2011年07月01日

南相馬市の深刻な医療崩壊 (南相馬市に住む不安がつのる)


南相馬市の深刻な医療崩壊
(南相馬市に住む不安がつのる)

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緊急時には、自力での避難が前提となりますので、自力での避難等が困難な状況にある方や、お子さん、要介護者、入院患者の方は、既にお伝えしているとおり、この区域に入らないようにお願いします。
教育機関に関しましても、指定された地域の保育所、幼稚園、小中学校および高校は、休園・休校とします。学業の継続等に関しましては、それぞれの市町村および教育委員会等からご説明します。



ところが5月23日現在、小学生は1343人、中学生は898人だけ。小学生は33%、中学生は46%しか残っていない。 市内の小児科医院の一つには原発事故前、患者が月1000人以上いたが、事故後は10分の1以下に減り、休診に追い込まれた。市内に子どもがいなくなったことが、大きく響いている。


産婦人科で現在も開業しているのは医院1カ所だけ。医院2カ所と市立総合病院、大町病院の産婦人科が休診している。

そうなれば南相馬市を離れて自活手段を見出す必要があります。そうなった時に南相馬市の人口が半減どころか1/3以下に減ってもさして驚くべき話ではないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20110610


 大町病院では震災前、医師12人を含む職員約200人がいたが、入院制限後は医師9人を含む約70人態勢に縮小した。入院にかかわる収入が7割を占めるため、多くが退職や休職に追い込まれ、残ったスタッフも医師の給与7割カットを始め、5月から70〜30%減給にした。看護部長の藤原珠世さん(52)は「みんな『地域医療を守る』という志だけで働いているが、職員の生活も崩壊寸前」と語る。(このあと多少回復している。)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110620-OYT1T00851.htm

 



お子さん、要介護者、入院患者の方は、既にお伝えしているとおり、この区域に入らないようにお願いします。


弱者は避難区域には住めない、緊急時に脱出できない、現実に最後まで介護している人は残った。脱出する力がない、子供がいなくなることはすでに市の未来を担う人がいなくなるということで崩壊していく、老人だけが残っても市町村は維持できない、放射能は子供に影響することが致命的にもなる。一見老人はさほど放射能の影響がないとししても家族に子供がいれば避難を考えざるを得ない、老人だけが残り若い人は出て行くということも起こっている。家族がばらばらになってしまう。

そして仕事がなくなっている。廃業が多くなっている。鹿島区を見るだけでも川又印刷所は地震で壊れた瓦礫が道に散乱したままでかたづけられないのだろうか?会社の人はどうしてしまったのか?廃業になっているのか?それにしても瓦礫くらいかたづけてもいいように思うが・・・・
橲原の風穴の湯はボイラ-が壊れ廃業になった。金子整形医院は廃業になった。近くの惣菜屋も廃業になった。原町でも廃業になっている所は多いはずだ。原町では工場とか会社も廃業化している、移転したりしている。どんどん人がいなくなってくる。市から人が出て行くばかりになる。

開業医も患者がいなくなれば収入もないのだからここでつづけることをあきらめるようになる。
看護師も職がなくなり外に出ていく、市が医療の面から崩壊してゆく、それとも政府により前に書いたように崩壊させられてしまうのか?飯館村は産業廃棄物場にされるとかいうのもそのためである。誰も人がいなくなれば産業廃棄物場に反対する人もいなくなるからだ。核の処理場にされるというのも同じである。市から出て他で生活するようになればそういう人は帰って来なくなる。人がいなくなれば奇妙だけど田んぼは荒れ地として放置されているが人がいなくなれば荒れ地のままであり耕す人もいなくなる。放射能の除染というのは簡単にはできない、とすると一年とかで農業が元にもどるとは思えない、飯館村は二年で帰ると言っているが二年が限度だとも言っている。二年ではとても放射能を取り除くことはできないだろう。こうしていろいろ考えると南相馬市の将来は悲観的になる。それも深刻なのである。飯館村も南相馬市より深刻である。南相馬市は緊急避難準備地域の指定が解除されれば人がもどってくるかもしれない、飯館村はなかなか解除されないだろう。そうすると実質的に村は崩壊する、なくなってしまう。

これは一時的なもので回復すると思っているが生活の足場が失われ若い人が帰ってこないとしたら市は成り立たなくなる。三陸では前にも何度も悲惨な津浪で被害を受けたが回復したのは豊かな漁場があったからだ。外からも人が入ってきて回復した。でも南相馬市にはそういうものはない、松川浦は漁港でも当分魚をとっても売れない、それほどの漁獲量でもなかった。

産業として残っているのは皮肉だが火力発電所である。ここは千人とか雇用している。東北電力の寮も建っている。だからこそ双葉町や楢葉町の町長は原発は必要だとしているのは現実的雇用がなくなっているからだ。相馬市にもあり相馬市はある程度まだ雇用の場が確保できる。南相馬市はできない、相馬市に会社を移している人もいる。南相馬市は市政自体が維持できなくなるのではないか?財政的にもそうであり医療が崩壊することは致命的になる。老人や病人すら移住することを考えざるをえなくなる。そうなると相馬市への移住を考える人がでてくる。南相馬市はなくなり相馬市になってしまうのか?何かそうした不安がここにいると募ってくる。安心させる要素がなくなってきている。それは医療や介護やその他教育などのサ-ビスでも保障できなくなる。そうなるとますますここに住みつづけることが不安になり人がでてゆく、マイナスの連鎖がつづく、そうしてここに人を住めなくするのが政府の目論見なのか?自主的に人がいなくなれば政府では保障する必要もない、人がいなくなったら核の処理場にすればいいとなる。緊急避難準備区域はそうした政府の何らかの意図で崩壊させられつつある。


緊急時避難準備地域の指定のままでも社会生活は立ち枯れていきます。そうなれば南相馬市を離れて自活手段を見出す必要があります。
そうなった時に南相馬市の人口が半減どころか1/3以下に減ってもさして驚くべき話ではないと思います


三分の一に人口が減ったら市政はもう成り立たない、相馬市に吸収されるのではないか、そして30キロ圏内は無人化されて政府の管轄に
なりそこは産業廃棄物や核の処理場になる。
最大の不安は子供を安心して育てられないということにあった。母親の不安も大きい、それが放射能の一番の大きな問題だった。老人は放射能の影響は少ないから住んでいいと言っても老人だけ残ったら姥捨山になってしまう。それもほっておけないから残った人に食料を運ぶ人がいて生きていられたからもう老人だけでも生き残れない、つまりどうしても無人化してゆくのだ。人が住めなくなってくるのだ。原発も冷温停止とかおさまれば人が帰ってくるだろうと楽観的に考える人もいるが放射能汚染は数年では除染できない、敏感な母親などは帰ってこないとなると家族も帰ってこない、生活の足場を他にもてばさらに帰ってこない、つまり市は崩壊して無人化してゆく、ただ東北電力の火力発電所は残るからそこが仕事の場であり千人以上の人は残るからその人たちが生活する場は残る。それでも南相馬市は市政は維持できないから相馬市に合併される。それでなんとか維持するほかなくなる。相馬市にしても松川浦がだめになったりいろいろ苦しい。六号線は遮断されているから仙台へとの宮城県とのつながりを深める。そして宮城県に編入されるかもしれない、福島市も不安定であり会津が中心の県になるのか、そうした変動状態にある。郡山市と福島市は東北への大動脈だからそこをつぶすことはない、

浜通りはつぶれても政府ではかまわないと判断しているのかもしれない、いわき市はまだ六号線でも常磐線でも開通して東京都と結びつくから南相馬市の事情とは違っている。南相馬市は今本当に苦しい土壇場にある。それぞれの場でそれぞれが苦しい立場に追い込まれる。
分断され崩壊させられつつある。

夏鶯(原町へ)

 
深々と真昼木陰や一軒家


原町の街中に鳴く夏鶯


狸の子道に出てたり夏の夕


影深き一本杉や親しかな我がまたよりぬ故郷の道


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに

田舎に離れた一軒家あるけどそれは贅沢なことである。一軒家は存在感がある。そんな家は田舎では普通にあるというけど都会では家はひしめきあっている。そういう中で木立に囲まれて影深い家はいかにも夏でも涼しい、ク-ラ-なんかもともといらないように風通しもいい。電気不足というとき都会では30度以上になると実際はそれに加えて5度くらいプラスして暑くなっている。人でも家でも車でも暑くなる。だから電気がいくちあってもたりないのである。ただ田舎でも皮肉なことに電気は都会以上に使っている。車も一人一台で都会より使っているからエネルギ-を効率的に使っているわけではない、ともかく回りに家のないような一軒家に住むことは相当な贅沢なのである。


原町というとレストランでもチェ-ン店でもやっていない、ふえたにしてもまだやっていない所も多い。原町は経済的にかなり縮小しただろう。街中に鶯が鳴いていたからそういう点では田舎である。帰り小島田辺りの六号線からはずれた道に狸がでてきた。狸の子だったのか小さかった。兎は前もみかけたけど狸が見かけない、なぜなら狸は夜行性だから薄暗くならないと出てこない、今日は薄暗くなっていたから出てきていた。田がなくなり雑草が生えて元の原野みたくなって動物が住みやすくなるということもある。白鷺などは水田と一体だったからいなくなった。

でも他の動物はふえるかもしれない,人がいなくなったら確実にふえる。野生の動物は人間を一番恐れている。その人がいなくなると動物天国になってしまうかもしれない、なぜならチェルノブエリでは狼までもどってきて野生の天国になった。飯館辺りでは猪が増えるというのも本当だろう。南相馬市で猪の駆除をしているという。これも金をかかってこまっているとか、田んぼ畑も作らないけど被害があるという。大原辺りにも猪がでていたと何度も聞いた。猪は自分は見たことない、猿はよくみかけるけど猪は見ない、猪はそんなに見えるものなのか?猪の肉はうまいという、飯館には猪の肉を出す料理店があった。そこの主人が猪が飯館村には増える。人がいなくなったら猪の天国になるのか?飯館はどうしても放射線量からすると二年くらいで帰れるとは思えない、そのうち元の森や原野にもどる。森が多かったから原始の森林にもどってしまうのだろうか?ともかく今この辺で起きていることはありえないことだし経験していないことだから何が起きるかわからない、自然でも人間でもそうである。


一本杉より一本松はよくみかける。今の感覚では神さびた・・と自然を見る人はない、それだけ人間は自然から離れて暮らすようになった。自然を神さびたものとして見ることがない、むしろ原発のようなも科学を神のようにみている。科学の力を崇拝している。そういう現代の生活が
原発事故を必然的に生み出したのである。科学は人間の作り出したものでありそれが万能だという意識を持つようになった。それが今回の事故につながった。自然と結びついた第一次産業を余りにも軽んじたためでもある。だから今度東京辺りが大地震になり食料も枯渇して東北に助けを求める。そういうことがすでに予期されていることを想像できた。近いうちに東京に大地震を襲うことは間違いないのだから、その観点からも今回の東北の大災害を見ておく必要があるのだ。つまり他人事にはならないのだ。その時東北のありがたみを身をもってしることになる。

2011年07月02日

女性、避難苦に自殺か 山木屋の自宅近くで焼死 (老人は住み慣れた土地を離れられない)


女性、避難苦に自殺か 山木屋の自宅近くで焼死
(老人は住み慣れた土地を離れられない)

今回の自殺は焼身自殺だとなると尋常じゃない、なぜそんな死に方を選んだだろう。よほどのことがない限りそんな死に方はしない、それも女性だから余計にそうである。これまでの自殺者は一人は須賀川で有機農業をしていた人が野菜が売れなくなると死んだ。
野菜農家の男性(64)、飯館村では102才の人が移るのが嫌で自殺した。あとは相馬市の玉野村では54才の男性が自殺した。山木屋で自殺した女性は58才だった。


102才、64才、58才、54才・・・高齢者が住み慣れた土地を離れるとなるなと苦しくなる。酪農して死んだ相馬の人はフィリンピン人の妻がいて子供がいて故国に帰られたことがショックが重なり死んだ。50代でも結構苦しくなる。大原の人も息子があとを継がない、市役所に勤めているから跡を継がない、5町あっても継がない、漁業関係でも高齢化であり跡を継ぐ人がいないということがすでに問題になっていた。津浪で死んだ人も6割は65才以上の高齢者だった。60以上になるともっと多くなる。第一次産業の問題は高齢化であり跡を継ぐ人がいない、それはさんざん言われてきた。そういう状況の中に津浪と原発事故が襲った。50以上になると移住してやり直すような気力がなくなっている。今までの継続したことをやるしかないしそれ意外なかなかできない、だから移住するとなると負担が大きすぎるのだ。つまりもうあきらめる人がでてくる。

そもそも農家は三代で農家になるとか林業でも50年で木が育つとか息が長いのが特徴なのである。代々土地に住んでいてこそ実りあるのが第一次産業なのだ。だからその土地から離れることは致命的なのである。山木屋辺りも代々そこに住んでいた人達が多いだろう。でもあそこは相馬から二本松への塩の道のル-トであり交通の要所だった。飯館から相馬へ原町へ三春へ二本松へゆく交差点、別れ道だった。それなりに交通の要所だったから集落ができたともいえる。


今回津浪であれ原発事故であれどれだけの被害者が出たかわかりにくい、在宅介護されている人が120人以上死んだのも高齢化を象徴している。高齢者はこうした災害に耐える力がない、それで自ら命を絶つ人がでてくる。山木屋にはコンビニもあり食堂もあった。それだけでも近くにあれば生活しやすくなる。それもなくなるから結果的に住めなくなってくる。コンビニも結構店がなくなったとき役立つものであった。山木屋となると二本松までも遠いし辺鄙な地域になるから何軒か残るというわけにはいかない、そこもまた無人化してゆく。あそこでも小中学校があったのだから子供もそれなりいた。だから子供のために移る人がでてくるからそれに高齢者もついてゆくほかなくなる。高齢者だけ残るわけにいかないのだ。 農家だとその土地や自然と一体化している。認知症を悪化させるのは環境の変化だというときまさに変化に耐えられないのだ。なじみの人や場所にいることが落ち着くのである。だからその土地を離れることは老人にとっては一番酷い仕打ちになったのである。


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに


このうよに苔むすまでにいつづける。それが田舎なのである。そして何かそこにいつづけ死ぬはまさにその土に還るというごとくその土地の霊ともなり先祖ともなる。死者が山の神になるというのもそのためだろう。そういう心性はなかなか変えることはできない、都会人の感覚とはかなり違っている。ただ都会でも高齢化しているのだ。団地も高齢化して問題になっている。高齢化問題は田舎も都会も同じなのである。田舎にとって長年住んだ所から離されることが一番酷いことだった。それが原発事故の酷さだった。


会津の昔話に「伊勢参りをした大欅」というのがある

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樹木にまつわる民話より(google book)


欅も一緒に伊勢参りしたという話である。つまりそれほどその欅と村人は一体化していたのだ。
長年住んでいる土地では木とも石とも一体化している。木も村人と離れがたくなっている。
そういうふうに長年、代々生活していた人にはその土地を離れることが一番辛いのである。
北海道に移住した人達が村の社を移したのもそのためである。今回はそうした開拓で移るのとは違う。無理やりに移動されるのだから死ぬ人でてくるのだ。


おれは移りたくねえ
ここにいつまでもいるんだ
ここで生きて死ぬんだ
放射能なんかしらねえ
ここから離れねえ
死んでも離れねえ


こういうことが怨念となりこの土地に伝えられるようになる。原発事故に対する恨みが延々と語られることになる。

posted by 老鶯 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月03日

二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)


二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)

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神さびてしじまの深く岩二つ動かざるかなものも言わずに


故郷に大岩二つ変わらずにありし重さよ時の長きに


大岩に朝清らかに鳥の音のひびき高鳴り風の涼しき


深々と木蔭影なす一軒家行く人まれに静まりけるかな



「ぎっしりと密で」の意味の古語に「しじに」という語があり,また「縮まる,引き締まる」の意味の古語に「しじまる」という語があります。これらの「しじ」が,「しじま」の「しじ」と同じものであると見なせば,「しじま」の大もとの意味は「唇を引き締めて口をギュッと閉じていること」ということになるでしょう
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/91134.html


しじまというと辺りが沈黙に支配されている感覚になる、この解説は納得がいく、大和言葉にはそもそも深い意味があって生まれた。他の言葉だったら沈黙とか静寂の意味しかない、ここまで深い意味があることを見出した。沈黙するとき唇をひきしめる。沈黙することが禅の修行だったように沈黙することは心を平安に導く、それは一つの訓練である。余りにも騒音社会になったとき自ら沈黙を作り出すことが必要になった。沈黙の中で事物も石でも樹でも神さびてくる。

現代はあまりにも自然からかけ離れた存在になった。そこから自然を無視する、全く人工的な世界に生きるようになった。その時自然の驚異的な力もないがしろにすることるなった。自然への畏れが喪失した。それが原発事故にもつながっていたのだ。だから原発をなくすにはこれまでの生活そのものを見直す必要があると気づいたのはそのためである。生活そのものを変えるというときやはりその根底の思想も変えざるをえない、結局江戸時代的生活に戻らざるをえないのだ。江戸時代に戻りたくない、そんなことは不可能だというがそうしなければまた原発事故は起こる。


例えばエネルギ-を消費しすぎる現代の原因は何かというとき動きすぎる生活にあった。余りにも広範囲に動くモバイルな生活があった。田舎で一人車一台もっているのも動く生活が基本になっているからだ。仮設住宅でもほとんどの人は車をもっている。車なしでは生活できないのが現代である。そのことはどうしてもエネルギ-を過剰に消費する社会なのである。江戸時代の一つの特徴が動かない生活だった。ほとんど小さな村とかの単位で動かない生活だった。それは江戸でも都会でも同じだったのである。長屋では一生その長屋で住んで死ぬような動かない生活だった。めまぐるしく変わる現代からみるとそれが想像できないがそういう小さな範囲で動かない生活だったのである。万葉集の時代などももちろん人は小さな地域から動かないで生活していた。大和(ヤマト)すら実際は狭い一地域の地名だったことでもわかる。


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに


回りの狭い範囲の自然を親しく見ていてそこが神さびたものと感じるようになった。現代の生活を文明を見直す時、明かに過剰にエネルギ-を消費するのは動きすぎることからそうなっている。その動く文明の代表が車なのである。今電気の節約だとか省エネだとかいろいろ言われるが動きすぎる文明を改めないとそもそも不可能に思える。旅ばかりして動いていた自分も言うのも変だが動きすぎることは深みあるものができない、一カ所に動かないことによって深みあるものができてくる。もちろん芭蕉のように「静けさや岩にしみ入る蝉の声」を作れたのは不思議である。なぜなら旅だとあわただしく過ぎてゆくことが多い、この句は一カ所に動かずに住んでいるような人しか作れない句である。それを可能にしたのはやはり江戸時代の沈黙社会があったからである。明治維新以来人はあまりにも動きすぎた、移動文明だった。グロ-バルに移動する文明だった。そういう文明はエネルギ-を膨大に消費する、それが原発を作ることにも通じていた。結局クリ-ンエネルギ-で補うというより減らすことが必要になる。それは江戸時代的生活と思想をとりもどすことにもなるのだ。この減らす生活も思想も必ず国家や会社やその他国民からも抵抗がある。でもそのことが今回のような原発事故につながる。減らさない限り原発は必要だとなり同じ災いをもたらすのである。

 
 

2011年07月04日

白い夾竹桃(相馬市の病院へ)



夾竹桃(相馬市の病院へ)

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老鶯の藪に鳴くかな城下町

相馬なる梅雨の日あわれ潜り石


夾竹桃の白き花散る昼下がり相馬の街歩み帰りぬ


夾竹桃の白き花散る城下町日傘をさして歩む女かな


昼下がり相馬の街や古き橋渡りて帰りぬ行く人まれに


塩地蔵いつもここにしありにける何を語るや我が帰るかな


古風なるホテルのありや相馬なる街角入りて夏の昼下がり

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正午を少し過ぎた昼下がりという言葉には、どこかけだるい雰囲気がただよいます。


相馬と原町はイメ-ジが相当違っている。原町は明治以降近代化して発展した街のイメ-ジがある。相馬市はもともと城下町としてあり古風な感じになる。市街もそんなに広がっていなかった。田町とか曲田となるのはそこが田であった所である。曲田という住所のふたばやホテルに
欧州レストランという所で食事した。駅前と下りからちょっと入った所のホテルでありわかりにくい、旅したからホテルはほかりにくいのだ。安ホテルばかり探していた旅だった。でも安いホテルを探すのは大変であり結果的には駅前通りのビジネスホテルに泊まることになる。ただちょっと入った所になると意外と他から来た人にはわからないから泊まりにくいということがある。相馬にも結構ホテルがあることがわかった。あの辺はもともと田町とか曲田とか田のことである。つまりいかに江戸時代の城下町といっても城の回りにのみ家がありその他は田だった。ほとんど回りは田だった。相馬総合病院の近くの新沼なども沼でありあそこまで津浪が来ていた。病院のすぐ近くだった。そもそも明治維新後に城のあったところは近代化が遅れ発展していないのだ。会津でも城のある所は商売しにくいからと喜多方が商売で発展した。喜多方とは北方だった。会津の北だから喜多方になった。相馬の南だから南相馬市になったと同じである。南相馬市立病院に一か月入院したときあそこは海まで見える眺めのいいところだった。ちょうど大原の山の方も見えて同じ病室に大原の人が入院していたのだ。

 


道を鍵形に曲げたり袋小路を設けるなどすることで、城への到達距離を延長した・・・
町の北と南の入口には土手を築いて「枡形」と呼ばれる城下町特有の道路形態をつくり、有事に備えた(相馬市中野)


相馬市は確かに城下町の雰囲気があるが他の人は城もないのだからわかりにくい、要するに六万石だから狭いのである。何故なら田町と曲
田でもそこはもともと田だった。城の回りにわずかに武家屋敷があり宇田川を渡り職人町とか商人町があった。現在の街の十分の一くらいなのである。これは他でもそうであり今からふりかえると大きく思えるから不思議である。ただ仙台辺りだと三百人町とか仙台駅の近くにあり同数の足軽が住んでいたことに由来とかある。

つまりそれだけ広い範囲が城下町だったとなる。その規模は十倍とか違っている。当然60万石となればそうなる。そして白石市に足軽まんじゅうというのが名物になっているのも伊達の行列は派手であり伊達物という言葉が生まれたように大人数を従えた派手な行列だった。実際は仙台藩は豪商などは少なく貧乏だった。威勢を張った行列だったのである。力がないからこそ貧乏だからこそ派手で力を誇示しようとした無理した結果だったというのはそしなのだろう。
そもそも相馬には足軽とかいたのかというと郷士がいてもそういう侍についている専門の従者はそんなにいなかった。郷士として農業をしていたのである。それだけ雇える経済力もなかった。
城下町の名残としては町の区画があり枡形とか路地や小路が多いとういことは細い路地が多く日陰になりやすいのが城下町であり何か日傘をさして歩くのがにあっている。


潜り石は六号線はバイパスの方向になっている。この地名は面白い、石には興味があるからこの地名の起こりが気になる。潜り石はくぐるであり石をくぐるという所は結構ある。他にもこの地名はある。

病院は混んでいた、50人以上来ていた。南相馬市から移っている人でも増えた。手術は三か月後だから余裕がある。悪性ではなかったらしい、癌はなかった。まあこれが死につながるような病気ではない、でも60代でも毎日新聞の死亡欄を見ていると一人は死んでいる。たいがい癌なのである。すでに10人一人は死んでいる。同教生のクラスが40人として4人は60代で死んでいる。数としては少ないようでも10人一人死ぬことは結構多い感じもするのだ。70代になると倍は死んでいる。


夾竹桃は西表島のジャングルで自生しているのを見た。熱帯の花だった。やはり白い花だった。これも相馬市にあっていた。

欧州レストランのランチの刺身定食は結構いい、お得である。自分はまともな食事していないから外食の方がいい、食事用意するだけで手間なのである。用意して洗ったりしていたら手間なのだ。プログ書くだけでも時間がかかる。なんとか書けているのはプログだからちょっとの暇でなんとか書けるからである。小説みたくなると書けない、俳句短歌だったら仕事の暇にまだ書けるのである。

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奥州レストランで売っていた震災孤児への寄付のための缶のバッジである。
これはどこでも売っていた。相馬市とかで震災孤児がどれくらい出たのだろうか?
結構寄附金は集った、これも一つのアイデアである。値段はない、千円で買った。
寄附金だから金のある人はそれ相応に出すというのが寄附金である。でも安く買うとまずい感じもした。それしか出さないのかと
見られてしまうのも嫌になるというのも問題だった。寄附金には常に何らかの問題がまとわりついているのだ。

相馬の荒寥とした原初の風景 (津浪で再現された原初の松川浦)

相馬の荒寥とした原初の風景
(津浪で再現された原初の松川浦)


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北山八景で歌われていた



山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里


高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月


中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風
http://musubu2.sblo.jp/archives/200912-1.html


この中で「山上春霞」は地名として山上に紙漉き沢とか残っているからそういう冷たい清水が流れる所だった。今でもその地形は変わらず昔を偲べる。高松というのも今も変わらない淋しい場所である。今は墓所になっていた。墓地にふさわしい場所だった。
そして想像できなくなったのが中野飛雪である。こんな淋しい所だったのか?枡形があるということは城下町への入り口でありにぎやかに思えるがそうではなかった。人がほとんど通らない道だった。街道の道でもそうだった。江戸時代とはそういう城があってもそれだけ淋しい場所だった。夜だったら物音一つ聞こえないのである。冬だったら雪がふったりしたらひとっこ一人も見えない世界なのである。まるで道があっても原野と等しい世界だった。城だってしんみりとして冬籠もりであった。そういう世界は今になると想像しにくいのだ。人が絶えるなどありえない世界である。20キロ圏内とか飯館村とか避難した村はゴ-ストタウンになりそれとにたものになった。江戸時代は例え人が住んでいてもいかに淋しい世界だったか現代からは想像がつかないのだ。


磯部漁火
・・・・とかなると今になると一軒の家もなくなったから原始の砂州にもどったから江戸時代を偲べる風景ともなる。松川浦だって磯部だって家は少ないし淋しい世界だったのである。もちろんあんなに旅館などない、荒寥とした風景である。津浪で松川浦は磯辺辺りまで広大に広がる浦だった。それが再現されたから驚いた。松川浦は今の浦の何倍もの広さだった。広大な海が迫っていた。火力発電所の辺りは新沼とかありあの辺は低湿地帯であり津浪は六号線まで迫っていた。あういう低い土地は他にもあり危険だった。原釜でもちょっと高いところにあった家は残ったのである。その差が大きかった。磯部には一軒の家も残らなかった。ポンペイの跡である。不遜かもしれないが結局もう再建するよりそこをポンペイの跡のような記念公園にでもするほかないのかもしれない、そしてその悲劇が語り継がれる。再建できなくなったような場所になったところが今回の津浪ではあった。そこは悲劇の場所であり伝説の場所ともなった。松川浦は旅館はやがて再建される。そして磯部は悲劇の村として誰しもたずねる場所となる。砂だけの世界になってしまった。北海道にはそういうまだ原野と砂の海岸が広々と長く残っている。それと同じだった。


津浪はまず原釜方面から松浦大橋のすぐ下まで押しよせ尾浜方向に押し寄せた。その時まともに波を受けた原釜は被害が大きかった。それでも高台の家は残っていた。新沼方面は土地が低くこれも被害が大きかった。そして尾浜は低い丘がありそれが津浪の衝撃を和らげた。
それで家はなんとか残っていた。ところが海岸方面から白い波が吹き上がりおしよせてきた。
結局尾浜辺りは二つの津浪に襲われたことなる。海岸方面から松川浦大橋を渡り灯台のあるところから磯部へ向かう海岸線におしよせた波を凄いものがあった。その波により磯部は全滅した。尾浜のような少しでも小高い丘が連なっているだけでも津浪の衝撃を和らげることができたのである。


松川浦はもともと柏崎とあるごとく崎はまさに海の崎だった。そして磯部は長い砂州だったことが判明した。柏崎に広がった海も広大だった。それは今も六号線から見える。あれだけの広い土地を埋め立てて田にしたのである。まさに原始時代そのものの光景が現出した。


松川浦広々として満たす水春の夕陽の輝き落ちぬ


これもなんと表現ししていいかわからなかった。ただ一回しか見ていないのが残念だった。ただ今でも水がたまると柏崎から磯部辺りは大きな湖になっているのだ。湖をウミと言ったのはわかる。それから湖-ミズウミとしたのは水は潮水が淡水化した海になったからだろう。こういう風景は北海道には今でも残っている。広い海跡湖が残っている。サロマ湖などと酷似している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%9E%E6%B9%96



松川浦に押し寄せた津波
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top305-movie02&s=324&y=&rel=m&g=phl

サケは成熟すると、また海水じゃ生きられない体になるそうだ。
仮に帰るべき川が無くなってたとしても、そのまま海に居続けると死んじゃうから、
仕方なく近くの他の川に遡ぼるんじゃないかと言われてるみたい。


オショロコマは北海道でも降海型は殆どいません。しかし、同じ系統で西欧に住むアルプスイワナはその殆どが降海します。これはオショロコマ類の生息南限に北海道が当たっているからです。 

 


海と川の交わる所に生物の進化のドラマがあった。それは何億年の生物のドラマであり神秘である。その謎は解きあかされていない、生物の神秘は本当は謎が多く神秘として残されているのだ。何でもわかったように科学が錯覚させられているだけである。カワイルカなども大陸の大きな河だとそこが海のようになるから残って海に出なくなった。そういうことは想像できる。川の魚には海と河の淡水化した河に住んでも海が故郷だから海に降るのである。


人間は最初海の近くには住んでいない、それは小高の縄文時代でも説明した。海側から引いた土地で狩りと採集で生活していた。だから
ドングリとかクリは硬いものの意味でありグリグリというのも縄文言葉である。ハマグリは浜の石ということでもわかる。グリはもともとは石のことだった。陸から生活がはじまり海に向かった。他の生物は海から上がり陸に向かった。その道が河だったのである。アイヌの生活は川上に上ることが優先された。だから川上が頭になり川下は尻になる。
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川はそもそも下るものではない、溯ってゆくのが川であった。上へ上へさかのぼってゆくのが川であり川は原始の道だった。実際に和名抄に川道郷があったから川は道としてとらえていたのだ。それが一番示しているのがアイヌの言葉である。アイヌ語では川口は尻であり川上が頭である。川は上ってゆくものであり下ってゆくものではない、それは人がまず川を上っていった。川を上ってゆく暮らしをしていたからだ。日本の下は川下は湿地帯であり虫や蟹や蛇などがうじゃうじゃいてバイ菌もでて住みにくかったのだ。これは外国でも地中海辺りでも最初の住居は高台にできたことでもわかる。平地はかえって住みにくかったのだ。邪馬台国(やまだいこく)というのも高台にあった。ダイとは高いところだからだ。稲作は水が良くないといい米がとれないからアガタから山田とか小山田とかがいい米のとれる場所だった。


邪馬台国(やまだいこく)
とは湿地帯が多い日本の地形の中で高台にあった国ということである。今にしてみたら津浪でそのことが明確化された。低い場所は津浪で海になったからである。
人は台に高台に住んだ。鹿島区の台田中もそうでありそこに中世の城があった。その回りは湿地帯であり現実に津浪で近くまで海になったことでもわかる。最初の国は高台に作られたのである。
http://www.musubu.jp/kashimakayanazo7.htm


 

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2011年07月05日

南相馬市仮設住宅位置図(鹿島区)

 

南相馬市仮設住宅位置図(鹿島区)

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鹿島中学校に出る道(上真野川の側)

ここは200戸だから一番規模が大きい。

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地元の庄司建設などが請け負う
他も地元である。

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小池の一番離れた所゛家の造りがいい、屋根が普通の家のようになっている
ここは半分くらい入っているみたい

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六号線-千倉のグランド(鹿島小学校の近く)

ここも三分の一くらい入ってきた、ほとんど小高の人である。

犬を飼えることが他と違っている


千倉は犬専用
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=46572358


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桜平山の下(寺内)

ス-パ-キクチに一番近い

ここだけは満員



あとは角河原にあるらしいからみておこう


桜平山の下の寺内の仮設住宅はほぼ満員である。六号線の鹿島小学校の近くのグランド、野球場は三割くらい入っている。西町は一割くらいで最近入っている。小池の一番町から離れた仮設も半分以上入っている。

建設中なのは上真野川の鹿島中学校へ出る道に建てられた仮設は庄司建設や地元の会社が三つほど請け負っている。ここは2百戸だから一番数も多く敷地が広い。真ん中の広い空間に集会所が建つ、浪江の会社も来ているなど地元で請け負っているから仕事を与えられた。
部屋は二部屋が普通であり三部屋のもある。子供がいる5人くらいの家族だと三部屋くらい必要になるだろう。そういう家族もいた。やはり狭いと感じるのはどうにもならない、仮設だからぜいたくはいえないとなる。

小池の一番離れた地点の仮設は屋根の傾きが大きく家らしい、あとは平たい屋根である。
請け負った会社によって仮設は違っている。千倉や西町は東海リ-スとか大阪から来ていたし
働き手がたりないと青森からも来ていた。


鹿島中学校へ出る所の仮設は工事中であり時間がかかる。あとは完成して入れる。立地としては今はス-パ-キクチが食料品を売っているので頼りであるから近い方がいい、桜平山の下の仮設はすぐ近くだから歩いても行ける。一番離れた小池の仮設は車がないと買物もできない、たいがい車をもっている。仮設でも今は車がないと生活できない時代である。三陸の方とか宮城県では離れた所に仮設を建てて買物に不便だとか困っていた。


一番便利なのは仙台の長町の開発しようとした駅前である。仙台は人口の移動が激しく集中して部屋を借りるのはできなくなっている。人口の移動が起きている。鹿島区にも相当な人口が移動している。




仮設住宅3100軒ほどの申し込みがありますけれども、何度言っても、国は30キロ圏外にしか許しておりません
最初は 505 戸、次に 405 戸、次に 170 戸、そして今、1605 戸まで、ようやく鹿島区で建てる場所をわれわれが見つけて、申し入れしておりますけれど、残念ながら、希望に沿うだけの戸数は、30 キロ圏外の鹿島区では建てることはできません。原町区に建ててくれと申し上げていますが、認めておりません。


桜井市長の報告
http://www.jca.apc.org/labornow/sakurai20110612.pdf

 


3100軒申し込みがあって1605戸を鹿島区に建てる、鹿島区でたりないから相馬市や新地まで適地を探したがうまくいかない、こんなに必要なことに驚く。立入禁止区域になった小高区が無人になり人口流出したことが南相馬市では大きい。一万人以上が避難した。全国に避難した。それでこれだけの仮設住宅が必要になった。


立地が悪い仮設住宅(小池の一部)(感じがいいのは角河原)
http://musubu2.sblo.jp/article/46950569.html

鹿島区の仮設住宅はこれで全部だと思う。
建設中なのは二百戸と大規模なのがまだ残されている。
あとは入居者も徐々に増えている
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2011年07月06日

南相馬市仮設住宅(鹿島区千倉校庭)は犬専用


南相馬市仮設住宅(鹿島区千倉校庭)は犬専用

千倉の鹿島小学校の近く六号線沿いの仮設住宅は「犬専用」だった。その犬も小さい犬と大きい犬に分かれている。住む場所が違っている。やたら犬が多いと思ったら犬をここでは飼える。今は犬とか猫を飼っている人が多い。だからペットの問題は大きな問題になる。

千倉で問題になっていたのは仮設住宅の間に雨で水がたまっていたことである。その水がはねたりして困っていた。砂利をしいてくれと役所の人に頼んでいた。ここに入ったのは小高の人である。ともかく小高の人がどこでも多いのはわかる。一万以上の人が立入禁止区域になり避難したのだから数が多いのだ。相馬市では避難していた人達は津浪の被害にあった人である。でも南相馬市では原発事故で避難させられた人がずっと多いのだ。それでなければ3000戸もの仮設は必要ない、小高区の人を収容するにはそれくらい必要になる。合併していいことはなかったというのは良くきく話しである。きめ細かな対応ができない、いろいろな要求が身近な問題に対応できないことはある。小高区だけを考えるわけにもいかないからだ。小高区の人は温泉に避難していたから良かったなとか言っていた。でもここは気楽だとかも言っていた。

原発で避難した人は津浪で避難した人とは違う,車も流されていないから車をもっている人が多い。ここでは自転車を買う人が増えてゆく。そうなると自転車屋ももうかるかもしれない、何しろ人口が何千人と一挙に増えるからだ。鹿島区はいろいろなものがたりないしょぼい町である。それにス-パ-が食料品を販売しているのがス-パ-キクチしかなくなった。それで人口も増えたのだから混雑する。

小高でも鹿島は近くでも地理にうとくなる。真野はどのへんだというけどそれは広い範囲のことであり上真野となれば山の方になる。それでも近い方がいいから南相馬市内に移りたいとなり今仮設は鹿島区にしか建てられない、相馬市や新地の方にも建てられるが土地を確保するのがむずかしい。ともかく3000戸も必要だということ自体、用意するのが容易ではないことがわかる。3000として×3にしたら一万近くの人口になるかもしれない、それだけの人口が一挙に増えることの影響は大きい。ス-パ-一軒ではたりない、鹿島区にはチェ-ンのレストランなど一軒もないから困る。みんな車をもっているから他に行けるからいいがそれでも近くにないと困るものはあるだろう。


東北地方ではこの仮設住宅がどこにでも建っていて目立つ、それが今回の一つの大きな変わった現象である。千倉の校庭ではかり人が入ってにぎやかになってきた。他でも次々に人が入ってくる。それでも入らない人がいて空いているという、老人が多いというのも特徴である。
へたすると老人施設になりかねないのが今回の特徴でもあった。ともかく千倉でも人で一杯になるといろいろ影響がある。金も使うからそれだけ経済効果もある。原発事故で避難している人は自宅が流されたわけでもない車も流されていない、それなりに財産をもっている人達である。だから津浪の被害にあった人達とは違っている。余裕あるとも言える。だから温泉旅館の方が良かったともなる。話した人は鹿島区に知り合いも多いからとかなんらかつながりがある人が多いからいいとは言っていた。会津の方になるとないからその点は気を使うと言っていたのだろう。

それから赤十字社の人が何人か来ていた。電気製品などを入れるためである。
赤十字社に寄付したことがあっても具体的に赤十字社の人に会うことはない、今回はそうして援助する人に直接会うことが違っている。

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2011年07月07日

復興大臣-松本龍は世良 修蔵か (踏みにじられた東北の歴史)


復興大臣-松本龍は世良修蔵
(踏みにじられた東北の歴史)

●東北人が踏みにじられた戊辰戦争


大東亜戦争以来六十年は動乱を経験していない、動乱とは何かわからない、戦争を経験した人は知っている。戦後生まれの人は社会がこれだけ動乱になることは経験していない、でも動乱は常に歴史にはあった。明治維新がそうでありこれは最大の日本の動乱だった。その時何が起こったのか、東北の最大の動乱だった。錦の御旗をふりかざして官軍が東北の地に攻めのぼってきた。東北はその時同盟して抵抗しようとしたが果たせなかった。相馬藩はいち早く官軍に降った。そして仙台藩と丸森で戦うはめになったのである。この時も東北の諸藩は混乱状態におちいった。三春藩は裏切ったとか会津は最後まで戦い敗れて焼け野原にされて敗残の兵は青森の荒野に等しい下北半島に追われた。そういう悲惨な歴史が何度も会津では語られている。



相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/info/boshin.htm


百人くらい相馬藩士が死んだ。農兵も十二人いた。仙台藩は大藩だったけど見かけ倒しであり西の進んだ装備の西洋式軍隊に敗れた。こういう動乱のとき少年兵までが狩り出される。会津白虎隊とか二本松少年兵がそうであった。装備がないから肉弾戦で最前線と戦わされ討ち死にした。戦争中の特攻隊である。ぎりぎりになればやはり日本は特攻隊になる。
そして貞観津浪があったときも大和朝廷軍に蝦夷(エミシ)が踏みにじられたときであった。それはおそらく大和朝廷から使わされた人々も津浪にのまれ死んだ。多賀城市の被害も大きかった。この時も動乱の時代だった。動乱は天変地異とともに起きてくる。津浪は東北に日本に動乱をもたらしたのである。東北列藩同盟などが騒がれたが今も東北は一致団結すべき時でもある。


●復興大臣-松本龍は世良 修蔵


仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、
参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に
威張っている。しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか
500名である。それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に
命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、
元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊が
あり、その中で出世したのだというが、そういうものが
公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか
「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。


こういうとき政府から使わされた復興大臣が松本龍でありまるでごとき暴言を吐いて息巻いた。政府の力を見せつけるように宮城県知事に向かった。そのニュ-スを東北放送はあえて放送した。やはり東北の意地をみせつけたのか?東北は今明治維新の時のように受難の時なのである。だからの世良 修蔵ような人物が東北に乗り込んできた。そして言いたい放題ということである。明治維新の時も九州辺りからもこの相馬藩で戦い死んだ武士がいる。その墓が祀られていて福岡辺りから来た人が感心して語っている。敵なのに墓として祀っているということである。この時の動乱は侍だけではない庶民もまきこんでいた。遊女が薩長に体を売ったとか会津藩に殺されたりした。

白河は一時会津藩に占領される。世良とほんの一時過ごしたというだけで、志げ女は、世良を憎んでいた会津藩兵により、殺害される運命となった。
戦争とはこういうものだろう。遊女は当時の政治のことなどわからない、会津藩もそういうとき血に飢えていたのかもしれない,理性を失っているのだ。動乱ということはそういうことである。


●戊辰戦争に負けた東北への酷い仕打ち


東北は常に踏みにじられてきた。蝦夷(えみし)の時代からそうである。鎌倉時代も鎌倉幕府に平泉の藤原政権は敗れた。明治維新でも会津は悲惨であり薩長に踏みにじられた。その無念は延々と語り続けられる。「白河以北一山百文」というのもそうである。だから松本防災相の暴言はまさにそのことを想起させたのだ。それも弱いとき苦しんでいるときそういう言葉を良く吐けるものである。今ままでのような平和な時代でないから動乱の時代だからそういうことも起きてきた。動乱の時代だから何が起きるかわからいない、そしてこういうとき情報が混乱するのだ。

志げ女はそうした時代の犠牲者だった。原発事故でもそうした犠牲者がすでに何人かでている。福島県で礼儀正しく対応したのになぜ宮城県ではあんな不遜な対応になったのか真意がわからなくなる。東北人をさかなでするようなわざと怒らせるような暴言をはいた。復興に熱心だったという裏返しなのかその真意が計りにくい、動乱の時代にはそういう人もでてくる。


津浪であれ原発事故であれこれだけ東北人が呻吟している時はない、 歴史はくりかえすというときこれもそうだったのかもれない、世羅修三の再来だったとなる。24才くらいだからその任にあたるのがむずかしかった。でもそのくらの年の人が明治維新を成し遂げた。若さがないととても生死を賭けてやれない、自分も年だからこうした動乱にはやはり若者が活躍すべきだと思う。老人はやはり動乱に弱い、だから避難して死んだ老人の数は百人以上よりかなり多い。動乱のときは強力な指導者が必要になる。つまり英雄がててくる必要がある。優秀な指導者に指揮されないと民衆は前の戦争のようにひどい目にあう、それが民主主義ではできにくい、結果として自ら民衆が苦しむことになる。
明治維新では英雄が多数排出したように動乱の時代はそういう傑出した人が要求されるからである。

東北列藩同盟というときそういうことも必要になる。東北全体で復興で取り組むとするとそういう一体感が必要になる。動乱の時は平和時にないことが次々と起こる。互いの連帯や共同も起きてくる。それは各地に避難した人たちも体験した。これだけ大勢の人間が移動したということを経験していない、南相馬市の鹿島区でも人口が一挙に5000人とか増えるかもしれない、これだけ人口が増えることの影響が大きい、他の津浪被害を受けた所も大勢の人の移動が起きている。仙台ではアパ-トも借りられない状態になっている。仙台には人が集中しやすいのである。

 
 


 

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BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て


BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て

今回のNHKの番組は興味深かった。明治維新や戊辰戦争のことは良くわかっていない。会津では落城のさい資料を全部燃やしたというのも確かな証拠が消失した。その証拠の一つとしてドイツ-ビスマルク時代のプロイセンの資料が残っていた。プロイセンに北海道を植民地として会津と庄内藩が売り渡そうとしていた。目的は武器を手に入れるためであり薩摩長州軍に対抗するためだった。スネルは武器商人であり会津藩と接近した。それは日本が幕末に欧米列強に分割統治されるような危機にあった。それで攘夷運動が起こり外国人排撃が起こった。佐幕派も起こり勤皇派も起こりと混乱する。ここから日本の歴史は世界の歴史の中に参入した。そのことが後の大東亜戦争に通じていた。なぜなら高杉晋作は上海に言って中国の惨状を実際に見聞した。中国は欧米列強に食い物にされていた。分割統治されていた。日本も中国と同じにされると危機感をもったのである。阿片戦争もそうだった。中国はその後も欧米列強やあとで日本も参入することになった。世界の権益争いが中国で起こったのである。明治維新からの富国強兵とか欧米列強に対抗するという国造りは大東亜戦争までつづいたのである。そのはじまりが明治維新の時の戊辰戦争にあった。日本が中国のように欧米列強に食い物にされるという危機感が出発点でありそれは大東亜戦争までその根底に流れていた。だから今でも大東亜戦争を肯定する右派は欧米の植民地からアジアを解放する戦争だと理由づけている。


プロイセン人武器商人シュネルという武器商人が会津藩と接近したのも欧米列強との特にフランスとの対抗意識だった。実際にヨ-ロッパではフランスと争っていた。それは韓国の百済派と新羅派が日本で争ったという説が古代にあるようににている。明かに明治維新の時もそういうことが起きた。先進文化が欧米にあり特に武器は進んでいた。それで長岡藩の河井継之助が・ガットリング銃を買って薩長軍に抵抗できた。そして会津藩は山国の閉鎖された国際性のない藩だとされていたが実際は国際的視野をもっていた。プロイセンと外交交渉して薩長軍に抵抗しようとしていた。本当にこれは意外である。確かにロ-カリズムであり会津藩は遅れをとったということが言われてきた。今回の番組では会津藩は国際的視野をもって薩長軍に対抗していた。それがプロイセンと組んで薩長軍に対抗することだった。その説明が興味深いものだった。


ドイツ人のという人が北海道開拓に最初に入った人だったことも知らなかった。北海道の産物はドイツの食卓と同じだった。ジャガイモを主食としたものや麦はパンとビ-ルでありとかその食生活は酷似していた。北海道は日本では米作りできないから不毛の地と見ていたがドイツ人だった
アイルランドは牧畜やジャガイモ栽培では適地と見ていた。北海道産のジャガイモは男爵とかうまいものがある。ジャガイモは寒冷地に適していた。イギリスでもドイツでも寒い地域なのである。だからこそアイルランドではジャガイモ飢饉が起きた。ジャガイモばかり作って飢饉になったのだ。北海道の良さを見出したのは最初は外国人だった。アメリカのクラ-クはそのあとに入ってきた。その後も会津藩の人がアメリカに開拓のために移住していたことは驚きである。

ゲルトナ-ががワカマツコロニ-を作っていたが風土にあわずもっていった種が水不足で実らないなど失敗した。 湿潤の地の日本とは風土が違っていた。満州でも米を作ろうとしたように日本人はどこまでも米を作ろうとする発想になる。米にこだわるが欧米は米は念頭に全くない牧畜が主流だから発想が根本的に違っていたのだ。北海道にも田はあるけど異質な感じになる。北海道の風土には田はあっていないのだ。一面に咲いているジャガイモ畑の花がにあっているのだ。


蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。

これは面白い指摘である。日本を旅してキャンプして野宿することはめんどうである。誰かの土地に田か畑でも誰でもない土地はないのだ。北海道を旅して便利なのはキャンプする場がある。今は誰でもない土地ではないにしろそういう場所が比較的見つかりやすい、キャンプ場以外でもそうい場所がまだある。


明治維新と大東亜戦争は底流でつながっていた。欧米列強に対する対抗心が日本ではつづいていた。それが中国の権益争いとなり戦争に突入した。だから今でもアジアの植民地解放戦争だったとしている。それは明治維新の攘夷の思想がつづいていたためである。明治維新を見れば大東亜戦争も予測できたかもしれない、そういう大きな歴史の流れがつづいていたからである。欧米列強に対抗しようとしたとき背伸びをしなければならない、それが大東亜戦争の敗北に通じていた。今はヨ-ロッパは衰退して中国が大国化するときアメリカと連合を計る。でも中国が巨大化するとその圧力に日本は苦しむ。そういう大国との狭間で苦しむのは世界の歴史ではある。小国は分断され苦しめられるのだ。日本もまたそういう歴史の苦しみを経験したのである。これからもやはりそういう立場にあり今度は中国やロシアやアメリカの圧力に苦しむ。


会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画
http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9b41.html


これを読むと会津藩と庄内藩は藩意識が強すぎた。自分たちの藩ばかりを死守しようとしていた。それは明治維新の時は藩が国だったのだから藩という意識からぬけだせなかった。日本という大きな国の視野にたつことができなかった。北海道は会津藩とか庄内藩があづかったものでその藩のものではない、日本のものだったけどそういう意識がなかった。
明治維新を規定すれば藩なくすこと、侍の身分をなくすこと、この二代改革のための革命だった。だからこそ藩と侍身分を残そうとした西郷隆盛が率いる西南戦争が起きたのである。その時国民軍として加担したのが会津藩士だったということでもわかる。会津藩士も結局は侍身分を会津藩ということを捨てて日本国民軍として戦った。薩摩長州に対抗するという意識はその時なくなっていた。薩長に踏みにじられた会津藩士だから復讐の念があったというより国民軍として戦ったのである。

会津藩のヒロイズムは会津藩だけにとどまるもので日本全体を視野に入れたものではなかった。会津はただ薩長にふみにじられたとういい怨念だけでは歴史は語れない、何故なら西郷の西南戦争もやはり侍や藩を維持しようとするものと侍や藩をなくそうとするものの戦いになったからである。つまりロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムとはならない、そういう問題は国と地方の政治とかでも常に起きているし東北の復興問題でも起きているのだ。
 
 
 武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)
 http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#weapon

2011年07月09日

大和魂は死んではいなかった-津浪原発事故で蘇る日本の歴史


大和魂は死んではいなかった-津浪原発事故で蘇る日本の歴史
(戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て-続編)

http://musubu.sblo.jp/article/46596711.html

これの続きだけと会津藩はプロイセンと結びついて北海道を売り渡すとなると攘夷派からは相当な攻撃を受ける。今でも右派からは売国奴となる。北方四島でさえロシアともめていることでもわかる。もちろん時代が違うといえばそれまでだが今の時点からみて歴史は判定される。だから歴史の判断は百年後とかでないと見えてこない場合がある。百年後たってそのことはそういうことだったのかと霧が晴れるように見えてくることがある。その一つがこの事実だったのである。

これがどういうことかというと明治維新は中国のように日本が外国勢力、欧米列強に分断される危機だったのである。内乱状態だった。そこにつけこまれて日本は分断され植民地化される危機だった。だから日本は内戦をやめてなんとか日本を統一しようとして勤皇派などが生まれた。日本統一のシンボルとして天皇は危機の時いつでも出てくる。大東亜戦争でもそうだった。
外国勢力を知らずして日本の歴史も理解できないものになっている。その重要な事実の一つがプロイセンと連合を企み北海道を売り渡そうとした会津藩と庄内藩があった。ぎりぎりに追い詰められてただ自分たちの藩を守らねばならないという危機のためにそうなった。プロイセンにすがったのである。


日本の歴史や政治をそうして外国勢力によって決められてゆくというのは百済と新羅の対立が奈良時代に日本にもちこまれたとかあった。その時韓国が技術的に優れたものをもっていたからである。技術力は兵器力でもあった。それが明治維新後は常に日本の歴史の背後にでてくる。武器商人が暗躍するのは内戦とかのときでありそれで一儲けする。薩摩についたのはイギリスであり武器商人がそこでもうける。そして現代ではロスチャイルドやロックフッラ-が陰ですべてあやつっているという陰謀史観となる。日本人はただこうしたアメリカの大金持ちや財閥や軍事勢力に支配され動いているアメリカの植民地にすぎないとなる。そういう面から歴史を見るのは偏ったものとはいえない、その一つが会津藩のプロイセンとの連合計画だったのである。

明治維新も絶えず欧米列強との連携があって成されている。ただその中で日本独自の道を、植民地化されない道を進むことができたのは日本は中国とも違う、外国人も明治維新を高く評価している。日本人はそういう歴史をもているから一面恐れられている。アメリカでも実際は日本をまだ恐れている。それは太平洋戦争のトラウマがある。硫黄島の戦いや怖いことを経験しているのだ。原爆も日本をなんとか徹底的にうくのめすためにあえて投下した。アメリカの人道主義は全くの嘘ばっちであり偽善である。アメリカは金を崇拝して戦争屋であり武器商人としてもうける国である。


新ベンチャ-革命

http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/archive/2011/07/2


ここで現場の技術者が書いているから興味深かった。一連のものとして読む価値がある。日本の原発事故で現場に残った五十人がいたことを称賛している。その裏返しはまだ日本人は戦争のように自分を犠牲にしてまで仕事をする、尽くす人がいたということである。それがアメリカは特攻隊の恐怖のように称賛すると共に恐れたのである。だいたい日本はすでにそうしたものはなくただ功利的に動くだけの会社人間になっているとみていた。確かに日本人自体も戦争のことなどを忘れ否定するようになっている。金もうけだけに金をすべとしてアメリカのように限りない欲望の追求だけになっているというのも事実だった。ただ日本の魂が死んだのかというとそうでもなかった。それが何とか日本を救おうと決死隊が出てきたことにアメリカは賛嘆するとともに恐怖したのである。

日本人の歴史的メンタリティというかそういうものは喪失したと思ったけど意外とそういうメンタリティは変わっていない、大和魂などというとそんなもの何の意味があるのかとなっていた。一部の右翼のなれのはてのような意味のないものとして見ていた。しかしそうではない、日本人のメンタリティは変わらない面があった。特攻精神が残っていた。最後に日本人は日本のために命をすてる、命を惜しいと思わない、そういうメンタリティは変わらなかったのだ。日本は大和魂で一丸になるメンタリティは変わらない面があったのだ。それは理屈ではなく本能的に日本人なら誰でももっているものだった。


ただ今は外国人が日本に入ってきて本当にわけのわからない雑種になりつつある。在日勢力もそうだし中国人も増えるとかそういういろいろな外国勢力が日本人のメンタリティを破壊しつつある。だから今新たな勤皇派が出現してくるかもしれないしその反勢力もでてくる。つまり明治維新の混乱状態が思想的にも現実の政治でも起きてくる。それぞれがどういうふうに動くかは明治維新の混乱を見ればわかる。その一つが今回の会津がプロイセンと組んで北海道をうりわたしてでも自分たちの藩を守ろうとしたことである。それはロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムではない、今起きていることはやはりナショナルヒロイズムが要求されているのだ。
だから経済の合理性の論理だけで会社の利益追求だけで動いていいのか?日本は電気がないから大会社は外国に出るという、それは日本を捨てることになる。それでいいのか?会社にとって日本にいても得はないとただ利益だけで判断して日本を見捨てる。戦争中だったら国賊となったろう。今は東電に残った五十人のように日本の危機であり日本滅亡になるかもしれない、そういうとき経済合理性だけで行動していいのかとなる。そんな褊狭なナショナリズムなど今にはあわないというのも意見である。それも否定はできない、それは明治維新では攘夷派に撃たれることになる。


今回の津浪と原発事故は単なる自然災害でもない、事故でもない、日本の危機としてとえらる必要がある。だから大和魂の再現の国粋派が台頭しても不思議ではない、結局歴史はくりかえす、明治維新の動乱と太平洋戦争が蘇る。「大和魂」が蘇る。志願する特攻隊が現れる。
そういう動乱の時代である。政治が混乱するのもやむを得ない、明治維新でも混乱を極めたからだ。未だになぜそうなったのかも解明されていないのである。


 

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海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


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海老の一番高い崖の上の家
これは建てて二年とか新しいものだった




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三菱化成の工場は被害がない
あの辺はすれすれであり津波の高さからすると危なかった
原町の島自動車商会のあるところは相当高くても
駐車場が津波にやられた

あの工場がやられなかったのはどうしてか?
山が衝撃を受けて津波をおさえたのかもしれない・・・・
福島原発でもちょっとでも高ければ助かった
高い盛り土したのだか地盤が弱くなると低くした
それが致命傷になったのである。

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自衛隊がかけた鉄の橋


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崖から下りた八沢浦の海岸に接した数軒の家では二人死んだ
八沢浦では人はそれほど死んでいないだろう
海から近くてもすぐ後ろの山に逃げて助かった
この辺は海に近いのに被害が少ない
波がなんらかで強い波ではなかった、高い波でもなかった



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松川浦は松がなくなり広々として見えるようになった

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磯部では死んだ人が多かった





涼しさや海風吹いて残る石

夏草に石の埋もれる右田かな


涼しさや残れる石に海の風


夏草に石の埋もれる右田かな


海の風浦広々と夏雲雀


夕蝉の遠くにひびき屋敷林


六号線夕風涼し一路行く


家もなく野原の石や夏の月


土台のみ残れる跡に夏の月




父と母妹眠る墓標かな夏の海よりそよぐ風かな


磯部にも二本の松の残りけり家の土台に夏の夕暮


松川浦津浪はすぎて二本の松の残れる夏の夕暮


松川浦残れる松の十数本風そよぐかな夏の夕暮


十数本残れる松に松川浦昔の面影偲ぶ夏かな


津浪にて生き残る人あわれかな松も残りてなおも生きゆく


広々と浦の展けて夏の日や松みな消えて風わたるかな


街道の松の太しく鶯のなお鳴きにけり城下を去りぬ





津浪の跡は放置しておくとやはり湿地帯化してゆく、塩のふくんだ硬い泥炭層ができている。こういう場所にセシウムはたまり堆積するとあった。ここに餌があるのだろうか?白鷺が餌を探している。鳥にとって人間のことなど我関せずである。湿地帯化すればそこに生き物も集るのかもしれない、原始の状態に戻りつつあるのだ。
八沢浦で海から近いところで被害にあった人に聞くと突き当たりの小高い山に逃げたという、津浪が来たとき見えたとき逃げてもまにあったというのはわかる。後ろの山に駆け上ればまにあった。そしてそれほど高くあそこには来ていなかった。あれだけ近いのに被害が少なかった。これも明かに地形のためである。前の山が浪の強さを緩和した。八沢浦は海岸に接していないところはそれほど被害はなかったろう。死者は海岸に接した家であった。そこで二人死んだと聞いた。海岸に接したところはどこももろに津浪の衝撃をうけた。高台にあった海老の家もあんなに高いのに死んだのは津浪の衝撃が崖にぶつかり激しかった。そのためにもろに波をかぶりその衝撃で人が死んだのだろう。津浪の浪の衝撃はみんな一様ではない、地形によってその強弱が異なる。これは確かにわかりにくが被害状況を調べるとわかるのだ。津浪は後ろに小高い山でもあればすぐに逃げられるから助かる。その山もそんなに高くなくてもいいのである。

磯部は小高い山も何もない、平らなところだから被害が大きかった。松川浦の松林も根こそぎなくなった。その松がなくなった結果見晴らしが良くなった。海側の方からみると松川浦は広々として見えるのである。前は松にさえぎられて海側からは大きく見えなかった。今回はいろいろと津浪のことが実体験としてわかった。磯部のような平な所だったら避難所として高台が必要なのである。人工的な高台が必要なのである。コンクリ-トの公共施設の建物は津浪に流されず残っている。だからコンクリ-トの高い建物が必ず必要である。でも相当の高さが必要である。
そういう教訓を今回の津浪は残した。

いづれにしろ津浪で景色が変わってしまった。不思議なのは右田というと松原だったけど今は庭の石が野原にある。それが一つの右田の景色となりつつあるのも不思議である。庭の石から野原の石になった。広々としたところにあるから海からの風がそよげば涼しいという感じになる。
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2011年07月10日

失われた日本の海の風景(原発事故も文明の必然だった)


 失われた日本の海の風景(原発事故も文明の必然だった)

海 『尋常小学校唱歌五』(大正2年)

 松原遠[とほ]く消ゆるところ
 白帆[しらほ]の影は浮かぶ
 干網[ほしあみ]浜に高くして
 鴎は低く波に飛ぶ
   見よ昼の海
   見よ昼の海

 島山闇に著[しる]きあたり
 漁火[いさりび] 光淡[あは]し
 寄る波岸に緩[ゆる]くして
 浦風軽[かろ]く沙[いさご]吹く
   見よ夜の海
   見よ夜の海


「沙(いさご)」は砂のこと。


われは海の子  作詞者不詳「尋常小学校本唱歌」明治43


 我は海の子白波の
 さはぐいそべの松原に
 煙たなびく とまやこそ
 我がなつかしき住家[すみか]なれ


青松白砂の風景で松原が作られたのは江戸時代である。この風景は江戸時代である。大正時代にもこれとにた風景がまだあったのかもしれない、でも白帆はなくなっていた。


煙たなびく とまやこそ
 我がなつかしき住家[すみか]なれ


こょ風景も江戸時代である。戦前まで確かにこうした風景は日本独特のものとしてあった。


 寄る波岸に緩[ゆる]くして
 浦風軽[かろ]く沙[いさご]吹く


この風景はやはり瀬戸内海にふさわしい。このことは八沢浦が津浪で深い入江になり浦風も吹き何より浦波がよせてきたことに奇跡のように感じた。その波は春の光にきらきら光っていた。

福島県の海岸線にはこういう風景がなかった。入江がほとんどないからである。入江は九州でも四国でも日本海側でも多い、そこは船が停泊するのにいい浦なのである。浦といっても日本には小さな浦も無数にある。今回の津浪でわかったように津浪が押し寄せて海になったところは浦だった。そこは水深が浅い浦であり入江である。こうした浦は小さい船が入り停泊するのに向いていた。丸木舟のようなものでも入り停泊できる湊である。だから古代でも万葉集の時代でもそういう船で瀬戸内海は航海できたから歌にも残された。やがてこうした小さな浦々は北前船のように大型化すると見捨てられた。さらに船が大型化すると港湾が必要になる。そうなると
海から港から人間臭さが消失する。軍港とかなるとさらに庶民とはかけ離れたものになる。
この辺で磯部漁火が北山八景とかの短歌に残っている。そういう風景は日本ならどこでもあった。その時人と海は結びついていた。人間臭いものとして結びついていた。


しかし船の巨大化や港湾型になるとそこは石炭の積み出し港だったり最近では石油のタンクが並ぶ港だったり工場地帯になったりと江戸時代のような人間臭いものは消失した。例えば近くに火力発電所があるがそこに千人も働いていると思わなかった。中に入らない限り人影も見えない、無人にしか見えない、そして大きな建物だけがある。港もあるがそこには外国から石炭などが運ばれてきても外国人がこの土地に下りてくる港でもない、貿易でにぎわい外国人が出入りする江戸時代のような港ではない、何かただモノを運び出し入れするところであり人間臭くない、無機質である。だから倉庫などばかりが並ぶ港でもある。原発も海側にあったが火力発電所と同じようにそこには外からは人影も見えない、働いている姿も見えない、だからそこに働く人たちとの交流もないのだ。ただ巨大な利権であり金をくれるものとしてしか意識しない、江戸時代の港ならそこに人間臭いものがまだあるから北前船の日本海側の港には西の文化、京都や大阪の文化が残された。言葉も伝わって今に残っている。それは人間的交流があったからである。


そもそも経済というとき互いのコミニケ-ションが目的であったとポランニ-は言っている。
贈答貿易が貿易の始めでありそれは見知らぬ人が交流するためでありこ親交を結ぶために貿易があった。物々交換もそうであり経済は極めて人間的なものからはじまった。だからその時貨幣経済がすべてではなかった。今日のような金がすべての価値になったことはない、結果としてもはや金でしか人間と人間の交流はできなくなった。それは原発事故でも同じである。
金がくれるからいいとなるだけだったのである。

原発問題を考えるときその事故の背景には全く地元民との日常生活レベルでの交流がなかった。そもそも原子力などむずかしくて教えられてもわからない、ただ自分たちに触ることもできないものとしてあった。そこに働く人々との交流もない、そこに深い断絶があった。コミニケ-ションをとることができない、ただ金になるから容認しているだけだった。別にそういうことは現代文明では普通にある。互いのコミニケ-ションがとれない、都会と田舎でもそうであり為政者と民衆でもそうである。専門家と技術者と一般人でもそうである。余りにも高等に複雑になったから である。そうして分離隔絶した中で知らずに恐ろしいものを容認して醸成していたことがあった。

つまりもう知り得ないものとして原発は専門家や利権者にすべてゆだねられる。何らそこに住む人もかかわれない、ただ金やるから黙っていろで終わりである。海から人間臭い風景が消失したようにそもそもそこに住む人すらかかわれないというものであった。結局現代文明では官僚と一般人も隔絶しているし密なコミニケ-ションがとれない時代である。そして互いが遊離しているから危機に直面したとき弱い、もはや対処できない状態になっている。やはり人間は自然でもそうだが風景とマッチしたときそこに調和が生まれる。江戸時代は自然とマッチしてまた人間臭いもののなかで育まれたらなごみが生まれる。すべてがいいとはならないがあまりにも現代文明は互いに巨大化組織化して干渉しあうこともできない、それぞれが一人歩きしてそれが大きな取り返しもつかない事故にもなる。ヒュ-マンサイズを超えたものとしてありそれがある時破局的なものとして襲いかかってくる。それはこれからも必ずありうる。東京なども大地震が破局的なことになり滅亡してゆく恐怖が現実的になったのである。文明は迷宮化して滅びる運命にあるのだ。



参考にした本

海岸線の歴史(松本建一)


 
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2011年07月11日

福島市はなぜ放射線量が高かったのか?(風と標高差のため)


福島市はなぜ放射線量が高かったのか?(風と標高差のため)

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わかりやすい放射線分布図(地名がでてくる)
http://www.nnistar.com/gmap/fukushima.html

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この放射線量分布図はわかりやすい、やっぱり風の方向があった。
標高差も関係していた。赤字木(あこうぎ)は一番高いが標高は飯館の中心地からすると
かなり低い、そこは谷間であり放射性物資が堆積しやすかった。一番放射性物質が流れたときそこに雪がふったりした余計に堆積しやすかった。


そしてなぜ福島市が放射線量が高いのか?それは標高差と関係していた。
飯館村の役場のある中心地は標高が高い、霊山も標高が高い、その標高が高い所から低い所に風が吹いて放射性物質が流れた。だから途中の小盆地になっていた小国は比較的高い
福島市は思った以上高いの標高差が関係していた。
飯館の高いところから福島市の方へが風が降下した
黄色の所が高いのはそのためである。

そして田村市などが低いのは山にブロックされたためである。
安達太良山も高い壁となりさえぎった。そして東北新幹線の通る中通りは風の通り道になり
比較的放射線量が高くなった。何故なら三月は東風が吹いてもすぐに北風に変わるから
東風が北風に変わったのである。その時放射性物質も郡山市の方に流されたのだ。


風と標高差と山の地形によって放射性物質の流れは決定された。田村市は近いのに山にブロックされて低かった。そして放射性物質の半分は風で海の方に流された。海岸沿いが低いのはそのためである。山は放射性物質が堆積しやすく海側は風と飛ばされるので堆積しにくいことがわかった。チェエルノブエリではどこまでも平らな土地だから一様に30キロ圏内は放射性物質は均等に広がった。日本ではそうならなかった。だから30キロ圏内の同心円で決めるのは間違っていた。浪江の数キロしか離れていない請戸ですら一マイクロシ-ベルトにもなっていなかったのである。


ただ結局日本が地形が複雑であり放射性物質の分布もまだらであり近くても違っていたし一地域をまるごと避難区域にするのも金がかかるから勧奨地点とか決めるようになった。これもかえって避難する人にはめんどうになった。

 

今日の朝日新聞で福島の大気中の放射線量数値は1.37でした。
たとえば福島で路上生活されている方は
1.37×24×365=12,001

大まかな計算として年間12ミリシーベルトの放射線を浴びると思われます。
福島だけでなく郡山も同様の数値で推移しています。
http://okwave.jp/qa/q6785181.html



今日のアサイチでチェエルノブエリで暮らしている人を紹介していた。1・5マイクロシ-ベルくらいのところで厳しく放射線を管理していて子供も住んでいる。これは福島市や郡山市と同じである。年間一ミリシ-ベルトを基準にしているというからチェエルノブエリの放射線管理の方が厳しい、
日本はそこまでしていない、20ミリでも大丈夫だとか言っている。ロシアより管理ができないのは住んでいる人の数が多いためである。福島市と郡山市は人口が多くて避難させることができない、それだけの理由である。3マイクロシ-ベルトとかなると確実に避難地域になるのだろう。
1・5はぎりぎりの線であり厳しく管理して居住できる放射性線量だとなる。



 

posted by 老鶯 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

雲の峰(湿地帯化する田んぼ)

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ぐんぐんと高さをましぬ雲の峰

雄大に人はばからず雲の峰


雲の峰頂点極め崩るかな


夏雲雀草青々と夕暮れぬ


津浪原発事故は余りにも大きな変化だった。江戸時代でも飢饉があっても田植えしない時などなかった。なぜなら相馬藩内で米作っていなかったらみんな飢死する。他の藩から援助がもらえない時代である。こんな状態で放置されているのは他から米が入ってくるからだ。米は余っているということもある。だから危機感かあまりない、農家の人も補償をなんとかもらうおうとしている。そうでなければこんなことをしていられないだろう、放射能があるからといっても飢饉で死ぬよりはいいと米を作っていた。米がそれだけ命を維持するものとして直結していないのである。

田んぼが青々として草が繁っているのも不思議である。草原化は日本ではしない、雨がふるから湿地帯化してゆく、でも「夏草や兵どもが夢の跡」という俳句の夏草とはこうした夏草だったのか?広い範囲で夏草が繁っていなければこうした句は作れない、広い戦場の跡はただ夏草か繁っていた。江戸時代だったらそういうまだ開墾されていない土地がありそこに夏草が広々としげっていた。そうでなければこうした句はできない、夏草というと茂みのようなものを今では想像する。平地で広々と夏草がしげっているとこは本州では想像しにくいのだ。


キノコ雲のような雲の峰は夕べに空に高くなった。雲の峰は一つの形を作ると崩れてゆく、いつまでも同じ形をしていないからシャッタ-チャンスは短い、これは全く原爆のキノコ雲だった。
自然は雄大である。人は人により萎縮させられる。人間の組織でも何でも人間が人間を監視して小さくこじんまりと収めようとする。それが社会というものである。自然にはそういうものはない、実に雄大であり何か遠慮するはばかるものはない、それは津浪でもそうだった。あれほど恐ろしい自然の力は千年に一度である。まだ暑いと言っても30度くらいだから去年よりはいい、浜通りは海の風が涼しいから住みやすい、中通りは蒸し風呂になる。

東北も梅雨が明けた,今年は早い、夏本番になった

2011年07月13日

暑い一日(無人化する村の不思議)




涼しさや夜明けに鳴きぬ鳥の声


清しきや夏の夜明けの鳥の声


夏の夕仮設にひびく笑え声


久しくも村にありにし石なれや残りて待ちぬ帰り来る日を


青々と草の生えにき夕べなお雲雀の鳴きてひびきけるかな


藪甘草草むら深く一輪のここに咲きにつ故郷に住む

蛙鳴く声のともしく故郷を離れし人のなお帰らじも


水田は土の露に草生えて雲雀は鳴けど鷺は来たらじ


耕さじ畑を見つつ農夫かな用もなきしをあわれなるかな


海の方には松原がなくなり木蔭がなくなった。この辺りは木蔭が少ない、今日は暑いから陽差しが強く外に出れない、これも困ったものである。海の方は風が涼しいからいい、木蔭がないと外に出にくいのだ。 飯館村から出てアパ-トに住んでいる人のことをテレビで放送していた。
飯館村は家も広いし一軒一軒が離れて暮らしている。森につつまれて前は広々とした田畑である。そういう所に住んだ人が都会のアパ-ト暮らしはなかなかなじみにくい、アパ-トとかは圧迫感がある。日本の住まいはウサギ小屋と言われたけど狭苦しい。飯館は広々とした所で森につつまれて家があった。 標高も高い高原だから夏でも涼しい、今年も暑いが去年のような暑さにはならないみたいだ。浜通りは海から風がふくから涼しいのだ。なぜ危険な海側に住んだのかというとやはり夏が暑い日本では涼しいくて気持ちがいいからである。人は気持ちのいい所に住みたいのだ。千年に一度来るような津浪より住みやすい場所に住む。


テレビに映った家族は大家族であり三世帯で住んでいるとか今でも田舎ではそういう家がある。家が広いからそれができる。しかし一方でそういう家族はめずらしいことも今では確かである。大原の農家は息子夫婦は街に出て大きな古い家が残されて一人で住んでいた。あそこも廃屋になってしまうのか?酪農でも農家でもたいがい50以上でありその先継続してゆけるのかどうかという人が多い。跡継ぎもなかなかいない、だからこんなふうになると廃業する人が多くなるのだ。


いづれにしろ無人化してしまう村というのも不思議である。そこに待っているのは何か?太古からあった樹や石である。それらも村とともにあったから人間味帯びたものとなっているのだ。

今日は暑くて熱中症のようになった。今年はなかなかク-ラ-を使えないだろう。海の方に行けばいいのだが木蔭もなく休む場所もない、やはり海には松林が必要なのだ。


仮設から笑え声がひびいた。普通の家だったら聞こえないけどそれだけ声がひびく。隣にもひびくからつつぬけになってしまう。長屋にはプライバシ-がなかった。ただ親密な関係になった。両方がうまくいくことはこの世の中ない、夏は朝が涼しいから気分がいい、昼間は暑くてだめだ。ここはまだ30度だから何とかク-ラ-なしでたえられるか、頭が痛くなった。汗をかくというのは確かだろう。陽差しが強いから外にでなかった。

海から吹いてくる東風(こち)の考察 (飯館村の不運は風と地形のため)



海から吹いてくる東風(こち)の考察

(飯館村の不運は風と地形のため)

●風の地名では東風が主流


 海に珍しいものが流れてきたり、木の実が熟して落ちる事をアユ、アエル、と言い、
  それを約束する風であることからくる。


寄木神社が各地にあり何か海から寄ったものを集め生活の糧としていた。津浪が来た磯部辺りにもありそこにはちょうど海が奥に入っていた地点だった。海はもっと奥にあり寄木神社は昔の海の地点を示していた。




かひよせ【貝寄風】


 (貝を浜辺に吹き寄せる風の意) 陰暦の二月二十日頃に吹く西風
 
貝寄する風の手品や和歌の浦 (芭蕉)


 ふるさとや東風寒き日の鰯売り 鈴木真砂女


この辺で海から吹く東風はまだ寒いからこれはわかる。海近くに住んでいるからこの句ができた。


あゆのかぜ【東風・鮎の風】


 「俳諧歳時記栞草」に書かれたように越(富山県)では俗に「アユノカゼ」と呼ぶ、と万葉集の細注にはある。


   東風痛久吹良之奈呉乃安麻乃都利須流乎布禰榜可久流見由    家持
  (アユノカゼイタクフクラシナゴノアマノツリスルヲブネコギカクルミユ)


 谷川健一『日本の地名』によれば、「アユの風」(アイカゼ・アイノカゼ)は秋田県仁賀保では「北風」を指し、越(越中=富山県)では「東風」を指し、 さらに、
 
   年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ


 という万葉集巻七の歌を引用して、名古屋市熱田あたり、つまり太平洋側では「アユの風」は「南風」だと述べる。
 
 ならば、「アユの風」は海から陸へうち寄せる「貝寄風」と、同じ方向から吹く風と考えていいだろう。


はえ【南風】


「牛深はいや節」の「はいや」とは南風だという。

    
         はいやはいやで 今朝出した船は
     何処の港に 入れたやら
     牛深三度行きや 三度裸
     鍋釜売っても 酒盛りやしてこい    
        戻りにや本渡瀬戸 徒歩渡り


しろはえ【白南風】


 (九州地方などで) 梅雨明けの頃に吹く南風。また、8月頃の昼間吹く南風。  『広辞苑5版』
やませかぜ【山背風】


明治20年代の追分節に
 
 やませ風 わかれの風だよ あきらめさんせ 又いつ逢ふやら逢はぬやら

というのがある。これは、最上川舟歌でも


   山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ

 



風を一番敏感に感じるのは誰か?生活に直結して風を感じているのは誰か?それはやはり漁師だろう。帆船の時代とかでも風が大事であ
る。万葉集では風待ちの湊があった。強い風が吹いたらその頃の船では航行できないからだ。風は普通は海と一番関係している。そして海から吹いてくる風で春を感じるのが東風でありコチである。だから沖縄に東風原(こちんだ)という地名がある。コチは古語であり青森や沖縄の辺境に残っている。風の方言も伝播している。ヤマセはもともとは・・・であり東北の方に伝わって変化した。

はいやはいやで 
今朝出した船は
何処の港に 入れたやら


まさにはいやはいやが出だしに歌われるのはそれだけ風とともに漁師が暮らしていたことがわかる。


● 鮎川は万葉集の年魚市潟(あゆちがた)から名づけられた


  年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ

この歌は鮎の風が吹く潟であり潮が退いたら舟も近くに見えたとなる。潮が満ちていれば同じ地点でも遠くに見えるからだ。そういう自然の変化を歌にした。知多の浦となるとこれも相当に広い湾になっている。年魚市潟(あゆちがた)が東風原(こちんだ)と同じように固有名詞の地名になっていることは常にこの辺に住む人が東風を意識していたのだ。鮎川は年魚とあるから今の鮎(アユ)とは関係ない、もともと東風のことであった。ただ鮎となったのは万葉集の当て字の類だった。鮎川の川は海を川とした。牡鹿半島の付け根と金華山の間が海峡であり川のようになっいたからかもしれない、陸の川ではないだろう。このあゆちがた(年魚市潟)は愛知という県名の元となったといいます。
東風が吹くと春が来るから意識する。一般的には海に面する地域が風を一番意識する。津浪が来ても海側に住む人が増えたのは暑いとき風が涼しいし冬はあたたかくなるからだ。福島県の浜通りもそうであり何か特別にいいものはないにしても気候には恵まれているから住みやすいのだ。


東風吹けば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ


この歌も東風にしても実際は海から吹いてくる風である。この辺では明かに丸森辺りだとこの東風だとわかる。山を越えて海から吹いてきた風だとわかる。山を越えれば海が見えるからだ。

飯館村は海から遠いと言っても八木沢峠から海が見える。山の奥でも風は海から吹いてくる。特に春は東風が吹き山の奥まで吹いて春を告げる。祖谷(いや)のかずら橋まで深い谷間を吹き上げてきた風も海から吹いてきた東風だったのだろう。その深い谷間は風の通り道になった。ただ夜は空気が冷えて山から海に風が降下する北風になる。風を感じるのは方向を感じることである。方向に敏感なのが船を操る漁師や航海民である。また方向に一番敏感なのが草原や砂漠の民である。遊牧民は方向を知るために北極星を目印とする、だから星が旗印となる。相馬藩の氏神、妙見神も北斗七星が旗印であり大陸から伝わってきたのだ。遊牧民にとって方向が生死を分ける。それは砂漠で水がある方向へ導くことが命を分ける。それは砂漠を旅行した日本人のベテランが水のある方向へ仲間を導いて命が助かったことでもわかる。方向がまちがって水がなかったら死ぬ。アラ-の神はどこにあるというものでもない、でもアラ-の神の神殿のある方向に向かって祈る。偶像がなくても方向が偶像だというのが如実に示している。
そして遊牧民が航海民になったことは方向が生死を分けることでは同じだから文化も同じものとなるためである。


●飯館村の不運-谷間が風の通り道となり放射性物質を運んだ

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今回の原発事故の放射性物質の流れは予測されにくものだった。放射性物質がどういうふうに流れかよく準備もしていないし研究もしていなかった。高額なスビ-ディの機械を準備していても役立たせることができなかった。まず事故が起こらないとしていたのだから事故が起きたらどうなるかなど詳しく研究などしていないのだ。また誰も予測し得ないものとして事故が起きたのである。だから事故が起きたときただ茫然と現場の人も見ているだけだった。どう処理していいかもわからなかったのである。その後の膨大な汚染水処理を見ていてもわかる。そしてこれほど風と地形に影響されるとは思いもよらなかった。海側は本当に放射線量が低いの山側は異常に高かった。南相馬市が避難準備地域とかに指定されて牛から基準値の何倍もセシウムがでたというとき南相馬市全体のように見ているが違っている。南相馬市でも山側であり海側ではない、これは浪江でも一様に高いと思っているが山側であり山の奥に入った所である。


図のように標高と風の通り道を示した。椚平は標高としては低いが放射性物質は比較的低く流れるとなるとその辺に堆積しやすい、次に赤字木辺りは狭い谷間でありそこが風の通り道を形成した。3月15日に爆発したときその谷間に一定の風、東南の風が吹いた。その方向は昼間は変わらなかった。なぜなら谷間は風の方向が変わりにくいのだ。ちょうど筒のようになっていて風の方向は変わることはできない、一方海側は風の方向はしょっちゅう変わっている。だから一時南相馬市に南風が吹いて2,3時間20マイクロシ-ベルトになったが風の方向が変わり急速に低下した。風の方向が変わり海の方に飛ばしたのである。それが海に出て牡鹿半島に吹き一関まで風が吹いてそこがホットスポットになった。風はこのように複雑なのである。一旦海の方に吹いた風がまた海から陸に向かって吹いて陸の奥、一関まで吹いて放射性物質を運んだのである。今回の事故でわかったことは海側は放射性物質が堆積しにくい、海に吹き飛ばされる。山側は危険である。なぜなら谷間が風の通り道となりその風は赤字木を通り長泥(ながとろ)に吹き出した。だから長泥や曲田は20マイクロシ-ベルトとか異常に高い、長泥や曲田は風の吹き出し口になっていた。そこから標高の高い飯館村の中心地に向かって風は吹いて放射性物質を運んだ。でも中心地の草野辺りでは低くなっていた。そして今度は北風が吹いて風は北風に変わり標高の高い飯館村から降下して吹いた。そもそもその辺になると谷間はない、だから風は変化しやすくなっていた。北風にあおられやすくなっていた。それで福島市や郡山市に放射性物質が流れやすくなっていたのだ。


海側から吹くときは細い谷間をぬって吹きあげてきたが標高が高くなると高いところから北風にあおられて平坦な地に飛んだ。ともかく風をとらえることは機械でもむずかしいし予測つかない、だから東風が方言で今度は北風となっていた。それだけ風はどちらから吹いてくるかわかりにくいのである。そもそも風は科学でも解析できない、千の風があり自在である。そして風は今の時代また感じにくくしている。車でも電車でも風を感じない、船でも今や潮流に乗らなくても航行できる。旅をするときやはり風を感じなければ旅にならない、だから便利になりすぎて旅もなくなった。阿武隈高原を海の方に越えてゆくとき夏すずしい風を感じる、でも車だったら感じないのである。峠が風越し峠という地名も多いのもそのためなのか、峠を越えると風が変わるということがあるからだ。現代人は科学で何でも知っているように錯覚している。でも自然でも実際はわからないのが多い。科学的に分析できないのも多い。風はいくら科学的に説明されてもわからない、あまりにも多様すぎる
からである。


山背風だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー)
   おれを恨むな 風うらめ


 東風ふかば思いおこせよ放射能飯館村の恨み深しも


飯館村の不運は風とその地形にあった。真冬だったら北風だから放射性物質は海の方に流されたかもしれない、3月11日という春になるころの東風が災いしたのである。それだけではなく地形も風を呼ぶような地形になっていた。谷間は風を吸い込むような働きをした。それが放射性物質の通り道にしてしまったのである。まあ、風を恨むことはできないにしろ東電への恨み、政府への恨みは消えない、福島県の政治家も結託しているから恨むべきだ。なぜ責任を問わないのか、怒らないのか、風だけでそうなったのではないからだ。


風は地形の影響を受けて変化する
(なぜ飯館方面に放射性物質が流れたのか?)
http://musubu.sblo.jp/article/45497821.html

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2011年07月14日

朝焼け(眠れずに起きていた一日)

 

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朝焼けや津浪の後に残る松


海広く朝日上るや夏野かな


海よりの朝風吹いて夏雲雀


朝早しあまた並びぬ夏燕


午後下がり老女と犬や木蔭かな


夏の雲少女歩むや街の中


夏の雲一人入りにぎわう仮設かな


草青く夕べ明るし夏雲雀


黒揚羽夕べ二羽舞ふ年老いぬ

朝焼けは夏の季語である。朝焼けになると天気が下り坂になるというのは本当か?明日になればわかる。去年の暑さよりはいいが蒸し暑い、やっぱりク-ラ-したくなる。下の狭い部屋に新しいのを備えた。家に二軒でと電気が食う、今年は去年ほどとではない、30度から32度なら平年並みである。中通りや会津は暑い、35度となるとク-ラ-なしでは耐えられない、何か書くのもいやになる。今日は眠れなくて起きていたのだ。


海と広々とした野があれば気持ちがいい、前は田んぼだったが今はない、大陸で気持ちいいのは広さである。とんでもない広さであり空まで広く感じる。日本は空まで区切られて狭く感じる。雲雀でも大陸の草原のようなところで鳴くのを聞いたら気持ちいいだろう。外国の旅では自然を感じることはむずかしかった。アメリカの西海岸では大きなペリカンを見た。あんなでかい鳥が飛ぶことに驚いた。もう外国には旅行できない、自分は外国旅行には向いていない。どじが多すぎた。


仮設には結構人が入ってきた。木蔭でいつも老女と犬が休んでる。この辺では小高の人が大半であり津浪の被害にあった人とはなかなかあわない、原発で避難している人とは事情が違う。家も残っているし財産もある人もいるし車はみんなもっている。補償もあるから楽といえば楽なのかもしれない、でも不自由なことは確かである。

夕暮れに若い女性が一人リョックを背負い歩いていた。旅人なのだろうか?そうでもないか、でも人間が歩くということは今や絵になっている不思議である。街中でも車は通っても歩いている姿をほとんど見ないからだ。これも現代が異常化していることなのだが誰もそう思っていない。

人間から歩く姿が消えるということは異常なことである。歩いて生活していた時は人間らしい生活があった。機械化される人間的なものは常に失ってゆく、原発なんかもそうである。外からみて回りの人と関係することがない、工場でもそうであり働いている姿が見えない、それぞれが閉鎖した空間で互いに関係せず働いている。働いている姿が見えるのは介護とか福祉とか病院であるかここではどうしても人間と人間が向き合うからだ。看護師はその体をみるにしても密接に心にもふれあう。そこだけが違っている。


黒揚羽が夕べ二羽舞っている。それを見たら老夫婦のように見えた。夏の蝶でも他は鮮やかであるからこういうい句はできない、黒揚羽でも白い斑点があるのがありそれとも違う普通に見かける黒揚羽である。その白い斑点があるのとないのでも印象が違ってくるのだ。
夏雲雀や夏燕となると今年はにあっている。水田のない世界は北海道の広々とした原野を想像する。やっぱり北海道は一自然としては気持ちがいい、蒸し暑いとき避暑に行きたいけど行けない、自分はもうどこに旅できなくても文句は言えない、それだけ旅したからである。


自分のカメラではこの朝日や夕日がきれいにとれないのが問題だ。一眼レフは買ったが重くて使いにくかった。
自転車だと持ち運びに不便だった。今は写真なしではありえない、今回の津波の写真は我ながら貴重だった。
地元から発進できたことが良かった。アマゾンでは古本はここは六号線が途絶えたから配達されない、でも地震あっても
津波でも電気は通じていたからインタ-ネットもできた。本でもみんな電子本として買えればいいなと思う。
本はモノとして運ばねばならないからコストがかかりすどる。こうなる本当に不便になる。配達もされなくなる。
他の人も六号線が遮断された影響が大きいのである。いわき市は東京
つながっているから南相馬市のように不便になっていない、南相馬市は何か不運が重なった。それは自分のここ五年間の生活と同じだった。認知症になり家族はばらばらになり病気になり火事場泥棒にもあいとそういうことが同じように起こった。
つくづくこの不運は自分にしても回りにしても何なのだろうと思う。

2011年07月15日

擬宝珠(津波の跡は新しい名所になった)

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我が庭の石のかたえに擬宝珠の咲き静まりぬ朝の日陰に

我が一人母の介護す日陰なす石のかたえに擬宝珠の咲く


紫と白の菖蒲のここに咲きひそかに消えて事もなしかも


青々と津浪の跡に草茂り朝焼け映えて雲雀鳴くかも



盛岡の擬宝珠
http://taka-34.at.webry.info/200801/article_11.html


盛岡の擬宝珠が有名である。これは蕾の状態を模したものであった。盛岡は情緒ある街だった。川が街中を二つ流れて橋が多い。浮世絵のような情緒がある。東北では一番情緒ある街だからあういう街なら住んでみたい。仙台にはもう一つ情緒に欠けている。相馬市はそれなりに情緒があるのはやはり城下町だからである。そういう歴史的に形成されたものには何か残されているのだ。そういう歴史的なものは作り得ないものである。そこに歴史の重みがあるのだ。
でも相馬市に来てもどこが城下町なのかわからないだろう。城跡もなにもないから観光としては目をひかないし魅力あるとはならない、盛岡には盛岡城跡があるから違っている。擬宝珠の橋も他に京都くらいしかいから貴重なものである。


津浪の跡の風景も不思議である。湿地帯化して草原のようになっている。一方で津浪の被害のない田畑にも原発事故で休耕になり草がしげっているがその草は津浪の跡にしげっている草とも違っている。津浪の跡の草は湿地帯に繁る草かもしれない、田んぼは今乾燥しているからそこに繁っている草とは違っている。この草原に朝焼けが映える。こんな光景を見ていること自体不思議である。これは北海道の風景である。海岸沿いが湿地帯であり防波堤もない海岸がある。サロベツ原野とか広大な湿地帯と原初の海岸線がある。もともと日本はこういう光景であった。とにかく湿地帯が多くそこが田となってたのである。下駄は田下駄からはじまった。湿地帯用に作られたのが下駄だった。草原と湿地帯は違っている。草原は乾燥した地帯である。日本は湿潤だから湿地帯になる。


被害にあった人には申し訳ないけどこの津浪の後の光景はいくら見てもまだあきない、水田の風景とはあまりにも違っているからだ。自然自体が変化することなどありえない、そういう風景を毎日見ている不思議がある。いづれにしろ津浪の被害にあった所は元の状態に水田に戻すことは無理かもしれない、このまま湿地帯になったり磯部のように砂州にもどったりするとそこは北海道になる。太古の自然が復活するからこれはめずらしいから観光資源になる。伝説が生まれ新しい名所が生まれたのである。

貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


「二十六日 陸奥国で大地震。流光が昼のようにひかった。その時、人びとは鳴を上げ、伏したまま立つことができなかった。ある者は家が倒れて圧死し、ある者は地割れにのまれて埋まった。馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ、たちまち城下にまで達した。海から遠く離れていたが、言い表せないほど広大な土地が水に浸った。野原も道路もすべて海原となった。舟にも乗れず、山に登って逃げることもできず、溺れ死んだ者千ばかり、資産や農作物は、殆どのこること無し
馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・


これは作り話ではないし誰からか聞いた話でもない、実際に見た人が書き記したのだ。結構大きな城もあったのだ。
海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・これは今回の津浪と同じだった。
海口とあるから広い河口のような所からおしよせたのか雷のようなものが鳴ったというのは凄まじい音もしたのである。空恐ろしい光景だった。




朽ちのこる 野田の入江の ひとつばし 心細くも 身ぞふりにける
                                      夫木和歌集 平 政村
せきかくる 野田の入江の 澤水に 氷りて留まる 冬の浮き草


いずれも『末の松山』は、どんな津波をも越えることの出来ない、つまりありえないこと永久不変の象徴として、男女間の永遠の恋の理想とされてきたのである。


では実際に“末の松山”でそのような出来事があったのかというと、今から千年以上も昔の869年(貞観11年)多賀城で溺死者千人を超える大津波が襲来したようである。

しかし、小高い丘上の“末の松山”だけは波が越えなかったとの貞観津波の噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったとされている。


ところで“末の松山”の山麓南方100mには“沖の石”と呼ばれるもう一つの歌枕(地図参照)があり、百人一首にも二条院讃岐の次の歌
(1183年千載集)が載っている。


「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」即ち、私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ、他
人は知らないだろうが(涙に濡れて)乾く間もない・と歌っている。

つまり“沖の石”は引き潮でも海中にある石だったが、江戸時代以降は陸化された池の石として伊達藩によって保護(上写真)され、「守人」が置かれていたそうである。
http://blogs.yahoo.co.jp/hsm88452/42803702.html


http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/27528452.html



末の松山については詳しくインタ-ネットに出ている。城下にまで達したというその城下は今の多賀城跡なのか岩沼の岩隈跡なのか分かれている。今回の津浪が押し寄せた地点としては岩沼の岩隈跡だと本当に城下までおしよせていた。多賀城の下までは押し寄せてはいない、それでも当時の海は一キロ奥に入っていてそこから津浪が3キロも押し寄せたら距離は相当でてくる。いづれにしろ多賀城は海に近いところにあり海が見えたのである。江戸時代には松原ができるようになり海が見えにくくなった。江戸時代前は海は丸見えだった。それがわかったのは山元町や浜吉田でも海が近いから駅まで津浪が来ていた。新地でわずかに海が見えたから海が近いと常磐線からは意識する。ところが長年住んでも海が見えない浜吉田が海に近いから浜吉田と浜と意識することがなかった。人間はつくづくそうした景色を意識させられなくなっている。
多賀城の歌枕になった「末の松山」など関心をもてなかった。なぜなら今そこの場に立っても歌枕の景色が喪失しているから感じないのである。私は何回も仙台港から船にのった。その時多賀城からも中野栄駅からも下りて仙台港に行った。しかしあの辺りで歌枕となった地域の昔の景色を思い浮かべることは全くなかった。あの辺はそんな面影は全くない、工場地帯であり家も密集している。そこに津浪が押し寄せたのだ。多賀城駅にも津浪がおしよせた。工場地帯も押し寄せて津浪にのまれた。仙台港には石油のタンカ-があり燃えつづけた。津浪によって太古の昔の景色が蘇った。この歌ができたのは明かに貞観津浪の記憶から生まれた。つまりそれほど古いということに今更ながら驚くのだ。歌は単に風流というだけではない、史実の記録でもあった。


きみをおきて あだしこころをわがもたは やなよや
すえの松山波も越え、越えなむや
波も越えなむ


土地の風俗歌として歌われていたのを宮廷歌として整えた。これは万葉集の東歌と同じである。


池の沖の石には貝殻やフジツボの殻が目にとまった。(永野孫柳)


そこまで海だったことは確かである。末の松山とこの沖の石は600メ-トルくらい離れている。そこは坂を下った所にあるから沖の石は海に沈んでいたことが納得がいく。


わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし


これはまさに想像ではなく実際の景色から生まれた歌だった。こういう光景は今はどんなふうにしても思い浮かばない、住宅地や工場地帯に埋もれてしまっていたのだ。だからそこを一回も訪ねていないし興味もなかった。みちのくの歌枕の地をたずねてもそもそも当時の風景が消失したとき何の感懐もなくなる。あそこで常に意識したのは工場地帯の風景や倉庫群、石油のタンクとかだけであった。そしてそこには黒々と蟻の道ができているだけであった。情緒が全くない所だった。というこは今や人間もそうした情緒のないところで蟻のように働いているだけだともなる。


今回の津浪で沖の石までは津浪がきたが坂になった小高い末の松山には津浪はきてない、ここは大きな津浪でも目前にきても津浪が越せないような場でもあった。波越さじかも・・・というときこの松山までは波は越さなかったなという実感から生まれたのだ。短歌とか俳句は正岡子規の写生が基本だというときまさに本当に見たものからこそ実感の歌が作れる。本当に見なかったら作れないのだ。八沢浦が津浪で深い入江になったとき本当にそこに残った古歌を実感として鑑賞できた。そうでないと想像しただけでは実感できないことがいくらでもある。今回の津浪はそうした実感として千年前とかのことが眼前に現れたから驚いたのである。その実感からすると岩沼の岩隈に城下あったという新説は信憑性があるかもしれない、岩沼は本当に奥まで来ていた。街の一歩手前まできていた。意外と岩沼から名取と仙台も海に近かったのである。

海が見えないから海を意識しない、仙台の波分神社辺りで津浪が来ていたことがあった。とするともっと津浪は奥に来ていた。その頃内陸部に一キロ海が侵入していたからそのくらいの距離だから計算的にはあうのだ。過去にもここまで津浪が来たという証として神社が残された。そして遠見塚古墳もその近くにあった。遠見とは遠くを見る、海を見る、場所だった。海岸にある古墳はなんらか遠くの海を見るための場所だった。南相馬市の桜井古墳でもかなり高いから海が見える場所だった。その下まで津浪は来ていた。そういう昔の海岸線に貝塚が点在して縄文人が暮らしていたのである。


吉田東伍の研究論文
http://wind.ap.teacup.com/togo/html/aidai.pdf

posted by 老鶯 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係