2011年06月29日

南相馬市の人で避難中に介護されている人が死んでいた


南相馬市の人で避難中に介護されている人が死んでいた


doming様の報告-掲示板より

体調を崩したが震災の混乱の中で病院への入院を断られ介護の従兄夫婦は苦悩した。
息をつめて一族が見守ってきたがついに須賀川に脱出したものの2ヵ月後に息絶えた。


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この中の一人だった。今回の津浪、原発事故のことはまだ詳細は知らされていないしわかっていない、被害者の数が多いから全体像をつかみにくいのだ。在宅介護していた人で本県で16人死んでいる。その一人だったことになる。自分の母も移動するほかないと言ったときふるいていたから移動したらその混乱の中で医者にもかかれず死んでいたと思う。こういうとき医者が大事である。救急医療もできないとなると即死につながる。相馬市の病院に自分も移って何度か不具合があった。ところが手術中とかで断られたわけではないがそれに近い返答があった。でもなんとか原町区で診療していた開業医で救急医療してもらい助かった。南相馬市立病院は最近一週間に一回とか診療をはじめたが正常ではない、入院できないとかまともに治療ができていない、こういうとき救急医療ができなかったら人間は死ぬと思った。重病というのではなくカ-テルの交換とかでもしないと死ぬ時があるのだ。だから病院は大事だと思った。


今回のことでは病院も相当混乱した。看護師とか医者もいち早く避難して患者を置き去りにして死んだ所もある。双葉町ではそうなった。緊急だからそうなった。そういうときしわ寄せは弱いものに来る。病人や障害者や老人は本当に苦しくなる。介護する面倒みる方がかまっていられないのである。そういう中で死んだ人がいた。犠牲者になった。病院で知り合った請戸の人は介護度5で在宅だからどうなったのか?津浪もあったからどうなったのか?郡山に行ったことは間違いない、娘の妹がいたからである。でもあれだけの重病では移動するだけで大変であり生きていないかもしれない、動くこともできない、しゃべれない、本当に重体だったからである。そういう人は動かすだけで死に至ったかもしれない、原町区でも介護している人は避難できずに最後まで残っていた。

浪江は残ることができなかったからその中で死んだ人もいることは確かである。ともかく今の世の中介護している人が実に多い。高齢化社会だからそうなっているのだがこれも一旦こういう緊急事態になると大変なことになる。津浪でも原発事故でも高齢化社会を襲ったことが今回の特徴だった。だから津浪の犠牲者も高齢者が65才以上が6割とか本当に多いのだ。飯館村の人も月館に避難してそこも放射線量が高いからと会津に避難すると言っていた。50代の人が父親を介護していた。寝たきりだから楽ではない、そういう人が今の世の中多い。「心に青雲」のプログの人も介護なんか若者はするべきではないと言っていたが自分の母親を介護していたのである。いかに介護時代かをこれも象徴している。仮設住宅の優先順位が介護度が高い人になっているのもそのためなのである。


細野氏は放射線量の着実な減少などの目標期限にあたる7月17日をめどに避難区域の縮小を検討すると述べていた。
枝野幸男官房長官は29日午前の記者会見で、「残念ながら、まだ具体的にどこをいつ、どう解除できるかという段階ではない」と批判した。
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920019&sid=ad4YJS64HnL0


政府で放射線量が低い所に帰れるように警戒区域の縮小とかを解除とかを言った。でも当事者は買物するところも病院も機能していないから帰れないと言っていた。確かに市町村が崩壊するということはそういうことなのだ。機能していない町に帰っても病気になったりしたら大変である。だから警戒区域の一部分に帰ることはむずかしい。市町村は全体として機能して活きているからだ。全体というとき六号線とか常磐線も開通しないと物流が回復しない、通信販売も回復していないし商店にモノが運ばれない、六号線が遮断されてしまった影響が南相馬市などでは大きい。六号線は東京と直通だからである。


 

posted by 老鶯 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2011年06月30日

木陰(原発事故や津浪で変わってしまった故郷の風景)


木陰(原発事故や津浪で変わってしまった故郷の風景)

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広々と緑野展けて夏雲雀


夏菊や仮設住宅三百戸


悠々と尾長飛び去る夏の空


玄関にとんぼ飛び来て去りにけり


故郷や老人休む木陰かな



回りの風景が変わってしまった。自然まで変わるとは普通はありえない、自然そのものまで津浪や原発事故で変わった。耕されない畑や田植えもしない田に雑草が生えて草原化している。
水田がないから白鷺はいない、川には餌があるから青鷺とカワセミなども来ている。雲雀はもともと草原にあった鳥だった。水田はどこにでもあるわけではない、世界の半分は麦とか作っている。世界の半分以上はパンを食べているからだ。雲雀は北海道のような広々とした草原のある所がにあっていたのだ。放射能で自然がなくなったわけではない、自然はあるけど手をつけられくなった。田がなくなればそこは雑草が生えて緑野と化して草原化するのかもしれない。

真っ白な夏菊が咲いて寺内の仮設住宅は満室のようになっていた。西町はちらほらであり千倉もまだ少ない、寺内はキクチス-パ-が近いから便利である。仮設というのもこれも今までにない風景である。集会場がある所は西町にはあった。あそこが一番多い。昔の長屋とにている。
昔は一軒一軒家をもっている人が少なかったかもしれない、江戸時代は長屋暮らしが普通だった。人はそこに密集して住んでいたのである。でもこの仮設から津浪の被害にあった人は元の場所にもどる人は少ないだろう。三陸では外からも人が入ってきたしもどっていったのは豊かな漁場があったからである。この辺では松川浦に漁港があったが他はたいした漁港ではない、だから漁業をする人はあきらめるかもしれない、ではそういう人達はどうするのか、ここで新しい仕事を見つけて町中に住みついたりするようになるかもしれない、他の場所に出て行く人もあるだろう。仮設は仮の場だからそうなる。その後はどうなるのかわからないのが仮設である。
長屋だったら長く住んでいる、江戸時代の長屋は同じ場所に死ぬまでなじみの人と住んでいる場所だった。そこが錯覚している。だからこそ親密な関係が生まれたのである。


仮設住宅、高い買い物も2年後には処分?備蓄提案も放射能懸念


 東日本大震災で家を流失するなどした被災者のために建設が進む仮設住宅。建材価格の高騰などで自治体にとって“高い買い物”になっているが、原則2年3カ月後に住民は退去し、撤去される。1万戸以上の大規模な処分が想定され、発注者の岩手、宮城、福島の各県は今から対応に苦慮している
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110630/dst11063014060025-n1.htm


老人が木陰に休んでいる。それはどこでも故郷の一つの光景である。都会だったら公園だけど田舎だったら古い樹の下の木陰に休んでいるのが絵になっている。それがどこでも日本の故郷の光景だった。沖縄辺りでは古いガジュマルの木陰に休んでいる人が絵になっている。
そういう故郷を奪われた人達が今は何を思っているのか?飯館村の人が福島市の団地などに住むと違和感感じるだろう。つまり故郷とか町でも村でも一つの全体としてある。その全体の風景の中にとけこみ人の暮らしもあったのである。それが福島市のような所に移れば奪われてしまうのである。故郷を強制的に離れさせられた人が今何を思っているのか、それが不思議である。


いつの間も 神さびけるか 香具山の 鉾杉がもとに 苔生すまでに 259


故郷とはこういう場所である。長くいるからこそ故郷なのである。長い時間の中で培われたのが故郷である。それを原発事故で故郷から離され帰れなくなったら核の処理場になったらもはやそこは故郷はない、永久に故郷は失われる。もう故郷を偲ぶことすらできない、この世からなくなってしまうからだ。そうした長い時間の中で故郷は培われた。人は自然の中の悠久の時間の中で生きるものである。だからこうした危機の際は日本の伝統を歴史を見直すことが要求されるのだ。苔むすまで共にあるところが故郷である。

それを原発事故で終わりにすることはゆるしがたい、電気はどれだけ必要でも故郷を奪われなくすのと天秤にかければそのもっている重みは計られないものである。でも10キロ圏内はもう故郷は喪失するのだろうか?二度と帰って住むことができなくなる。核の処理場として百年とか国によって放射能管理区域とされてしまうのである。
 
 
 
posted by 老鶯 at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

津波の後の写真(右田浜など)


津波の後の写真(右田など)


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右田の松原で残った松は凄まじい、幹の方が割れている


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ここは河口ではない、防波堤が破れた水が入ってきた

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ここは松川浦だった、堤が崩壊して水が広く流れだした。
松川浦はさらに広大な浦だった

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原町の火力発電所で火事になった、これも大きくなったら危険だった
仙台では石油貯蔵庫が大火事になった



今回の津波の特徴は膨大な映像を動画でも残した。これが記録となって後世に残されることが違っている。
口や文章ではない、生々しい映像で伝えられるのは始めてである。
だから石碑で残して忘れられるのとは違う、津波の怖さを映像通して焼き付けられた
そう簡単にこれは忘れられるとは思えない、それが後世にどう伝えられるか
映像の膨大な記録がどう影響するのか、それははじめてのことだった
posted by 老鶯 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係