2011年07月01日

南相馬市の深刻な医療崩壊 (南相馬市に住む不安がつのる)


南相馬市の深刻な医療崩壊
(南相馬市に住む不安がつのる)

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緊急時には、自力での避難が前提となりますので、自力での避難等が困難な状況にある方や、お子さん、要介護者、入院患者の方は、既にお伝えしているとおり、この区域に入らないようにお願いします。
教育機関に関しましても、指定された地域の保育所、幼稚園、小中学校および高校は、休園・休校とします。学業の継続等に関しましては、それぞれの市町村および教育委員会等からご説明します。



ところが5月23日現在、小学生は1343人、中学生は898人だけ。小学生は33%、中学生は46%しか残っていない。 市内の小児科医院の一つには原発事故前、患者が月1000人以上いたが、事故後は10分の1以下に減り、休診に追い込まれた。市内に子どもがいなくなったことが、大きく響いている。


産婦人科で現在も開業しているのは医院1カ所だけ。医院2カ所と市立総合病院、大町病院の産婦人科が休診している。

そうなれば南相馬市を離れて自活手段を見出す必要があります。そうなった時に南相馬市の人口が半減どころか1/3以下に減ってもさして驚くべき話ではないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20110610


 大町病院では震災前、医師12人を含む職員約200人がいたが、入院制限後は医師9人を含む約70人態勢に縮小した。入院にかかわる収入が7割を占めるため、多くが退職や休職に追い込まれ、残ったスタッフも医師の給与7割カットを始め、5月から70〜30%減給にした。看護部長の藤原珠世さん(52)は「みんな『地域医療を守る』という志だけで働いているが、職員の生活も崩壊寸前」と語る。(このあと多少回復している。)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110620-OYT1T00851.htm

 



お子さん、要介護者、入院患者の方は、既にお伝えしているとおり、この区域に入らないようにお願いします。


弱者は避難区域には住めない、緊急時に脱出できない、現実に最後まで介護している人は残った。脱出する力がない、子供がいなくなることはすでに市の未来を担う人がいなくなるということで崩壊していく、老人だけが残っても市町村は維持できない、放射能は子供に影響することが致命的にもなる。一見老人はさほど放射能の影響がないとししても家族に子供がいれば避難を考えざるを得ない、老人だけが残り若い人は出て行くということも起こっている。家族がばらばらになってしまう。

そして仕事がなくなっている。廃業が多くなっている。鹿島区を見るだけでも川又印刷所は地震で壊れた瓦礫が道に散乱したままでかたづけられないのだろうか?会社の人はどうしてしまったのか?廃業になっているのか?それにしても瓦礫くらいかたづけてもいいように思うが・・・・
橲原の風穴の湯はボイラ-が壊れ廃業になった。金子整形医院は廃業になった。近くの惣菜屋も廃業になった。原町でも廃業になっている所は多いはずだ。原町では工場とか会社も廃業化している、移転したりしている。どんどん人がいなくなってくる。市から人が出て行くばかりになる。

開業医も患者がいなくなれば収入もないのだからここでつづけることをあきらめるようになる。
看護師も職がなくなり外に出ていく、市が医療の面から崩壊してゆく、それとも政府により前に書いたように崩壊させられてしまうのか?飯館村は産業廃棄物場にされるとかいうのもそのためである。誰も人がいなくなれば産業廃棄物場に反対する人もいなくなるからだ。核の処理場にされるというのも同じである。市から出て他で生活するようになればそういう人は帰って来なくなる。人がいなくなれば奇妙だけど田んぼは荒れ地として放置されているが人がいなくなれば荒れ地のままであり耕す人もいなくなる。放射能の除染というのは簡単にはできない、とすると一年とかで農業が元にもどるとは思えない、飯館村は二年で帰ると言っているが二年が限度だとも言っている。二年ではとても放射能を取り除くことはできないだろう。こうしていろいろ考えると南相馬市の将来は悲観的になる。それも深刻なのである。飯館村も南相馬市より深刻である。南相馬市は緊急避難準備地域の指定が解除されれば人がもどってくるかもしれない、飯館村はなかなか解除されないだろう。そうすると実質的に村は崩壊する、なくなってしまう。

これは一時的なもので回復すると思っているが生活の足場が失われ若い人が帰ってこないとしたら市は成り立たなくなる。三陸では前にも何度も悲惨な津浪で被害を受けたが回復したのは豊かな漁場があったからだ。外からも人が入ってきて回復した。でも南相馬市にはそういうものはない、松川浦は漁港でも当分魚をとっても売れない、それほどの漁獲量でもなかった。

産業として残っているのは皮肉だが火力発電所である。ここは千人とか雇用している。東北電力の寮も建っている。だからこそ双葉町や楢葉町の町長は原発は必要だとしているのは現実的雇用がなくなっているからだ。相馬市にもあり相馬市はある程度まだ雇用の場が確保できる。南相馬市はできない、相馬市に会社を移している人もいる。南相馬市は市政自体が維持できなくなるのではないか?財政的にもそうであり医療が崩壊することは致命的になる。老人や病人すら移住することを考えざるをえなくなる。そうなると相馬市への移住を考える人がでてくる。南相馬市はなくなり相馬市になってしまうのか?何かそうした不安がここにいると募ってくる。安心させる要素がなくなってきている。それは医療や介護やその他教育などのサ-ビスでも保障できなくなる。そうなるとますますここに住みつづけることが不安になり人がでてゆく、マイナスの連鎖がつづく、そうしてここに人を住めなくするのが政府の目論見なのか?自主的に人がいなくなれば政府では保障する必要もない、人がいなくなったら核の処理場にすればいいとなる。緊急避難準備区域はそうした政府の何らかの意図で崩壊させられつつある。


緊急時避難準備地域の指定のままでも社会生活は立ち枯れていきます。そうなれば南相馬市を離れて自活手段を見出す必要があります。
そうなった時に南相馬市の人口が半減どころか1/3以下に減ってもさして驚くべき話ではないと思います


三分の一に人口が減ったら市政はもう成り立たない、相馬市に吸収されるのではないか、そして30キロ圏内は無人化されて政府の管轄に
なりそこは産業廃棄物や核の処理場になる。
最大の不安は子供を安心して育てられないということにあった。母親の不安も大きい、それが放射能の一番の大きな問題だった。老人は放射能の影響は少ないから住んでいいと言っても老人だけ残ったら姥捨山になってしまう。それもほっておけないから残った人に食料を運ぶ人がいて生きていられたからもう老人だけでも生き残れない、つまりどうしても無人化してゆくのだ。人が住めなくなってくるのだ。原発も冷温停止とかおさまれば人が帰ってくるだろうと楽観的に考える人もいるが放射能汚染は数年では除染できない、敏感な母親などは帰ってこないとなると家族も帰ってこない、生活の足場を他にもてばさらに帰ってこない、つまり市は崩壊して無人化してゆく、ただ東北電力の火力発電所は残るからそこが仕事の場であり千人以上の人は残るからその人たちが生活する場は残る。それでも南相馬市は市政は維持できないから相馬市に合併される。それでなんとか維持するほかなくなる。相馬市にしても松川浦がだめになったりいろいろ苦しい。六号線は遮断されているから仙台へとの宮城県とのつながりを深める。そして宮城県に編入されるかもしれない、福島市も不安定であり会津が中心の県になるのか、そうした変動状態にある。郡山市と福島市は東北への大動脈だからそこをつぶすことはない、

浜通りはつぶれても政府ではかまわないと判断しているのかもしれない、いわき市はまだ六号線でも常磐線でも開通して東京都と結びつくから南相馬市の事情とは違っている。南相馬市は今本当に苦しい土壇場にある。それぞれの場でそれぞれが苦しい立場に追い込まれる。
分断され崩壊させられつつある。

夏鶯(原町へ)

 
深々と真昼木陰や一軒家


原町の街中に鳴く夏鶯


狸の子道に出てたり夏の夕


影深き一本杉や親しかな我がまたよりぬ故郷の道


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに

田舎に離れた一軒家あるけどそれは贅沢なことである。一軒家は存在感がある。そんな家は田舎では普通にあるというけど都会では家はひしめきあっている。そういう中で木立に囲まれて影深い家はいかにも夏でも涼しい、ク-ラ-なんかもともといらないように風通しもいい。電気不足というとき都会では30度以上になると実際はそれに加えて5度くらいプラスして暑くなっている。人でも家でも車でも暑くなる。だから電気がいくちあってもたりないのである。ただ田舎でも皮肉なことに電気は都会以上に使っている。車も一人一台で都会より使っているからエネルギ-を効率的に使っているわけではない、ともかく回りに家のないような一軒家に住むことは相当な贅沢なのである。


原町というとレストランでもチェ-ン店でもやっていない、ふえたにしてもまだやっていない所も多い。原町は経済的にかなり縮小しただろう。街中に鶯が鳴いていたからそういう点では田舎である。帰り小島田辺りの六号線からはずれた道に狸がでてきた。狸の子だったのか小さかった。兎は前もみかけたけど狸が見かけない、なぜなら狸は夜行性だから薄暗くならないと出てこない、今日は薄暗くなっていたから出てきていた。田がなくなり雑草が生えて元の原野みたくなって動物が住みやすくなるということもある。白鷺などは水田と一体だったからいなくなった。

でも他の動物はふえるかもしれない,人がいなくなったら確実にふえる。野生の動物は人間を一番恐れている。その人がいなくなると動物天国になってしまうかもしれない、なぜならチェルノブエリでは狼までもどってきて野生の天国になった。飯館辺りでは猪が増えるというのも本当だろう。南相馬市で猪の駆除をしているという。これも金をかかってこまっているとか、田んぼ畑も作らないけど被害があるという。大原辺りにも猪がでていたと何度も聞いた。猪は自分は見たことない、猿はよくみかけるけど猪は見ない、猪はそんなに見えるものなのか?猪の肉はうまいという、飯館には猪の肉を出す料理店があった。そこの主人が猪が飯館村には増える。人がいなくなったら猪の天国になるのか?飯館はどうしても放射線量からすると二年くらいで帰れるとは思えない、そのうち元の森や原野にもどる。森が多かったから原始の森林にもどってしまうのだろうか?ともかく今この辺で起きていることはありえないことだし経験していないことだから何が起きるかわからない、自然でも人間でもそうである。


一本杉より一本松はよくみかける。今の感覚では神さびた・・と自然を見る人はない、それだけ人間は自然から離れて暮らすようになった。自然を神さびたものとして見ることがない、むしろ原発のようなも科学を神のようにみている。科学の力を崇拝している。そういう現代の生活が
原発事故を必然的に生み出したのである。科学は人間の作り出したものでありそれが万能だという意識を持つようになった。それが今回の事故につながった。自然と結びついた第一次産業を余りにも軽んじたためでもある。だから今度東京辺りが大地震になり食料も枯渇して東北に助けを求める。そういうことがすでに予期されていることを想像できた。近いうちに東京に大地震を襲うことは間違いないのだから、その観点からも今回の東北の大災害を見ておく必要があるのだ。つまり他人事にはならないのだ。その時東北のありがたみを身をもってしることになる。

2011年07月02日

女性、避難苦に自殺か 山木屋の自宅近くで焼死 (老人は住み慣れた土地を離れられない)


女性、避難苦に自殺か 山木屋の自宅近くで焼死
(老人は住み慣れた土地を離れられない)

今回の自殺は焼身自殺だとなると尋常じゃない、なぜそんな死に方を選んだだろう。よほどのことがない限りそんな死に方はしない、それも女性だから余計にそうである。これまでの自殺者は一人は須賀川で有機農業をしていた人が野菜が売れなくなると死んだ。
野菜農家の男性(64)、飯館村では102才の人が移るのが嫌で自殺した。あとは相馬市の玉野村では54才の男性が自殺した。山木屋で自殺した女性は58才だった。


102才、64才、58才、54才・・・高齢者が住み慣れた土地を離れるとなるなと苦しくなる。酪農して死んだ相馬の人はフィリンピン人の妻がいて子供がいて故国に帰られたことがショックが重なり死んだ。50代でも結構苦しくなる。大原の人も息子があとを継がない、市役所に勤めているから跡を継がない、5町あっても継がない、漁業関係でも高齢化であり跡を継ぐ人がいないということがすでに問題になっていた。津浪で死んだ人も6割は65才以上の高齢者だった。60以上になるともっと多くなる。第一次産業の問題は高齢化であり跡を継ぐ人がいない、それはさんざん言われてきた。そういう状況の中に津浪と原発事故が襲った。50以上になると移住してやり直すような気力がなくなっている。今までの継続したことをやるしかないしそれ意外なかなかできない、だから移住するとなると負担が大きすぎるのだ。つまりもうあきらめる人がでてくる。

そもそも農家は三代で農家になるとか林業でも50年で木が育つとか息が長いのが特徴なのである。代々土地に住んでいてこそ実りあるのが第一次産業なのだ。だからその土地から離れることは致命的なのである。山木屋辺りも代々そこに住んでいた人達が多いだろう。でもあそこは相馬から二本松への塩の道のル-トであり交通の要所だった。飯館から相馬へ原町へ三春へ二本松へゆく交差点、別れ道だった。それなりに交通の要所だったから集落ができたともいえる。


今回津浪であれ原発事故であれどれだけの被害者が出たかわかりにくい、在宅介護されている人が120人以上死んだのも高齢化を象徴している。高齢者はこうした災害に耐える力がない、それで自ら命を絶つ人がでてくる。山木屋にはコンビニもあり食堂もあった。それだけでも近くにあれば生活しやすくなる。それもなくなるから結果的に住めなくなってくる。コンビニも結構店がなくなったとき役立つものであった。山木屋となると二本松までも遠いし辺鄙な地域になるから何軒か残るというわけにはいかない、そこもまた無人化してゆく。あそこでも小中学校があったのだから子供もそれなりいた。だから子供のために移る人がでてくるからそれに高齢者もついてゆくほかなくなる。高齢者だけ残るわけにいかないのだ。 農家だとその土地や自然と一体化している。認知症を悪化させるのは環境の変化だというときまさに変化に耐えられないのだ。なじみの人や場所にいることが落ち着くのである。だからその土地を離れることは老人にとっては一番酷い仕打ちになったのである。


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに


このうよに苔むすまでにいつづける。それが田舎なのである。そして何かそこにいつづけ死ぬはまさにその土に還るというごとくその土地の霊ともなり先祖ともなる。死者が山の神になるというのもそのためだろう。そういう心性はなかなか変えることはできない、都会人の感覚とはかなり違っている。ただ都会でも高齢化しているのだ。団地も高齢化して問題になっている。高齢化問題は田舎も都会も同じなのである。田舎にとって長年住んだ所から離されることが一番酷いことだった。それが原発事故の酷さだった。


会津の昔話に「伊勢参りをした大欅」というのがある

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樹木にまつわる民話より(google book)


欅も一緒に伊勢参りしたという話である。つまりそれほどその欅と村人は一体化していたのだ。
長年住んでいる土地では木とも石とも一体化している。木も村人と離れがたくなっている。
そういうふうに長年、代々生活していた人にはその土地を離れることが一番辛いのである。
北海道に移住した人達が村の社を移したのもそのためである。今回はそうした開拓で移るのとは違う。無理やりに移動されるのだから死ぬ人でてくるのだ。


おれは移りたくねえ
ここにいつまでもいるんだ
ここで生きて死ぬんだ
放射能なんかしらねえ
ここから離れねえ
死んでも離れねえ


こういうことが怨念となりこの土地に伝えられるようになる。原発事故に対する恨みが延々と語られることになる。

posted by 老鶯 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月03日

二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)


二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)

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神さびてしじまの深く岩二つ動かざるかなものも言わずに


故郷に大岩二つ変わらずにありし重さよ時の長きに


大岩に朝清らかに鳥の音のひびき高鳴り風の涼しき


深々と木蔭影なす一軒家行く人まれに静まりけるかな



「ぎっしりと密で」の意味の古語に「しじに」という語があり,また「縮まる,引き締まる」の意味の古語に「しじまる」という語があります。これらの「しじ」が,「しじま」の「しじ」と同じものであると見なせば,「しじま」の大もとの意味は「唇を引き締めて口をギュッと閉じていること」ということになるでしょう
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/91134.html


しじまというと辺りが沈黙に支配されている感覚になる、この解説は納得がいく、大和言葉にはそもそも深い意味があって生まれた。他の言葉だったら沈黙とか静寂の意味しかない、ここまで深い意味があることを見出した。沈黙するとき唇をひきしめる。沈黙することが禅の修行だったように沈黙することは心を平安に導く、それは一つの訓練である。余りにも騒音社会になったとき自ら沈黙を作り出すことが必要になった。沈黙の中で事物も石でも樹でも神さびてくる。

現代はあまりにも自然からかけ離れた存在になった。そこから自然を無視する、全く人工的な世界に生きるようになった。その時自然の驚異的な力もないがしろにすることるなった。自然への畏れが喪失した。それが原発事故にもつながっていたのだ。だから原発をなくすにはこれまでの生活そのものを見直す必要があると気づいたのはそのためである。生活そのものを変えるというときやはりその根底の思想も変えざるをえない、結局江戸時代的生活に戻らざるをえないのだ。江戸時代に戻りたくない、そんなことは不可能だというがそうしなければまた原発事故は起こる。


例えばエネルギ-を消費しすぎる現代の原因は何かというとき動きすぎる生活にあった。余りにも広範囲に動くモバイルな生活があった。田舎で一人車一台もっているのも動く生活が基本になっているからだ。仮設住宅でもほとんどの人は車をもっている。車なしでは生活できないのが現代である。そのことはどうしてもエネルギ-を過剰に消費する社会なのである。江戸時代の一つの特徴が動かない生活だった。ほとんど小さな村とかの単位で動かない生活だった。それは江戸でも都会でも同じだったのである。長屋では一生その長屋で住んで死ぬような動かない生活だった。めまぐるしく変わる現代からみるとそれが想像できないがそういう小さな範囲で動かない生活だったのである。万葉集の時代などももちろん人は小さな地域から動かないで生活していた。大和(ヤマト)すら実際は狭い一地域の地名だったことでもわかる。


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに


回りの狭い範囲の自然を親しく見ていてそこが神さびたものと感じるようになった。現代の生活を文明を見直す時、明かに過剰にエネルギ-を消費するのは動きすぎることからそうなっている。その動く文明の代表が車なのである。今電気の節約だとか省エネだとかいろいろ言われるが動きすぎる文明を改めないとそもそも不可能に思える。旅ばかりして動いていた自分も言うのも変だが動きすぎることは深みあるものができない、一カ所に動かないことによって深みあるものができてくる。もちろん芭蕉のように「静けさや岩にしみ入る蝉の声」を作れたのは不思議である。なぜなら旅だとあわただしく過ぎてゆくことが多い、この句は一カ所に動かずに住んでいるような人しか作れない句である。それを可能にしたのはやはり江戸時代の沈黙社会があったからである。明治維新以来人はあまりにも動きすぎた、移動文明だった。グロ-バルに移動する文明だった。そういう文明はエネルギ-を膨大に消費する、それが原発を作ることにも通じていた。結局クリ-ンエネルギ-で補うというより減らすことが必要になる。それは江戸時代的生活と思想をとりもどすことにもなるのだ。この減らす生活も思想も必ず国家や会社やその他国民からも抵抗がある。でもそのことが今回のような原発事故につながる。減らさない限り原発は必要だとなり同じ災いをもたらすのである。

 
 

2011年07月04日

白い夾竹桃(相馬市の病院へ)



夾竹桃(相馬市の病院へ)

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老鶯の藪に鳴くかな城下町

相馬なる梅雨の日あわれ潜り石


夾竹桃の白き花散る昼下がり相馬の街歩み帰りぬ


夾竹桃の白き花散る城下町日傘をさして歩む女かな


昼下がり相馬の街や古き橋渡りて帰りぬ行く人まれに


塩地蔵いつもここにしありにける何を語るや我が帰るかな


古風なるホテルのありや相馬なる街角入りて夏の昼下がり

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正午を少し過ぎた昼下がりという言葉には、どこかけだるい雰囲気がただよいます。


相馬と原町はイメ-ジが相当違っている。原町は明治以降近代化して発展した街のイメ-ジがある。相馬市はもともと城下町としてあり古風な感じになる。市街もそんなに広がっていなかった。田町とか曲田となるのはそこが田であった所である。曲田という住所のふたばやホテルに
欧州レストランという所で食事した。駅前と下りからちょっと入った所のホテルでありわかりにくい、旅したからホテルはほかりにくいのだ。安ホテルばかり探していた旅だった。でも安いホテルを探すのは大変であり結果的には駅前通りのビジネスホテルに泊まることになる。ただちょっと入った所になると意外と他から来た人にはわからないから泊まりにくいということがある。相馬にも結構ホテルがあることがわかった。あの辺はもともと田町とか曲田とか田のことである。つまりいかに江戸時代の城下町といっても城の回りにのみ家がありその他は田だった。ほとんど回りは田だった。相馬総合病院の近くの新沼なども沼でありあそこまで津浪が来ていた。病院のすぐ近くだった。そもそも明治維新後に城のあったところは近代化が遅れ発展していないのだ。会津でも城のある所は商売しにくいからと喜多方が商売で発展した。喜多方とは北方だった。会津の北だから喜多方になった。相馬の南だから南相馬市になったと同じである。南相馬市立病院に一か月入院したときあそこは海まで見える眺めのいいところだった。ちょうど大原の山の方も見えて同じ病室に大原の人が入院していたのだ。

 


道を鍵形に曲げたり袋小路を設けるなどすることで、城への到達距離を延長した・・・
町の北と南の入口には土手を築いて「枡形」と呼ばれる城下町特有の道路形態をつくり、有事に備えた(相馬市中野)


相馬市は確かに城下町の雰囲気があるが他の人は城もないのだからわかりにくい、要するに六万石だから狭いのである。何故なら田町と曲
田でもそこはもともと田だった。城の回りにわずかに武家屋敷があり宇田川を渡り職人町とか商人町があった。現在の街の十分の一くらいなのである。これは他でもそうであり今からふりかえると大きく思えるから不思議である。ただ仙台辺りだと三百人町とか仙台駅の近くにあり同数の足軽が住んでいたことに由来とかある。

つまりそれだけ広い範囲が城下町だったとなる。その規模は十倍とか違っている。当然60万石となればそうなる。そして白石市に足軽まんじゅうというのが名物になっているのも伊達の行列は派手であり伊達物という言葉が生まれたように大人数を従えた派手な行列だった。実際は仙台藩は豪商などは少なく貧乏だった。威勢を張った行列だったのである。力がないからこそ貧乏だからこそ派手で力を誇示しようとした無理した結果だったというのはそしなのだろう。
そもそも相馬には足軽とかいたのかというと郷士がいてもそういう侍についている専門の従者はそんなにいなかった。郷士として農業をしていたのである。それだけ雇える経済力もなかった。
城下町の名残としては町の区画があり枡形とか路地や小路が多いとういことは細い路地が多く日陰になりやすいのが城下町であり何か日傘をさして歩くのがにあっている。


潜り石は六号線はバイパスの方向になっている。この地名は面白い、石には興味があるからこの地名の起こりが気になる。潜り石はくぐるであり石をくぐるという所は結構ある。他にもこの地名はある。

病院は混んでいた、50人以上来ていた。南相馬市から移っている人でも増えた。手術は三か月後だから余裕がある。悪性ではなかったらしい、癌はなかった。まあこれが死につながるような病気ではない、でも60代でも毎日新聞の死亡欄を見ていると一人は死んでいる。たいがい癌なのである。すでに10人一人は死んでいる。同教生のクラスが40人として4人は60代で死んでいる。数としては少ないようでも10人一人死ぬことは結構多い感じもするのだ。70代になると倍は死んでいる。


夾竹桃は西表島のジャングルで自生しているのを見た。熱帯の花だった。やはり白い花だった。これも相馬市にあっていた。

欧州レストランのランチの刺身定食は結構いい、お得である。自分はまともな食事していないから外食の方がいい、食事用意するだけで手間なのである。用意して洗ったりしていたら手間なのだ。プログ書くだけでも時間がかかる。なんとか書けているのはプログだからちょっとの暇でなんとか書けるからである。小説みたくなると書けない、俳句短歌だったら仕事の暇にまだ書けるのである。

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奥州レストランで売っていた震災孤児への寄付のための缶のバッジである。
これはどこでも売っていた。相馬市とかで震災孤児がどれくらい出たのだろうか?
結構寄附金は集った、これも一つのアイデアである。値段はない、千円で買った。
寄附金だから金のある人はそれ相応に出すというのが寄附金である。でも安く買うとまずい感じもした。それしか出さないのかと
見られてしまうのも嫌になるというのも問題だった。寄附金には常に何らかの問題がまとわりついているのだ。

相馬の荒寥とした原初の風景 (津浪で再現された原初の松川浦)

相馬の荒寥とした原初の風景
(津浪で再現された原初の松川浦)


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北山八景で歌われていた



山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里


高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月


中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風
http://musubu2.sblo.jp/archives/200912-1.html


この中で「山上春霞」は地名として山上に紙漉き沢とか残っているからそういう冷たい清水が流れる所だった。今でもその地形は変わらず昔を偲べる。高松というのも今も変わらない淋しい場所である。今は墓所になっていた。墓地にふさわしい場所だった。
そして想像できなくなったのが中野飛雪である。こんな淋しい所だったのか?枡形があるということは城下町への入り口でありにぎやかに思えるがそうではなかった。人がほとんど通らない道だった。街道の道でもそうだった。江戸時代とはそういう城があってもそれだけ淋しい場所だった。夜だったら物音一つ聞こえないのである。冬だったら雪がふったりしたらひとっこ一人も見えない世界なのである。まるで道があっても原野と等しい世界だった。城だってしんみりとして冬籠もりであった。そういう世界は今になると想像しにくいのだ。人が絶えるなどありえない世界である。20キロ圏内とか飯館村とか避難した村はゴ-ストタウンになりそれとにたものになった。江戸時代は例え人が住んでいてもいかに淋しい世界だったか現代からは想像がつかないのだ。


磯部漁火
・・・・とかなると今になると一軒の家もなくなったから原始の砂州にもどったから江戸時代を偲べる風景ともなる。松川浦だって磯部だって家は少ないし淋しい世界だったのである。もちろんあんなに旅館などない、荒寥とした風景である。津浪で松川浦は磯辺辺りまで広大に広がる浦だった。それが再現されたから驚いた。松川浦は今の浦の何倍もの広さだった。広大な海が迫っていた。火力発電所の辺りは新沼とかありあの辺は低湿地帯であり津浪は六号線まで迫っていた。あういう低い土地は他にもあり危険だった。原釜でもちょっと高いところにあった家は残ったのである。その差が大きかった。磯部には一軒の家も残らなかった。ポンペイの跡である。不遜かもしれないが結局もう再建するよりそこをポンペイの跡のような記念公園にでもするほかないのかもしれない、そしてその悲劇が語り継がれる。再建できなくなったような場所になったところが今回の津浪ではあった。そこは悲劇の場所であり伝説の場所ともなった。松川浦は旅館はやがて再建される。そして磯部は悲劇の村として誰しもたずねる場所となる。砂だけの世界になってしまった。北海道にはそういうまだ原野と砂の海岸が広々と長く残っている。それと同じだった。


津浪はまず原釜方面から松浦大橋のすぐ下まで押しよせ尾浜方向に押し寄せた。その時まともに波を受けた原釜は被害が大きかった。それでも高台の家は残っていた。新沼方面は土地が低くこれも被害が大きかった。そして尾浜は低い丘がありそれが津浪の衝撃を和らげた。
それで家はなんとか残っていた。ところが海岸方面から白い波が吹き上がりおしよせてきた。
結局尾浜辺りは二つの津浪に襲われたことなる。海岸方面から松川浦大橋を渡り灯台のあるところから磯部へ向かう海岸線におしよせた波を凄いものがあった。その波により磯部は全滅した。尾浜のような少しでも小高い丘が連なっているだけでも津浪の衝撃を和らげることができたのである。


松川浦はもともと柏崎とあるごとく崎はまさに海の崎だった。そして磯部は長い砂州だったことが判明した。柏崎に広がった海も広大だった。それは今も六号線から見える。あれだけの広い土地を埋め立てて田にしたのである。まさに原始時代そのものの光景が現出した。


松川浦広々として満たす水春の夕陽の輝き落ちぬ


これもなんと表現ししていいかわからなかった。ただ一回しか見ていないのが残念だった。ただ今でも水がたまると柏崎から磯部辺りは大きな湖になっているのだ。湖をウミと言ったのはわかる。それから湖-ミズウミとしたのは水は潮水が淡水化した海になったからだろう。こういう風景は北海道には今でも残っている。広い海跡湖が残っている。サロマ湖などと酷似している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%9E%E6%B9%96



松川浦に押し寄せた津波
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top305-movie02&s=324&y=&rel=m&g=phl

サケは成熟すると、また海水じゃ生きられない体になるそうだ。
仮に帰るべき川が無くなってたとしても、そのまま海に居続けると死んじゃうから、
仕方なく近くの他の川に遡ぼるんじゃないかと言われてるみたい。


オショロコマは北海道でも降海型は殆どいません。しかし、同じ系統で西欧に住むアルプスイワナはその殆どが降海します。これはオショロコマ類の生息南限に北海道が当たっているからです。 

 


海と川の交わる所に生物の進化のドラマがあった。それは何億年の生物のドラマであり神秘である。その謎は解きあかされていない、生物の神秘は本当は謎が多く神秘として残されているのだ。何でもわかったように科学が錯覚させられているだけである。カワイルカなども大陸の大きな河だとそこが海のようになるから残って海に出なくなった。そういうことは想像できる。川の魚には海と河の淡水化した河に住んでも海が故郷だから海に降るのである。


人間は最初海の近くには住んでいない、それは小高の縄文時代でも説明した。海側から引いた土地で狩りと採集で生活していた。だから
ドングリとかクリは硬いものの意味でありグリグリというのも縄文言葉である。ハマグリは浜の石ということでもわかる。グリはもともとは石のことだった。陸から生活がはじまり海に向かった。他の生物は海から上がり陸に向かった。その道が河だったのである。アイヌの生活は川上に上ることが優先された。だから川上が頭になり川下は尻になる。
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川はそもそも下るものではない、溯ってゆくのが川であった。上へ上へさかのぼってゆくのが川であり川は原始の道だった。実際に和名抄に川道郷があったから川は道としてとらえていたのだ。それが一番示しているのがアイヌの言葉である。アイヌ語では川口は尻であり川上が頭である。川は上ってゆくものであり下ってゆくものではない、それは人がまず川を上っていった。川を上ってゆく暮らしをしていたからだ。日本の下は川下は湿地帯であり虫や蟹や蛇などがうじゃうじゃいてバイ菌もでて住みにくかったのだ。これは外国でも地中海辺りでも最初の住居は高台にできたことでもわかる。平地はかえって住みにくかったのだ。邪馬台国(やまだいこく)というのも高台にあった。ダイとは高いところだからだ。稲作は水が良くないといい米がとれないからアガタから山田とか小山田とかがいい米のとれる場所だった。


邪馬台国(やまだいこく)
とは湿地帯が多い日本の地形の中で高台にあった国ということである。今にしてみたら津浪でそのことが明確化された。低い場所は津浪で海になったからである。
人は台に高台に住んだ。鹿島区の台田中もそうでありそこに中世の城があった。その回りは湿地帯であり現実に津浪で近くまで海になったことでもわかる。最初の国は高台に作られたのである。
http://www.musubu.jp/kashimakayanazo7.htm


 

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2011年07月05日

南相馬市仮設住宅位置図(鹿島区)

 

南相馬市仮設住宅位置図(鹿島区)

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鹿島中学校に出る道(上真野川の側)

ここは200戸だから一番規模が大きい。

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地元の庄司建設などが請け負う
他も地元である。

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小池の一番離れた所゛家の造りがいい、屋根が普通の家のようになっている
ここは半分くらい入っているみたい

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六号線-千倉のグランド(鹿島小学校の近く)

ここも三分の一くらい入ってきた、ほとんど小高の人である。

犬を飼えることが他と違っている


千倉は犬専用
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=46572358


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桜平山の下(寺内)

ス-パ-キクチに一番近い

ここだけは満員



あとは角河原にあるらしいからみておこう


桜平山の下の寺内の仮設住宅はほぼ満員である。六号線の鹿島小学校の近くのグランド、野球場は三割くらい入っている。西町は一割くらいで最近入っている。小池の一番町から離れた仮設も半分以上入っている。

建設中なのは上真野川の鹿島中学校へ出る道に建てられた仮設は庄司建設や地元の会社が三つほど請け負っている。ここは2百戸だから一番数も多く敷地が広い。真ん中の広い空間に集会所が建つ、浪江の会社も来ているなど地元で請け負っているから仕事を与えられた。
部屋は二部屋が普通であり三部屋のもある。子供がいる5人くらいの家族だと三部屋くらい必要になるだろう。そういう家族もいた。やはり狭いと感じるのはどうにもならない、仮設だからぜいたくはいえないとなる。

小池の一番離れた地点の仮設は屋根の傾きが大きく家らしい、あとは平たい屋根である。
請け負った会社によって仮設は違っている。千倉や西町は東海リ-スとか大阪から来ていたし
働き手がたりないと青森からも来ていた。


鹿島中学校へ出る所の仮設は工事中であり時間がかかる。あとは完成して入れる。立地としては今はス-パ-キクチが食料品を売っているので頼りであるから近い方がいい、桜平山の下の仮設はすぐ近くだから歩いても行ける。一番離れた小池の仮設は車がないと買物もできない、たいがい車をもっている。仮設でも今は車がないと生活できない時代である。三陸の方とか宮城県では離れた所に仮設を建てて買物に不便だとか困っていた。


一番便利なのは仙台の長町の開発しようとした駅前である。仙台は人口の移動が激しく集中して部屋を借りるのはできなくなっている。人口の移動が起きている。鹿島区にも相当な人口が移動している。




仮設住宅3100軒ほどの申し込みがありますけれども、何度言っても、国は30キロ圏外にしか許しておりません
最初は 505 戸、次に 405 戸、次に 170 戸、そして今、1605 戸まで、ようやく鹿島区で建てる場所をわれわれが見つけて、申し入れしておりますけれど、残念ながら、希望に沿うだけの戸数は、30 キロ圏外の鹿島区では建てることはできません。原町区に建ててくれと申し上げていますが、認めておりません。


桜井市長の報告
http://www.jca.apc.org/labornow/sakurai20110612.pdf

 


3100軒申し込みがあって1605戸を鹿島区に建てる、鹿島区でたりないから相馬市や新地まで適地を探したがうまくいかない、こんなに必要なことに驚く。立入禁止区域になった小高区が無人になり人口流出したことが南相馬市では大きい。一万人以上が避難した。全国に避難した。それでこれだけの仮設住宅が必要になった。


立地が悪い仮設住宅(小池の一部)(感じがいいのは角河原)
http://musubu2.sblo.jp/article/46950569.html

鹿島区の仮設住宅はこれで全部だと思う。
建設中なのは二百戸と大規模なのがまだ残されている。
あとは入居者も徐々に増えている
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2011年07月06日

南相馬市仮設住宅(鹿島区千倉校庭)は犬専用


南相馬市仮設住宅(鹿島区千倉校庭)は犬専用

千倉の鹿島小学校の近く六号線沿いの仮設住宅は「犬専用」だった。その犬も小さい犬と大きい犬に分かれている。住む場所が違っている。やたら犬が多いと思ったら犬をここでは飼える。今は犬とか猫を飼っている人が多い。だからペットの問題は大きな問題になる。

千倉で問題になっていたのは仮設住宅の間に雨で水がたまっていたことである。その水がはねたりして困っていた。砂利をしいてくれと役所の人に頼んでいた。ここに入ったのは小高の人である。ともかく小高の人がどこでも多いのはわかる。一万以上の人が立入禁止区域になり避難したのだから数が多いのだ。相馬市では避難していた人達は津浪の被害にあった人である。でも南相馬市では原発事故で避難させられた人がずっと多いのだ。それでなければ3000戸もの仮設は必要ない、小高区の人を収容するにはそれくらい必要になる。合併していいことはなかったというのは良くきく話しである。きめ細かな対応ができない、いろいろな要求が身近な問題に対応できないことはある。小高区だけを考えるわけにもいかないからだ。小高区の人は温泉に避難していたから良かったなとか言っていた。でもここは気楽だとかも言っていた。

原発で避難した人は津浪で避難した人とは違う,車も流されていないから車をもっている人が多い。ここでは自転車を買う人が増えてゆく。そうなると自転車屋ももうかるかもしれない、何しろ人口が何千人と一挙に増えるからだ。鹿島区はいろいろなものがたりないしょぼい町である。それにス-パ-が食料品を販売しているのがス-パ-キクチしかなくなった。それで人口も増えたのだから混雑する。

小高でも鹿島は近くでも地理にうとくなる。真野はどのへんだというけどそれは広い範囲のことであり上真野となれば山の方になる。それでも近い方がいいから南相馬市内に移りたいとなり今仮設は鹿島区にしか建てられない、相馬市や新地の方にも建てられるが土地を確保するのがむずかしい。ともかく3000戸も必要だということ自体、用意するのが容易ではないことがわかる。3000として×3にしたら一万近くの人口になるかもしれない、それだけの人口が一挙に増えることの影響は大きい。ス-パ-一軒ではたりない、鹿島区にはチェ-ンのレストランなど一軒もないから困る。みんな車をもっているから他に行けるからいいがそれでも近くにないと困るものはあるだろう。


東北地方ではこの仮設住宅がどこにでも建っていて目立つ、それが今回の一つの大きな変わった現象である。千倉の校庭ではかり人が入ってにぎやかになってきた。他でも次々に人が入ってくる。それでも入らない人がいて空いているという、老人が多いというのも特徴である。
へたすると老人施設になりかねないのが今回の特徴でもあった。ともかく千倉でも人で一杯になるといろいろ影響がある。金も使うからそれだけ経済効果もある。原発事故で避難している人は自宅が流されたわけでもない車も流されていない、それなりに財産をもっている人達である。だから津浪の被害にあった人達とは違っている。余裕あるとも言える。だから温泉旅館の方が良かったともなる。話した人は鹿島区に知り合いも多いからとかなんらかつながりがある人が多いからいいとは言っていた。会津の方になるとないからその点は気を使うと言っていたのだろう。

それから赤十字社の人が何人か来ていた。電気製品などを入れるためである。
赤十字社に寄付したことがあっても具体的に赤十字社の人に会うことはない、今回はそうして援助する人に直接会うことが違っている。

posted by 老鶯 at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年07月07日

復興大臣-松本龍は世良 修蔵か (踏みにじられた東北の歴史)


復興大臣-松本龍は世良修蔵
(踏みにじられた東北の歴史)

●東北人が踏みにじられた戊辰戦争


大東亜戦争以来六十年は動乱を経験していない、動乱とは何かわからない、戦争を経験した人は知っている。戦後生まれの人は社会がこれだけ動乱になることは経験していない、でも動乱は常に歴史にはあった。明治維新がそうでありこれは最大の日本の動乱だった。その時何が起こったのか、東北の最大の動乱だった。錦の御旗をふりかざして官軍が東北の地に攻めのぼってきた。東北はその時同盟して抵抗しようとしたが果たせなかった。相馬藩はいち早く官軍に降った。そして仙台藩と丸森で戦うはめになったのである。この時も東北の諸藩は混乱状態におちいった。三春藩は裏切ったとか会津は最後まで戦い敗れて焼け野原にされて敗残の兵は青森の荒野に等しい下北半島に追われた。そういう悲惨な歴史が何度も会津では語られている。



相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/info/boshin.htm


百人くらい相馬藩士が死んだ。農兵も十二人いた。仙台藩は大藩だったけど見かけ倒しであり西の進んだ装備の西洋式軍隊に敗れた。こういう動乱のとき少年兵までが狩り出される。会津白虎隊とか二本松少年兵がそうであった。装備がないから肉弾戦で最前線と戦わされ討ち死にした。戦争中の特攻隊である。ぎりぎりになればやはり日本は特攻隊になる。
そして貞観津浪があったときも大和朝廷軍に蝦夷(エミシ)が踏みにじられたときであった。それはおそらく大和朝廷から使わされた人々も津浪にのまれ死んだ。多賀城市の被害も大きかった。この時も動乱の時代だった。動乱は天変地異とともに起きてくる。津浪は東北に日本に動乱をもたらしたのである。東北列藩同盟などが騒がれたが今も東北は一致団結すべき時でもある。


●復興大臣-松本龍は世良 修蔵


仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、
参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に
威張っている。しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか
500名である。それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に
命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、
元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊が
あり、その中で出世したのだというが、そういうものが
公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか
「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。


こういうとき政府から使わされた復興大臣が松本龍でありまるでごとき暴言を吐いて息巻いた。政府の力を見せつけるように宮城県知事に向かった。そのニュ-スを東北放送はあえて放送した。やはり東北の意地をみせつけたのか?東北は今明治維新の時のように受難の時なのである。だからの世良 修蔵ような人物が東北に乗り込んできた。そして言いたい放題ということである。明治維新の時も九州辺りからもこの相馬藩で戦い死んだ武士がいる。その墓が祀られていて福岡辺りから来た人が感心して語っている。敵なのに墓として祀っているということである。この時の動乱は侍だけではない庶民もまきこんでいた。遊女が薩長に体を売ったとか会津藩に殺されたりした。

白河は一時会津藩に占領される。世良とほんの一時過ごしたというだけで、志げ女は、世良を憎んでいた会津藩兵により、殺害される運命となった。
戦争とはこういうものだろう。遊女は当時の政治のことなどわからない、会津藩もそういうとき血に飢えていたのかもしれない,理性を失っているのだ。動乱ということはそういうことである。


●戊辰戦争に負けた東北への酷い仕打ち


東北は常に踏みにじられてきた。蝦夷(えみし)の時代からそうである。鎌倉時代も鎌倉幕府に平泉の藤原政権は敗れた。明治維新でも会津は悲惨であり薩長に踏みにじられた。その無念は延々と語り続けられる。「白河以北一山百文」というのもそうである。だから松本防災相の暴言はまさにそのことを想起させたのだ。それも弱いとき苦しんでいるときそういう言葉を良く吐けるものである。今ままでのような平和な時代でないから動乱の時代だからそういうことも起きてきた。動乱の時代だから何が起きるかわからいない、そしてこういうとき情報が混乱するのだ。

志げ女はそうした時代の犠牲者だった。原発事故でもそうした犠牲者がすでに何人かでている。福島県で礼儀正しく対応したのになぜ宮城県ではあんな不遜な対応になったのか真意がわからなくなる。東北人をさかなでするようなわざと怒らせるような暴言をはいた。復興に熱心だったという裏返しなのかその真意が計りにくい、動乱の時代にはそういう人もでてくる。


津浪であれ原発事故であれこれだけ東北人が呻吟している時はない、 歴史はくりかえすというときこれもそうだったのかもれない、世羅修三の再来だったとなる。24才くらいだからその任にあたるのがむずかしかった。でもそのくらの年の人が明治維新を成し遂げた。若さがないととても生死を賭けてやれない、自分も年だからこうした動乱にはやはり若者が活躍すべきだと思う。老人はやはり動乱に弱い、だから避難して死んだ老人の数は百人以上よりかなり多い。動乱のときは強力な指導者が必要になる。つまり英雄がててくる必要がある。優秀な指導者に指揮されないと民衆は前の戦争のようにひどい目にあう、それが民主主義ではできにくい、結果として自ら民衆が苦しむことになる。
明治維新では英雄が多数排出したように動乱の時代はそういう傑出した人が要求されるからである。

東北列藩同盟というときそういうことも必要になる。東北全体で復興で取り組むとするとそういう一体感が必要になる。動乱の時は平和時にないことが次々と起こる。互いの連帯や共同も起きてくる。それは各地に避難した人たちも体験した。これだけ大勢の人間が移動したということを経験していない、南相馬市の鹿島区でも人口が一挙に5000人とか増えるかもしれない、これだけ人口が増えることの影響が大きい、他の津浪被害を受けた所も大勢の人の移動が起きている。仙台ではアパ-トも借りられない状態になっている。仙台には人が集中しやすいのである。

 
 


 

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BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て


BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て

今回のNHKの番組は興味深かった。明治維新や戊辰戦争のことは良くわかっていない。会津では落城のさい資料を全部燃やしたというのも確かな証拠が消失した。その証拠の一つとしてドイツ-ビスマルク時代のプロイセンの資料が残っていた。プロイセンに北海道を植民地として会津と庄内藩が売り渡そうとしていた。目的は武器を手に入れるためであり薩摩長州軍に対抗するためだった。スネルは武器商人であり会津藩と接近した。それは日本が幕末に欧米列強に分割統治されるような危機にあった。それで攘夷運動が起こり外国人排撃が起こった。佐幕派も起こり勤皇派も起こりと混乱する。ここから日本の歴史は世界の歴史の中に参入した。そのことが後の大東亜戦争に通じていた。なぜなら高杉晋作は上海に言って中国の惨状を実際に見聞した。中国は欧米列強に食い物にされていた。分割統治されていた。日本も中国と同じにされると危機感をもったのである。阿片戦争もそうだった。中国はその後も欧米列強やあとで日本も参入することになった。世界の権益争いが中国で起こったのである。明治維新からの富国強兵とか欧米列強に対抗するという国造りは大東亜戦争までつづいたのである。そのはじまりが明治維新の時の戊辰戦争にあった。日本が中国のように欧米列強に食い物にされるという危機感が出発点でありそれは大東亜戦争までその根底に流れていた。だから今でも大東亜戦争を肯定する右派は欧米の植民地からアジアを解放する戦争だと理由づけている。


プロイセン人武器商人シュネルという武器商人が会津藩と接近したのも欧米列強との特にフランスとの対抗意識だった。実際にヨ-ロッパではフランスと争っていた。それは韓国の百済派と新羅派が日本で争ったという説が古代にあるようににている。明かに明治維新の時もそういうことが起きた。先進文化が欧米にあり特に武器は進んでいた。それで長岡藩の河井継之助が・ガットリング銃を買って薩長軍に抵抗できた。そして会津藩は山国の閉鎖された国際性のない藩だとされていたが実際は国際的視野をもっていた。プロイセンと外交交渉して薩長軍に抵抗しようとしていた。本当にこれは意外である。確かにロ-カリズムであり会津藩は遅れをとったということが言われてきた。今回の番組では会津藩は国際的視野をもって薩長軍に対抗していた。それがプロイセンと組んで薩長軍に対抗することだった。その説明が興味深いものだった。


ドイツ人のという人が北海道開拓に最初に入った人だったことも知らなかった。北海道の産物はドイツの食卓と同じだった。ジャガイモを主食としたものや麦はパンとビ-ルでありとかその食生活は酷似していた。北海道は日本では米作りできないから不毛の地と見ていたがドイツ人だった
アイルランドは牧畜やジャガイモ栽培では適地と見ていた。北海道産のジャガイモは男爵とかうまいものがある。ジャガイモは寒冷地に適していた。イギリスでもドイツでも寒い地域なのである。だからこそアイルランドではジャガイモ飢饉が起きた。ジャガイモばかり作って飢饉になったのだ。北海道の良さを見出したのは最初は外国人だった。アメリカのクラ-クはそのあとに入ってきた。その後も会津藩の人がアメリカに開拓のために移住していたことは驚きである。

ゲルトナ-ががワカマツコロニ-を作っていたが風土にあわずもっていった種が水不足で実らないなど失敗した。 湿潤の地の日本とは風土が違っていた。満州でも米を作ろうとしたように日本人はどこまでも米を作ろうとする発想になる。米にこだわるが欧米は米は念頭に全くない牧畜が主流だから発想が根本的に違っていたのだ。北海道にも田はあるけど異質な感じになる。北海道の風土には田はあっていないのだ。一面に咲いているジャガイモ畑の花がにあっているのだ。


蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。

これは面白い指摘である。日本を旅してキャンプして野宿することはめんどうである。誰かの土地に田か畑でも誰でもない土地はないのだ。北海道を旅して便利なのはキャンプする場がある。今は誰でもない土地ではないにしろそういう場所が比較的見つかりやすい、キャンプ場以外でもそうい場所がまだある。


明治維新と大東亜戦争は底流でつながっていた。欧米列強に対する対抗心が日本ではつづいていた。それが中国の権益争いとなり戦争に突入した。だから今でもアジアの植民地解放戦争だったとしている。それは明治維新の攘夷の思想がつづいていたためである。明治維新を見れば大東亜戦争も予測できたかもしれない、そういう大きな歴史の流れがつづいていたからである。欧米列強に対抗しようとしたとき背伸びをしなければならない、それが大東亜戦争の敗北に通じていた。今はヨ-ロッパは衰退して中国が大国化するときアメリカと連合を計る。でも中国が巨大化するとその圧力に日本は苦しむ。そういう大国との狭間で苦しむのは世界の歴史ではある。小国は分断され苦しめられるのだ。日本もまたそういう歴史の苦しみを経験したのである。これからもやはりそういう立場にあり今度は中国やロシアやアメリカの圧力に苦しむ。


会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画
http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9b41.html


これを読むと会津藩と庄内藩は藩意識が強すぎた。自分たちの藩ばかりを死守しようとしていた。それは明治維新の時は藩が国だったのだから藩という意識からぬけだせなかった。日本という大きな国の視野にたつことができなかった。北海道は会津藩とか庄内藩があづかったものでその藩のものではない、日本のものだったけどそういう意識がなかった。
明治維新を規定すれば藩なくすこと、侍の身分をなくすこと、この二代改革のための革命だった。だからこそ藩と侍身分を残そうとした西郷隆盛が率いる西南戦争が起きたのである。その時国民軍として加担したのが会津藩士だったということでもわかる。会津藩士も結局は侍身分を会津藩ということを捨てて日本国民軍として戦った。薩摩長州に対抗するという意識はその時なくなっていた。薩長に踏みにじられた会津藩士だから復讐の念があったというより国民軍として戦ったのである。

会津藩のヒロイズムは会津藩だけにとどまるもので日本全体を視野に入れたものではなかった。会津はただ薩長にふみにじられたとういい怨念だけでは歴史は語れない、何故なら西郷の西南戦争もやはり侍や藩を維持しようとするものと侍や藩をなくそうとするものの戦いになったからである。つまりロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムとはならない、そういう問題は国と地方の政治とかでも常に起きているし東北の復興問題でも起きているのだ。
 
 
 武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)
 http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#weapon