、月見草


桐の花、樗(あふち)の花、月見草

kirinewww123.jpg


tukimi12321.jpg

nokantanka11.jpg

桐の花誰か知れるや昼の月

目覚めれば小雨に濡るる月見草


所変え安らぐ木蔭多き里


この里の道分け入りて古き家や我が知らざりき桐の咲くかな


ノカンゾウ群れ咲きにけり夕立の雨にぬるるも上真野の原

 


『六帖詠草』 小沢蘆庵


みどりなる広葉隠れの花ちりてすずしくかをる桐の下風
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/kirinohana.html


『草根集』(樗) 正徹

散り過ぎし外面そともの桐の花の色に面影ちかく咲く樗(あふち)かな


栴檀写真
http://www.hana300.com/sendan1.html

 


花をテ-マにしてきたけど桐の花と樗(あふち)はにているのだろう。この樗(あふち)は見たことがない、栴檀とあり日本語名が樗(あふち)となっている。桐とにているからこの歌ができた。桐の花が散ってそのあとに樗(あふち)の花が咲いた。桐の花の色に面影ちかく咲く・・・とはにている花だからだろう。桐の花は匂うのか?匂いを感じたことがない、桐の花は好きな花でもある。
性格的にこうしたひっそりと咲いているのがにあっているということもある。旅をして道が分かれて入るとそこに古い茅葺きの家があり水田に桐の花が咲いていた。桐の花は水田ににあっている。その水田がこの辺でなくなったことが風景を変えてしまったのだ。


ノカンゾウが咲いていたがそこは水田だった。それが原っぱになっている。どこも原野化している。水田のない風景はこの辺では見たことがない、北海道と同じである。ただ一面に原野にノカンゾウが咲いている風景は北海道の風景なのである。

仮設住宅がある風景はなんか実際は田舎になじまない、田舎は農家は一軒一軒広々として住んでいる。木蔭も多いから安らぎがある。田舎ではアパ-トととか団地のようなものは少ない、でも市になると結構団地のようなものが建っている。住まいに関して田舎は贅沢である。前は畑や田であり広々として気持ちがいい、町の前がさえぎられた所にしか住んでいないからどんな気分になるのかそういう所に住んでみないとわからない、住環境としては田舎はいい。


白鷺が川に一羽いた。川には餌があるからいる。でも放射性物資が鮎からも発見されたからそういうものを食べてどうなるのか?ビワからも発見された。ビワがなっていたので食べた。農家ではビワも放置してとっていない、ビワとかも食べられないの異常である。自分は多少の放射能は気にしない、なぜなら10年後は別に放射能でなくてもガンか何かの病気になっている。
60すぎたりしたら結局放射能で死ぬにしても他の病気で死ぬにしても同じである。だから別に地元の米でも野菜でも食べる。もうある程度の放射能の食料を日本では食わざるをえない、そんなに神経質になっていたら食べるものがなくなってしまう。日本人はもはや原発をもった罰としてそうさせられた。結果はどうなるにしろどうにもならないのだ。恨むとしたら原発を作った人達を恨むほかない、恨みを残して死んでゆくほかない。


月見草の写真はアップして良くとれた。月見草と雨はにあっている。


真昼の桐の花(詩)
http://musubu2.sblo.jp/article/29185310.html