2011年06月05日

南相馬市鹿島区に移り住んだ浪江の人

 
南相馬市鹿島区に移り住んだ浪江の人

川俣町の小学校などが避難所へ指定され、同町へ至る国道114号は
住民のいわきナンバーの車が約950台、数珠つなぎになった


今浪江から移り住んでいる人に六号線のコンビニであった。その人は浪江の人だった。車のナンバ-見ているといわきナンバ-の車が多いことに最近気になっていた。どうしていわきナンバ-なのだろうといぶかっていた。なぜなら六号線は閉鎖されているし浪江町には避難区域で人は住んでいない、六号線を通らないとするとかなりの遠回りになる。中通りを回ったら遠回りである。その人は二本松に仕事に行っているという、二本松に会社を移したことも聞いている。二本松に通うとなるとまた大変である。



第1区 福島市、相馬市、南相馬市、伊達市、伊達郡、相馬郡
第5区 いわき市、双葉郡

なぜ浪江町がいわきナンバ-かというと双葉郡内に入っていて選挙区で区が違っていたからである。


旧・標葉郡
浪江町(なみえまち)
双葉町(ふたばまち)
大熊町(おおくままち)
葛尾村(かつらおむら)


旧・楢葉郡
富岡町(とみおかまち)
楢葉町(ならはまち)
広野町(ひろのまち)
川内村(かわうちむら)




標葉郡と楢葉郡とが一緒になって双葉郡になった。双葉町とか戦後できた名である。
双葉駅は元は長塚駅だった。双葉郡の選挙区福島県の5区になっているからいわきナンバ-になる。福島のナンバ-は一区だから福島になっている。いわきというと磐城太田駅や葛尾(かつろう)村の落合に磐城落合とかのバス停があるように磐城国に入っていた時があった。その後双葉郡は相馬藩内に入っている。旧楢葉郡は磐城藩の領域である。


その人は最初に防護服を来た人が爆発した時入ってきていたという、その人たちは国の関係の人たちだった。そして津島に逃げろと指示された。それは浪江町で指示したのであり国ではない、その時浪江の山の方に放射性物質が流れるとは思っていなかった。国の関係の人もわからなかった。だから相馬市に逃げた人も最初津島に逃げた。それは距離が遠いということで逃げたのである。ところが津島は放射線量が今でも本当に高い場所だった。国でも町でも放射線のことがその時わからなかったのである。その後浪江の人の移動がはじまった。その人は95才とかの祖母をかかえているのと子供が小学一年生をかかえていた。最初は会津に避難した。今でも祖母は会津に置いてきて鹿島区で空家を借りて二本松に仕事に通っている。空家がいま田舎でも多くなっているから家族の人数が多い場合は移り住むのにはいい。
ともかくなぜいわきナンバ-が多いのかと気になっていたが鹿島区であれ相馬市であれ浪江から移ってきた人がかなりいるのだた。そのためにいわきナンバ-の人が多いのである。相馬の方だと親戚とか知り合いとかいるから移る人が多いのだ。その人は前に鹿島に住んでいた。

いろいろ話してみると請戸は金持ちが多かったという。漁業権をもっていた人は東電からかなり保証金をもらっていた。でも船主でないともらえないとか言っていた。鹿島区でも火力発電所が建ったとき烏崎では金が入り町の呉服屋で高価な着物が売れたと聞いた。浪江では原発の下請けで働いていた人を知っている。浪江は思った以上に原発に近かった。10キロ圏内にも入っている地域があり請戸からは原発の煙突が見えていたのだ。


鹿島区や相馬市には浪江の人であれ移り住んでいる人が増えているのかもしれない、いわきナンバ-がこんなに多いということはそのためだった。仮設住宅も三百戸以上できているが今のところ入居した人も見ない、そこにも人が入ってくると外部から入ってくる人が増える。原町区避難準備地域で移り住みにくいし医療関係や学校などが正常化していないし仕事もできないなど住みにくくなった。浪江の人が会津から大阪まで避難したのをyoutubeで見たけど全国に散らばった人はこれからどうなるのか?一体いつ帰れるのだろうかとなる。田植えもできない田が広範囲に広がり異常な状態はいつまでつづくのか?鹿島区は移り住む人で人口が増える。
相馬市も増えている。


原発20キロ圏、警戒区域に 区域人口7万8千人


これだけの人が避難している。福島県外にも避難している。そういう異常な動乱状態がいまでつづくのか?原発事故の先が読めないから困るのだ。

posted by 老鶯 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

仙台平野の津浪の歴史

仙台平野の津浪の歴史
 


 
長稱寺記録によると慶長十六年(1611)大津波があり、寛永九年(16
32)二木村から七軒の百姓が井土浜のこの地に移住し荒地を開墾、草分け百
姓になったという。

仙台市・三本塚の旧集落は慶長津波によって荒廃し,長く放置された
という記録もある.我々は,以上のような歴史記録に残され

山元町と亘理町の調査測線沿いで,現在の海岸線からそれぞれ3 km,4 km内
陸まで追うことができた.従って,貞観津波は仙台平野南部(山元町・亘理町)において,少なくとも 2−3kmの遡上距離を持っていたということになる.
http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


藤塚・井土両民が、潮風を防ぐため三十万本の松を植えた記念碑がある。石
碑は大正三年(1914)に建立された。
碑には、次のように記されている。両区で開拓が行なわれたが、潮風による


塩害に悩まされた。そのため六郷村山田甚助村長の尽力により、二十五町歩の
荒地(砂浜)に潮風を防ぐため三十万本の松を植林した
(六郷の会)



貞観津浪は今回津浪が押し寄せた地点とほぼ同じ地点にあった。浜堤という堆積物から証明された。それは相馬でも同じだった。今回と同じ規模の津浪が押し寄せていたのだ。その研究から最近警告されていた。福島原発でも貞観津浪のことがあるから津浪対策をしろと忠告されたが全く無視された。これは科学的に証明されたものだから現実味があった。ただ千年前ということであり起こり得ないと判断されたのである。

その後江戸時代にも津浪は仙台平野に押し寄せていた。仙台平野に慶長十六年(1611)に津浪がありより海岸に近い所が新たに開拓者入った。相馬藩でも開拓に入った。この頃日本全国が開拓であり土地を求めていたからそうした津浪で荒廃した地にも人が入ってきた。
人口を増やすのには開拓して土地を増やすしか日本では方法がなかった。だから危険な海側や荒廃した地でも土地があればそこで米作りをしたのである。仙台平野は広大であり貞山堀も作られて船げ米を輸送するように作られたが未完成で終わった。伊達藩の米倉となり江戸にも船で運ばれた。仙台平野の開拓により伊達藩の財政的な力を増大した。

津浪がありそのあとに混乱があり人の移動があり社会が動いた。それは今の状態とにている。

この津波が相当大きなもので記録に残された。津波のあとで開拓に入った。他の人も慶長津波の後に新しく開拓に入っている。名取もヌタリであり湿地帯が海の方に向かって広がっていたのだ。津波の後に伊達藩では開拓に入る人を必要とした。それで相馬藩からも呼んだとなるのか、相馬藩でも飢饉のとき人口が減り越中から人を呼んだからだ。相馬、相馬と草木もなびく・・・という民謡は相馬に人を呼ぶのために作られた。

農家をしている人は新しい土地を求めて移住して働けとかいわれるのもそのためである。原発事故の難民化した農民にも言われている。でも現代は農業一辺倒でないし高齢化しているからそれもままならないのである。ただ今回のような津浪が歴史的にふりかえれば500年前にあったし500年単位でみれば必ず大きな地震や津浪がきていたのである。だから山元町でも海に近いし新地や相馬もそうである。津浪は三陸違いここには来ないとしていたが実際は奥深くまで来ていた。その対策は全くちられておらず壊滅してしまった。

三十万本の松を植林したということはいかに塩害に悩まされていたかわかる。松原は景観のために作られたのではなく塩害を防ぐ実用的なものとして作られたのである。そうでなければ三十万本の松を植えない、それだけ塩害は大きいものだった。陸前高田市でも7万本の松が植えられ一本しか残らなかった。30万本の松も根こそぎ津浪でなぎたおされた。いたるところに松の残骸が今も無惨にさらされている。
posted by 老鶯 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係