2011年07月09日

大和魂は死んではいなかった-津浪原発事故で蘇る日本の歴史


大和魂は死んではいなかった-津浪原発事故で蘇る日本の歴史
(戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て-続編)

http://musubu.sblo.jp/article/46596711.html

これの続きだけと会津藩はプロイセンと結びついて北海道を売り渡すとなると攘夷派からは相当な攻撃を受ける。今でも右派からは売国奴となる。北方四島でさえロシアともめていることでもわかる。もちろん時代が違うといえばそれまでだが今の時点からみて歴史は判定される。だから歴史の判断は百年後とかでないと見えてこない場合がある。百年後たってそのことはそういうことだったのかと霧が晴れるように見えてくることがある。その一つがこの事実だったのである。

これがどういうことかというと明治維新は中国のように日本が外国勢力、欧米列強に分断される危機だったのである。内乱状態だった。そこにつけこまれて日本は分断され植民地化される危機だった。だから日本は内戦をやめてなんとか日本を統一しようとして勤皇派などが生まれた。日本統一のシンボルとして天皇は危機の時いつでも出てくる。大東亜戦争でもそうだった。
外国勢力を知らずして日本の歴史も理解できないものになっている。その重要な事実の一つがプロイセンと連合を企み北海道を売り渡そうとした会津藩と庄内藩があった。ぎりぎりに追い詰められてただ自分たちの藩を守らねばならないという危機のためにそうなった。プロイセンにすがったのである。


日本の歴史や政治をそうして外国勢力によって決められてゆくというのは百済と新羅の対立が奈良時代に日本にもちこまれたとかあった。その時韓国が技術的に優れたものをもっていたからである。技術力は兵器力でもあった。それが明治維新後は常に日本の歴史の背後にでてくる。武器商人が暗躍するのは内戦とかのときでありそれで一儲けする。薩摩についたのはイギリスであり武器商人がそこでもうける。そして現代ではロスチャイルドやロックフッラ-が陰ですべてあやつっているという陰謀史観となる。日本人はただこうしたアメリカの大金持ちや財閥や軍事勢力に支配され動いているアメリカの植民地にすぎないとなる。そういう面から歴史を見るのは偏ったものとはいえない、その一つが会津藩のプロイセンとの連合計画だったのである。

明治維新も絶えず欧米列強との連携があって成されている。ただその中で日本独自の道を、植民地化されない道を進むことができたのは日本は中国とも違う、外国人も明治維新を高く評価している。日本人はそういう歴史をもているから一面恐れられている。アメリカでも実際は日本をまだ恐れている。それは太平洋戦争のトラウマがある。硫黄島の戦いや怖いことを経験しているのだ。原爆も日本をなんとか徹底的にうくのめすためにあえて投下した。アメリカの人道主義は全くの嘘ばっちであり偽善である。アメリカは金を崇拝して戦争屋であり武器商人としてもうける国である。


新ベンチャ-革命

http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/archive/2011/07/2


ここで現場の技術者が書いているから興味深かった。一連のものとして読む価値がある。日本の原発事故で現場に残った五十人がいたことを称賛している。その裏返しはまだ日本人は戦争のように自分を犠牲にしてまで仕事をする、尽くす人がいたということである。それがアメリカは特攻隊の恐怖のように称賛すると共に恐れたのである。だいたい日本はすでにそうしたものはなくただ功利的に動くだけの会社人間になっているとみていた。確かに日本人自体も戦争のことなどを忘れ否定するようになっている。金もうけだけに金をすべとしてアメリカのように限りない欲望の追求だけになっているというのも事実だった。ただ日本の魂が死んだのかというとそうでもなかった。それが何とか日本を救おうと決死隊が出てきたことにアメリカは賛嘆するとともに恐怖したのである。

日本人の歴史的メンタリティというかそういうものは喪失したと思ったけど意外とそういうメンタリティは変わっていない、大和魂などというとそんなもの何の意味があるのかとなっていた。一部の右翼のなれのはてのような意味のないものとして見ていた。しかしそうではない、日本人のメンタリティは変わらない面があった。特攻精神が残っていた。最後に日本人は日本のために命をすてる、命を惜しいと思わない、そういうメンタリティは変わらなかったのだ。日本は大和魂で一丸になるメンタリティは変わらない面があったのだ。それは理屈ではなく本能的に日本人なら誰でももっているものだった。


ただ今は外国人が日本に入ってきて本当にわけのわからない雑種になりつつある。在日勢力もそうだし中国人も増えるとかそういういろいろな外国勢力が日本人のメンタリティを破壊しつつある。だから今新たな勤皇派が出現してくるかもしれないしその反勢力もでてくる。つまり明治維新の混乱状態が思想的にも現実の政治でも起きてくる。それぞれがどういうふうに動くかは明治維新の混乱を見ればわかる。その一つが今回の会津がプロイセンと組んで北海道をうりわたしてでも自分たちの藩を守ろうとしたことである。それはロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムではない、今起きていることはやはりナショナルヒロイズムが要求されているのだ。
だから経済の合理性の論理だけで会社の利益追求だけで動いていいのか?日本は電気がないから大会社は外国に出るという、それは日本を捨てることになる。それでいいのか?会社にとって日本にいても得はないとただ利益だけで判断して日本を見捨てる。戦争中だったら国賊となったろう。今は東電に残った五十人のように日本の危機であり日本滅亡になるかもしれない、そういうとき経済合理性だけで行動していいのかとなる。そんな褊狭なナショナリズムなど今にはあわないというのも意見である。それも否定はできない、それは明治維新では攘夷派に撃たれることになる。


今回の津浪と原発事故は単なる自然災害でもない、事故でもない、日本の危機としてとえらる必要がある。だから大和魂の再現の国粋派が台頭しても不思議ではない、結局歴史はくりかえす、明治維新の動乱と太平洋戦争が蘇る。「大和魂」が蘇る。志願する特攻隊が現れる。
そういう動乱の時代である。政治が混乱するのもやむを得ない、明治維新でも混乱を極めたからだ。未だになぜそうなったのかも解明されていないのである。


 

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海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


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海老の一番高い崖の上の家
これは建てて二年とか新しいものだった




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三菱化成の工場は被害がない
あの辺はすれすれであり津波の高さからすると危なかった
原町の島自動車商会のあるところは相当高くても
駐車場が津波にやられた

あの工場がやられなかったのはどうしてか?
山が衝撃を受けて津波をおさえたのかもしれない・・・・
福島原発でもちょっとでも高ければ助かった
高い盛り土したのだか地盤が弱くなると低くした
それが致命傷になったのである。

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自衛隊がかけた鉄の橋


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崖から下りた八沢浦の海岸に接した数軒の家では二人死んだ
八沢浦では人はそれほど死んでいないだろう
海から近くてもすぐ後ろの山に逃げて助かった
この辺は海に近いのに被害が少ない
波がなんらかで強い波ではなかった、高い波でもなかった



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松川浦は松がなくなり広々として見えるようになった

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磯部では死んだ人が多かった





涼しさや海風吹いて残る石

夏草に石の埋もれる右田かな


涼しさや残れる石に海の風


夏草に石の埋もれる右田かな


海の風浦広々と夏雲雀


夕蝉の遠くにひびき屋敷林


六号線夕風涼し一路行く


家もなく野原の石や夏の月


土台のみ残れる跡に夏の月




父と母妹眠る墓標かな夏の海よりそよぐ風かな


磯部にも二本の松の残りけり家の土台に夏の夕暮


松川浦津浪はすぎて二本の松の残れる夏の夕暮


松川浦残れる松の十数本風そよぐかな夏の夕暮


十数本残れる松に松川浦昔の面影偲ぶ夏かな


津浪にて生き残る人あわれかな松も残りてなおも生きゆく


広々と浦の展けて夏の日や松みな消えて風わたるかな


街道の松の太しく鶯のなお鳴きにけり城下を去りぬ





津浪の跡は放置しておくとやはり湿地帯化してゆく、塩のふくんだ硬い泥炭層ができている。こういう場所にセシウムはたまり堆積するとあった。ここに餌があるのだろうか?白鷺が餌を探している。鳥にとって人間のことなど我関せずである。湿地帯化すればそこに生き物も集るのかもしれない、原始の状態に戻りつつあるのだ。
八沢浦で海から近いところで被害にあった人に聞くと突き当たりの小高い山に逃げたという、津浪が来たとき見えたとき逃げてもまにあったというのはわかる。後ろの山に駆け上ればまにあった。そしてそれほど高くあそこには来ていなかった。あれだけ近いのに被害が少なかった。これも明かに地形のためである。前の山が浪の強さを緩和した。八沢浦は海岸に接していないところはそれほど被害はなかったろう。死者は海岸に接した家であった。そこで二人死んだと聞いた。海岸に接したところはどこももろに津浪の衝撃をうけた。高台にあった海老の家もあんなに高いのに死んだのは津浪の衝撃が崖にぶつかり激しかった。そのためにもろに波をかぶりその衝撃で人が死んだのだろう。津浪の浪の衝撃はみんな一様ではない、地形によってその強弱が異なる。これは確かにわかりにくが被害状況を調べるとわかるのだ。津浪は後ろに小高い山でもあればすぐに逃げられるから助かる。その山もそんなに高くなくてもいいのである。

磯部は小高い山も何もない、平らなところだから被害が大きかった。松川浦の松林も根こそぎなくなった。その松がなくなった結果見晴らしが良くなった。海側の方からみると松川浦は広々として見えるのである。前は松にさえぎられて海側からは大きく見えなかった。今回はいろいろと津浪のことが実体験としてわかった。磯部のような平な所だったら避難所として高台が必要なのである。人工的な高台が必要なのである。コンクリ-トの公共施設の建物は津浪に流されず残っている。だからコンクリ-トの高い建物が必ず必要である。でも相当の高さが必要である。
そういう教訓を今回の津浪は残した。

いづれにしろ津浪で景色が変わってしまった。不思議なのは右田というと松原だったけど今は庭の石が野原にある。それが一つの右田の景色となりつつあるのも不思議である。庭の石から野原の石になった。広々としたところにあるから海からの風がそよげば涼しいという感じになる。
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2011年07月10日

失われた日本の海の風景(原発事故も文明の必然だった)


 失われた日本の海の風景(原発事故も文明の必然だった)

海 『尋常小学校唱歌五』(大正2年)

 松原遠[とほ]く消ゆるところ
 白帆[しらほ]の影は浮かぶ
 干網[ほしあみ]浜に高くして
 鴎は低く波に飛ぶ
   見よ昼の海
   見よ昼の海

 島山闇に著[しる]きあたり
 漁火[いさりび] 光淡[あは]し
 寄る波岸に緩[ゆる]くして
 浦風軽[かろ]く沙[いさご]吹く
   見よ夜の海
   見よ夜の海


「沙(いさご)」は砂のこと。


われは海の子  作詞者不詳「尋常小学校本唱歌」明治43


 我は海の子白波の
 さはぐいそべの松原に
 煙たなびく とまやこそ
 我がなつかしき住家[すみか]なれ


青松白砂の風景で松原が作られたのは江戸時代である。この風景は江戸時代である。大正時代にもこれとにた風景がまだあったのかもしれない、でも白帆はなくなっていた。


煙たなびく とまやこそ
 我がなつかしき住家[すみか]なれ


こょ風景も江戸時代である。戦前まで確かにこうした風景は日本独特のものとしてあった。


 寄る波岸に緩[ゆる]くして
 浦風軽[かろ]く沙[いさご]吹く


この風景はやはり瀬戸内海にふさわしい。このことは八沢浦が津浪で深い入江になり浦風も吹き何より浦波がよせてきたことに奇跡のように感じた。その波は春の光にきらきら光っていた。

福島県の海岸線にはこういう風景がなかった。入江がほとんどないからである。入江は九州でも四国でも日本海側でも多い、そこは船が停泊するのにいい浦なのである。浦といっても日本には小さな浦も無数にある。今回の津浪でわかったように津浪が押し寄せて海になったところは浦だった。そこは水深が浅い浦であり入江である。こうした浦は小さい船が入り停泊するのに向いていた。丸木舟のようなものでも入り停泊できる湊である。だから古代でも万葉集の時代でもそういう船で瀬戸内海は航海できたから歌にも残された。やがてこうした小さな浦々は北前船のように大型化すると見捨てられた。さらに船が大型化すると港湾が必要になる。そうなると
海から港から人間臭さが消失する。軍港とかなるとさらに庶民とはかけ離れたものになる。
この辺で磯部漁火が北山八景とかの短歌に残っている。そういう風景は日本ならどこでもあった。その時人と海は結びついていた。人間臭いものとして結びついていた。


しかし船の巨大化や港湾型になるとそこは石炭の積み出し港だったり最近では石油のタンクが並ぶ港だったり工場地帯になったりと江戸時代のような人間臭いものは消失した。例えば近くに火力発電所があるがそこに千人も働いていると思わなかった。中に入らない限り人影も見えない、無人にしか見えない、そして大きな建物だけがある。港もあるがそこには外国から石炭などが運ばれてきても外国人がこの土地に下りてくる港でもない、貿易でにぎわい外国人が出入りする江戸時代のような港ではない、何かただモノを運び出し入れするところであり人間臭くない、無機質である。だから倉庫などばかりが並ぶ港でもある。原発も海側にあったが火力発電所と同じようにそこには外からは人影も見えない、働いている姿も見えない、だからそこに働く人たちとの交流もないのだ。ただ巨大な利権であり金をくれるものとしてしか意識しない、江戸時代の港ならそこに人間臭いものがまだあるから北前船の日本海側の港には西の文化、京都や大阪の文化が残された。言葉も伝わって今に残っている。それは人間的交流があったからである。


そもそも経済というとき互いのコミニケ-ションが目的であったとポランニ-は言っている。
贈答貿易が貿易の始めでありそれは見知らぬ人が交流するためでありこ親交を結ぶために貿易があった。物々交換もそうであり経済は極めて人間的なものからはじまった。だからその時貨幣経済がすべてではなかった。今日のような金がすべての価値になったことはない、結果としてもはや金でしか人間と人間の交流はできなくなった。それは原発事故でも同じである。
金がくれるからいいとなるだけだったのである。

原発問題を考えるときその事故の背景には全く地元民との日常生活レベルでの交流がなかった。そもそも原子力などむずかしくて教えられてもわからない、ただ自分たちに触ることもできないものとしてあった。そこに働く人々との交流もない、そこに深い断絶があった。コミニケ-ションをとることができない、ただ金になるから容認しているだけだった。別にそういうことは現代文明では普通にある。互いのコミニケ-ションがとれない、都会と田舎でもそうであり為政者と民衆でもそうである。専門家と技術者と一般人でもそうである。余りにも高等に複雑になったから である。そうして分離隔絶した中で知らずに恐ろしいものを容認して醸成していたことがあった。

つまりもう知り得ないものとして原発は専門家や利権者にすべてゆだねられる。何らそこに住む人もかかわれない、ただ金やるから黙っていろで終わりである。海から人間臭い風景が消失したようにそもそもそこに住む人すらかかわれないというものであった。結局現代文明では官僚と一般人も隔絶しているし密なコミニケ-ションがとれない時代である。そして互いが遊離しているから危機に直面したとき弱い、もはや対処できない状態になっている。やはり人間は自然でもそうだが風景とマッチしたときそこに調和が生まれる。江戸時代は自然とマッチしてまた人間臭いもののなかで育まれたらなごみが生まれる。すべてがいいとはならないがあまりにも現代文明は互いに巨大化組織化して干渉しあうこともできない、それぞれが一人歩きしてそれが大きな取り返しもつかない事故にもなる。ヒュ-マンサイズを超えたものとしてありそれがある時破局的なものとして襲いかかってくる。それはこれからも必ずありうる。東京なども大地震が破局的なことになり滅亡してゆく恐怖が現実的になったのである。文明は迷宮化して滅びる運命にあるのだ。



参考にした本

海岸線の歴史(松本建一)


 
posted by 老鶯 at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月11日

福島市はなぜ放射線量が高かったのか?(風と標高差のため)


福島市はなぜ放射線量が高かったのか?(風と標高差のため)

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わかりやすい放射線分布図(地名がでてくる)
http://www.nnistar.com/gmap/fukushima.html

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この放射線量分布図はわかりやすい、やっぱり風の方向があった。
標高差も関係していた。赤字木(あこうぎ)は一番高いが標高は飯館の中心地からすると
かなり低い、そこは谷間であり放射性物資が堆積しやすかった。一番放射性物質が流れたときそこに雪がふったりした余計に堆積しやすかった。


そしてなぜ福島市が放射線量が高いのか?それは標高差と関係していた。
飯館村の役場のある中心地は標高が高い、霊山も標高が高い、その標高が高い所から低い所に風が吹いて放射性物質が流れた。だから途中の小盆地になっていた小国は比較的高い
福島市は思った以上高いの標高差が関係していた。
飯館の高いところから福島市の方へが風が降下した
黄色の所が高いのはそのためである。

そして田村市などが低いのは山にブロックされたためである。
安達太良山も高い壁となりさえぎった。そして東北新幹線の通る中通りは風の通り道になり
比較的放射線量が高くなった。何故なら三月は東風が吹いてもすぐに北風に変わるから
東風が北風に変わったのである。その時放射性物質も郡山市の方に流されたのだ。


風と標高差と山の地形によって放射性物質の流れは決定された。田村市は近いのに山にブロックされて低かった。そして放射性物質の半分は風で海の方に流された。海岸沿いが低いのはそのためである。山は放射性物質が堆積しやすく海側は風と飛ばされるので堆積しにくいことがわかった。チェエルノブエリではどこまでも平らな土地だから一様に30キロ圏内は放射性物質は均等に広がった。日本ではそうならなかった。だから30キロ圏内の同心円で決めるのは間違っていた。浪江の数キロしか離れていない請戸ですら一マイクロシ-ベルトにもなっていなかったのである。


ただ結局日本が地形が複雑であり放射性物質の分布もまだらであり近くても違っていたし一地域をまるごと避難区域にするのも金がかかるから勧奨地点とか決めるようになった。これもかえって避難する人にはめんどうになった。

 

今日の朝日新聞で福島の大気中の放射線量数値は1.37でした。
たとえば福島で路上生活されている方は
1.37×24×365=12,001

大まかな計算として年間12ミリシーベルトの放射線を浴びると思われます。
福島だけでなく郡山も同様の数値で推移しています。
http://okwave.jp/qa/q6785181.html



今日のアサイチでチェエルノブエリで暮らしている人を紹介していた。1・5マイクロシ-ベルくらいのところで厳しく放射線を管理していて子供も住んでいる。これは福島市や郡山市と同じである。年間一ミリシ-ベルトを基準にしているというからチェエルノブエリの放射線管理の方が厳しい、
日本はそこまでしていない、20ミリでも大丈夫だとか言っている。ロシアより管理ができないのは住んでいる人の数が多いためである。福島市と郡山市は人口が多くて避難させることができない、それだけの理由である。3マイクロシ-ベルトとかなると確実に避難地域になるのだろう。
1・5はぎりぎりの線であり厳しく管理して居住できる放射性線量だとなる。



 

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雲の峰(湿地帯化する田んぼ)

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ぐんぐんと高さをましぬ雲の峰

雄大に人はばからず雲の峰


雲の峰頂点極め崩るかな


夏雲雀草青々と夕暮れぬ


津浪原発事故は余りにも大きな変化だった。江戸時代でも飢饉があっても田植えしない時などなかった。なぜなら相馬藩内で米作っていなかったらみんな飢死する。他の藩から援助がもらえない時代である。こんな状態で放置されているのは他から米が入ってくるからだ。米は余っているということもある。だから危機感かあまりない、農家の人も補償をなんとかもらうおうとしている。そうでなければこんなことをしていられないだろう、放射能があるからといっても飢饉で死ぬよりはいいと米を作っていた。米がそれだけ命を維持するものとして直結していないのである。

田んぼが青々として草が繁っているのも不思議である。草原化は日本ではしない、雨がふるから湿地帯化してゆく、でも「夏草や兵どもが夢の跡」という俳句の夏草とはこうした夏草だったのか?広い範囲で夏草が繁っていなければこうした句は作れない、広い戦場の跡はただ夏草か繁っていた。江戸時代だったらそういうまだ開墾されていない土地がありそこに夏草が広々としげっていた。そうでなければこうした句はできない、夏草というと茂みのようなものを今では想像する。平地で広々と夏草がしげっているとこは本州では想像しにくいのだ。


キノコ雲のような雲の峰は夕べに空に高くなった。雲の峰は一つの形を作ると崩れてゆく、いつまでも同じ形をしていないからシャッタ-チャンスは短い、これは全く原爆のキノコ雲だった。
自然は雄大である。人は人により萎縮させられる。人間の組織でも何でも人間が人間を監視して小さくこじんまりと収めようとする。それが社会というものである。自然にはそういうものはない、実に雄大であり何か遠慮するはばかるものはない、それは津浪でもそうだった。あれほど恐ろしい自然の力は千年に一度である。まだ暑いと言っても30度くらいだから去年よりはいい、浜通りは海の風が涼しいから住みやすい、中通りは蒸し風呂になる。

東北も梅雨が明けた,今年は早い、夏本番になった

2011年07月13日

暑い一日(無人化する村の不思議)




涼しさや夜明けに鳴きぬ鳥の声


清しきや夏の夜明けの鳥の声


夏の夕仮設にひびく笑え声


久しくも村にありにし石なれや残りて待ちぬ帰り来る日を


青々と草の生えにき夕べなお雲雀の鳴きてひびきけるかな


藪甘草草むら深く一輪のここに咲きにつ故郷に住む

蛙鳴く声のともしく故郷を離れし人のなお帰らじも


水田は土の露に草生えて雲雀は鳴けど鷺は来たらじ


耕さじ畑を見つつ農夫かな用もなきしをあわれなるかな


海の方には松原がなくなり木蔭がなくなった。この辺りは木蔭が少ない、今日は暑いから陽差しが強く外に出れない、これも困ったものである。海の方は風が涼しいからいい、木蔭がないと外に出にくいのだ。 飯館村から出てアパ-トに住んでいる人のことをテレビで放送していた。
飯館村は家も広いし一軒一軒が離れて暮らしている。森につつまれて前は広々とした田畑である。そういう所に住んだ人が都会のアパ-ト暮らしはなかなかなじみにくい、アパ-トとかは圧迫感がある。日本の住まいはウサギ小屋と言われたけど狭苦しい。飯館は広々とした所で森につつまれて家があった。 標高も高い高原だから夏でも涼しい、今年も暑いが去年のような暑さにはならないみたいだ。浜通りは海から風がふくから涼しいのだ。なぜ危険な海側に住んだのかというとやはり夏が暑い日本では涼しいくて気持ちがいいからである。人は気持ちのいい所に住みたいのだ。千年に一度来るような津浪より住みやすい場所に住む。


テレビに映った家族は大家族であり三世帯で住んでいるとか今でも田舎ではそういう家がある。家が広いからそれができる。しかし一方でそういう家族はめずらしいことも今では確かである。大原の農家は息子夫婦は街に出て大きな古い家が残されて一人で住んでいた。あそこも廃屋になってしまうのか?酪農でも農家でもたいがい50以上でありその先継続してゆけるのかどうかという人が多い。跡継ぎもなかなかいない、だからこんなふうになると廃業する人が多くなるのだ。


いづれにしろ無人化してしまう村というのも不思議である。そこに待っているのは何か?太古からあった樹や石である。それらも村とともにあったから人間味帯びたものとなっているのだ。

今日は暑くて熱中症のようになった。今年はなかなかク-ラ-を使えないだろう。海の方に行けばいいのだが木蔭もなく休む場所もない、やはり海には松林が必要なのだ。


仮設から笑え声がひびいた。普通の家だったら聞こえないけどそれだけ声がひびく。隣にもひびくからつつぬけになってしまう。長屋にはプライバシ-がなかった。ただ親密な関係になった。両方がうまくいくことはこの世の中ない、夏は朝が涼しいから気分がいい、昼間は暑くてだめだ。ここはまだ30度だから何とかク-ラ-なしでたえられるか、頭が痛くなった。汗をかくというのは確かだろう。陽差しが強いから外にでなかった。

海から吹いてくる東風(こち)の考察 (飯館村の不運は風と地形のため)



海から吹いてくる東風(こち)の考察

(飯館村の不運は風と地形のため)

●風の地名では東風が主流


 海に珍しいものが流れてきたり、木の実が熟して落ちる事をアユ、アエル、と言い、
  それを約束する風であることからくる。


寄木神社が各地にあり何か海から寄ったものを集め生活の糧としていた。津浪が来た磯部辺りにもありそこにはちょうど海が奥に入っていた地点だった。海はもっと奥にあり寄木神社は昔の海の地点を示していた。




かひよせ【貝寄風】


 (貝を浜辺に吹き寄せる風の意) 陰暦の二月二十日頃に吹く西風
 
貝寄する風の手品や和歌の浦 (芭蕉)


 ふるさとや東風寒き日の鰯売り 鈴木真砂女


この辺で海から吹く東風はまだ寒いからこれはわかる。海近くに住んでいるからこの句ができた。


あゆのかぜ【東風・鮎の風】


 「俳諧歳時記栞草」に書かれたように越(富山県)では俗に「アユノカゼ」と呼ぶ、と万葉集の細注にはある。


   東風痛久吹良之奈呉乃安麻乃都利須流乎布禰榜可久流見由    家持
  (アユノカゼイタクフクラシナゴノアマノツリスルヲブネコギカクルミユ)


 谷川健一『日本の地名』によれば、「アユの風」(アイカゼ・アイノカゼ)は秋田県仁賀保では「北風」を指し、越(越中=富山県)では「東風」を指し、 さらに、
 
   年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ


 という万葉集巻七の歌を引用して、名古屋市熱田あたり、つまり太平洋側では「アユの風」は「南風」だと述べる。
 
 ならば、「アユの風」は海から陸へうち寄せる「貝寄風」と、同じ方向から吹く風と考えていいだろう。


はえ【南風】


「牛深はいや節」の「はいや」とは南風だという。

    
         はいやはいやで 今朝出した船は
     何処の港に 入れたやら
     牛深三度行きや 三度裸
     鍋釜売っても 酒盛りやしてこい    
        戻りにや本渡瀬戸 徒歩渡り


しろはえ【白南風】


 (九州地方などで) 梅雨明けの頃に吹く南風。また、8月頃の昼間吹く南風。  『広辞苑5版』
やませかぜ【山背風】


明治20年代の追分節に
 
 やませ風 わかれの風だよ あきらめさんせ 又いつ逢ふやら逢はぬやら

というのがある。これは、最上川舟歌でも


   山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ

 



風を一番敏感に感じるのは誰か?生活に直結して風を感じているのは誰か?それはやはり漁師だろう。帆船の時代とかでも風が大事であ
る。万葉集では風待ちの湊があった。強い風が吹いたらその頃の船では航行できないからだ。風は普通は海と一番関係している。そして海から吹いてくる風で春を感じるのが東風でありコチである。だから沖縄に東風原(こちんだ)という地名がある。コチは古語であり青森や沖縄の辺境に残っている。風の方言も伝播している。ヤマセはもともとは・・・であり東北の方に伝わって変化した。

はいやはいやで 
今朝出した船は
何処の港に 入れたやら


まさにはいやはいやが出だしに歌われるのはそれだけ風とともに漁師が暮らしていたことがわかる。


● 鮎川は万葉集の年魚市潟(あゆちがた)から名づけられた


  年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ

この歌は鮎の風が吹く潟であり潮が退いたら舟も近くに見えたとなる。潮が満ちていれば同じ地点でも遠くに見えるからだ。そういう自然の変化を歌にした。知多の浦となるとこれも相当に広い湾になっている。年魚市潟(あゆちがた)が東風原(こちんだ)と同じように固有名詞の地名になっていることは常にこの辺に住む人が東風を意識していたのだ。鮎川は年魚とあるから今の鮎(アユ)とは関係ない、もともと東風のことであった。ただ鮎となったのは万葉集の当て字の類だった。鮎川の川は海を川とした。牡鹿半島の付け根と金華山の間が海峡であり川のようになっいたからかもしれない、陸の川ではないだろう。このあゆちがた(年魚市潟)は愛知という県名の元となったといいます。
東風が吹くと春が来るから意識する。一般的には海に面する地域が風を一番意識する。津浪が来ても海側に住む人が増えたのは暑いとき風が涼しいし冬はあたたかくなるからだ。福島県の浜通りもそうであり何か特別にいいものはないにしても気候には恵まれているから住みやすいのだ。


東風吹けば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ


この歌も東風にしても実際は海から吹いてくる風である。この辺では明かに丸森辺りだとこの東風だとわかる。山を越えて海から吹いてきた風だとわかる。山を越えれば海が見えるからだ。

飯館村は海から遠いと言っても八木沢峠から海が見える。山の奥でも風は海から吹いてくる。特に春は東風が吹き山の奥まで吹いて春を告げる。祖谷(いや)のかずら橋まで深い谷間を吹き上げてきた風も海から吹いてきた東風だったのだろう。その深い谷間は風の通り道になった。ただ夜は空気が冷えて山から海に風が降下する北風になる。風を感じるのは方向を感じることである。方向に敏感なのが船を操る漁師や航海民である。また方向に一番敏感なのが草原や砂漠の民である。遊牧民は方向を知るために北極星を目印とする、だから星が旗印となる。相馬藩の氏神、妙見神も北斗七星が旗印であり大陸から伝わってきたのだ。遊牧民にとって方向が生死を分ける。それは砂漠で水がある方向へ導くことが命を分ける。それは砂漠を旅行した日本人のベテランが水のある方向へ仲間を導いて命が助かったことでもわかる。方向がまちがって水がなかったら死ぬ。アラ-の神はどこにあるというものでもない、でもアラ-の神の神殿のある方向に向かって祈る。偶像がなくても方向が偶像だというのが如実に示している。
そして遊牧民が航海民になったことは方向が生死を分けることでは同じだから文化も同じものとなるためである。


●飯館村の不運-谷間が風の通り道となり放射性物質を運んだ

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今回の原発事故の放射性物質の流れは予測されにくものだった。放射性物質がどういうふうに流れかよく準備もしていないし研究もしていなかった。高額なスビ-ディの機械を準備していても役立たせることができなかった。まず事故が起こらないとしていたのだから事故が起きたらどうなるかなど詳しく研究などしていないのだ。また誰も予測し得ないものとして事故が起きたのである。だから事故が起きたときただ茫然と現場の人も見ているだけだった。どう処理していいかもわからなかったのである。その後の膨大な汚染水処理を見ていてもわかる。そしてこれほど風と地形に影響されるとは思いもよらなかった。海側は本当に放射線量が低いの山側は異常に高かった。南相馬市が避難準備地域とかに指定されて牛から基準値の何倍もセシウムがでたというとき南相馬市全体のように見ているが違っている。南相馬市でも山側であり海側ではない、これは浪江でも一様に高いと思っているが山側であり山の奥に入った所である。


図のように標高と風の通り道を示した。椚平は標高としては低いが放射性物質は比較的低く流れるとなるとその辺に堆積しやすい、次に赤字木辺りは狭い谷間でありそこが風の通り道を形成した。3月15日に爆発したときその谷間に一定の風、東南の風が吹いた。その方向は昼間は変わらなかった。なぜなら谷間は風の方向が変わりにくいのだ。ちょうど筒のようになっていて風の方向は変わることはできない、一方海側は風の方向はしょっちゅう変わっている。だから一時南相馬市に南風が吹いて2,3時間20マイクロシ-ベルトになったが風の方向が変わり急速に低下した。風の方向が変わり海の方に飛ばしたのである。それが海に出て牡鹿半島に吹き一関まで風が吹いてそこがホットスポットになった。風はこのように複雑なのである。一旦海の方に吹いた風がまた海から陸に向かって吹いて陸の奥、一関まで吹いて放射性物質を運んだのである。今回の事故でわかったことは海側は放射性物質が堆積しにくい、海に吹き飛ばされる。山側は危険である。なぜなら谷間が風の通り道となりその風は赤字木を通り長泥(ながとろ)に吹き出した。だから長泥や曲田は20マイクロシ-ベルトとか異常に高い、長泥や曲田は風の吹き出し口になっていた。そこから標高の高い飯館村の中心地に向かって風は吹いて放射性物質を運んだ。でも中心地の草野辺りでは低くなっていた。そして今度は北風が吹いて風は北風に変わり標高の高い飯館村から降下して吹いた。そもそもその辺になると谷間はない、だから風は変化しやすくなっていた。北風にあおられやすくなっていた。それで福島市や郡山市に放射性物質が流れやすくなっていたのだ。


海側から吹くときは細い谷間をぬって吹きあげてきたが標高が高くなると高いところから北風にあおられて平坦な地に飛んだ。ともかく風をとらえることは機械でもむずかしいし予測つかない、だから東風が方言で今度は北風となっていた。それだけ風はどちらから吹いてくるかわかりにくいのである。そもそも風は科学でも解析できない、千の風があり自在である。そして風は今の時代また感じにくくしている。車でも電車でも風を感じない、船でも今や潮流に乗らなくても航行できる。旅をするときやはり風を感じなければ旅にならない、だから便利になりすぎて旅もなくなった。阿武隈高原を海の方に越えてゆくとき夏すずしい風を感じる、でも車だったら感じないのである。峠が風越し峠という地名も多いのもそのためなのか、峠を越えると風が変わるということがあるからだ。現代人は科学で何でも知っているように錯覚している。でも自然でも実際はわからないのが多い。科学的に分析できないのも多い。風はいくら科学的に説明されてもわからない、あまりにも多様すぎる
からである。


山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ


 東風ふかば思いおこせよ放射能飯館村の恨み深しも


飯館村の不運は風とその地形にあった。真冬だったら北風だから放射性物質は海の方に流されたかもしれない、3月11日という春になるころの東風が災いしたのである。それだけではなく地形も風を呼ぶような地形になっていた。谷間は風を吸い込むような働きをした。それが放射性物質の通り道にしてしまったのである。まあ、風を恨むことはできないにしろ東電への恨み、政府への恨みは消えない、福島県の政治家も結託しているから恨むべきだ。なぜ責任を問わないのか、怒らないのか、風だけでそうなったのではないからだ。


風は地形の影響を受けて変化する
(なぜ飯館方面に放射性物質が流れたのか?)
http://musubu.sblo.jp/article/45497821.html

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2011年07月14日

朝焼け(眠れずに起きていた一日)

 

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朝焼けや津浪の後に残る松


海広く朝日上るや夏野かな


海よりの朝風吹いて夏雲雀


朝早しあまた並びぬ夏燕


午後下がり老女と犬や木蔭かな


夏の雲少女歩むや街の中


夏の雲一人入りにぎわう仮設かな


草青く夕べ明るし夏雲雀


黒揚羽夕べ二羽舞ふ年老いぬ

朝焼けは夏の季語である。朝焼けになると天気が下り坂になるというのは本当か?明日になればわかる。去年の暑さよりはいいが蒸し暑い、やっぱりク-ラ-したくなる。下の狭い部屋に新しいのを備えた。家に二軒でと電気が食う、今年は去年ほどとではない、30度から32度なら平年並みである。中通りや会津は暑い、35度となるとク-ラ-なしでは耐えられない、何か書くのもいやになる。今日は眠れなくて起きていたのだ。


海と広々とした野があれば気持ちがいい、前は田んぼだったが今はない、大陸で気持ちいいのは広さである。とんでもない広さであり空まで広く感じる。日本は空まで区切られて狭く感じる。雲雀でも大陸の草原のようなところで鳴くのを聞いたら気持ちいいだろう。外国の旅では自然を感じることはむずかしかった。アメリカの西海岸では大きなペリカンを見た。あんなでかい鳥が飛ぶことに驚いた。もう外国には旅行できない、自分は外国旅行には向いていない。どじが多すぎた。


仮設には結構人が入ってきた。木蔭でいつも老女と犬が休んでる。この辺では小高の人が大半であり津浪の被害にあった人とはなかなかあわない、原発で避難している人とは事情が違う。家も残っているし財産もある人もいるし車はみんなもっている。補償もあるから楽といえば楽なのかもしれない、でも不自由なことは確かである。

夕暮れに若い女性が一人リョックを背負い歩いていた。旅人なのだろうか?そうでもないか、でも人間が歩くということは今や絵になっている不思議である。街中でも車は通っても歩いている姿をほとんど見ないからだ。これも現代が異常化していることなのだが誰もそう思っていない。

人間から歩く姿が消えるということは異常なことである。歩いて生活していた時は人間らしい生活があった。機械化される人間的なものは常に失ってゆく、原発なんかもそうである。外からみて回りの人と関係することがない、工場でもそうであり働いている姿が見えない、それぞれが閉鎖した空間で互いに関係せず働いている。働いている姿が見えるのは介護とか福祉とか病院であるかここではどうしても人間と人間が向き合うからだ。看護師はその体をみるにしても密接に心にもふれあう。そこだけが違っている。


黒揚羽が夕べ二羽舞っている。それを見たら老夫婦のように見えた。夏の蝶でも他は鮮やかであるからこういうい句はできない、黒揚羽でも白い斑点があるのがありそれとも違う普通に見かける黒揚羽である。その白い斑点があるのとないのでも印象が違ってくるのだ。
夏雲雀や夏燕となると今年はにあっている。水田のない世界は北海道の広々とした原野を想像する。やっぱり北海道は一自然としては気持ちがいい、蒸し暑いとき避暑に行きたいけど行けない、自分はもうどこに旅できなくても文句は言えない、それだけ旅したからである。


自分のカメラではこの朝日や夕日がきれいにとれないのが問題だ。一眼レフは買ったが重くて使いにくかった。
自転車だと持ち運びに不便だった。今は写真なしではありえない、今回の津波の写真は我ながら貴重だった。
地元から発進できたことが良かった。アマゾンでは古本はここは六号線が途絶えたから配達されない、でも地震あっても
津波でも電気は通じていたからインタ-ネットもできた。本でもみんな電子本として買えればいいなと思う。
本はモノとして運ばねばならないからコストがかかりすどる。こうなる本当に不便になる。配達もされなくなる。
他の人も六号線が遮断された影響が大きいのである。いわき市は東京
つながっているから南相馬市のように不便になっていない、南相馬市は何か不運が重なった。それは自分のここ五年間の生活と同じだった。認知症になり家族はばらばらになり病気になり火事場泥棒にもあいとそういうことが同じように起こった。
つくづくこの不運は自分にしても回りにしても何なのだろうと思う。

2011年07月15日

擬宝珠(津波の跡は新しい名所になった)

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我が庭の石のかたえに擬宝珠の咲き静まりぬ朝の日陰に

我が一人母の介護す日陰なす石のかたえに擬宝珠の咲く


紫と白の菖蒲のここに咲きひそかに消えて事もなしかも


青々と津浪の跡に草茂り朝焼け映えて雲雀鳴くかも



盛岡の擬宝珠
http://taka-34.at.webry.info/200801/article_11.html


盛岡の擬宝珠が有名である。これは蕾の状態を模したものであった。盛岡は情緒ある街だった。川が街中を二つ流れて橋が多い。浮世絵のような情緒がある。東北では一番情緒ある街だからあういう街なら住んでみたい。仙台にはもう一つ情緒に欠けている。相馬市はそれなりに情緒があるのはやはり城下町だからである。そういう歴史的に形成されたものには何か残されているのだ。そういう歴史的なものは作り得ないものである。そこに歴史の重みがあるのだ。
でも相馬市に来てもどこが城下町なのかわからないだろう。城跡もなにもないから観光としては目をひかないし魅力あるとはならない、盛岡には盛岡城跡があるから違っている。擬宝珠の橋も他に京都くらいしかいから貴重なものである。


津浪の跡の風景も不思議である。湿地帯化して草原のようになっている。一方で津浪の被害のない田畑にも原発事故で休耕になり草がしげっているがその草は津浪の跡にしげっている草とも違っている。津浪の跡の草は湿地帯に繁る草かもしれない、田んぼは今乾燥しているからそこに繁っている草とは違っている。この草原に朝焼けが映える。こんな光景を見ていること自体不思議である。これは北海道の風景である。海岸沿いが湿地帯であり防波堤もない海岸がある。サロベツ原野とか広大な湿地帯と原初の海岸線がある。もともと日本はこういう光景であった。とにかく湿地帯が多くそこが田となってたのである。下駄は田下駄からはじまった。湿地帯用に作られたのが下駄だった。草原と湿地帯は違っている。草原は乾燥した地帯である。日本は湿潤だから湿地帯になる。


被害にあった人には申し訳ないけどこの津浪の後の光景はいくら見てもまだあきない、水田の風景とはあまりにも違っているからだ。自然自体が変化することなどありえない、そういう風景を毎日見ている不思議がある。いづれにしろ津浪の被害にあった所は元の状態に水田に戻すことは無理かもしれない、このまま湿地帯になったり磯部のように砂州にもどったりするとそこは北海道になる。太古の自然が復活するからこれはめずらしいから観光資源になる。伝説が生まれ新しい名所が生まれたのである。

貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


「二十六日 陸奥国で大地震。流光が昼のようにひかった。その時、人びとは鳴を上げ、伏したまま立つことができなかった。ある者は家が倒れて圧死し、ある者は地割れにのまれて埋まった。馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ、たちまち城下にまで達した。海から遠く離れていたが、言い表せないほど広大な土地が水に浸った。野原も道路もすべて海原となった。舟にも乗れず、山に登って逃げることもできず、溺れ死んだ者千ばかり、資産や農作物は、殆どのこること無し
馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・


これは作り話ではないし誰からか聞いた話でもない、実際に見た人が書き記したのだ。結構大きな城もあったのだ。
海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・これは今回の津浪と同じだった。
海口とあるから広い河口のような所からおしよせたのか雷のようなものが鳴ったというのは凄まじい音もしたのである。空恐ろしい光景だった。




朽ちのこる 野田の入江の ひとつばし 心細くも 身ぞふりにける
                                      夫木和歌集 平 政村
せきかくる 野田の入江の 澤水に 氷りて留まる 冬の浮き草


いずれも『末の松山』は、どんな津波をも越えることの出来ない、つまりありえないこと永久不変の象徴として、男女間の永遠の恋の理想とされてきたのである。


では実際に“末の松山”でそのような出来事があったのかというと、今から千年以上も昔の869年(貞観11年)多賀城で溺死者千人を超える大津波が襲来したようである。

しかし、小高い丘上の“末の松山”だけは波が越えなかったとの貞観津波の噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったとされている。


ところで“末の松山”の山麓南方100mには“沖の石”と呼ばれるもう一つの歌枕(地図参照)があり、百人一首にも二条院讃岐の次の歌
(1183年千載集)が載っている。


「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」即ち、私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ、他
人は知らないだろうが(涙に濡れて)乾く間もない・と歌っている。

つまり“沖の石”は引き潮でも海中にある石だったが、江戸時代以降は陸化された池の石として伊達藩によって保護(上写真)され、「守人」が置かれていたそうである。
http://blogs.yahoo.co.jp/hsm88452/42803702.html


http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/27528452.html



末の松山については詳しくインタ-ネットに出ている。城下にまで達したというその城下は今の多賀城跡なのか岩沼の岩隈跡なのか分かれている。今回の津浪が押し寄せた地点としては岩沼の岩隈跡だと本当に城下までおしよせていた。多賀城の下までは押し寄せてはいない、それでも当時の海は一キロ奥に入っていてそこから津浪が3キロも押し寄せたら距離は相当でてくる。いづれにしろ多賀城は海に近いところにあり海が見えたのである。江戸時代には松原ができるようになり海が見えにくくなった。江戸時代前は海は丸見えだった。それがわかったのは山元町や浜吉田でも海が近いから駅まで津浪が来ていた。新地でわずかに海が見えたから海が近いと常磐線からは意識する。ところが長年住んでも海が見えない浜吉田が海に近いから浜吉田と浜と意識することがなかった。人間はつくづくそうした景色を意識させられなくなっている。
多賀城の歌枕になった「末の松山」など関心をもてなかった。なぜなら今そこの場に立っても歌枕の景色が喪失しているから感じないのである。私は何回も仙台港から船にのった。その時多賀城からも中野栄駅からも下りて仙台港に行った。しかしあの辺りで歌枕となった地域の昔の景色を思い浮かべることは全くなかった。あの辺はそんな面影は全くない、工場地帯であり家も密集している。そこに津浪が押し寄せたのだ。多賀城駅にも津浪がおしよせた。工場地帯も押し寄せて津浪にのまれた。仙台港には石油のタンカ-があり燃えつづけた。津浪によって太古の昔の景色が蘇った。この歌ができたのは明かに貞観津浪の記憶から生まれた。つまりそれほど古いということに今更ながら驚くのだ。歌は単に風流というだけではない、史実の記録でもあった。


きみをおきて あだしこころをわがもたは やなよや
すえの松山波も越え、越えなむや
波も越えなむ


土地の風俗歌として歌われていたのを宮廷歌として整えた。これは万葉集の東歌と同じである。


池の沖の石には貝殻やフジツボの殻が目にとまった。(永野孫柳)


そこまで海だったことは確かである。末の松山とこの沖の石は600メ-トルくらい離れている。そこは坂を下った所にあるから沖の石は海に沈んでいたことが納得がいく。


わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし


これはまさに想像ではなく実際の景色から生まれた歌だった。こういう光景は今はどんなふうにしても思い浮かばない、住宅地や工場地帯に埋もれてしまっていたのだ。だからそこを一回も訪ねていないし興味もなかった。みちのくの歌枕の地をたずねてもそもそも当時の風景が消失したとき何の感懐もなくなる。あそこで常に意識したのは工場地帯の風景や倉庫群、石油のタンクとかだけであった。そしてそこには黒々と蟻の道ができているだけであった。情緒が全くない所だった。というこは今や人間もそうした情緒のないところで蟻のように働いているだけだともなる。


今回の津浪で沖の石までは津浪がきたが坂になった小高い末の松山には津浪はきてない、ここは大きな津浪でも目前にきても津浪が越せないような場でもあった。波越さじかも・・・というときこの松山までは波は越さなかったなという実感から生まれたのだ。短歌とか俳句は正岡子規の写生が基本だというときまさに本当に見たものからこそ実感の歌が作れる。本当に見なかったら作れないのだ。八沢浦が津浪で深い入江になったとき本当にそこに残った古歌を実感として鑑賞できた。そうでないと想像しただけでは実感できないことがいくらでもある。今回の津浪はそうした実感として千年前とかのことが眼前に現れたから驚いたのである。その実感からすると岩沼の岩隈に城下あったという新説は信憑性があるかもしれない、岩沼は本当に奥まで来ていた。街の一歩手前まできていた。意外と岩沼から名取と仙台も海に近かったのである。

海が見えないから海を意識しない、仙台の波分神社辺りで津浪が来ていたことがあった。とするともっと津浪は奥に来ていた。その頃内陸部に一キロ海が侵入していたからそのくらいの距離だから計算的にはあうのだ。過去にもここまで津浪が来たという証として神社が残された。そして遠見塚古墳もその近くにあった。遠見とは遠くを見る、海を見る、場所だった。海岸にある古墳はなんらか遠くの海を見るための場所だった。南相馬市の桜井古墳でもかなり高いから海が見える場所だった。その下まで津浪は来ていた。そういう昔の海岸線に貝塚が点在して縄文人が暮らしていたのである。


吉田東伍の研究論文
http://wind.ap.teacup.com/togo/html/aidai.pdf

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