2011年06月21日

相馬市の総合病院での検査二日入院終わる


相馬市の総合病院での検査二日入院終わる




路地多く日陰の多し城下町


相馬なる古りし橋渡り病院へなじみ歩みぬ夏の午後かな


病院へ坂を上りて暑き日や介護人なく我が一人来ぬ


看護師の若きは生きむ故郷に溌剌として夏の夕暮


病院の窓辺の森に風そよぎ若き看護師の声のひびけり


若き日に相馬に住むと老人の昔を語り時鳥鳴く


相馬なる木陰の道に竹の子の伸びて退院し吾はなお生きむ


相馬なる木陰の道を我が歩み親しみけるや路地の多しも


二色の菖蒲をしとと雨ぬらし夕べとなりぬ事もなきしに



相馬総合病院に二日の検査入院だった。二階は泌尿科の入院者がほとんどたった。それも前立腺がほとんどである。隣の人も鹿島の人で同じ年でそうだった。70くらいになると誰もがなるけど自分と同じくらいの年でもなるひとがいる。この病気はそれほど苦しいというのではないけどそれなりに病気であり日常生活に不都合ができてくる。今回は検査だけどこの次は手術になると大変である。こういうとき誰も介護する人がいないというとき結婚していな人や身寄りない人がどれだけ大変になるか身をもってしった。自分が頼った人間がどんな人だったか。それは信じられない人だった。強盗にでも頼った同じだった。身寄りがない金だけしか関係もてないから弱さにつけこんでみぐるみはがされる。今結婚しない人が増えているけど身寄りがないことがどういう結果になるかそれは空恐ろしいことになるということを自覚できないのである。そういう人が増えつつあるから近未来の地獄図が待っている。誰も看取るものかなく死んでゆくということがほとんど日常的になることは間違いない。病気になっても夫婦や家族のように介護してくれる人はいない、軽い病気でもそうであり重い病気なったら悲惨すぎるから早め死んだ方がいいとなる。

病院とは縁あることになった。病院に行くとほんとんど老人だけとその中に看護婦の若い声がひびくのが違っている。そこで最近原発事故のことやらで故郷がなくなるということが現実化していることに毎日考えさせられる。故郷に生きようとしているのは若い人である。老人ではない、看護婦でも看護師でも同じである。その人たちは別に病院だけで生きるのではない、故郷という場の中に生きてゆく。故郷となると何なのか?そんな疑問が故郷を本当になくなるということで考える人がでてくる。故郷には人の恩もあるが土地の恩もあると雅子様に説教していた人のことが書いてあった。それは故郷への深い思いがあるからそういう言葉が出てきたのだろう。

他にも故郷の思いを語る人がテレビにも出て語る。平和な日々がつづいていたらそんなこと当たり前であり自覚もしなかったろう。そういうことを深く考えるようになったのは故郷を離れ避難して帰れなくなるというそうした重い現実が一庶民でも哲学者のような言葉を語らせた。

郷土史研究などしていたから故郷は何なのだろう。故郷そもそも意識している生きている人はなかった。啄木が望郷の歌を残したのは故郷を離れたからであり故郷に住んでいれば望郷などない、今になる本当に庶民レベルで相馬恋しやなつかしやとなっているから不思議である。
けれども老人はそういう思いをもっていてもこれから生きる若い人は故郷に特別生きたいと思うだろうか?故郷から受け継ぐものは何なのだろうかと思うだろう。野馬追いをやりたいからとか思う人も年取った人に多い。若者も何度か出ているうちにそういう思いが深まってくる。故郷から受け継ぐものは何なのだろうか?そういう何か根源的な問いが今回の原発事故で故郷を避難した人達に生まれたのである。


人間は今本当に歩かない、歩かないということは何か、歩いて見えるものを知らないということである。自分自身も自転車だから歩いていない、歩いて感じる景色と自転車で通りすぎる景色と車で通りすぎる感じるものが相当違っている。相馬市を歩いたことは最近ない、自転車で通りすぎるだけである。病院にゆく道に古い橋があることは知っていた。何度も渡っていた。ただ病院に通うとまた違って見えるのだ。南相馬市立病院のことでは短歌にもしたしいろいろ書いてきた。あそこほど眺めのいい病院はなかった。海も見えたし広々として景色が印象的なのでそのことを短歌にしたり書いた。一か月は本当に長かった。病院は回りの環境も大事である。閉ざされた空間になるから回りの環境がさらに心理的影響する度合いが高いのである。南相馬市立病院は環境は理想的な場所にあった。新しいから設備もよかった。階ごとに待合室もあった。相馬総合病院の建物は古いから建物は良くない、医者の対応も違ってくる。看護師は同じようなものだろう。医者は病院によって違ってくる。おそらくわからないが腕も相当違ったものなのだろう。病気の見方すら違ってくるから影響が大きいのだ。こういう点では大都会の方が恵まれている。人間は何にしろその心にはいろいろなものが複合的総合的に影響するものである。
だから病気だけを直せばいいとかはならない、心理的影響を考えれば中庭とか環境がいいところがいい、というのは病院で死ぬということが多いからだ。そして最後に見るものは何か工場や汚れたものが見えると嫌だろう。実際にゴミの焼却場の大きな煙突が目の前にあったのだ。あれは近くにあるから環境的にはかなりマイナスであった。


隣の人は大内のトラック運転手だった。その人は津波から逃げたという、でもわからないのは津波がおしよせてきたとき大内辺りで見てすぐに逃げられたのだろうか、そんなに遠くはない、右田浜の松原の倍の高さで来たという、確かにそのくらいの高さはあったのだ。その恐怖はものすごいものだった。でもよくとっさにトラックで逃げられたと思う、津波の速度は早いし現実に大内は烏崎からさほど離れていない、だから半分の家は壊されていた。危機一髪で逃れたとなる、途中津波にのまれた車を見たという、それから六号線が渋滞になったという、坂の方に逃げたからである。六号線も津波をかぶった。磯部ではやはり小学校のある高台に車で逃げて来た人が渋滞になって津波にのまれたというのもわかる。日頃の足が車になっているからそうなる。津波には車が結構危険なことが証明された。もちろん車で逃げて助かった人もいた。でも車が災いして死んだ人も多かったのが今回の津波だった。

相馬市というところも歩いてみると土地のことが体でわかる。相馬市が木陰になっている道が多い。また城下町の作りで路地が多い、そういう所も木陰になりやすいのである。そういう情緒があったことは発見だった。


鹿島小学校の前で放射線を計っていた。アサファルトの道は0・5くらいであり草むらは0・6以上になっていたから高い。でも南相馬市は放射線は高くない、それなのになぜ避難準備地域になっているのかわからない、南相馬市の人は今は病院は無料であるのは助かった。

 

南相馬市原町の病院に泊まり短歌二十首
http://musubu2.sblo.jp/article/17460707.html